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[好书连载] [完結]ダンス・ダンス・ダンス 村山春樹

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发表于 2008-2-25 23:26:35 | 显示全部楼层 |阅读模式
我也來貼一個我喜歡的作家的作品

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[ 本帖最后由 bgx5810 于 2008-8-17 17:16 编辑 ]

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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:27:34 | 显示全部楼层
とにかく僕は彼女について殆ど何も知らない。どこで生まれたのかも、歳が幾つなのかも。誕生日だって知らない。学歴もしらない。家族がいるかどうかさえ知らない。何も知らない。彼女は雨ふりのようにどこかから来て、どこかに消えてしまったのだ。ただ記憶だけを残して。
でも今僕は僕のまわりで彼女の記憶が再びある種の現実性を帯び始めていることを感じる。僕はこう感じるのだ。彼女はいるかホテルという状況を通して僕を呼んでいる、と。そう、彼女は今また再び僕を求めているのだ。そして僕はいるかホテルにもう一度含まれることによってのみ、彼女ともう一度巡り合えるのだ。そしておそらく彼女がそこで僕の為に涙を流しているのだ。
僕は雨垂れを見ながら自分が何かに含まれるということについて考えてみる。そして誰かが僕の為に泣いていることについて考えてみる。それはひどくひどく遠い世界のことのように感じられる。まるで月か何かそういう所の出来事のように感じられる。結局のところ、それは夢なのだ。手をどれだけ長くのばしても、どれだけ早く走っても、僕はそこにたどりつけないような気がする。
どうして誰かが僕の為に涙を流したりするんだ?
いや、それでも、彼女は僕を求めているのだ。あのいるかホテルのどこかで。そして僕もやはり心のどこかでそれを望んでいるのだ。あの場所に含まれることを。あの奇妙で致命的な場所に含まれることを。
でもいるかホテルに戻るのは簡単なことではない。電話で部屋を予約し、飛行機に乗って札幌に行けばそれで終わりというものではないのだ。それはホテルであると同時にひとつの状況なのだ。それはホテルという形態をとった状況なのだ。いるかホテルに戻ることは、過去の影ともう一度相対することを意味しているのだ。それを考えると、僕はたまらなく陰惨な想いに襲われた。そう、僕はこの四年のあいだ、その冷ややかでうす暗い影を捨て去ることに全力を傾けていたのだ。そしているかホテルに戻るということは、僕がこの四年間静かにこつこつとためこんできた全てをあらいざらい放棄し捨て去ることなのだ。
もちろん僕はそれほど大したものを手に入れたわけではない。その殆どはどう考えてみても暫定的で便宜的ながらくただった。でも僕は僕なりにベストを尽し、そのようなガラクタをうまく組みあわせて現実と自分をコネクトし、僕なりのささやかな価値観に基づいた新しい生活を築きあげてきたのだ。もう一度もとのがらんどうに戻れということなのか?窓を開けてなにもかもを放り出せというのか?
でも結局のところ、全てはそこから始まるのだ。僕にはそれがわかっていた。そこからしか始まらないのだ。
僕はベッドに寝転び、天井を眺めながら、深い溜め息をついた。あきらめろ、と僕は思った。何を考えても無駄だ。それはお前の力を越えたものなんだ。お前が何を考えたところでそこからしか始まらないんだよ。決まってるんだ、ちゃんと。
僕のことについて語ろう。
自己紹介。
昔、学校でよくやった。クラスが新しくなったとき、順番に教室の前に出て、みんなの前で自分についていろいろと喋る。僕はあれが本当に苦手だった。いや、苦手というだけではない。僕はそのような行為の中に何の意味を見出すこともできなかったのだ。僕が僕自身についていったい何を知っているだろう?僕が僕の意識を通して捉えている僕は本当の僕なのだろうか?ちょうどテープレコーダーに吹き込んだ声が自分の声に聞こえないように、僕が捉えている僕自身の像は、歪んで認識され都合良くつくりかえられた像なのではないだろうか?……僕はいつもそんな風に考えていた。自己紹介をする度に、人前で自分について語らなくてはならない度に、僕はまるで成績表を勝手に書き直しているような気分になった。いつも不安でしかたなかった。だからそういう時、僕はなるべく解釈や意味づけの必要のない客観的事実だけを語るように心掛けたが(僕は犬を飼っています。水泳が好きです。嫌いな食べ物はチーズです。等々)、それでもなんだか架空の人間についての架空の事実を語っているような気がしたものだった。そしてそんな気持ちで他のみんなの話を聞いていると、彼らもまた彼ら自身とはべつの誰かの話をしているように僕には感じられた。我々はみんな架空の世界で架空の空気を吸って生きていた。
でもとにかく、何か喋ろう。自分について何か喋ることから全てが始まる。それがまず第一歩なのだ。正しいか正しくないかは、あとでまた判断すればいい。僕自身が判断してもいいし、別の誰かが判断してもいい。いずれにせよ、今は語るべき時なのだ。そして僕も語ることを覚えなくてはならない。僕は今ではチーズが好きだ。いつからかはわからないが、いつの間にか自然に好きになった。飼っていた犬は僕が中学校に上がった年に雨に打たれて肺炎で死んだ。それ以来犬は一匹も飼っていない。泳ぐのは今でも好きだ。
終わり。
でも物事はそんなに簡単には終わらない。人が何かを人生に求めるとき(求めない人間がいるだろうか?)人生はもっと多くのデータを彼に要求する。明確な図形を描くための、より多くの点が要求される。そうしないことには、何の回答も出てこない。
でーたフソクノタメ、カイトウフカノウ。トリケシきいヲオシテクダサイ。
取消キイを押す。画面が白くなる。教室中の人間が僕に物を投げ始める。もっと喋れ。もっと自分のことを喋れ、と。教師は眉をしかめている。僕は言葉を失って、教壇の上に立ちすくんでいる。
喋ろう。そうしないことには、何も始まらない。それもできるだけ長く。正しいか正しくないかはあとでまた考えればいい。
時々、女が僕の部屋に泊まりにきた。そして朝食を一緒に食べ、会社に出勤していった。彼女にもやはり名前はない。でも彼女に名前がないのは、ただ単に彼女がこの物語の主要人物ではないからだ。彼女はすぐにその存在を消してしまう。だから混乱を避けるために僕は彼女に名前を与えない。しかしだからといって、僕が彼女の存在を軽んじていると考えてほしくない。僕は彼女のことがとても好きだったし、いなくなってしまった今でもその気持ちは変わっていない。
僕と彼女はいわば友達だった。少なくとも彼女は、僕にとって唯一友人と呼びうる可能性を持っていた人間である。彼女には僕の他にきちんとした恋人がいる。彼女は電話局に勤めていて、コンピュータで電話料金を計算している。職場について詳しいことは僕も訊かなかったし、彼女もとくには話さなかったが、だいたいそういう感じの仕事だったと思う。個人の電話番号ごとに料金を集計して請求書を作るとか、その手のことだ。だから毎月郵便受けの中に電話料金の請求書が入っているのを見る度に、僕はまるで個人的な手紙を受け取ったような気がしたものだった。
彼女はそういうこととは関係なく、僕と寝ていた。月に二回か、あるいは三回か、それくらい。彼女は僕のことを月世界人か何かだと考えていた。「ねえ、あなたまだ月に戻らないの?」と彼女はくすくす笑いながら言う。ベッドの中で、裸で、体をくっつけあいながら。彼女は乳房を僕の脇腹に押し付けている。僕らは夜明け前の時間によくそんなふうに話をしたものだった。高速道路の音がずっと切れ目なく続いている。ラジオからは単調なヒューマン・リーグの唄が聞こえている。ヒューマン・リーグ。馬鹿気た名前だ。なんだってこんな無意味な名前をつけるのだろう?昔の人間はバンドにもっとまともな節度のある名前をつけたものだ。インペリアルズ、シュプリームズ、フラミンゴズ、ファルコンズ、インプレッションズ、ドアーズ、フォア・シーズンズ、ビーチ・ボーイズ。
僕がそう言うと彼女は笑う。そして僕のことを変わっていると言う。僕の何処が変わっているのか僕にはわからない。僕は自分自身を非常にまともな考え方をする非常にまともな人間だと思っている。ヒューマン・リーグ。
「あなたといるのって好きよ」と彼女は言う。「ときどきね、すごくあなたに会いたくなるの。会社で働いているときとかね」
「うん」と僕は言う。
「ときどき」と彼女は言葉を強調して言う。そして三十秒くらい間を置く。ヒューマン
・リーグの唄が終わり、知らないバンドの曲になる。「それが問題点なのよ、あなたの」と彼女は続ける。「私はあなたとふたりでこうしているのって大好きなんだけど、毎日朝から晩までずっと一緒にいたいとは思えないのよ。どういうわけか」
「うん」と僕は言う。
「あなたといると気づまりだとかそういうんじゃないのよ。ただ一緒にいるとね、時々空気がすうっと薄くなってくるような気がするのよ。まるで月にいるみたいに」
「これは小さな一歩だけれどーー」
「ねえ、これ冗談じゃないのよ」と彼女は体を起こしてぼくの顔をじっとのぞきこんだ。
「私、あなたの為に言ってるのよ。誰かあなたの為に何か言ってくれる人、他にいる?どう?そういうこと言ってくれる人、他にいる?」
「いない」と僕は正直に言う。一人もいない。
彼女はまた横になって、乳房をやさしく僕の脇腹につける。僕は手のひらで彼女の背中をそっと撫でる。
「とにかく時々、月にいるみたいに空気が薄くなるのよ、あなたと一緒にいると」
「月の空気は薄くない」と僕は指摘する。「月面には空気は全く存在しないんだ。だからーー」
「薄いのよ」と彼女は小さな声で言う。彼女が僕の発言を無視したのか、あるいは全然耳に入らなかったのかは、僕にはわからない。でも彼女の声の小ささが僕を緊張させる。どうしてかはわからないけれど、そこには僕を緊張させる何かがふくまれている。「ときどきすうっと薄くなるのよ。そして私とはぜんぜん違う空気をあなたが吸っているんだと思うの。そう認識するの」
「データが不足しているんだ」と僕は言う。
「私があなたについて何も知らないということかしら、それ?」
「僕自身も自分についてよくわかってないんだ」と僕は言う。「本当にそうなんだよ。別に哲学的な意味で言ってるんじゃない。もっと実際的な意味で言ってるんだ。全体的にデータが不足している」
「でもあなたもう三十三でしょう?」と彼女は言う。彼女は二十六だ。
「三十四」と僕は訂正する。「三十四歳と二カ月」
彼女は首を振る。そしてベッドを出て、窓のところに行き、カーテンを開ける。窓の外には高速道路が見える。道路の上には骨のように白い午前六時の月が浮かんでいる。彼女は僕のパジャマを着ている。「月に戻りなさい、君」と彼女はその月を指し示して言う。
「寒いだろう?」と僕は言う。「寒いって、月のこと?」
「違うよ。今の君のことだよ」と僕は言う。
今は二月なのだ。彼女は窓際に立って白い息を吐いている。僕がそう言うと、彼女はやっと寒さに気づいたようだった。
彼女は急いでベッドに戻る。僕は彼女を抱き締める。そのパジャマはすごくひやりとしている。彼女は鼻先を僕の首に押し什ける。その鼻先もとても冷たい。「あなたのこと好きよ」と彼女は言う。
僕は何か言おうと思うのだけれど、上手く言葉が出てこない。僕は彼女に好意を抱いている。こうしてふたりでベッドの中にいると、とても楽しく時を過ごすことができる。僕は彼女の体を温めたり、髪をそっと撫でていたりするのが好きなのだ。彼女の小さな寝息を聞いたり、朝になって彼女を会社に送りだしたり、彼女が計算したーーと僕が信じているーー電話料金の請求書を受け取ったり、僕の大きなパジャマを彼女が着ているのを見たりするのが好きなのだ。でもそういうことって、いざとなると一言で上手く表現できない。愛しているというのではもちろんないし、好きというのでもない。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:28:00 | 显示全部楼层
何と言えばいいのだろう?
