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楼主: asuka0226

[好书推荐] 山田風太郎忍法帖3 伊賀忍法帖

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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:53:40 | 显示全部楼层
     【三】

 信貴山をはせ下れば|斑鳩《いかるが》の里だ。
 もうまったく日ののぼった平野の道を、疾風のごとく夢中で駆けて――五人の法師が|郡山《こおりやま》に入ったとき、奈良の方からやってきた松永弾正の行列とゆき逢った。
 きのう一日一夜、右京太夫をもとめて奈良一帯をさがしぬいた松永弾正はついに獲物を得ず、ひとまず信貴山城へひきあげるべく、朝早く奈良を出たものであった。
 右京太夫の失踪については、そのゆくえのみならず、その理由についても、彼はまったく見当がつきかねた。恐ろしく気にはかかるが、京へかえった三好義興の事後の行動も|端《たん》|倪《げい》をゆるさないし、とくにその内部に漁火を送りこんだ以上、遠からず向こうからか、こちらからか、なにか事を起こさなければすまない予感があるから、なによりもまず城にかえって、いろいろと準備する必要がある。
 郡山で五人の根来僧に逢って、弾正は信貴山城に起こった怪異をきいた。
「――右京太夫じゃ!」
 笛吹城太郎をのがしたことを怒るよりも、電光のごとくひらめいたこの考えに、弾正は衝撃された。
「伊賀の忍者を助けて逃げたその女は、右京太夫じゃ!」
「えっ、では、あれは漁火さまでは――」
「漁火は、京へいったわ」
 根来僧はそのことをはじめてきいた。
「う、う、右京太夫さまが……ひとりで……信貴山城へ……笛吹城太郎を助けに……」
 とぎれとぎれにいったが、それらの言葉がとっさに頭の中で結びつかない。彼らは阿呆みたいに口をアングリとあけたままであった。
「右京太夫は三好勢から消えた。それをおれはいままで探しておったのじゃ。ううむ、さては笛吹を救いに信貴山城へ走ったのじゃな。な、な、なんたる不敵な。――」
「なぜ、右京太夫さまが、きゃつを救いに――?」
「そんなことは、おれの知ったことか?」
 弾正は吼えた。が、彼の脳裡でこのとき漁火がいった――「あの若者は平蜘蛛の釜で猿沢の池の水をくんできて、右京太夫さまに口うつしに飲ませておりました」――という言葉がかすめ、ぎょっとした。
 漁火は猿沢の水といったが、きゃつ、右京太夫さまに淫石の茶を服ませたのではないか?
「ふたりをつかまえろ、その両人が信貴山城から逃げた時刻からみるに、笛吹はともあれ右京太夫の足で、かようなところまできておるはずはない。――かならずまだ斑鳩の里のいずれかにひそんでおる。ひきかえして、捜せ!」
 五人の法師はもとより、弾正麾下の兵たちは狂奔しはじめた。

 法隆寺の五重の塔の屋根に、笛吹城太郎はヒタと伏して、ゆるやかに|相《そう》|輪《りん》をまわりながら、下界の四方を見まわしていた。
 薄暮であった。
 その頬の凄壮さはもとより信貴山城をのがれ出したときと変わらないが、わずか数刻のあいだに眼が異様な精気とかがやきをとりもどしているところをみると、どこかで食をとったものであろう。あるいは、ほんの数時間にせよまどろんだのかもしれぬ。
「ははあ」
 と、彼は微笑した。
「あんなところを走ってゆきおる」
 眼のかがやきに愉しげなものさえみえるのは、右往左往する敵をおもしろがっているのか、精気を回復したせいか。――いや、それは奈良をめぐるいくたびかの死闘のあいだには見られなかったものだから、べつに理由のあることかもしれぬ。右京太夫はどこにひそんでいるのか、むろんそんなところにいるはずがない。
 偵察したところ、松永の兵たちは斑鳩の里一帯をしらみつぶしに捜索しているが、それは同時に四分五裂しているということでもあった。
「や、……」
 城太郎の眼がぴかとひかった。
 中門をくぐって、ひとりの法師が、追いすがる二人の僧をはらいのけはらいのけ、境内に入ってきたのだ。制止しようとしているのは、もとより法隆寺の僧である。
 ヒョロリと背がたかいその法師を見て、
「風天坊だな」
 と、城太郎はつぶやいた。
 風天坊は右手に金剛杖、左手に鎌をにぎっていた。鎌のひかりよりも、それをにぎっている左手に、城太郎は心中うならざるを得ない。それはかつて城太郎に切りおとされたものであるからだ。
 ふいになにやら|怪鳥《けちょう》のような声で風天坊がさけんだ。
 その左手から鎌がとび、五重塔と相対する|金《こん》|堂《どう》の扉にぐさっと立ちかけて――そのまま空中から、はねかえって、ブーンと音たててもと通り左手におさまった。
 二人の僧はこの幻妙の術にぎょっとしたように眼をむき、それからころがるように中門から外へ逃げていった。
 僧を追いはらった風天坊は、うす笑いしてまた金堂の方へちかづきかけた。その中には、当寺|根《こん》|本《ぽん》の本尊たる|金《こん》|銅《どう》|薬《やく》|師《し》|像《ぞう》と|金《こん》|剛《ごう》|釈《しゃ》|迦《か》|三《さん》|尊《ぞん》と、|弥《み》|陀《だ》三尊が安置してあり、また有名な|玉《たま》|虫《むし》|厨《のず》|子《し》がおさめてある。
 扉に手をかけたとき、
「風天坊」
 空から声がふってきた。
 風天坊は|基《き》|壇《だん》の上から稲妻のようにふりむき、徐々に五重の塔の上に視線をうつしていって、
「――おおっ」
 と、さけんだ。四、五歩、中門の方へ走りかけて――空から、
「ふふん、仲間を呼んでくるか。では、おれはゆくぞ」
 という声をきくと、またそこに釘づけになり、もういちど天空をふりあおいだ眼が、しだいに凄じい殺気に血光をはなって来た。
「城太郎、|相《あい》|対《たい》の勝負を望んでそういうか。……おもしろい、おれひとりで勝負してやろう」
 両手に金剛杖と鎌を翼のごとくひろげると、
「よいか。――ゆくぞ!」
 さけぶと、墨染めの袖をひるがえし、|鴉《からす》みたいに空をとんで、五重の塔の一重めの屋根におどりあがった。とみるや、ぱっとまた空中にはね出して二重めの屋根に立ち、更に風の中を回転して三重めに達し、息つぐひまなく四重めの屋根におどりあがった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:54:03 | 显示全部楼层
 彼の誇る忍法枯葉返し。――あえて笛吹城太郎の挑戦に応じた自信も道理、その肉体はみえないばね[#「ばね」に傍点]と鎖につながれているようで、まさに地上の物理学をもってしては律することのできぬ超人的なわざだ。
「伊賀者」
 四重めの屋根に立ち、最上層の屋根の軒をあおいで、風天坊はニヤリとした。
 敵にとっては逃げるところのない五重めの屋根の上に、じぶんにとっては無限の空間を背後にもった決闘だ。さらにこの杖、この鎌に、投げて当たれば敵ははるか下界の大地へ転落するし、当たらなければまたじぶんの掌中にはねもどる。
 ――きゃつ、なにを血迷うてこの屋根に上がったか? いや、おれを呼んだか?
 あざ笑いつつ、風天坊はもういちどいった。
「覚悟はよいか!」
 声はすでに空中にあった。
 大鴉のごとく羽ばたいたからだが、五重めの屋根の空へ舞いあがって――いや、舞いあがろうとしたとたん、上からも大鴉が舞い下りて来た。もとより風天坊はそれまで空中にはね出すたびに、大空からのマキビシ、手裏剣にそなえて、杖と鎌をかまえていた。げんにいまもそれをかまえて舞いあがったのだが――襲いかかったのは、敵の全身そのものであった!
 なんたる無謀、笛吹城太郎は百五十尺の大空へ、風天坊同様に飛び出したのである。
 |戞《かつ》|然《ぜん》! 音たてて城太郎の刀と風天坊の鎌がかみ合い、鎌は空中に飛ばされた。しかし鎌よりも、人間のおちる方が早かった。
「わあっ」
 風天坊は絶叫した。
 彼の腰は、城太郎の両足に巻きつかれていた。さしもの忍法枯葉返しも二人ぶんの重力ではきかず、ふたりはからみ合ったまま、風を切って、大地へおちていった。
 それが――大地におちなかった。
 第一層と第二層の中間でとまった。とまった刹那に、城太郎は風天坊の首をかき切った。
 血まみれの刃を口にくわえて、右手で綱をひっつかむ。彼の右の足くびには綱がむすばれて、五重の塔のてっぺんの|相《そう》|輪《りん》につながっていたのである。
 足をはなすと、首のない風天坊の屍骸は、これだけ大地へおちていった。なお、しっかと右手に金剛杖をにぎったまま。――
 生首の総髪をひとつかみにして帯にはさむと、城太郎は綱をつたって、もういちど|猿《ましら》のごとく五重の塔の上へのぼっていった。
 ――最初、大地を蹴って風天坊が舞いあがってからこのときまで、一分たつかたたないかのことであったろうが、斑鳩一帯を血眼で捜索していながら、夕空のこの死闘に気づいたものは、松永の兵でひとりもなかった。法隆寺の僧が、五重の塔の|水《すい》|煙《えん》に一つの生首がぶら下がっていることに気づいたのは、その翌朝である。

 その夜明け前、法隆寺からそっと忍び出て、奈良へ走っていった二つの影があった。
「右京太夫さま、お背負いいたしましょうか」
「いいえ、大丈夫です」
「お背負い申しあげた方が早いのです」
 城太郎は四方を見まわしていった。
「まだ松永のものがこのあたりをウロウロしておりますので」
「――では」
 右京太夫は、はじらいながら城太郎の背にかぶさった。彼の力をもってすれば、蝉の羽かとも思われるほど軽い右京太夫のからだであった。
 その肩から、|暁闇《ぎょうあん》にもキラリと金緑色にひかるものが地におちた。
「おや」
「まあ、玉虫の羽根です。……玉虫のおん厨子から、いつおちたのかしら」
 城太郎の肩の上からのぞきこんだ右京太夫が驚いていうと、匂やかな息が城太郎の頬にふれた。彼は、自分の背負ったものが、あえかな玉虫の精であるような気がした。
 城太郎は右京太夫を背負ったまま疾駆した。まだ夜明け方の奈良の町へ入ると、人目のないのをさいわいに、ふたりは東大寺の焼け跡へいってみた。たんなる好奇心ではない。――あの炎のなかの記憶をたしかめるために、ふたりの足はそこに吸い寄せられたのだ。
 凄じい|灰《かい》|燼《じん》のあとであった。焼けた木や金物の黒い広野といってよかった。風が吹くたびにあの世のように白い灰が立っていた。
 ――その果てに、大仏はそそり立っていた。
 蒼味がかった|黎《れい》|明《めい》の空にそそり立ってはいるが、その大仏には首がなかった。首のない大仏は、劫火に煮えたぎったあとを腫物みたいにぶつぶつとした泡にとどめて、なんとも名状しがたいもの凄じい怪物と化していた。
「……あっ」
 身ぶるいをし、また茫然としてそれを仰いでいる右京太夫を、いきなり城太郎は横抱きにして、その首なし大仏のうしろの方へ回った。
 遠くから四つの法師の影が走って来た。
「はてな、いまここに二つの影が立ってみえたが」
「風に立つ灰がえがいた幻ではないか。――」
「いや、そんなはずはない。――ひょっとしたら、きゃつらではないか?」
「あの伊賀者が、いまごろまで斑鳩あたりをウロついておるはずはないのだ」
 その声を、大仏の肩のあたりで、城太郎と右京太夫はきいていた。
 風天坊の首なしの屍骸はかくしたから、まだ昨夜のうちにはだれにも気づかれなかったが、それでも次第に法隆寺界隈に不審をおぼえ出したものとみえ、松永の兵士たちが夜じゅうあたりを|徘《はい》|徊《かい》して、夜明けちかくなるまでそこを離れられなかったのだが――はやくもこの奈良の町へ先行して来ていたとは、カンがいいのか、考えすぎか、とにかく執念ぶかいやつらにはちがいない。
 いうまでもなく、それは四人の忍法僧であった。虚空坊、空摩坊、破軍坊、金剛坊。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:54:28 | 显示全部楼层
    大仏供養


     【一】

 人も知るように、奈良の大仏は数度焼けたり、崩れたりした。
 天平の|御《み》|代《よ》、聖武天皇によって|建立《こんりゅう》されてから約百年後、地震によって大仏頭がおち、ふたたび|鋳《い》て|開《かい》|眼《げん》の式を行なったが、さらに三百余年を経た治承四年、平家の南都攻めでまた炎上し、鎌倉時代に三度めの開眼供養をした。
 それがこの永禄の世、松永弾正の暴挙によってまたも大仏殿は焼失し、大仏頭は砕けおち、大仏が再興されたのは元禄四年であり、大仏殿が再建されたのは宝永六年である。
 つまり、現代われわれが見る奈良の大仏頭は江戸時代のものであり、尊体は鎌倉時代のものであり、奈良時代のものは腰部以下の|蓮《れん》|弁《べん》にすぎないのである。
 すなわち、永禄から元禄まで百二十余年、大仏さまは首がなく、しかも大空の下に、雨に打たれ、風に吹かれるままという世にもいたましい姿で鎮座していたのであった。

