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楼主: asuka0226

[好书推荐] 甲賀忍法帖 (山田風太郎忍法帖1)

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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:40:17 | 显示全部楼层
     【四】


 |暗《あん》|澹《たん》たる空から、雨はもとよりここにも|蕭々《しょうしょう》とおちはじめていた。卍谷の地をながれる雨水は赤い。
 甲賀一党が、血ぶるいして武装したことはいうまでもなかった。なんたることか、奇襲とはいえ、事前に伊賀者の潜入を知りながら、一瞬の間に十数人を|屠《ほふ》られ、しかも敵のことごとくをのがしてしまったのだ!
 そもそも天正伊賀の乱以来、甲賀伊賀には、血判を印した|起請文《きしょうもん》が、それぞれ|鎮《ちん》|守《じゅ》の守護神におさめてある。その誓いのもっとも重大なものは、
「一、他国他郡より乱入の族これあらば、表裏なく一味|仕《つかまつ》り妨げ申すべきこと」
「一、郡内の者、他国他郡の人数をひきいれ、自他の跡のぞむ|輩《やから》これあらば、親子兄弟といえども、総郡同心|成《せい》|敗《ばい》仕り|候《そうろう》べきこと」
 などの条々にある。世にこれを「甲賀連判」ないし「伊賀連判」というが、彼らは実に、この忍者の|砦《とりで》をまもる聖なる連判状を、|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にひきさかれたにひとしい|辱《はずかし》めをうけたのである。
 一大|叫喚《きょうかん》をあげて、伊賀へ押し出そうとする甲賀者たちを、
「待て」
 あやうくおさえたのは、室賀豹馬であった。
 かみつくような無数の目を盲目の顔でむかえて、豹馬の吐いた言葉は彼らを|慄《りつ》|然《ぜん》とさせてしまった。
「はやまるな。鍔隠れの谷には、弦之介さまがおられるのだぞ」
 その一語は、彼らを金しばりにするに足りた。――
 |急遽《きゅうきょ》、最高幹部の会議がひらかれた。すべては、それを待つことになった。
 そもそも、この襲撃はなんのためか。甲賀伊賀のあいだに何が起こったのか?
 伊賀にはいった弦之介の運命は?
 軒にしぶく雨は、評定の座に蒼白いひかりをそそぎ、さすがものに動ぜぬ甲賀忍法の|古《ふる》|強《つわ》|者《もの》たちの呼吸も切迫していた。
 この場合に、むしろ冷然とおちつきはらって、まず口をきいたのは室賀豹馬である。
「さっき一同をおさえたのもそれだが、敵をのがした以上、鍔隠れを逆襲したとて、かえって袋のねずみであろう。少なくとも、わが方のなかばは生きてかえれぬと覚悟せねばならぬ」
「それを恐れて、弦之介さまを見殺しにいたすのか!」
 と、老人が白いひげをふりたてていった。豹馬はちょっとだまって、それから微笑の顔をむけて、
「わしは弦之介さまを信じる、やわか弦之介さまが、やすやすと伊賀者どもに討たれなさるとは思わぬ。……丈助もついておることじゃ」
「しかし」
「あいや、もとより弦之介さまを捨て殺しにしてなろうか。ゆく。必ず安否をうかがいにはまいるが、そのまえにたしかめねばならぬことがある。それは、和睦の日がせまっておるというに、なにゆえ伊賀者たちがけさここを襲ってきたかということじゃ」
「その和睦をきらうものどもの仕事ではないか。それなら、われらの方にも、あの服部家の禁制さえなくば、伊賀を襲いたがっておるものもたんとおるが」
「それじゃ。――その服部家の禁制が解けたのではあるまいか」
「なにっ」
「地虫十兵衛の星占いが気にかかる。駿府の弾正さまが気にかかる。――刑部」
「うむ」
 と毛なし入道が寒天色の顔をむけた。
「先刻、おぬしは壁のなかで、薬師寺天膳の不審な言葉をきいたと申したな」
「おお――不意討ちとて、たやすうは思うなよ。風待将監ひとりすらあれほど骨をおらせたではないか――と」
「それだ。将監は駿府にいったと申すに、解せぬ! きゃつらは北からきた。東海道からきた。ううむ、おそらく――」
「豹馬、なんだ」
「将監は、ここに何らかの飛報をたずさえてかえる途中、東海道できゃつらに討たれたのではないか。伊賀者のけさの襲撃の秘密はそこにあるのではないか!」
 霞刑部がすっくと立ちあがった。
「よし、わしが東海道へまいってみよう」
 同時に如月左衛門も忍者刀を腰にさしこんだ。
「刑部、おれもゆこう」
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:40:43 | 显示全部楼层
     【五】


 雨の東海道を、伊賀の|夜《や》|叉《しゃ》|丸《まる》がはしってきた。
 ちょうど、風待将監に一日おくれた。いちど東海道を途中までかけてきて、お幻から託された秘巻を失っていることに気づき、愕然として駿府までとってかえしたため、また駿府でお幻の|行《ゆく》|方《え》をさがしまわったためだ。それはついにわからず、やむをえずふたたび伊賀へむかってとび出したが、そのあいだの狼狽、苦悩のため、その美しい頬はゲッソリとけずられて、いまや白面の|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》のような形相であった。
 いまにして、あの人別帖は、弾正か将監にすり|盗《と》られたものと思う、こうしてじぶんが右往左往しているあいだに、将監はおなじものを甲賀へとどけているであろう。それによって卍谷のものどもが、いちはやく行動を開始したならば!
 あの選手名簿の中に、恋人蛍火の名があったと思うと、総身の血がひくのをおぼえる。朧さまの運命に|想《そう》|到《とう》すると、心臓を鷲づかみにされたようだ。
 怒りと焦燥の火薬をいだく一個の弾丸と化した夜叉丸が、関宿のはずれをかけぬけようとしたとき――どこかで、「おおおい」と呼んだものがある。
 いちど気づかず、なおはしって、
「――おおおい、夜叉丸。――」
 ふたたび、そう呼ぶ声をきいて、夜叉丸は、はたと立ちどまった。
 きのう、薬師寺天膳と地虫十兵衛が怪奇な決闘を展開したのはこのちかくの藪の中だが、夜叉丸はもとよりそんなことを知らぬ。ただ彼は、いまの声にききおぼえがあった。
「天膳どのではないか」
 と、彼はさけんで、まわりを見まわした。
 しかし、あたりにそれらしい影はない。一方は古寺らしい土塀、一方は石垣だ。それにはさまれた往来には、ただ銀いろの雨がななめにしぶいているばかり。――しばらくむこうはだまりこんでいたが、やがて、
「――おお、いかにも薬師寺天膳だ」
 と、陰々たる返辞があった。たしかに天膳の声にまちがいはない。
「天膳どの、どこにおられる?」
「――わけあって、いましばらく姿を見せられぬが、夜叉丸、なんの用があって駿府からもどってきたか」
「一大事でござる」
 と、息せききっていいかけて、夜叉丸は口ごもった。おのれの失態を、なんと告げてよいやらわからない。
「それより、天膳どの、姿を見せられぬとは」
 声をひそめて、
「もしや、あなたは、殺されたのではありませぬか?」
 なんたる奇怪な問いだろう。しかも夜叉丸は、あやしむようすもなく、雨の中にひとり立って、「|死《し》|人《びと》」にたずねる。
「あなたを殺したのは、あの甲賀の風待将監ではありませぬか?」
「――おお」
 あいまいなうめき声が、かすかにうなずいて、
「――いかにも、わしは、風待将監に殺された。――」
「ああ、やっぱり。申しわけござらぬ。おれともあろうものが、弾正めにたばかられ、あの人別帖をうばわれたばかりに――もっとも、殺されたものがあなたでようござったが、ほかの衆にはまだ別状がございませぬか?」
 天膳の声に、かすかなおどろきのひびきがあった。
「――夜叉丸、人別帖とはなんだ」
「天膳どの、このたび駿府の大御所の命により、服部家との約定は解かれました!」
「なにっ、さては!」
 声が変わった。どうじに夜叉丸は、はじかれたようにとびのいた。
「あっ、天膳どのではないな、何やつだっ?」
 はじめて彼は、じぶんの対話していた相手が、天膳の声をまねていたことに気がついたのである。
 土塀の|甍《いらか》の向こう側にへばりついていた影がさっと立つと、|瓦《かわら》を鳴らして風のようにむこうへにげた。夜叉丸の腰が、|独楽《こ ま》みたいにまわった。黒い閃光のごとくピューッと縄がはしって、すでに十メートルも彼方へにげていた影にからみつき、影は苦鳴をあげて路上におちた。
「たばかったなっ?」
 夜叉丸は襲いかかって、影をおさえつけた。全身が怒りに|痙《けい》|攣《れん》している。あまりにもみごとな声帯|模《も》|写《しゃ》にだまされて、うかと大秘事をうちあけかけたことを思うと、こころから|戦《せん》|慄《りつ》せざるを得ない。
「甲賀者か?」
 相手は胴にまきついた縄のいたみに声も出ないようすであった。
「名を申せ、いわぬか!」
 夜叉丸は、天膳とちがって卍谷の面々をすべて知っているわけではなかった。顔をぐいとねじまわしたが、はたして見たおぼえもない。縄をギューッとひきしめると、それがどれほどすさまじい苦悶をあたえたか、
「き、き、如月、左衛門……」
 と、相手はきしられるような声でこたえた。
 夜叉丸の美しい形相が、思わず笑みくずれた。如月左衛門、その名はたしかに秘巻のなかにあった! はからずも、この失意の帰途、このうえもない|手《て》|土産《みやげ》をひろったわけである。これで、おれの顔もすこしは立った! と、スラリと山刀をぬき放った手も歓喜にふるえて、
「左衛門、まいちど|黒縄《こくじょう》地獄に|堕《お》ちよ!」
 ふりかぶった刃をつきとおそうとした[#電子文庫化時コメント 底本・'94誤植]こぶしが、このとき宙で何者かにつかまれた。
 夜叉丸はもとより伊賀忍法の精鋭だ。縄術だけが能ではない。その目、その耳、その皮膚が、どうして背後にしのびよるものの気配を感づかぬことがあろうか。まさしく彼は、この決闘のあいだ、往還に余人の影をみとめなかったのである。それにもかかわらず、何者かが、すぐうしろから、夜叉丸の腕をぐっととらえた。
 ふりかえるいとまはなかった。もう一方の腕が、彼のくびにまきついた。その腕は、土塀とおなじ色をして、にゅっと土塀の壁からつき出していた!
 声もあげず、伊賀の夜叉丸は絞め殺されていた。
 如月左衛門とおりかさなってくずおれた夜叉丸の背を、銀の雨がたたく。雨以外に物音はない。雨以外にうごく影もない。
 いや――そうではなかった。壁から生えた二本の腕を中心に、古い壁になにやらうごめいている。まるで、巨大な、透明な、ひらべったい|水母《くらげ》のようなものがのびちぢみしている。――それがしだいに壁面にもりあがってきて、そこにはだかの人間らしいかたちが、朦朧と浮き出してきた。寒天色の皮膚をした、毛の一本もない大入道の姿が。――
 霞刑部はうす笑いして夜叉丸の死骸を見おろして立っていた。すでに彼は完全に壁から分離している。卍谷で、小豆蝋斎の|胆《きも》をひしいだ玄妙きわまる|隠形《おんぎょう》の術がこれであった。
 彼は、如月左衛門のうえから夜叉丸をひきずりおとすと、その手ににぎったままの山刀でとどめを刺した。なまあたたかい血がとんで、気絶していた左衛門は目をあけた。
「あぶなかったな」
 と苦笑する。
「おどろいたあまり、思わず薬師寺の声を忘れた」
 ややはなれた塀のかげにぬぎすててあった衣服を刑部がつけるあいだ、如月左衛門は嘆息して、恐るべき夜叉丸の縄をとりあげて見ていた。
「殺したくはなかった。|窮命《きゅうめい》したかったが、やむをえなんだ」
 と、もどってきた霞刑部がいった。風待将監をもとめて|東《とう》|奔《ほん》する途中、はからずも西走する夜叉丸の姿を見かけていっぱいはめようとしたが、おしいところで失敗したのである。
「窮命して白状をする相手でもなかろう」
「じゃが容易ならぬことを口走ったぞ。駿府の大御所の命により、服部家との約定が解かれた、と。――」
「豹馬の申したとおりだ! それから、人別帖云々とはなんのことだ?」
 ふたりはいかにも心残りしたように、じっと夜叉丸の死体を見おろした。
 だが、そのことの重大さに、ふたりはこのとき、もうひとつ夜叉丸が口走った奇怪な一句を思いおこすいとまがなかった。また、思い起こしたとて、さすがの彼らもその判断を絶していたであろう。それは「天膳どの、もしやあなたは殺されたのではありませぬか?」という言葉だ。
 ああ、もしもその意味を知ったなら、のちにこの如月左衛門の名に、不吉な赤い血のすじがひかれることはまぬかれたであろうに。――
 しかし、このとき刑部と左衛門の目は、きっと西の山脈の彼方へなげられた。
「鍔隠れへゆかねばならぬ」
 どうじにうめいた。
「かくと事が判明したうえは、一刻もはやく弦之介さまの安否をたしかめにまいらねばならぬ!」
 如月左衛門はかがみこんだ。そして、雨にぬかるむ地上に手をさしのべて、妙なことをやりはじめた。土をもりあげ、泥をかきよせ、そのうえを注意ぶかく、きれいにならしたのである。それから彼は、夜叉丸のあたまをもちあげて、しずかにその泥に顔をうずめた。
 すぐに死体をはねのけると、泥のうえに面型がのこった。その面型は実に|小《こ》|皺《じわ》まつげまでひとすじずつ印された精妙なものであったが、如月左衛門はそのまえにひざまずいて、おのれの顔を、じっとその泥の|死仮面《デス・マスク》におしつけたのである。――
 数分すぎた。そのあいだに霞刑部は、夜叉丸の衣服をはぎとり、はだかの死体をかついでどこかへはこび去った。
 刑部が手ぶらでもどってきたとき、左衛門はなお泥のなかにひれふしていた。それは印度の苦行僧の神秘な儀式のような姿であった。
 さらに数分すぎた。如月左衛門はしずかに顔をあげた。――その顔はまさしく夜叉丸の顔であった!
「よかろう」
 と、その顔を見まもって、刑部はニタリとした。左衛門のこのおどろくべきメーキャップぶりはすでに知ってはいても、さすがにその目に賛嘆の色がある。
「甲賀に告げるいとまもないが」
 と、すばやく夜叉丸の衣服をつけながら、如月左衛門は笑った。
「しかし、鍔隠れの谷にはいり、弦之介さまを救い出すことのできるものは、甲賀一党、人多しといえども、まずおぬしとおれをおいてはあるまいて」
 黒縄を腰につけて、すッくと立ったその若々しい姿、さくらいろの頬、かがやく黒瞳、|剽悍《ひょうかん》きわまる高笑いは、すべてこれ伊賀の夜叉丸であった。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:41:05 | 显示全部楼层
    人肌地獄