でもとにかく僕には何も言えない。言葉というものがまったく浮かんでこない。そして僕が何も言わないことで彼女が傷ついていることが感じられる。彼女はそれを僕に感じさせまいとしているのだが、でも僕には感じられる。柔らかな皮膚の上から彼女の背中の骨の形を辿りながら、僕はそれを感じるのだ。とてもはっきりと。僕らはしばらく何も言わずに抱き合って、題もわからない唄を聴いている。彼女は僕の下腹にそっと手のひらをあてる。「月世界の女の人と結婚して立派な月世界人の子供を作りなさい」と彼女は優しく言う。「それがいちばんよ」
開け放しになった窓からは月が見えた。僕は彼女を抱いたまま、その肩越しにじっと月を見ていた。時折何かひどく重い物を積んだ長距離トラックが崩壊し始めた氷山のような不吉な音を立てて高速道路を走り抜けていった。いったい何を運んでいるのだろう、と僕は思った。
「朝御飯、何がある?」と彼女は僕に尋ねる。「特に変わったものはないね。いつもとだいたい同じだよ。ハムと卵とトーストと昨日の昼に作ったポテト・サラダ、そしてコーヒー。君のためにミルクを温めてカフェ・オ・レを作る」と僕は言う。
「素敵」と彼女は言って微笑む。「ハムェッグを作って、コーヒーをいれて、トーストを焼いてくれる?」
「もちろん。喜んで」と僕は言う。
「私のいちばん好きなことって何だと思う?」
「正直言って見当がつかない」
 「私がいちばん好きな事、何かというとね」と彼女は僕の目を見ながら言う。「冬の寒い朝に嫌だな、起きたくないなと思いつつ、コーヒーの香りと、ハムエッグの焼けるじゅうじゅういう匂いと、トースターの切れるパチンという音に我慢しきれずに、思い切ってさっとベッドを抜け出すことなの」
「よろしい。やってみよう」と僕は笑って言う。
僕は変わった人間なんかじゃない。
本当にそう思う。
僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変わった人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、ごく自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にはしない。他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。
ある種の人間は僕を実際以上に愚鈍だと考えるし、ある種の人間は僕を実際以上に計算高いと考える。でもそれはどうでもいいことだ。それに「実際以上に」という表現は、僕の捉えた僕自身の像に比べてということに過ぎないのだ。彼らにとっての僕はあるいは現実的に愚鈍であり、あるいは計算高い。それは別にどちらでもいい。たいした問題ではない。世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。
しかしそれとは別に、その一方で、僕の中のそのまともさに引かれる人間がいる。とても数少なくはあるけれど、でも確かに存在する。彼ら/彼女たち、と僕とは、まるで宇宙の暗い空間に浮かぶ二つの遊星のようにごく自然に引き合い、そして離れていく。彼らは僕のところにやってきて、僕と関わり、そしてある日去っていく。彼らは僕の友人になり、恋人になり、妻にもなる。ある場合には対立する存在にもなる。でもいずれにせよ、みんな僕のもとを去っていく。彼らはあきらめ、あるいは絶望し、あるいは沈黙し(蛇口をひねってももう何も出てこない)、そして去っていく。僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。人々は入り口から入ってきて、出口から出ていく。いろんな入り方があり、いろんな出方がある。しかしいずれにせよ、みんな出ていく。あるものは新しい可能性を試すために出ていったし、あるものは時間を節約するために出ていった。あるものは死んだ。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ。そして僕は彼らの不在をいつも認識している。去っていった人々を。彼らの口にした言葉や、彼らの息づかいや、彼らの口ずさんだ唄が、部屋のあちこちの隅に塵のように漂っているのが見える。
彼らが見た僕の像はおそらくかなり正確なものだったのではないかという気がする。だからこそ彼らはみんな僕のところにまっすぐやってきて、そしてやがて去っていったのだ。彼らは僕の中にまともさを認め、僕がそのまともさを維持していこうとする僕なりの誠実さーーという以外の表現を思いつけないのだーーを認めた。彼らは僕に対して何かを言おうとしたり、心を開こうとしたりした。彼らの殆どは心優しい人々だった。でも僕には彼らに何かを与えることはできなかった。もし与えることができたとしても、それだけでは足りなかった。僕はいつも彼らに出来る限りのものを与えようと努力した。できるだけのことは全部やった。僕も彼らに何かを求めようとした。でも結局は上手くいかなかった。 そして彼らは去っていった。
それはもちろん辛いことだった。
でももっと辛いのは、彼らが入ってきた時よりずっと哀し気に部屋を出ていくことだった。彼らが体の中の何かを一段階磨り減らせて出ていくことだった。僕にはそれがわかった。変な話だけれど、僕よりは彼らの方がより多く磨り減っているように見えた。どうしてだろう?何故いつも僕が残されるのだ?何故だろう?そして何故いつも僕の手の中に磨り減った誰かの影が残されているのだ?何故だろう。わからないな。
データが不足しているのだ。
だからいつも解答がでてこないのだ。
何かが欠けているのだ。
ある日仕事の打ち合わせから戻ってみると、郵便受けに絵はがきが入っていた。宇宙飛行士が宇宙服を着て月面を歩いている写真の絵はがきだった。差しだし人の名前は書いてなかったけれど、それが誰からのはがきなのかは一目で理解できた。
「もう私たちは会わないほうがいいだろうと思います」と彼女は書いていた。「私はたぶん近いうちに地球人と結婚することになると思うから」
ドアの閉まる音が聞こえる。
でーたフソクノタメ、カイトウフカノウ。トリケシきいヲオシテクダサイ。
画面が白くなる。
いつまでこんなことが続くのだろう?と僕は思った。僕はもう三十四だ。いつまでこれが続くのだ?
僕は哀しくはなかった。だってそれは明らかに僕の責任なのだ。彼女が僕のもとを離れていくのは当然のことだし、それは始めからわかっていたのだ。彼女にもわかっていたし、僕にもわかっていた。でも我々はささやかな奇跡を求めてもいたのだ。ちょっとしたきっかけで根本的な転換がやってくるかもしれないというようなことを。しかしもちろんそんなものはやってはこなかった。そして彼女は出ていった。彼女がいなくなったことで僕は寂しい気持ちになったが、それは以前にも経験したことのある寂しさだった。そして自分がその寂しさを上手くやりすごせるということもわかっていた。
僕は馴れつつあるのだ。
そう思うと僕は嫌な気持ちになった。内臓から黒い液がどっぷりと絞り出されて喉もとまで上がってくるような気がした。僕は洗面所の鏡の前に立って、これが俺自身だと思った。これがお前だ。お前が自分自身を磨り減らせてきたのだ。お前が思っているよりはずっと多くお前は磨り減ってきたんだ、と。僕の顔はいつもよりずっと汚く、ずっと老けて見えた。僕は石鹸で丁寧に顔を洗い、ローションを肌に磨り込み、それからまた手をゆっくり洗い、新しいタオルで手と顔をよく拭いた。そしてキッチンに行って缶ビールを飲みながら冷蔵庫の整理をした。萎びたトマトを捨て、ビールをきちんと並べ、容器をうつしかえ、買い物のリストを作った。
明け方に僕は一人でぼんやりと月を眺めながら、これがいつまで続くんだろうと思った。僕はやがてまたどこかで別の女にめぐりあうだろう。我々は遊星のように自然に引き合うのだ。そして我々はまたむなしく奇跡を期待し、時を食み、心を磨り減らせ、別れていくのだ。
それがいつまでつづくのだ?
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:28:29 | 显示全部楼层
彼女から月面の絵はがきが届いた一週間後に、僕は仕事で函館に行くことになった。、例によってあまり魅力的とは言いがたい仕事だったが、僕は仕事のよりごのみを出来るような立場にはなかった。それにだいたい僕のところに回ってくるどの仕事をとってみても、そこにはよりごのみをするほどの差はないのだ。幸か不幸か一般的に物事というのは端っこに行けば行くほど、その質の差が目立たなくなってくる。周波数と同じことだ。あるポイントを越してしまうと、隣接する二つの音のどちらが高いかなんて殆ど聴きわけられないし、やがては聴きわけるまでもなく何も聞こえなくなってしまう。
それはある女性誌のために函館の美味い食べ物屋を紹介するという企画だった。僕とカメラマンとで店を幾つか回り、僕が文章を書き、カメラマンがその写真を撮る。全部で五ベージ。女性誌というのはそういう記事を求めているし、誰かがそういう記事を書かなくてはならない。ごみ集めとか雪かきとかと同じことだ。だれかがやらなくてはならないのだ。好むと好まざるとにかかわらず。
僕は三年半の間、こういうタイブの文化的半端仕事をつづけていた。文化的雪かきだ。ある事情でそれまで友人と二人で経営していた事務所を辞めたあと、僕は半年ばかり殆ど
何もせずにただぼんやりと生きていた。何をする気も起きなかったのだ。その前の年の秋から冬にかけては実にいろんなことがあった。離婚した。友達が死んだ。不思議な死だった。女が何も言わずに去っていった。奇妙な人々に会い、奇妙な事件に巻き込まれた。そして全てが終わった時、僕はそれまでに経験したこともないくらい深い静寂にすっぽりと包みこまれていた。恐ろしいほどの濃密な不在感が僕の部屋の中に漂っていた。僕はその部屋の中に半年間じっと閉じこもっていた。生存に必要な最低限の買い物をすることを除けば、昼間は殆ど外に出なかった。人気のない明け方の時間に僕は街をあてもなく散歩した。人々が街に姿を見せ始めるころになると部屋に戻って眠った。そして夕方前に目を覚まして簡単な食事を作って食べ、猫にもキャット・フードをやった。食事が終わると床に座って僕の身に,起こったことを何度も何度も思い返して、整理してみた。順番を並べかえたり、そこに存在したはずの選択肢をリスト・アップしたり、自分の行動の正否について考えを巡らせたりした。それを明け方まで続けた。そしてまた外に出てあてもなく無人の街を彷徨い歩いた。
僕は半年間それを毎日毎日続けた。そう、一九七九年の一月から六月まで。僕は一冊の本も読まなかった。新聞さえ開かなかった。音楽も聞かなかった。TVも見なければ、ラジオも聞かなかった。誰とも会わなかったし、誰とも話をしなかった。酒も殆ど飲まなかった。飲みたいという気になれなかったのだ。世の中で何が起こっているのか、誰が有名になって誰が死んだのか、僕は何ひとつ知らなかった。一切の情報をかたくなに拒否していたというわけではない。ただとくに知りたいとも思わなかっただけだ。世界が動いていることは僕にも感じられた。部屋のなかにじっとしていても、僕はその動きを肌に感じることはできた。でもそれに対して僕は何の興味も抱けなかった。全ては無音の微風のごとく、僕のまわりを吹き過ぎていった。
僕はただ部屋の床に座って、頭の中に過去を再現しつづけていた。不思議な話だけれど、半年間それを毎日毎日続けても僕は退屈や倦怠というものをまるで感じなかった。何故なら、僕が体験したその出来事は余りにも巨大であり、余りにも多くの断面を有していたからだ。巨大で、そしてリアルだった。手を触れられるくらいに。それはまるで夜の闇の中にそびえたつモニュメントのようだった。そしてそのモニュメントは僕ひとりのためにそびえていたのだ。僕は全てを隈なく検証した。僕はその出来事を通り抜けたことによってもちろんそれなりのダメージを受けてはいた。少なくはないダメージだった。多くの血が音もなく流れた。いくつかの痛みは時がたてば消えたが、いくつかの痛みはあとになってやってきた。しかし僕が半年間じっとその部屋の中に篭もり続けていたのは、その傷のためではなかった。僕はただ時間を必要としていただけなのだ。その出来事に関わる全てを具体的にーー実際的にーー整理し、検証するのに半年という時間が必要だったのだ。僕は決して自閉的になっていたり、外的世界をかたくなに拒否していたりしていたわけではない。ただ単にそれは時間的な問題だった。もう一度自己をきちんと回復し、立て直すための純粋に物理的な時間が僕には必要だったのだ。
自己を立て直すことの意味と、その後の方向性についてまでは考えないようにした。それはまた別の問題だ、と僕は思った。それについてはまたあとで考えればいい。まず第一に平衡性を回復するのだ。
僕は猫とさえ話をしなかった。
何度か電話がかかってきたが、僕は受話器を取らなかった。
誰かが時々ドアをノックしたが、僕は応えなかった。
手紙も何通か来た。僕のかっての共同経営者が僕の事を心配していると書いてきた。どこにいて何をしているのかわからない。とりあえずここの住所に手紙を書いておく。何か出来ることがあったら言ってほしい。こちらの仕事は今のところまずまず順調である、と書いてあった。共通の知人の消息についても触れてあった。僕は何度かそれを読み返してみて、内容を把握してから(把握するまでに四回か五回読みかえさなくてはならなかった)机の引きだしにしまった。
別れた妻からの手紙も来た。手紙には幾つか実際的な用事が書いてあった。非常に実際的なトーンの手紙だった。しかし終わりの方に自分は再婚することになった、再婚の相手はあなたの知らない人だ、と書いてあった。この先知ることもないだろう、と言いたそうなそっけのない書き方だった。ということは、僕と離婚した時につきあっていた相手とは別れたということだった。まあそうだろうな、と僕は思った。僕はその男のことをよく知っていたが、それほど大した男ではなかったからだ。ジャズ・ギターを弾いていたが、特に驚くような才能を持っていたわけでもなかった。特に面白い人物でもなかった。彼女がどうしてそんな男に引かれたのか僕にはぜんぜん見当がつかなかった。でもまあ、それは他人と他人の間の問題だ。僕については何も心配していない、と彼女は書いていた。あなたは何をしてでもちゃんとやっていく人だから。私が心配しているのはこの先あなたが関わっていくであろう人々のことです。私は最近そういうことが何だかとても心配なのです、と。僕はその手紙も何度か読みかえし、それからやはり机の引きだしに入れた。
そんな具合に時が流れていった。
金銭面での問題はなかった。とりあえず半年暮らしていけるくらいの蓄えはあったし、この先のことは先になって考えればよかった。冬が去り、春がやってきた。春は僕の部屋を温い平和な光で満たした。窓から差し込む光が描く線を毎日じっと眺めていると、太陽の角度が少しずつ変化していくのがわかった。春はまた僕の心を様々な古い思い出で満たした。去っていった人々、死んでしまった人々。僕は双子のことを思い出した。僕は彼女たちと三人でしばらく暮らした。一九七三年のことだ、たしか。そのころ僕はゴルフ場のわきに住んでいた。日が暮れると、僕らは金網を乗り越えてゴルフ場の中に入り、あてもなく散歩し、ロスト・ボールを拾った。春の夕暮れは僕にそんな情景を思い起こさせた。みんな何処に行てしまったんだろう?
