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楼主: asuka0226

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:56:55 | 显示全部楼层
     三

 |弥《み》|陀《だ》の|毫《ごう》|光《こう》のように髪にさした|玳《たい》|瑁《まい》の|櫛《くし》や、|珊《さん》|瑚《ご》の|笄《こうがい》、|牡《ぼ》|丹《たん》に|唐《から》|獅《じ》|子《し》を金糸銀糸で縫った|裲《うち》|襠《かけ》を、青あらしがさっと吹いてすぎる。――
 |定法《じょうほう》どおり、|鳶《とび》の者が金棒を鳴らしており、若い者が、定紋のついた|箱提灯《はこぢょうちん》をさげてゆくあとから、|長《なが》|柄《え》の|傘《かさ》をさしかけられた花魁は、素足にたかい|駒《こま》|下《げ》|駄《た》をはき、|悠《ゆう》|揚《よう》として八文字をふんであるく。そのうしろに、|禿《かむろ》ふたり、|振《ふり》|袖《そで》新造、番頭新造、三味線もちの少女、夜具持ちの若者などがしたがっている。
「お、あれは京町扇屋の|花扇《はなおうぎ》ではないか」
「いま全盛の――いっそ鳥毛の|槍《やり》のほしいほど尊く見えるのう」
「まるで|普《ふ》|賢《げん》か、|楊《よう》|貴《き》|妃《ひ》のようでござる」
 まだ真昼なので、仲の町の往来には、屋敷の門限のある勤番の武士が多い。そればかりではなく、美女三千とほこる吉原でも、抜群に美しいといわれる花魁花扇の茶屋入りであったから、ここに住むほかの|見《み》|世《せ》の男女たちまでが、往来にたちどまって、どよめいて、この|絢《けん》|爛《らん》たる道中を見物した。
 その人ごみのなかで、ふいにすッとんきょうな声がした。
「お、これは番町の旦那ではゲエせんか」
「なんだ、孝八か。久しぶりだな」
「久しぶり――まったく、よくこちらをお見かぎりで」
「なに、わしもこのところ吉原へは、ほんとに足を向けなかったのだ。おまえにさんざん毒づかれたように、御存じの|素《す》|寒《かん》|貧《ぴん》でな」
「へ、へ、御冗談を――」
 幇間の孝八は、|扇《せん》|子《す》でピシャリとひたいをたたいた。呼びかけられたのは、匂うような美少年だ。口をきいて相手にはなっているが、かがやく眼は、じっとまえをとおりすぎる花扇の道中を見つめている。
「旦那、あのとおり、花扇さまはお茶屋入りでゲス。今夜はいけませんよ」
「ばかなことを申すな。わしごときが、全盛の花扇にどうしようと思ったとて、どうにもならぬ」
「ところが、旦那と花扇さまとは、このごろ|廓《くるわ》のえらい評判で――」
「どんな評判だ」
「へへへへ、また|刃傷沙汰《にんじょうざた》でも、起りゃしねえかって――」
 恐ろしい皮肉だが、美しい若侍はそれもうわの空らしく、往来の方をボンヤリと見おくっていた。
 これは、南条外記だ。――去年江戸町一丁目の丁字屋で起った兇変は、文字どおり吉原を話題の|坩堝《るつぼ》にたたきこんだ。ひとりの花魁が、名代に間夫をとられたのを恥じて自殺し、名代の遊女がその自殺の|暴《ばく》|露《ろ》をおそれて、ほかの客を殺害して心中を偽装させたのがあばかれて、牢に|曳《ひ》かれていった事件だが、問題は、あとにのこされたその間夫である。奉行所の方では、事件をあらだてまいとしてか、それとも|微《び》|禄《ろく》ながら男が旗本の子弟であることを考慮してか、男の方はおかまいなしということになったらしいが、あと吉原では、この男が、下手人の遊女にもまして、いつまでも|毀《き》|誉《よ》|褒《ほう》|貶《へん》のまとになった。――というのは、彼がまた吉原に姿をみせるようになったからである。
 むろん、彼は、あの騒ぎのあと、二、三か月はつつしんでいたらしかった。勘当されたという|噂《うわさ》もあった。しかし、すべての若者とおなじように、この|魔《ま》|魅《み》の不夜城にいちど足をふみ入れた以上、断ちきれぬ|煩《ぼん》|悩《のう》と|愛執《あいしゅう》の糸にからみつかれるのであろうか。彼はまたこの吉原にふらふらとあらわれるようになった。その姿は依然として美しく|初《うい》|々《うい》しかったが、どこか|哀《かな》しげな、さびしげな|翳《かげ》をひいていたのは是非もない。
