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楼主: asuka0226

[好书推荐] 山田風太郎忍法帖3 伊賀忍法帖

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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:41:51 | 显示全部楼层
    死霊告知


     【一】

 こんなことは、はじめてだ。
 前にもいったように、淫石製造のため、愛液をしぼりつくされた女は、たいてい狂人か廃人になるという。そうなった女は、地底の石室に|檻《おり》をつくって、動物みたいに飼い殺しにしておくが、とにかく気がふれているので、病気にかかる率も多く、やがてぼろきれのように死んでしまう。あるいは、|雑兵《ぞうひょう》などで望むものがあれば、手柄代りにくれてやるが、|餌《え》|食《じき》となった女が結局どうなるのか、弾正は知らない。
 そんな目にあっても、べつにこの城を逃げようという判断力すら失った狂女が大半で、たとえ一人や二人、どこかへフラフラ消えてしまっても、意に介することもなかったのだが、こんどばかりは事情がちがった。「|漁火《いさりび》の顔」と「|篝火《かがりび》のからだ」を持つ女が、信貴山城から消えた。それは弾正にとってどうでもいいのだが、彼女とともに、平蜘蛛の釜が消えてしまったのだ。
「なに、平蜘蛛の釜が?」
 報告を受けて、松永弾正はおどりあがった。
 前に、七人の法師がひれ伏していた。――主人弾正をすらふだん不謹慎な眼で見ている彼らにしては珍しい恐縮ぶりだが、これは当然だ。
 きのう、彼らは酒をのみつつ、その女を犯した。果たせるかな、「篝火のからだ」を持つ女はかぎりなく愛液を吹きあげた。獣の饗宴は夜にまでおよび、さしも絶倫の精力をほこる法師らが、酒に酔ったせいばかりでなく、彼らの方が蝉のぬけがらみたいになって、そこにうちたおれ、その果てもしらず眠りこけてしまったほどであった。
 むろん、そのあいだ、例の平蜘蛛の釜をもち出して、採取した女の愛液を煮つめ淫石の製造をしていたのだ。
 ――ところが、朝になってみると、女はもとより平蜘蛛の釜も、いままでかかってやっと大豆くらいの大きさまで結晶した淫石も、忽然と消え失せてしまっていたというのであった。
 破軍坊がいう。
「まさか、死びとのごとく横たわっておった女が、かような真似をいたすとは――」
「な、なんたるうつけもの。――」
 弾正は、あと絶句した。うつけものなどという言葉では追いつかないほどの失態だ。
「きゃつ、まことに気がふれておったか? 正気ではなかったか?」
「それは、弓矢八幡、誓って」
 と、金剛坊が妙なところに弓矢八幡をかけた。
「乱心というより、魂のない女になり果てたことに相違はござりませぬ」
 ほかの法師らもいっせいにうなずいた。それはいままでのすべての経験からも、昨夜じぶんたちに犯されぬいたときの、とりとめもない女の様子からも断じてまちがいはない。その人間のぬけがらと化した女が、どうして釜と淫石をもち出したのか、まったく理解に苦しむが、狂女なればこそそんな無意味なことをしたにちがいないとも思う。
「されば、逃げ出したと申しても、城外さほど遠からざるところをウロウロしておるに相違ござらぬ。すぐさま追って、つかまえて参りますれば、ご|安《あん》|堵《ど》下されませい」
「割ったら、どうする」
「は?」
「平蜘蛛の釜を割ったらどうする。あれを失えば、もはや淫石は作れぬ。したがって、右京太夫さまを手に入れる法がなくなる」
「右京太夫さまなど、どうでもよいではありませぬかえ?」
 そばで、|漁火《いさりび》がいった。
 じぶんでは漁火と名乗っているけれど、顔は伊賀の女だ。しかし、あの伊賀の女のもっていた美貌と|気《き》|魄《はく》はそのままでありながら、別人のような淫蕩、邪悪の翳がそこにあった。
「わたしがここにおりまする」
「いや、なに」
 弾正は狼狽した。実際彼は、昨夜からのこの世のものとは思われぬ淫楽で、この女さえあれば、右京太夫さまはもう要らぬとさえ思いはじめていたのだ。
「しかし、平蜘蛛の釜は惜しい。あれは千宗易の持ち物のうちでも天下に二つとない名器。あれだけはぶじにとりもどしたい」
「かならず、ぶじにとりもどして参る」
 七人の法師はすっくと立った。
「どこへゆきゃる」
 漁火が声をかけた。あざ笑うように、
「あてどもなく探しまわるつもりか」
「いや」
「伊賀へゆきゃれ」
「伊賀へ?」
 根来僧らはけげんな顔をむけた。漁火はじいっと宙を見つめて、
「あの女は、夫を求めて伊賀の方へいった」
 法師らは、そういう漁火が、顔のみならず完全にあの伊賀者の妻ではないかと疑った。
 ――しかし、ちがう。「あの女は、夫を求めて」という以上、これはやはりあの伊賀の女ではない。
「あの女、正気でござろうか?」
 ――たったいま、その女が乱心していることは太鼓判を押すといったくせに、急に自信のない声を金剛坊がもらしたのは、逆にあまりにも自信にみちた漁火の顔に|気《け》|押《お》されたのだ。
「いいや、狂っている。たしかに、魂は死んでいる。――が、その一念だけは生きている」
「しかし、夫は死んでおります」
「で、あろうか?」
 水呪坊が、肩をゆすった。
「拙僧の忍法月水面で面をふさがれて、いまだ生き返ったものはござらぬ」
「で、あろうか?」
 漁火は、またくりかえした。
「もし、生きていたら?」
 ものにおどろかぬ七人の忍法僧が、全身に|悪《お》|寒《かん》のはしるような邪悪の花を漁火はひらいた。――ニンマリと笑ったのだ。
「殺してはならぬ。この城へつれて来や」
「どうなさる」
「わたしが、わたしの好きなように殺す」
 法師らは、しばし声もなかった。前にものべたように、忍法「壊れ甕」という大移植手術によって、肉体の上下を交換されたふたりの女は一方は廃人となるが、他方は正気を保持している。どちらが正気かというと、生命力の強い方だが、しかしそれがもとのままの女かというと、そうはゆかない。血が化合して、まったく新しい性質をもった女が生まれ出る。
 それは彼らもよく知っていることだが、しかしどんな性質をもった女が生まれ出るかというと、そこまでは彼らも計量することができない。みずから生む子の性質を、親もいかんともすべからざるのと同じことだ。
 そして、一見外貌も性質もまったくちがうように見えながら、篝火と漁火と、どこかに相通うものがあったのであろうか、あたかも近親結婚で悪血と悪血が重なり合うように、篝火の明敏、漁火の淫蕩、両者ここに合して――七人の忍法僧をすら唖然たらしめるような大魔女が出現したことは、眼前の事実であった。
「まさか、きゃつが生きておるとは思えぬが」
「しかし、生きておったとしても、殺そうと生け捕りにしようとそれは思いのまま」
「では、しばらくお待ちを」
 忍法僧らは一礼して、黒い奔流のように走り出ていった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:42:16 | 显示全部楼层
 ここで彼ら根来僧とはそもそもいかなるものかを説明しておく。
 |紀《き》|伊《いの》|国《国》|那賀郡《なかごおり》根来村――|葛城《かつらぎ》山脈の中腹にある新義真言宗の大本山であって、平安の末期にひらかれたものだが、このころ大いにさかえて、堂塔二千七百余坊をかぞえる|巨《きょ》|刹《さつ》となっていた。
 おびただしい僧兵を擁していたのは、ほかの|延暦寺《えんりゃくじ》とか興福寺とか東大寺とか、当時の大寺院も同様であるが、とくにこの根来寺の僧兵には、どういうわけか鉄砲をあやつる名手が多いという特技があって、のちに織田信長に攻められてもついに屈せず、豊太閤の手によってはじめて滅亡するに至った。
 このとき、離散した僧兵たちを召し抱えたのは徳川家康である。家康という人物は、信長と同盟し、秀吉に臣礼をとりながら、一方で信長、秀吉に討伐された一族を、そっとじぶんの手にかかえこんでしまうくせがあって、くせというより、これが家康のひとすじ縄でゆかないくせものたるゆえんだが、この根来僧も、伊賀者、甲賀者とまったく同様の使い方をした。
 表むきには江戸城諸門の警衛、裏では忍びのものとして。
 もとが僧兵なので、この「根来組」はことごとく|髷《まげ》をゆわず、総髪という異風のすがたであったが、根来流という忍法の一派をのちまでつたえている。
 思うに、根来僧に、鉄砲はともかく、最初に忍法という種をまいたのは、戦国の大幻術師果心居士であったのではなかろうか。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:42:49 | 显示全部楼层
    【二】