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:29:22 | 显示全部楼层
入り口と出口。
死んでしまった友達と二人で通った小さなスナックバーのことも思い出した。僕らはそ
こでとりとめもなく時を過ごしたものだった。でも今になってみれば、それがこれまでの人生でいちばん実体のある時間であったような気がする。変なものだ。そこでかかっていた古い音楽のことも思い出した。我々は大学生だった。我々はそこでビールを飲み、煙草を吸った。我々はそういう場所を必要としていたのだ。そしていろんな話をした。でもどんな話をしたかは思い出せない。ただいろんな話をしたとしか思い出せないのだ。
彼はもう死んでしまった。
あらゆる物を抱え込んで、彼は死んでいった。
入り口と出口。春はどんどん深まっていった。風の匂いが変わっていった。夜の闇の色合いも変化した。音も違った響きを帯びるようになっていった。そして季節は初夏に変わった。
五月の終わりに猫が死んだ。唐突な死だった。何の予兆もなかった。ある朝起きてみたら猫は台所の隅で丸くなって死んでいた。たぶん本人にもよくわからないまま死んでしまったのだろう。体は冷えたロースト・チキンみたいにかちかちになり、毛なみは生きていた時よりもっと汚く見えた。「いわし」という名の猫。彼の人生は決して幸せな代物ではなかった。とくに誰かから深く愛されたわけでもないし、とくに何かを深く愛したわけでもなかった。彼はいつも不安そうな目で人の顔を見た。自分はこれから何を失おうとしているのだろう、というような目で。そんな目つきのできる猫は他にはちょっといない。でもとにかく死んでしまった。一度死んでしまえば、それ以上失うべきものはもう何もない。それが死の優れた点だ。
僕は猫の死骸をスーパーマーケットの紙袋に入れて車の後部席に置き、近くの金物屋でシャベルを買った。そして実に久し振りにラジオのスイッチを入れ、ロックミュージックを聴きながら四に向かった。大抵はつまらない音楽だった。フリートウプド・マック、アバ、メリサ・マンチェスター、ビージーズ、KCアンド・ザ・サンシャインバンド、ドナ・サマー、イーグルズ、ボストン、コモドアズ、ジョンデンヴァー、シカゴ、ケニー・ロギンズ……。そんな音楽が泡のように浮かんでは消えていった。くだらない、と僕は思った。テイーン・エイジャーから小銭を巻き上げるためのゴミのような大量消費音楽。でもそれからふと哀しい気持ちになった。時代が変わったのだ。それだけのことなのだ。
僕はハンドルを握りながら、僕らがティーン・ェイジャーだったころにラジオからながれていた下らない音楽を幾つか思い出してみようとした。ナンシー・シナトラ、うん、あれは屑だった、と僕は思った。モンキーズもひどかった。エルヴィスだってずいぶん下らない曲をいっぱい歌っていた。トリニ・ロペスなんていうのもいたな。パット・ブーンの大方の曲は僕に洗顔石鹸を思い起こさせた。フェビアン、ボビー・ライデル、アネット、それからもちろんハーマンズ・ハーミッツ。あれは災厄だった。次から次へと出てきた無意味なイギリス人のバンド。髪が長く、奇妙な馬鹿気た服をきていた。いくつ思いだせるかな?ハニカムズ、デイブ・クラーク・ファイブ、ジェリーとベースメーカーズ、フレディーとドリーマーズ……,きりがない。死後硬直の死体を思わせるジェファーソン・エアプレイン。トム・ジョーンズーー名前を聞いただけで体がこわばる。そのトム・ジョーンズの醜いクローンであるエンゲルベルト・フンパーディング。何を聞いても広告音楽に聞こえるハーブ・アルパーとティファナ・ブラス。あの偽善的なサイモンとガーファンクル。神経症的なジャクソン・ファイブ。
同じようなものだった。
何も変わってやしない。いつだっていつだっていつだって、物事の有り方は同じなのだ。ただ年号が変わって、人が入れ替わっただけのことなのだ。こういう意味のない使い捨て音楽はいつの時代にも存在したし、これから先も存在するのだ。月の満ち干と同じように。
僕はぼんやりとそんなことを考えながらずいぶん長く車を走らせた。途中でローリング・ストーンズの『ブラウンシュガー』がかかった。僕は思わず微笑んだ。素敵な曲だった。「まともだ」と僕は思った。『ブラウンシュガー』が流行ったのは一九七一年だったかな、と僕は考えた。しばらく考えてみたが、正確には思い出せなかった。でも別にどうでもいいことだった。一九七一年だろうが一九七二年だろうが、今となってはどっちでもいいことなのだ。どうしてそんなことをいちいち真剣に考えるのだろう?
適当に山深くなったところで僕は高速道路を下り、適当な林をみつけてそこに猫を埋めた。林の奥の方にシャベルで一メートルほどの深さの穴を堀り、西友ストアの紙袋でくるんだままの「いわし」を放り込み、その上に土をかけた。悪いけど、俺たちにはこれが相応なんだよ、と僕は最後に「いわし」に声をかけた。僕が穴を埋めているあいだ、どこかで小鳥がずっと啼き続けていた。フルートの一高音部のような音色の声で啼く鳥だった。
穴をすっかり埋めてしまうと、僕はシャベルを車のトランクに入れ、高速道路にもどった。そしてまた音楽を聴きながら東京に向けて車を走らせた。
何も考えなかった。僕はただ音楽に耳を澄ませていた。ロッド・スチュアートとJ‐ガイルズ・バンドがかかった。それからアナウンサーがここでオールディーズを一曲、と言った。レイ・チャールズの『ボーン・トゥー・ルーズ』だった。それは哀しい曲だった。「僕は生まれてからずっと失い続けてきたよ」とレイ・チャールズが唄っていた。「そして僕は今君を失おうとしている」。その唄を聴いていて、僕は本当に哀しくなった。涙が出そうなほどだった。ときどきそういうことがある。何かがちょっとした加減で、僕の心の一番柔らかな部分に触れるのだ。僕は途中でラジオを消して、サービス・エリアに車を停め、レストランに入って野菜のサンドイッチとコーヒーを注文した。洗面所に入って手についた土を綺麗に洗い、サンドイッチをひときれだけ食ベ、コーヒーを二杯飲んだ。
猫は今頃どうしているだろう、と僕は思った。あそこは真っ暗だろうな、と僕は思った。西友ストアの紙袋に土の当たる音を思い出した。でもそれが相応なんだよ。僕にもお前にも。
僕は一時間、そのレストランで野菜サンドイッチの盛られた皿をぼんやりと見つめていた。ちょうど一時間後に菫色の制服を着たウェイトレスがやってきて、その皿を下げていいか、と遠慮がちに僕に聞いた。僕は肯いた。
さて、と僕は思った。
社会に戻るべき時だった。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:30:10 | 显示全部楼层
この巨大な蟻塚のょうな高度資本主義社会にあっては仕事を見つけるのはさほど困難な作業ではない。その仕事の種類や内容について贅沢さえ言わなければ、ということだ、もちろん。
僕は事務所を持っていたころ編集の仕事にはけっこう関わっていたし、その過程でこまごまとした文章も自分で書いていた。そういう業界の関係の知り合いも何人かはいた。だからフリーのライターとして自分一人ぶんの生活費を稼ぎ出すくらいはまあ簡単なことだった。もともと僕はあまり生活費のかからない人間なのだ。
僕は昔の手帳をひっぱりだして何人かに電話をかけてみた。そして率直に、何か僕にできる仕事はないだろうかと聞いてみた。事情があってしばらくぶらぶらしてたんだけれど、できたらまた仕事をしたいんだと僕は言った。彼らはすぐにいくつか仕事をまわしてくれた。たいした仕事ではない。大体はPR誌や企業パンフレットの穴埋め記事の仕事だった。ごく控え目に言って、僕の書かされた原稿の半分はまったく無意味で、誰の役にも立ちそうもない代物だった。パルプとインクの無駄遣い。でも僕は何も考えずに、殆ど機械的にきちんきちんと仕事をかたづけていった。最初のうちは仕事量は大したものではなかった。
一日に二時間ほど仕事をして、あとは散歩したり、映画を見にいったりしていた。ずいぶん沢山の映画を見た。三カ月ほどそんな調子で僕はのんびりとやっていた。何はともあれとにかく少しは社会と関わっているのだと思うと僕はほっとした気持ちになれた。僕のまわりの状況が変化を見せ始めたのは秋に入って間もなくだった。仕事の依頼が突然激増したのだ。僕の部屋の電話はひっきりなしに鳴り、郵便物の量も増えた。僕は仕事の打ち合わせで沢山の人間に会い、一緒に食事をした。彼らは僕に親切にしてくれたし、これから先もどんどん仕事を回すからと言ってくれた。
理由は簡単だった。僕は仕事のよりごのみをしなかったし、まわってくる仕事は片っ端から引受けた。期限前にちゃんと仕上げたし、何があっても文句を言わず、字もきれいだった。仕事だって丁寧だった。他の連中が手を抜くところを真面目にやったし、ギャラが安くても嫌な顔ひとつしなかった。午前二時半に電話がかかってきてどうしても六時までに四百字詰め二十枚書いてくれ(アナログ式時計の長所について、あるいは四十代女性の魅力について、あるいはへルシンキの街ーーもちろん行ったことはないーーの美しさについて)と言われれ、ちゃんと五時半には仕上げた。書き直せと言われれば六時までに書き直した。評判が良くなって当然だった。
雪かきと同じだった。
雪が降れば僕はそれを効率良く道端に退かせた。
一片の野心もなければ、一片の希望もなかった。来るものを片っ端からどんどんシステマティックに片付けていくだけのことだ。正直に言ってこれは人生の無駄遣いじゃないかと思うこともないではなかった。でもパルプとインクがこれだけ無駄遣いされているのだから、僕の人生が無駄遣いされたとしても文句を言える筋合いではないだろう、というのが僕の到達した結論だった。我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラディッシュかスーダンに行くしかない。
僕はとくにバングラディッシュにもスーダンにも興味が持てなかった。だから黙々と仕事を続けた。そのうちにPRの仕事だけではなく、一般誌の仕事の依頼も来るようになった。どういうわけか女性誌の仕事が多かった。インタビューの仕事や、ちょっとした取材記事を手掛けるようになった。でもそういうのがPR誌にくらべてとくに仕事として面白いわけではなかった。僕がインタビューする相手は雑誌の性格上、大半が芸能人だった。誰に何を聞いても、判で押したような答えしか返ってこなかった。彼らがどう答えるかは質問する前から予想がついた。ひどい時には、まずマネージャーが僕を呼びつけて、どんな質問をするのか、前もって教えてくれと言った。だから僕がする質問の答えは始めから全部きちんと答えが用意されていた。僕がその十七歳の女性歌手に決められた以外の質問をすると、隣にいるマネージャーが「そういうことは話が違うからちょっと答えられない」と口を出した。やれやれこの女の子はマネージャーなしには十月の次に何月がくるのかもわからないんじゃないだろうかと僕は時々真剣に心配したものだった。そんな代物はもちろんインタビューとも言えない。でも僕はベストをつくしてやった。インタビューの前にはできるだけ綿密な調査をしたし、他人があまりやらないような質問を考えた。構成に細かく工夫を凝らした。そんなことしたって特に評価されるわけでもないし、誰かから温かい言葉をかけられるわけでもない。僕がそういう風に一所懸命やったのはそうすることが、僕にとってはいちばん楽だったからだ。自己訓練。しばらく働かせていなかった指と頭を実際的なーーそして出来ることなら無意味なーー物事に向けて酷使すること。
社会復帰。
僕はそれまでに経験したことがないような忙しい日々を送るようになった。定期的な仕事を幾つか抱えたうえに、飛び込みの仕事も多かった。誰も引き受け手のみつからない仕事は必ず僕のところに回ってきた。トラブルを抱えたややこしい仕事も必ず僕のところに回ってきた。僕はその社会の中では町はずれの廃車置き場のような位置をしめていた。何かの具合が悪くなると、みんな僕のところにそれを捨てにきた。誰もが寝静まった夜更けに。
おかげで僕の貯金通帳の数字は僕がそれまで見たこともないような額に膨れあがっていったし、忙しすぎてそれを使う暇もなかった。僕は問題の多かったこれまでの車を処分して、知り合いからスバル・レオーネを安く譲ってもらった。ひとつ前のモデルだったが、それほどの距離は走ってなかったし、カー・ステレオとエアコンまでついていた。そんなものがついた車に乗るなんて生まれて初めてのことだった。これまでのアパートは都心から離れすぎていたので、渋谷の近くに引っ越した。窓のすぐ前が高速道路で少々うるさくはあったけれど、それさえ気にしなければなかなか良いアパートだった。
仕事のうえで知り合った何人かの女の子と寝た。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:30:34 | 显示全部楼层
社会復帰。
僕は自分がどんな女の子と寝ればいいのかがわかっていた。そして誰と寝ることができて誰と寝ることができないのかもわかっていた。誰と寝るべきじゃないのかも。年を取ればそういうのが自然にわかるようになってくるものなのだ。そしてどこが切り上げ時かもわかっていた。そういうのはとても自然で楽なことだった。だれも傷つけなかったし、僕の方も傷つかなかった。あの締め付けられるような心の震えがないだけだった。
ぼくがいちばん深く関わったのは、例の電話局につとめる女の子だった。彼女とはどこかの年末のパーティーで知り合った。二人とも酔っぱらっていて、冗談を言いあって、意気投合して、僕のアパートに行って寝た。彼女は頭が良くて、脚がとても綺麗な子だった。僕らは中古のスバルに乗って、いろんなところにドライブにも行った。彼女は気が向いた時に僕に電話をかけてきて、泊まりにいっていいかと聞いた。そういう一歩つっこんだ関係になった相手は彼女だけだった。そんな関係が何処にも到達しないことは僕にも彼女にもわかっていた。でも人生のある種の猶予期間のようなものを、僕らは二人で静かに共有した。それは僕にとっても久し振りに心おだやかな日々だった。僕らは優しく抱き合い、小さな声で話をした。僕は彼女の為に料理を作り、誕生日にはプレゼントを交換した。僕らはジャズ・クラブに行って、カクテルを飲んだ。僕らは口論ひとつしなかった。僕らはお互いが何を求めているのかを心得ていた。でもそれも結局は終わってしまった。それはある日突然フィルムが切れるみたいにぷつんと終わってしまったのだ。
彼女が去っていったことは、僕の中に予想以上の喪失感をもたらした。しばらくの間、
自分自身がたまらなく空虚に感じられた。僕は結局どこにも行かない。みんなが次々に去っていき、僕だけが引き延ばされた猶予期間の中にいつまでもとどまっていた。現実でありながら現実でない人生。
でもそれが僕が空虚さを感じたいちばん大きな理由ではなかった。いちばんの問題は僕が心の底からは彼女を求めてはいなかったということだった。僕は彼のことが好きだった。彼女と一緒にいるのが好きだった。彼女と二人でいると、僕は心地好い時間を送ることができた。優しい気持ちにもなれた。でも結局のところ僕は彼女を求めてはいなかったのだ。彼女が去ってしまった三日ばかり後で、僕はそのことをはっきりと認識した。そう、結局のところ彼女の隣にいながら僕は月の上にいたのだ。脇腹に彼女の乳房の感触を感じながら僕が本当に求めていたのはもっと別のものだったのだ。
僕は四年かけてなんとか自らの存在の平衡性を取り戻した。僕は与えられた仕事をひとつひとつきちんとかたづけてきたし、人々は僕に信頼感を抱いてくれた。それほど数多くないにせよ、何人かは僕に好意のようなものを抱いてくれた。でも、言うまでもないことだけれど、それだけでは足りなかったのだ。全然足りなかったのだ。要するに僕は時間をかけてやっと出発点に戻りついたというだけなのだ。
さて、と僕は思った。三十四にして僕は再び出発点に戻ったわけだ。さて、これからどうすればいいのだろう?まず何をすればよいか?