 茶屋や|妓《ぎ》|楼《ろう》の亭主、おかみ、やりて|婆《ばばあ》、|幇間《たいこ》など、金一点ばりの連中が彼を遠ざけようとし、悪口をたたいたのは当然だが、逆に遊女たちには、好意的な興味と好奇心の対象になった。その姿が、名代とくっついた多情な間夫、そんな悪意をとうていもてないほどはかなげで初々しく、かえって|淫《みだ》らな女郎|蜘《ぐ》|蛛《も》の網にかかったいけにえの白い|蝶《ちょう》のような印象をあたえたこともその理由だが、事件の真相がつたわるにつれて、こんどは一種の英雄にもなってきたのである。
「あのひとは、千弥とともに殺さば殺せと、|俎《まないた》の上の|鯉《こい》のようにいさぎよく、いっしょに|折《せっ》|檻《かん》の|笞《しもと》をうけられたといいなんすにえ」
「お役人に、いっしょにお|縄《なわ》をかけろともいいなんしたとか――」
「まあ、あんなに美しい顔をして、やっぱり男でおざんすねえ」
「|誰《たが》|袖《そで》さまが、ふられて死ぬほど|惚《ほ》れなんしたこころも、ちっとはわかるようでありんす」
 ――当然、彼をひいきにするのは、新造以下の遊女に多かった。千弥に決して同情をもっていないくせに、千弥について花魁にたてついたというのが、彼女らの内心に|溜飲《りゅういん》をさげさせたのだ。相変らず金もないらしいのに、外記がちょいちょい吉原にやってこられるのは、その遊女たちのひいきのせいもあったにちがいない。
 ところが、ここ一、二か月のあいだに、こんどはそれとちがって、吉原でも一、二を争う扇屋の花扇が彼を可愛がっているという評判がぱっと立ったのである。あでやかな姿にふさわしく|驕慢《きょうまん》、いや、その姿にも似げなく豪放とまで噂される花扇であったが、そういう気性だけに、ふっとこの奇妙な立場にある男に手を出してみたくなったのであろう。――そして、たちまち、彼女の方でひどく身を入れはじめたのである。扇屋の亭主は|狼《ろう》|狽《ばい》して、去年の秋の誰袖のことをしきりに耳に入れているが、彼女は一笑にふしてとりあわないほど夢中だという。――
 ところで――いま、その花扇の道中をながめて南条|外《げ》|記《き》の眼が、じっとそそがれているのは、当の花扇ではなく、そのうしろに従っている新造のひとりであった。
「おい、孝八、あの新造は――」
「え、どれでゲス?」
「あの三味線持ちのまえにいる女――」
「ああ、あれでゲスか。ありゃなんでも三日ほどまえに扇屋から出た新造の|夢竜《ゆめりゅう》という女だそうで――廓にきて三日で太夫の道中のお供をするほどの新造になるたあえらい出世だが、しかし扇屋ではよほど買ってるらしゅうゲスぜ」
「夢竜――もう|太夫《たゆう》にするつもりの名ではないか。美しいな。新造にはもったいない。名ばかりでなく、あれなら花魁でおし出してもりっぱにとおる」
 と、外記はウットリとしていった。孝八は不安げにのぞきこんで、
「旦那、大丈夫でゲスか。また――」
 といいかけたが、ふと首をかしげて、
「ありゃ妙な新造でゲスぜ。初見世以来、|大《たい》|身《しん》らしい覆面のお武家が通いづめで、一夜としてまだほかの客で買ったものがねえとか」
「そうか」
 と、外記はうなずいて、胸の底から息を吐いて、
「そうだろう。あれは花扇より美しい」
 と、つぶやいた。

 ――その夜、南条外記は扇屋にいって、花扇の様子をきくと、禿がその返事をつたえた。今夜は、すまないけれど、名代でがまんをしてくれまいか。
「名代? 名代はだれだえ?」
「夢竜さん」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:57:14 | 显示全部楼层
    闇中問答

     一

「夢竜」
 と、|閨《ねや》のなかで、南条外記は呼びかけた。
 夢竜は|絹《きぬ》|行《あん》|灯《どん》のかげに、うなだれて坐っている。外記は、さっきからなんどもまばたきをした。その名の夢のように、ほのぼのと消え入りそうな女郎のふしぎな美しさ――外記はこの吉原で、何十回、何十人の女とあそんだかしれないが、こんな清麗な感じの遊女をみたことがない。
「ここへ、こぬかえ?」
 われにもあらず、声がふるえた。こんなきもちになったのも、はじめてだ。
 夢竜は、|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》だけになっていたが、ふっくらともりあがった乳房、なだらかな腕、ほそくくびれた胴から腰のまるみ、名作の|雛《ひな》のように|完《かん》|璧《ぺき》の曲線をえがいて、しかも、ふしぎなことに、遊女にあるまじきおかしがたい|凜《りん》とした気品すらある。
 ――心のなかで、おや? と外記は思った。この女は、|生娘《きむすめ》ではないか?