 真夜中であった。奈良|般《はん》|若《にゃ》|野《の》に雨がふっていた。
 野とはいうものの、奈良のすぐ北方に起伏する丘陵で、まひるならば青草がふきなびき、空には|雲雀《ひばり》の声がきこえるのどかな――いや、そうではない、まひるでもこの一帯には、たとえ青草がふきなびき、雲雀が鳴いていようと、名状しがたい凄惨の感がある。――それはこの般若野が刑場となっていて、げんにあちこちと朽ちた|卒《そ》|都《と》|婆《ば》が林立しているのが見えるせいであった。
 ましてや夜だ。雨がふっていた。古来、何千人という罪囚の血を吸ってきた大地は、こんな雨の夜にこそかえって甦るのであろうか、蛍光とも燐光ともつかない蒼白なひかりが息づくようにゆれている。
 この雨と光の中を、ふたりの人間があるいている。――北へ。
 まえをあるいているのは半裸の女であり、数間おいてあとをつけているのは、笛吹城太郎であった。彼はびっこをひいていた。
 笛吹城太郎は甦った。しかし、まだふつうではなかった。少しあるくと、肺に裂けるような痛みがはしり、そしてじぶんのまいたマキビシに傷つけた足裏やふとももの穴は、まだ完全にふさがってはいなかった。「珠は、魔界の龍王の爪につかまれおわんぬ」云々の紙片はまだ懐中にある。が、城太郎にはよくわからない。魔界の龍王とは何者か判然しないし、それからこの紙片を懐中に残していったものはなんぴとかもわからない。
 ただ彼は、あの伊賀街道のあたりを駆けまわった。
「篝火……篝火」
 空にむかって、彼は血を吐くようなさけびをあげた。
「篝火はどこにいる? いるなら、答えろ! 城太郎が助けにゆくぞ」
 西へむかって走り、篝火らしい女を見たおぼえはないか、と旅人にきく。東へむかって走り、七人の法師を見かけなんだか、と百姓にきく。
「篝火よう」
 しだいに城太郎は童子のように泣きじゃくり、ついには大地に伏して髪をかきむしった。が、すぐに鞭みたいにはねあがり、また獣のようにあたりを駆けまわるのであった。そして狂乱のはてに、ようやく例の紙片の「七爪牙たるものは、幻術師果心居士直伝の愛弟子たり」という文句を思い出した。
 果心居士という名は、以前ちらときいたことがある。
 それから、その人物が奈良の住人だということも耳にしたおぼえがある。それで、彼は奈良へやって来た。そして二、三日、果心居士を求めて奈良の町じゅうを|馳《は》せめぐった。ところが町のだれもが果心居士の住みかを知らず、またここ数年、奈良で見かけたこともないという。――
 また夜になった。城太郎はほとんど眠らなかった。雨がふり出した。それでも彼はさまよいあるいた。――そして、ふと、町の中をフラフラとあるいているひとりの女とゆき逢ったのである。
 女はきものをまとっていたが、一方の乳房はむき出しになり、前ははだけて、帯の一端は地にひきずっているほどであった。そして、小脇に大事そうに|金《きん》|襴《らん》でくるんだものを抱えている。あきらかに狂女だ。いったいどこからあらわれたのであろう?
 しかし、いま深夜の町でゆき逢うものが、天女であろうと鬼女であろうと、ほとんどかえりみるいとまのない笛吹城太郎が、ふりかえって、ふと眼をすえて、ぎょっと息をのんだ。
「……篝火」
 彼は、のどのおくで絶叫した。彼の眼に、闇の中へ消えてゆく恋妻のすがたがたしかに見えたのだ。
 城太郎ははせもどり女の前にまわった。篝火ではない。世にも美しい顔をしているが、どこか気品のない、うつろな眼をしたその女は、城太郎など知らないもののようにあるいている。
 大きな吐息をついて路をよけ、あと見送って城太郎の瞳がまたひろがる。篝火だ。篝火としか思えない。
 まるで磁石に鉄片が吸いつけられるように、彼は女のあとを追い出した。そして奈良の町をはなれ、般若野までやって来た。
「篝火だ。……いや、そんなはずはない。……しかし篝火だ」
 もはや城太郎の方が錯乱しているようであった。篝火を求めるあまりの幻覚かと、じぶんでも眼をこすってみるのだが、しかし前をあるいてゆく女のうしろ姿には、断じて他人の空似ではないものがある。それは何百回となくそのからだを抱きしめ、愛撫した男だけのもつ本能的な直感であった。
 ついに、城太郎は追いすがり、ふたたびその前に立ちふさがった。
「おまえはだれだ」
「…………」
「名はなんという」
「…………」
「どこから来た」
「…………」
「どこへゆこうとしているのだ」
「…………」
「――篝火という女を知らないか?」
 女はこたえない。城太郎などまったく無視したようにあるきつづける。城太郎はあとずさりして話しかけながら、いまさらのように奇妙な恐怖が胸にたちこめてくるのをおぼえた。それは、これは死んだ女ではないかという知覚であった。あるいているのだからそんなはずはないが、しかしたしかに死びととしか思えない異様な感じがある。
 恐怖すべきことに向かいあうと、しかし逃げるより、とびかかってゆくのが笛吹城太郎の気性だ。
「生きておるのか。いったいこいつ――」
 彼は立ちどまった。女は空をふむようにすすんできて、城太郎と相ふれた。
 その刹那、ふたりのからだに異様な反応が起こった。城太郎は、相手のからだが冷たい――雨にうたれたせいではなく、死びとそのものの冷たさをもっているのにぎょっとして飛びのこうとしたのだが、その城太郎に、女はひしとしがみついて来たのだ。しかし彼女は生きて燃えている女よりもなまめかしく腰を吸いつけ、波うたせた。
「――城太郎どの」
 はじめて、女がいった。
 これをつきのけようとしていた城太郎の全身が硬直した。たしかに篝火の声だ。
「――逢えてうれしかった。ようやく逢えましたね」
 吐息のような――いや、遠い空からきこえてくる風にも似た篝火の声であった。見知らぬ女の唇がかすかにうごいているのを見ながら、
「篝火、おまえはどこにいる?」
 と、城太郎は暗い天をあおいでさけんだ。
「――わたしは死んでおりまする」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:43:15 | 显示全部楼层
     【三】

 雨ふりしきる夜の般若野に、風のようなさびしい声はつづく。
「――城太郎どの、篝火は死にました」
 いまは、城太郎の方が死びとと化したようであった。
「――篝火は、あなたの妻であるからだを守って、信貴山城でみずから死にました」
「な、なに、信貴山城で? すりゃ、松永弾正のところか?」
「――わたしをさらったのは、松永弾正と、それに使われる七人の根来法師でございます」
 見知らぬ女は、白痴のような無表情のまま、篝火の声でしゃべる。しゃべるというより、無心の唇のあいだから、内部の――いや、いずことも知れぬ虚空からの声がながれ出しているようだ。
「篝火、で、では、この女はだれだ?」
「――顔は漁火という弾正の妾でございます。けれど、からだは篝火のもの。……」
「なんだと?」
 女は、腰を波うたせつづけている。氷のように冷たい感触にもかかわらず、このとき城太郎はあきらかに篝火を感覚して、思わず女を抱きしめようとした。
「――いけませぬ、城太郎どの。からだは篝火のものですけれど、篝火のからだは犯されました。死んだあとで、七人の法師に犯されたのでございます。けがれはてたそのからだに、城太郎どの、もはや触れないで下さいまし」
 そういいながら、女はなおなまめかしく腰をすりつけ、微妙にくねらせるのであった。
「わからぬ。篝火、おれはわからぬ」
「――根来僧の忍法のわざでございます。死骸の首とからだをとりかえられ、ふたりは甦りましたけれど、その女の魂は死んでおります。いいえ、|空洞《うつろ》となっております。わたしは、あなたに告げたい一念からその空洞な女に宿って、ここまでやって来たのです。でも、もはや、わたしはその女からはなれかかっておりまする。底なしの魔天へ落ちかかっておりまする。……」
「篝火! 篝火!」
「――あなたに告げたいことは、その七人の根来僧が人間とも思われぬ恐ろしい忍者であるということ、それから――信貴山城にいるわたしの顔をした女は、もはや篝火ではないということ、それから――ここに持って来た平蜘蛛の釜と中にある白い石は、それで茶を煮れば、のんだ女の心をとろかすという弾正の宝であるということでございます」
 言葉は判断を絶し、城太郎は声もない。
 ――と、彼にまつわりついていた女の腰のうごきが、いつのまにか止んでいた。
「――生きている篝火は、伊賀忍者笛吹城太郎の妻の誇りにかけて、死にました。死んだ篝火を、七人の根来僧は犯しました」
 声はかなしくふるえながら、かすかになってゆく。
「――城太郎どの、篝火の|敵《かたき》を討って下さいまし」
「討つ、必ず討つ!」
 城太郎は女のからだをゆさぶった。女のからだに抵抗はなかった。
「――もう一つ」
 うつろな眼を、闇にみひらいたまま、唇がうごいた。
「いつかの約束――笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つという誓いを忘れないで。――」
 声がしみ入るように消えていって、そして女は彼の腕の中で崩れおちた。
「篝火! 篝火! 篝火!」
 城太郎は絶叫した。しかし、女は彼の腕に冷たい花のように垂れたまま、もはや永遠に沈黙していた。
「篝火! いや、この女でいい。かえってくれ、もういちど、この女のからだに帰ってきてくれ、篝火!」
 城太郎のさけびは、曠野にこだまする一匹狼の吠え声のようであった。
 このとき彼は、死せる狂女が、死んだ腕になお金襴のつつみをかかえてはなさないことにはじめて気がついたのである。
 それを片手にとり、片手になお女を抱きかかえたまま、
「篝火よう、篝火よう」
 彼は|慟《どう》|哭《こく》した。
 狂乱状態にある城太郎は、まったく気がつかなかったのである。このとき般若野の北の方から、七つの黒い影が風のように走って来て、数間の距離でピタリと立ちどまり、じいっとこちらをうかがっているのを。
 それは、七人の忍法僧であった。
 彼らは、平蜘蛛の釜を抱いて逃げた狂女を追って信貴山城をとび出した。最初、それをとらえるのは飼犬を呼び返すよりまだたやすいことだとたかをくくっていたのである。ところが、信貴山を下り、いわゆる|斑鳩《いかるが》の里あたり一帯を捜索しても、その女の影もない。奈良へ入って終日探してもなんの消息もない。彼らは狼狽し、ようやく漁火の「あの女は伊賀へいった」という言葉を思い出して、先刻、この般若野を北へ、伊賀街道へむかって駆け去ったところであったのだ。
 それにしても、半裸の狂女、しかも金襴の包みをかかえた美しい女が、それまでなんぴとの眼にもふれなかったのはふしぎだ。狂いつつも、なお逃れ去ろうとする本能の知恵で、彼女は動物のようにたくみに物陰をひろいつつ歩いて来たものであろうか。――いや、それよりも、あの七人の魔僧に犯された女は、十人に五人は息絶えるというが、そもそも城を出たときから彼女は死びとだったのであるまいか。死んだ肉体にかすかに篝火の魂が宿り、笛吹城太郎と触れ合うまで、夢幻の中を漂ってきたが、ふつうの人間には、すでに死の世界にいるこの女の姿は見えなかったのではあるまいか。そうとしかかんがえられない奇怪な放浪であった。
 般若野をゆきすぎて――そして彼らは、はるかうしろから渡ってくる狼の吠え声をきいた。
「――篝火! 篝火」
 それは|腸《はらわた》のちぎれるような、彼らにはききおぼえのある若者の声であった。
 ――七人の忍者僧は顔見合わせ、次の瞬間、いっせいに墨染めの衣をひるがえして、黒いつむじ風みたいに丘と野をはせもどって来た。
「きゃつだ!」
「生きていたな!」
「ううむ、女もおるぞ。たおれておる」
「あの金襴の包みは?」
「あれが平蜘蛛の釜ではないか」
「それは好都合」
「さて、どの手でゆこう」
 |地霊《じりょう》の対話のように、どよめく声であった。
 彼らの眼には夜も雨もないとみえる。実際に、十四の眼は豹のように闇にひかった。――すでに半円形につつんだその十四の眼が徐々にちかづいて来た。
 ふりしぶく雨の中に、金襴の包みを片腕にかかえて、笛吹城太郎はすっくと立った。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:43:33 | 显示全部楼层
    一匹狼


