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发表于 2008-4-16 17:26:58
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【三】
月沈んで、甲賀の国、伊賀の国の谷々に、ひときわ濃い闇がたれこめた。
が、それを分かつ山脈には、|黎《れい》|明《めい》のひかりがさしはじめていた。もう満山チチチチと小鳥がさえずり、草の露がきらめきだしている。
とはいえ、この時刻、甲賀信楽の谷から伊賀へこえる土岐峠で、春の|精《せい》のような明るい声がながれた。
「まっ、弦之介さま!」
|蒼《あお》みがかってきた空を背に、五つの影が立っていた。
「おう、朧どの!」
下から、若い鹿のように|灌《かん》|木《ぼく》をヘシ折ってかけのぼってくる影をみながら、うれしそうな声がふりかえって言った。
「だから、わたしがいったではないかえ? きのう夕方からただならぬ胸さわぎ、甲賀へゆけば溶けるように思ったが、見や、心をあわせたように弦之介さまもこちらへお越しあそばした。弾正さまから、何かお知らせがあったにちがいない。おう、弦之介さまのあの笑顔、きっときっと、よい知らせに相違ない」
彼女は薄紅の|被衣《かつぎ》をかぶっていた。そのうえ、夜はまだ明けていなかった。――なのに、その娘から透けて出るようなかがやきは、気のせいだろうか。
伊賀の忍者の頭目お幻の孫娘、朧である。
しかし、うしろにひかえている四人は、彼女のはずんだ声に対して、夜明前の闇が四つわだかまったよう黒ぐろとだまりこんでいる。
侍女らしい二人のうち、ひとりは皮膚の|蒼《あお》|白《じろ》い、うりざね顔の妖艶な女で、もうひとりは小柄な、むしろ|可《か》|憐《れん》な感じをあたえる娘であったが、この小娘の頭上にじっとのぞいてみえるものに気がついたら、だれだってぎょっとするにちがいない。蛇なのである。飾りではない。襟もとからくびすじをひと巻きしてはいのぼっているその蛇は、乙女の髪の|香《か》を|愛《あい》|撫《ぶ》するように、チロ、チロ、とほそい舌を吐いているのであった。
「はて、蝋斎老はどうしたかの」
「急に何やらを空にみてかけ去っていってから、だいぶになるが」
と、二人の男は弦之介を見おろしながら、ポツリとこんな話をかわした。薄明りでまだよくみえないが、そのせいかひとりはまるで土左衛門のように|蒼《あお》ぶくれた顔で、もうひとりは、総髪というより|凄《すさま》じいモジャモジャあたまだ。
「弦之介さま!」
「朧どの、どうなされた?」
甲賀弦之介は|峠《とうげ》にのぼってくると、笑顔をけし、けげんそうにかけ寄ってきた。
「お、これは|朱《あけ》|絹《ぎぬ》、|蛍火《ほたるび》に、|雨《あま》|夜《よ》、|簔《みの》の面々じゃな、みなうちそろって、何事が起こったのじゃ?」
朧はコロコロと笑った。こちらからききたいことを向こうからきいてきたのがおかしかったらしい。が、さすがにふっとま顔になって、
「いいえ、何やら昨夜より、朧はお婆さまのことで胸さわぎしてなりませぬゆえ、甲賀にゆけばもしや弾正さまからお知らせがあるまいかと――」
「それこそ、こちらの承わりたいことだ! わしも同じような不安にかられて急に出てまいったのだが――」
弦之介はじっと朧をのぞきこんだが、|被衣《かつぎ》のかげのおびえた瞳をみると、急ににっと白い歯をみせて、
「いや、大事ない! よし何事が起ころうと、甲賀弦之介がおるかぎりは!」
と、力づよくさけんだ。
それだけで、朧のまっ黒なつぶらな目は、さんさんたるひかりをおびた。
「ああ、やはり来てようございました。わたしは弦之介さまにお目にかかっただけで、わけもない不安は雪のようにきえました」
四人の家来の陰気な目をしりめに、朧は幼女のごとく|天《てん》|真《しん》に弦之介にすがりつく。――
だれがこれを四百年このかた|憎《ぞう》|悪《お》と|敵《てき》|愾《がい》をからませあった怪奇な忍法二族の|嫡孫《ちゃくそん》同士と思おう? それは|一《いち》|抹《まつ》の妖しい雲も翳りもない、生命にみちた青春の画像のようであった。おそらく、さしもかたくななおたがいの祖父や祖母のこころを|溶《と》いたのも、この若々しい甲賀伊賀合体の未来図であったろう。
匂うようなひかりが、ふたりを包んだ。太陽がのぼってきたのだ。
そのとき、まだ|模《も》|糊《こ》とうすぐらい谷の方から、一つの声が追いかけてきた。
「おおいっ……おおいっ」
四人の従者はうなずいて、
「や? 蝋斎老か。――」
「いや、わしについてきた鵜殿丈助というやつの声だが」
と、弦之介はふりむいて、小くびをかたむけ、
「のんき者め、いままで何をしておったか。――いや、先刻ここへくる途中、一羽の鷹が巻物様のものをつかんで飛んでおるのをみて、丈助に追わせたのじゃが」
「鷹が!」