考えるまでもなかった。何をすればよいかは、はじめからわかっていた。結論はずっと前から固い雲のように僕の頭上にぽっかりと浮かんでいた。僕はただそれを実行に移す決心をつけることができなくて、一日また一日と後回しにしていただけなのだ。いるかホテルに行くのだ。それが出発点なのだ。
そして僕はそこで彼女に会わなくてはならない。僕をいるかホテルに導いた、あの高級娼婦をしていた女の子に。何故ならキキは今僕にそれを求めているからだ(読者に・彼女は名前を必要としている。たとえそれがとりあえずの名前であったとしてもだ。彼女の名はキキという。片仮名のキキ。僕はその名前を後になって知ることになる。その事情は後で詳述するが、僕はこの段階で彼女にその名前を付与することにする。彼女はキキなのだ。少なくとも、ある奇妙な狭い世界の中で、彼女はそういう名前で呼ばれていた)。そしてキキがスターターの鍵を握っているのだ。僕は彼女をもう一度この部屋に呼び戻さなくてはならない。一度出ていったものはもう二度と戻ってはこないこの部屋に。そんなことが可能なのかどうか、はわからない。でもとにかくやってみるしかないのだ。そこから新しいサイクルが始まだ。
僕は荷物をまとめ、とりあえず締切の迫っていた仕事をおお急ぎで片っ端から片付けてしまった。そして予定表に書いてあった来月の仕事を全部キャンセルした。みんなに電話をかけ、家庭の事情でどうしても一カ月東京を離れなくてはならないことになった、と言った。何人かの編集者はぶつぶつと文句を言ったが、僕がそんなことをするのはこれが初めてだったし、日程もまだずっと先のことだったから、彼らとしても今からならなんとでも手の打ちようがあった。だから、結局みんな了承してくれた。一カ月後にはちゃんと帰ってきてまた仕事をするからと僕は言った。そして僕は飛行機に乗って北海道に向かった。一九八三年の三月の始めのことだった。
でももちろん僕のその戦場離脱は一カ月では終わらなかった。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:31:14 | 显示全部楼层
僕はタクシーを二日借りきって、カメラマンと二人で雪の降り積もった函館の食べ物屋を片っ端からまわっていった。
僕の取材はシステマティックで効率の良いものだった。この手の取材でいちばん大事なことは下調べと綿密なスケジュールの設定である。それが全てと言ってもいい。僕は取材前に徹底的に資料を集める。僕のような仕事をしている人間のために様々な調査をしてくれる組織がある。会員になって年会費を納めれば、たいていのことは調べてくれる。たとえば函館の食べ物屋についての資料をほしいといえば、かなりの量を集めてくれる。大型のコンピュータを使って情報の迷宮の中から効果的に必要な物をかきあつめてくるわけだ。そしてコピーをとって、きちんとファイルして、届けてくれる。もちろんそれなりの金はかかるが、時間と手間を金で買うのだと思えば決して高い金額ではない。
それとは別に、僕は自分の足を使って歩きまわり、独自の情報も集める。旅行関係の資料を集めた専門図書館もあるし、地方新聞・出版物を集めている図書館もある。そういう資料を全部集めれば相当な量になる。その中から物になりそうな店をピックアッブする。それぞれの店に前もって電話をかけて、営業時間と定休日をチェックする。これだけ済ませておけば、現地に行ってからの時間が相当節約される。ノートに線を引いて一日の予定表を組む。地図を見て、動くルートを書き込む。不確定要素は最小限に押さえる。
現地についてから、カメラマンと二人で店を順番に回っていく。全部で約三十店。もちろんほんの少し食べてあとはあっさり残す。味を見るだけだ。消費の洗練化。この段階では我々は取材であることを隠している。写真も写さない。店を出てから、カメラマンと僕とで味について討議し、十点満点で評価する。良ければ残すし、悪ければ落とす。だいたい半分以上を落とす見当でやる。そしてそれと平行して、地元のミニコミ誌と接触してリストからこぼれている店を五つばかり推薦してもらう。ここも回る。選ぶ。そして最終的な選択が終わるとそれぞれの店に電話をかけ、雑誌の名前を言って、取材と写真撮影を申し込む。これだけを二日で済ませる。夜のうちに僕はホテルの部屋で大体の原稿を書いてしまう。
翌日はカメラマンが料理の写真を手早く写し、その間に僕が店主に話を聞く。手短に。全ては三日で片付く。もちろんもっと早くすませてしまう同業者もいる。でも彼らは何も調ベない。適当に有名店を選んで回るだけだ。中には何も食べないで原稿を書く人間だっている。書こうと思えば書けるのだ、ちゃんと。率直に言って、この種の取材を僕みたいに丁寧にやる人間はそれほどはいないだろうと思う。真面目にやれば本当に骨の折れる仕事だし、手を抜こうと思えば幾らでも抜ける仕事なのだ。そして真面目にやっても、手を抜いてやっても、記事としての仕上がりには殆ど差は出てこない。表面的には同じように見える。でもよく見るとほんの少し違う。
僕は別に自慢したくてこういう説明をしているわけではない。
僕はただ僕の仕事の概要のようなものを理解してほしいだけなのだ。僕の関わっている消耗がどのような種類の消耗であるかというようなことを。
そのカメラマンと僕とは前にも何度か一緒に仕事をしたことがあった。我々は割に気があっていた。我々はプロである。清潔な白手袋をはめ、大きなマスクをつけ、染みひとつないテニスシューズをはいた死体処理係のように。我々はてきぱきと簡潔に仕事をする。余計なことは言わないし、お互いの仕事に敬意を払う。これが生活の為にやっているつまらない仕事だということはどちらもわかっている。でもそれが何であれ、やるからにはきちんとやる。そういう意味で我々はプロなのだ。三日めの夜には僕は原稿を全部仕上げてしまった。
四日めは予備に空けておいた日だった。仕事も終わったし特にやることもないので、僕らはレンタカーを借りて近郊にでかけ、一日クロスカントリー・スキーをした。そして夜はふたりで鍋をつつきながら、ゆっくり酒を飲んだ。のんびりとした一日だった。僕は原稿を彼に託した。これで僕がいなくても他の人間があとの仕事を引き継いでやってくれることになっていた。寝る前に僕は札幌の番号案内に電話をかけて、ドルフィン・ホテルの番号を聞いた。番号はすぐにわかった。僕はベッドの上に座りなおしてふうっと溜め息をついた。まあこれでまだいるかホテルが潰れていないことだけはわかった。一安心と言うべきだろう。いつ潰れても不思議はないホテルだったのだ。僕は一度深呼吸をしてから、その番号をまわした。すぐに人が出た。まるで待ち構えていたみたいに、すぐだった。それで僕はいささか混乱した。何だかちょっと手際が良すぎる。
電話に出た相手は若い女の子だった。女の子?おいよせよ、と思った。いるかホテルはカウンターに若い女の子がいるようなホテルではないのだ。
「ドルフィン・ホテルでございます」と彼女は言った。
僕はよく訳がわからなかったので、念のために住所を確認してみた。住所はちゃんと昔どおりの住所だった。たぶん新しく女の子を雇ったんだろう。考えてみれば特に気にするほどのことでもない。予約をお願いしたい、と僕は言った。
「ありがとうございます。少々お待ち下さい。ただいま予約係におまわしいたします」と彼女ははきはきした明るい声で僕に言った。
予約係?僕はまた混乱した。ここまでくるとどうにも解釈のしようがない。いったいあのいるかホテルに何が起こったのだ?
「お待たせいたしました。予約係でございます」とこれも若そうな男の声がした。てきぱきとした愛想のいい声だった。どう考えてもプロのホテルマンの声だ。僕はとにかく三日間シングル・ルームを予約した。名前と東京の電話番号を教えた。
「かしこまりました。明日から三日間、シングル・ルームをお取りいたします」と男が
確認した。
それ以上話すべきことも思いつかなかったので、僕は礼を言って、混乱したままの状態で電話を切った。電話を切ってしまうと、余計に混乱の度合いが深まった。そしてしばらく電話機をじっと眺めていた。誰かが電話をかけてきて、それについて何かを説明してくれるんじゃないか、というような感じで。でも説明はなかった。まあいいや、なるようになるさ、と僕はあきらめた。実際に行ってみれば全てははっきりする。行ってみるしかない。いずれにせよ、そこに行かないわけにはいかないのだ。他に特に際だった選択肢があるわけでもないのだ。
僕はホテルのフロントに電話して札幌行きの列車の出発時刻を調べてもらった。昼前のちうどいい時間に一本特急があった。それから僕はルーム・サービスの係に電話をかけて、ウィスキーのハーフ・ボトルと氷を持ってきてもらい、それを飲みながらTVの深夜映画を見た。クリント・イーストウッドの出てくる四部劇だった。クリント・イーストウッドはただの一度も笑わなかった。微笑みさえしなかった。苦笑さえしなかった。僕が何度か笑いかけてみても、彼は動じなかった。映画が終わり、ウィスキーもあらかた飲んでしまってから、僕は電気を消して朝までぐっすりと眠った。夢ひとつ見なかった。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:31:30 | 显示全部楼层
特急列車の窓からは雪しか見えなかった。ょく晴れた日で、しばらく外を見ていると目がちくちくと痛んだ。僕の他には外を見ている乗客なんてひとりもいなかった。みんな知っているのだ。外を見たって雪しか見えないということを。僕は朝食を抜かしたので十二時前に食堂車に行って昼食を食べた。ビールを飲み、オムレツを食べた。僕の向かいにはきちんとネクタイを締め、スーツを着込んだ五十前後の男が座って、やはりビールを飲み、ハムのサンドイッチを食べていた。彼はどことなく機械技師みたいに見えたが、実際に機械技師だった。彼は僕に話しかけてきて、自分は機械技師で、衛隊の航空機の整備の仕事をしているのだと言った。そして、ソビェトの爆撃機や戦闘機の領空侵犯についていろいろと詳しく僕に教えてくれた。でも彼はソビェト機の領空侵犯の違法性については気にかけていないようだった。彼が気にしているのはファントムF4の経済性についてだった。それが一度のスクランブルでどれくらい燃料を食うかということを、彼は僕に教えてくれた。燃料のひどい無駄遣いだ、と彼は言った。「日本の航空機会社に作らせれば、もっとずっと安上がりにできますよ。F4に性能的に負けない、安上がりのジエット戦闘機なんて作ろうと思えば作れるんですよ、すぐにでも」
それで僕は無駄というものは、高度資本主義社会における最大の美徳なのだと彼に教えてやった。日本がアメリカからファントムジェットを買って、スクランブルをやって無駄に燃料を消費することによって、世界の経済がそのぶん余計に回転し、その回転によって資本主義はより高度になっていくのだ。もしみんなが無駄というものを一切生み出さなくなったら、大恐慌が起こって世界の経済は無茶苦茶になってしまうだろう。無駄というものは矛盾を引き起こす燃料であり、矛盾が経済を活性化し、活性化がまた無駄を作りだすのだ、と。
そうかもしれない、と彼は少し考えてから言った。でも自分は物資不足の極とも言うべき戦争中に子供時代を送ったせいか、そういう社会構造が実感としてよく掴めないのだ、と言った。
「私らは、どうもあなたがた若い人とは違って、そういう複雑なのにはどうも上手く馴染めんですな」と彼は苦笑しながら言った。
僕も決して馴染んでいるわけではなかったが、話がこれ以上長くなっても困るので、別に反論もしなかった。馴染んでいるのではない。把握、認識しているだけなのだ。そのふたつの間には決定的な差がある。でもとにかく僕はオムレツを食べ終え、彼に挨拶をして席を立った。
札幌までの列車の中で、僕は三十分ほど眠り、函館の駅近くの書店で買ったジャック・ロンドンの伝記を読んだ。ジャック・ロンドンの波瀾万丈の生涯に比べれば、僕の人生なんて樫の木のてっぺんのほらで胡桃を枕にうとうとと春をまっているリスみたいに平穏そのものに見えた。少なくとも一時的にはそういう気がした。伝記というのはそういうものなのだ。いったい何処の誰が平和にこともなく生きて死んでいった川崎市立図書館員の伝記を読むだろう?要するに我々は代償行為を求めているのだ。