     【一】

 いうまでもなく、笛吹城太郎は忍者であった。
 しかも、|逐《ちく》|電《てん》以前、伊賀にいたころは、頭領服部半蔵にもっとも眼をかけられ、愛された|天《てん》|稟《ぴん》の所有者であった。しかし、なんといってもまだ二十一の若さだ。――彼は伊賀で、人間を超えた、あるいは物理学を超えているのではないかと思われるほどの幾多の先輩を見ている。が、彼自身はまだ、あくまで人間のうちであった。走る、飛ぶ、投げる、見る、聴く、触れる、嗅ぐ、それらの能力は一見超人的ではあるが、しかし人間としての能力の極限中のものにしか過ぎない。
 それにくらべて、この七人の忍法僧は、まさしく超人であった。伊賀街道で見たあの体技、忍法――大空から獲物をめがけてとびかかる扇の矢、糸もないのに空中からはねかえる大鎌、さらに、見てさえ信じられないことであるが空中から逆転する人間そのもの。またながれ飛んできて、切っても切れず、ひとたび顔に貼りつくと息の根をとめる真紅の紙――それらは、伊賀の先輩にも見たことのない恐るべき武術であり、武器であった。それを彼は身をもって知っている。
 しかし、城太郎は逃げようとはしない。逃げようとも思わない。彼の耳には、まだあの暗い風のような哀しい声が鳴っている。
「――|篝火《かがりび》は、伊賀忍者笛吹城太郎の妻の誇りにかけて、死にました。……死んだ篝火を、七人の根来僧は犯しました。……城太郎どの、篝火の敵を討って下さいまし。……」
 城太郎の眼は血ばしって、炎のように燃えていた。
 これに対し、黒豹のごとく金色にひかる眼をそそいで、徐々にちかづいて来た七人の忍者僧の輪が、ふととまった。
 城太郎に警戒したのではない。彼の|気《き》|魄《はく》に押されたのでもない。忍者僧たちは、相手そのものより、彼のかかえている茶釜に眼をとめ、それから彼自身をいかに料理するか、という思案にとらえられたのだ。
 |平《ひら》|蜘蛛《ぐ も》の釜をぶじにとりもどせ。――これは松永弾正の命令だ。
 あの伊賀の若者を、殺さないで城へつれて来や。――これは漁火の命令だ。
「しばらく、気を失わせるには、水呪坊の月水面が適当じゃが」
 と、虚空坊が空をあおいでいう。
「しかし、雨がふっておるなあ」
 月水面とは、あの赤い濡れ紙のことだ。風にひらいて舞いとぶ紙の忍法は、雨がふっていてはうまくゆかないと見える。
「なにを――さまで心をなやます相手か」
 吐き出すようにいうと同時に、草を蹴ったのは風天坊だ。
「やあっ」
 雨の中を、銀光が輪をえがいて走った。大地を蹴る寸前に、鎌返しの鎌を投げつけたのである。同時に彼の姿は、魔鳥のごとく大空を飛んでいた。
 城太郎のからだがうごいた。――おそらく|刃《やいば》をぬくであろう。そして鎌返しの鎌を斬りはらう。しかし、一瞬鎌ははね返り、城太郎のからだが空を泳ぐ。それを頭上から――その片腕でも斬っておとせばよい、片腕なしでも、生きて信貴山城へつれてゆくという約束にはたがうまい、これが風天坊の計算であった。
 しかるに、城太郎は刀をぬかず、逆に鎌の方へ飛び出した。風天坊の下を。しかし空中で鎌と相ふれたとみるまに、なんたる妙技、回転する鎌の柄を右腕につかんで、風天坊の蹴った地点にとんと立ったのである。
 空中から斬りつけようとした刹那、地上に人影のないのを見たとたん、風天坊は狼狽した。
「――あっ」
 一瞬、そこで静止して、また空中をはねかえる。反射的なみごとな枯葉返しの忍法であったが、同時にこれが|謬《あや》まれる反射運動であったのは、狼狽のせいだ。
 はねもどった風天坊のゆくてに、城太郎が立っていた。跳躍した地点とおなじところに帰るという、風天坊のみずからもいかんともすべからざる力学的な弱点をついて、彼はそこに待っていたのである。
 とはいえ、城太郎もまた、なおそこに飛んだ姿勢のままだ。つづいて飛び返る風天坊の気配を背中に受けて、うしろなぐりに鎌をなげる。
「くわっ」
 風天坊は|怪鳥《けちょう》のような声をたてた。彼はみずからの鎌で左腕を肩のつけねから薙ぎおとされて、垂直に、もんどりうって地上にころがりおちたのである。
 はじめて城太郎は抜刀した。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:43:52 | 显示全部楼层
 これが、もとより一息つくほどのあいだの出来事なら、残りの六人が城太郎めがけて大薙刀や戒刀を舞わせて来たのも一瞬ののちであった。
「こやつ。――」
「ちょこざいな!」
 死闘の旋風から、蒼白い火花が闇に散った。一本の戒刀がたたき折られ、一本の薙刀が宙に斬りとばされた。――驚愕と憤怒のあまり、根来僧らもとっさにおのれの忍法を忘れ、ただ逆上した凶猛な獣の一団と化している。
 たたたたと笛吹城太郎はもとの方向へ駆け出していた。こめかみから血がながれおち、斬り裂かれた左肩から血がほとばしり、そしてびっこをひいていた。――ただし、このちんばは、先日のマキビシによる負傷以来のものだ。
「待てっ」
 追おうとした根来僧らが、いっせいに一足たたらをふんだ。
「風天坊を助けろ。羅刹坊。――壊れ甕の忍法を!」
 ひとり残った風天坊は、草の中をのたうちまわっている。
 のこりの五人が、黒い奔流のように城太郎を追う。
 城太郎は、般若野を奈良の方へ走った。このとき彼は、はじめて逃げる気になっていた。
 いまの乱闘におそれをなしたわけではないが、彼はそれ以前から篝火の捜索につかれはてていた。それから――この|期《ご》におよんで、彼はなお左腕に例の金襴の包みをかかえていた。いまの死闘に数ヵ所斬られたのは、このハンディキャップもある。あのままたたかいつづければ、所詮、なますのごとく斬り伏せられるのはわかっている。
 以前の彼なら、それも承知であばれまわるところだ。しかし。――
 ――一人斃した!
 彼は闇にさけんだ。
 あと六人、必ず斬らねばならぬ!
 ――七つの首、さらに松永弾正の首をも魔天にささげねば、|非《ひ》|業《ごう》の命を終えた篝火に申しわけがたたぬ、そのもえたぎるような意志が、いま笛吹城太郎に、ひとまずこの場を斬りぬけるという意志を呼び起こしたのだ。
「金剛坊」
 背後で、歯がみする声が風を裂いた。
「天扇弓を飛ばせ!」
 同時に、城太郎のゆくての夜空に、ざあっと鳥の|羽《は》|撃《ばた》くような物音が起こった。
 城太郎は天を仰いで、そこに例の針をつけた無数の扇が、奇怪な雲のごとくただよい、舞いおちはじめたのを見た。一見、緩徐にみえながら、大地にめりこむほどの|穿《せん》|孔《こう》力をもった扇の矢だ。ましてやそれが、いま雨よりはやい速度でふりそそいでいる。
 横に走れば、彼らに追いすがられるであろう。
 城太郎は左腕にかかえた包みを見た。金襴は裂けて、釜のにぶいひかりが眼を射た。彼は金襴をときすてた。そして、中にある白い結晶をふところにねじこむと、釜を片手にささげたまま、天扇弓の雨の下へ走りこんだ。
  かん!
  かん!
  かん!
 天扇弓は、釜に凄じい音をたてた。しかしさすがに鉄の釜をつらぬきはしない。とはいえ、雨のような扇の針を、一矢もからだにふれさせないで、はらいのけてゆくのは、忍者笛吹城太郎なればこそだ。
「――しまった」
「うううぬ、きゃつ――」
 五人の法師は、地団駄ふんだ。
 城太郎の駆けぬけたあと、天扇弓はなおふりつづいている。しかも、盾をもたぬ彼らは、じぶんの放った奇怪な武器のためにかえって足を封じられてしまったのであった。
 ――奈良へ最後の丘を駆けのぼっていった笛吹城太郎は、しかし丘の頂上で、向こうから上って来た騎馬の集団と、はたとぶつかった。横へ飛んで、道を避けた城太郎のそばを、騎馬のむれは雨にうたれつつ、黙々と通りすぎていったが、そのまんなかあたりから、ふと声がかかった。
「――そこにおるのは、城太郎ではないか?」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:44:15 | 显示全部楼层
    【二】