 首のない大仏さま。
 もとより礼拝するものもない。それどころか、ちかづくにつれて、その焼けただれた金銅の肌のむごたらしさに、みな足をとどめ、それから顔をそむけて逃げ去ってしまう。
 ただ、蒼天から舞い下り、首のない穴から嬉々として入り、また嬉々として飛び立ってゆくのは燕のむれだけであった。
 人々にはそう見えた。しかし、燕は中に入って、そこに思いがけなく人がいるのにびっくりして逃げ出してゆくのであった。
 大仏の腹の中に、笛吹城太郎と右京太夫が住んでいた。
 なにしろ首をのぞいても、五丈三尺五寸という座高をもつ大仏さまだ。その胎内には無数の|※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]材《きょうざい》が縦横に組まれて、支柱をかたちづくっていた。いちばん下には雨水がたまって、古鏡のようにうすびかっている。雨はいくどかふったが、焼けただれた金銅の亀裂からながれ出して、その残りが底にたたえられているのだ。
 その水にちかい巨大な横の※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]材の上に、寝床をつくり、右京太夫は横になっていた。この大仏が燃えたときの衝撃と、そのあとの信貴山城への往還の疲労から、深窓の花のようにたおやかな右京太夫は、病んで、数日ここに横たわっているのであった。
 むろん、四人の根来僧と松永弾正の家来たちの捜索の眼をのがれるためだ。根来僧たちはいちど夜明けの薄明に城太郎と右京太夫を発見したように思い、そのときはそれを錯覚として立ち去ったが、どうしても奈良のどこかにひそんでいるものとみた推定をすてず、あれ以来奈良から四方に出る路をすべて絶ち、執拗に町じゅうの捜索をつづけているのであった。
 寝具も食物も、夜になってから城太郎だけが外に出て、手に入れて来た。
 病んだ右京太夫のからだを案じつつ、城太郎は右京太夫の恢復を恐れた。病気というほどではない。疲労がすぎたというていどだ。
 ふたりは語り合い、すべてのいきさつを知った。
 しかし、飽きずにまた語り合った。右京太夫は、ふしぎに大仏殿炎上のときの恐怖や、信貴山城の石牢で見た光景などを語りたがらず、いちばん|篝火《かがりび》のことをききたがった。
「おまえの妻はなにが好きでしたか」
 とか、
「篝火はどんな唄をうたいましたか」
 とか、
「篝火と、よくどんな話をしましたか」
 とか。――
 まるで現在のじぶんの境遇も忘れたかのような問いを、飽きもせず、いくども城太郎に投げかけた。それにこたえながら、城太郎は楽しかった。苦しい中にも楽しかった。
 苦しいのは、篝火のことを思うからだ。篝火の死霊の切々たる訴えは、なお|耳《じ》|朶《だ》にこびりついている。
「いつかの約束――笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つという誓いを忘れないで。――」いわんや彼は、その篝火の敵を討つために、これからもなおいくたびか死地に赴く運命を抱いているのだ。
 女を断つ。……
 おれは右京太夫さまを恋しているのか?
 恋してはいない。恋などするには、あまりにもったいない。篝火のような|傾《けい》|城《せい》とはちがう。右京太夫さまは、第二の将軍ともいうべき三好家の若殿さまの御台さまなのだ。身分ばかりでなく、その玲瓏たる姿、心、それはまさに天上の女人であった。そしてなによりおそろしいのは、右京太夫さまに夫義興さまがあるということであった。妻を奪われた夫の哀しみを、おれほど知っているものはない。――
 にもかかわらず、この否定や自制や悶えの中にこもるふしぎな甘美さはなんだろう?
 薄暗い大仏の胎内の底で、水あかりに笑む右京太夫の無邪気な顔から、城太郎はいくども眼をそらそうとした。しかも、そらそうとすればするほど、眼はいつしか恍惚とその笑顔に吸いつけられているのであった。
 ――それまで城太郎は、例の「淫石」を懐中にひそめていたが、右京太夫を見ているうちに、その物質が突如として恐ろしく、けがらわしいものに意識されて、ひそかに焼跡の灰の中にすててしまった。
 無邪気な笑顔で城太郎を見つつ、右京太夫も悩んでいた。
 この男は何者か、と思う。素性もしれぬ伊賀の郷士ではないか。彼を救ったのは、じぶんが救われたからだ。ここにとどまっているのは、自分が病気だからだ。それだけのことだ。いまの疲れさえなおれば、じぶんはすぐにも京へ帰らねばならぬ。
 そう思っているのに、右京太夫はなぜかいつまでもこの奇怪な棲家の中に病んでいたかった。甲斐甲斐しく看病する城太郎の一心不乱の顔をみていると、京へ帰った夫義興の面影さえうすれた。いや、それは大仏の胎内でこの伊賀の忍者といっしょに住み出してからのことではない。あの、この世ともあの世ともしれぬ塀のかげで、炎の遠明りを受けて幻のようなこの男の顔を、最初に見たときからのことだ。
 最初に見た? ――彼女は、ずっと以前から城太郎を知っていたような気がした。あれは運命がひきよせた前世からの魂同士の再会ではなかったろうか。じぶんはあの篝火とやらの生まれかわりではあるまいか。それならば、この男とともに、山と雲のみの伊賀国へいっても当然のことだ。
 右京太夫は戦慄した。そして城太郎をおそれ、にくもうとした。にもかかわらず、彼をみると、彼女はとろけるような笑顔にならずにはいられなかった。苦しんでいる城太郎はよくわかり、わかると彼女は、生まれてはじめてといっていい悪魔的な心になって笑わずにはいられないのだ。しかも気がついてみるとそんな戦慄や皮肉を忘れはてて、ただ春風に吹かれる花のように無心に笑んでいるのであった。
 朝が来、|夕《ゆうべ》が来た。
 昼は灼熱の太陽が光の瀑布となって大仏の首の穴から降った。しかし、それ以外は厚い金銅とふとい※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木にさえぎられ、底の水に熱を吸われて、空気はヒンヤリと涼しかった。そこには、ほんとうの雨の滝さえおちなかった。夜は高いまるい首の穴に、その部分だけ月輪が通り、銀河がかかった。
 ふたりの眼には、この怪奇壮大な大仏の胎内が、幻の城のように見えて来た。
 この世に生きているものは、ふたり以外に存在しない幻の城。――いや、燕だけがやって来た。はじめおどろいて逃げていった燕は、そのうちに馴れて安心したのか、へいきでそんな下まで訪れるようになっていた。そして、ふたりそのものが、いまや二羽の燕のようであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:54:59 | 显示全部楼层
     【二】

 ……七日たったろうか。十日たったろうか。
 月が西に沈みかかった夜明け前のことであった。いつものように城太郎は、ある民家からむすびを仕入れて大仏に帰って来た。
 仏頭がおちたあとの突起に綱をひっかけ、音もなくスルスルと彼は胎内の底へ下りて来た。
 例の巣に、右京太夫はまだ眠っている。闇黒の中であったが、闇にも見える忍者城太郎の眼のせいばかりでなく、夜光虫のように|仄《ほの》びかって浮かんでいる右京太夫の美しい寝顔であった。
 彼の巣は、右京太夫の寝床より一段下の※[#「※」は「木+共」Unicode=#6831]木の上に作ってあった。右京太夫を目覚めさせないように、そこにいちど横たわった城太郎は、ふと大仏の首の穴からのぞく蒼い夜明け前の空から、ヒラヒラと白い一枚の紙が舞いおちて来たのを見て、がばと身を起こした。
 |猿《ましら》のように|跫《あし》|音《おと》もたてず、※[#「※」は「木+共」Unicode=#6831]材をそっとわたって、彼はその紙片を受けた。
「なんじ空摩坊に|尾《つ》けられたり。
 空摩坊はなんじのゆくえをつきとめ、馳せかえりぬ。三人の|眷《けん》|属《ぞく》を呼ぶためならん。おそらくは右京太夫さまを伴いて脱出するのいとまなからん。
 われ、なんじの身代りとなりて彼らの眼をそらすべし。なんじの行者衣装をこの綱に結べ。いそげ」
 城太郎は、はっとして空を仰いだ。高い首の穴に何者の影もない。
 敵のたくらみか、といちど思った。が、ふたたび紙片に眼をおとした彼は、思わず心中にうめいた。見おぼえのある文字だ。それは篝火を奪われたあと、伊賀街道で失神からさめたじぶんの懐にあったふしぎな紙片とおなじ筆蹟であった。
 あれはなにびとか、といまでもときどき彼は思い出すことがある。わからない。そしてまた、先日猿沢の池で根来僧らと激闘したとき、法師らを四散させた黒衣の騎馬隊を思い出す。あの紙片を残したものは、その黒衣の騎馬隊とつながりがあるのではないか? また右京太夫からきいたところによると、その一人が右京太夫を三好義興のところへ送りとどけたという。
 猿沢の池でのときは、ふと服部一党のことを思ったが、右京太夫の一件をきけば、服部一党がそんなことをするわけもなく、ましてやあの伊賀街道の忠告書をかんがえると、あのとき伯父の半蔵が弾正の|爪《そう》|牙《が》たる根来僧のことを知っているわけはないのだから、この疑いはいよいよ否定される。
 といって、ほかに思いあたる人間はこの世にないが――少なくともそれはじぶんに悪意のある人間ではないらしい、城太郎は漠然と感じていた。
 城太郎は、いまこれらの思いを、刹那に脳裡によぎらせた。一瞬、彼は迷い、つぎの一瞬彼は決意した。
 この突然の警告には従うべきである。ここにいるのは、じぶんだけではない。迷うことは、ぬきさしならぬ危地に陥ることだ。ことは遅延をゆるさない。
 彼は、クルクルと下帯ひとつになり、きものを垂れ下がった綱にむすびつけた。信貴山城を逃げるとき盗んできた刀だけは※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木上においた。
 なんの声もなく、綱は頭上にひきあげられていった。
 すぐに、きものの消えた綱だけがふたたび垂れ下がってきた。それから、また一枚の紙片が。――「隙を盗んで、大仏を逃げよ」