     【一】


 ぎぎっ……と、重い|土《つち》|戸《ど》があいた。
 扉のすきまから、ちらとのぞいた外界には、もうひかりがある。夜明け前であったが、ふりしきる雨がひかりをやどしていた。
 が、はいってきた人間は、片手に|松明《たいまつ》をにぎっていた。うしろ手に土戸をしめると、ふたたび闇と化した土蔵の中に、その人間の白髪をうかびあがらせた。|小豆《あずき》|蝋《ろう》|斎《さい》である。
「娘」
 と、しゃがれた声で呼んだ。
 床に伏していたお|胡《こ》|夷《い》は、顔をあげた。きのうの朝、土岐峠から、手どり足どりさらわれてきたときの抵抗の姿そのままに、黒髪はみだれ、大柄なからだは肌もあらわであった。
 蝋斎はあるいてきて、土蔵のなかばをしめる俵のあいだに松明をさしこみ、俵のひとつに腰をかけた。俵といっても米ではない。ところどころ|藁《わら》がやぶれてこぼれている白いものをみてもわかるように、これは塩蔵なのである。松明をうけて、老人のおちくぼんだ|眼《がん》|窩《か》のおくで、目が血いろにひかった。囚人がはたちにみたぬ少女なのも、その肌があらわであることも、まったく念頭にないらしく冷酷で|峻厳《しゅんげん》な目であった。
「ふびんではあるが、おまえの返答のしようでは、生きてここを出ることはかなわぬぞ。生命がおしくば、素直に申すがよい」
 といって、ふところから一巻の巻物をとり出した。
「よいか、卍谷に室賀豹馬という盲人がおる。豹馬の忍法は?」
「…………」
「陽炎と申す女の業は?」
 巻物をじっと見てゆきながら、蝋斎はきいた。
 まえに薬師寺天膳も、おなじことを地虫十兵衛にきいて、ついにその返答をえなかったことだが、これこそ伊賀組の|至大至重《しだいしじゅう》の関心事にはちがいない。いうまでもなく、それを知ることによってのみ彼らを|斃《たお》す秘鍵となり、それを知らなければ、逆に、いつ、|転瞬《てんしゅん》のまに彼らに討たれる|羽《は》|目《め》におちいるかもしれないのだから。
「それから、如月左衛門の顔は? 若いのか、老人か、黒いのか、白いのか? ――」
 お胡夷の唇が、にっとかすかに笑った。如月左衛門は彼女の兄だからだ。
「言え!」
「わたしが、それをいうとお思いか?」
 と、お胡夷の笑いはきえなかった。
 忍法はすべてフィルムに印せられた陰画のごときものだ。天日のもとにさらせば、その効果をうしなう。だから、これを闇黒の秘密のなかにたもつために、忍者がいかに厳粛な|掟《おきて》をまもったか。――余人に他言せぬはもとより、親子兄弟でもみだりにさずけるものではない。服部半蔵あらわすところの「忍秘伝」にも、「これ大秘事にして、|骨《こつ》|髄《ずい》の道理ありて人の腹心に|納《い》るるの極秘|也《なり》」とあるくらいだ。ましてや、甲賀者が甲賀一党の忍法を伊賀者に白状などすることが、たとえ天地が裂けようともあり得ようか。
 が、蝋斎は冷然として、
「そして、おまえの術を知りたい」
「…………」
「娘、言わせずにはおかぬぞ。見ろ」
 彼は|坐《すわ》ったまま、片腕をうしろに回転させた。――と、何の刃物ももたぬその|掌《て》が、それほどの速度でもないのに、そこの俵にふれると同時に、スッと刃物で切ったように切れたのである。どーっとあふれ出した塩をみて、お胡夷は目をいっぱいにみひらいた。刃物で切るのを見たよりは、数倍のものすごさだ。
「どうじゃ、まずおまえの耳をそごうか。それから、片腕を、乳房を……」
 お胡夷は目をつむって、両腕をついてしまった。まっ白な肩の肉が、ふるえている。蝋斎ははじめてかすかに笑って立ちあがり、その肩をつかんだ。
 つかんだのではない。|叩《たた》こうとしたのである。そして、また何かをいおうとしたのだが、
「……!」
 ふいにその顔が、驚愕にひきつった。肩にあてた掌がはなれなかったのだ。
 さすがの小豆蝋斎が、もう一方の手から巻物をとりおとし、あわててお胡夷のもう一方の肩をつかんだのが不覚であった。つっぱって、ひきはなそうとしたのだが、こんどはその手が娘の肩に|膠着《こうちゃく》した。
「やっ、こやつ!」
 さけびつつ、蝋斎の下半身が、うしろざまに弓のように|反《そ》った。その両足がはねかえってきたときの打撃こそおそるべきもの――が、同時にお胡夷の下半身がそれを追っていた。両足を、蝋斎の胴にまきつけたのだ。どうとふたりはころがっていた。しかも、蝋斎の|両掌《りょうて》は、お胡夷の肩からはなれない。――
 下になったお胡夷の息が、火のように蝋斎のあごの下をはった。
「のぞみどおり、わたしの術をみせてやろう」
 その唇は、ひたと蝋斎ののどに吸いついていた。
 蝋斎のあたまがのけぞった。|石橋《しゃっきょう》の獅子のように、白髪が宙をまわった。しかし、娘の唇はのどぶえからはなれなかった。老人の目が|苦《く》|悶《もん》にとび出し、皮膚がかわいた枯葉みたいに変わった。顔いろが紙のように白ちゃけていった。
 数分後、お胡夷はあたまをあげた。肩を異様にくねらせると、蝋斎の手がはなれた。彼女はしずかに立ちあがったが、老人は、一個の|木《ミ》|乃《イ》|伊《ラ》と化して床にころがったままうごかなかった。
 ――きのうの朝、卍谷に甲賀衆の包囲をうけて、あれほど猛威をふるったこの恐ろしい老忍者が、身に寸鉄をおびぬひとりの少女に、これほどあっけなく|斃《たお》されようとは、だれが想像したろうか。
 お胡夷のむき出しになった両肩には、まっ赤な掌のあとが浮いていた。彼女はうすら笑いして、裂けた袖でそれをぬぐった。なお掌のあとが紫色になってのこった。奇怪なことはそればかりではない。お胡夷が俵のそばに寄って、そのひとつのうえにかがんだとみると、その口から血のふとい糸がバシャバシャとおちはじめたのである。
 一俵の塩がまっ赤なぬかるみとなるまでに吐き捨てられた血は、彼女のものではない、小豆蝋斎の血であった。――この野性美にみちた豊麗の娘が吸血鬼とは――さしもの蝋斎が、思いもよらなかったのもむりはない。
 彼女は、口で血をすするばかりが|能《のう》ではなかった。いま、彼女の肌にふれた蝋斎の掌がそのまま膠着してしまったのをみてもわかるように、一瞬、筋肉の|迅《じん》|速《そく》微妙なうごめきによって皮膚のどの部分でもが、なまめかしい吸盤と一変するのであった。
 お胡夷は、落ちていた巻物をつかんだ。
 が、それを見るよりはやく、何やら外にちかづいてくる気配を感じたらしく、すばやく巻物をまくと俵のすきまにおしこみ、たおれている小豆蝋斎の|死《し》|体《たい》に塩をかぶせ、バッタリたおれて最初の姿勢になった。
 |土《つち》|戸《ど》がひらいて、ひとりの男がはいってきた。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:41:35 | 显示全部楼层
     【二】


 雨夜陣五郎である。
 はじめちょっとのぞいただけらしいが、ひとりもえている松明と、その下にうつ伏している娘の姿をみると、土戸をしめて妙な顔をしてあるいてきた。
「やい」
 と、声をかけた。
「小豆蝋斎がまいったであろう。……|白《しら》|髪《が》あたまの|爺《じい》さまがよ」
 お胡夷は、肩をふるわせて泣きむせんだ。
「松明がもえているところをみると、来たにはちがいないが、それではきくことをきいて、蝋斎はいったのだな、これ」
「くやしい。……」
 と、お胡夷はうめいた。
「はははは、では、白状したか。いかに甲賀者とはいえ、しょせん、女、あの爺さまにかかってはだまりとおせるものではない。だいぶ、いためつけられたか」
「殺せ。……卍谷の女が伊賀者に|手《て》|籠《ごめ》にされて、生きてはいられぬ。……」
「なに!」
 お胡夷の黒髪に手をかけて、ぐいとひきあげた。のけぞった娘は唇をわななかせ、とじたまつげのあいだから、涙を両頬にあふれさせている。涙は椿の花弁のようにやや厚めの柔らかな唇をぬれひからせていた。
 ほとんど抵抗できないもののように、陣五郎はその唇にかぶりついた。娘は必死に顔をそむけたが、その力が弱々しいのをみてとると、陣五郎はニヤリとして、
「蝋斎め、ああみえて、たっしゃな爺いだな。……しかし、これ、爺いよりわしの方が、まだましだぞ」
 と、炎のような息をはきつつ、衣類をかなぐりすてた。お胡夷はもとより全裸にちかい。犯されたという|牝豹《めひょう》の妖しさもさることながら、これが|怨《おん》|敵《てき》甲賀の娘、さらにどうせ明日をもまたず殺すにきまった女ということが、陣五郎のすさまじいまでの|淫虐心《いんぎゃくしん》をそそったのであろう。
 |青《あお》|黴《かび》の浮いたようなウジャジャけた陣五郎のからだが、お胡夷のうえにのしかかった。
 一分――二分――陣五郎の口から名状しがたいうめきがあがり、全身がはねあがった。まるで数千匹の|蛭《ひる》に吸いつかれたように激痛をかんじたのだ。のけぞりかえり、のたうちまわる陣五郎に、お胡夷はピッタリと膠着している。その美しい唇は、またも陣五郎ののどぶえに吸いついている。怪奇な姿態でからみあったまま、ふたりはごろごろところがったのである。
 おそらく、あと一分で、陣五郎は絶命したであろう。しかし、そのときふたりは、床にこぼれた塩のうえをころがったのである。
「あっ」
 お胡夷が狼狽のさけびをあげた。吸いついた相手の皮膚が、ずるっとすべったのだ。陣五郎は塩のなかで、急にうごかなくなった。と、そのからだが、どろどろと|泥《でい》|濘《ねい》[#電子文庫化時コメント 底本・'94誤植「泥寧」]のようにふやけ、溶け、ちぢんでいった。
 恐怖の息をひいて、お胡夷ははね起きていた。足もとには、小児大のぬるぬるした一塊がうごめいている。と――それは刻々に、いよいよ人間とも何ともわけのわからないかたちにくずれつつ、塩と粘液の帯をひいて、夢魔のごとく塩俵のすきへにげこんでいった。
 お胡夷は呆然と立ちすくんだ。が、すぐにぬぎすてられた陣五郎の衣服のそばの山刀に目をとめると、ひろいあげてスラリとぬきはなち、俵の方へかけ寄ろうとした。
 そのとき、三たび、土戸がひらいて、またひとりの男がのぞきこんだ。ふりむいてお胡夷の顔色がかわった。彼女をとらえた簔念鬼である。
 ものもいわず、お胡夷の刃がななめにはしっていた。とっさのことで、一歩ひいたが、念鬼のきものは、肩からわき腹へかけて、切り裂かれている。つづく第二撃が、かっと棒とかみ合った。棒の尖端は切りとばしたが、つつと踏みこんだ簔念鬼は、むんずと娘を抱きとめた。
「なんじゃ?」
 はじめて、大声でわめいた。上半身の衣服が切れて、垂れさがっていた。
 ――しかしこうなることは、お胡夷の最初から知っていたことだ。刀をもってたたかって討てる相手でないことはわかっている。といって、雨夜陣五郎に対したときのように、言葉の|蠱《こ》|惑《わく》でひきずりこめる場合でもなかった。
 ただわれと身をなげこみ、肉と肉をすりあわせて、相手を|斃《たお》すよりほかはない。
 彼女は、処女であった。豊麗だが、|精《せい》|悍《かん》な山の処女であった。だが、同時に、甲賀の娘だ。忍法のためなら、死をすらおそれぬ。まして、処女が何であろう。すでに彼女は全力をあげて小豆蝋斎を討った。雨夜陣五郎は、惜しくものがしたが、みごとに追いはらった。何としてでも、あの何やら子細ありげな巻物を読まねばならぬ。あの巻物を奪って、甲賀へかえらねばならぬ。すくなくとも、この鍔隠れの谷にいる弦之介さまの安否をたしかめ、それを手わたさなければならぬ! この至上命令のために、念鬼に抱かれつつ、またもえるような双腕を念鬼にまきつけ、あつい乳房をおしつけたお胡夷の心は|壮《そう》|絶《ぜつ》ですらあったが、同時に、このせつな、彼女の皮膚に、そそけ立つような戦慄がはしった。
 簔念鬼は、片手でお胡夷の髪をつかんで、顔をねじむけた。すぐまえに、娘の口がひらいて、あえいでいる。ふるえる舌や、|珠《たま》をつらねたような奥歯や、あかいうすぎぬをはったようなのどまで、彼は|舐《な》めるようにのぞきこんだ。
「蝋斎、陣五郎はどうした?」
 かすれた声できいたが、念鬼はすでに娘の妖美に狂気している。香りたかい山の花のようなお胡夷の息と獣欲にただれた念鬼の息がもつれて、床にたおれた。
「念鬼――あぶない――」
 俵の奥から、虫のような呼び声がきこえた。
 念鬼の耳にはきこえない。まさに、危うし、美しき吸血鬼の官能の|罠《わな》におちんとする三人目の男。――
 が、――愕然としていたのはお胡夷の方であった。抱きよせられた刹那、彼女がぞっとしたのもむりはない。念鬼の胸、腕から背にかけて、すなわち衣服にかくされている部分は、すべて犬のようにふさふさとした黒毛に覆われていたのだ!
 世に|稀《まれ》に「|毛《もう》|人《じん》」または「|犬《けん》|人《じん》」と呼ばれる異常に過毛の人がある。毛の|原《げん》|基《き》の|畸《き》|型《けい》によるものだが、これが顔面のみにあらわれたものは、頬、あごはもとより、ひたい、鼻から顔じゅう長い毛におおわれて、まったく人間とは思われない。
 ――念鬼は、空気にふれる部分の皮膚をのぞいて、それが全身にきた。まさにそれは熊か猿でも抱いたようなもの恐ろしい感覚であった。念鬼におさえつけられたお胡夷の姿は、あたかも獣類に|姦《おか》される美女のような|凄《せい》|惨《さん》な絵図であった。
「……むっ」
 と、四枚の唇のあいだからもれたのは、どちらのうめきか。――
「あぶない、念鬼。――」
 また、ほそぼそとしたきみわるい声が。――雨夜の声だ。
 それをきいたか、きかなかったか。――念鬼の顔いろが変わった。と同時に、その髪の毛がぞうっと逆立った。
 からだじゅう、のたうたせたのはお胡夷の方であった。密着したふたつのからだのあいだから、そのとき鮮血が泡立ち、ながれおち出した。おお、逆立ったのは念鬼の髪ばかりではない、その全身の毛が|豪猪《やまあらし》のごとく立っていた。それは毛ではなかった。針そのものであった!
 苦悶の絶叫をあげようとするお胡夷の唇をはなさなかったのは念鬼の方だ。胸から腹へ、腹からうちももへかけて、無数の毛針に刺しつらぬかれ、七転八倒する娘を抱きしめたまま、血いろの念鬼の目が、その|痙《けい》|攣《れん》をたのしみぬくようにけぶっている。――
 まさに、血の池、針地獄。
 断末魔と法悦にそれぞれわななくふたりの男女は、このときそばに立ったふたりの男女の姿に気がつかなかった。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:41:57 | 显示全部楼层
     【三】