 騎馬群がとまった。十三騎であった。
 それが、どの馬も漆黒なら、鞍も手綱も黒く、乗り手の羽織、袴、刀の鞘もことごとく真っ黒だ。ただ猟師のかぶるようなからむし[#「からむし」に傍点]で作った頭巾で頭をつつんでいるが、まるで闇から湧き出したような一隊であった。
「――|伯《お》|父《じ》|御《ご》!」
 城太郎は絶叫してはせ寄り、その馬の脚にすがりつかんばかりにした。
「おなつかしや、伯父御、かようなところでお逢いしようとは。――」
「と、ききたいのはおれの方だ。うぬこそ、こんなところでなにをしておる?」
 と、馬上の影は野ぶとい声でいった。
「しかも、どうやら、怪我をしておるようではないか」
 伊賀の首領、服部半蔵であった。
 服部家はふるくは平氏の一門で、源平時代から伊賀国服部郷を領する豪族であった。代々、しだいに勢力をひろげ、いまでは伊賀一円、北の甲賀までの谷々を|統《す》べる一族となっている。この半蔵は、城太郎の伯父にあたり、このころ三十半ばの壮年であった。のちに彼は徳川家康に仕え、いわゆる服部党の頭領として、八千石の服部|石《いわ》|見《みの》|守《かみ》となる人物であるが、このころは家康もまた東海の一大名にすぎず、服部もまたさらに小さな伊賀一国をひそと護る一豪族でしかなかった。それでいて、ときの権力者、細川家とか三好家とか、あるいは松永弾正らの完全な支配からわずかにまぬがれていたのは、錯雑した山脈にかこまれているという地の利のほかに、この一門に古来伝わる忍法の秘技と、鉄のごとき団結以外のなにものでもない。
「伯父上、城太郎をお救い下され」
「どうした」
 笛吹城太郎は、地べたに這いつくばってしゃべり出した。ときどき、子どものようなすすり泣きをまじえながら。
 堺の傾城町|乳《ち》|守《もり》の里の遊女篝火と恋したこと、彼女と手に手をとって駆け落ちしたこと、彼女を忍者の妻にふさわしい女にするために、吉野の山中へつれていって、じぶんの力の及ぶかぎりきびしい忍法の修行をさせたこと、ようやくこれならばという段階に達して、伊賀へかえろうとしたこと、しかるに、はからずも奇怪な七人の根来僧に篝火を奪われたこと、篝火の死霊の知らせにより、彼女が松永弾正の|信貴山城《しぎさんじょう》で殺され、辱しめられたことが判明したこと、七人の根来僧は弾正の家来で、音にきこえた幻術師果心居士直伝の弟子らしく、超人的な忍法の体得者であること、その七人の忍者僧と、たったいまそこの般若野でたたかって、ひとりは斃したものの、あと六人に追われてここまで逃げて来たこと。――
「はからずも、服部一党にここでめぐり逢ったことこそ天の配剤、もはや城太郎は千人の味方を得たも同様です」
 城太郎の眼はきらきらとかがやいた。
「みなの衆、いってあの根来僧どもを討ち果たして下され、こういっているあいだにも、きゃつら追ってくるでしょう。ここでとりつつんでみな殺しにし、おれの女房、篝火の敵を討って下され!」
「おれの女房、とは誰のゆるしを得たか?」
 冷たい声がふって来た。はっとして見あげると、からむし[#「からむし」に傍点]頭巾の中から、寒夜の星のような眼がひかって、彼を見すえている。
 かつて城太郎が見たことのない伯父半蔵の眼であった。いや、彼は知らぬことはない。服部党で掟を破った人間が出た際、断罪の座に出たときに見た厳格きわまる首領の眼だ。
「一年前、おれの用件で堺へやったうぬは、そのまま帰らなんだ。それすらゆるせぬ過怠であるぞ。そのうえ、傾城町の売女と逐電したなどと――ようも、ぬけぬけとおれのまえで申した」
 城太郎は蒼白になっていった。それこそ、伊賀へ帰る途中、彼の胸をふるわせていた恐れだ。そのことを、篝火を殺された哀しみのあまり、また伯父に対する甘えのあまり、いま彼はうっかりと忘れはてていたのであった。
 からだも心も硬直して、大地に伏した城太郎は、このとき騎馬のうち、二人が音もなく馬からとび降り、左右にわかれて前方へ駆け去ったのを見なかった。
「あまっさえ、うぬの勝手に女房とした女が殺されたからとて、松永家の家来を討ってくれだと? いま、松永家と争えば、服部一族をどのような運命が見舞うと思うか。うぬのような小せがれ一匹のために、伊賀一国を犠牲にするわけにはゆかぬ。それくらいのことがわからぬか、この大たわけめ」
 声の鞭は、雨とともに城太郎を打ちつづけた。
「掟に叛いた馬鹿者、成敗してくれる」
 そのとき、丘の中腹あたりで、獣のような凄じい絶叫が起こった。――服部半蔵はそれに耳のないもののようにつづける。
「とは思うたが――さような目に逢うてなお一党にすがりつくうろたえもの、みれんものには、成敗の刃もけがれる。小せがれ、うぬひとり、勝手にさらせ」
 馬上にあった服部一党が、このとき闇夜になにを見たか、丘の下を見下ろして、いっせいに「おおっ」とうめいた。
 半蔵がふりむいた。
「なんだ」
「ひとつ、丘の中腹から、傘が飛びました」
「傘が?」
「それが、傘の上に、血みどろの人間の|屍《かばね》をのせたまま、クルクルと丘の下へ舞いおちていってござる」
 先刻、駆け去ったふたりの伊賀者が、息をきらせて駆けもどって来た。
「お頭、|風閂《かざかんぬき》を張ったところ、法師らしきものがかかって、先頭のひとり、たしかに両断されましたが」
「うむ」
「別のひとりが忍び寄り、その屍体をひらいた傘にのせ、屍体もろとも傘をとばして、丘の下へ逃げ下りていってござる」
 服部半蔵はしばし沈黙した。
 風閂――とは、伊賀に伝わる秘法の一つだ。ただひとすじ、ながい髪の毛を張るのだが、これに触れた人間は、|鋼《はがね》にかかった魚のごとく切断される。根来僧が追ってくる、ときいて、しばしの問答に邪魔が入ることをいやがった半蔵が、眼の合図をもって、配下の二人にその死の哨戒線を張らせたのであった。――闇夜に張られたひとすじの髪、ようやくそこまで追ってきた法師らも、さすがにこれには気がつかなかったとみえて、たちまちその一人が血祭りにあげられたものと思われる。
 しかし、その屍骸を仲間が傘にのせて運び去ったとは?
「果心居士の弟子だと申したな」
 夜目にも蒼いものがすうと面上を吹きすぎたが、すぐに厳然たるまなざしを地にもどして、
「城太」
 と、呼んだ。
「その法師ら、ことごとく、うぬ一人の手で討ったら、伊賀へかえるをゆるしてやろう」
「は、はいっ」
「服部一党は、指一本、貸さぬぞ」
「はいっ」
 大地に這いつくばった笛吹城太郎ひとりを残して、黒衣の騎馬隊は、粛々としてうごき出し、やがて一陣の黒いつむじ風のように丘を駆け下っていった。――伊賀へかえるのだ。
 ――それにしても、服部一党は、いまごろどこへ旅しての帰途であろう? そんな疑問は、城太郎の胸に思い浮かばなかった。――そんなことは、彼にとってなんのかかわりもないのだ。
 笛吹城太郎は、ただひとり雨の丘に残された。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:44:34 | 显示全部楼层
     【三】