 夜明け前の奈良をあるいていた空摩坊は行者姿の笛吹城太郎の姿を発見し、襲撃しようとして右京太夫のことを思い出した。それで彼を尾けた。
 城太郎が首なし大仏の中に消えたのを、さすがに彼はアングリと口をあけて見あげていたが、一息ほどの思案ののち、疾風のように馳せ去った。三人の仲間を呼ぶためだ。
 ようやく根来僧も、あの伊賀の若い忍者が最初に思ったほど手軽いやつではないと観念をあらためていた。味方ながら無双の魔人とゆるしていた羅刹坊、水呪坊、風天坊らが、着々と討ち果たされたことを思えば、それも当然だ。
 たちまち空摩坊は、金剛坊、虚空坊、破軍坊をつれて大仏の前に駆けもどってきた。
 いかにも――空摩坊が城太郎の巣をさがしあてたことを知った人間がたとえ同時に城太郎に、脱出を忠告しても、すくなくともたおやかな右京太夫を伴っているかぎり、両人ともに逃げることは不可能であったにちがいないほどわずかな時間であった。
「……うーむ」
 大仏を仰いで、四人の忍法僧はうなった。彼らは大仏の右肩に座っている白い行者姿を発見したのである。その上に腰を下ろし、立てた片膝に頬杖ついている姿は、下界の惨たる灰燼のあとをながめて、|修《しゅ》|羅《ら》の世をなげくあまり忘我の境にあるとも思えたが、ちかづく四人に気がついたふうもなくそのままの姿勢でうごかなかったのは、彼らを小馬鹿にしているようにも見えた。
「金剛坊!」
 と、破軍坊がいった。
「きゃつをあそこから追い落とせ!」
「また首の穴に逃げこむかもしれぬぞ」
「ならばいよいよ袋の鼠だ」
「よし!」
 さけぶと、金剛坊は腰の帯にさしつらねた天扇弓をひとつかみして、ビュッと大空へ投げた。それは大仏の右肩の空でパッとひらくと、例の針を下へむけて、雨のごとくふりそそぎはじめた。
 行者は立ちあがった。それはふいに根来僧に気がついたようなあわてたそぶりであった。あわてたそぶりで、彼は大仏の右肩から右腕をつたい、タタタタと右掌まで駆け下った。
「きゃつ!」
 四人がさけんだのは、大断崖に似た金銅の壁をすべりもせず、足に吸盤のあるように駆け下りたその体術と、右掌のかげにかくれて姿を消したその|狡《こう》|猾《かつ》さに思わず心で地団駄ふんだうめきであった。
 大仏の右掌は垂直にちかく立てられている。――
「乗れ」
 と、虚空坊がいって、背中からぬきとった長大な傘をぱっとひらいた。
 その上に、金剛坊、空摩坊、破軍坊が軽々ととび乗った。みじかい傘の柄が虚空坊の両手のあいだでキリキリとおしもまれると、傘はフワと空に舞いあがってななめ上に――大仏の左掌に向かってながれ飛ぶ。
 左掌の上に達すると傘は自然とたたまれて、その掌の上に三人をこぼし、あと大仏の右袖に軽くぶつかってそのまま台座へすべりおちてゆく。
「笛吹城太郎」
「きょうこそこの大仏とおなじく首なしにしてくれるぞ」
 左掌の上に三人の忍法僧は、ならんで立ってわめいた。大仏の左掌は水平で、そのひろさは、たたみ四畳半くらいであった。
 そこに立てば、右掌のかげにすっくと立っている行者の姿はまる見えだ。――とはいえ、そのあいだの距離は、なおちょっとした峡谷ほどあって、それに行者頭巾の布をまわして眼ばかりのぞかせた笛吹城太郎がどんな表情をしているのかはよく見えぬ。
 破軍坊の腰から一条の鎖がほとばしり出た。それが横に旋回したかと思うと、たちまち二丈ちかい鋼鉄の棒のように空中へ上がっていって、そのままいっきに右掌のかげの城太郎めがけてたたき落とされた。
 行者は飛んで避けた。
 五本の指が壁のようにさえぎって前へはすすめぬ。うしろへ飛んだ彼をめがけて、その頭上に無数の天扇弓がながれ飛んだ。――と、ふいに、
「おおっ」
 と、空摩坊がさけんでよろめいた。その右肩に天扇弓ならぬ一本の矢がつき立っている。――
 とみるまに、そのあたり一帯――巨大な金銅の肌に、|霰《あられ》のような音をたてて矢があたり、折れ飛ぶのが見えた。
「黒衣の騎馬隊だっ」
 下界で絶叫がきこえた。虚空坊の声だ。
 左掌の上の三人は、大仏の前――|黎《れい》|明《めい》の灰燼の中に十騎あまりの黒衣の影がまっ黒な馬にのって、なお弓に矢をつがえているのを見た。
「きゃつら――また現われたか?」
 うめいたとき、右掌のかげの行者頭巾は白鷺みたいにいっきに大仏の右膝にとびおり、さらに台座へと跳躍した。天扇弓を斬りはらったため、彼はすでに抜刀している。
「待てっ」
 台座の下にいた虚空坊は、すべりおちて来た彼の武器「かくれ傘」をまだ拾ってはいなかった。
 発狂したようなわめき声をあげ、台座から羽ばたきおりる行者めがけて大薙刀で斬りつけた虚空坊は――相手の姿勢からたしかに胴斬りにしたと思ったのに――ただ軽くなった薙刀の柄を空振りして、みずからキリキリ舞いをしただけである。
 大薙刀を千段巻きから斬っておとした山伏は、そのまま灰燼のあとをななめに逃げてゆく。――その向こうには、なお矢をつがえた黒衣の騎馬隊が、にくらしいほどおちついて、輪乗りしながら待ち受けていた。
「きゃつら」
「のがすな」
 大仏の左掌から肩の矢をひきぬいた空魔坊と破軍坊もまろびおちた。
 逃げていった行者を馬の一頭にひきずりあげ、相乗りさせると、黒衣の騎馬隊は悠々とひきあげにかかっている。
 まだうずたかく残る灰を黒煙のごとく蹴ちらして、虚空坊、破軍坊、空摩坊は追っかけた。いまは彼らは、笛吹城太郎そのものよりも、この黒衣の騎馬隊のたとえひとりでもひっとらえて正体をあきらかにせねば腹の癒えぬ思いであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:55:18 | 显示全部楼层
     【三】

 ――大仏の首の穴ちかい※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木の上に這って耳をすませていた裸の笛吹城太郎は、外からひびいていた争闘の物音が消えたことを知った。そして、
「――隙を盗んで、大仏を逃げよ」
 という先刻の忠告状を思い出した。
 遠く鉄蹄の音が遠ざかってゆく。外の事態はよくわからないが――いまだ。
 彼は綱をつたい、下におりた。
「奥方さま」
 と、彼はいった。むろん右京太夫は目覚めて、身支度はしていたが、
「どこへ、城太郎」
 と、哀しげにいった。
「どこへ?」
 城太郎は、右京太夫に優しく笑いかけた。
「どこへでも」
 そして彼女の胴に手をまわした。彼女をかかえて、綱をよじのぼろうとしたのである。そのとき彼は、ふいに右京太夫をつきとばすようにして※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげにともに身を伏せた。
「見えたぞ」
 空から声が降ってきた。
「いや、見えてござるぞ、右京太夫さま。おかくれなされてもむだだ」
 おぼえがある。金剛坊の声であった。
 そして、大仏の首の穴に、総髪の青黒い顔がのぞいた。とみるまに、その全身があらわれて、綱をつたわって下りてきた。綱をつかんだまま、一番高い横なりの※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木の上に立ち、下をのぞきこんでまたいう。
「笛吹城太郎は逃げた。いや、逃がしはせぬが――ともかくもこの大仏からは逃げ去った。しかし、あと右京太夫さまが残っておわすことは、金剛坊、存じておるのだ」
 その通りであった。さっき大仏の左掌の上で、ほかの二人とともに駆けおりて、逃げゆく行者頭巾を追おうとし、ふいに彼は、この大仏の胎内に右京太夫だけは残っていることを思い出したのだ。
 はたせるかな、大仏の底に、たしかにチラとはなやかな色どりが見えた。――
「おいでなされ、右京太夫さま、おとなしゅうなされば、当方も手荒なことはいたさぬ」
 また綱を伝って、一段下の※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木に下りる。
 城太郎は音もなく、※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげからかげにうごいた。いま、一瞬に全身に浮かんだ冷たい汗のために、不覚にも吸いついた手足がすべりそうであった。
 冷汗は、発見されたという恐怖のためばかりではなかった。すぐに彼は、金剛坊が見つけたのは右京太夫さまだけであることを知った。金剛坊は、行者の衣装をつけた「あの人物」をじぶんだとばかり思って、ここにいるじぶんを眼に入れなかったのだ。いまならば――この刃を投げれば、きゃつを討てる! いちどそうかんがえて、刀の柄に手をかけ――待て、きゃつひとりを討っても、あとにまだ三人の根来僧がおるのではないか、と思いなおした。汗は、この殺気の衝動をねじふせた渾身の努力のためににじみ出したものであった。
「右京太夫さま、いちど信貴山城にゆかれましたそうな」
 金剛坊はまた下りてきて、※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木にとまってのぞきこむ、眼はじいっと下の右京太夫にそそがれている。しかし徐々に※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげからかげを離れ去った笛吹城太郎には気がつかなかったらしい。が、実に用心ぶかいやつだ、一方の手を腰にたばさんだ天扇弓からはなそうとはしない。
「どうでございました。なかなかよい城でござろうがな」
 綱をつたって下りる金剛坊と、※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木のかげを這いのぼる城太郎は、空間的に上下入れちがった。
「もういちどおいでなされ、このたびこそは弾正さまねんごろにおもてなしなされましょう」
 すでに右京太夫と一間の距離に迫って、頭上からにやっと、口を耳まで裂いた金剛坊が、このときなにを感づいたか、鞭みたいに※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木の上にはねかえって、
「だれだっ」
 吼えると、その手から、まさに「扇」のごとく天扇弓を放射した。
 が、その大半は無数に入りくんだ※[#「※」は「木(きへん)」+「共」Unicode=#6831]木につき刺さり、さえぎられ、そして彼は、その一本をつたわって馳せよってくる裸体の若者の姿を見とめた。
「あっ、笛吹っ」
 恐怖の眼をむいて、もういちど腰の天扇弓をなげようとする。――すでに眼前の頭上に迫った笛吹城太郎は、
「四人目だ!」
 絶叫して、その総髪の頭から、真一文字に斬り下げた。
 ――しばらくののち、首のない大仏の左掌にのせられた法師の首が、唐竹割りの傷から血の|網《あみ》を張って、夏の朝のひかりに照らされていた。

 奈良街道の方へ向かって、右京太夫の手をひいて走る裸の笛吹城太郎は、うしろから駆けてくる鉄蹄のひびきに、はっとしてふりむいた。
 馬は二頭、鞍に人影は見えなかった。
 城太郎はその一頭の鞍に、じぶんの行者衣装がひとたばにして、結えられているのを見た。それをとらえて衣装をほどくと、一枚の紙片が地に舞いおちた。
「京へゆけ。三好義興さまに魔性の女人とり|憑《つ》けり。右京太夫さまを返さざるは、義興さまのみならず右京太夫さまをも地獄に堕すことなり。|臈《ろう》たき女人を修羅の世界にさそうなかれ。
 京へゆけ、笛吹城太郎」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:55:40 | 显示全部楼层
    女郎蜘蛛


     【一】

 ……三好義興は|閨《ねや》に横たわり、大きく胸をあえがせていた。
 深夜だ。|絹《きぬ》|雪洞《ぼんぼり》の灯が、天井に大きな輪をえがいている。その灯の輪がグルグル回り出した。それが虹みたいに七彩の色に変わった。――義興の全身が、大きく|痙《けい》|攣《れん》した。
 彼の股間から、女が顔をあげた。コクリコクリと、白いのどがうごいた。
 いちど義興の眼に、天井の虹の輪はすうっと消えたが、その代りに唇をぬれひからせた|妖《よう》|艶《えん》な花のような顔が、ちかぢかとさしのぞいた。
「おいしい。……」
 笑った唇から、栗の花粉のような匂いのする吐息が吹きつけられる。すべっこく、ねばねばした女の肉は、たわわに重く、もう義興の肌に重ねられていた。
「ねむらせてくれ。ねむい。……」
 と、義興はいった。
 ねむいよりも、彼は後頭部がいたんで、吐き気さえもよおしている。この刹那は、ほんとうにこの恋する妻がいとわしかった。
「いいえ、ねむらせない。わたしたちはまだ若いのですもの。若い日の夜は、そんなに長くはありませんもの」
 そむける義興の唇に、ぬれた唇がなまめかしく吸いつき、舌を微妙にはたらかせながら、たおやかな四肢はもとより、熱い乳房も、なめらかな腹も、からだじゅうの筋肉を淫らにすりつけ、波うたせ、まといつかせる。
 いったい妻はどうしたのだろうか、京に帰ってから、いくたびとなく義興の頭を去来するのはこのおどろきであった。まるで人が変わったとしか思われない。あのつつましやかで愛くるしかった妻が、奈良からもどってから、じつに恐るべき淫婦と化した。
 あの大仏炎上の衝動が、彼女の細胞を染めかえたのか。あの|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎が、彼女の脳髄を変質させてしまったのか。そうとでも解釈するほかはない。
 |般《はん》|若《にゃ》|野《の》でいちじ彼女が行方不明になった。あとできけば、|輿《こし》にのっていると、急に輿が燃えあがったような恐怖にうたれて、夢中でのがれ出し、あてどもなくフラフラと野をさまよっていたのだという。――それも、大仏殿の炎の恐怖からきた後遺症のあらわれだったのだと義興は解釈した。
 京の二条のこの屋敷に帰ってからもそうだ。当然彼女が知っていなければならぬ記憶を喪失していることがある。そんなとき、彼女は美しい瞳を茫とひらいて、放心状態になる。そんな妻を見ると、義興はたえがたいいとしさといじらしさをおぼえるのであった。
 しかし、変質した夜の妻は恐ろしかった。はじめおどろき、つぎによろこび、夜のくるのを待ちかねた義興も、しだいに夜が憂鬱になってきた。しかも憂鬱な義興をしだいに酔わせ、はては忘我の世界にひき入れてしまうほど、彼女の|蠱《こ》|惑《わく》は凄じかった。
 が、ついに。――
「奥」
 たまりかねて、義興はさけんだ。
「わしはまえのそなたの方が好きであった。どうしたのか、だんだんきらいになるぞ」
 かつてはゆめにも吐いたことのない無情な言葉を吐いて、彼は妻のからだをはねのけ、むこうをむいてしまった。
 さすがに鼻白んで、右京太夫はゆりおとされたまま、じっと夫の背中を見ていたが、やがてその顔に、名状しがたい軽蔑のうす笑いがにじみひろがった。
 義興が、妻は人が変わったのではないかと思ったのもむべなるかな。まさに、人は変わった。|漁火《いさりび》だ。
 漁火は、右京太夫に化けて、三好義興のふところに入った。
 ――般若野で彼女は弾正にいった。「松永が叛心をもち、右京太夫を誘拐しようとしたことはすでに三好義興に知れた。義興の怒りをなだめるには、いまじぶんが義興のもとへいって、そのことをいいつくろい、彼の心をやわらげるよりほかはない」また「こととしだいでは、機会をみて義興に一服盛ることも可能である。そうすれば、弾正さまの長年の野心がかなえられるではないか?」
 しかし、それより彼女の心をとらえたのは、弾正をあれほど恋させる右京太夫という女を妻にした三好義興への興味であった。興味というより、邪魔なライバル意識であった。わたしが義興に抱かれたら、彼はどういう反応を起こすだろうか。――わたしは負けない。決して右京太夫などの魅力に負けはしない。きっと義興を無限の肉の深淵にひきずりこんでみせる!
 その通り、漁火は義興を愛欲の網にからんだ。
 若い。まだ二十をこえたばかりの若さだ。義興を愛欲の網にからめながら、漁火自身がときにおのれを失った。若い義興の肉体は、五十をすぎた弾正とはまったくくらべものにならない新鮮な泉をもっている。漁火は、弾正との約束も、いや弾正そのものさえ忘れることがあった。
 ――いっそこのまま、と、彼女は不敵な笑みすらもらした。
 なにもあの老いた弾正のところへまたかえる必要はないではないか。このまま義興の妻として化け通し、義興に天下をとらせてもいいではないか。むろん、そのためには――弾正を討つ、そんなことをかんがえて皮肉な笑いを浮かべた漁火を見たら松永弾正は腰をぬかしたろう。
 しかし、漁火はすぐに醒めた。
 しょせん、義興は弾正の敵ではない。
 敵ではないという意味は、戦って負けるということではない。いまのところは、なお三好の軍勢の方がややまさり、そして義興の武勇は弾正も恐れている通りだ。しかし弾正の|老《ろう》|獪《かい》、執拗、悪念の深さにくらべて、義興は竹を割ったように単純で、あっさりしすぎている。
 ――女を相手にしてもその通りだ、と漁火はせせら笑った。二十すぎの義興にくらべ、五十を越えた弾正の|好色《こうしょく》ぶりのあぶらぎった執拗さを思い出したのだ。わたしには、やっぱりあの男の方が肌に合う。――
 義興に天下をとらせようか。とかんがえたのは、義興を愛したからではなかった。この世の覇者の妻として、じぶんも地上に君臨したいからであった。そして、およそじぶんの望むかぎりの悦楽、背徳の魔界をこの空の下に現出させたいからであった。
 その目的のためには、義興は不適だ。それはやはり松永弾正をおいてほかにかなえてくれるものはない。
 理屈で秩序立てたかんがえではない。しょせん、彼女は義興と肌が合わなかったのであろう。そのことを漁火は思い知って来た。おなじく義興も、まさか妻が以前の妻ではないとは知らぬままに、漠としてなにやら異質なものをおぼえはじめて来たらしい。
「わしは、まえのそなたの方が好きであった」
 彼はそういった。いみじくも、にくらしくも。――
 一服盛ろうか。魔軍をひきいた弾正を呼ぼうか。いつ弾正と打ち合わせようか。
 疲れはてスヤスヤと寝息をたてている三好義興の背中をじっと見つめている漁火の眼には憎悪だけがあった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:56:08 | 显示全部楼层
     【二】