「念鬼どの」
 と、女が呼んだ。
 顔をあげて、しかし念鬼は男の方をみて、目を大きくひらいた。
「おお、夜叉丸!」
 立っているのは、伊賀の夜叉丸と蛍火であった。
「夜叉丸、いつかえってきたのだ?」
「いま」
 みじかくこたえて夜叉丸は、念鬼を見ず、じっとどす黒い油煙をあげる松明の炎を見つめていた。
「駿府で、お婆さまは、どうなされた?」
「お婆さまか。……それは朧さまに逢うたのちでないと申せぬ」
「や、朧さまにはまだ逢わぬか」
「されば、いま、天膳どのと何やら密談中ときいたから、さきにおぬしなどの顔が見とうて」
「そうか、そうか。なに、あれは天膳どのが、朧さまをまるめこむのに汗をながしておるのじゃよ。すでに伊賀と甲賀の忍法争いの火ぶたはきられておるのに、まだ天膳どのは朧さまにそれをかくそうと思っておるらしい。なにせ、朧さまは弦之介にのぼせあがっておられるからの」
「弦之介はまだ生かしてあるらしいの」
「さればよ、天膳どのは弦之介をこわがりすぎる。おれは弦之介の|瞳術《どうじゅつ》とやらを、実はうたがっておるが、たとえどれほど怖ろしいものじゃとて、ふふん、すでに人別帖にある十人の甲賀者のうち、風待将監と地虫十兵衛は東海道で|斃《たお》し、鵜殿丈助は昨夜この屋敷で殺し、お胡夷はこのとおりわしが始末をつけたというのに、いまさら何を尻ごみするのか――」
 簔念鬼はせせら笑った。立ちあがった胸を覆う黒毛のひとつひとつに血玉がひかっていた。
 夜叉丸は、はじめて娘の姿に目をおとした。全身朱をあびたようなお胡夷の裸身は、なお痙攣しつつ、しだいに弱まってゆく。
 ――あわれ、甲賀の乙女よ、ひとり|無《む》|惨《ざん》の|虜《とりこ》となり、魔人往来の地獄|蔵《ぐら》のなかになぶり殺しにあって、魂は|永《えい》|劫《ごう》のうらみに|纏《てん》|綿《めん》するか。それとも、けなげな反撃により、せめて恐るべき敵のひとりを斃したことを|微《ほほ》|笑《え》むか。――
 ……夜叉丸は、口のなかで何やらつぶやいた。
「なに、夜叉丸、何といったか」
「いや、何でもない。よくやったと申したのだ」
「ばかな、たかが小娘ひとり――実はな、殺すつもりはなかったが、おれに妙な術をかけおったから、やむなく|殺《や》ったのだ。もっとも、どうせあの人別帖にある女、しょせんはない命じゃが」
「人別帖とは?」
「夜叉丸、おぬし人別帖を知らぬのか」
 ふしんな目でかえりみる念鬼に、夜叉丸は目をふせて、俵のひとつに腰をおろした。
「……つかれた」
 と、話をそらにつぶやく。彼は足もとになげ出されたお胡夷の手をもの|憂《う》げにとった。まだ息があったのか娘のからだがぴくっとうごいた。
「それは、いくら夜叉丸どのとてお疲れであろう、駿府からここまで|馳《は》せもどったばかりじゃもの」
 と、蛍火は気づかわしげに、夜叉丸を見まもった。
 しかし、うっとりとかがやいた恋の目だ。ふたりはいいなずけのあいだであった。彼女は、ぶじかえってきた夜叉丸に狂喜していた。
「おお、いまはまず、なによりひとねむりしたいわ」
 と、生あくびしつつ夜叉丸は、指でお胡夷の指をもてあそんでいた。
「そうじゃ、夜叉丸どの、早う朧さまにおうて、すぐやすまれるがよい」
 と、やさしく気をもむ蛍火をじろっとみて、簔念鬼はわざとくしゃみをしてみせ、苦笑いすると、
「ところで、ここに、さっき蝋斎老と雨夜がきたはずじゃが、どこへいったか。とくに蝋斎老は人別帖をもってはいったが、気にかかるて」
 とまわりを見まわした。
 このとき、夜叉丸はしずかにお胡夷の腕をおいた。――が、すでにこときれたお胡夷の片頬に、うすい死微笑が|彫《ほ》られていたことをだれが知ろう。
 俵のかげにうずたかく盛られた塩のなかに、蝋斎のひからびた死骸が発見され、また俵のなかからほそぼそと呼ぶ雨夜陣五郎の声が耳にはいったのは、すぐそのあとのことである。
「まあ! 蝋斎どの!」
 蛍火がかけより、念鬼が陣五郎をひきずり出すあいだに、夜叉丸は俵のすきまからうしろ手に、例の巻物をさぐりあてていた。
「それ、水を吸え!」
 と、念鬼は陣五郎を抱きあげて土戸をあけ、雨の庭にほうり出した。たちまち陣五郎は、雨のなかにふくれあがり、もとの姿にもどってくる。
 薬師寺天膳が朧を案内して、この塩蔵にはいってきたのはその直後であった。筑摩小四郎と朱絹もそれにしたがっていた。
「なに、卍谷の娘がここにひとりとらえてあると? なんということをするのじゃ」
 おろおろと左右を見まわす朧に、蛍火はかけ寄って、
「朧さま、夜叉丸どのが駿府よりかえりました」
「えっ、夜叉丸が? いつ?」
「ほんのいましがたです。朧さまが天膳さまと大事なお話中ゆえ、まだここにおりますが――夜叉丸どの、はやく朧さまにご挨拶を――」
 夜叉丸は立ちあがっていた。朧はつぶらな目をおどろきに見はって、じっと夜叉丸を見た。
 ――と、ふいに夜叉丸の美しい顔がゆがんだ。ゆがんだというより、崩れたのである。いや、崩れたのは顔ばかりではなかった。そも、これはどうしたことか――そのからだ全体が急速に別人の感じに変化してきたのである。
 たまぎるような悲鳴をあげたのは蛍火であった。
 そこに立っているのは、見たこともない別の男である。彼はしっかと片手に巻物をつかんでいた。いうまでもなく、朧の無心の破幻の瞳に変形をやぶられた如月左衛門である。
「あっ、甲賀者だっ」
 愕然として簔念鬼が絶叫したとき、如月左衛門は、あけはなされたままの土戸から外へ、大きく巻物をほうりなげた。
 みんな、ふりむいた。いつのまにか、雨のまんなかに、ひとりの男が|忽《こつ》|然《ぜん》と立っていた。
 それが、寒天色の皮膚をした裸の入道なのだ。彼は片手をあげて、とんできた巻物をうけとめると、さっと背をかえした。
「やるなっ、あれをとられては」
 薬師寺天膳のさけびに、どっとみなそのほうへかけ出した。
 入道はむこうの建物の下まではしって、ふりむいて、ニヤリと笑った。と、その寒天色のからだが、そこの灰色の壁にはりつくやいなや、まるで|水母《くらげ》みたいにひらべったくなり――ひろがり――透明になり――ふっと消えてしまったのである。
 きのうからふりつづいている雨のために、庭はほとんどぬかるみであった。
 その壁の下の泥土に、どぼっ、どぼっと足跡らしい穴があいていった。何者の姿もみえないのに、点々と泥の上に印されてゆく足跡は、さすが伊賀の怪物たちにも、目をうたがわせるようなものすごさであった。うなされたように立ちすくんでいた彼らは、その足跡が甲賀弦之介の居所のほうへはしるをみて、はっとわれにかえった。
 無数の鉄のマキ|菱《びし》がとんで、壁につき刺さった。が、そこに悲鳴はあがらず、そのうちその足跡すらも消滅した。
 ふりかえると、いつのまにかあの夜叉丸に化けた男も消えている。
 しかし、この伊賀屋敷に、だれも知らぬまに、甲賀の忍者すくなくともふたりが、幻のように潜入していたことは、いまやあきらかであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:42:20 | 显示全部楼层
    忍法果し状


     【一】


 もとより伊賀鍔隠れの谷は武装していた。甲賀卍谷衆の襲来にそなえてである。
 お幻屋敷はいわずもがな、山の|襞《ひだ》、谷の|窪《くぼ》み、樹々、家々、いたるところ伊賀者の殺気にみちた目がひかり、刀槍はむろん、弓、|斧《おの》、くさり鎌、縄から網までさまざまの武器が、満をじしてひそんでいた。
 しかし、薬師寺天膳がもっとも苦心したのは、その防戦の配置よりも実はそのうごきを味方の朧に感づかせないことであった。朧が感づけば、弦之介につたわる。――この点について天膳が、きわめて心もとない|危《き》|惧《ぐ》をすてきれなかったのは、あとでかんがえてみると、さすがは天膳、朧の心情を実によく知っていたものといえる。
 弦之介が知れば、事態は容易ならぬものとなる。――すでに二日三夜、まんまと弦之介をお幻屋敷にとじこめておきながら、さしもの薬師寺が手を出しかねたのは、大事に大事をとる彼の|性《せい》もあるが、彼が弦之介を討つのにこれほど苦慮する理由も、やがてあきらかになるであろう。――もっとも天膳には、甲賀の選手九人を全滅させたのち、最後にそれを見せつけて弦之介を討ちたいという、彼らしい邪悪な望みもたしかにあった。
 さいわいに、恋におぼれた朧は、その天真|爛《らん》|漫《まん》の性もあって、まだ周囲に起こりつつある変化に気がつかないらしい。その無心の瞳にあざむかれて、弦之介もまだ|悠《ゆう》|然《ぜん》としている。――いや、ただひとつ、どうしても知らぬ顔でとおせぬことがあった。
 それは弦之介の従者鵜殿丈助の消失だ。
 きのうの朝、
「丈助めはいかがいたしたか」
 と、弦之介がきいた。これは当然だ。
 これに対して|朱《あけ》|絹《ぎぬ》が頬あからめて、前夜丈助がじぶんをつかまえてけしからぬふるまいに及ぼうとし、手いたくはねつけてやったという話をした。この話を、朧も傍証した。朧はそう信じきっていたのである。信じきった朧の目をうたがうものが、この世にありえようか。
「あいつなら、やりかねぬことだ。それで|間《ま》が悪うなって、きゃつめ、卍谷へにげかえったものとみえる。めんもくない次第です」
 と、弦之介は苦笑した。
 彼はついに感づかない。一夜待ったが、甲賀方から反撃の気配もない。やはり弦之介をこちらにとりこんでいるために、敵も身うごきつかぬとみえる。……
 ついに天膳は、真相を朧にうちあける決心をした。いつまでも弦之介をほうっておくこともできないし、永遠に朧にかくしとおせることでもない。それに。――
 甲賀弦之介を破りえるものはただ朧あるのみ!
 そう天膳は判断したのだ。その判断に根拠はあったが、またこの相愛のふたりをあいたたかわせることに、悪意にみちたよろこびもあった。
 で、まず朧をつれて、塩蔵にとらえてある甲賀の娘お胡夷を見せようとした。――天膳は、まだお胡夷を殺すつもりではなかった。まんいちの際、弦之介への|楯《たて》につかおうと思っていた。が、はからずもお胡夷は念鬼のために殺されていたのである。しかも、たんにむなしく命を失ったのではない、こちらの小豆蝋斎を、地獄の道づれとして死んだのだ。
 あまつさえ、兄の如月左衛門に、秘巻の場所を教えて。――
 さしも警戒厳重な鍔隠れの谷の物見の連中たちも、如月左衛門と霞刑部の侵入だけはふせげなかった。それもむりはない、左衛門は駿府からかえった味方の夜叉丸に化け、刑部の姿はまったく視覚でとらええなかったのだから。――
 霞刑部、彼は、壁に溶けるばかりではない。彼はじぶんの欲するときに、雷鳥のごとく、木の葉蝶のごとく、土のいろ、草のいろ、葉のいろに自在に体色を変ずる保護色の能力をもつ忍者なのであった。
 とはいえ、いかに肉体的機能のみならず、その心力においても常人ならざる忍者とはいえ、お幻屋敷にはいり、そこにとらえられた妹のむざんな断末魔をみて、如月左衛門がどんな感情を抱いたことであろうか。――その魂の声なきすすり泣きはしらず、彼は、生あくびをもらしつつお胡夷の手をとった。
 すでになかば死の世界へ去った妹が、兄へおくる|指《し》|頭《とう》のことば。押す、はなす、撫でる――その暗中の指問答から、彼は秘巻をさぐりあて、同志霞刑部へ手わたしたのである。
 人別帖をうけとって、霞刑部は|滅《めっ》|形《けい》した。
 そして、狼狽して追いかけた伊賀侍たちが、甲賀弦之介の居所にかけつけたとき、そこに巻物をひらいて立っている弦之介の姿をみたのである。縁側にそれとなく見張らせてあったせむしの左金太がたおれ、はやくもその衣服をつけた霞刑部が、片ひざをついて、じっと主人の弦之介を見あげている。――
 雨しぶく庭におしよせた伊賀者たちをチラとみて、弦之介は沈痛にうなずいた。
「刑部、卍谷にかえろう」
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:42:43 | 显示全部楼层
     【二】