 般若野を十三の騎馬の影が東へ駆けてゆく。それをはるかな草のかげで見送って、歯のきしる音をまじえながらの会話であった。
「追おうか」
「いや、待て、きゃつら――伊賀者どもだ」
「あの――破軍坊が突如二つになって斬られたのは、きゃつらのわざか」
「に、相違ない。いや、あれにはおどろいた」
「若僧め、うまいところで――いや、わるいところで、伊賀の仲間にゆき逢ったものだ」
「などと感服しておって、このまま見のがすのか。けっ、伊賀者がなんだ。ひとつ、果心直伝の根来忍法の荒技を見せてくれよう」
「待て、向こうは十三騎、味方は四人」
「四人?」
「風天坊の足もとがまださだかでない。破軍坊はこの通りだ、いま甕をつがねば、手遅れになってしまう。そこでかくいう羅刹坊もこの場からはなれられぬ」
 そういったきり、羅刹坊は草の中にまた沈んだ。その眼が妖しくすわり、ひたいからは、たしかに雨でないあぶら汗がながれおちている。口になにやらキラとひかる針のようなものをくわえ、ちらと見えた両手は、泥にひたったように血まみれだ。
 馬乗りの姿でふんばった彼の両足のあいだには、一個の人間が横たわっていた。まっぱだかに|剥《む》かれた破軍坊だ。――先刻、城太郎を追って、丘を駆けのぼり、突如、見えないなにかに胴斬りになった破軍坊だ。からくもそれを虚空坊の「かくれ傘」にのせて収容したものの――いま、その屍骸は生きていたときと同様に上下くっつけられているが、さてしかし、ひとたび両断された彼を、いったいどうしようというのだろう。
 見ていると、羅刹坊は針を横にして、いくども破軍坊の胴を撫でる。ゆきつ、もどりつ、それは稲妻のような早さであった。針には糸がついているようにみえた。
 忍法「壊れ甕」の大手術を、いまや彼は行なっているのだ。
 その玄妙さは、仲間にとっていまさら感服するほどのことではない。かつて羅刹坊は椿と千鳥という侍女の胴の上下を入れかえ、また篝火と漁火の首をとりかえた。いや、げんに――そばにキョトンとして、風天坊が座っている。
 さっき、笛吹城太郎の投げた鎌で、左腕を肩のつけねから斬りおとされた風天坊だ。流血のため、蒼ざめて、まだ眼はうつろで口もきかないが、しかし彼は右腕でしきりにじぶんの左の肩を撫でている。その肩からは、たしかに左腕が|生《は》えていた。いや、みごとにつながっていた!
 ふりかえりもせず、あとの虚空坊、水呪坊、金剛坊、空摩坊の対話はつづく。
「しかし、平蜘蛛の釜はどうする。伊賀にもってゆかれると、ちと面倒だぞ」
「弾正さまに申しあげて、いっそ伊賀一国を踏みにじってもらおう」
「ばかな! さようなことは相ならぬ。根来流の名にかけて!」
「同感だ。おめおめ、このまま信貴山城には帰れぬ」
「何日かかろうと、いかなる手段をもってしても、伊賀からあの釜をとりもどさねば面がたたぬ」
 羅刹坊が立ちあがった。立ちあがるとき、ひとたばにしてむしりとった草で手をふきながら、じいっと地上をながめている。
「はてな」
 と、虚空坊がいった。
「なんだ」
「あの若僧。――いまの十三騎の中におったか?」
「なに――? なるほど、そういえば十三頭の馬に十三人しか乗っておらなんだな」
「そんなに好都合に、一頭の替馬を用意していたわけであるまい。十三頭の馬に十三人乗って来たにきまっておる。それが、二人乗りしておる様子もなければ、馬の歩みから、人間ひとりべつにぶら下がっておる気配も見えなんだ!」
「――する――と」
「きゃつ、なぜか、まだ丘に残っておるのではないか?」
「なぜか? なんのために?」
「あの十三人の伊賀者はよほど大事の用でもあって国へ帰った。しかし、きゃつは、敵を討ちとうて、ひとり残った。――」
「ちょこざいな!」
 そのとき、草がざわめいた。ふりかえった四人の眼に、死んだはずの破軍坊の両腕が、徐々に徐々にうごき出し――それから、おのれの腹のあたりを|痒《かゆ》いようにかきはじめた。……
「きゃつ。――」
 と、羅刹坊がうす笑いした。
「もし、また逢えば、こちら七人、みな五体そろっておるので|仰天《ぎょうてん》するだろう」

 般若野の夜の丘に、笛吹城太郎はただひとり残っていた。
 うちのめされた惨たる表情が、雨に洗われたようにしだいに消えてゆき、代わってもちまえの、若い、精悍な、凄絶きわまる面だましいが浮かび出してくると、彼は身を起こした。
「うぬ一人で討てと仰せられた」
 と、|沁《し》み入るようにつぶやき、すっくと立ちあがった。
「おれひとりで討つ。そうだ、それでなくては、篝火の魂が浮かばれぬ。篝火! 見ておれ、おれひとりで、きっとあの七人の法師は討ち捨ててくれるぞ」
 闇の大空に顔をあげてうめいて、それから足もとの平蜘蛛の釜に眼をおとした。
「あの女は、これを持ってきた。篝火の魂が、後生大事にこれを持たせてきた。――」
 眼がしだいに思案の翳に沈んでいった。
「あれは、こういった。――ここに持ってきた平蜘蛛の釜と中にある白い石は、それで茶を煮れば、のんだ女の心をとろかすという松永弾正の宝だと。――」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:44:51 | 显示全部楼层
    行者頭巾


     【一】

 奈良若草山を初夏の青い風が吹いている。
 このころ――七堂伽藍こそ昔ながらだが、それは荒れはて|蕭殺《しょうさつ》の気をはらんで、奈良はすでに仏都の面影を失っていた。その七堂伽藍に棲むものも、僧というより僧兵である。その僧兵も、じつをいうと|昔《せき》|日《じつ》の威を失って、ただ戦国の世にめまぐるしく移り変わる時代の覇者に恐怖と|猜《さい》|疑《ぎ》の眼をひからせているばかりであった。
 で、東大寺のすぐ東側にある若草山だが――むろん、現代のように行楽客が群れているわけではない。しかし、みるからに温雅な丘で、しかも毎年春には草を焼く習いで、あとみどりの芝生が生えているばかりだから、ときどき|遊《ゆ》|山《さん》の人々もあるとみえて、麓には酒や菓子を売る茶店も二、三ならんでいた。
 その茶店の一軒で、七人の法師が酒をのんでいた。
「ええ、いくらこの陽気でも、ねぐらなしで飛びまわっておっては疲れるわ」
「かといって、信貴山城には帰れぬし」
「いっそ、根来寺へ帰ろうか」
「と、あとで果心さまに知れてみろ。ここで一同腹かっさばいた方がましという|劫《ごう》|罰《ばつ》を受けるであろう」
 例の面々だが、彼ららしくもない恐怖に顔色を蒼くした。
 むせかえるような若葉の匂いの中に、まっぴるまから酒をあおっているのに、あかい顔をしているものはひとりもない。
「――やはり、きゃつ、伊賀へ帰ったのではないか?」
「いや、たしかにきゃつらしい男が、あの翌朝、この奈良の裏町を歩いていたときいたではないか」
「それにしても、おれたちはこの通り堂々と大手をふって歩いておるというのに、ついぞきゃつの影も見ぬ」
「ついぞ見ぬといえば……ついぞ、われわれもいい目を見ぬな」
 七人の法師の目は、ドンヨリと赤く濁っていた。むろん、ここしばらく女を抱かぬという意味だ。もっとも、|篝火《かがりび》の屍体を犯して信貴山城を出てから、まだ七、八日にしかならないのだが、彼らはもう鼻口からほとばしりそうな獣欲の|鬱《うっ》|血《けつ》に苦しんでいた。
「女ども、さらったとて、釜はなし」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:45:10 | 显示全部楼层
「そもそも、弾正さまにあの女がくっついているかぎり、もはや淫石の必要もないようにみえるし」
「とにかく、えらいものにかかわり合ったものよ。魔につかれたとしか思われぬ」
 ――伊賀の女に目をつけたばかりに、彼らにとってもじつに予想外の苦労を味わわなければならぬ羽目になったことに愚痴をこぼしているのだが、しかし、えらいものにかかわり合い、魔につかれたのは相手の方だということには反省が及ばないのだから、いい気なものだ。――だから、たちまちみな舌なめずりして、
「あれは、よかったの」
 と、獣的なうすら笑いを浮かべた。……雨もふらぬに大唐傘をななめに背負った虚空坊が、うめくようにいう。
「あのような女はおらぬか。べつに信貴山へつれてゆかずともよい」
「それよりも――月水面がかわいた」
 と、水呪坊がいった。
 ふところに片手をつっこむと、いきなりびゅっとなにか店の外へ投げつけた。小さな黒い|礫《つぶて》が往来の上でぱっとひらいてどす黒く変色をした紙片となり、向こうの椎の木の幹へひたと貼りつこうとして――そのまま、ヒラヒラとおちていった。
「これでは、もしいまきゃつに逢ったとしても、ものの役にはたたぬ。新しく月水を手に入れねば――」
 そのとき、彼らはいっせいに眼をあげて、向こうの若草山を見た。なだらかな青い山肌を、十ばかりのはなやかな影が上ってゆく。
「あれはなんだ」
「あれは|木《き》|辻《つじ》の女郎衆でございましょうが」
 木辻とは奈良の町の南にある傾城町だ。いまを盛りの堺の|乳《ち》|守《もり》の|廓《くるわ》などにくらべれば、春の花と秋の花ほどのちがいはあるが、それでも千年来の町だから、とにかく廓はある。
「女郎どもが、なにしに若草山へ上るのだ」
「ただの|遊《ゆ》|山《さん》でござりましょう。酒をのんで唄をうたって、それだけでござりまするが、毎年いまごろようおいでになります」
 茶店の老婆は、眼をほそめてつぶやいた。
「ふふん、木辻では|閑《かん》|古《こ》|鳥《どり》が鳴いて、茶をひいているとみえる」
 見ていると、遊女たちは丘の中腹に半円になって座り、|瓢《ひさご》や重箱などをとり出した。よほどひまをもてあましているとみえる、といま悪口をいったが、やがて手拍子とともにうたい出した唄は、――
「いまもなお――妻やこもれる春日野の――若草山に――うぐいすの鳴く――」
 とか、
「むさし野に――きょうは――な焼きそ若草の――つまも籠れり――われも籠れり――」
 とか、たしかにそんなふうにきこえる。さすがに古都の傾城たちらしく、心ものびるように優雅な行楽であった。
 じっとそれを仰いでいた七人の法師の眼がしだいにひかりはじめ、うなずき合うと、杯を投げ、いっせいにぬっと立ちあがった。
 水呪坊が醜怪に鼻をうごめかした。
「風が、月水の匂いを吹き送ってくる。――」