 一歩、一歩。京の二条の三好屋敷にちかづいてゆく笛吹城太郎と右京太夫の足は、鉛でもむすびつけたように重かった。
 城太郎の頭を、伊賀へちかづくにつれて歩みなずんだじぶんと|篝火《かがりび》のあの日のことがふっとかすめた。あれとおなじことだ。いや、あれ以上の苦しさだ。
 あのときは、一族に無断で妻とした女を故郷へつれかえる気おくれだけであった。ゆるされるか、ゆるされぬか、その不安は半々であった。しかし、こんどは――右京太夫さまをかえすのだ。右京太夫さまが三好の屋敷に一歩足を踏み入れられたら、それが永遠の別れなのであった。
 ――ば、ばかな!
 と、じぶんの心に鞭をふる。
 ――篝火とはちがう。右京太夫さまは、おれの女房ではない。
 そうかんがえればこそ、彼らは京に帰ってきた。それなのに、こうして三好邸へあゆんでいきながら、またしても心みだれ、おなじ苦しみが、しずのおだまきのごとく城太郎の胸を回る。
「臈たき女人を修羅の世界にさそうなかれ」
 あの謎の紙片が魂を刺す。
 あれを書いたものが誰か、その謎を追うよりも、この一句が城太郎を縛ってしまった。まったくその通りだ。
 その痛切な思いのゆえに、彼はあの言葉のつぎに書かれていた「三好義興さまに魔性の女人とり憑けり」という一行の意味をさぐることさえ、あまり念頭になかった。
 三好義興の屋敷は、城ではないが城にひとしい濠をめぐらしていた。そこへゆきつくまでには、しだいに番兵の網が濃くなってゆくのがわかった。戦国の世である。
「――では、ここらで」
 と、ついに城太郎はとある辻で立ちどまった。
「右京太夫さま、おわかれいたします。お帰りなされまし」
 右京太夫は|被衣《かつぎ》をあげて、じっと城太郎を見つめた。なにもいわないが、無限の思いをたたえた瞳であった。
「ご機嫌よろしゅう。……」
 城太郎は頭を下げると、身をひるがえし、もと来た方角へ走った。
 数十歩駆けて、ふりむくと、右京太夫は被衣をかかげたまま、おなじところに寂然と立ってこちらを見送っている。城太郎はまたおじぎをすると、こんどはあともふりかえらず疾風のように走り去った。
 奈良へ。――
 首のない大仏からじぶんたちが逃げたことは、三人の根来僧はまだ知らぬはずだ。しかも、その大仏の掌にのせた金剛坊の首はすでに発見されたであろう。三人の魔僧がまだ奈良界隈を狂奔していることは、十分かんがえられる。
 おお、あと三人!
 あと三人の根来坊主の首、きっと討ってみせるぞ。――いかにもおれの眼の前にはその修羅の世界だけがある。おれの耳の中にはあの篝火の死霊の声のみがある。
 彼は、うしろへながれ去る風に、右京太夫さまの幻をはらいおとした。
 ……ながいあいだ辻に立っていて、右京太夫はやっと歩き出した。
 悄然とした足どりであったが、しかしおちついた態度であったから、諸所に|堵《と》|列《れつ》した番兵も見とがめるものはなかった。
 おちついているはずだ。彼女はじぶんの屋敷に帰るのだから。――しかし番兵たちは、まさかそれが主君の|御《み》|台《だい》だとはゆめにも思わず、所用あって屋敷から出た侍女の帰るところであろうと見たのである。
 ――と、京の町の方から、小さな行列が帰って来た。まんなかにかつがれているのは、おんな用の輿である。
「……待ちゃ」
 輿の中から声がかかった。それから、
「下ろしてたも。わたしはここから歩く」
 と、いって、ひとりの女が下り立った。漁火である。
 漁火は、路傍に立って、ボンヤリとこちらを見ている被衣の女の方へ、シトシトと歩いていった。これまたおちついた足どりであったが、眼は異様なひかりをはなっていた。彼女は輿のすだれ越しに、思いがけぬ人の影を見て愕然としたのである。
 その人のうつつの姿を、彼女はまだいちども見たことはない。しかし、一目ふと見て、さっと胸に蒼白い稲妻が走るのをおぼえたのは、彼女の魔性の本能であろうか。
 ちかづいて、漁火はささやいた。
「……右京太夫さまでございますね」
 右京太夫の眼がひらかれた。彼女はそこに、じぶんにあまりにもよく似た――まるで鏡に映ったじぶんを見るような、しかしえたいのしれない笑みをうかべた女の顔を見たのである。
 これほどじぶんに似た女というと。――
「松永弾正に仕える漁火というものでございます」
 漁火は名乗った。三好邸に来てから誰にもきかせたことのない名乗りであった。
 彼女は、般若野で「ほんとうに右京太夫が義興のもとへかえってきたら、向こうをにせものとして追いはらう」と弾正に高言したが、いまその方針を変更した。
「奥方さま、弾正があなたさまに抱いている邪心をご存じでございましょうか」
「弾正の邪心?」
 右京太夫は小首をかしげたが、いまはわからぬことではない。
「それについて、わたしは義興さまにご注進に参ったのでございますが、奥方さま、義興さまにお逢いになりますまえに、ちょっとわたしの話をきいていただけましょうか? それにいま、殿さまはお留守でございます」
「どこへ参られた」
「夕刻までにはお帰りになりましょう。父君の長慶さまのおんもとでございます」
「……そなたの話、ききましょう」
 右京太夫はうなずいた。彼女はまだ、この漁火の恐るべきことをほんとうに知らない。漁火はふりかえり、手をあげてさしまねいた。空の輿のそばから、三人の若党が走ってきた。
 漁火はその方へ歩いていって、右京太夫にはきこえないようにささやいた。
「……あの女について、たのみがある」
「あれは……奥方さまではござりませぬか?」
 三人の若党の眼が、驚愕にひろがっている。平太と|半入《はんにゅう》と助十郎という。しかしこの三人は、はやくも漁火の蠱惑と金の虜となり、それぞれいちどはひそかに信貴山城へいって弾正に連絡したこともある男たちであった。
「平太、半入」
 と、漁火は顔色もかえずにいった。
「おまえたちは、右京太夫さまをはじめわたしの部屋にお通し申しあげ、あとなんとかいいくるめて、香炉のお蔵にお入れするように、――義興さまがご帰邸あそばしても知られぬように」
「いつまででござります?」
「信貴山城から松永弾正どのが上洛なされるまで」
「弾正さまがおいでになるのでござりますか」
「助十郎はすぐ信貴山城に走りゃ。京の三好屋敷に、右京太夫さまと平蜘蛛の釜たしかにございます。弾正どのには、いそぎ上洛なされますようにと。なお、平蜘蛛の釜はあれど、淫石はありませぬゆえ、これは新しゅう作るよりほかはありませぬ。そのため例の根来法師らを是非おつれ下されますようにとな」
 助十郎はそのまま駆け去った。
「殿さまに知れぬように、奥方さまを香炉のお蔵にお入れせよと申されて」
 と、半入がいった。
「奥方さまが出ようとなされたらどうします」
 漁火は半入の耳に冷たく甘い息を吐きかけた。
「ためらいなく、|殺《あや》めたてまつれ」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:56:37 | 显示全部楼层
     【三】

「……ふーむ」
 般若野を越え、一方は北の京へ、一方は東の伊賀へと路のわかれるあたりで、背中に大きな傘を背負った虚空坊は草の中から身を起こし、なにやらひろいあげたものをのぞきこんでうなった。
 城太郎の想像通り、三人の忍法僧はまだ奈良にいた。笛吹城太郎と右京太夫が大仏の中に住んでいたことがわかった以上、彼らをのがしたとはいえ、どうしても奈良から離れられなかったのだ。それであれ以来松永の兵を|督《とく》|励《れい》し、草の根わけて捜索をつづけていたのだ。
 文字通り、草の根わけて。
 そして虚空坊はまさに草の根から探索の手がかりを見つけ出した。
 夕闇の中に、にぶくひかる一個のマキビシであった。
 彼らが血眼になってそのゆくえを追っていたものに、笛吹のほかに例の黒衣の騎馬隊があった。あれの正体をつきとめれば、城太郎の所在もわかると思う。
 あのとき、半狂乱に追跡する彼らから、黒衣の騎馬隊は例のごとく八方に逃げ散ったが――追いつつ、虚空坊は、その数騎にむかってマキビシを投げつけた。
 むろん、このあたりまで追って来たわけではない。大仏の界隈で投げつけたマキビシが――見おぼえのある彼自身のマキビシが、ここ般若野の北にある。
「馬の尻につき刺さったやつがここで落ちたとみえる」
 |袈《け》|裟《さ》頭巾の中で鼻うごめかしたが、残念なことに、このとき相棒の破軍坊も空摩坊もいなかった。みんな手分けをして探しまわっているのだ。
「ここから、どっちへいった?」
 つぶやいたが、|躊躇《ちゅうちょ》なく東へ――伊賀街道の方へ歩き出した。
 十数歩いって、また砂ぼこりの中からもう一個のマキビシをひろいあげた。
「伊賀だ。なるほど」
 案の|定《じょう》、といった顔になったのは、そもそもはじめから、あの黒衣の騎馬隊は伊賀の一党ではないか、という疑いがあったからだ。
「伊賀者か。しかし――」
 と、またひとりごとをいって、小首をかしげた。
「弾正さまにそれを申しあげたら、伊賀者は柳生に見張らせてあると申されたが」
 しかし、彼はそのまま、とっとと伊賀街道を歩き出した。
「ともかく、おれの手でつきとめてくれる。伊賀一党が手出しをしておることが判明したら、松永の兵をあげて踏みにじってくれるぞ」
 しだいにその足が、人間のものではないように速くなった。たったひとりであることなど、意に介しない様子である。
 そこから、一町ほどはなれて――草の中を、灰色の鳥のように|這《は》い出した影がある。
 一陣の風ともみえる虚空坊を追って、その距離をひろげもせねばちぢめもせず、さらに忍者たる虚空坊にその追跡を感づかせないその影は、あきらかに行者頭巾をつけていた。
 般若野を出たとき、すでに夕闇がただよっていたのに、まだ日のくれぬうち、虚空坊は五里はなれた柳生の庄ちかくに姿をあらわしていた。
 ここのあるじ柳生新左衛門のところへ立ち寄って、伊賀者の動静をきこうか、それとも伊賀へ直行しようか、と歩きながらちょっと迷っていた虚空坊は、このときふとうしろからやってくる|戞《かつ》|々《かつ》たるひづめの音をきいた。見ると、三人の武士である。
 いずれも、いかにも山国の武士らしい豪快な風貌であった。
「ほう、伊勢守さまが?」
「|太《ふと》の御所までおいであそばしたと?」
「快事、快事」
 なにやら楽しげに談笑しつつ、樹かげに身をひそめた虚空坊など気づかぬふうで、鞍をならべて駆けすぎ、右に折れて柳生谷に入ってゆく。柳生家の家来とみえる。
 虚空坊は、凝然と立っていた。
 彼の眼は、その武士の一人の鞍にかたくくいこんだ一個のマキビシを見てとったのだ。