 沈痛な声だが、また平然とした表情でもある。まるで知人のうちに|碁《ご》打ちにきて、家人の知らせにブラリと立ちかえろうとする態度にもみえる。
 甲賀弦之介は、しずかに巻物をまいてふところにおさめると、刀を片手にさげたまま、縁側に出てきて、庭を見まわした。見まわしたのではない。ふしぎなことに、彼はなかば眠っているように目を半眼にしていた。
「やれっ」
 と|吼《ほ》えたのは簔念鬼。
「待てっ」
 とさけんだのは薬師寺天膳。
 この場合に天膳が制止しようとした意味を、伊賀侍たちは理解しなかった。雨にけぶる|憂愁《ゆうしゅう》の花に似た弦之介の姿に、どんな恐れを感じたらいいだろうか。天膳の声は念鬼の声と同時であったし、かえって叱咤の|撃《ひき》|鉄《がね》をひかれたように、六人の伊賀者が縁のまえに殺到していた。
 次のせつな――一同がみたのは、ひらめく六本の白刃よりも、そのむこうに|爛《らん》とひかった|黄金《き ん》いろのひかりであった。弦之介の目だ!
 それはたばしる黄金の閃光のようにみえた。同時に――どうしたのか――六人の伊賀侍たちは、血しぶきの渦をまいてのけぞり、およぎ、たおれふしている。見よ、その肩や胴や頸に斬りこまれているのは、彼ら自身、おたがいの刃ではなかったか。――
「刑部、まいれ」
 何事もなかったかのように、弦之介は庭に下り立った。ふたたび目を半眼にして、シトシトとあるき出す。霞刑部はそのあとに従って、伊賀者たちを見まわして、ニヤリとした。
 それで、伊賀侍たちは、|茫《ぼう》|乎《こ》として立ちすくんでいるきりであった。彼らは天膳から、いくども弦之介の「瞳術」についてきかされてはいた。しかし、目撃したのは、まさにいまがはじめてであった。見ると同時に、六人が死んだ。しかも、弦之介に一挙手一投足のうごきもみられなかったのに。
 甲賀弦之介の「瞳術」とは何か?
 それは強烈な一種の催眠術であったといえよう。いかなる兵法者、忍者といえども、相手をみずして相手を|斃《たお》すことはできない。しかも、弦之介と相対したとき、見まいと思っても、目が、弦之介の目に吸引されるのだ。一瞬、弦之介の目に黄金の火花が発する。すくなくとも、相手の|脳《のう》|裡《り》は火花のちったような衝撃をうける。次のせつな、彼らは|忘《ぼう》|我《が》のうちに味方を斬るか、あるいはおのれ自身に凶器をふるっている。弦之介に害意をもって術をしかけるときにかぎり、術はおのれ自身にはねかえっているのであった。
 弦之介は、首をたれて、腕をこまぬいて、庭から庭へ、門の方へ去ってゆく。深沈とひとり瞑想にふけっているようである。いままでの甲賀伊賀への努力がついに無に帰したのを嘆いているのか、それとも、ふところの人別帖に消された配下たちへの思いに沈んでいるのか――。
 それが、全然無防御の姿ともみえるだけに、何とも形容を絶するものすごさが尾をひいて、ひしめく伊賀者たちも、金縛りになったようにうごかなかった。
「やる」
 ひとり、ようやくうめいた。筑摩小四郎だ。
「小四郎」
 と、天膳が声をあげるのに、血ばしった目をはたとかえして、
「のがしてなろうか。伊賀の名にかけて――」
 決死の形相で、ヒタヒタと追い出した。
 もとより天膳とて、それを制御する道理はなかった。「……よし、何としても、のがすな」と他の伊賀者たちに命じると、蒼白な顔でふりむいた。
「朧さま」
 朧は、自失していた。ひらいた口、うつろな目、思いがけぬ出来事に恐怖した童女の表情さながらだ。
「弦之介は去ります」
 と、天膳はいった。
 天膳はどういう心でいったのか。――「弦之介は去る」ただそのことのみが、朧の心をうちのめした。なぜ、こんなことになったのか。なぜ、あの甲賀の娘は殺されていたのか。なぜ、いま手下の伊賀者たちが殺されたのか? ――それをかんがえるより、朧の胸をおしひしいだのは、じぶんに声もかけず、ふりかえりもせず、冷たく、かなしげに去ってゆく弦之介の姿だけであった。
「弦之介さま」
 さけんで、朧ははしり出した。
 弦之介と刑部は、すでに門にちかづいていた。門の内側に三人ばかり、地にはっているのは伊賀侍だ。濠にかかるはね[#「はね」に傍点]橋をおろしているのは如月左衛門であった。
「弦之介さま!」
 甲賀弦之介はふりむいた。伊賀者たちは半円をえがいて、どどっと立ちどまる。――そのなかから、筑摩小四郎がひとりすすみ出た。片手にさげた大鎌が、青味をおびた冷光をはねかえした。いいや、小四郎自身から、名状しがたい殺意の炎が、青白くメラメラともえあがっているようだ。それに打たれたか、弦之介は大地に足を釘づけにして、ひとりあゆみ寄ってくる伊賀の若者を目でむかえた。
 両人は二十歩の間隔にちかづいた。
「朧さま。……」
 と、天膳がささやいた。
「朧さま。……いって下され、ふたりのあいだへ」
「むろん」
 まろび寄ろうとする朧に、
「ただし小四郎を見るのではありませぬぞ。弦之介を見るのです」
「なぜ?」
 朧は立ちどまる。
「伊賀一党に、弦之介を討つとすれば討てる見込あるものは、筑摩小四郎ただひとり」
 まことにそのとおり、小四郎の生む真空の旋風をふせぐものがこの世にあろうとは思われぬ。白蝋のような顔いろで、
「なぜ、弦之介さまを討つのです?」
「だが……小四郎とて、あぶない。――」
 弦之介と小四郎はいよいよ接近する。あと十五歩。
 たまりかねたように朧はそのあいだにかけこんだ。身もだえして、
「およし、小四郎、やめておくれ!」
「姫、おどきなされ」
 朧を無視して、小四郎は寄る。天膳がさけんだ。
「弦之介の目こそ恐るべし。朧さま、弦之介の目を見て下されい。――弦之介の瞳術を破るものは、あなたの目よりほかにない――」
「あ……」
「さもなくば、小四郎が敗れるかもしれませぬぞ!」
 十歩。
 筑摩小四郎は静止した。弦之介はもとより水のごとく|寂然《じゃくねん》とした姿だ。ふたりのあいだに動くものとては、銀の糸のような雨ばかり。……見ていたもの、すべて、目をとじてしまった。目をあけていられないような何かが|虚《こ》|空《くう》にひろがり満ちた。
 が――余人はしらず、朧までがその目をとじているのをみて薬師寺天膳は愕然となり、奥歯をきしらせた。
「朧さま! 目をあけなされ!」
「…………」
「目を! 目を!」
 ほとんど憎悪にちかい絶叫であった。
「味方の小四郎を見殺しになさる気か!」
 異様な音が空中に鳴った。朧は目をあけた。が、見たのは味方の小四郎にむけてであった!
 天膳が何かさけんだ。筑摩小四郎はよろめきふした。おさえた|両掌《りょうて》のあいだから、鮮血が噴出していた。彼のつくった旋風の真空は、みずから顔面を割ったのである。
 それは弦之介の「瞳術」のせいであったか。それとも朧の破幻の瞳のゆえであったか?
 弦之介は冷然として背をみせて、はね[#「はね」に傍点]橋を去っていった。あとに霞刑部と如月左衛門がうす笑いして従っているが、だれしもそれを追う気力を|喪《そう》|失《しつ》していた。
「いっておしまいなされた。……弦之介さまは、いっておしまいなされた。……」
 朧はつぶやいた。ふたたびとじたまつげのあいだから、涙があふれ出ていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:43:10 | 显示全部楼层
     【三】


 雨はあがったが、暗い|黄昏《たそがれ》がせまっていた。
 が――お幻屋敷の奥座敷では、|灯《ひ》もつけず、凝然と坐っているいくつかの影があった。
 いうまでもなく、薬師寺天膳、簔念鬼、雨夜陣五郎、朱絹、蛍火。――それに、まんなかに|朧《おぼろ》。
「すでに、敵は知った。もはやこのうえは、伊賀、甲賀、全滅をかけて争うばかりでござる」
 と、天膳はひくい声でうめいた。彼はついに服部家の不戦の約定が裂かれたことをうちあけたのである。
 この一日に、小豆蝋斎をふくめて、十一人の伊賀者が殺された。ただ筑摩小四郎だけは、顔が|柘榴《ざくろ》のようになったものの、命だけはとりとめた模様である。それは、朧の破幻の瞳で見られたために、術がやぶれて、かえって命びろいしたものとみえる。――しかし、鍔隠れの谷をおおう惨たるものは雨雲ばかりではなかった。
「わが方の十人のうち、蝋斎は死に、小四郎は傷つき、またおそらくは夜叉丸も討たれたに相違ない」
 天膳のつぶやきに、念鬼と陣五郎が凶暴なうなり声をもらした。
「いいや、お婆さままでが」
 朧は|嗚《お》|咽《えつ》した。
 念鬼は目をすえて、
「あまつさえ、あの人別帖も奪われた! あのなかに――たがいに相たたかいて殺すべし。のこれるもの、この秘巻をたずさえ、駿府城へ|罷《まか》り出ずべきこと――とあったのを忘れはせぬ。何としても、あの人別帖はとりかえさなければならぬ。……しかし、また考えてみれば、この谷の一族は、この日のために生きてきたと申してもよいことなのだ。わしはむしろ|祝着《しゅうちゃく》にたえない。みなもおなじこころでござる。ちかって甲賀者どもを血の池地獄に追いおとしてくれる。勝つ、かならず勝つ、わしは自信がある!」
 天膳は、朧の手をつかんで、ゆさぶった。その全身を妖しい|燐《りん》|火《か》がふちどっているようにもみえる|凄《せい》|愴《そう》な姿であった。――ふしぎなことに、彼の頬には、きのうの朝ふかい刀傷をうけていたはずなのに、いまはもうウッスラと絹糸ほどの刀痕がのこっているばかりだ。
「ただ、そのためには、この修羅の争いのまっさきに、朧さまに立っていただかねば!」
 天膳の声はキリキリと歯がみの音すらまじえて、
「それに……何ぞや、あなたは敵の甲賀弦之介を討つどころか、味方の小四郎をあのような|無《む》|惨《ざん》の目にあわされた! もし、あなたがお婆さまの孫さまでなければ、ともに鍔隠れの空をいただかざる裏切者の|所行《しょぎょう》と申してもよい」
「天膳、ゆるしておくれ。……」
「わびるなら、お婆さまと、四百年来の伊賀の父祖の霊にわびなさるがよい。いや、みずからすすんでこの忍法争いの血風のなかに身をなげこむことこそ、何よりの|供《く》|養《よう》」
「ああ。……」
「朧さま、ちかいなされ、かならずあなたの手で、甲賀弦之介を|斃《たお》すと」
 もだえつつ、朧はイヤイヤをした。五人の忍者はあきれた顔を見合わせる。天膳がおそれていたのは、まさにこのことであったのだ。いっせいにさけび出した。
「なんたること! 子供の争いではござらぬぞ!」
「わたしには……弦之介さまは討てぬ……」
「ならぬ!」
 もはや主たることも忘れたような絶叫であった。さしも冷静な薬師寺天膳が血相をかえて、
「鍔隠れに住むわれら一族、老人、女房、子供どもまで、生かすも殺すも、あなたのその目にかかっているのでござるぞ!」
 朧はしずかに顔をあげた。|象《ぞう》|牙《げ》で彫った死人みたいな顔になっている。ただ、目のみ黒い太陽のようにかがやいて、五人、息をのんだ。
 彼女はだまって立って、奥座敷にはいった。
「……?」
 ぎょっとして、身をかたくして見送っていると、まもなく出てきて、ひっそりと坐った。彼女は掌にのるほどの小さな壺をもっていた。
 そして、黙々として、その封をきり、指さきをなかの液体にひたして、おのれのまぶたに塗ったのである。
「な、なんでござる?」
 さすがの天膳も、はじめてみる壺であり、はじめてみる朧の挙動であった。朧は目をとじたまま、しずんだ声でいった。
「いつの日でしたか。――お婆さまが申された。朧よ、おまえは伊賀忍法の頭領の娘でありながら、ついになんの忍法も身につけることのできなんだふつつかな子じゃ。ただ、そなたの目のみ、生まれつきふしぎな力をもっておる。けれど、それは忍法ではない。婆が教えたものでない。それゆえ、それは恐ろしい。――婆は、そなたの目が、かえってこの鍔隠れの忍法を内から崩し、みなを生死の|淵《ふち》におとすもととなるような気がしてならぬ。――こう申された。いまにして、天膳のせめる言葉をきいて、思いあたります」
「…………」
「そして、それに続けて、お婆さまの仰せられるには――もし、そのような日のきたときは、おまえの目こそ禍いのもと、朧よ、きっとこの|七夜盲《ななよめくら》の秘薬をまぶたにつけよ、おまえの目は、七日七夜とじて開かぬ。――」
「あっ」
 薬師寺天膳は驚愕して、朧の手から壺をうばいとった。あとの四人の忍者も、目をかっとむき、息をひいたままだ。
「わたしも伊賀の娘、天膳の申すことは重々わかる。まして、これほど鍔隠れのものが討たれてみれば、もはやわたしが何をいおうととおることではあるまい。……けれど、わたしは、弦之介さまとは争えぬ」
 血を吐くような声であった。
「争えぬどころか……わたしは……そなたらの術をやぶりかねない心になるかもしれぬ。それがわたしは恐ろしい。それゆえ……わたしは盲になりました」
「姫!」
「わたしを盲にさせておくれ。この世も、運命も、何もかも見えないように。……」
 五人とも呆然として、すでにほのじろくとじられたままの朧のまぶたを見つめたままであった。
 恐ろしい瞳は消えた。どうじに鍔隠れの太陽も消えた。
 何をいっていいのかわからない。何をしていいのかわからない。何をかんがえていいのかわからない。――沈黙の座は、このとき、あわただしい足音でやぶられた。
「天膳さま! 天膳さま!」
「何か?」
 ばねにはじかれたようにふりかえると、ひとりの伊賀侍が手に|文《ふ》|筥《ばこ》をもって庭さきにまろびこみ、
「か、かようなものが、門前に――」
「なんだと?」
 ひったくって、蓋をはねのけて、「あっ」と天膳は目を見はった。なかにはいっていたのは、けさ弦之介にうばい去られたはずのあの秘巻だったのである。
 |紐《ひも》をといて、ひらくと、なかはもとよりおなじものだ。ただ、敵味方の名にひかれた朱の棒のみがふえている。――
 甲賀組
[#ここから2字下げ]
――――
甲賀弾正
甲賀弦之介
―――――
地虫十兵衛
――――
風待将監
霞刑部
――――
鵜殿丈助
如月左衛門
室賀豹馬
陽炎
―――
お胡夷
[#ここで字下げ終わり]
 伊賀組
[#ここから2字下げ]
――
お幻

―――
夜叉丸
――――
小豆蝋斎
薬師寺天膳
雨夜陣五郎
筑摩小四郎
簔念鬼
蛍火
朱絹
[#ここで字下げ終わり]
「ううむ。……」
 と、天膳はうなった。筑摩小四郎の名にすじはひかれていない。判断は、正確である。それゆえに、いっそう恐ろしい敵といえた。しかし、それにしても、だれがこれを門前にもってきたのだろうか。むろん、甲賀者にちがいない。ひょっとしたら、あの如月左衛門か霞刑部が卍谷からとってかえしたのかもしれない。味方のだれに|化《ば》けるかもしれない左衛門、万象に滅形する刑部、それはらくらくとやれることである。だが、これほど大事な人別帖を、なんのためにこちらにかえしてきたものか?
 |文《ふ》|筥《ばこ》の底に、もう一通の書状があった。とりあげて、それが|左封《ひだりふう》じであることに気がつく。果し状である。

 服部家との約定、両門争闘の禁制は解かれ|了《おわ》んぬ。
 されど、|余《よ》はたたかいを好まず。またなんのゆえにたたかうかを知らず。されば余はただちに駿府にゆきて、大御所または服部どのにその心をきかんと欲す。あえて人別帖を返すはそのためなり。同行するものは余以下、霞刑部、如月左衛門、室賀豹馬、陽炎の五人。
 ゆえに、なんじら卍谷に来るといえども、余らすでに東海道にあり。血迷うて余人を殺傷するときは、また鍔隠れに全滅の天命くだると知れ。
 余はあえてたたかいを好まざるも、なんじらの追撃を避くるものにあらず。なんじらいまだ七人の名をのこす。駿府城城門にいたるまで、甲賀の五人、伊賀の七人、忍法死争の旅たるもまた快ならずや。なんじら余らをおそるることなくんば、|鞭《むち》をあげて東海道に|来《きた》れ。
 伊賀鍔隠れ衆へ
[#地から2字上げ]甲賀弦之介
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:43:29 | 显示全部楼层
    猫眼呪縛(びょうがんしばり)