 まもなく、左右に遠くはなれて若草山の両端を、一方に四人、一方に三人、はなればなれになって上ってゆく法師たちの姿が見られた。
 優にやさしい行楽に酔いしれた遊女たちは気がつかない。
 が、おなじ山の中腹で、ちょうど三人の法師が上っていったあとから、むくと身を起こしたものがある。これは法師の方も気がつかなかった。それは全身青草に覆われて――というより、ほんのうすく草をかぶっているだけだが、それが法師のあとを追ってやはり山の頂上の方へうごいてゆくのは、まるで青い風が吹いてゆくとしか見えなかった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:45:28 | 显示全部楼层
     【二】

 ……やや日がかたむいた。
 若草山は奈良の町の東にある。したがって、日がかたむけば、その斜面にあかあかと日があたる。
 むろん、遊女たちは町を見下ろすようにして、半円をえがいて草の上に座っていたのだが――ふと、その太陽が山の方へ移ったような気がして、みなひょいとうしろをふりむいて、
「…………」
 一瞬に身うごきもできなくなった。
 そこに忽然とべつの傾城たちの一団が遊んでいた。……いや、じぶんがそこにいる。彼女たちは、それぞれもうひとりのじぶんと、見ひらいた眼を見合わせた。だれがそれを、まんまるい巨大な鏡と思うだろうか。
 遊女たちはじぶんがそこに吸いこまれたのかと思った。こちらにいたじぶんが消え失せたかと思った。そのとたんに、みな声もなくすうと気を失った。
 これは一種の強烈な催眠術であろうが、その鏡が消えると、一本の大きな傘をぶら下げたひとりの法師があらわれ、そしてふたたびぱっと傘をひろげると、その遊女たちの中からふたりだけ、ほんとうに消滅していたのは、決して催眠術的な幻想の世界のできごとではない。
 とみるや、その傘を背負って、法師は風のように山を駆けのぼりはじめた。傘の上にはふたりの遊女が失神して乗せられていた。
 数分ののち、若草山からさらに奥山へ――そのふたりの遊女を、まるで|神《み》|輿《こし》みたいにかついで駆けてゆく七人の法師の姿があった。
 その山中の杉木立につつまれたまるい草原まで駆けてくると、彼らは遊女をそこに投げ出した。毛むくじゃらの十四本の腕に空中でもみしだかれて、彼女たちはすでに裂けたきものを四肢にまつわりつかせただけの半裸にちかい。
「水呪坊、まちがいないな」
 かくれ傘で、女をさらって来た虚空坊がいう。彼はすでに傘を一本にたたんで背負っている。
「上から見て、半円にならんでいるうち左から四人めの女が、いま月のものじゃといったが」
「まちがいなし」
 と、水呪坊は横たわった女ひとりを見下ろして、舌なめずりした。
「では、それは水呪坊用。ついで一方の用に、そばにいる女もさらってきたが」
 と、いって、虚空坊はもうひとりの女をのぞきこんで、
「これはしまった。……だいぶおちる」
 と憮然たる顔つきになったのは、容貌のことをいったのである。べつに|醜《しこ》|女《め》というわけではないが、いかにもいま月水のときにあるという遊女にくらべれば、いささか見おとりがする。――
「――また壊れ甕の忍法とゆくか」
 羅刹坊がいった。六人の法師は手をたたいた。
「なるほど、それは妙案!」
 それから約一刻ちかく、鹿の遠音もきこえる美しいこの山の中でくりひろげられた、文字通り血と肉の祭典こそ、この世のものならぬ凄じい光景であった。
 水呪坊は、月のさわりにある遊女から経血を採った。薄紙にひたし、まるめて血の|礫《つぶて》とした。いくつも、いくつも、何十回となく。
 空になげれば風にのって真紅の花のごとくひらき、ひとたび相手に貼りつければ肉仮面さながら吸着し、その息の根をとめる忍法月水面。――そのじつは、その名のごとく女人の経血をもって作るのであった。かつて、これを嗅いだ柳生の武士が血の匂いには馴れているだろうに、その甘ぐささにむせかえったのもむべなるかな。
 さて、それが終わると、羅刹坊が壊れ甕の手術にとりかかる。すなわち、月水のときにある美しい遊女の上半身を、もうひとりの遊女の下半身につなぎ、七人、代るがわるに犯しはじめたのである。
 もう一組の下半身と上半身は、これはもう用がないから、青草の上に切断されたままだ。
「――やっ?」
 法師のひとりが、ふいに首をねじむけて、ぎらっと空を見あげた。敏感な忍者の耳に、なにかのかすかな音をききつけたのである。
 が、まわりの杉木立から、そのときぱっと凄じい羽ばたきの音をたてて飛び立ったのは、この|酸《さん》|鼻《ぴ》な光景を見るにたえなかったか、無数の山鳥のむれだけであった。

 その杉の木の高い梢で、笛吹城太郎はこの夢幻の地獄図を見下ろしていた。
 常人ならば法師たちに見つかったに相違ない。が、忍者たる城太郎すら、地上の光景のあまりな無惨さに、いちどわれを失って、「ううむ」とうめいた。――その杉の木へよじのぼるときさえ、一羽も飛び立たなかった鳥のむれが呪縛をとかれたようにいっせいに大空へ舞いあがったのはそのときである。
 ――彼は知った。
 伊賀街道で苦しめられた水呪坊の月水面の秘密を。
 また、雨の般若野で篝火の死霊が告げた怪異な言葉の意味を。
 城太郎はすでに奈良の町で七人の法師を見つけ出して、それを見張っていた。もとより彼は、じぶんが斬ったはずの法師の片腕がもと通りにつながり、また服部党の|風閂《かざかんぬき》にかけられて胴斬りになったはずの法師が、いま七人の一人として横行しているのを見て驚愕した。
 ――こやつらは、殺しても死なぬ魔界の化け物どもではないか?
 その恐ろしい疑惑にとらえられ、彼はただむなしく彼らのあとを追っていたのだ、まことにその通りならば、篝火の|敵《かたき》を討つすべもないといわねばならぬ。
 いま、彼は魔僧らの忍法を知った。知ったが、彼はかえって昏迷におち入った。この常人ならざる秘技をもつ忍法僧らをいかにして討つか。
 彼の鼓膜に、いつかの――ふところに入っていた紙片の言葉が、何者ともしれぬ声となってきこえた。
「これとたたかうは龍車にむかう|蟷《とう》|螂《ろう》の斧、ただ死あるのみと知るべし」
 ――気がつくと、地上に七人の法師は消えていた。あとにひきちぎられた女の肉の花弁を散乱させたまま。
 笛吹城太郎は、数丈もある杉の梢から、音もなく飛び下りた。地に足がついたとたん、その全身を覆っていた青い草や枝が散りおちた。
 彼は黒い行者頭巾をかぶり、いらたかの|数《じゅ》|珠《ず》をかけ、金剛杖をもった山伏姿に変わっていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:45:59 | 显示全部楼层
     【三】

