しかし、その鮨屋では、いちばん高いえびだの赤貝だのを握った鮨でも一個五銭で、他のはみんな一個三銭だ。えびも悪くないが、ぼくはしゃこのほうがえびよりうまいと思う時があるし、赤貝よりはとり貝のほうがずっと好きだ。五円でいったいしゃこや、こはだや、中トロの鮨が、どれぐらい食えるかと思ったら、とたんにいささかギョッとした。とにかく、今晩はこれで帰ることにしよう。金の使いみちは後でゆっくり考えたらいい。ぼくは、心豊かにそう思い、私鉄の駅の階段を上がった。ちょうど電車が出たばかりで、ホームはすいていた。ベンチにねんねこで赤ん坊をおぶった女の人が一人で座っていたが、その傍らへ行って腰掛けようとすると、竹ぼうきとちり取りを持った駅員がやってきたので、ぼくはベンチから遠のいた。駅員は制服が不恰好に大きすぎ、ダブダブの襟から細い首がのぞいていた。年齢はぼくより下らしかった……。その時どうしたことがぼくの目の前に急に、さっきのS駅の窓口に居た駅員の顔が浮かんだ。ぶっきらぼうだった横顔の頬のあたりの黄色い膚の色が、なんだかひどく疲れきった感じで思い出され、ふと、あの駅員が家に帰ると、病気の母親が待っていそうに思われた。駅員は、だいだい色の薄暗い電燈に、母親がわきの下にはさんだ体温計をかざして見るだろう。いくら注意してながめ直してみても体温計は昨晩と同じ目盛りを指しており、破れた布団に熱臭いにおいがこもっているのをかぎながら、「ああ、おれも疲れた。」とつぶやく……。ぼくは、そんなことをほんの一瞬の間に空想した。そして、いったん入った私鉄の改札口を出ると、まっすぐS駅のほうへ向かった。
S駅の切符売り場の周りに、人影はまばらになっていた。ぼくは窓口に近づきながら、さっきの駅員がまだ同じ所に座っていてくれることを祈った。陰気な鉄格子からのぞき込むと、まだそこに彼は居た。ぼくは、さっき五円札を出して買った寝台券のつり銭に五円札が入っていたことを話し、ただしそれは売り場を離れてしばらくたってから気がついたことにして、
「これ、お返しします。」
と、紙幣を窓口に差し出した。
最初、駅員は何のことかわからなかったらしく、けげんそうにぼくを見返していたが、やがて、
「あれ、そうでしたか?」と、自分の過ちに気がつくと、たちまち恥ずかしそうな、それでいて愉快そうな笑いを顔一面に浮かべながら、「や、どうもすみません。わざわざ……。」と、礼を言って五円札を受け取り、紙幣をピンと延ばして、指先ではじいたついでに、その指で自分のおでこも軽くたたいて、
「陽気のかげんか、ここんところ。おれもどうもいけねえや。ほんとに、すみませんでした。」
と、もう一度、ぼくにおじぎをした。――思いがけないといえば、こういうぼくの気持ちこそほんとうに思いがけないことだったのかもしれない。そんなに礼を言われて、初めは逃げ出したい気持ばかりだったが、S駅の切符売り場を離れて、また私鉄の駅の階段を上がるころから気分が落ち着いてきたせいか、頭の中がスッキリとして、すがすがしい気持になってきた。いつの間にか雨はあがり、ぼくはホームの真ん中より先のほうへ出て、夜空を仰ぎながら胸いっぱい空気を吸い込んだ。肺の中で一つ、
「カーン。」
と、澄んだ鐘の音が聞こえるような感じだった。ぼくは心の底からわいてくる喜びに満足した。電車が走り出し、目の下に家々の小さな灯がまたたいているのを見ても、この満足感は新しい形で、よみがえった。
ああよかったな――。
ぼくは何よりも、窓口の鉄格子の向こう側に座っていた駅員の横顔が、こっちを振り返って笑ったとたんに、一人の普通の青年の顔になって感じられたことが意外でもあったし、うれしい気もした。
この喜びは、無論、家へ帰り着いても消えずに続いた。
「ただいま。」
玄関の戸を勢いよく開けると、ぼくはたたきに立ったまま、出迎えた母に寝台券とつり銭を渡しながら、今晩の出来事のてんまつを話して聞かせた。
「いやあ、その時の駅員の顔つきったら、なかったよ。こっちも照れくさかったけれど、向こうはそれ以上にすっかり照れて、逆上しながら喜んでやがんのさ。」
だが、母はぼくの話にいっこう、なんの感動も表さなかった。のみならず、ぼくの渡したつり銭とぼくの顔とを不思議そうに何度も見比べたあげく、とうとう、
「ばかだねえ、おまえは――。」と世にも腹立たしげなことで言った。「さっきおまえに渡したのは、あれは十円札なんだよ。」
ぼくは、目の前で灯が消え、急に辺りが真っ暗くなる気がした。
あれから、もう三十年近くたつ。あのころから見るとS駅の周りも、ぼく自身もすっかり変わった。あのころはまだS駅の近くには八階建てのデパートが一軒立っているのが珍しかったぐらいで、田舎のにおいのする郊外電車との接続駅にすぎなかったが、今は林立した高層ビルが駅の周りを幾重にも取り囲み、切符売り場の前の広場の辺りに、地下道が張り巡らされて、冷たい変なにおいのする商店街になっている。そしてぼく自身は白髪混じりのおやじになった。けれどもぼくの中身はどう変わったか、自分ではさっぱりわからない。
あんなことがあってからも、度々ぼくはあれと同じようなとんまな失敗を繰り返しながら、今日まで来た。あのころでもぼくは、けっして純な正直な心持ちであったわけではなく、けっこうずるくて、意地汚く、そのくせ時々変な空想癖を発揮して、常識では考えられないまねけなことをしでかす少年だった。それは今でも変わりないように思う。しかし、この空想癖が無かったとしたら、ぼくは今よりいっそうどうしようもなく取り柄のない人間になっていたかもしれない。あの晩、返す必要もなかったつりの五円札を、夜遅くS駅まで取りにやらされた時のぐあいの悪さと、情けない気持とを、昨日のことのように思い出しながら、そう思う。
あれ以降、あのS駅の窓口の駅員とは一度も会っていないが、あの時の彼の笑顔はまだ忘れられない。そして、あの笑顔を見ることの幸福は、五円札では買えないものだと考えて、ぼくは自分で自分を慰めてみることにしている。 |