     【一】


 |信楽《しがらき》の谷から、東海道|水《みな》|口《くち》へ出る街道は、山また山に|挟《はさ》まれた悪路で、普通の旅には、満山緑にむせぶ風色も、|大《だい》|戸《ど》|川《がわ》の|谿《けい》|谷《こく》に鳴るせせらぎも、さらにそれを消さんばかりの|老《ろう》|鶯《おう》のさえずりも、目にも耳にもはいらないくらいだが、その険しい街道を、まるで|南《なん》|風《ぷう》にのっているように、軽々と北へ流れてゆく五つの影がある。
 そのはやさもおどろくにたりるが、なかにひとりの女の姿がまじっているのに気がついたほかの旅人は、みな、「お――」とあきれたような声をあげたが、さらにそのうちに両眼とじたままの盲の男がいることを知ったなら、|唖《あ》|然《ぜん》として声もあるまい。
 駿河へいそぐ五人の甲賀の忍者だった。
 もと聖武天皇の離宮であったとつたえられる|紫香楽《しがらきの》|宮《みや》が、のちに甲賀寺となり、さらにそれが滅んで、いまはただ礎石と古瓦のみちらばっている|内《だい》|裏《り》|野《の》のあたり――荒涼たる草原に、晩春初夏の|薫《くん》|風《ぷう》のみが生々たるひかりをはらんで吹いてゆく。
 盲目の忍者|室《むろ》|賀《が》|豹馬《ひょうま》は、ふと、ひとりおくれて、大地に耳をつけた。
「追跡者はない」
 と、つぶやく。毛なし入道の|霞刑部《かすみぎょうぶ》がもどってきて、
「いかに伊賀者でも、甲賀谷をとおりぬけて追うてはこまいが」
 と、いま越えてきた方角、南の山脈をふりかえって、ぶきみに笑った。
「しかし、きゃつらが来ずにおるものか! また、追うてきてくれんでは、こっちがこまる。おそらく向こうは、すぐに伊賀から伊勢路へぬけるであろう。駿河まで、東海道はながいのじゃ。どこらあたりできゃつらと接触するか――」
 そして、ひくい声でささやいた。
「ともあれ、敵の追撃を|荏《じん》|苒《ぜん》待っていることはあるまい。いくさは先制攻撃じゃ。すでにわれらは、その手で伊賀組にやられた。こんどは、こっちから|胆《きも》をつぶしてやらねば気がすまぬ。われらが先に東海道をゆくとみせて、ひそかに逆転して敵を襲うのもひとつの手だ。わしはひとり、ここからはなれて、伊賀組をたたいてみようと思うが、――気がかりなのは、おん大将じゃ。この|期《ご》におよんで、ありゃほんとにやる気があるのか?」
 と、刑部がいったのは、主人の|弦《げん》|之《の》|介《すけ》の行動に、まだ納得できぬふしがあるからだ。弦之介は、確かに伊賀に対して|憤《ふん》|怒《ぬ》を発した――らしい。ただ、らしい、とつけ加えなければならぬところに、配下の不安がある。
 弦之介は、伊賀|鍔《つば》|隠《がく》れに挑戦状をなげて駿府へ旅立った。しかし、同時に、あの選手名簿を敵にかえすことも命じた。|大《おお》|御《ご》|所《しょ》よりの申しつけには、あの「秘巻をたずさえ」まかり出よとあったではないか。なぜあれをかえすのだ? またその駿府ゆきの目的も、甲賀伊賀の争闘の理由をたださんがためだという。理由もへちまもない。四百余年、宿怨の敵とたたかうのに、なんの疑問があるのだ。大御所にそのゆえんをききにゆくならば、まず伊賀方の選手十人を全滅させてからききにゆけ。
 これが、霞刑部の考えであった。
 弦之介に戦意ありや、という刑部の疑心に、
「ある」
 と、豹馬はうなずいた。が、すぐに沈痛な声をかさねて、
「もし、敵が追うてくるならばだ」
「追うてこなんだら?」
「敵はくる、おぬしもそう申したではないか。弦之介さまも、それを見こしなされてのあの果し状だ。秘巻をかえしたのも、かならず敵がそれを持って追うてくるとの確信あればこそだ。最後にそれを奪いかえせば文句はなかろう」
「最後に――?」
 刑部はえぐりこむように、
「弦之介さまは、はたしてあの|朧姫《おぼろひめ》を討ちはたすご決心があるか?」
 豹馬は、沈黙した。
 足は風にのりながら、甲賀弦之介は、ならんであるく如月左衛門が、ときどきちらっちらっと不安なながし目でみるくらい、|沈《ちん》|鬱《うつ》な表情をしていた。まさに彼は、朧のことをかんがえていたのである。
 彼は、伊賀とはたたかいたくなかった。いったい四百余年の宿敵という意識は、いまや卍谷にも鍔隠れの谷にも、その血はおろか、草木の一本一本にもしみこんでいるが、ひとり目ざめてみれば、その理由がわからない。いや、たとえ四百年のむかしにどんなに悲劇的な|相《そう》|剋《こく》があったにせよ、いまになってみれば、これほどすさまじい忍法を体得した二族が、盲目的にあいせめぎあいたたかうのは恐ろしいことでもあり、愚かなことでもある。――
 しかし、伊賀とはたたかわねばならぬ!
 この決意と痛憤は、いまや弦之介の胸に炎をあげていた。
 甲賀から平和の手をさしのべているのにもかかわらず、伊賀は音もなく毒煙を吹きかけて、祖父弾正をはじめ、甲賀秘蔵の忍者、風待将監、地虫十兵衛、鵜殿丈助、お胡夷の五人を|殺《さつ》|戮《りく》したのみならず、ふいに卍谷を襲って、十数人、|無《む》|辜《こ》の村人を血しぶきにつつんで風のごとく去ったのである。なんたるやつらか! 事ここにおよんでは、もはや彼がおさえようとしても、とうてい甲賀一党をおさえきれるものではない。
 いや、それよりも彼自身の血が!
 さすがものしずかな彼の理性も、いまやほとんどまっ暗な血の|奔《ほん》|騰《とう》にまみれようとするのをおぼえる。事態に気がついたときは、すでに選ばれた忍者の半数がこの世から消されていたということが、たえがたい痛恨と憤怒をよぶのである。なんたるおのれの不覚か、愚かしさか。
 豪快な風待将監、のんきものだった鵜殿丈助、|可《か》|憐《れん》なお胡夷――それらの無念の死顔のまぼろしが胸をかすめると、彼は顔をそむけざるをえない。首をたれずにはいられない。彼らが死んでいったとき、おのれはのほほんと、鍔隠れの春夜をまどろんでいたのだ。
 おのれ、はかったな!
 切歯して、そこで水をあびたような思いにうたれるのは、あの朧だ。朧は最初から、すべてを承知しておのれを鍔隠れの谷へさそいこんだのか。あのあどけない顔は、あれも忍者の女の仮面であったのか。――いまとなれば、そうかんがえるよりほかはないが、しかし彼の心は、|輾《てん》|転《てん》として苦悩にねじれる。
 朧はそれほど悪魔的な娘だったのであろうか。そうだとすると、彼は戦慄せざるをえない。しかし、彼はまだそうは信じきれないのだ。これは何かのまちがいだ。朧はそんな娘ではあり得ない? けれど――事がなにかのまちがいに発し、彼女がたとえ天使だったとしても、いまさらこの事態がどうなろう?
 弦之介の沈鬱な表情は、この魂のねじれの発露であった。ついには彼は、じぶんの愚かしさや、朧への疑惑をこえて、じぶんたちをこのような破局にたたきこんだ駿府の大御所や服部半蔵に、狂おしいばかりの怒りをおぼえてくるのであった。
 駿府へ旅立ったのは、もとよりこの真意不明のたたかいの謎をつきとめるためもあるが、また甲賀を脱出して、これ以上卍谷と鍔隠れに無用の死人を出さないためもあった。何はともあれ、大御所と服部家の、死闘を命じたのは敵味方十人ずつだけである。たたかうならば、それだけでよい。――それが弦之介の最後の理性であった。
 伊賀の七人は追ってくるか?
 来る! 弦之介はそう信じた。
 すでに彼らは戦意にもえている。あと、われら五人の名に朱をひかねばあの秘巻の命がはたせぬ以上、かならずそれをもって追撃してくる! また彼らがそういう行動に出なければならぬように、弦之介は|昂《こう》|然《ぜん》たる挑戦のことばを投げつけた。
 彼らは来る。われらは待つ。
 弦之介の目がにぶく金色にひかり、|唇《くちびる》に|凄《せい》|然《ぜん》たる微笑がよぎる。祖父よ、将監よ、十兵衛よ、丈助よ、お胡夷よ、魔天からしかと見ているがよい。そなたらの無念はきっとはらしてやる。
 伊賀者は来る。しかし、朧はくるか? もし、朧がきたならば?
 そこで弦之介の思考はとまる。うらぎられた怒りの炎のかげから、にっと愛くるしくのぞく朧の笑顔、あの太陽のような瞳が、不可抗的な魔力をもって、彼の怒りの炎を消し去るのを感じるのだ。おれは朧とたたかえるのか? 弦之介は歯ぎしりをした。
 |疾風《はやて》にふかれる雲のように、明暗の影のわたる弦之介の横顔を、ときどきのぞくのは如月左衛門ばかりではなかった。|陽炎《かげろう》も見ていた。
 しかし、彼女の目は、|恍《こう》|惚《こつ》としていた。それが情欲の恍惚であることを彼女は知らなかった。ただ。――
 面をうつ微風が、一羽の蝶を舞わせてきたとき、ふっと陽炎の息にふれたその蝶が、そのままヒラヒラと地上へながれていって、草の根にうごかなくなったのを、うしろからくる室賀豹馬と霞刑部がみたならば、彼らは愕然としたであろう。
 陽炎。――情欲が胸にもえたったとき、その吐息が毒気と変ずる女忍者!
 しかし、幸か不幸か、豹馬は盲目で、刑部の姿はいつのまにか見えなかった。
「刑部っ――刑部はいかがいたしたか」
 それに気がついて、弦之介が豹馬にきいたのは、|水《みな》|口《くち》の宿にはいったときである。
「はて、おりませぬか。きゃつ、どこへ失せおったか常人の目にもときどき見えなくなるきゃつが、いやはや、盲の|拙《せっ》|者《しゃ》にとっては」
 と、室賀豹馬は、ふだんはちっとも盲目らしくないくせに、急に盲人らしいうろたえかたをしてみせた。
 信楽街道は、ここより東へ転じて東海道へはいる。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:43:52 | 显示全部楼层
     【二】


 甲賀卍谷の男たちに、この谷に住む忍者が、だれがいちばん恐ろしいかときけば、彼らはちょっと考えて、それから異様な笑顔になって、それは陽炎だとこたえるだろう。
 口から槍の穂を吹く地虫十兵衛にあらず、|蜘《く》|蛛《も》の糸を張る風待将監にあらず、全身|鞠《まり》のごとく膨脹し、また縮小する鵜殿丈助にあらず、万物の形状と色彩中に没入する霞刑部にあらず、泥の|死仮面《デス・マスク》[#電子文庫化時コメント 底本のみにルビ、他出に合わせ中点を挿入した]によって、自在に他人の顔となる|如月《きさらぎ》|左《さ》|衛《え》|門《もん》にあらず、全身吸盤と化するお胡夷にあらず、さらに、あらゆる術を術者自身に|酬《むく》わしめる瞳術をもつ甲賀弦之介ですらない。
 それは実に、死の|息《い》|吹《ぶき》をはなつ陽炎であった。
 そして、恐ろしいのは、彼女が美女だということだ。しかも、彼女が死の息吹をはなつことを熟知し、一族に|峻厳《しゅんげん》な統制力をもつ甲賀弾正の支配下にあり、そのうえ強烈な自制力をもつ男たちでなければたえきれぬほどの。――
 さすが伊賀の薬師寺|天《てん》|膳《ぜん》にも、陽炎の秘密がわからなかったのもむりはない。陽炎の息吹は、つねに死の匂いをふくんでいるのではない。ただ彼女の官能に点火されたときにかぎったのだから。
 これは、陽炎にとっても実に悲劇だ。彼女は結婚生活というものをもつことはできない。ある種の昆虫には、交尾のクライマックスで雄をくいころす雌があるが、彼女の母もそうであった。法悦のあえぎの吐息を吸って、三人の男が死んだのだ。そして陽炎は、三人めの男によって生まれたのである。
 三人の犠牲者は、甲賀弾正によって命ぜられた。それはただこの恐るべき遺伝の血脈をつたえんがためだ。そして甲賀卍谷の宿命として、彼らはすべてよろこんでこの奇怪な種つけの|祭《さい》|壇《だん》にのぼったのである。――
 陽炎は成熟した。やがて、母とおなじように、女子が生まれるまで、彼女に何人かの犠牲の男たちが選ばれるはずであった。事実、弾正がこんど駿府へ旅立つ以前に、だれかしらその候補者の腹案があったようなふしがある。夜々、しばしば卍谷の|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》ばなしで、若者たちがそのことについて語りあっていたくらいだから。
 陽炎と三三九度の盃をかわすことは、すなわち死の盃をのむことである。それはもとより恐ろしい。恐ろしいが、若者たちにそれを避けようとするものはひとりもなかった。むろん神聖|厳粛《げんしゅく》なる卍谷の|掟《おきて》が、彼らに服従を命じる。しかし、それ以外に、死をもってしてもいちど彼女と交わりあいたいという欲望をかきたてるものが、たしかに陽炎にあったのだ。華麗な|食虫花《しょくちゅうか》にひきよせられる虫のように。
 いや、例を虫にたとえるまでもない。人はこれをわらうことはできない。この世のあらゆる女が、青春のいっとき別人のように|爛《らん》|漫《まん》と匂いだして、この世のすべての男が、盲目的にその魔力の|虜《とりこ》となるではないか。結婚というものが、これと大同小異の神の摂理によるものではないか。
 陽炎は、娘となるまで、じぶんの秘密を知らなかった。そして、知るにおよんで苦しんだ。
 けれど、その苦しみは、ただじぶんの肉体の悲劇を知ったからではなかった。その種類や機能はちがうが、もっと恐ろしい肉体的な秘密をもつ忍者はほかにもうんといる。いや、卍谷の人間のほとんどすべてがそうだったといってよい。陽炎の苦しみは、彼女が弦之介を恋していると自覚したときに発したのだ。
 幸か、不幸か、彼女の家柄そのものが、卍谷でも、甲賀弦之介の妻となってもふしぎではない家柄なのであった。彼女は、おなじような家柄の、おなじような年ごろの娘たちをみて、ひそかにじぶんの美を誇った。そのうえ、彼女は、その性質も容貌に似て、|緋《ひ》|牡《ぼ》|丹《たん》のような華麗さをもっていた。少女のころ、いくたび彼女は弦之介の花嫁たる夢をゆめみたことであろう。
 それなのに、じぶんが、恋するものを、恋する最高潮に殺すべき宿命を負った女であることを知ったときのおどろき!
 彼女は絶望し、あきらめた。しかし、弦之介の花嫁となる女は、それではだれかということに、他人以上のつよい関心をとり去ることのできなかったのはいうまでもない。
 そして、弦之介が宿敵伊賀のお幻一族の朧をえらんだことを知ったとき、一様に意外とした卍谷の人間のなかで、もっとも|嫉《しっ》|妬《と》と怒りにもえたったのは陽炎であった。甲賀の娘なら、ぜひもない。なんぞや、あのお幻婆の孫娘とは――というのは、彼女の心理的弁解であって、実は嫉妬と怒りのあらわな|吐《は》け口をえたからだといってよい。
 じらい、陽炎は、かつてかんがえたことのない毒々しい空想にひたった。
 じぶんは毒の息をもつ。弦之介は、敵が害意をもって術をしかけるとき、その術を術者自身にかえす術をもつ。しかし、じぶんに害意はないのだ。ただ弦之介を恋するだけなのだ。もしも、じぶんが弦之介に抱かれるならば、はたして息は彼を殺すか、じぶんを殺すか?
 陽炎は、弦之介を殺してやりたいようにも思い、またもしそんな日があるならば、じぶんが死んでも悔いないと思ったりした。そしてそんな空想にひたるとき――彼女の吐息はすでに|杏《あんず》の花のような死の香りをはなっているのであった。
 ――しかるに、一党の統制者、甲賀弾正は死んだ! ――恋する弦之介は、いまや朧と、ともに天をいただかざる宿敵の縁にもどった!
 こんど鍔隠れ一族との争闘の火ぶたがきっておとされたことについて、心中だれがいちばん狂喜したかというと陽炎であろう。もとより、それで弦之介とじぶんのあいだに新しい希望が生まれたというわけではない。現実には、依然として恋してはならぬ鉄の|掟《おきて》が存在する。しかし、満足のあまり、その乳房のおくで、陽炎はみずからその掟を解いたのだ。現実の掟を知ればこそ、欲望はいっそうせつなく恋の炎をかきたてるのだ。甲賀の男たちが、陽炎こそもっとも恐るべしと考えるのもむべなるかな。かくて陽炎は、彼女じしん無意識に、不可抗的に死の息吹をはなつ。ましてや卍谷を出て以来、弦之介とならんであるき、おなじ屋根の下にねむるという|千《せん》|載《ざい》|一《いち》|遇《ぐう》の機会をえたのである。この旅の途上、彼女の息にふれる|生命《いのち》あるものに呪いあれ。
 水口から東へ――道が伊勢路にはいったころから、一日はれていた空は、またもや暗雲におおわれはじめて、東海道はまた雨となった。
 なんといっても女連れであり、それにかならずしも早くゆくばかりが目的の旅ではない。鈴鹿峠をこえるころ薄暮となり、一行はその夜、|関《せき》の|宿《しゅく》に泊った。
 すなわちここは、過ぐる日、如月左衛門と霞刑部が、伊賀の夜叉丸を|斃《たお》したところ――なんのへんてつもない顔で、ぼそぼそとあの死闘を物語る左衛門の忍法ばなしに夜がふけて――やがて、左衛門が別室に去り、豹馬も去った。
「陽炎、そなたもゆけ。ねむるがよい、明日ははやいぞ」
 と、夜具をなおしたり、|行《あん》|灯《どん》をのぞいたり、いつまでも去りがてな陽炎に、弦之介はいった。
 はっとしたように陽炎は行灯のそばに坐って、
「まいります。明日は|桑《くわ》|名《な》から、船でございますか」
「いや、この雨では、船が出るか――風も出てきたようだ。陸路をまいろうと思う」
 と、いって、ふと弦之介は陽炎の顔をみた。じいっとこちらを見つめているまっ黒な目――思わず、吸いこまれそうな情感にうるんだ目だ。と――そのとき、どこからか灯をしたってまよいこんできた|蛾《が》が、陽炎の顔をかすめて、はたと落ちた。
 弦之介がはっとしたとき、陽炎のからだがくねって、おもく熱い肉が、たわわにどっと彼のひざへくずれてきた。
「陽炎!」
「好きです、弦之介さま。……」
 ふりあげた顔の、花のような唇から匂い出す吐息――魔香に目まいをおぼえつつ、あわててつきのけようとして、弦之介は逆にひしと陽炎を抱きしめた。
「陽炎、みよ、わしの目を!」
 灯にひかる金色の目を、陽炎は、見た。どうじに、こんどは彼女が目をとじて、ガクリとなった。陽炎は彼女自身の毒の息に|麻《ま》|痺《ひ》したのである。
 |枕《ちん》|頭《とう》の水さしの水を陽炎の口にそそいで、彼女の目をひらかせたとき、弦之介は蒼白な顔色をしていた。抱きしめて、目を見させたことによって、|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》の危機をきりぬけたのだが、愕然としたのは、いまの一瞬ではなく、この女がじぶんを恋していることを知ったことであった。
 恋する男を殺す女! 陽炎をつれてゆくことは、腹中に毒をのんで旅するにひとしいではないか。
「陽炎、そなた、わしを殺す気か?」
 からくも、弦之介は笑った。じっと女の目から目をはなさず、
「たわけたふるまいをいたすと、おのれ自身の命はないぞ」
「死にたいのです。弦之介さま、いっしょに」
「ばかな、死にたければ、あの人別帖の伊賀者を殺してから、死ね」
「伊賀者すべてを? ……朧もですか」
 すでに彼女は、朧を呼びすてにした。弦之介はうっと息をつめて沈黙した。陽炎は、きしり出るような憎悪の声をもらした。
「女のわたしには、朧は殺せませぬ。――弦之介さま、あなたが朧をお討ちなされますか?」
 雨の音が、たかくなった。風が、樹々を鳴らした。
「討つ」
 と、弦之介はうめいた。討てぬ、とはいえなかった。
 陽炎は弦之介を見すえたまま、
「さようならば」
 と、|凄《せい》|然《ぜん》と笑った。
「わたしは、伊賀の男たちみんなに身をまかせましょう。わたしひとりで、伊賀の男たちすべてを殺すこともできるつもりでございます」
 そして、陽炎は去った。

