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東西冷戦の始まりと朝鮮戦争--日本近代史

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发表于 2008-1-2 22:44:30 | 显示全部楼层 |阅读模式
 GHQによる日本の民主化が進められている間に、世界では急速にアメリカとソ連の対立が進んでいた。日本の占領政策においても、連合国内でのソ連とアメリカの対立は顕在化していたが、それが大きくならなかったのは、日本の占領がアメリカ軍による単独占領であったからである。現北方4島を除いたすべての日本の地域はアメリカ軍によって支配されていた。ソ連はこれには一歩も立ち入ることが出来なかった。しかし、ヨーロッパでは違った。ナチスドイツを東部戦線で打ち破り、ドイツ国内に進撃したのはソ連軍であったし、ノルマンディー上陸以後、西部戦線でドイツ軍と戦いこれを撃破したのはアメリカ軍であった。この連合軍の2大勢力は、東西からドイツに進撃し、エルベ川河畔において出会い、そのときをもって、ドイツは敗北したのであった。連合国勝利のこの瞬間に抱き合った両軍の兵士たちは、まさか、その後すぐに敵対することとなるとは夢にも思わなかっただろう。もちろん、ドイツと戦った両軍の兵士の意志とは関わりのないところで対立は始まったのであるが。

 ソ連は自国が進軍した東ヨーロッパの国々の共産党をその政権の中心に据えると、次々に東ヨーロッパでは社会主義政権が誕生し、ソ連の指導のもとに東ヨーロッパ社会主義圏が形成された。また、ドイツの処理問題において対立したアメリカとソ連は、それぞれの占領地域を分断支配することにした。アメリカを中心とする、資本主義国占領地域は西ドイツとなり、ソ連占領地域は東ドイツとなり、社会主義化された。190年のドイツ統一まで続くドイツの分断の始まりであった。東ドイツ内のドイツの都ベルリンは、連合国の共同統治地域となっていたが、ここでも両勢力の対立によって西ベルリンと東ベルリンに分断された。両者の対立は、1948年、ソ連による西ベルリンへの交通遮断(ベルリン封鎖)によって、一層高まった。

 アメリカとヨーロッパの資本主義諸国は、1949年「北大西洋条約機構」(NATO)を結成すると、ソ連と東ヨーロッパ社会主義諸国は、これに対抗して1955年「ワルシャワ条約機構」を結成した。このようにして、ヨーロッパでは、資本主義勢力と社会主義勢力が東西二つの地域に分かれて対立するようになった。「東西冷戦」が始まったのである。それぞれの陣営は同盟軍を組織すると強大な軍事力で相対したのである。

 ヨーロッパでの東西対立はアジアでも激しさを増していた。中国では、ソ連の支援を受けた中国共産党軍(人民解放軍)とアメリカの支援を受けた国民党軍が内戦を続けていたが、1949年、ついに共産党軍が勝利し「中華人民共和国」が誕生し、アジア初の社会主義国が生まれた。朝鮮半島では、ソ連統治下の北部朝鮮に「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が、アメリカ統治下の南部に「大韓民国」(韓国)がそれぞれ誕生した。このように、一つの国家が社会主義陣営と資本主義陣営とに分断され、二つの国家となり、対立することとなった国々がいくつか生まれることとなった。これらの分断国家の対立は、とりもなおさず、アメリカとソ連という二つの世界を代表する大国を後ろ盾として、代理戦争を続けることとなったのである。この代理戦争が最初に火を噴いたのが朝鮮半島であった。朝鮮は日本敗北後、連合国によって北緯38度以北をソ連が以南をアメリカが暫定統治し、1950年に朝鮮処理を連合国によって協議することになっていた。

 しかし、東西対立が進むと前記のようにソ連、アメリカはそれぞれの統治地域を別々に独立させ、自国勢力圏に組み込んだのである。この分断された朝鮮に於いて、1950年6月25日、突然、朝鮮民主主義人民共和国(以後北朝鮮)軍が38度線を越えて進攻したのである。「朝鮮戦争」の始まりである。北朝鮮軍は瞬く間に韓国軍とアメリカ軍を打ち破ると8月には朝鮮半島の南端、釜山に迫った。これに対してアメリカを中心とする西側諸国は国際連合の安全保障理事会(安保理)を開き、国連軍の朝鮮派遣を決定した。ソ連は安保理の出席を拒否し、国連軍とは名ばかりのアメリカ軍であった。国連軍の司令部は東京に置かれると、司令官は占領軍総司令官マッカーサーが任命された。マッカーサーは、戦局打開のために、朝鮮半島中部の仁川への上陸作戦を敢行し、北朝鮮軍を逆に包囲、撃破し38度線以北へと追い返した。

 マッカーサーの反撃作戦により中国国境まで追い詰められた北朝鮮軍に対して、1950年11月、今度は北朝鮮軍支援のために新興中国軍(人民解放軍)が参戦、戦局は一挙に拡大した。中国軍によって再び押し返された国連軍(アメリカ軍)は、再反攻を試みるが以後1953年7月の停戦まで戦局はこう着状態となった。マッカーサーは、中国への原爆投下をアメリカ大統領トルーマンに進言するが、トルーマンとの意見の違いから1951年、国連軍総司令官、日本占領軍総司令官の両官を解任された。この東西冷戦の始まりと朝鮮戦争がアメリカの日本占領政策を大きく転換させることになったのである。

コラム  1945年4月、連合国50国がアメリカのサンフランシスコに集まり、戦後の国際機関としての「国際連合」設立を目指して、「国際連合憲章」を採択した。これにより、10月に「国際連合」が設立された。現在の世界秩序に大きな影響を発揮している国際連合はこのようにして作られたが、国際紛争の解決をめざす特別機関として「安全保障理事会」が作られたことはその後の世界に問題を残すこととなった。安全保障理事会は、第2次世界大戦の戦勝国である連合国の中の5つの大国(アメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連)が常任理事国となり、それぞれ「拒否権」を持つことが認められることとなった。この結果、この5大国の中の1国でも、理事会決議に反対した場合には、国連は有効な国際紛争解決のための行動を取れないこととなった。このために冷戦が進む中で、アメリカ、ソ連の対立が深まると、安保理事会はほとんど機能しなくなったのである。

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