 相当な|女蕩《おんなたら》しになってしまった彼が身につけた本能的な感覚だ。
 きょう仲の町で、花扇の道中のなかにこの女を発見したときからぞくっときて、今夜この夢竜が花扇の名代になるときいて、心中、しめた、と思うどころか、そもそも最初から花扇に客があるのを承知のうえで、この女を|狙《ねら》ってやってきたのだが、いざ、自分はなまめかしい夜具に身を横たえながら、のどがからからになるようで、われながら奇妙なことに、手が出せない。
 しかも、遊女屋の遊女が生娘などということのあろうはずがない。
 だいいち、幇間の孝八が、初見世以来毎夜客があるといったではないか。
「そなた……そなたのお客は、今夜はこなんだのか?」
「はい。……」
 声まで夢のように甘美で、はかない。
「それはしあわせ。……」
 と、うっかりいって、あわてて、
「いや、それはきのどく。――初見世以来、そなたのところへ通いづめじゃとな。どういう客だ」
「知りません。いつも覆面をしておいでなんすから」
「なに、おまえと寝ても覆面か」
「はい。……」
「それでは、口も吸えぬのう。いや、これは冗談、それはしかしおかしな客だな。ただものではないぞ。お奉行所に訴えた方が後難がないのではないか」
 夢竜の灯を受けぬ半面に、名状しがたい淡い笑いがはしったが、それは外記にはみえなかった。
「どうもそなたは、ここの女のようではない。してみれば、わしはそなたに二度めの客じゃが、わしはそんな|胡《う》|乱《ろん》な人間ではないから、安心するがいい」
「わたしはあなたをまえから知っておりんした。……」
「なんだと?」
 外記はおどろいた。
「まえからとは?」
「誰袖さんとおまえさんが評判のたかかったころから」
「えっ……そなたは……吉原にきたのはついこのごろだというじゃあないか」
「誰袖さんの生まれなんした深川の家が、わたしの家のとなりでおざんした。誰袖さんは、わたしの小さいころから、姉のように思っていたおひとでありんした。もしわたしが身売りしたのが一年はやかったら、わたしは誰袖さんのところへいったでありんしょう」
 外記はまじまじと夢竜の顔をみつめたまま、とみには言葉もない。けぶるように美しい眼が、じっと外記にむけられて、
「おまえさまは、その誰袖さんをきらいなさんしたとか……」
「きらったわけではない。あれは事のはずみじゃ、あれは、いまでも誰袖にすまぬことをしたと気がとがめておる。決してきらったわけではない。……」
 外記は狼狽して、
「ま、死んだ花魁の話はもうよそう。夢竜、ここへきて寝るがよい」
「寝たら、誰袖さんのお話をして下さんすか」
 夢竜は、まじめなまなざしであった。
「するよ、どんな話でもしてやるよ」
 と、外記は夢中でいった。
 夢竜はしずかに、閨のなかに入ってきた。外記は、夜具そのものが芳香に染まったような気がした。じぶんの心臓の音ばかりひびくのに、彼はひどい恥じらいと狼狽をおぼえていた。
 どうしたのだ。おれともあろう色男が、いったいどうしたのだ。
「さあ、誰袖さんのお話をしておくんなんし」
 夢竜の白い顔が、すれすれのちかさにあった。外記はしびれたようになって、
「さっきから、言おう言おうと思っておった」
「…………」
「そなたは、わしの妹に似ておる」
「え、わたしが、おまえさまのお妹さまに」
「左様、この春に亡くなったが、……年もそなたとおなじくらい。……」
 外記の美しい|瞳《ひとみ》に、涙がキラキラとかがやいた。――ここで、甘えたようにひしと抱きついてこない女はない。
 ところが、夢竜はただためいきをついただけで、
「可哀そうに!……でも、わたしのような汚れた遊女が、おまえさまのお妹さまに似ているなどとは」
「いいや、そなたは、きよらかなわしの妹そっくりじゃ。わしは妹をよくこのように抱いてねてやったものであった。……」
 といって、夢竜の肩に片手をまわし、片手で胸をかきひらいて、その乳房を吸おうとした。