 茶店の老婆は、若草山でふたりの遊女がさらわれる光景を見てはいなかった。そのとき老婆は、かまどに火を|焚《た》きつけていた。もっとも、見ていたところで、山の上からひとつの大きな傘が遊女たちのところへ舞ってきて、また舞いあがってゆくのを眼にしただけで、あれは遊女たちのもってきた日よけ傘かと思い、山を吹く風のいたずらとしか思わなかったに相違ない。
 よほどたってから店先へ出て、何気なくひょいと若草山の方を見あげて、女たちがたおれているのに気がついて、くびをかしげた。お女郎衆は、酔いつぶれたのだろうか、と思ったが、どうも様子がおかしい。
 それで老婆は、トコトコと山へのぼっていった。
 やはり遊女たちは眠っていた。いや、気を失っていた。――が、ゆり起こすと、彼女たちはつぎつぎにぼんやりと身を起こした。みんなふぬけになったように、うつろな眼でおたがいを見合っている。喪神するまえの記憶を失っているのだ。
 彼女たちがようやくおのれをとりもどしたのは、老婆といっしょにフラフラと山を下りて、その茶店の縁台に座ってからしばらくののちのことであった。
「あっ、|誰《たが》|袖《そで》さまは?」
「小紫さまも見えぬ。――」
 やっとふたり足りないことに気がついたのである。同時に、気を失うまえに、山上で見た妖しい幻影のようなものを思い出した。じぶんたちとおなじ遊女のむれがいたことを。――いや、あれはじぶんたち自身ではなかったか? 必死にあの怪異の記憶をたどろうとするのだが、それ以上脳髄のまとまりがつかない。
「どうしたのかしら?」
「ふたりだけ、先にかえったのかしら?」
 彼女たちは若草山の山頂をぬらす夕焼けの色をみて、急にえたいのしれぬ恐ろしさに襲われて身ぶるいをした。彼女たちは九人いた。
「ああ、もう日がくれる」
「わたしたちもはやくかえらねば、おやじさまに叱られる。――」
 みな、そわそわと立ちかけたとき、外からひとりの若い山伏がすっと入って来た。
 黒い行者頭巾をつけているが、その顔をひと目見て、女郎たちは眼を吸いつけられてしまった。少年のようにういういしい頬、朱をひいたような唇、精悍きわまる光芒をはなつ瞳、それらが|醸《かも》し出す野性的な青春美に、思わず彼女たちは酔ったのだ。
 それが、店に入ると、
「|婆《ばば》、茶をのませてくれ」
 といってそれから、
「いや、|立願《りゅうがん》のことがあって、茶はわしの所持する釜で煮てもらいたい」
 と、妙な依頼をして、さて背に負った|笈《おい》から、金襴にくるんだ包みを出し、その金襴をといて、中から一個の茶釜をとり出した。
 ふつうのものより、やや平たい釜だ。ふたが蜘蛛のかたちをして、その黒い地肌に蜘蛛の長い足が這いまわっている。――まるで生きているような彫刻であったが、それをぶきみと思うより、その釜のはなつ|神《しん》|韻《いん》に女郎たちはまた眼を吸われた。
 山伏はみずから釜に水を入れ、火にかけた。――その美貌、奇妙な依頼、どんなに幼稚な人間でも魂をうたれるような釜の風韻。――いちど立ちかけた腰をまた縁台におとして、ぼうとして見とれている女郎たちに、ふいにその山伏がふりむいて、
「そなたらにも一服進ぜようか」
 と、いった。
「はい」
 と、彼女たちは声をそろえていった。ほんとうにのどが渇いてからからになっていることを、いまになって意識したのだ。
 釜はうやうやしげに金襴でつつみ、|笈《おい》で運んだものなのに、茶の葉そのものと茶碗は無造作にこの店のものを借りたが、女郎たちの中に、それを不審に思うものもなかった。
 彼女たちは|服《の》んだ。若い山伏のたててくれた茶を。――淫石を沈めた茶を。
 遊女たちは茶をすすって、眼をあげた。山伏は、じぶんは服まず、じっと彼女たちをながめている。眼と眼が合った。
 笛吹城太郎は、はっきりと知らない。これからどうなるか。――ただ、あの雨ふりしきる般若野の呪文をとなえるような声をきいているだけだ。「――ここに持ってきた平蜘蛛の釜と中にある白い石は、それで茶を煮れば、のんだ女の心をとろかすという弾正の宝であるということでございます……」
 彼は敵を討つために、この女たちをつかうことを思いついただけであった。
 ――成るか、成らぬか。
 おれの意図するままに、手足のごとく女たちにうごいてもらうためには、女たちの心をとらえるのがいちばんの早道だ。くわしくいきさつを説いているひまもないし、説けばかえって女たちは恐れるであろう。
 ――茶を服む遊女たちを、祈るように凝視しつつ、なお笛吹城太郎は半信半疑であったが、しだいに女たちの眼がうっとりじぶんにそそがれたままになり、頬に血がのぼり、小鼻があえぎはじめたのを見ると、急におちつかぬ気持ちになった。
 効く。たしかに篝火の死霊の告げた通りだ。――しかし、これはかえって面倒なことになるぞ。
 そんな予感がして、彼は急に釜をしまうのにかかった。水で冷やし、金襴につつみ、もと通りに笈に入れると、
「いや、世話をかけた。茶代を、ここへ置くぞ」
 と、いって、店を出た。――すると、女たちもみなふらりと立ちあがった。
「わたしたちも」
 しばらくののち、笛吹城太郎はじぶんのうしろに、どこまでもついてくる遊女たちに、じぶんがしかけたことでありながら、心中狼狽をしていた。
「山伏どの」
 代るがわる、女たちは媚情にむせぶような声を投げかける。夕焼けはいつしか消えて、路上には薄闇がただよい出していた。
「今宵、木辻の廓においでなさらぬかえ?」
「――そんな気はない」
 ふりむいて、拒否的な眼をむけると、女たちは立ちどまるが、彼が歩き出すと、またそろそろと追ってくる。
「山伏どの。……今夜廓に来てたもれば……わたしが死ぬほど可愛がってあげるほどに……|喃《のう》、来てたもらぬか?」
 城太郎は、じぶんの歩いてるのが、二月堂の方へゆく道であることに気がついた。――そして、突如、それまでとちがう戦慄のそよぎをみせて、はたと足を地に膠着させた。
 さっき茶店に入るまえに、あたりを駆けめぐって――彼は、一匹の鹿の死骸を肩にかけた七人の法師が二月堂の方へあるいていったことをきいていた。ゆくては山でふつうならひきかえしてくるはずだが、獣のような彼らのことだ。常人通りの道をえらぶという保証はない。しかし。――
 城太郎は仁王立ちになったまま、あともふりむかないでいった。
「そなたら、おれのいうことをきいてくれるか?」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:46:22 | 显示全部楼层
 根来法師たちは、山で一匹の鹿をとらえてなぐり殺し、代るがわる肩にかけ、二月堂にゆくと、そこの堂守をおどして火を焚かせ、|般《はん》|若《にゃ》|湯《とう》を出させ、ひき裂いた鹿の肉をあぶって食った。
 いかに乱世の僧兵とはいえ、いかに荒れ果てた古都とはいえ、法師にあるまじき、また仏徒にあるまじき所業だ。
 二月堂から三月堂までの僧たちがとび出して来て、遠まきにしてさわぎたてる中で、ゆうゆうと肉をくらい、般若湯をのんで、さてすこし正気の眼になると、
「うるさい。これでは寝もできぬ」
 両腕を天につきあげて大あくびすると、それでもノソノソと退散にかかった。
 二月堂から東大寺の方へひきかえす。そのあいだはもう暗々とした林の中の路だが、ところどころ細ぼそと、灯を入れた石灯籠が立っている。
 そのかげから、ふいに、――
「もうし」
 女の声で呼ばれた。みると、そこにひとりの女が立って、|灯《ほ》|影《かげ》に妖しく笑みかけている。
「法師どの、わたしと寝てたもれ、――」
「なんだ、辻君か」
 法師たちは笑った。
「辻君がこんなところまで出張っておるのか」
「肉を食うが破戒のなんのとさわぎおって――ここの坊主、|売《ばい》|女《た》にうつつをぬかしておるのではないか」
「いや、それにしても奈良も堕ちたものよの」
 虚空坊がいった。
「ところで、女、遊んでやってもよいが、こちらは見る通り七人おるが、よいか?」
 ほんの数刻まえ、凄じい欲望をみたしたくせに、もう七人ともに舌なめずりしている。
 そのけものめいた体臭に、辻君はぎょっとしたようで、
「いえ、そのようにがつがつせずとも――わたしの仲間はまだ七人、八人、この道に立っているはず――あとの衆は、そちらにいってやって下され」
 いったかと思うと、虚空坊のそばへはたはたとかけ寄ってきて、いきなり首ったまにしがみつき、ぶら下がり、両足を法師の腰へ巻きつけた。
「のう、わたしはあなたが気に入った。あなただけ、たっぷり可愛がってあげるぞえ」
「おい、みんな」
 と、虚空坊は牛みたいな舌でもう女の唇をしゃぶりながら、血ののぼったような声でいった。
「さきへゆけ、そっちにまだおるという辻君を買え」
 ――この七、八日、伊賀の忍者探しに血まなこになって、不本意ながら禁欲していたので、さっきの凶行でかえって火がつけられたとみえる。
 もう鼻息をあらくして、眼をひからせて駆け出す六人の仲間のあとから、思い出したような、あわてた虚空坊の声が追って来た。
「一刻のちに、猿沢の池のほとりで逢おう」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:46:43 | 显示全部楼层
    壊れ|甕《がめ》


     【一】

 ――背に長大な傘を背負い、八本の手足をうねらせながら歩いている影を見たら、人はなんと思うだろう。
 まず蜘蛛の妖怪としか判断のしようがないが、ちかづいて見れば人間だ。人間であるが、妖怪にちがいない。女を抱きあげ、これを犯しながら歩いている虚空坊であった。
 さっき闇からとび出した辻君にしがみつかれ、抱きあげて愛撫しているうちに、突然この体位が大いに気に入ったとみえて、そのまま足を運び出したのだ。さすがに女は身をもがいた。はては彼の頬をうち、からだをのけぞらしてのがれようとした。しかし、まるで鷲につかまれた子雀であった。虚空坊は頬をうたれるにまかせ、ゲラゲラ笑い、女の顔をなめまわし、そして女を犯しながら行進を開始したのである。この間、一足も女を地に降ろさない。――
「おうい」
 前にむかって呼んだ。
「辻君はおったか。おれは女を抱いたまま猿沢の池まで歩いてゆくぞ。これはおもしろい。みな、ためして見るがよい。だれとだれとが、猿沢の池まで保つか。――」
「心得た。やわか虚空坊に負けはせぬぞ。――」
 遠くで、陰々たる返事がきこえてくる。と、さらに、遠くから、
「猿沢どころか、こととしだいでは信貴山まで歩いてもよいぞ。――」
 という笑い声がこだまして来た。
 ……女たちは、木辻の遊女であった。いうまでもなく城太郎の依頼で、彼女たちは根来僧の誘惑にかかったのだ。たとえ相手が悪魔であろうと、城太郎のためにはどんなことでもしてやらずにはいられないという気にならせたのは、もとより平蜘蛛の釜の茶の魔力であった。しかし相手は――悪魔以上であった。
 さしもの遊女たちが、恐怖し、のたうちまわり、はては嘔吐さえもよおしはじめたのにも、この妖僧たちは、女の苦悶にいよいよその快味をかきたてられるらしく、二月堂からの夜の森がどよめくような笑い声をあげ、犯し、犯し、犯し、はなさない。かくて、約一町間隔で、淫靡凄惨な十四人「七体」の行進はつづく。