 その深夜だ。――ふいに甲賀弦之介は魔睡におどろかされたように、むくと身を起こした。忍者の耳は、眠りの中でも起きている。いや、たとえ耳はねむっていても、第六感ともいうべき感覚がめざめて、敵のちかづくのを見張っているのだ。弦之介の耳も、第六感も、人間のしのびよる気配はまったく感じなかった。それにもかかわらず、何物かに驚愕して、彼はがばとはね起きたのである。
 弦之介の目が、天井の一点をにらんだ。|芯《しん》がつきたか行灯の灯がくらくなって、|模《も》|糊《こ》たるうす闇に、その目は黄金いろのひかりの矢をなげあげた。もし曲者が伊賀の忍者ならば、たちまち苦鳴をあげてたたみの上にころがりおちるはずであった。
 しかし、弦之介がみたのは、人間ではなかった。それは一個の卵をくわえて、紅玉のような目でじっと見おろしている一匹の蛇であった!
「おおっ」
 絶叫して、彼は宙におどりあがった。その手から、片手なぐりに一閃の光線がはしって、蛇はまっ二つになって斬りおとされていた。――が、血潮とともに、血潮でないものが、刀の|鍔《つば》もとでぱっととびちったのである。
 さすがの弦之介も、相手が人間でないので、これは思わぬ不覚であった。とびちったのは、切断される一瞬、蛇の吐きおとした卵の内容だったのだ。しかも、それはふつうの卵ではなかった。――
 ただならぬ気配に、豹馬と左衛門と陽炎がかけこんできたとき、甲賀弦之介は刀身を片手にぶらんとさげたまま、座敷の中央に棒のように立ちすくんでいた。
「弦之介さま!」
 三人は、さけんだ。
 弦之介の片手は、両眼をおさえていた。ややあって、恐ろしいうめきが、その唇からもれた。
「豹馬。……わしは目をつぶされた。……」
 三人は、息をひいた。
 ――伊賀者は来た。まさに来た。しかし彼らの姿はなく、蛇をつかって襲ってきたのだ。そして、東海道における最初の接触で、駿河までまだ六十里あるというのに、若き首領甲賀弦之介は、その最大の武器たる瞳をふさがれてしまったのである。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:44:14 | 显示全部楼层
     【三】


 ふたりの伊賀者がひそんでいたのは、その|旅籠《はたご》ではなく、まむかいの旅籠の屋根の上であった。
 まっくらな雨と風に身をさらしたまま、すっくと立って、印をむすんでいるのは|蛍火《ほたるび》で、そのそばにうずくまって、じっと向かいの旅籠をにらんでいるのは|簔《みの》|念《ねん》|鬼《き》である。
 甲賀弦之介の泊っている屋敷の雨戸があいた。念鬼の目は、闇と雨をとおして、刀をぬきはらい、|狼《ろう》|狽《ばい》その極に達した如月左衛門の顔をみた。なかで、たしかにさわぐ声がする。そして女の声で「弦之介さま、目が、目がみえぬとは!」とさけんだ悲痛な声が、はっきりきこえた。
「やったな」
 と、念鬼はニヤリとした。
「思いのほか、たやすういったな」
 なおしばらく、闇をすかしていたが、
「そうか、弦之介についておるのは、あの盲と女と|彼奴《きゃっ》であったか」
 と、うなずいた。彼奴とは、如月左衛門のことだ。
 伊賀の七人が鍔隠れから伊賀路をとおって伊勢に出るにあたって、薬師寺天膳が簔念鬼と蛍火にあたえた特別命令がある。で、ふたりはさきにはしって、鈴鹿に出て、ついにこの関宿で甲賀組をとらえた。しかし、弦之介と盲目の室賀豹馬と陽炎だけはわかったが、もうひとりの男が|苧屑《からむし》|頭《ず》|巾《きん》をかぶっていたので、雨中、それが如月左衛門か霞刑部かわからなかったのだ。
「では、あの霞刑部はどこへいった?」
 五人いるべき甲賀者は、たしかに四人であった。
 じっとかんがえていた簔念鬼は、やがてぎょっと顔をふりあげた。刑部の忍法を思い出したのである。音もなく壁や泥に消えてゆく男――刑部はどこへいったのか。
 いうまでもなく、じぶんたちが別働隊となって甲賀組を追尾してきたように、彼奴もまたひとりはなれて、伊賀組をもとめて去ったに相違ない!
「蛍火、これは用心せねばならぬ。刑部の姿がみえぬとすると、かれこれ味方の一行も|加《か》|太《ぶと》|越《ご》えをしてこの|宿《しゅく》にはいってくるころじゃが、彼奴が|隠形《おんぎょう》のまま襲うおそれがある。そなた、ここよりひきかえして、いそぎこのことを告げにいってくれ」
「こちらは?」
「こちらは、おれが見張っておる。盲を目あきが見張るのじゃから、これアらくだ」
 念鬼はまたうすく笑ったが、ふと思いついたように、
「蛍火、ゆきがけにな、蝶をとばしていってくれぬか。残った目あきふたりをさそい出して、あとの盲ふたりのようすをさぐってみたい」
「蝶をとばすのは何でもないが、念鬼どの、危いことは、よされたがよいぞ。天膳さまのお申しつけもそうじゃ」
「わかっておる」
 薬師寺天膳の命令というのは、第一にまず、甲賀組を|捕《ほ》|捉《そく》すること、第二に、うべくんば、甲賀弦之介の両眼をつぶすことであった。
 そして、むろん第二の目的は、|可及的《かきゅうてき》すみやかに、しかも絶対に|遂《すい》|行《こう》しなければならないが、さしあたっての至上命令は、むろん第一の行動であった。
 甲賀弦之介の目をつぶせ!
 それはあの「七夜盲」の秘薬を手に入れてからの着想である。
 しかし、それがそう容易に成功しようとは、天膳はかんがえてはいなかった。というより、簔念鬼と蛍火に期待してはいなかった。「それは、おれがやる」言外に天膳はそう決意しているらしく思われた。ただ、盲目の朧をまもるために、天膳はかるがるしく本隊をはなれることはできない。ともかくも、まず甲賀組の所在をとらえて報告せよ――これが天膳の命令であった。
「蛍火、たのむぞ」
「はい!」
 うなずいて、ふたたび闇天にすっくと立って、蛍火は印をむすぶ。――と、たちまち夜空に異様な風音が鳴って、いずこからともなくむらがりたつ雨夜の蝶。それはまぼろしの竜巻のごとく樹々をかすめ、屋根をかすめて、向かいの旅籠の雨戸にふきつけてゆく。――
 ――雨戸をあけて、血ばしった目をなげていた如月左衛門の驚愕した顔がみえた。何かさけぶと、抜刀したまま庭へとびおりる。つづいて、陽炎がはしり出た。
 念鬼は声もなく笑って、ふりかえった。
「よし、ゆけ、蛍火」

 西へはしる蛍火とは逆に、東へ移動する胡蝶の大群につりこまれて、思わずその方角へ、街道をかけだした如月左衛門と陽炎を見すますと、念鬼は往来におりたった。
 彼の目は血いろにもえ、すでにその頭髪は天に逆立っていた。庭にしのび入り、雨戸にちかづきながら、彼の足はほとんど土をふんでいない。片手に一刀をひっさげたまま、その髪は樹々の枝に蛇のごとくからみついて、そのからだを空中に浮かせつつ移動してゆくのだ。
 彼は、天膳の命令は承知していた。天膳がじぶんたちに万死をおかしても甲賀弦之介を|斃《たお》せと要求したのではないことを心得ていた。
 しかし、そうであればこそ、いっそう忍者の果敢な魂が野心をかきたてるのだ。思いのほか、実に容易に甲賀弦之介の両眼を盲にすることができた。その心のはずみもある。万死どころか、そこにいるのは盲目の忍者ふたりではないか。やれ!
 そうでなくとも、伊賀一党のうちでも、もっとも凶暴勇猛な簔念鬼である。彼は風のごとく雨戸のあいだから座敷にすべりこんでいった。
 座敷の灯はきえて、そこは闇黒であった。しかし、すべての忍者がそうであるように、闇も見とおす目で、彼は、向こうに|寂然《じゃくねん》と坐っているふたつの影をみた。
 甲賀弦之介と室賀豹馬――はたせるかな、ふたりの両眼はとじられたままであった。
「伊賀者よな」
 弦之介がしずかに声をかけた。念鬼はたちすくんだ。が、その目が依然としてふさがれているのをみて、念鬼はせせら笑った。
「甲賀弦之介、おれがみえるか」
「見えぬ」
 弦之介はにっと笑った。
「うぬの死ぬ姿が、わしにはみえぬ」
「なにっ」
「豹馬、見よ」
 盲目の室賀豹馬に、弦之介は、見よと命じた。と、とじられていた豹馬の両眼が、徐々にひらいていった。その|眼《まなこ》は金色であった。
「あっ」
 一刹那、脳髄に閃光のような衝撃をうけて、簔念鬼はとびのいていた。
 あの不可思議な瞳術をもつものは、甲賀弦之介だけでなかったのだ!
 逆立った念鬼の髪が、海藻のごとくみだれたって、みずからの両眼を刺した。血の噴水を両頬にほとばしらせつつ、さすがは念鬼、死力をしぼって一刀をふりかざし、豹馬の方へおどりかかろうとした。が、その|柄《つか》をにぎる手がいつのまにか|逆《さか》|手《て》にかわって、ふりおろした刀身は、おのれ自身の腹を刺しとおしていたのである。
 雨戸のあいだから、簔念鬼は庭にころがりおちて、すぐにうごかなくなった。あおむけになった死体の腹部につき立った忍者刀のひろい|鍔《つば》に、雨がしぶいた。
 室賀豹馬の目は、ふたたびとじられていた。
 なんぞしらん、甲賀弦之介の「瞳術」の師は、この豹馬だったとは。――しかし、彼は、ほんとうに盲目なのだ。夜のみひらいて、金色の死光をはなつのだ。弟子は師をこえ、いまや彼は弦之介の夜の代役にすぎなかったが、そのことをさすがの伊賀者たちも知らなかったのである。薬師寺天膳が、しばしば豹馬の忍法について疑怖の念をもやし、それを知ろうと|焦慮《しょうりょ》したのは当然であったといわなければならない。
「左衛門、陽炎」
 蝶の|行方《ゆくえ》を見うしなって、呆然とかけもどってきた如月左衛門と陽炎は、闇のなかで弦之介によびかけられた。
「ひとり、伊賀者をそれに斃したわ。――声よりみて、おそらく簔念鬼という男であろう」
「や?」
 愕然として、地上の死体に気がつく。
「では、蝶をつかったのは、こやつでござりましたか!」
「いや、そうではあるまい。虫をつかうは、蛍火という娘。――左衛門、蝶はどっちへいったか!」
「東の方へ」
「それでは蛍火は西へはしったのじゃ」
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:44:35 | 显示全部楼层
     【四】