僕は札幌の駅につくと、ぶらぶらいるかホテルまで歩いてみることにした。風のない穏やかな午後だったし、荷物はショルダーバッグひとつだけだった。街の方々に汚れた雪がうずたかく積み上げられていた。空気はぴりっと張り詰めていて、人々は足元に注意を払いながら簡潔に歩を運んでいた。女子高校生はみんな頬を赤く染めて、勢いよく白い息を空中に吐き出していた。その上に字が書けそうなくらいぽっかりとした白い息だった。僕はそんな街の風景を眺めながら、のんびりと歩いた。札幌に来たのは四年半ぶりだったが、それはずいぶん久し振りに見る風景のように感じられた。
僕は途中でコーヒー・ハウスに入って一服し、ブランディーの入った熱くて濃いコーヒーを飲んだ。僕のまわりではごく当たり前の都市における人々の営みが続けられていた。恋人同士が小さな声で語り合い、ビジネス・マンが二人で書類を広げて数字を検討し、大学生が何人か集まってスキー旅行やらポリスの新しいLPやらについて話していた。それは日本中のどこの都市でも日常的に繰り広げられている光景だった。この店の内部をそっくり横浜なり福岡なりに持っていっても全然違和感はないはずだった。でもそれにもかかわらず、いやそれが外面的にはまったく同じであるからこそ、僕はその店の中に座ってコーヒーを飲みながら、激しい焼けつくような孤独を感じることになった。僕一人だけが完全な部外者だという気がした。この街にも、これらの日常生活にも、僕はまったく属していないのだ。
もちろん東京のコーヒー・ハウスの何処に僕が属しているかといえば、そんなもの何処にも属してはいない。でも僕は東京のコーヒー・ハウスでそのような激しい孤独を感じることはない。僕はコーヒーを飲み、本を読み、ごく普通に時を過ごす。何故ならそれはとりたてて深く考えるまでもない日常生活の一部だからだ。
しかしこの札幌の街で、僕はまるで極地の島に一人で取り残されてしまったような激しい孤独を感じた。情景はいつもと同じだ。どこにでもある情景だ。でもその仮面を剥いでしまえば、この地面は僕の知っているどの場所にも通じていないのだ。僕はそう思った。似ているーーでも違う。まるで別の惑星みたいだ。言語も服装も顔つきもみんな同じだけれど、何かが決定的に違う別の惑星。ある種の機能がまったく通用しない別の惑星ーーでもどの機能が通用してどの機能が通用しないかはひとつひとつ確かめてみるしかないのだ。そして何かひとつしくじれば、僕が別の惑星の人間だということはみんなにばれてしまう。みんなは立ち上がって僕を指さしなじることだろう。お前は違う、と。お前は違うお前は違うお前は違う。
僕はコーヒーを飲みながらぼんやりとそんなことを考えていた。妄想だ。
でも僕が孤独であることーーこれは真実だった。僕は誰とも結びついていない。それが僕の問題なのだ。僕は僕を取り戻しつつある。でも僕は誰とも結びついていない。
この前誰かを真剣に愛したのはいつのことだったろう?ずっと昔だ。いつかの氷河期といつかの氷河期との間。とにかくずっと昔だ。歴史的過去。ジュラ紀とか、そういう種類の過去だ。そしてみんな消えてしまった。恐竜もマンモスもサーベル・タイガーも。宮下公園に打ち込まれたガス弾も。そして高度資本主義社会が訪れたのだ。そういう社会に僕はひとりぼっちで取り残されていた。
僕は勘定を払って外に出た。そして何も考えずにいるかホテルまでまっすぐ歩いた。いるかホテルの場所を僕ははっきりとは覚えていなかったので、それがすぐにみつかるかどうかいささか心配だったのだけれど、心配する必要なんて何もなかった。ホテルはすぐにみつかった。それは二十六階建ての巨大なビルディングに変貌を遂げていた。バウハウス風のモダンな曲線、光り輝く大型ガラスとステンレス・スティール、車寄せに立ち並ぶボールとそこにはためく各国旗、きりっとした制服を着込んでタクシーを手招きしている配車係、最上階のレストランまで直行するガラスのエレベーター……そんなものを誰が見落とすだろう?入り口の大理石の柱にはいるかのレリーフがうめこまれ、その下にはこう書かれていた。
「ドルフィン・ホテル」と。
僕は二十秒ばかりそこに立ちすくんで、口を半分開けて、そのホテルをただじっと見上げていた。そしてそれからまっすぐ延ばせば月にだって届きそうなくらい長く深い溜め息をついた。僕はすごく驚いたのだーーごく控え目に表現して。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:33:03 | 显示全部楼层
いつまでもホテルの前にぼうっと立ちすくんでいるわけにはいかないので、とにかく中に入ってみることにした。住所もあっているし、ホテルの名前もあっている。予約だって取ってあるのだ。入るしかない。
僕はなだらかな坂になった車寄せを歩いて上がり、ぴかぴかに磨きあげられた回転ドアから中に入った。ロビーは体育館みたいに広く、天井は吹き抜けになっていた。ずっと上の方までガラスの壁が続き、そこから陽光が燦々と降り注いでいた。フロアには大きなサイズのいかにも高価そうなソファが並び、その間に観葉植物の鉢が気前よくたっぷりと配されていた。ロビーの奥にはゴージャスなコーヒー・ルームがあった。こういうところでサンドイッチを注文すると名刺くらいのサイズの上品なハム・サンドイッチが大きな銀の皿に四つもられて出てくる。ポテト・チップとピックルスが芸術的に配されている。そしてそれにコーヒーをつけると、慎み深い四人家族の昼食代くらいの値段になるのだ。壁には北海道の何処かの湿原を描いたらしい三畳間くらいの大きさの油絵がかかっていた。特に芸術的とはいえないが、とにかく見栄えのする大きな絵であることは確かだった。何かの集まりがあるらしく、ロビーはけっこう混み合っていた。身なりの,良い中年の男の一団がソファに座って、肯いたり、鷹揚に笑ったりしていた。みんな同じような顎の突き出し方をし、同じような脚の組み方をしていた。たぶん医者か大学の先生の団体だろうと僕は思った。それとは別にーーいや同じ集まりなんだろうか?ーー盛装した若い女性のグループもいた。半分は和服を着て、半分はワンピースを着ていた。外国人も何人かいた。ビジネス・スーツに身を包み、目立たないネクタイを締め、アタッシェ・ケースを抱えて誰かと待ち合わせているビジネス・マンの姿も見えた。
一言で言えば、新・いるかホテルは繁盛しているホテルだった。
きちんと資本を投下し、きちんとそれを回収しているホテルなのだ。こういうホテルがどのようにして作られるのか、僕は知っていた。一度あるホテル・チェーンのPR誌の仕事をしたことがあるのだ。こういうホテルを作るにあたって、人は前もって何から何まで全部きちんと計算するのだ。プロが集まってコンピュータを使って、あらゆる情報を打ち込み、徹底的に試算する。トイレット・ベーパーの仕入れ値段とその使用量まで試算するのだ。学生アルバイトを使って札幌の街の各々の通りの通行人の数も調べる。結婚式の数を算定するために札幌の適齢期の男女の数も調べあげる。とにかく何から何まで調べるのだ。そして営業上のリスクをどんどん減らしていく。彼らは長い時間をかけて綿密な計画を練り、プロジェクト・チームを作り、土地を買収する。人材を集め、派手な宣伝を打つ。金で解決することならーーそしてその金がいつか戻ってくるという確信があればーー彼らはそこに幾らでも金を注ぎ込む。そういう種類のビッグ・ビジネスなのだ。
そういうビッグ・ビジネスを扱えるのは、様々な種類の企業を傘下に収めた大型複合企業だけだ。何故ならどれだけリスクを削っていっても、そこには計算の出来ない潜在的リスクが残るし、そういうリスクを吸収できるのは、その手のコングロマリットだけだからだ。
新・いるかホテルは正直なところ、僕の好みのホテルとは言えなかった。少なくとも、普通の状況であれば僕は自分の金を出してこんなホテルには泊まらない。値段が高いし、余計な物が多すぎる。でも仕方ない。何はともあれとにかくこれが変貌を遂げた新しいいるかホテルなのだ。僕はカウンターに行って名前を告げた。ライト・ブルーの揃いのブレザー・コートを着た女の子たちが歯磨きの宣伝みたいににっこりと笑って僕を迎えてくれた。こういう笑い方の教育も資本投下の一部なのだ。女の子たちはみんな処女雪のごとく真っ白なブラウスを着て、髪をきちんとセットしていた。女の子は三人いたが、僕のところに来た子だけが眼鏡をかけいた。眼鏡がよく似合う感じの良い女の子だった。彼女が来てくれたことで僕はちょっとほっとした。三人の中では彼女がいちばん綺麗だったし、僕は一目で彼女のことを気に入っていたからだ。彼女の笑顔の中にはなにかしら僕の心をひきつけるものがあった。まるでほテルのあるべき姿を具現化したホテルの精みたいだ、と僕は思った。手に小さな金の杖を持ってさっと振ると、ディズニー映画みたいに魔法の粉が舞って、ルーム・キイが出てくるのだ。
でも彼女は金の杖のかわりにコンピュータを使った。キイ・ボードで僕の名前とクレジット・カードのナンバーを手際良くインプットし、画面を確認してからまたにっこり微笑んでカード式のキイをくれた。1523というのが僕の部屋番号だった。僕は彼女に頼んでホテルのパンフレットをひとつもらった。そして、このホテルはいつから営業しているのかと訊いてみた。昨年の十月でございます、と彼女は反射的に答えた。まだ五カ月しか経っていないのだ。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど一と僕は言った。僕も営業用の感じの良い微笑みをきちんと顔に浮かべていた。僕だってちゃんとそういうのを持っているのだ。「昔ここの同じ場所に同じ名前の『ドルフィン・ホテル』という小さなホテルがあったでしょう?それがどうなったか知ってる?」
彼女の笑顔が少しだけ乱れた。上品な静かな泉にビール瓶のふたを放り込んだみたいに静かな波紋が彼女の顔に広がり、そして収まった。収まった時、笑顔は以前のそれよりも幾分後退していた。僕はそういうこみいった変化を感心して観察していた。泉の精が現れて、あなたが今投げ込んだのは金のふたですか、それとも銀のふたですか、と質問するん じゃないかという気がしたくらいだった。でももちろんそんなものは出てこなかった。
「さあ、いかがでしょう」と彼女は言って、ひとさし指で眼鏡のブリッジを軽くさわった。「なにぶん開業前のことですので、私どもはちょっとそういうことは…」
彼女はそこで言葉を切った。僕はその続きを待ったが、続きはなかった。
「申し訳ございません」と彼女は言った。
「ふむ」と僕は言った。僕は時間が経つにつれてますます彼女に対して好感を持ち始めていた。僕もひとさし指で眼鏡をさわりたかったけれど、残念ながら僕は眼鏡をかけていなかった。「じゃあ、誰に聞けばわかるだろう、その辺の経緯が?」
彼女はしばらく息をとめて考えこんでいた。笑顔はもう消えていた。笑いながら息をとめるのはすごくむずかしいのだ。やってみればわかる。「申し訳ございません。少々お待ち下さい」と彼女は言って、奥に引っ込んだ。三十秒ほどあとで彼女は四十前後の黒服の男を伴って戻ってきた。見るからにホテル・ビジネスのプロという雰囲気の男だった。こういう人物には前にも何度か仕事で会ったことがある。彼らは奇妙な人々である。彼らは大体いつも笑みを浮かべているのだが、状況に応じて笑顔を二十五種類くらい使いわけられるのだ。丁寧な冷笑から、適度に抑制された満足の笑みまで。その笑顔のグラデーションには全部番号が振ってある。ナンバー1からナンバー25まで。そういうのを、彼らは状況に応じてゴルフ・クラブを選ぶみたいに使いわける。そういうタイプの男だった。「いらっしゃいませ」と言って彼は中間的な笑顔を僕に向けて丁寧に頭を下げた。僕の服装は彼にあまり良い印象を与えなかったようで、笑顔が三段階ほど下降した。僕は裏に毛皮のついた温かいハンティング用のハーフコート(胸にキース・へリングのバッジをつけている)に毛糸の帽子(オーストリア陸軍のアルプス部隊がかぶっているやつ)をかぶり、ポケットがいっぱいついたタフなズボンをはき、雪道を歩くための頑丈なワーク・ブーツを履いていた。どれもきちんとした立派な、そして現実的な品物だったが、そのホテルのロビーにはいささかへビーデューティーに過ぎた。でもそれは僕のせいではない。そういうのは生き方の違いであり、考え方の違いなのだ。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:33:21 | 显示全部楼层