 ――ところが夢竜は、頬で肩にまわされた手をおさえ、片手で胸をかきひらこうとする外記の手をつかんだ。いたくもなんともないが、ふしぎに彼は身うごきできなくなった。
「あれ。……花魁に叱られんす。そんな名代ではありんせん。……」
「わしは、花扇がきらいじゃ。いや、きらいになったのじゃ。あれはしつこい、わしをつかまえて、一夜じゅうこんなことをする。……」
 そういったかと思うと、外記はろくろ首みたいに首をさしのばして、夢竜の唇を吸おうとしたが、香ばしい夢竜の息はあごをくすぐるのに、もうちょっとのところで、どうしてもとどかない。
「外記さん」
「なな、なんだ」
「おまえさま、そうやって、千弥さんとやらをおとしなんしたかえ?」
「千弥? どこの女だ?」
「まあ、その名をおわすれなんしたか。誰袖さんがそのために死ぬほど、おまえさまが|惚《ほ》れなんした女ではありんせんか」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:57:43 | 显示全部楼层
     二

 南条外記は、さすがにやや興ざめた表情で、夢竜を見つめた。
「おまえ……そんな女のことまで知っておるのか」
「まあ、ひどい|主《ぬし》さん、わたしでさえ、あの騒動の話をきいて、その千弥とやらをにくい女と思っていいしたに。……あの美しい誰袖さんを、あんな死に方をさせるほど、その千弥さんという方はいとしゅうおざんしたかえ?」
「けっ」
 と、外記は鼻を鳴らして、
「なあに、あれはゆきがかりだ」
「ゆきがかりとはえ?」
「わしは、誰袖が好きだったのだ。その誰袖が、せっかく約束どおりわしが丁字屋へいったというのに、ほかの客をとってねておる。そこで、わしも意地を張って、それならあの名代の女郎でしッぺがえしをしてやる、といきりたったのだ。……」
「それじゃあ、朝になって、千弥さんが名代の|掟《おきて》をやぶったと、誰袖さんのお部屋に投げ文をしていったというのは、主さんでありんすか」
「あ、そんなことまできいているのか。ま、そういうことになるが……」
「まあ、主さん、こんなかわゆいお顔をしいして、わるいおひとでおざんすねえ。でも、それも、誰袖さんが好きなばっかりのいたずらでありんしたか。……」
「そ、そうだ。だから、そのことがもとで、あれほどの事件になろうとは、ゆめ思わなかったのだ」
「主さんが、ほんとうは誰袖さんが好きだったときいて、わたしもほっといたしんした。……でも、あなたは、またあとで丁字屋へひきかえしてきて、かさねがさね誰袖さんの悪口をいいなんしたとか」
「あれはだな、実は誰袖にあやまろうと思ってかえってきたのだが、誰袖があの門兵衛とやらといっしょになって、千弥を|折《せっ》|檻《かん》しているのをみて、また意地になったのだ。この|狒《ひ》|々《ひ》のような男とねたかと思うと、かっとして……まったく、ことのはずみで、あんなことになってしまった。……」
「そうでありんしたか。けれど、ことのはずみにしては、あとあとまで恐ろしい尾をひきんしたねえ。いくらにくいといっても、その門兵衛さんとやらまで殺してしまうとは……」
「まってくれ、殺したのは、わしではない。千弥だ」
「千弥さんなら、いよいよのことでおざんす。けれど、千弥さんが、なぜ?」
「あれは、おそろしい女だ。そういうわけで、ことが逆に逆にとまがっていって、誰袖がわしにあてつけて眼のまえで死ぬと、あいつあわて出しての。誰袖がわしたちにあてつけて死んだとみられると、もうこの吉原にもいられない。あの門兵衛を殺して心中にみせかけたら、こっちへの非難がそらせるのではないかといい出した。……」
 急に外記ははき出すような顔つきになって、
「門兵衛や千弥のことなど、どうでもよい。夢竜、そんな話はもうよそう。これ、花扇にはないしょで、いいではないか。……」