 雨をついて、蛍火はかけていた。
 |関《せき》からは、西の鈴鹿峠へのぼる東海道とはべつに、伊賀へこえる道がわかれている。蛍火がはしっているのは、むろんこの街道であった。
 関から鈴鹿へは、小川が右にながれ、左に水音をたてて、無数の瀬をわたらなければならないので、むかしから|八《や》|十《そ》|瀬《せ》|川《がわ》といわれるくらいだが、この伊賀と通じる道も同様であるうえに、東海道でないだけに、いっそうの険路悪路だ。いまを去る三十二年前、本能寺の変に|遭《そう》|逢《ほう》した徳川家康が、服部半蔵の指揮する伊賀甲賀の忍び組三百人にまもられて、この|山《やま》|路《じ》を東へにげのびたのを、家康生涯の大難の第一としているが、その|険《けわ》しさは当時とほとんど変わらない。
 さすがの蛍火も、やはり女、途中をさえぎる水流にゆきなやんでいた。
 この道をくるはずの朧さま一行にはまだゆきあわぬが、この雨風では、向こうも予定をかえて、途中の山宿にでも足をとどめているのであろうと思われる。しかし、そうであれば、その運命がいっそう気にかかる。あの寒天のごとく透きとおって消滅する霞刑部とやらが一行を狙っているとするならば!
「おおおおい」
 遠く、背後から呼ぶ声に、彼女は立ちどまった。
「おうい、蛍火――」
 簔念鬼の声だ。雨のなかに、蛍火は大きく目をみひらき、呼びかえした。
「念鬼どの――蛍火はここじゃ」
 水しぶきをあげてかけてきたのは、ついいましがた関宿でわかれてきたばかりの念鬼の姿にまぎれもない。
「やあ、まだこのあたりにいたか。よろこべ、蛍火」
「えっ、では、甲賀弦之介と室賀豹馬を」
「討った。なにしろ盲、大根をきるより、もっとたやすかったぞ」
 念鬼は歯をむき出して、
「そのうえ、蝶を見うしなって、ばかのようにかえってきた陽炎という女までも」
「まあ! で、もうひとり如月左衛門は?」
「惜しいが、のがした! 残念無念、陽炎が断末魔に白状したところによると、きゃつが伊賀の夜叉丸を殺したということじゃが」
 蛍火は、ひしと念鬼の手をつかんだ。夜叉丸は彼女の恋人だ。如月左衛門が夜叉丸に変形していたことから判断して、おそらくそうであろうとは思っていたが、もえたぎるようなくやしさに、はげしく念鬼をゆさぶった。
「念鬼どのともあろうひとが、なんと不覚な! ほかのだれよりも、あの如月左衛門とやらを討てばよかったのに!」
 さっき念鬼に、危ないことはよせといったのをわすれたほどの逆上ぶりだ。この可憐な娘が、キリキリと歯をかんで、
「けれど、それは、わたしに如月左衛門を討てという天意かもしれぬ。……」
「討てるか、蛍火――彼奴は、何物に化けるかもしれぬ顔をもつ男だぞ」
「左衛門が夜叉丸どのの仇とあれば、何者に化けようとわたしは見破らずにはおかぬ……」
 ふと、蛍火の念鬼の腕をつかんでいた手がかたくなった。戦慄が、全身をはしった。彼女は、相手の腕にあるべきあの凄じい毛のないことに気がついたのだ。
 突如、彼女はうしろへはねとんだ。間髪をいれず、つつと相手は身をよせて、
「見破るか、蛍火、如月左衛門を――」
 のけぞりつつ、蛍火の両腕があがって、印をむすぼうとした。が、その白い双腕は、びゅっと横になぎはらわれた白刃に切断されて、印をむすんだ松葉型のまま宙にとんだ。
「如月左衛門!」
 驚愕のさけびが、蛍火の最期の声であった。
「人別帖から消されるのは、念鬼とうぬの名だっ」
 その声は、蛍火の耳にはもうきこえなかった。横にないだ刃は、反転して彼女の胸をふかぶかと刺していたからである。
 闇の底にうす白いしぶきをあげて谷川へおちていった蛍火を如月左衛門は岩に片足をかけて見おろしていたが、やがて惨とした声でひくくつぶやいた。
「女を殺しとうはないが……この念鬼の姿で、おれの妹お|胡《こ》|夷《い》も殺された。……蛍火、忍者の争いは修羅の地獄じゃと思え」
 その足に、谷底から舞いあがってきた白い蝶が、二匹、三匹、弱々しく、幽界の花びらのようにまといついて、いつまでもはなれなかった。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:47:56 | 显示全部楼层
    血に染む霞


     【一】


 雨ははれたが、|桑《くわ》|名《な》の海は灰色であった。すこし荒れている。
 船ぎらいの人の多かった時代で、船場に待つ客はまばらだったせいか、そこの茶屋の|葦《よし》|簀《ず》のかげに待っている五人の男女が、人目をひいた。男三人、女二人――その男のうち、ひとりはあたまを白布で覆い、口だけみえるもの恐ろしい姿だし、女のうち、ひとりはそこに灯がともってみえるほど美しいのに、よくみると、盲目なのである。
 いうまでもなく、伊賀|鍔《つば》|隠《がく》れの面々、薬師寺天膳、|雨《あま》|夜《よ》陣五郎、それから面部に重傷を受けた筑摩小四郎と|朱《あけ》|絹《ぎぬ》、そして盲目の|朧《おぼろ》だ。みな、顔色が暗かった。
「七里も海をわたるのか」
 と、雨夜陣五郎が、赤い大鳥居のむこうにみえる海を見て、つぶやいた。
 客は少ないが、荷は多い。|宮《みや》(いまの|熱《あつ》|田《た》)まで荷をはこぶのに、船に越すものはないからだ。無数の|艀《はしけ》が、大小さまざまの荷や、長持や|駕籠《か ご》や馬までのせて、沖に待つ五十三人乗りの大船にはこんでいる。
「まだだいぶ波がたかいではないか。|佐《さ》|屋《や》|廻《まわ》りの方がいいのではないか」
 と、また陰気にいった。佐屋廻りは陸路だ。が、これとて木曾川をわたらなければならないうえに、行程が遠まわりになるし、なんといっても陸路だから、七里の海上をいっきに宮へわたる方がはやい。
 しかし、雨夜陣五郎は、船よりも海がこわいのであった。彼の体質のせいである。
 なめくじはなぜ塩にとけるか。それは塩による浸透作用のために、なめくじの水分が外界へ出るからである。ふつう生物には細胞膜があって、この現象を制限しているが、いかに高等動物でもそれには限度がある。ふつうの人間でも長時間塩漬にされておれば、相当体液は塩に吸収されるだろう。そして体液の浸透圧はやく八気圧だが、海水は二十八気圧で、きわめてたかい。塩によって|縮《ちぢ》む雨夜陣五郎は、その体質がすこぶる浸透性にとんでいるということで、あらゆる忍者がそうであるように、彼の独自の武器は、同時に彼の弱点なのであった。
「何を他愛もないだだ[#「だだ」に傍点]をこねておる。海を泳いでゆくわけではない。船でわたるのじゃ」
 と、薬師寺天膳は|苦《にが》|々《にが》しげにいった。
「甲賀組は陸路をいったらしいが、それを追うていてはまにあわぬ。にわか盲ふたりをかかえておってはな」
 そのために、伊賀の|加《か》|太《ぶと》を越える手前の山中に一夜降りこめられた。朧さまと小四郎がいなければ、忍者にとってあれくらいの風雨の山路はなんでもないことなのである。
 甲賀一党はどこまで行ったか。さっきこの船場でききだしたが、たしかに彼らがここから船にのった気配はない。――陸路をまわったとすれば、船で追いつけるとは思うが、それにつけても天膳の心をかきむしるのは、甲賀組と同様に、簔念鬼と蛍火の消息もぷっつりきれたことだ。
 ――おそらく、甲賀のためにしてやられた!
 いまは、そうかんがえるよりほかはない。ただ甲賀一党の居場所をつきとめろといっておいたのに、きゃつらは無謀に襲って返討ちにあったに相違ない。
 ――たわけが!
 天膳の歯が、怒りにきしりなった。念鬼と蛍火が討たれたとすると、残る味方はわずかに五人、これは敵と同数だが、そのうち二人はにわか盲で、しかも筑摩小四郎はただ復讐欲だけで同行しているような手負いであり、朧さまに甲賀弦之介とたたかう気力があるかどうかは、きわめてうたがわしい。
 朧は|坐《すわ》って、じっとうなだれていた。その肩に一羽の鷹がとまっている。お幻婆の使者となったあの鷹である。
 朧がかんがえているのは、甲賀弦之介のことであった。
 弦之介と|不《ふ》|倶《ぐ》|戴《たい》|天《てん》の|縁《えにし》にかえったのはかなしい。こうして旅をしていて、それがなんのための旅か、わけがわからなくなるほどだ。ただ天膳にひきたてられ、ひきずられ、あやつり人形のようにあるいているだけである。どうしてこんなことになったのか。駿府の大御所さまや服部どのは、なぜいまになって|争《そう》|忍《にん》の禁をといたのか?
 しかし、朧の胸をまっくらにするのは、そんな外部的な運命の嵐より、あの怒りにみちた弦之介の果し状であった。「なんじらいまだ七人の名をのこす。駿府城城門にいたるまで、甲賀の五人、伊賀の七人、忍法死争の旅たるもまた快ならずや」――弦之介さまは、わたしもまたハッキリと敵のうちに指を折っておいでなさるのだ。
 また彼が鍔隠れを去るときに、じぶんに|一《いっ》|顧《こ》をもあたえず、冷然と背をみせたことを思い出す。――弦之介さまがお怒りなされたのもあたりまえだ。弦之介さまがわたしとあのたのしい語らいをかわしているあいだに、鍔隠れの者どもは、卍谷の人々をあいついで討ち果していたのだ。わたしはそれを知らなかった。けれどどうして、それを信じてもらえよう。弦之介さまは、最初からわたしが|罠《わな》にかけたとお思いなされたにちがいない。またそう思うのに、なんのむりがあろう。この鷹があの巻物をくわえて|土《と》|岐《き》峠にとんできたとき、わざと弦之介さまからかくして、陣五郎が「伊賀甲賀の和解はまったくなった」といつわった。あのとき、あれ以後――わたしがそれを知らないで弦之介さまを鍔隠れの谷へ案内し、もてなしていたと、だれが信じよう。
 恐ろしい女、むごい女、にくむべき女――弦之介さまは、わたしをきっとそう思っておいでなさる。ああ、そうではなかったことだけは、弦之介さまに知ってもらわねば!
 わたしが旅に出たのは、そのためだけだ。そして――
 たとえ、そのことを弦之介さまに知っていただいたとしても、もはや、こうまで血のひび[#「ひび」に傍点]のはいった|縁《えにし》は、この世でふたたびつなぐよしもあるまい。けれど、あの世では――そうだ、わたしはあの世で、弦之介さまを待っていよう。わびのしるしに、あの方の刃に斬られて。
 朧は、弦之介が彼女の血で消してゆくあの巻物の中のおのれの名を、ウットリと夢みた。|蒼《あお》ざめた頬に、はじめて淡い笑いがとおりすぎた。
 その笑いを、いぶかしげな横目でにらんだ薬師寺天膳は、
「おおおい、船が出るよう。乗る人は、はやく乗って下されよう」
 という海からの呼び声に、一同をうながして立ちあがった。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:48:15 | 显示全部楼层
     【二】


 船にのりこんだとき、何やら思案していた薬師寺天膳が、朱絹に妙なことをささやいた。
「朱絹、そなた、雨夜と|艫《とも》の|間《ま》の方へいってくれ。わしは朧さまと胴の間にゆく。そしてな、筑摩に話して、あれにそのあいだに坐って、ほかの客をこちらに入れぬようにしてくれといってくれい。なに、口はきかいでも、あれが坐っておれば、それだけできみわるがってだれも来まいよ」
「それはようございますが、どうしてでございます」
「宮につけば、ただちに甲賀組とぶつかるやもしれぬ。それなのに、朧さまの様子、何となく心もとない。――この海をわたるあいだ、朧さまの心をたしかめ、何としてでもその|性根《しょうね》をすえてもらわねばならぬ」
 朱絹はうなずいた。同感である。しかし彼女は、どうして天膳がじぶんたちを遠ざけたのか、まだよく理解できなかった。
 まだ波のたかいせいか、乗合客がみな|艫《とも》の間に坐れるほどの人数だったのがしあわせであった。二十人ばかりである。そのうち女が五人、子供が三人、老人が二人、あとの連中も町人ばかりだ。そのかわり、積みこまれた荷が多く、ちょっと|往《ゆき》|来《き》にも苦労するほどだ。その細い通路に、筑摩小四郎が坐っていた。
 だれか、来かかると、
「こっちに来てはならぬ」
 と、しゃがれた声でいう。――その口がみえるだけで、あとはノッペラボウに頭部をつつんだ白布に、|斑《はん》|々《ぱん》とどす黒い|血《けっ》|痕《こん》がしみついて、ひからびているのをみると、天膳がニヤリとしていったように、だれだってぎょっとして、あわててひきかえしてしまう。
 帆がまきあげられて、船は出た。
 風になる帆のはためき、|檣《ほばしら》のおと、|潮《しお》|騒《さい》のひびきのほかに、人の気配もないのに気づいて、胴の間にひっそりと坐っていた朧がふしんそうにきいた。
「朱絹、陣五郎、小四郎はどこ」
 薬師寺天膳はだまって、朧の顔を見ていた。――彼は、これほど真正面から、まじまじと彼女をなめまわすように見たことはない。主筋という遠慮もある。彼女の瞳のまばゆさに対するおそれもある。しかし、いまやお幻婆さまは死に、彼女の破幻の瞳はとじられた。
 ふかい影をおとす|睫《まつ》|毛《げ》、愛くるしい小鼻、やわらかな|薔《ば》|薇《ら》|色《いろ》の唇の曲線、白くくくれた|顎《あご》――むろん、世にもまれな美少女だということは知っていたが、いままで天使か王女でもみるように眺めていたのに、ひとたび男がある思いを抱いて見れば、なんとそのすべてが、食べてやりたいほどふくよかな甘美な魅惑をたたえていることだろう。
 ふっと、そのきれいな顔に、不安の影がさした。
「天膳」
「朱絹たちは、艫の間の方におります」
 と、天膳はしわがれた声でこたえた。
「なぜ、ここにこないの」
「拙者から、あなたにぜひ申しあげたいことがござれば」
「何を?」
「朧さま、あなたは甲賀弦之介とはたたかえぬと申されたな。いまでも、やはりその心でござるか」
「天膳、たたかおうにも、わたしは盲じゃ」
「目は、やがてあきます。七夜の盲のうち、すでに、二夜を経た。あと五夜たてば――」
 朧はうなだれた。ややあって言った。
「――その五日のあいだに、わたしは弦之介さまに斬られよう」
 薬師寺天膳は、|憎《ぞう》|悪《お》にもえる目で朧を見すえた。斬られようとは不安にみちた予感ではない、あきらかに、みずから欲する意志の告白であった。
「|案《あん》の|定《じょう》、まださようなことを仰せあるか、……やむをえぬ」
 その異様な決意のこもった声に朧は盲目の顔をあげて、
「天膳、わたしを殺すかえ」
「殺さぬ。……生かすのだ。いのちの|精《せい》をそそぎこむのです、伊賀の精をな」
「え、伊賀の精を――」
 天膳は、朧のそばにいざり寄っていた。白い手をつかんで、
「朧さま、拙者の女房になりなされ」
「たわけ」
 朧は手をふりはらったが、天膳の腕が蛇のように胴にからんだ。声まで耳にねばりついて、
「それしか、あなたに甲賀弦之介を思いきらせる法はない。きゃつを敵と覚悟させる手段はない。……」
「お放し、天膳! お婆さまが見ておられるぞ!」
 天膳のからだが、反射的にかたくなった。お幻婆さま、それこそ彼を支配する唯一の人であったのだ。まだ主従の道徳を確立していないこのころにあって、命令者と被命令者のあいだに鉄血の規律がうちたてられていたのは、忍者一族の世界だけだったといってよい。――しかし、天膳はすぐにあざ笑った。
「惜しや、お婆さまは死なれた! お婆さまが生きておられたら、かならずわしとおなじことを言われたに相違ない! やわか甲賀と|祝言《しゅうげん》せよとは申されまい。じゃが、お婆さまの血は残さねばならぬ。お前さまの血は伝えねばならぬ。そのお前さまの夫はどこにおる? お婆さまがえらばれた六人の伊賀の男のほかにだれがおろうか。そのうちもはや三人は死んだ。のこったわし、陣五郎、小四郎のなかで、それではお前さまはだれをえらばれるのか」
「だれも、イヤじゃ! 天膳、わたしを斬れ」
「斬らぬ、伊賀が勝ったと万人にみとめさせるためには、伊賀忍法の旗たるあなたが生きていて下さらねばならぬのだ。考えてみればそもそもの最初から、甲賀弦之介と祝言あげようなど思い立ったのが狂気の沙汰だ。こんどの卍谷一族との争忍の血風も、これを怒る鍔隠れの父祖の霊のまき起こされたものかもしれぬ。わしとお前さまを結びつけるための――」
 天膳の片手は、朧の肩に鎖のごとくまきつき、片手は無遠慮にそのふところにねじこまれていた。かぐわしい|珠《たま》のような乳房をつかんでいるその目は、すでに主従をこえた雄獣の目であった。
「朱絹、陣五郎!」
 朧はさけんだ。彼女の瞳は、まぶたのうらで、怒りと恐怖にくらんでいた。なんたる家来か。人もあろうに、天膳がこのようなふるまいに出ようとは――弦之介さまさえこんな無礼なまねはされなかったものを!
「朱絹も、陣五郎も艫の間じゃ。おう、乳房が熱うなってきたではないか。女の心をとらえるには、むかしからいかな忍法も、そのからだを抱くにはおよばぬ――」
 天膳は朧を潮くさい羽目板におしつけ、口を朧の唇におしつけようとした。
「小四郎!」
「だまりなされ、みんなこのことは承知のうえじゃ!」