 柳生の庄は、どこか風趣と雅味があるが、豪毅質朴な屋根をならべた細い谷の中の|市《まち》であった。
 その中に、やや高く石垣を築いて、領主の柳生の居館がある。断じて城というべきほどのものではない。せいぜい館と呼んでしかるべきものだ。
 その柳生家の館の一劃に、突如ただならぬさけびがあがったのは、その翌朝の夜のあけかかった時刻であった。
「曲者っ」
「出会え、曲者でござるぞ!」
 声と同時に、あちこちから数十人の武士が刀をつかんで駆け出した。その迅速さはしかしどんな大きな大名の城にも見られないほどのものであった。
「さわぐな、さわぐな」
 |厩《うまや》のまえで、ひとりの法師が手をふってわめいていた。
 すでに侍たちの半円の包囲陣の中にあって――手をふってはいるが、どこか人をくった身のこなしである、横着な声であった。
「べつに害意あって入ったものではない。当家の馬を調べに来たのだ」
「うぬは――法師の分際をもって、なんのために馬を調べる」
「それがただの法師ではない」
 じぶんでいって、そりかえった。
「信貴山城の松永弾正どのの手飼いの法師でな」
「なにっ」
 といったが柳生家の武士たちは、さすが一瞬ぎょっとしたようだ。すぐに数人が、
「たわけっ、口から出まかせもいいかげんにしろ!」
「たとえ松永どのといかような縁があろうが、無断で一国の城に忍び入ったやつ、そのままでは帰せぬ。神妙にせよ」
「手向かいいたせば、この場で成敗いたすぞ!」
 と、さけんだ。
 法師は袈裟頭巾の中から深沈たる眼で見まわしていたが、やがてつかつかと歩き出した。
「ふふん、うぬらの手に合うおれかよ。おれがいったあとであるじの新左衛門に、推参したのは松永家の虚空坊と申す法師であったとつたえておけ、手に合わずとも、責めはすまい」
 あまりに平然とし、しかも人間ばなれした妖気に、なまじ武芸のたしなみがあるだけに、本能的にただならぬものを看取して、柳生家の武士たちは思わずしらず、路をひらいた。
 大きな傘をななめに背負った虚空坊は、一直線に歩いてゆく。そのゆくては数丈の崖であった。
「虚空坊」
 と、うしろから誰か呼んだ。
 虚空坊はふりむいた。
「ほう新左衛門どのか。……お早いお目覚めでござるな」
「おぬし、なんのためにわしのところの馬を見に来た」
 柳生新左衛門はきいた。声はしずかだが眼は|烱《けい》|々《けい》たるひかりをはなって、
「いわねば、帰さぬ」
 虚空坊は、しばらくじっと新左衛門の顔を凝視していたが、ふいにニヤリとした。
「厩にならべてかけられた鞍の二つにおれのマキビシが残っていた」
「なに?」
「三頭の馬の尻に、マキビシの刺さった傷痕があった。――奈良の大仏ちかくで、おれが投げたマキビシじゃ」
 突如として、虚空坊は吼えた。
「黒衣の騎馬隊! 伊賀一党の監視役たる柳生が、なんのために伊賀に味方をしたか。ききたいのはおれの方だ。――いずれ、弾正さまじきじきのおたずねを待とうと思ってゆきかけたが、しいてきくなら、いう。いや、おれの方がきいて、弾正さまに申しあげよう。柳生新左衛門、返答せよ!」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:56:59 | 显示全部楼层
    かくれ傘


     【一】

 柳生新左衛門は、しばらく黙っていた。
「いえまい、新左衛門」
 虚空坊は、あざ笑った。
「ひょっとしたらこの城に、あの右京太夫さまと笛吹城太郎をかくまっておるな? いいや、そうにちがいない。弾正さまにお伝えしよう。やがて松永の大軍をこの|眇《びょう》たる小城にむかえるか、それともその運命を待つまえに右京太夫さまと城太郎――ついでに泣き面かいたうぬ自身の首をさし出すか。――」
 |断《だん》|崖《がい》を背後に、虚空坊は立ってののしった。
 新左衛門は重い口をひらいた。
「武士の心は、うぬごとき|外《げ》|道《どう》の天狗には申してもわからぬ」
 それから決然として、
「いずれにせよ、うぬは信貴山には帰さぬ」
 一閃のひかりが、その腰からほとばしった。
 同時に、崖の上で、ぱっと異様な音がした。虚空坊の傘がひらいたのだ。その背に背負った六尺あまりの唐傘を肩ごしにぬきとるのと、それをひらいたのは一瞬の早わざであった。
「――あっ」
 柳生家の武士たちは、いっせいにさけんだ。
 彼らはそこに凄じいかがやきを発する巨大な球体を見たのだ。それは朝の太陽を受けた鏡であった。虚空坊の傘の内側は、いちめん鏡となっていた。――しかし、その正体まで見とどけたものが、柳生の侍たちのうちに何人いたろうか。
 彼らは、そこに歯をむいている一団の武士の姿をみた。それがじぶんたちだと気がついた刹那、いっせいに彼らは、じぶんを失い、その中に吸いこまれるような気がした。――事実、彼らは抜刀したままフラフラとそっちに吸い寄せられた。
 催眠術には、しばしば水晶球を用いる。光輝あるこの球を凝視しているうちに、観念は一点に集中し、大脳の禁止作用が起こり、人は催眠状態におちいる。――虚空坊の傘は、この水晶球の巨大なものであった。したがってその作用は強烈きわまるものであった。すべてが腕におぼえのある武士たちであったろうに、彼らはフラフラと吸い寄せられると、傘の中の映像に溶けこんでしまう。消えてしまう。
 チカ、チカ、チカッと鏡は無数のひかりの破片のごとくきらめいた。そのたびに、柳生の武士たちの姿が、三人、また四人と消滅した。事実は、彼らは傘のうしろへ泳ぎ出し、そして木の葉みたいに断崖から落ちてゆくのであった。
「新左衛門!」
 ひっ裂けるように虚空坊はさけんだ。
「やるか! 相手になるか!」
 念力の凝集のために、その眼は血光をはなち、すでに凱歌の笑いを笑っていた。
 そのまえに柳生新左衛門は立ちすくんでいる。立ちすくんでいるというより、満身の金剛力をこめて両足をふんばっている。両足をふんばっているのは彼なればこそだ。しかしそれが精一杯であった。かつて剣聖上泉伊勢守に「その太刀すじに見どころあり」といわれた新左衛門が、ほとんどなすところなく、ただ虚空坊をにらんだきり、あぶら汗をしたたらせて棒立ちになっている。
「世に噂の高いうぬの剣法とは、いちど手合わせしてみたいと思っていたのだ。笑止や! |案山子《か か し》と化したか柳生新左衛門、果心直伝の根来流の忍法を見たか!」
 ついに糸がきれたように柳生新左衛門はよろめき出そうとした。
 突如として、鏡が消え、血けむりがあがった。
 脳天から血しぶきをあげて、虚空坊は傘をひっかつぎ、二間も断崖のふちを飛んで立った。
 彼のいた場所に、|忽《こつ》|然《ねん》としてひとりの行者が現われた。手にひっさげた戒刀は血あぶらにぬれていた。
「虚空坊!」
 と彼はさけんだ。
「その傘をこちらにむけて、おれをうつせ。笛吹城太郎だ!」
 ――さすがの虚空坊も、傘のうしろから襲ってくるものがあろうとは予想もしていなかった。ただ眼前の柳生新左衛門たちと向かいあい、これを嘲弄しているあいだに、いつのまにか背後の断崖をのぼってきた笛吹城太郎が、いきなり傘もろともに、虚空坊の袈裟頭巾を切り裂いたのである。
 傘は一閃の刃に裂けただけであったが、かくれ傘の忍法は破れた。
「うーむ、ふ、ふ、笛吹。――」
 うめく虚空坊の口のあたりから、血泡が袈裟頭巾を染める。
「おれは死なぬ、生きて弾正さまに告げる。ま、ま、待っておれよ。――」
 うなずくと、傘をさした虚空坊のからだが足からはねあがった。なんと、彼はおのれのさした傘の上に、ばさと乗ったのである。
「あっ、こやつ――」
 笛吹城太郎と柳生新左衛門が一刀ひっさげたまま殺到したとき、虚空坊をのせた傘は、そのまますうと断崖の空間にながれ出した。
「待て、逃がさぬ」
 城太郎の刀身が投げあげられて、空に走った。刀はななめ下から傘をつらぬき、虚空坊をつらぬいた。虚空坊は傘の上でまたひとはねし、ずるずるっとすべりかけて、両足を傘のふちからたらしたが、必死にしがみついて落ちない。――
 いや、傘が下界に舞いおちないことこそ奇怪だ。なんたる幻妖、それはまるで谷の底から吹く風に吹きあげられたように、虚空坊をのせたまま、キリキリと回って空を飛んでゆく。
「――おお」
「――落ちた!」
 崖のふちに立って、ふたりは絶叫した。
 ついに力つきたか、高く舞いあがった傘から血の糸をひいて、法師の姿が谷底へ石のようにおちてゆくのが見えたのだ。が、その重量を捨てた怪異の傘は、そこからいっそう高く吹きあげられて、みるみる西の空へ消えてゆく。――
「恐るべきやつ」
 と、柳生新左衛門はうめいたが、すぐに重厚な微笑を城太郎にむけて、
「何人目じゃ」
 と、きいた。
「五人目です」
 と、笛吹城太郎は答えた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:57:20 | 显示全部楼层
     【二】