「あれ、外記さん、そんなことをいいなんして、千弥さんとおなじように、これもあとで、ことのはずみ、ゆきがかりといわれては、わたしの立つ瀬がおざんせん。……」
「ことのはずみではない。わしは本気じゃ。……」
「いいえ、信じられません。それより、今夜は、しみじみと、誰袖さんの話を――」
 身もだえする夢竜の肉体のなんという絶妙のなまめかしさ。
 外記は狂気のようになって、
「ききたければ、もっと誰袖のおもしろい話をきかせてやる。しかし、それはあとで、な、な。……おい、ともかくこの手をはなしてくれ。へんにしびれてきたぞ」
「え、こうでおざんすか?」
 と、うっかりはずしたところへ、外記はぱっとのしかかった。
 そのとき、部屋の障子が音もなくひらいて、声がかかった。
「夢竜」
 はっとして顔をあげると、花扇が|蒼《そう》|白《はく》な顔で立っていた。
「なにをしているえ?」
 美男にも似げないみにくい姿で、外記がはねのいたあと、夢竜はしずかに身をおこして、みだれた長襦袢をなおした。
「わたしの主さんと何をしようとしていたえ? 名代の掟をやぶれば、廓でどんな目にあうか、わたしがおしえてあげたではありんせんか」
 すると夢竜は、夢みるような眼をあげて、外記があっと口をあけたようなことをいったのである。
「|花《おい》|魁《らん》、わたしはこのひとが好きになりんした。……」
「まあ!」
「もし掟をやぶった罰に折檻をうけたら、このひとをわたしにおくんなんすか?」
 花扇はあきれたように夢竜をみつめていたが、やがて外記の方へ顔をむけて、
「外記さん、おまえさまは、この夢竜のいうことに承知でありんすか?」
 外記は狼狽した。
「い、いや、わしは……」
 と、いいかけると、夢竜よりも花扇の方が、皮肉な笑みを片頬によどませた。
「花魁よりも新造をひいきにするというおまえさまの評判は、やっぱりほんとうでおざんしたねえ。その評判を承知でおまえさまに|達《たて》|引《ひ》いたわたしは、もう恥かしゅうて、廓じゅうの花魁にむける顔もありんせん。……」
 いったい、いつごろから花扇は、この部屋の外に立っていたのか。花扇ばかりでなく、そのうしろからは数人の新造や|禿《かむろ》たちが、眼をかがやかしてのぞきこんでいた。
 ――外記は観念した。
「ええい、勝手にしろ。……わしは、夢竜が好きじゃ」
 と、いって、夢竜の横顔をみて、うす笑いをうかべた。
 妙にふてぶてしいような、また真剣なような表情があらわれた。
 花扇はおそろしいさけびをあげた。
「くやしい! だ、だれかこのふたりを、折檻部屋へつれていっておくんなんし!」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:58:06 | 显示全部楼层
     三

 ――しばらくののち、南条外記と夢竜は、扇屋の、まるで地下|牢《ろう》みたいな折檻部屋の柱に、背中あわせにしばりつけられていた。
「だれも、ここをあけてはなりんせんよ」
 と、花扇がきびしい声でいって、|手燭《てしょく》をもって折檻部屋を出ると、サル戸がおちて、部屋は|闇《あん》|黒《こく》になった。
 |闇《やみ》のなかに、外記はしばらくだまっていたが、やがてつぶやいた。
「夢竜……こんなことになってしまったが、さっきはおどろいたよ。いや、花扇のあらわれたこともそうだが、そなたが、わしを好きだといいきったことが……」
「…………」
「おまえ、あれアほんきかえ?」
「…………」
「いいや、あれがたとえうそにしても、そんならいっそうおまえという女は変った女だ。わしは生まれてはじめて女に惚れた。……」
「誰袖さんは?」
「ええ、また誰袖か。惚れていなかったといったら、おまえは怒るかもしれないが、おまえにくらべれば、惚れていなかったと白状するよりほかはない。夢竜、おまえ、わしとこの吉原をにげ出さぬか?」
