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发表于 2007-9-8 05:37:34
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ネット上で検索に引っかかったものを載せておきます。
「日本白話で」というご指定なのですが、どういう目的でそう言われるんでしょうか?(何かの劇にでも使いたいとか??)ここでは現代語訳の引用を載せておきますので、必要な程度まで適宜くだけた表現にしてみてください。
(訳の利用目的がわからないので引用だけになりますがご容赦ください。)
「週間古事記」
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/
訳
古事記 上巻 并せて序
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/jyo1.html
臣安万侶(しんやすまろ)が申し上げます。そもそも、渾沌たる気が密集して、形と質は現われていなかった。天地元も万物の元も無かった。誰がその形を知っていただろうか。しかし、天地が初めて分れ、三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)高天原の主となり、陰陽が始まり、二霊(伊邪那岐、伊邪那美)や万物の祖となった。(伊邪那岐、伊邪那美は)黄泉国、葦原中国に出入りし、日(天照大御神)と月(月読神)は目を洗うことから現われ、海水に浮沈して、身をすすいで神々は現われた。此の世の始まりは、はっきりしていないが、この遠き神々の伝承によって国土を造り、島が産まれた時を知り、また此の世の始まりは、遥か遠い昔であるけれど、賢人によって神によって、人によって作られて来た世を知る事ができる。事実を知る、鏡を懸け(天の石屋戸)珠(たま)を吐いて、剣を折って(天照大御神と須佐之男の誓生み)、蛇(をろち)を切って、神々と人間が栄える様を。天の安河(やすのかは)で議論をして葦原中国を平定し、(出雲の伊佐那の)小浜で(大国主神と)論争し国を清めた。こうして、番仁岐(ほのににぎの)命は初めて高千穂の山に降(くだ)り、神倭天皇(かむやまとのすめらみこと)は秋津島(あきづしま、畿内)で長い時を過ごした。神が化身した熊が川から来て、天より下された剣を高倉下(たかくらじ、人名)に与え、尾のある人間(吉野の首の祖)が、道いっぱいに出て歓迎し、八咫烏が吉野に導いた。一同が揃って舞い踊り、歌の合図とともに賊を倒し従わせた。(崇神天皇は)夢で覚って、神々を敬った。それゆえ賢い天皇と言われる。(仁徳天皇は)炊煙を立てさせ、人民を慈しんだ。今に聖帝と伝えられる。(成務天皇は)国境を定め、国造や県主を定め、近い近江で天下を治められた。(允恭天皇は)姓(かばね)を正し、氏(うぢ)を再編成し、遠い飛鳥で天下を治められた。代々の政治に緩急、文質があり今と同じとは言えないが、古を省みて風教、道徳の既に廃れているところを正してきた、そして今の世でも絶えようとしている正しい人の道を補おうと思う。
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/jyo2.html
飛鳥の清原(きよみはら)の大宮で大八州を治められている天皇(天武天皇)の御世に至り、即位する前にその資格を見につけ、活動するべき時期が到来した。夢の中で聞いた歌を解釈して、帝業を受け継ぐべき事を占い、夜半に伊賀の名張の横河に行き、帝業を受け継ぐべきことが解った。しかし、即位する時は未だ来ず、吉野に蝉のようにこっそり抜け出て、味方の軍勢も多くなり、東国に虎のように威風堂々を進まれた。天皇の御輿は行幸して、山川を越えて、天子の軍は雷のごとく振るまい、諸候の軍は稲妻のごとく進んだ。杖や矛は勢いを挙げ、猛士は土煙を挙げ、天子の赤い旗は武器を輝かし、凶徒(近江朝廷の軍)は瓦のように砕け散った。短時間の間に、悪気は自然と清まった。そしてすぐに戦争を止め、心楽しく安らかに都に帰り、旗を巻き矛を収めて、舞い歌い帝都に留まった。木星が昂の方角に宿る年(酉年)、月は夾鐘(けふしよう、二月)になり、清原の大宮で、天皇に即位された。道は黄帝に勝り、徳は周王を越えている。三種の神器を得て天地四方を統べ、天津日嗣を得て荒遠の地をも覆った。陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神道を施し良い風俗を勧め、優れた教化を布いて国に広めた。それだけでなく、その智は海のごとき広く、深く上古を研究し、鏡のような御心は明らかに輝き、はっきりと先代を見極めている。
そして天皇は、「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられていると。今この時期に、その誤りを改めねば、数年を持たずに真実の歴史は滅びてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇徳化の基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を皆で調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた
時に舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼、年は二十八。人となりは聰明で、一見しただけで、すぐ口ずさめ、一度聞いただけで、心に刻み付けて忘れない。そこで、阿礼に天皇の命令で帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつのよのふること)を読ませ記憶させた。しかし天皇の時勢が変っても、未だこの事は行なわれていない。
http://www.linkclub.or.jp/~pip/ututu/kami/furukotobumi/jyo3.html
伏(ふ)して考えますに、皇帝陛下(元明天皇)は、帝位について徳が天下に満ち、三才(天地人)通じて民を育てられた。皇居に御して徳は馬の蹄の先までおよび、皇居に座して教科は船の先まで、徳化は遠く国々の隅々まで行き渡っています。日は出でて甚だしく輝き(瑞兆)、雲の煙りのように出でてはいるが、煙りではないようだ(瑞兆)。連理共穂の瑞兆も現れ、史官は絶えずそのような瑞兆を記して、数多くの烽火を灯さねばならないような、また多くの翻訳を必要とするような、遠くの国々からの朝貢が来て、倉庫が空である月はありません。名は夏の禹王よりも高く、徳は殷の湯王にも優ると言っても過言ではないでしょう。
さてここで、旧辞の誤り間違っている所を惜しく思い、先紀の誤り間違っている所を正そうとして、和銅四年九月十八日をもって、臣安万侶に詔して、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦む所の天武天皇の勅語による旧辞を撰録して献上せよと言われたので、謹んで詔の通りに、細かく取り拾っていった。しかし上古の時ものであるので、語彙が素朴であったので、文章語句を書き表わすことは、漢字では困難である。既に字訓で書き表わしたものは、文意が古意と通じなくなっていて、字音で文を書き表わしたものは、文章が長たらしくなってしまう。そこで今、あるものは一句の中に、音訓を交えて用い、あるものは一言の中で全て訓を使って記していく。もう既に言葉の事理の通りにくくなっているものは、注釈を書いて事理を明らかにし、意味の解りやすいものは、更に注釈をつけることはしなかった。また姓について、日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と書き、名について帯(たい)の字を多羅斯(たらし)と書くようなものは、元のものに従って改めることはしなかった。だいたい書き記す所は、天地開闢から始めて、推古天皇の治世までである。天御中主神から日高日子波限建鵜葺草葺不合(なぎさたけうがやふきあへずの)命までを上巻(かみつまき)とし、神倭伊波礼毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)から応神天皇の治世までを中巻(なかつまき)とし、仁徳天皇から推古天皇の治世までを下巻(しもつまき)としし、三巻を記して、謹んで献上します。臣安万侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
…ふぅ~~ 長いなぁ~。 |
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