 雨夜陣五郎も朱絹も帆の音と潮のひびきにさまたげられて、このことは知らなかったが、胴の間の入口ちかくに坐っていた筑摩小四郎は、朧の悲叫をきいていた。頭いちめん、厚い布につつまれていても、その叫びは彼の|鼓《こ》|膜《まく》にやけつくようであった。
 ――なんたることをなさるのだ!
 彼は驚愕してたとうとしたが、すぐに坐った。天膳の行為は、恐ろしいことだがやむをえないことだと認めざるをえない。それに小四郎は、天膳子飼いの従僕でもあった。ただひとつ無事に残ったこの口が、たとえ裂けようと主にそむくことはできぬ!
 が、その口が、無意識に布のあいだでねじれて、ぶきみにとがった。
 ――けれど、朧さまを!
 朧さまも主だ。いや、鍔隠れ一族の主だ。天膳さまが朧さまと夫婦におなりなさることは望むところだが、しかし、あのような|無《む》|惨《ざん》なふるまいをなされてまで!
 小四郎のこぶしがふるえ、唇がなった。シューッとあの裂くような危険な音が空になって、すぐ頭上にふくらんでいる帆のすそにぱっときれめが走った。
「小四郎!」
 そのかなしげな叫びをきいたとき、彼はついに虫みたいにはねあがった。
「天膳さま、なりませぬ!」
 彼は死をもってしても朧さまを救わねばならぬという衝動につきあげられたのだ。若い小四郎にとって、朧さまは、たとえ天膳であろうと|汚《けが》してはならぬ聖なる姫君であった。
「朧さま!」
 無我夢中で、彼はよろめきつつ、胴の|間《ま》にかけこんでいった。
 そのとき、胴の間では、はたと物音がたえた。小四郎は心臓を鷲づかみにされたような思いがして立ちすくんだ。おそかったか。何が起こったのか?
 朧をねじふせようとしていた薬師寺天膳は、ふいにうごきを|凍《とう》|結《けつ》されていた。その息がとまり、顔面が黒紫色にふくれあがった。――そのくびに、ぎりっとまきついた一本の腕がある。朧の腕ではない。船の羽目板の色そっくりの褐色のふとい腕だ。
 天膳の鼻から、血がタラタラとしたたりおち、目が完全に白くなり、|頸動脈《けいどうみゃく》が|脈搏《みゃくはく》を停止したのをたしかめてから、その腕は解かれた。そして、小四郎がかけこんでいったのは、ちょうどその奇怪な腕が、音もなく羽目板に消えていったせつなであった。しかもその羽目板には、ほかになんの影も異常もないのだ。ただ腕が水面から沈むように、すうっと吸いこまれていっただけであった。
「朧さま!」
「小四郎!」
 と、ふたりはやっと呼びかわした。一方は盲目、一方は顔を布で覆ったふたりは、いまの魔のような腕を目撃することはできなかった。
 はじめて朧は、じぶんのからだの上におもくかさなってきた天膳がうごかなくなり、その肌がみるみる冷えてくるのに気がついて、さけび声をたてて身を起こした。みだれた姿をつくろうのも忘れて、
「あっ、天膳が死んだのではないか!」
「天膳さまが?」
「小四郎……おまえがわたしを助けてくれたのかえ?」
「天膳さまが、お死になされた?」
 小四郎は愕然とはしり寄って、天膳のからだにつまずいてたおれると、それにしがみついて、
「朧さまがおやりなされたのでござりますか!」
 とあたまをあげた。
 朧はボンヤリと坐っている。その白い肩もむき出しになったほそい首へ、そのときうしろから、またにゅっとあの褐色の腕が浮かび出して、ソロソロと|湾曲《わんきょく》してゆくのを、彼女は知らず、筑摩小四郎も見ることは不可能であった。
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 楼主| 发表于 2008-4-16 17:48:37 | 显示全部楼层
     【三】


 伊勢湾には|夕霞《ゆうがすみ》がおりて、船のひく|水脈《み お》のはてに|朱《しゅ》|盆《ぼん》のように浮かんだ落日の妖異で豪華な美しさは、艫の間に坐った人々の心を|恍《こう》|惚《こつ》とさせた。
 七里の海をわたっているあいだに、はじめ高かった波も|凪《な》ぎ、いやいやながらのりこんだ乗合客たちも、船旅の平安と、このすばらしい光景をながめることができたのを口々に感謝したのである。
 ただ一つ、彼らの心をみだすものがあった。一羽の鷹だ。
 艫の間に坐ったひとりの妖艶な女のこぶしにとまった鷹なのだ。鷹狩というものは知っているが、若い女がそれをつれて旅をしているのは珍しい。――だれか、上方弁で、なれなれしく話しかけたものがあったが、女は返辞もしなかった。そう思ってみれば、肌は蝋のように蒼白く、どことなくうすきみわるい感じがある。それに女よりも、そばについている男の何というぶきみさ――皮膚はジンメリとぬれて、|青《あお》|黴《かび》がはえているようで、なんとなく水死人を思わせる。それで、だれもがふたりから目をそらし、置きざりにし、はては海の景観にのみ心を奪われてしまったが、ただその鷹だけがさっきからしきりにバタバタと羽ばたきして、舞いあがったり、あたりを飛びまわったりするのが、人々を不安がらせた。
 朱絹と雨夜陣五郎だ。鷹は、船へのりうつるとき、天膳から命じられて、朧から朱絹があずかったままの鷹であった。
「陣五郎どの。何やらこれがさわぐが、何ぞあちらに変わったことでも起きたのではあるまいか」
 と、朱絹が、胴の間の方をあごでさして言った。ここからは、荷にさえぎられて、胴の間の入口も、筑摩小四郎の姿も見えない。
「何が?」
 と、うわの空の声でこたえつつ、陣五郎はしきりにくびをふっていた。
「陣五郎どの、何をなされておる」
「十九人……」
 と、陣五郎はつぶやいた。
「十九人?」
「十九人しかおらぬ……」
「えっ?」
 雨夜陣五郎は、はじめてわれにかえった。
「朱絹どの、客はわれらのほかに、二十人乗っておったな?」
「そういえば、あの笠をかぶった男がみえぬではないか」
 と、朱絹が見まわしてさけんだ。
 最初のりこんだ船客のうちに、|垂《たれ》|巾《ぎぬ》|笠《がさ》の男がひとりいた。これはむかしの虫の垂巾に|模《も》した笠で、|菅《すげ》|笠《がさ》のまわりに|茜木綿《あかねもめん》をたれまわしたもので、よく|物《もの》|貰《もら》いなどがかぶっている。その男は、背に大きな|瘤《こぶ》があった。せむしなのだ。だから、それを恥じて顔をかくしているのだろうと思っていたが、いまみると、せむしの姿も垂巾笠の影も、忽然と消滅しているのである。
 陣五郎は立ちあがった。そしてあわててそこらの荷のあいだをのぞいてまわったが、突然、
「やっ?」
 と、大声をあげた。
「ここに、笠だけ残っておる!」
 荷のかげに残っているのは、笠だけではなかった。あの男の着ていた衣類もぬぎのこされていた。そして大きな|鞠《まり》のような|襤褸《ぼ ろ》づつみと――しかし、男の姿は見えなかった。彼ははだか[#「はだか」に傍点]になって、どこへいったのか。海へ?
「いや!」
 と、陣五郎はさけんで、胴の間の方へはしり出した。顔色をかえて、朱絹もそのあとを追った。
 雨夜陣五郎と朱絹が胴の間へかけこんだのは、あたかも朧のくびに、あの怪奇な一本の腕がソロソロとまきつこうとしているときであった。突然やや暗いところへはいったので、さすがのふたりが、さっときえた腕を見ることができなかった。
「おおっ、天膳どのは!」
「天膳さまは、どうなされてじゃ?」
 これに対して、朧と小四郎が説明するのにすこしひまがかかった。薬師寺天膳が、突如絶命したことはいま知ったばかりであり、ふたりにもとっさにわけがわからなかったからだ。
「きゃつか!」
 朱絹が天膳にとりすがっているあいだに、陣五郎が何を思いついたか、ふいに狂気のごとく抜刀して、周囲を見まわした。しかし、どこにも妖しい影は全く見えない。彼は恐怖に緊張しきった表情で、いきなり四面の板壁に刀身で筋をひいて走った。何ごとも起こらなかった。
 陣五郎は胴の間から出た。
 このとき、彼はそこの|舷《ふなばた》のそばに置いてある長持のかげから、何やらかすかな笑い声がきこえたような気がして、ツカツカとよった。その刀身をもった手くびをいきなりグイとつかまれたのである。同時に横から|頸《くび》にぎゅっとからみついたもう一本の腕があった。二本のまっ黒な腕は、黒い長持の側面から|生《は》え出していた。
「あっ、朱絹っ」
 それが、雨夜陣五郎ののど[#「のど」に傍点]から発した最期の叫びであった。走り出してくる足音をきくや否や、腕はいきなり陣五郎を舷へつきとばした。
 彼は恐ろしい悲鳴をあげて、海面へおちていった。
 かけ出してきた朱絹は、舷のふちから見おろして立ちすくんだ。いまの叫びをきいて、船子たちもかけつけてきた。何もしらず、ひとり海へとびこもうとしたが、舷に手をかけて、「わっ」とさけんだ。
「ありゃなんだ?」
「あのひとは――」
 陣五郎が悲鳴をあげたのは、じぶんをつきとばした腕よりも、落下よりも、海そのものであったろう。|蒼《あお》い波のなかで、彼はもがいていた。が、もがくたびに、襟、袖のあたりから何やら粘液のようなものがながれ出し、水にひろがり、みるみる彼のからだが小さくなってゆく。――それはこの世のものならぬ魔液に溶かされる人間のような恐ろしい光景であった。
 朱絹はいきなり帯をといた。きものをぬいだ。人目を恥じるいとまもなく、落日に乳房をさらして、海へ裸身をおどらせようとした。
 すぐ背後で、名状しがたい驚愕の絶叫がきこえたのはそのときだ。
 それは、長持から出た。長持の中からではない。その表面から声が出て、同時にそこに奇妙な|皺《しわ》が波うちはじめたのだ。そして、それがひとりのはだかの入道の|輪《りん》|郭《かく》を浮かびあがらせたのをみて、船頭たちは目をとび出させた。
「|霞刑部《かすみぎょうぶ》!」
 ふりかえって、とびのいて、朱絹はさけんだ。
 まさにそれは霞刑部であった。しかし彼は朱絹を見ず、胴の間の入口をかっとにらみつけていた。
 そこに立っているのは、薬師寺天膳であった。刑部が滅形の秘術に|破《は》|綻《たん》を起こすほど驚愕したのもむりはない。天膳は、さっき彼がまちがいなく絞殺し、その鼻孔から血をたらし、心臓が完全に停止したのをたしかめた人間だから。
「刑部、さすがじゃ」
 天膳の紫いろの唇が、鎌みたいにニンマリとつりあがって、スラリと刀身をぬきはらうと、風のようにはせつけてきた。
 霞刑部の驚愕の顔が、次のせつな、笑顔になった。と、その姿がすうっと|寒《かん》|天《てん》みたいに透明になったかと思うと、ふたたび長持の|塗《ぬり》へ|妖《よう》|々《よう》と沈みかかる。――
 そのとき、朱絹がさけんだ。
「|八《はち》|幡《まん》、のがさぬぞ、刑部っ」
 同時に、その乳房から、みぞおちから、腹から、ぱあっとまっ赤な霧が湧き立った。その肌の毛穴から噴出する幾千万かの血の|滴《しずく》であった。
 一瞬に血の霧は|霽《は》れたが、|真《しん》|紅《く》にぬれた長持の表面にうごくものはなかった。
 が、そこから二、三メートルもはなれた位置の船板の壁に、赤い人のかたちが巨大な|紅《べに》|蜘蛛《ぐ も》のごとくながれた。天膳が宙をとんで、その胸にあたる部分に刀をつきたてた。
 うめきはあがらなかったが、その赤い人型は大きく|痙《けい》|攣《れん》し、次第に弱くなり、やがて静止した。刀がひきぬかれ、板にあいた穴から、かぎりもなく細い血の滝がほとばしりおちた。
 船子たちは|半《はん》|失《しっ》|神《しん》の目でこの|夢《む》|幻《げん》の地獄図を見ていた。もとより彼らの理解を絶してはいたが、全身にあびせかけられた血潮のために、霞刑部の滅形は不可能となったのである。
 薬師寺天膳と朱絹は、ふりむいて、船の遠くひく|水脈《み お》をながめていた。水脈のみひかり、海はすでに|蒼《そう》|茫《ぼう》と暗い。ただ西の果てに残光が赤くのこっているが、もはや雨夜陣五郎の影もなかった。
 薬師寺天膳は、ふところからあの忍者の人別帖をとり出した。そして、血をたらす船板のそばへあゆみよって、指で血をぬぐいとり、甲賀の霞刑部の名を|抹消《まっしょう》した。
 それから――しばらく考えて、|陰《いん》|鬱《うつ》な顔で、伊賀の「雨夜陣五郎」「簔念鬼」「蛍火」の名に朱のすじをひいて、ひくくうめいた。
「敵味方、手持の駒は四枚と四枚か。――」
 ――宮に上陸しても、駿府まで四十四里、指おり数える薬師寺天膳の顔をゆるやかによぎる|凄《せい》|然《ぜん》たる微笑は、四十四里に四つずつの生命を|賭《か》けて、そもだれが生きのこるという勘定か。それも、生きのこった味方のうち、盲目のふたりをひッかかえて、なおこの死闘を忍者|将棋《しょうぎ》に見たてる彼の自信はただごとでない。
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