 それが初対面であった。
 正確にいえば、どちらも正気で、どちらも覆面をぬいで、おたがい一尺のちかさで向かい合ったのは最初であった。
 城太郎はじぶんをしばしば助けてくれた覆面の騎馬隊の首領が柳生新左衛門であることをはじめて知った。
 伊賀の隣国の城主、柳生新左衛門の名は城太郎も知っている。しかし、伊賀は豪族筒井氏の恩恵を受けているし、柳生はその筒井氏を圧迫している松永弾正の庇護下にある一族だし、少なくとも城太郎の知るかぎり、伊賀と柳生が親しく交わりをかわしたことはない。逢うのも、むろんはじめてだ。
 いや、そうではない。おれとこのひとは、いままでなんども逢っている。そもそも、篝火を奪われた伊賀街道で、このひとはおれのふところに忠告状を残していってくれたのだ。
 しかし、なんのために?
 それがわからない。――城太郎は新左衛門の顔を見た。
「――なんのために? と、申すか、伊賀の若者」
 城太郎の心を見すかしたように、柳生新左衛門はいった。
「なんのためか、わしにもよくわからぬ」
 重厚な顔には、淡い苦笑の|翳《かげ》があった。
 そして彼は語りはじめた。――信貴山城で松永弾正の右京太夫さまへの非望をきき、そのために七人の忍法僧が使われるのを知ったこと、その七人の根来法師らのこの世のものとも思われぬ忍法を見せつけられたこと、暗い気持ちで柳生へ帰国する途中、はからずも彼らに襲われた城太郎を見、しかも、いかんともするあたわず、ただ忠告の一書のみを残して立ち去ったこと。――
「まことに、そのときはそう思った。きゃつらとたたかうは、まさに龍車[#電子文庫化時コメント 底本「竜車」、S47を参照、字体統一]にむかう|蟷《とう》|螂《ろう》の斧じゃとな。それに――」
 苦笑の|翳《かげ》が、かなしみの翳に変わった。
「そればかりではない。――笑え、笛吹。わが柳生は松永の庇護下にある。弾正どのは、実に恐るべき大悪の人、と申してもよいおひとじゃが、いかんせん、なんといっても現在ただいま天下を|慴伏《しょうふく》させておる第一人者じゃ。あれに面とむかって|刃《は》むこうては、柳生こそまさに龍車に対する蟷螂の運命をまぬかれ得ない。わしは、かようなことで柳生家を滅ぼすほどの勇気はない。――」
 当然である。しかし、それではなぜ、その柳生新左衛門が覆面の騎馬隊をひきいて、じぶんの危急を救い、弾正や七人の法師をなやませたのだろうか。
「それで、わしはいちど柳生へ帰った。――がここに座ってさてつくづくと思えば、あの弾正どのの悪行を見のがしておっては柳生の武士の一分が立たぬ。これを黙視していて、なんの柳生ぞや、と思い出しての――それから人をやって信貴山、奈良界隈からいろいろと噂をあつめ、力の及ぶかぎりおぬしのあとを追わせ、はてはわし自身とうとう乗り出したのじゃ」
 ……いつしか城太郎は、べたと大地に両腕をついていた。
「いや、それほどありがたがってもらうほどではない。わし自身の血が承知せんで勝手にのり出したことじゃ。いわば新左衛門の道楽」
「それにしても、あの法師どもを相手にされては、いくたびか危ない目にお会いなされましたろうに、それをおかして」
「いや、お節介をやりながら、そのくせ一方、松永に見つかっては一大事と思うて、あの黒衣覆面じゃ。わしもなかなかひとがわるい」
 はじめて、しぶく、ニコと破顔した。
「ところで笛吹、右京太夫さまは京へ返したか」
「……おつれ申してござりまする」
 ……頬あからめて、ひくくいう城太郎を新左衛門はじっと見下ろしていた。
 が、やがてつぶやいた。
「それはよかった。三好義興さまと右京太夫さまは天下の|鴛《えん》|鴦《おう》といわれるほどお仲のよいご夫妻ときいておる。右京太夫さまを返さざるは、義興さまのみならず、右京太夫さまも地獄に堕すことなり……じゃ」
「はい! ようわかっておりまする」
「それに右京太夫さまをつれて歩いておっては、おぬしの足手まといとなろうが。おぬしには、少なくともあと二人、討ち果たすべき魔僧が残っておるはず」
「仰せの通りでござる」
 城太郎がきっとして西の空を見ると、柳生新左衛門もおなじ方角へ眼をむけていたが、
「いささか気にかかることがある」
 と、つぶやいた。
「なにがでござります」
「あの傘よ」
「根来法師の傘」
「いかにも、あれが落ちずに、生命あるもののごとく西へ飛び去った」
「――しかし、それを使う虚空坊めはおちました。あの谷底へ転落しては、いかな忍法僧でもいのちはありますまい。傘のみ、どこへ飛んでゆこうと、案ずることはありますまい」
「そうであろうな。いや、きゃつらのような化けものを相手にしておっては、わしも臆病になったものよ。ははははは」
 新左衛門は一笑したが、すぐにまた城太郎に眼をもどし、
「ところで、笛吹、右京太夫さまを三好家にお返しして、三好家では、大さわぎになったであろうな」
「――は?」
「いや、御台のご帰邸による歓呼ばかりではない。あそこに化けておる|女狐《めぎつね》めが追い出されるさわぎよ」
「――女狐」
「三好家には、漁火という弾正の愛妾が右京太夫さまに化けて入りこんでおるはず。どうやらあまりよからぬことをたくらんでおると思われるが――わしは、いまのところ松永家の滅ぶことを欲せぬが、三好家が弾正のために|亡《ぼう》|家《け》となることを欲せぬ。ただ、ときのくるのを待っておる。――そのためにもその女狐を三好家から追い出そうと、それで右京太夫さまをお返しすることをすすめたのじゃが。……」
 はじめて城太郎は、奈良街道の空馬の鞍につけられていた紙片のうちの「三好義興さまに魔性の女人とり憑けり」という一句の意味を了解した。
「では、あの女が!」
 と、さけんだのは、興福寺の築地のかげでみごとじぶんをたぶらかしたあの女、そしてあとでじぶんを死地の罠におとしたあの女を思い出したのだ。おお、篝火の首を持つ女、右京太夫さまそっくりの顔を持つ女、あれが右京太夫さまの帰っていった三好家に待っていたというのか?
「右京太夫さまに化けるほどよく似た女、しかしあれには容易ならぬ魔性がある。悪の翳がある。右京太夫さまさえおわさなんだら誰しもたぶらかされるであろうが、ふたり見くらべてみれば、いずれが月か日輪か、|一《いち》|瞥《べつ》しただけであきらかじゃ。三好家に一騒動起こるにきまっておる。――」
「柳生さま」
 城太郎はふいとさけんだ。
「それは拙者、気にかかりまする」
「なにか、あったか」
「いや、なにも存じませぬ。拙者はただ――三好家の手前はるかで、右京太夫さまとお別れしただけでござります。それ以上、あとお見送りもせず、ただお別れするのが哀しゅうて」
 と、思わず正直に口走ったが、すぐにぎょっとした様子で片ひざをたて、
「あの女がいるとすれば、なにやら、拙者胸さわぎがいたしまする」
 唇をかみしめて、不安そうに北の方を見やった。やおら、おそるおそる柳生新左衛門の顔をふりあおいで、
「拙者、もういちど京へ馳せかえって様子をうかがって参りとうござるが……悪うござりましょうか?」
 その思いつめた少年のような表情に柳生新左衛門はうたれたようであった。
 しばらく黙然としてその顔をながめていたが、ふいに、
「いや、悪いどころではない、是非、見て来てもらわねばならぬ」
 と、いった。
「柳生さま、お礼はいずれ、もういちど拙者ここに立ちかえって申しあげまする」
「おお、もし……右京太夫さまが難儀にあわれ、もういちどおぬしが救わねばならぬようなことが起こったとしたら……笛吹、右京太夫さまをここへおつれ申せ。事のすむまで柳生新左衛門、ひそかにおかくまいしよう」
 城太郎はおじぎして、背を見せて、もう十歩も走っていた。
「あ、待て」
 と新左衛門は呼んだ。
「そなたの行者姿は、あまりにも松永一党に知られすぎておる。きゃつらの手は、奈良界隈はおろか、もはや京へも及んでおるかもしれぬ。衣装を変えた方がよいぞ」
「――どのような」
 城太郎は立ちどまり、ふりむいた。
 柳生新左衛門は一息思案していたが、ふいに笑った。
「いっそ、法師に化けろ。それが松永一党の眼をくらまし――大手をふって歩ける魔法の衣かもしれぬ」
「おお、あの根来法師に」
「しかも、いまの法師に化けるのじゃ、虚空坊の死んだことはまだ向こうに知れてはおらぬ。顔はこれほどちがう顔も世にあるまいと思われるほどじゃが、背丈、格好はおぬし、虚空坊とそっくりじゃ。袈裟頭巾をかぶり、傘を背負えば、松永一党、知らぬものもない根来の虚空坊だと思うだろう。傘は――あのように大きな傘はないが、そこはまあいいかげんにごまかしておけ。いちばん大きな傘を貸してやる」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:57:46 | 显示全部楼层
     【三】

 ――漁火は、香炉の蔵の戸に手をかけた。
 これは、三好義興の父の長慶がむかしから香炉に趣味をもち、金と権力にまかせて蒐集した天下の名器を入れた土蔵だが、彼が病んで以来、ほとんどだれも入るものもなく、そこの棚にならべられた無数の香炉は、いまはむなしく埃をかぶっているだけであった。
 ――そこに、この数日、人が入った。いかなる香炉の名器にもおとらぬ女人の香炉、右京太夫さまであった。そのことは、見張りの男たちをのぞいては、ただ漁火だけが知っている。
 右京太夫を義興に逢わせてはならぬ、これは彼女にとって絶対の命題だ。その命題をかなえるいちばん簡単で恐るべき方法は右京太夫をこの世から消してしまうことだが。――
 しかし、漁火はそうしなかった。それどころか、彼女は生きている右京太夫を義興に見せようと思っているのだ。ただ、右京太夫を特別の状態において。
 漁火は右京太夫に名状しがたい憎悪をおぼえていた。かつて弾正は、じぶんというものがありながら、どうしても右京太夫への憧憬をすてなかった。右京太夫が大仏へ参詣するときくや、魂を中天にとばして奈良へかけつけてゆき、大仏炎上という破天の暴挙をやってのけてまで、それを手中のものにしようとした。一方、三好義興は、いまのところじぶんを右京太夫だと信じて疑わないのに、「まえのそなたの方が好きであった」という。――
 いまは、たんに弾正、義興に対する嫉妬ではない、そんなものをこえた、女が女に対する全存在的な憎悪だ。それは大魔女が天女に対していだく|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の|深《しん》|怨《えん》であった。
 そうあっさりとは殺さぬ。右京太夫を|堕《だ》|天《てん》|女《にょ》としてくれる。あの女を、この世のどんなあさましい女も及ばぬほどのけだものに変えてやるのだ、そして、その姿を義興と弾正に見せつけてやるのだ。
 そのために漁火は、助十郎という男を信貴山城に走らせて、弾正と根来法師らを呼びよせようとした。
 平蜘蛛の釜と右京太夫は手中にある。平蜘蛛の釜で茶を煮て、右京太夫に服ませよう、そして弾正を恋う牝獣としよう。――そう解釈できる伝言を、助十郎に託した。ただし、もうひとつ必要な淫石はない。それを作らせるために、根来法師を同行させよと。
 しかし、漁火のかんがえたのは、弾正ではなく、根来法師を恋う右京太夫であった。果心居士はいった。
「――これを喫した女人は、最初に眼の合うた男に対して本心を失い、一匹の淫獣と化し果てまする」
 その通りだ。それは信貴山城でのおびただしい実験で、しかと見てきたことだ。
 なんらかの工夫をもって、淫石の茶を服んだ右京太夫の「最初に眼の合うた男」を、あの根来法師たらしめる。――
 虚空坊でもよい。空摩坊でもよい。破軍坊でもよい。いずれ劣らず、地上に同類のない化け物だ。この残忍醜怪の面貌といい、また凶暴凄絶の性質といい――その化けものたちに心をうばわれ、牝犬のように追いまわし、あえぎもだえるあさましい右京太夫を、あの義興と弾正の眼に見せる。まざまざと、眼前の姿として見せてやる。
 それが漁火のたくらんだことであった。
 信貴山城に走った助十郎がかえってきて弾正の返事を復命した。わかった。とりあえず根来法師を呼びかえしてすぐに京へやる。そこで淫石を作らせて待っておれ。おっつけおれも支度をととのえて上洛するであろう。――
 その返答の通り、まず空摩坊と破軍坊がやって来た。それではじめて漁火は、法隆寺で風天坊が討たれ、大仏で金剛坊が討たれたことを知った。生きのこっているのはほかに虚空坊がいるはずだが、これはどうしたのか、奈良界隈を捜索中にはぐれて、まだ連絡がないという。――
 そしてまた数日おいて、いよいよ弾正が上洛してくるという通報があった。主君の三好長慶の病気見舞という名目である。
 京における空摩坊と破軍坊のはたらきで、小さいながら「淫石」の白い結晶はできていた。
「――きょうこそは」
 香炉の蔵のまえに立って戸に手をかけた漁火の頬に、うす笑いが蒼い炎のようにゆらめく。
 彼女は|土《つち》|戸《ど》をあけて、中に入った。
 蔵の四囲の壁にとりつけられた棚には、おびただしい香炉が、寂然とにぶくひかっていた。その中に、人がいるとも見えなかったが、三人の人間がいた。
 大きな|葛籠《つづら》の前に、端然と座っている右京太夫さまである。
 その両側にあぐらをかいて、刀をつきつけている半入と平太である。
 右京太夫はうなだれて――そして、刀をつきつけた若党半入と平太は、そういうじぶんの姿勢と義務をわすれたような忘我の顔で、恍惚として右京太夫の横顔に見とれているのであった。
 遠く風の音がきこえた。朝からぶきみな雲が走って、風のつよい日の夕方であった。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:58:10 | 显示全部楼层
    茶