「なにか手前どものホテルに関して御質問がおありということですが」と彼はとても丁寧な口調で言った。
僕はカウンターに両手を置いて、さっき女の子にしたのと同じ質問をした。
男は捻挫した猫の前足を眺める獣医のような目付きで、僕のはめているディズニー・ウォッチをちらりと見た。「失礼でございますが」と彼はちょっと間をおいて言った。「どのようなわけで以前のホテルのことをお知りになりたいのでしょうか?もしよろしければ、その理由をうかがわせて頂きたいのですが」
僕は簡単に説明した。何年か前に以前のドルフィン・ホテルに泊まって、そこの主人と親しくなった。今回久し振りに訪ねてみたら、このとおりがらりと変わってしまっていた。それで彼がどうなったのか知りたい。いずれにせよまったく個人的なことなのだ、と僕は言った。
彼は何度か肯いた。
「実を申しまして、わたくしも細かい事情まではよく存じません」と男は注意深く言葉を選びながら言った。「ただ簡単に御説明申し上げますと、以前のそのドルフィン・ホテルがございました土地を手前どもが買い上げまして、その跡に新しくホテルを建てたということです。たしかに名前は同じですが、経営的にはまったく別のホテルでございまして、具体的な関係のようなものは一切ございません」
「どうして名前が一緒なんだろう?」と僕は聞いてみた。
「申し訳ございませんが、その辺の事情まではちょっと……」と彼は言った。
「以前の主人がどこに行ったかもわからないでしょうね?」
「申し訳ございません」と彼は笑顔をナンバー16に切り換えて答えた。
「誰に聞けばわかるでしょうね、そういういろんなことが?」
「そうでございますねえ」と彼は言って、少し首をひねった。「わたくしどもは現場の人間でございまして、開業以前の事情というのは全くノー・タッチなんでございます。ですから誰に聞けばと言われましても、急にはちょっと、なんとも」
彼の言うことにも確かに一理あったが、何かが頭にひっかかった。その男の受けこたえにも、女の子の受け答えにも、何かしら人工的な匂いが漂っているのだ。どこがいけないというのでもない。でもすんなりと飲み込めない。インタビューをしていると自然にこういう職業的な勘がついてくる。何かを隠しているときの口調、嘘をついているときの表情。根拠はなにもない。ただふと感じるのだ。ここには何か言外に隠されたものがある、と。
でもこれ以上ここで彼らを押しても何も出てこないだろうということだけははっきりしていた。僕は男に礼を言った。彼は軽く一礼して奥にひっこんだ。黒服の男がいなくなってしまってから、僕は女の子に食事とルーム・サービスのことを訊いた。彼女は丁寧に教えてくれた。彼女が喋っているあいだ、僕はじっとその目をのぞきこんでいた。とても綺麗な目だった。じっとのぞきこんでいると何かが見えそうだった。僕と視線が合うと、彼女は顔を赤らめた。僕はそれで彼女のことがもっと好きになった。どうしてだろう?彼女がホテルの精のように見えるからだろうか?とにかく僕は礼を言ってカウンターを離れ、エレベーターで部屋に上がった。
1523号室はなかなか立派な部屋だった。シングル・ルームにしてはベッドも風呂もひろびろとしていた。冷蔵庫にはいろんなものがたっぷりと入っていた。便箋も封筒もいっぱいあった。書きもの机も立派なものだった。バスルームにはシャンプーからリンスからアフター・シェーブからバスローブまで揃っていた。クローゼットも広かった。絨毯は新しくふかふかしていた。僕はコートとブーツを脱いでソファに座り、ホテルのパンフレットを読んでみた。パンフレットも立派なものだった。僕もこういうものを作ったことがあるからよくわかる。どこにも手を抜いていない。
このドルフィン・ホテルはまったく新しいタイブの高級都市ホテルなのだ、とパンフレットに書いてあった。すべての現代的な設備を備え、二十四時間切れ目のない万全のサービスを提供する。そして部屋はすべてゆったりと余裕をもって作られている。選びぬかれた調度品、静けさ、温かみのある居住性。「ヒューマンな空間」とパンフレットにはあった。要するに金がかかっていて、料金が高いのだ。
  パンフレットを詳しく読んでみると、ここはたしかにいろんなものが実によく揃ったホテルだった。地下には大きなショッピング・センターがあった。室内プールもあれば、サウナもあれば、日焼け室もあった。インドア・テニス場があり、運動器具を並べたコーチつきのへルス・クラブがあり、同時通訳ができる会議室があり、レストランが五つあり、バーが三つあった。終夜営業のカフェテリアもあった。リムジン・サービスまであった。あらゆる種類の文具・事務用品を完備したスタディー・スペースがあって、誰でもそこを利用することができた。考えつけるものはみんなあった。屋上にはへリ・ポートまであった。
ないものがなかった。
最新の設備・ゴージャスな内装。
でもいったいどこの企業がこのホテルを所有し経営しているのだろう?僕はパンフレットやら何やらかやらを隅々まで読んでみた。でも経営母体についてはどこにも何も書いてなかった。どう考えても変な話だった。これだけのスーパーAクラスの豪華ホテルを建てて経営することはホテル・チェーンを持っているプロの企業にしか不可能だし、そういう企業なら必ず社名を入れて、自社の他のホテルの宣伝もするはずだからだ。たとえばブリンス・ホテルに泊まれば、そのパンフレットには全国のプリンス・ホテルの住所と電話番号が印刷してある。そういうものなのだ。
それにこんな立派なホテルが何故「ドルフィン・ポテル」なんていう昔あったちっぽけなホテルの名前をわざわざ引き継いだりするのだ?
どれだけ考えても答えのかけらも浮かんでこなかった。
僕はパンフレットをテーブルの上に放り投げ、ソファにゆったりともたれて足を投げ出し、十五階の窓の外に広がる空を眺めた。窓の外には真っ青な空しか見えなかった。じっと空を眺めていると自分がとんびになったような気がした。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:44:09 | 显示全部楼层
何はともあれ、僕は昔のいるかホテルが懐かしかった。あそこの窓からはいろんなものが見えた。
夕方まで僕はホテルの中を見物して時間を潰した。レストランやバーをチェックし、プールやらサウナやらへルス・クラブやらテニス場やらを覗き、ショッピング・センターに行って本を買ったりした。ロビーをうろつき、ゲーム・センターでパックマンを何ゲームかやった。そんなことをしているだけでたちまち夕方になってしまった。まるで遊園地じゃないか、と僕は思った。世の中にはこういう時間の潰し方もあるのだ。
それから僕はホテルを出て、夕方の街をぶらぶらと歩いてみた。歩いているうちにだんだんそのあたりの地理についての記憶がよみがえってきた。昔のいるかホテルに泊まっていたとき、僕は毎日毎日うんざりするくらい、街を歩きまわったのだ。どこを曲がれば何があるかも、大体は覚えていた。いるかホテルには食堂がなかったのでーーもしあったとしてもそこで何かを食べる気なんておそらく起きなかっただろうけれどーー僕と彼女は(キキだ)いつも二人で近所の食堂に入って食事をした。僕は昔住んでいた家の近くをたまたま通りかかったみたいな気分で、一時間ばかりあてもなく見覚えのある街路から街路へと歩いた。日が暮れて冷気が肌にはっきりと感じられるようになった。路面にこびりつくように残っていた雪が足元でぱりぱりと音を立てるようになった。でも風はまったくなかったし、街を歩くのは楽しかった。空気はきりっとして澄みわたり、街角のいたるところに蟻塚のようにつみあげられ、排気ガスで灰色に染まった雪も、夜の街の光の下では清潔で、幻想的にさえ見えた。
昔に比べると、いるかホテルのある地域ははっきりとした変化を見せていた。もちろん昔といってもたかだか四年ちょっと前のことだから、僕らが昔見かけたり入ったりした店の大方はそのままの形で残っていた。街の雰囲気も基本的には昔どおりのものだった。しかしそれでもこの近辺で何かが進行しつつあるということは一目で見てとれた。何軒かの店は戸を閉ざし、そこに建築予定の札がかかっていた。実際に建築中の大きなビルもあった。ドライブ・スルーのハンバーガー・ショップやら、デザイナーズ・ブランドのブティックやら、欧州車のショールームやら、中庭に沙羅の樹を植えた斬新なデザインの喫茶店やら、ガラスをふんだんにつかったスマートなオフィス・ビルやら、そういう以前にはなかった新しいタイプの店や建物が、昔ながらの古ぼけた色あいの三階建てのビルや暖廉のかかった大衆食堂やいつもストーブの前で猫が昼寝をしている菓子屋などを押しのけるような格好で次々に現れていた。まるで子供の歯がはえかわる時のように、町並みには一時的な奇妙な共存が見受けられた。銀行も新しく店舗を開いていた。それはあるいは新しいドルフィン・ホテルの波及効果かもしれなかった。あれほどの大きなホテルが何もないごく普通のーーいささか取り残されたような趣さえあるーー街の一角に突然降って湧いたように出現したのだから、当然ながら街のバランスは大きく変化することになる。人の流れが変わり、活気が出てくる。地価も上がる。
あるいはその変化はもっと総合的なものかもしれない。つまりドルフィン・ホテルの出現が街に変化をもたらしたのではなく、ドルフィン・ホテルの出現もその街の変化の一過程であるのかもしれない。たとえば長期的に計画された都市の再開発というような。
僕は昔一度入ったことのある飲み屋に入って酒を少し飲み、簡単な食事をした。汚くて、うるさくて、安くて、美味い店だった。僕はひとりで外で食事をするときはいつもなるべくうるさそうな店を選ぶことにしていた。その方が落ち着くのだ。淋しくないし、独り言を言っても誰にも聞こえない。食事を終えてもまだ何となく物足りなかったので、僕はもう少し酒を注文した。そして熱い日本酒を胃の中にゆっくり流し込みながら、僕はいったいこんなところで何をやっているんだろうと思った。いるかホテルはもう存在しないのだ。僕がそこに何を求めていたにせよ、とにかくいるかホテルはさっぱりと消えてなくなってしまったのだ。もう存在していないのだ。そのあとには『スター・ウォーズ』の秘密基地みたいなあの馬鹿気たハイテク・ホテルが建っている。すべてはただの時期遅れの夢だったのだ。僕は取り壊されて消滅してしまったいるかホテルの夢を見て、出口から出ていって消えてしまったキキの夢を見ていたにすぎないのだ。たしかにそこでは誰かが僕のために泣いていたかもしれない。でももうそれも終わってしまったのだ。もうこの場所には何も残ってはいない。これ以上ここでお前は何を求めようというのだ?
そうだな、と僕は思った。あるいは口に出してそう独り言を言ったかもしれない。そうだ。ここにはもう何も残ってはいない。ここには僕が求めるべき何物もない。
僕は唇を固く結んでしばらくじっとカウンターの上の醤油さしを眺めていた。
長く一人で生活していると、いろんなものをじっと眺めるようになる。ときどき独り言を言うようになる。賑やかな店で食事をするようになる。中古のスバルに親密な愛情を抱くようになる。そして少しずつ時代遅れになっていく。
僕は店を出て、ホテルに戻った。けっこう遠くまで来ていたが、ホテルに戻る道をみつけるのは簡単だった。首を上にあげれば街のどこからでもドルフィン・ホテルが見えたからだ。東方の三博士が夜空の星を目標に簡単にエルサレムだかベッレヘムだかにたどりついたみたいに、僕も簡単にドルフィン・ホテルに帰りついた。部屋に戻って風呂に入り、髪を乾かしながら窓の外に広がる札幌の街を眺めた。昔のいるかホテルに泊まったときは、そういえば窓の外に小さな会社が見えたなと僕は思った。何の会社かは全然わからなかったけれど、でもとにかく会社だった。人々が忙しそうに働いていた。僕は部屋の窓から一日そういう風景を眺めていたものだった。あの会社はどうなったんだろう?綺麗な女の子が一人いた。あの子はどうなったんだろう?でも、あれはそもそも何をしている会社だったんだろうな?