とさけんだのは|蓬《ほう》|髪《はつ》の男だ。伊賀の忍者、|簔《みの》|念《ねん》|鬼《き》という。――
「もしかすると、それは駿府のお婆さまのつかわされたものではないか」
「なに、お婆さまのお鷹?」
朧も息をひいた。蒼ぶくれの雨夜陣五郎が手をうった。
「さては、さっきの蝋斎老が、ものもいわずにかけだしていったのはそのためか!」
五人が不安な顔を見合わせているところへ、下からまるい袋のようなものがころがりのぼってきた。
「やあ」
と、みなを見まわし、例のカンだかい声で、
「こりゃ、ご一同、おそろいで何でござる?」
「丈助、鷹は?」
と、弦之介がするどくきいた。
「ああいや、えらく骨を折りました。なに、鷹ではござらん、鷹のおとしていったこの巻物を手に入れるためにな」
しゃあしゃあとした顔でふところからとり出した巻物をみて、「お!」と念鬼と陣五郎が一歩ふみ出した。
「左様、存じておる、存じておる、これは駿府のお幻婆さまからおくられたものでござるとな。へへへへ、これをとるため、先刻、小豆蝋斎と大汗かいて鬼ごッこじゃ。甲賀と伊賀、忍法くらべをして、勝った方がこれをもらうと。――」
「丈助っ」
「と、おいでなさると思った。なに、遊びでござるよ、だから鬼ごッこと申したではありませんか。伊賀の衆、くわしくは蝋斎老からきかれた方がよろしいが、要するに、甲賀と伊賀との忍法遊びに拙者が勝った証拠には、これ、ご覧のとおり――」
と、さし出した巻物を、弦之介はあらあらしくうばいとって、
「お婆さまからきたものなら伊賀衆のもの、何をいらざる|悪戯《いたずら》をいたす。――朧どの、はやく見られい」
受けとって、その巻物を朧がひらこうとしたとき、
「待った!」
と、雨夜陣五郎がさけんだ。
朝の太陽が、その姿を無惨なばかりに照らし出していた。それは実に|吐《はき》|気《け》をもよおすほどぶきみな人間であった。顔は水死人のようだが、その頸、手の甲なども、皮膚がウジャジャけて、|青《あお》|黴《かび》がはえているようなのだ。
「その巻物、弦之介さまのまえでひらくことはなりませぬ」
「陣五郎、何とえ?」
「駿府にまいられたお婆さまと甲賀弾正どのを待つものは、雨か風か、まだ判然とはいたさぬ。そのお婆さまが鷹をとばせて知らせようとなされたその巻物のなかみは――」
「陣五郎、よしこの世に何が起ころうと、伊賀と甲賀の両家のあいだにかぎって、もはや雨風の吹くいわれはない」
「それはそうありたいと拙者も念じ申すが、朧さま、その両家はまだ縁組したわけではありませぬぞ。現在ただいまは、何と申しても|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》ともいうべき宿怨の間柄。……お婆さまよりの|秘《ひ》|巻《かん》、甲賀衆に見られては|留《る》|守《す》をあずかるわれわれの|責《せめ》がはたせぬと申すもの。――」
ネチネチとした声にはあきらかにまだ甲賀へ|釈然《しゃくぜん》たらざるものがある。それにこちらの丈助たちもおなじことだ。――と弦之介はかなしげな片笑みをうかべて、
「道理じゃ。わしは向こうへいっていよう。丈助、こい」
と、しずかに背をみせた。丈助は(なんだ、せっかくおれがとったものを)といいたげに、まんまるい頬をいよいよふくらませて、あとをふりかえりふりかえり、ついてくる。――と、そのうしろから巻物を|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に四人に投げて、朧もあるいてきた。
「どうしたのだ、朧どの、お婆さまよりの知らせを見られぬのか」
「いえ、そんなことより、弦之介さま、どうぞ伊賀のものどもの無作法をゆるしてやって下さりませ」
涙ぐんで、|哀《あい》|怨《えん》なまなざしをひたむきにすがりつかせてくる朧をみると、弦之介はヒシと抱きしめてやりたいいとおしさをおさえて、そばの|山椿《やまつばき》を一輪むしりとり、朧の|被衣《かつぎ》[#電子文庫化時コメント 底本のみルビ「かずき」]にさした。
「いやいや、なにせ、四百年にわたる悪縁の両家じゃ。陣五郎がああ申すのもむりはない。思えば、これを溶くのも容易でないが、朧どの、よいか、われわれが|鎖《くさり》となろう、甲賀伊賀を永遠にむすぶ、きれいな鎖に!」
雨夜陣五郎、簔念鬼、朱絹、蛍火の四人は、草の上に巻物をひろげ、頭をよせたままじっとうごかなかった。太陽を背に、四羽の不吉な|鴉《からす》のように。
朧がふりかえって呼んだ。
「陣五郎、お婆さまは何といってこられたえ?」
雨夜陣五郎はゆっくりとこちらを見た。水死人が水底から呼ぶような声でこたえた。
「御安心くだされい、朧さま。……駿府城内、大御所と服部半蔵どののおんまえで、伊賀甲賀の和解まったく成り、お婆さまと甲賀弾正さま、あいたずさえて、これより春の江戸見物をしてかえると。――」 |
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