     【一】

「右京太夫さま」
 漁火は呼んだ。
 右京太夫はうなだれたままだ。たんに|悄然《しょうぜん》としてうなだれているというより、その姿には、なぜか枯れた花のような衰えがある。魂と同時に、なにか生理的な苦痛にたえているような感じがあった。
「ながいあいだ、お気の毒でございました」
 漁火はまえに座ったが、右京太夫は顔をあげようともしない。
「でも、それは義興さまのお申しつけでございますから、わたしにもどうしようもなかったのでございます。奥方さまご帰邸のことを申しあげると――いまごろまで、どこをうろついておったのか、とお怒りなされ、またすでに、奥方さまが信貴山城にあの野ぐさい伊賀の忍者を助けにゆかれたこと、そのあとやつと、ずっとごいっしょにお暮らしなされたことをご承知で、いかにわたしからおわびを申しあげても、奥方さまをここにお閉じこめなされたきり、お呼びなさろうとはいたしませぬ」
 なんども、この漁火という女からきいたせりふだ。右京太夫は、漁火のこの言葉に本能的に虚偽をおぼえる。
 いったい、この女は、この屋敷でどんな位置をしめているのか?
 じぶんはただこの香炉の蔵におしこめられているだけで、様子はまったくわからないが、なぜかこの女がじぶんに代って、この屋敷で女主人のようにふるまっている雰囲気が感じられる。
 が、右京太夫がこれにあえて抵抗せず、ここに監禁されたままになって、夫義興を呼ぼうともしなかったのは、若党半入と、平太の無礼な見張りのせいではなく、漁火の言葉に――じぶんの行動に関するかぎり――事実のうらづけがあるからだ。それが彼女の心を刺しとめたからだ。彼女には、たしかに夫を裏切ったという心の痛みがあった。
 しかも――苦しみつつ、夫にわびたいという衝動をおぼえつつ、一方では夫に逢いたくない、このまま、ここで死んでしまいたいというきもちもある。
「でも、きょうこそは」
 と、漁火はいった。
「殿さまにお逢いなされることができましょう」
「…………」
「ほどなく――いえ、もういまにも、松永弾正どのが当お屋敷に参りましょう。義興さまとご和解が成ったのでございます。弾正どのは、さきに父君長慶さまのお見舞いに参られて、そこからこちらへ回ってくるとのことでございます」
「…………」
「そのご和解を縁として、奥方さまもおゆるしなされ、その御宴にお出まし下さりまするようにと、義興さまの仰せでござります。おめでたいことに存じます」
「…………」
「それから――おお、では花に水をやろう、奥に水を飲ませてやってくれと申されて」
 右京太夫は顔をあげた。
 なにをいわれても、よろこびの色もなかった右京太夫の顔に、はじめて戦慄にちかい異様なふるえが走ったのだ。
 この三日間彼女は一滴の水もあたえられてはいなかった。食事は出されたが、汁も湯もなかった。それは彼女の行為に怒った義興が、罰として思いついて、そう命じたのだという。――そんなことをする義興とは信じられなかったが、右京太夫はこの罰を甘んじて受けた。受けはしたが、しかしそれは恐るべき罰であった。
 心ではいかにみずからを罰しても、肉体は全細胞をあげて水を渇し求める。――水ときいて、彼女の頬に反射的なふるえが走ったのは当然だ。
「茶を進ぜましょう」
 かすかな、しかし悪魔的な笑みをたたえて漁火はいった。
「わたしもうれしゅうございます」
 それからそばを見ていった。
「半入、平太、もうよい。……破軍と、空摩に茶道具をもって来や、とつたえて参れ」
 ふたりの若党は去った。
 そのとき遠くの方で「松永弾正どのお入りーいっ」とさけぶ声がして、たしかに数十人以上の人間が邸内に入ってくる跫音の地ひびきがきこえて来た。――漁火が時をはかっていた通りにことはすすむ。
 やがて蔵の戸があいて、ふたりの法師が入ってきた。ひとり袈裟頭巾をつけた法師は釜をささげ、もうひとり総髪の法師は点茶道具一式をのせた台をささげている。
 右京太夫は眼を見張った。それはこの法師らが――見おぼえこそないが、あきらかに松永弾正麾下のあの魔僧たちであると直感したためであり、またそのひとりがささげているのが、かつてじぶんが抱いて走った平蜘蛛の釜であり、かつその釜がかすかに湯気をたてているのを見たからであった。それを法師は、まるで冷えた茶釜でも持つように素手でささげている。
 ふたりの法師は、しかしもったいぶった顔で、この釜と茶道具を、右京太夫と漁火のあいだにおき、入口にさがって、うやうやしく平伏した。
「……いずれ茶事は、あちらでありましょうゆえ」
 と、漁火はいった。
「ここでは、ただ奥方さまのお口をしめすだけのことでござります」
 作法通りに茶をたてるなどという面倒なことはまったく不必要である。要するに、この淫石を煮た茶を右京太夫に服ませればよいのだ。
 それを右京太夫が服むか、服まぬか。――
 平蜘蛛の釜のことを右京太夫がどこまで知っているか、後生大事に抱いて逃げたことがあるところから判断して、まったく知らないとは断定できないふしもあり、さればこそ三日間、一滴の水もあたえなかったのだ。もっとも、あくまで拒否すれば、おさえつけて、口を割ってでも飲ませればよいと漁火はかんがえている。
 ひとたび女がこの茶を飲んで、男をひと目見てからはまったく人間が変わり、淫獣と化するのだから、あとのことは案ずるには及ばない。――
 そんな無惨なことをかんがえているとは想像もつかないきれいな笑顔で、漁火は茶を入れた茶碗を右京太夫のまえに置いた。
「召しあがりませ、右京太夫さま」
 右京太夫はじっと茶碗に眼をおとした。
 右京太夫はしかし淫石のことは知らなかった。このことばかりは、城太郎が口にのぼして、彼女に語りがたいことであったからだ。淫石のことは知らなかったが、しかし右京太夫はこの茶がただの茶でないことは悟った。
 ただの茶でないと悟ったことが、右京太夫にかえってこの茶を服ませる決意をさせた。彼女は、ひょっとしたらこれは毒が入っているのではないかと思ったのである。
 たとえ毒茶であろうともそれを服まずにはいられないほど、彼女のからだはかわいていた。そして、それをおさえるはずの理性は、かえって「毒茶なら、それでもよい」という暗い自己破滅の覚悟をうながした。右京太夫の魂は、肉体と同様に、この数日のあいだに――いや、笛吹城太郎と別れて以来、ひびわれていたのである。
 彼女はしずかに茶碗に手をさし出した。渇きにふるえる手をおさえるのが、せめてもの彼女の|克《こっ》|己《き》であった。茶碗をとりあげた。――
 漁火はひかる眼で、それを見すえている。音もなくひざから白い掌がすべった。床をかるくたたく用意であった。
 ――淫石の茶を服んだ右京太夫が、空摩坊を見るか、破軍坊を見るか。ふたりのいずれかを見るにちがいないが、最初に眼が合うのがどっちか、これが問題だ。それでふたりの法師のあいだに争いが起こった。そこで不公平のないように、ふたりはあらかじめ平伏していて、漁火の合図と同時に顔をあげるという約束になっていたのだ。
 右京太夫を凝視している漁火も、入口に平伏している空摩坊と、破軍坊も、全神経は一点にそそがれた。
 右京太夫は顔を伏せ、唇に茶碗をあてがった。――
「待った!」
 声と同時に、鞭のごとく身を起こそうとした空摩坊と破軍坊は、そのまま床に巨大な昆虫のように刺しとめられた。平蜘蛛のように伏したままの背を、一方は|薙刀《なぎなた》、一方は|戒《かい》|刀《とう》でみごとに床まで刺しつらぬかれたのだ。
 入口にひとりの法師が立っていた。
 茶をのんだか、のまなかったのか、右京太夫はその法師の眼を見た。
 漁火はふりかえってさけんだ。
「虚空坊!」
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:58:31 | 显示全部楼层
     【二】

 袈裟頭巾につつんで眼ばかりのぞかせた顔、墨染めの衣、その背に背負った大きな傘。だれが見たって虚空坊だ。
 その虚空坊がそこへやってくるまでだれも気がつかなかったのは、右京太夫が淫石の茶をのむか、のまぬか、そのことばかりに満身の注意をあつめていたせいに相違ないが、それにしても空摩坊、破軍坊ほどの忍法僧が、まるで虫ケラみたいに串刺しになるまで平伏していたのは不覚ともなんともいいようがない。
 いや、虚空坊が、同僚の破軍坊、空摩坊をいきなり串刺しにするなどということがあり得るか。あり得るかといっても、げんに眼前では、ふたりの法師は串刺しになって、声もたてずにのたうちまわっている。これが現実のことである以上、あれは、あれは。――
 驚愕と恐怖にさざなみのごとくゆれる眼を見張っている漁火のまえに、その法師は空摩坊、破軍坊の上をおどりこえて、すっくと立った。
「奥方さま」
 と、彼はいった。
「笛吹城太郎です」
「――ああ!」
 右京太夫は、ひざのまえに茶碗をおいていたが、身うごきもしなかった。あまりのおどろきに、全身がしびれてしまったのだ。彼女は一目見たときから、それが城太郎であることを知った。おどろきは、彼がここへ帰ってきたということを知ったためであった。
 いかに虚空坊に身をやつしていたとはいえ、城太郎がだれにも見とがめられずに――この蔵に通じている回廊の端には、半入、平太というふたりの番人が置いてあったにもかかわらず――ここまで入ってくることができたのにはわけがある。
 奈良で笛吹城太郎を捜索していた空摩坊と破軍坊は、松永弾正の命令で至急呼びかえされたが、ひとり離れていた虚空坊だけには連絡がつかなかった。
 ひょっとしたら笛吹城太郎にしてやられたのではないか、という疑いも胸をかすめないではなかったが、さて空摩坊、破軍坊が京へきて漁火にきいてみると、虚空坊がひとりはなれたころ、城太郎と右京太夫はすでに京に来ていたらしい。で、虚空坊が健在である以上、あとで松永|麾《き》|下《か》の兵から話をきけば、きっと京へやってくるだろうと、じつは心待ちしていたのだ。
 だから、三好邸の門番にも、それから半入や平太にも、傘を背負った法師がやってきたら、それは虚空坊という仲間だから、見とがめずに漁火のところへ通すように、とわざわざつたえてあったのだ。
 城太郎は無人の境をゆくがごとく邸内を通ってきて、この香炉の蔵の入口についた。|土《つち》|戸《ど》はあけはなされたままであった。彼は中をのぞきこんで、ひと目で事態を知った。
「待った!」
 さけびつつ、一瞬に空摩坊、破軍坊を刺し止めたのは、右京太夫を制止するためであり、かつ、彼女がこのふたりの法師と眼を合わせることをふせぐためであった。
「漁火」
 と、城太郎はさけんで、右京太夫のまえに置かれた茶碗をとりあげた。
「うぬは右京太夫さまになにをしようとした?」
「……おまえは……」
 漁火はあえぐように口を半びらきにし、城太郎の顔をふりあおいでいたが、その眼にみるみるもちまえの底知れぬ|蠱《こ》|惑《わく》の炎がゆらめいて、
「なつかしや」
 と、にっと笑った。――東大寺炎上の夜のことをいったのか、それとも。――
 笛吹城太郎の殺気にもえた目がふと動揺した。彼は|篝火《かがりび》を思い出したのだ。
 そこにあるのは篝火の顔そのものであった。
 城太郎の眼から殺気が消えたのを敏感に見てとって、漁火はなまめかしくからだをくねらせた。
「まあ、こわい眼をして。――右京太夫さまに茶を進ぜようとしていただけではありませんか」
 城太郎から殺気が消えたことは、漁火にとってかえって危険をもたらした。なに思ったか、彼は黙って、右京太夫のまえの茶碗をとりあげた。けげんな眼でその動作を見ていて、ふいに漁火がぎょっとしたとき、城太郎は、手をのばして漁火の髪をつかみ、ぐいとあおのけた。
「なにをしやる」
「茶を進ぜよう」
 と、彼はいった。
 それから、右手に茶碗、左手に漁火の髪を巻きつけたまま、ふたりの法師の方へあゆみ寄った。
「ふ、ふ、笛吹っ」
「よ、よ、よくもおれを――」
 空摩坊と破軍坊はまだ生きていた。生きているどころか、苦悶に痙攣していた気管にようやく息が通ったとみえて、
「だ、弾正さまっ」
「笛吹城太郎推参してござるぞ。――」
 と、ひっ裂けるような咆哮をはりあげた。
 遠く、だだっと床を踏み鳴らす音がした。回廊の端に座っていたふたりの若党らしいと、知ったが、城太郎はそのまま漁火の口に茶碗をあてがった。
「そなたの|悪業《あくぎょう》は知ったが」
 彼はいった。どこか哀しげな声であった。
「殺すまい」
 彼は、わななく漁火の唇から茶をながしこんだ。
「せめてこやつらの|菩《ぼ》|提《だい》を弔う善女となれ」
 そして、ひきゆがんだふたりの法師の顔のまえに、漁火の顔をつきつけた。
「よく見たか?」
 ひきはなし、つきのけられて、漁火はどうとあおのけにたおれたが、そのまま、両掌で顔を覆って、胸で大きく息をしている。
「六人目、七人目!」
 と、城太郎はさけんだ。
 もとよりこれはこの世から消し去った篝火の仇の数であった。空摩坊と破軍坊はまだ生きていたが、当然ここで討ち果たすつもりで、漁火に菩提を弔えといったのである。篝火に似た漁火はどうしても殺せなかった。それならこの醜怪きわまる魔僧を恋させ、しかもその死を見せつけてやることが、せめてもの復讐だと彼はかんがえたのだ。城太郎は、空摩坊を刺しとめた戒刀の柄に手をのばした。
「おおりゃっ」
 その刹那、ふたりの法師はのけぞるようにはねあがった。いままでもがいていて、このとき空摩坊と破軍坊は、おどろくべし、背からつらぬき通った戒刀と薙刀を床からぬきとったのである。
 タタタタとふたりは、そのまま入口から外へのけぞっていって――いちど立ちどまり血ばしった眼ではたと城太郎を見すえたが、
「弾正さま……松永の衆!」
「笛吹でござるぞ。のがされな!」
 もういちど絶叫して、ばたばたと逃げ去っていった。背から腹へ、巨大な目刺しみたいに戒刀と薙刀を刺しわたしたまま。
 ――と、漁火ががばと身を起こした。黒髪はみだれ、じいっと眼をすえて蔵の入口の方をながめている。ふつうでも妖艶きわまる顔をしていたのに、このとき漁火は、眼はうるみ、唇を半びらきにしてかすかに舌をのぞかせ、肩で息をして、肉欲の極致にあるような表情に変わっていた。
「待って! 空摩坊」
 あえいで、唇から白いあごに唾液がつたいおちた。
「破軍坊、わたしを抱いて――」
 そして泳ぐような姿態でふらふらと蔵から外へ出ていった。
 淫石の茶のききめは承知の上で、あえて漁火にのませて、あのふたりの法師と対面させた笛吹城太郎であったが、唖然とせざるを得ない変貌ぶりであった。
「あれは……」
 と、右京太夫がいった。
「いまの茶をのんだせいですか」
「そうです。……それを漁火はあなたさまにのませようとしたのです。人を呪わば、穴ふたつ」
 城太郎はきっとしていった。
「右京太夫さま、おゆきなされまし」
「どこへ?」
「義興さまのところへ」
「城太郎は?」
「人が来るようでござる。拙者は一応逃げまする。いまの法師ら、なお命があったらまた帰ってきましょうが」
「おまえの妻を殺した張本人の松永弾正は?」
「おお、弾正」
「弾正はいま義興どのと和解の対面をしている様子」
 笛吹城太郎は一息か二息のあいだ、じっと眼をすえていたが、やがて決然と、
「右京太夫さま、弾正がおるとあっては、しばらくここにひそんでおいでなされませ。弾正がご当家を訪れたのは、かならずなにかのたくらみあってのことと存じまする。拙者が弾正を片づけるまで、ここで待っていてくだされませ」
 いって、つかつかと歩みかけた。
 蔵の外へ出て、ふりかえった。右京太夫がすぐあとについてくる。
「おいでなさってはなりませぬ。右京太夫さま」
 右京太夫はじっと城太郎を見つめていった。
「わたしはあの茶をのみました」
 笛吹城太郎は愕然としていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:58:49 | 显示全部楼层
     【三】