やることがないので、僕はしばらく部屋の中をあてもなくうろうろと歩きまわった。それから椅子に座ってTVを見た。ひどい番組しかやっていなかった。いろんな種類のつくりものの反吐を見せられているみたいな気がした。つくりものだから別に汚くはないのだが、じっと見ていると本物の反吐に見えてくるのだ。僕はTVを消して服を着て、二十六階にあるバーに行った。そしてカウンターに座ってソーダで割ってレモンをしぼったウォッカを飲んだ。バーの壁は全部ガラス窓になっていて、そこから札幌の夜景が見えた。ここにある何もかもが僕に『スター・ウォーズ』の宇宙都市を思い起こさせた。でもそれを別にすれば感じの良い静かなバーだった。酒の作り方もきちんとしていた。グラスも上等なものだった。グラスとグラスが触れあうとても良い音がした。客は僕の他には三人しかいなかった。ふたりづれの中年の男が奥まったテーブル席でウィスキーを飲みながらひそひそと声をひそめて話をしていた。何だかはわからなかったけれど、見たところすごく大事な話みたいだった。あるいはダースヴェーダーの暗殺計画を練っているのかもしれない。
僕のすぐ右手のテーブル席には十二か十三くらいの女の子がウォークマンのベッドフォンを耳にあてて、ストローで飲み物を飲んでいた。綺麗な子だった。長い髪が不自然なくらいまっすぐで、それがさらりと柔らかくテーブルの上に落ちかかり、まつげが長く、瞳はどことなく痛々しそうな透明さをたたえていた。彼女は指でテーブルをこつこつと叩いてリズムをとっていたが、その華奢な細い指先だけが他のものから受ける印象に比べて妙に子供っぽかった。別に彼女が大人びていたというのではない。でもその女の子の中にはなにかしら全てを上から見おろしているというような趣があった。悪意があるわけでもないし、攻撃的なわけでもない。ただ、何というか中立的に、見おろしているのだ。窓から夜景を見おろすみたいに。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:44:30 | 显示全部楼层
でも実際には彼女は何も見ていなかった。まわりのことは全然目にも入らないようだった。彼女はブルージーンズに白いコンヴァースのスニーカーを履き、「GENESIS」というレタリングの入ったトレーナーシャツを着ていた。トレーナーは肘のあたりまでひっぱりあげられていた。彼女はこつこつとテーブルを叩きながら、ウォークマンのテーブに意識を集中させていた。時々、小さな唇がかすかな言葉の断片を形作った。
「レモンジュースです、あれは」と言い訳するように、バーテンダーが僕の前に来て言った。「あの子はあそこでお母さんが戻ってくるのを待ってるんです」
「うん」と僕は曖昧に返事をした。確かに考えてみれば、十二か十三の女の子が夜の十時にホテルのバーで一人ウォークマンを聴きながら飲み物を飲んでいるなんて、不思議な光景だった。でもバーテンダーにそう言われるまで、僕にはとくにそれが不自然だというふうには感じられなかった。僕はごく当たり前のものを見るように彼女を見ていたのだ。僕はウォッカをおかわりし、バーテンダーと世間話をした。天気とか、景気とか、そういうとりとめのない話だ。それから僕は何気なくこの辺もかわったね、と言ってみた。バーテンダーは困ったように微笑んで、実は自分はこのホテルの前は東京のホテルで働いていたので、札幌のことは殆ど何も知らないのだ、と言った。そこで新しく客が入ってきたので、その会話も結局実りのないままに終わってしまった。
僕はウォッカ・ソーダを全部で四杯飲んだ。幾らでも飲めそうな気がしたが、きりがないので四杯でやめて、勘定書きにサインした。僕が立ち上がってカウンターを離れた時にも、その女の子はまだテーブル席でウォークマンを聴き続けていた。母親はまだ現れていなかったし、レモンジュースの氷はすっかり溶けてしまっていたけれど、彼女はそんなことは全然気にならないみたいだった。僕が立ち上がると、彼女はふと目を上げて僕を見た。そして二秒か三秒僕の顔を見てから、ほんの少しだけにっこりと微笑んだ。あるいはそれはただの唇の微かな震えだったかもしれない。でも僕には彼女が僕に向かって微笑みかけたように見えたのだ。それでーーとても変な話なのだけれどーー胸が一瞬震えた。僕は何となく自分が彼女に選ばれたような気がしたのだ。それはこれまで一度も経験したことのない奇妙な胸の震えだった。僕は自分の体が五センチか六センチ宙に浮かんでいるような気がした。
僕は混乱したままエレベーターに乗って十五階まで下り、部屋にもどった。どうしてそんなにどぎまぎするんだ?と僕は思った。十二かそこらの女の子に微笑みかけられたくらいで。娘と言ってもおかしくない歳なんだぜ、と僕は思った。
ジェネシスーーまた下らない名前のバンドだ。
でも彼女がそのネーム入りのシャッを着ていると、それはひどく象徴的な言葉であるように思えてきた。起源。
でも、と僕は思った、どうしてたかがロックバンドにそんな大層な名前をつけなくてはならないのだ?
僕は靴を履いたままベッドに横になって、目を閉じて彼女のことを思い出してみた。ウォークマン。テーブルをこつこつと叩く白い指。ジェネシス。溶けた氷。
起源。目を閉じてじっとしていると、体の中をアルコールがゆっくりと回っていくのが感じられた。僕はワーク・ブーツの紐をほどき、服を脱いで、ベッドにもぐりこんだ。僕は自分で感じていたよりもずっと疲れて、ずっと酔っぱらっているようだった。僕は隣にいる女の子が「ねえ、ちょっと飲みすぎよ」と言ってくれるのを待った。でも誰も言ってくれなかった。僕は一人なのだ。
起源
僕は手をのばして電灯のスイッチを切った。いるかホテルの夢を見るだろうか、と僕は暗闇の中でふと思った。でも結局夢なんて何も見なかった。朝、目覚めた時、僕は自分がどうしようもなく空っぽに感じられた。ゼロだ、と僕は思った。夢もなく、ホテルもない。見当違いな場所で、見当違いなことをしている。
ベッドの足元にはワーク・ブーツが行き倒れた二匹の子犬のような格好でごろんと横たわっていた。窓の外には暗い色の雲が低くたれこめていた。今にも雪が降りだしそうなさむざむしい空だった。そんな空を見ていると、何をする気も起きなかった。時計の針は七時五分を指していた。僕はリモコンでTVをつけ、しばらくベッドに入ったまま朝のニュースを見ていた。アナウンサーが来るべき選挙について話していた。それを十五分ほど見てから、あきらめてベッドを出て、浴室に行って顔を洗い髭を剃った。元気を出すために『フィガロの結婚』序曲をハミングまでした。でもそのうちに、それが『魔笛』序曲であるような気がしてきた。考えれば考えるほど、その違いがわからなくなってきた。どっちがどっちだったんだろう?何をやっても上手くいきそうにない日だった。髭を剃っていて顎を切り、シャツを着ようとすると袖のボタンが取れた。
朝食の席で、僕は昨日バーで見かけた少女にまた会った。彼女は母親らしい女性と一緒だった。彼女は今朝はウォークマンを持ってはいなかった。そして昨夜と同じ「ジェネシス」のトレーナーシャツを着て、退屈そうに紅茶を飲んでいた。彼女はパンにもスクランブルド・エッグにも殆ど手をつけていなかった。彼女の母親ーーだろう、多分ーーは四十代前半の小柄な女性だった。髪を後ろでぎゅっとまとめ、白いブラウスの上にキャメルのカシミア・セーターを着ていた。眉毛の形が娘とそっくりだった。鼻のかたちがすらりとして品がよく、大儀そうにトーストにバターを塗る仕種には何かしら人の心を引き付けるものがあった。他人から注目されることに慣れている女性だけが身につけることのできる種類の身のこなしだった。
僕がそのテーブルの隣を通りかかったとき、少女はふと目を上げて僕の顔を見た。そしてにっこりと微笑みかけた。今度の微笑みは昨夜のよりはずっときちんとした微笑みだった。見間違えようのない微笑みだった。
僕は一人で朝食を食べながら、何かを考えようとしたが、その少女に微笑みかけられたあとでは何も考えられなかった。何を考えてみても、頭の中で同じ言葉が同じところをぐるぐると回っているだけだった。だから僕はぼんやりと胡椒入れを眺めながら、何も考えずに朝食を食べた。
 
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:45:02 | 显示全部楼层
何もやることがなかった。やるべきこともなければ、やりたいこともなかった。僕はいるかホテルに泊まるべくわざわざここまでやって来たのだ。その根本命題のいるかホテルがなくなってしまったわけだから、どうしようもなかった。お手あげだ。
とにかくロビーに下りて、そこの立派なソファに座って今日一日の計画を立ててみることにした。でも計画なんて立たなかった。街を見物したいわけでもないし、何処か行きたいところがあるわけでもなかった。映画を見て暇を潰すことも考えたが、見たい映画もなかったし、だいたい札幌まで来て映画館で時間潰しをするというのも馬鹿馬鹿しい話だった。じゃあ何をすればいい?
何もすることがなかった。
そうだ、床屋に行こうと僕はふと思った。考えてみれば東京にいるあいだは仕事が忙しくて床屋に行く暇さえなかったのだ。もう一カ月半近く散髪をしていない。まともな考えだった。現実的で健全な考え方だ。暇になったから、床屋に行く。筋が通っている。何処に出しても恥ずかしくない発想だ。
僕はホテルの理髪室に行ってみた。清潔で感じの良い床屋だった。混んでいて待たされるといいのにと期待していたのだが、平日の朝だったからもちろんすいていた。ブルーグレーの壁には抽象画がかかり、BGMに小さくジャック・ルーシェのプレイ・バッハがかかっていた。そんな床屋に入ったのは生まれて初めてだった。そんなのはもう床屋とも呼べない。そのうちに風呂屋でグレゴリオ聖歌が聞けるかもしれない。税務署の待合室で坂本龍一が聞けるかもしれない。僕の髪を切ってくれたのは二十歳過ぎくらいの若い理髪師だった。彼も札幌のことはよく知らなかった。このホテルが出来る前に同じ名前の小さなホテルがここにあったんだと言っても、はあと言っただけで特に感心もしなかった。そんなことはどうでもいいみたいだった。クールだった。おまけにメンズ・ビギのシャツを着ていた。でも腕の方は悪くなかったので、僕は一応満足してそこを出た。
床屋を出ると、僕はまたロビーに戻ってさてこれから何をしようかと考えた。四十五分が潰れただけだった。
何も思いつかなかった。
仕方なくロビーのソファに座ってしばらくぼんやりとあたりを眺めていた。フロントには昨日の眼鏡をかけた女の子の姿が見えた。僕と目が合うと、彼女はちょっと緊張したみたいに見えた。何故だろう?僕の存在が彼女の中の何かを刺激するのだろうか?わからない。そのうちに時計が十一時を指した。昼食について考えてもおかしくない時刻だった。僕はホテルを出てどこで何を食べようかと考えながら街を歩きまわった。でもどの店を見ても心が動かなかった。だいたい食欲というものが湧いてこないのだ。仕方無く適当に目についた店に入ってスパゲッティとサラダを注文した。そしてビールを飲んだ。今にも雪が降りそうだったが、まだ降り始めてはいなかった。雲はびくりとも動かず、『ガリバー旅行記』に出てくる空に浮かぶ国みたいに、都市の頭上を重く覆っていた。地上にある何もかもが灰色に染まって見えた。フォークもサラダもビールもみんな灰色に見えた。こういう日にはまともな事なんて何も思いつけない。
結局タクシーを拾って中心地に行き、デパートで買い物をして暇を潰すことにした。靴下と下着を買い、予備の電池を買い、旅行用の歯ブラシと爪きりを買った。夜食用のサンドイッチを買い、ブランディーの小瓶を買った。どれも特に必要というものでもなかった。ただの暇潰しのための買い物だった。それでとにかく二時間が潰れた。
それから僕は大通りを散歩し、特に目的もなく店のウィンドウを覗き、それにも飽きると喫茶店に入ってコーヒーを飲みジャック・ロンドンの伝記の続きを読んだ。そうこうしているうちにやっと夕暮れがやってきた。長い退屈な映画を見ているような一日だった。時間を無駄に潰すというのもなかなか骨の折れるものなのだ。
ホテルに戻ってフロントの前を通りすぎようとしたとき、誰かが僕の名を呼んだ。例の眼鏡をかけた受付の女の子だった。彼女がそこから僕を呼んでいた。僕がそちらに行くと、彼女はちょっと離れたカウンターの隅の方に僕をつれていった。そこはレンタカーの受付デスクになっていたが、看板のわきにパンフレットが積んであるだけで、係員は誰もいなかった。
彼女はしばらくボールペンを手の中でくるくると回しながら、何か言いたそうだがどう言えばいいのかわからないといった顔つきで僕を見ていた。彼女は明らかに混乱して迷って恥ずかしがっていた。
「申しわけないんですが、レンタカーの相談してるみたいなふりをしてて下さい」と彼女は言った。そして横目でちらりとフロントの方を見た。「お客様と個人的に話しちゃいけないって規則で決められているんです」
「いいよ」と僕は言った。「僕がレンタカーの値段を君に訊いて、君がそれに答えてる。個人的な話じゃない」
彼女は少し赤くなった。「ごめんなさい。ここのホテル、すごく規則がうるさいんです」
僕はにっこりした。「でも眼鏡がすごくよく似合ってる」
「失礼?」
「その眼鏡が君によく似合っている。とても可愛い」と僕は言った。
彼女は指で眼鏡の縁をちょっと触った。それから咳払いした。たぶん緊張しやすいタイプなのだろう。「実はちょっとうかがいたいことがあったんです」と彼女は気をとりなおして言った。「個人的なことなんです」
僕はできることなら彼女の頭を撫でて気持ちを落ち着けてやりたかったけれどそうもいかないので、黙って相手の顔を見ていた。
 「昨日話してらっしゃった、以前ここにあったホテルのことなんですけど」と彼女は小さな声で言った。「同じ名前の、ドルフィン・ホテルっていう……。それはどんなホテルだったんですか?まともなホテルだったんですか?」
僕はレンタカーのパンフレットを一枚手にとって、それを眺めているふりをした。「まともなホテルというのはどういうことを意味するんだろう、具体的に?」
彼女は白いブラウスの両方の襟を指でつまんでひっぱって、それからまた咳払いした。
「その……上手く言えないんですけど、変な因縁のあるホテルとかそういうんじゃないんですか?私、どうも気になって仕方ないんです、そのホテルのことが」
僕は彼女の目を見た。前にも思ったように、それは素直で綺麗な目だった。僕がじっと目を見ていると彼女はまた赤くなった。