 森の梢で、笛吹城太郎は、惨としてこの光景を見下ろしていた。
 城太郎としては、ただ七人の法師を各個に分離させるために、遊女たちに頼んだことだ。それが――彼女たちが、かくも無惨な目に逢おうとは思いのほかであった。
 ――ゆるせ。と、胸でうめく。それから強いて冷たい心をふるい起こした。
 ――敵討ちのためだ。……おれの敵討ちのためだけではない。そなたらの朋輩――若草山の奥で、この法師らになぶり殺しに逢ったふたりの遊女の敵討ちのためだ。
 と、いいきかせた。それは彼自身への弁解であったが、この光景をながめ、篝火の非業の死に想いをはせると、いちど血はわきたち、つぎに冷えわたり、いかなる鉄血の男になろうと、この悪魔どもを殺さねばならぬと思う。
 ところで、彼は、べつの意味でも動揺していた。法師たちは分離した。たしかに分離した。が、それがこのようなかたちをとろうとは。――
 つけ狙う根来僧たちは、遊女と一体と化したまま移動しているのだ。
 たちまち、城太郎は樹に上り、梢から梢をわたってそれを追った。城太郎が彼らに発見されなかったのは、暗い夜や深い森や吹きわたる風のせいではなく、ただ彼らが歩行のたびに波うつ奇怪な快楽に全感覚をうばわれていたからであったろう。
 どの組が、だれか?
 一番目水呪坊。二番目羅刹坊。三番目空摩坊。四番目風天坊。五番目金剛坊。六番目破軍坊。七番目虚空坊。
 奈良の町でつけ狙っているあいだ、彼らの会話から、城太郎はすでに彼らの名を知っていた。が、名を知っていたとて、いまなんの役にもたたないが――城太郎が第一番に討ちたいのは羅刹坊であった。
 それは二番目をあるいている。
 城太郎は梢を|翔《か》けた。ときには、その羅刹坊がすぐ足の下を通ったこともあった。が、歩きながら女のきものをかみすて、ちぎりすて、いまや白い蛇をまといつかせたような羅刹坊を――女をぶじのまま討ち果たすことは不可能にみえた。鉄血の男になると誓ったくせに、城太郎にはまだそうなりきれぬところがあって、それが彼を一瞬ためらわせた。というまに、羅刹坊はゆきすぎた。
 森の中の道がつきようとする。向こうに水のようにひろがる月のひかりを見たとき、城太郎は愕然とした。
 森の外は野だ。そこまでゆかせては、各個撃破にならぬ。遊女たちに今夜のことを頼んだ甲斐がない。
 枝から枝へ、|猿《ましら》のごとく飛んで、彼は森の入口にちかい梢で待った。一番目の水呪坊をやりすごし、二番目の羅刹坊の通過するのを待つつもりであった。そのとき、野で声がきこえた。
「行者どの。――」
「まだでありますかえ、行者どの。――」
 笈をあずけ、野の草の中に待たせてあった別の遊女だ。法師たちを誘惑する役のほかに、まだふたりあまっていたのを、決して声をたてないようにといましめてあったのに、城太郎のためにいそいそと森へ消えた朋輩たちがどんな目に逢っているかは知らず、心ぼそさというよりむしろ|嫉《しっ》|妬《と》からふたりはたえかねて呼びはじめたのであった。
「――しまった」
 城太郎がつぶやいたとき、彼の梢の下で第一番目の水呪坊がピタリと立ちどまった。もはや相手をえらんでいる余裕はない。
 城太郎は枝を蹴った。刃をさかさまにしながらおちる刹那、
「おおっ」
 吠えて、水呪坊が腰をはねた。交合していた女の白い裸身が鞭のように法師の頭上を回転した。――一瞬、城太郎がそれを避けて、刃をクルリともとにもどしてしまったのは、嘆ずべきか、責むべきか。
 しかし、刃をさかさまにしていたなら、彼の刀身は女をつらぬき、大地を刺していたろう。女と重なって地におちた城太郎は、まるで女身の弾力を利用したかのようにはねあがり、とんと立った。
「忘れはすまい、伊賀の城太郎だ」
 さけんで、斬りつけるまで、水呪坊は一瞬、放心状態にあった。
 なにしろそれまで恍惚境にあったのだから、とっさに正気にもどらなかったとみえる。にもかかわらず、いま女をはねて盾としたのは、判断もなにもない根来忍法僧としての反射運動であったろう。
 眼前の閃光をみると、その反射で水呪坊はふたたびうしろにとびずさり、そして――この男らしくもなく、バタバタと逃げ出した。
「おういっ……出たぞ! きゃつだっ」
 森の中で、獣のうなるようなどよめきがきこえた。
 城太郎の左手があがった。マキビシを投げたのである。それが水呪坊の背に|霰《さん》|弾《だん》のごとくくいこむのを見ると、彼は身をひるがえした。そこまでが精一杯であった。
 笛吹城太郎は野の方へ逃げた。襲撃が失敗したことはわかったが、これ以上ふみとどまって、七人の法師すべてを相手にすることは、そもそも本願の敵討ちそのものを|放《ほう》|擲《てき》することにほかならなかった。
 十歩宙をとんで、彼はたちまちうしろに地ひびきの音をきいた。
 水呪坊が追ってくる。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:47:06 | 显示全部楼层
    【二】

 いま背に|霰《あられ》のごとくマキビシをたたきこまれた水呪坊が追ってくる。
 じつは、これで彼の正気は回復したのだ。いやに鈍感な動物のようだが、交合歩行のまっさいちゅう、頭上から突如としてむささびのごとく襲撃してくるもののあることを直感してからこのときまで、ほとんど一分ぐらいのことであったからむりもない。
 とはいえ、背中にそれだけのものを打ちこまれて、常人ならば地に這って七転八倒するところを、これで猛然と憤怒して、逆に襲撃者を追跡にかかったところは、やはり不死身の魔僧というよりほかはない。
「待て」
 背から血しぶきをひきながら、水呪坊は追った。
「あ、行者どのっ」
 野の草の中から、ふたりの遊女が立ちあがった。ばかなことに、かくれていればいいものを、逃げてくる行者姿の城太郎と、それを追う蝙蝠みたいな妖しい姿に胆をつぶして、きぬを裂くような声を、はりあげたのだ。
 いちど舌うちして、
「――逃げろ!」
 と、城太郎はさけんだ。とっさに、彼女たちのそばに平蜘蛛の釜がある、そこから彼女たちをはなさなければならぬ、と判断したのだ。しかも。――
「――こっちへ来い。……こっちへ逃げてこい!」
 と彼はいった。野には、いくつかのかすかな塔影を背に、三日月がのぼりかかっている。月光ともいえない暗い野であったが、忍者同士にはものみな真昼のように見えることを彼は知っていた。彼はある細工をすることを思いついた。女たちを呼んだのは、その細工を敵から看破されることをふせぐ盾とするためであった。
「待てっ、若僧!」
 嵐のように追ってくる水呪坊をふりかえりつつ、城太郎はいちど路に立ちどまって草の中から逃げてくる遊女たちを待った。そしてまた駆け出した。
 走りながら、ひっさげた一刀を左腕にあてて、みずから皮と肉を斬る。ふところから懐紙を出してそれをあてる。
 この動作と遊女たちのもつれる足にもかかわらず、水呪坊がなお追いつくことができなかったのは、やはり背にうけた傷と出血のせいであったろう。
「もうだめです」
「もう走れませぬ!」
 悲鳴のあえぎをあげるふたりの遊女を、城太郎は叱った。
「あそこに堂がある。あそこまでだ!」
 ゆくてに数本の杉にかこまれた堂があった。路はそれを回って東大寺の方へゆく。もういちどふりかえると、水呪坊は十間ばかりの背後にせまり、さらにいま通ってきた森から、黒衣の僧がもうひとり湧き出すのがみえた。これは遊女をふりおとしてきた羅刹坊にちがいない。左腕にあてた紙に、血はにじみひろがっていた。
「忍法月水面!」
 うしろで|怪鳥《けちょう》のような絶叫がきこえた。
 おそらく、その距離まで迫ってはじめて、射程距離に入った忍法月水面であったのだろう。同時に水呪坊の手から、ビューッといくつかの黒いつぶてが宙に投げられた。それは城太郎たちの走ってゆくさらに前方の路上まで|抛《ほう》|物《ぶつ》|線《せん》をえがいて、そこでぱっと花のようにひらいた。
 暗い月光だからそれは黒く見えたが、真昼ならば真っ赤な花と見えたはずである。女人の経血にひたして作られた水呪坊の忍法月水面。
 それは風に吹きもどされて、走る城太郎たちの面上に吸いよせられて来た。城太郎は刀をあげて、それを斬った。もとより奇怪な濡れ紙は切れず、べたっと刃に貼りついてしまう。のこりの紙は城太郎はもとより女たちの肩や胸に吸いついた。
「その堂のかげで待っておれ!」
 回る路に、よろめく彼女たちをつきとばすようにし、城太郎はこんどは彼女たちのあとから路を回った。顔におのれの血を吸った紙をおしあてながら。
 堂と杉の木にはさまれた路上に遊女たちはつっ伏したまま、背と腰を波うたせているばかりであった。そのなかへ、城太郎もつんのめって、それからそばの杉の木へ、もたれかかるようにして足を投げ出した。
 女たちの|喘《あえ》ぎは笛のようであった。たんなる喘ぎではない。彼女たちはからだに貼りついたものから、その部分から巨大な|蛭《ひる》に吸血されるような激痛に、声も出せずのたうっていたのだ。
 水呪坊は路を回り、はたと立ちどまり、こちらをすかし見た。城太郎たちのたおれているところは三本の杉と堂にはさまれて、墨のごとく暗い。が、水呪坊の眼はそこになにを見たか。――
「ふむ、手をやかせおった。……」
 会心の吐息をもらしたのは、こちらの光景をしかと見てとったのだ。
 が、つぎの瞬間、城太郎にとって恐怖すべきことが起こった。水呪坊はそのままそこにどっかと座ってしまったのである。
 おそらく、してやったり、という|安《あん》|堵《ど》|感《かん》とともに、背からのおびただしい流血のゆえであったろう。それにもはや|獲《え》|物《もの》はしとめたとみて、うしろからくる仲間の根来僧にあとをゆだねるつもりもあったかもしれない。
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