 長慶さまおん見舞いに上洛仕ったついでに、ぜひ若殿のご機嫌をうかがいとうござる。そういう名目でなかば強引に訪れてきた松永弾正であった。
 三好義興は弾正に対してなにやらえたいの知れぬ疑惑をいだいている。とくにあの奈良の東大寺炎上前後の彼の行動は不審がある。
 といって、あれ以来ひそかに信貴山に|細《さい》|作《さく》(諜者)を派してさぐらせてみても、彼が謀叛をたくらんでいるというはっきりした徴候はないし、きょう上洛して来た軍勢も、軍勢と呼ぶにはあたらないほどの小人数である。
 もしこのさい弾正をのぞくつもりなら、いまが好機だろう。――と義興はかんがえた。が、そうかんがえると、かえって彼は、じぶんの屋敷に入ってきた弾正に手を出しかねた。若い潔癖さが、じぶんでじぶんをゆるさないのである。
「いつぞやは、途方もないさわぎにまぎれ、ご挨拶もいたさぬままにお別れいたし」
 いま書院に相対座した弾正は、澄まして義興にいっている。澄ましてといっても決して義興を馬鹿にしている様子ではなく、いんぎんで、おだやかで、そのくせつかみどころのない分厚い顔つきであった。
「一日も早うおわびに参上仕らねば、と思いつつ、あの騒ぎで不覚にも足をくじきましてな。いや、年でござる。ようよう身のうごきがままと相成って、とるものもとりあえず伺候|仕《つかまつ》ったしだいにて」
 ゆったりといいながら、じつは弾正はじれている。
 要するにここへ来た目的は、右京太夫さまに例の茶をのませ、そしてのんだあとでこの弾正を見させることだけだ。
 その手順はうまくやってのけるし、それからあとのこともじぶんの才覚を信じなされ、という漁火の連絡で、それできょうやってきたのだが、さて右京太夫さまはむろん、漁火もなかなか姿をあらわさない。
 なんとなく物騒な表情で、あまり返答もせぬ三好義興を相手に、弾正もしだいに気ぶッせいになってきた。おれが来たというのに、漁火はどこにいる?
 もっとも、漁火を右京太夫と義興はまだ信じているらしいから、両人ともに姿をあらわすということはあり得まい。その夫も見分けのつかないほどの相似性を利用して、あの漁火のことだから舌をまくような細工をするものと思われるが、それはいったいどんな細工か、弾正は知らない。ひそかに前もって漁火に逢った空摩坊や破軍坊を通じて、そこのところをいくどもきき合わせ、たしかめようとしたのだが、漁火はただ「わたしの才覚を信じて」と答えるばかりであったという。
 義興は、以前とは見ちがえるほど蒼白くやつれている。じぶんが妖怪の元凶のような人間であるくせに、しだいに弾正は、この屋敷にそくそくと妖気がたちこめてくるような気がした。
「殿」
 たまりかねて、おそるおそる|啄木鳥《きつつき》のようにたたいてみた。
「奥方さまはご健勝にておわしまするか」
 遠く、異様なさけびがきこえてきたのはそのときであった。
「弾正さまっ……松永の衆! ……笛吹城太郎が推参してござるぞ!」
 三好義興のまえであることも忘れて、弾正は、がばとひざをたてた。
「なに、笛吹城太郎」
 たちまち、その書院の庭に、空摩坊と破軍坊が駆けこんできた。
 背から腹へ、薙刀と戒刀をさしわたした人間とは思われぬ凄惨無比の姿で。
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 楼主| 发表于 2008-4-11 12:59:12 | 显示全部楼层
    火の鳥


     【一】

「おう、空摩坊に破軍坊!」
 思わず、弾正は絶叫して、立ちすくみ、ふたりの法師のあまりな凄じい姿に、とっさにつぎの言葉も行動も忘れた。
「……やっ、あれは?」
 三好義興も、眼を見張ってさけんだ。
 義興が驚愕したのは、たんにこの巨大な針に刺しとめられた二匹の昆虫みたいな姿を見たせいばかりではない。いま、それを見た刹那、彼の脳髄に、炎とともによみがえるものがあったのだ。あれは、大仏炎上のとき乱舞していた法師らの一味ではないか?
 彼は、ここ数日、ふたりの法師がひそかに、しかし悠々とこの屋敷に出入して、じぶんの妻の右京太夫と――じつは漁火としめし合わせていたことなど、なにも知らなかった。
「弾正、あれは何者だ」
 弾正はつまった。
「あれを、そちは知っておるのか?」
 しかし、三好義興は、それ以上松永弾正を問いつめることができなかった。
 なぜなら、ふたりの法師につづいて、書院の庭にもうひとり女が駆けこんできたからだ。
「あっ、――奥!」
「――漁火!」
 同時にふたりはさけんだが、おたがいのさけびはきこえない。いや、きこえたとしても、少なくとも三好義興にとっては、弾正のさけびの意味は判断を絶している。
 漁火の帯はひきずられ、かいどりはぬげて、肩がむき出しになっていた。いや、それどころか、彼女はみずからのこりの衣服をぬぎすててゆくのだ。
「奥、なんとした?」
 縁側まで走り出た義興をふりかえりもせず、
「破軍坊……空摩坊」
 と、彼女はあえいで、身もだえした。
「その刀をとって! その薙刀をとって!」
 そのからだから、きもののすべてがズリおちた。そして、全裸のまま、犬のように舌を出し、はては空摩坊と破軍坊をつらぬいた戒刀と薙刀も見えないかのように駆け寄ろうとする。――
「そして、わたしを抱いておくれ!」
 このとき、先刻、悪魔のように駆けこんできた空摩坊と破軍坊は、どうしたのかはたと沈黙して、まるで氷の彫像と化したかのごとく凝然とつっ立っていたが、ふいに――破軍坊が声もなく、凄惨と形容するほかのない笑いを笑った。
「空摩坊」
「おいよ」
「いかになんでも、もう助かるまいな。伊賀の小冠者にしてやられたわ」
「しかし、きゃつ、逃がしはせぬ」
「われら、死んではじめて成る果心直伝、|怨《おん》|敵《てき》必殺の忍法」
「それにしても、破軍坊、ことはいそぐぞ」
「では、この世の見納め、いや抱き納めに、この女を抱くか?」
「おおっ。――」
 うなずくと、空摩坊と破軍坊はツツと寄り、|卍《まんじ》のかたちに一回転した。おたがいの胸をつらぬく戒刀と薙刀の柄をつかんで、ぐいとひきぬいたのである。そして、ふたりは離れた。
 七歩、十三歩、十五歩。――それぞれぬきとった戒刀と薙刀をつかんだこぶしで胸の傷をおさえ、もう一方の腕をうしろにまわして背の傷をおさえ、ふたりは庭の上に、約三十歩の間隔をおいて立った。
 このとき、先刻の絶叫で、三好家の侍、松永の武士たちがわらわらと駆けあつまってきて、庭の周囲までおしかけていたが、彼らはもとより、三好義興も松永弾正も、いや、肉欲の牝獣と化したかのような漁火さえも、このふたりの法師のぶきみな「儀式」に眼を吸われている。――
 陰暗たる空であった。風が|飄《ひょう》と虚空にうなった。
「では、やるぞ」
「心得た」
 ふたりの法師は、とんと刀と薙刀を地につき立てた。そして歩き出した。
 空摩坊は南へ七歩、それから西へ十四歩、さらに南へ七歩。
 破軍坊は西へ七歩、それから北へ十四歩、さらに西へ七歩。
 むろん通常なら、ふたりがどう歩いたのか見当もつかないところだが、ふたりが薙刀と刀を地につき立てた瞬間から、どうっと血潮がおちはじめて、それが彼らの歩いた|行《こう》|跡《せき》を朱色でえがいていったのである。
 |卍《まんじ》。――人々は、そこに巨大な卍の朱文字を見た。
 ふたりの法師は卍の朱文字をえがき終わると、|怪鳥《けちょう》のようにさけんだ。
「燃えろ。――忍法火まんじ!」
 すると、卍の中心の、両者の血の交わった地点からメラメラと青い炎が立ちのぼった。
 とみるや、その炎がぽっと飛んだ。そこにあった血のあとが、また燃えあがったのである。息つくひまもなく炎はまた飛ぶ。――それが、彼らが駆けて来たあとに滴々とこぼしてきた血潮に従っている――と気がついたものがどれだけあったか。
 あっというまに、それは庭から出て、どこかへ一すじの|不知火《しらぬい》の糸となった。
「…………」
 その炎の奇怪さもさることながら、なお一同を金縛りにしてしまったのは、炎が燃えあがった瞬間、ふたりの法師が見せた、奇怪という言葉すら絶する行為であった。
「女――来う」
 卍の朱文字の端に寝ころんだ空摩坊が|咆《ほ》えた。
 たちまち、黒い食虫花に吸いつけられる白い蝶のように漁火が飛んでゆき、彼に覆いかぶさった。そして――何十人という衆人の環視の中で瀕死の空摩坊と狂女のような漁火は、凄じいまでの痴態をさらけ出したのだ。
 それは痴態というより死闘にちかい性の景観であった。
「破軍坊、やるぞ」
 空摩坊がさけぶと、漁火は宙を飛んだ。その白いからだは、やはり卍の血文字の端にあおむけになった破軍坊の上におちた。
「わははははは、火まんじよ、燃えろ、敵を追いかけろ」
 地獄の釜でも鳴るような空摩坊の笑い声が突如消えると、それっきり彼が眼をむいて息絶えてしまったことは誰もしらない。
 人々は、こんど破軍坊と漁火の|酸《さん》|鼻《び》ともいうべき痴戯に眼をうばわれた。――ようやく、われにかえったのは、三好義興である。われにかえっても、なお彼は悪夢を見ているような思いであった。
「奥!」
 絶叫して、庭へ馳せおりた。
「わはははは、火まんじよ、燃えろ、伊賀の小冠者を焼きつくせ!」
 破軍坊が哄笑し、哄笑が絶え、彼は血と粘液にまみれた傍若無人の屍体となった。その屍骸になお全裸の漁火はむしゃぶりついて、
「死なないで、破軍坊! もういちど、もういちど!」
 白いからだが蛇のように波うったが、背後に馳せ寄る|跫《あし》|音《おと》に、さすがにがばと身を起こす。
 ふりむいて、漁火は瞬間的だが、じつにぶきみな笑顔をつくった。媚笑とも嘲笑ともつかぬ――それはこの世のものならぬ魔女の笑いであった。
 義興の一刀がその首を薙いだ。
 漁火の首は、魔女の笑いを刻んだまま地におちた。
 三好義興にとっては、外界のすべてが悪夢としか思われないうえに、じぶん自身までが悪夢のなかの人間みたいに感じられていたが、さらに信じられない光景は、つづいてその眼前に、くりひろげられたのである。
「あれ、あれ」
「屋根の上に」
 人々がどよめいた。
 義興は血刀をひっさげたまま、うなされたように高い屋根の上を見て――全身凍りついたようになっていた。
 屋根の棟に青い火が走った。その火に追われるがごとく駆けるふたつの影、一人は袈裟頭巾をかぶり、大きな傘を背負った法師だが、もうひとり、それにすがりつくようにしている女は。――
 三好義興は、かっと眼をむいて、絶叫した。
「奥!」
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