「君が気になるというのがどういうことなのか僕にはよくわからないけれど、いずれにせよ話し始めるとかなり長い話になると思うんだ。ここで話すのはちょっと無理なんじゃないかな。君も忙しそうだし」
彼女はフロント・デスクで働いている同僚たちの方にちらりと目をやった。そして下唇をきれいな歯で軽く噛んだ。彼女は少し迷ってたが、やがて決心したように肯いた。
「じゃあ私の仕事が終わったあとで、会ってお話しできませんか?」
「君の仕事は何時に終わるの?」
「八時には終わります。でもこの近くで会うのは無理です。規則がうるさいから。遠くだったらいいけど」
「どこか離れたところで、ゆっくり話ができるような場所があったら、そこに行くよ」
彼女は肯いて、少し考えてからデスクに備えつけられたメモ用紙にボールペンで店の名前と簡単な地図を書いた。「ここで待っていて下さい。八時半までに行きます」と彼女は言った。
僕はそのメモをコートのポケットに仕舞った。
今度は彼女が僕の目をじっと見た。「私のこと、変な風に思わないでくださいね。こういうことするの初めてなんです。規則を破ったりするのは。でも本当にそうしないわけにいかないんです。その理由は後で話しますけど」
「変な風に思ったりしないよ。だから心配しなくていい」と僕は言った。「僕は悪い人間じゃない。あまり人には好かれないけれど、人の嫌がることはしない」
彼女は手の中でボールペンをくるくるまわしながら、それについて少し考えていたが、僕の言った意味はよく理解できなかったようだった。彼女は口もとに曖昧な微笑を浮かベ、それからまたひとさし指を眼鏡のブリッジにやった。「じゃあ、あとで」と彼女は言った。そして僕に営業用の会釈をしてから持ち場に戻っていった。魅力的な女の子だ。そして
精神的に多少不安定なところがある。
部屋に戻ると冷蔵庫からビールを出して飲み、デパートの地下食料品売り場で買ってきたロースト・ビーフのサンドインチを半分食べた。さて、と僕は思った。これでとりあえずの行動が決定されたわけだ。ギャがローに入り、何処に行くのかはわからないにせよ、状況がゆっくりと動き始めた。悪くない。
僕は浴室に行って、顔を洗い、また髭を剃った。黙って、静かに、何の唄も唄わないで髭を剃った。アフター・シェーブをつけ、歯を磨いた。そして久し振りにじっと鏡の中の自分の顔を眺めた。大した発見はなかったし、別に勇気も湧いてこなかった。いつもの僕の顔だった。
僕は七時半に部屋を出てホテルの玄関でタクシーに乗り、彼女のメモ用紙を運転手に見せた。運転手は黙って肯いて僕をその店の前まで運んでくれた。タクシーで千円ちょっとの距離だった。五階建てのビルの地下にあるこぢんまりとしたバーで、ドアを開けると程よい音量でジェリー・マリガンの古いレコードがかかっていた。マリガンがまだクルー・カットで、ボタンダウン・シャツを着てチェット・ベイカーとかボブ・ブルクマイャーが入っていた頃のバンド。昔よく聴いた。アダム・アントなんていうのが出てくる前の時代の話だ。
アダム・アント。
なんという下らない名前をつけるんだろう。僕はカウンターに座って、ジェリー・マリガンの品の良いソロを聴きながら、J&Bの水割りを時間をかけてゆっくりと飲んだ。八時四十五分をまわっても彼女は現れなかったが、僕は別に気にしなかった。たぶん仕事が長引いているのだろう。店の居心地は悪くなかったし、一人で時間を潰すのには馴れていた。僕は音楽を聴きながら水割りをすすり、飲み終えると二杯めを注文した。そして特に見るべき物もないので、前に置かれた灰皿を眺めていた。
彼女がやってきたのは九時五分前だった。「ごめんなさい」と彼女は早口で謝った。「仕事がのびちゃったんです。急にたてこんだうえにかわりの人の来るのが遅れたもので」
「僕のことならかまわないよ。気にしなくていい」と僕は言った。「どうせどこかで時間を潰さなくちゃならなかったんだ」
奥の席に移りましょうと彼女は言った。僕は水割りのグラスを持って移動した。彼女は革の手袋を脱ぎ、チェックのマフラーを取り、グレーのオーバーコートを脱いだ。そして黄色の薄いセーターとダーク・グリーンのウールのスカートという格好になった。セーター姿になると、彼女の胸は思ったよりずっと大きいことがわかった。そして耳には上品な金のイヤリングをつけていた。彼女はブラディー・マリーを注文した。
飲み物が来ると、彼女はそれをとりあえず一口すすった。食事は済んだかと僕は訊いてみた。まだだけれど、それほどおなかは空いていない、四時に軽く食べたから、と彼女は答えた。僕はウィスキーを一口飲み、彼女はブラディー・マリーをもう一口飲んだ。彼女は急いでやってきたらしく、それから三十秒ほどじっと黙って息を整えていた。僕はナッツをひとつ手に取ってそれを検分して齧り、またひとつ手に取って検分しては齧りというのを繰り返しながら、彼女が落ち着きを取り戻すのを待っていた。
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 楼主| 发表于 2008-2-25 23:45:24 | 显示全部楼层
彼女は最後にひとつゆっくりと溜め息をついた。すごく長い溜め息だった。自分でも長すぎると思ったのか、あとで顔を上げて神経質そうな目で僕を見た。
「仕事が大変なの?」と僕は訊いてみた。
「ええ」と彼女は言った。「けっこう大変なんです。まだよく仕事に馴れてないし、ホテル自体開業して間もないから、上のほうもいろいろピリピリしてるし」
彼女はテーブルの上に両手を出して、指を組んだ。小指に一本だけ小さな指輪がはまっていた。飾り気のない、ごくあたり前の銀の指輪だった。僕と彼女は二人でしばらくその指輪を見ていた。「その古いドルフィン・ホテルのことなんですけど」と彼女は言った。「でも、あなた、取材とかそういう関係の人じゃないですよね?」
「取材?」と僕はびっくりして聞き返した。「どうしてまた?」
「ちょっと訊いただけ」と彼女は言った。
僕は黙っていた。彼女は唇を噛んだままひとしきり壁の一点を眺めていた。
「少しごたごたがあったらしくて、それで上の方がすごく警戒してるんです。マスコミのことを。土地の買収とか、そういうことで……。わかるでしょ?そういうの書きたてられるとホテルとしては困るわけ。客商売だから。イメージが悪くなるでしょう?」
「これまでに何か書かれたことはあるの?」
「一度、週刊誌にね。汚職まがいのこととか、立ち退き拒否してた人を会社がヤクザか右翼を使って追い出したとか、そういうようなこと」
「それで、そのごたごたに昔のドルフィン・ホテルが絡んでいるわけ?」
彼女は小さく肩をすくめて、ブラディー・マリーをすすった。「多分そうじゃないかしら。だからマネージャーもそのホテルの名前が出てきて、警戒したんだと思うの、あなたのことを。ね、警戒してたでしょう?でも本当に私それについては詳しいことは知らないんです。ただこのホテルにドルフィン・ホテルっていう名前がついたのは、その前のホテルとの絡みがあったからだって話は聞いたことがあります。誰かから」
「誰から?」
「黒ちゃんの一人から」
「黒ちゃん?」
「黒服を着た連中のこと」
「なるほど」と僕は言った。「それ以外に何かドルフィン・ホテルについて耳にしたことはある?」
彼女は何度か首を振った。そして左手の指で右手の小指のリングをいじった。「怖いんです、私」と彼女は囁くように言った。「怖くてたまらないの。どうしようもないくらい」
「怖い?雑誌に取材されることが?」
彼女は小さく首を振った。そしてしばらくグラスの縁に唇をそっとつけていた。どう説明すればいいものか、思い悩んでいるみたいだった。
「違うんです。そうじゃないの。別に雑誌のことなんてどうでもいいんです。だって、雑誌に何が出たって私は関係ないもの。そうでしょう?上の方の人が慌てるだけだわ。私が言ってるのは全然別のことなの。あのホテル全体のこと。あのホテルには、つまりね、何かちょっとおかしいところがあるんです。ちょっとまともじゃないっていうのかな…歪んでいるところがあるの」
彼女は黙った。僕はウィスキーを飲み干し、おかわりを注文した。そして彼女のためにも二杯めのブラディー・マリーを取った。
「どんな風に歪んでいると感じるわけ、具体的に言って?」と僕は訊いてみた。「もし何か具体的にあればということだけれど」
「もちろんあります」と彼女は心外そうに言った。「あるけれど、それを上手く言葉にするのがむずかしいんです。だからそれについては今まで誰にも話したことがないの。感じたことはすごく具体的なんだけど、いざそれを言葉にしてみるとそういう具体性みたいなのがどんどん薄れていっちゃうんじゃないかという気がするんです。だから上手く話せないの」
「リアルな夢みたいに?」
「夢とはまた違うの。夢というのは、私もよく見るけれど、時間が経つと後退していくの。そのリアルさが。でもあれはそうじゃない。いつまで経っても同じなんです。いつまでもいつまでもいつまでも、リアルなの。いつまで経っても、そこにそのままあるの。さっと目の前に浮かぶんです」
僕は黙っていた。
「いいわ、何とか話してみます」と彼女は言って、酒を一口飲んだ。そして紙ナプキンで口を拭った。「一月だったわ。一月の始め。お正月が終わってちょっと経った頃。その日私は遅番でーー遅番ってあまりやらないんだけど、その日は人がいなくて仕方なかったわけーーそれでとにかく、仕事が終わったのが夜中の十二時ごろだったの。その時間に仕事が終わると、会社がタクシーを呼んで、みんなを順番に家に送り届けてくれるの。もう電車もないから。それで、十二時前に仕事が終わって、私服に着替えて、十六階まで従業員用のエレベーターで上がったんです。十六階には従業員の仮眠室があって、私そこに本を忘れてきたからなの。別にそんなの明日でもよかったんだけど、まあ読みかけだったし、それにもう一人いっしょのタクシーで帰ることになっていた女の子の仕事がちょっと手間取ってたんで、だからまあいいやついでだからと思って取りに上がったの。十六階には客室とは別にそういう従業員用の設備があるんです。仮眠室とか、ちょっとやすんでお茶を飲むところとか。だからちょくちょく行くことあるんですo
それでね、エレベーターのドアが開いて、私ごく普通に外に出たわけ。何も考えないで。ほら、そういうことってあるでしょう?いつもいつもやり馴れていることとか、行き馴れている場所とかって、特に何も考えないで行動するでしょう、反射的に?私もさっとごく自然に足を踏み出したの。考え事してたんだと思う、何かきっと。何だったかは覚えてないけど。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、廊下に立ってふと気づくと、あたりが真っ暗なの。まったくの真っ暗。はっとして後ろを見ると、エレベーターのドアはもう閉まってるの。停電かな、と思ったわ、もちろん。でもそんなことありえない。まず第一にホテルはしっかりした自家発電装置を持ってるの。だからもし停電があったとしても、すぐにそっちに切り換えられるわけ。自動的に、ぱっと。本当にすぐに。私もそういう訓練に立ち会ってるから、よく知ってるの。だから原理的に、停電というのは存在しないの。それにね、もし万が一、自家発電装置も故障したとしても、廊下の非常灯は点いてるはずなのよ。だから、こんな真っ暗になるわけがないの。廊下は緑色の光で照らされているはずなの。そうでなくてはならないの。あらゆる状況を考慮しても。
ところが、その時、廊下は真っ暗だったの。見える光といえばエレベーターのボタンと階数表示だけ。赤いデジタルの数字。私はもちろんボタンを押したわよ。でもエレベーターはどんどん下に行っちゃって、戻ってこないの。やれやれと思って、私はまわりを見回してみたの。もちろん怖かったけれど、でもそれと同時に面倒だなあとも思ったの。どうしてかわかる?」
僕は首を振った。
「つまりね、こんな風に真っ暗になっちゃうというのは、何かホテルの機能に問題があったということでしょう?機械的にとか、構造的にとか、そういうこと。するとまたえらい騒ぎになるのよ。休日返上で仕事させられたり、訓練訓練で明け暮れたり、上がぴりぴりしたり。そういうの、もううんざり。やっと落ち着いたばかりなのにね」
なるほど、と僕は言った。
「それで、そういうことを考えていると、だんだん腹が立ってきたわけ。怖いよりも腹立たしさの方が強かったわけ。それで私、どうなっているかちょっと見てやろう、と思ったの。で、二、三歩歩いてみたの。ゆっくりと。するとね、何か変なの。つまり、足音がいつもと違うのよ。私はその時ローヒールの靴を履いていたんだけれドイツもとは歩き心地も違うの。いつものカーぺットの感触じゃないのよ。もっとゴツゴツしてるの。そういうのって、私敏感だから、間違えたりしないわ。本当よ。それからね、空気がいつもと違うの。何と言えばいいのかな、黴っぽいのね。ホテルの空気とは全然違う。うちのホテルはね、完全に空気を空調でコントロールしているの。すごく気をつかってるの。普通の空調じゃなくて、良い空気を作って送ってるの。他のホテルみたいに乾燥しすぎて鼻が乾いたりしないように、自然な空気を送っているの。だから、黴臭いなんてことは、考えられないのよ。そこにあった空気はね、一口でいうと、古い空気。何十年も前の空気。子供のころ、田舎のおじいさんの家に遊びに行って、古いお蔵を開けて嗅いだような、そんな臭いなの。いろんな古いものが混じり合って、じっと澱んでいるようなね。
私はもう一度エレベーターを振り返ってみたの。でもこんどはもうエレベーターのスイッチランプも消えちゃっているの。何も見えないの。全部死んじゃったのよ、完全に。そりゃ怖かったわ。当たり前でしょう?真っ暗な中に私一人きりなんですもの。怖いわよ。でもね、変なの。あまりにもあたりが静かすぎるの。しーんと静まりかえっているの。物音ひとつしないの。変でしょう?だって停電して真っ暗になっちゃったのよ。みんな騒ぎだすはずでしょう?ホテルはほぼ満室だったし、そんなことになったらえらい騒ぎになってるはずですもの。なのに、気味が悪いくらい静かなわけ。それで私、何が何だか訳がわからなくなったの」
飲み物が運ばれてきた。僕と彼女は一口ずつそれをすすった。彼女はグラスを下に置いて、眼鏡に手を触れた。僕は黙って、彼女の話のつづきを待っていた。
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