「え、ここをにげ出せるのでおざんすか。どうやら戸の栓がおちたような。……」
「あれは、外からひらくのだ。外からだれか入ってくれば、にげられる。――」
「だれかが入ってくるのでありんすか」
「花扇がくる」
「えっ、花魁が!」
「さっき、ここにひかれてくる途中、わしはあいつに耳うちしたのだ。わしがわるかった、ゆるしてくれとな。ほかに新造たちもいるから、あの場でわしだけ放免してくれるわけにもゆかなかったろうが、花扇はきっともうじきやってくる。あいつは、わしにぞっこん惚れているのだ。惚れているからこそ、気にかかって、わしたちの部屋の外で立ちぎきしていたのだ」
「花魁が、来なんしたら?」
「きたら、わしが話をつける。おまえを身請けするなり、つれてにげ出すなり……」
「身請けの金がここにおざんすかえ?」
「いまはない。いまはないが、ちかいうちにきっと大金の入るあてがあるのだ。それもめんどうなら、このまま、おまえをつれて|廓《くるわ》をぬける」
「ぬけても、廓の追手がかかりんしょう」
「ふっ、吉原の追手など――しばらく身をひそめておれば、夢竜、わしは吉原の追手はおろか、奉行所の追手さえ手の出せぬ身分となるのだ」
「えっ、それはどういうわけでおざんすか」
「まあ、そんなことはいまはどうでもよい。これ、夢竜、わしといっしょににげてくれるな」
「外記さん、どうしてもあの気のつよい花魁が、そんなことを承知するわけがありんせん」
「ええ、くどい奴だ。わしはまえにもおなじ手で、誰袖をだまらせたことがあるのだ」
「だまらせた?」
 ふいに闇のなかに、恐ろしい沈黙がおちた。外記は、うっかりいって、はっとしたらしい。が、夢竜がいつまでもだまっているのに、外記の方がたまりかねて、
「夢竜」
 と、呼びかけた。別人のようにふとい声であった。
「これは、いってもよい。いっても、わしは罪にはならぬ。誰袖は、あの晩ここに入ってきて、わしをつれ出した。そして、わしと心中してくれとせまったのだ。こうまでみなのまえで恥をかかされては、もう生きてはいられないと申すのだ。あの花魁の――もっとも、この吉原じゃあどの花魁もそうだが――のぼせあがったうぬぼれの思いつきそうなことだ。そこで――わしたちは――心中した。――」
「…………」
「そして、誰袖だけが死んだ」
「…………」
「わしは生きのこった。それは、|空《あ》いている千弥の部屋であった。そして、折檻部屋にもどって、千弥と相談した結果、あれの智慧で、あいつが門兵衛を殺して、誰袖と心中したようにみせかけてくれることになったのだ。わしと心中をはかったことがばれれば、生きのこったわしが下手人同様と見なされる定めだからの。千弥が誰袖の|裲《うち》|襠《かけ》をきて門兵衛の部屋に入りこみ、首尾よく殺したあとで、わしが誰袖の|屍《し》|骸《がい》をその部屋にはこんで、|鴨《かも》|居《い》からぶらさげたのだ。……」
「夢竜、何をだまっておる? ああ、おれはこんなことをいうのじゃなかった。花扇くらいどうとでもなるということをいうつもりであった。なんだか、妙なことになってしまったが――いや、いってもよい、わしは誰袖を殺したわけではない、門兵衛を殺したのは千弥だ」
「いいえ」
 と、はじめてお竜はひくい声でいった。
「それじゃあ誰袖さんを殺したのは、やっぱりおまえさまではありんせんか。むこうから心中をしかけてきたとおまえさまはいいなんすが、死人に口なし、それはどっちがそそのかしたのかわかりいせん。そして、たとえ誰袖さんがいい出しなんしたとしても、どうやらあなただけはくびがしまらないようにして、うまく生きのこりなんしたとは、誰袖さんを見殺し――殺しなんしたのも同様、また、門兵衛さんを殺したのも、千弥さんの智慧だとはいいなんすものの、おそらく、おまえさんの智慧でおざんしょう。……」
「――夢竜、おまえは、そう思うか?」
「それなら外記さん、いま花扇さんが入ってきなんしたら、また心中をもちかけるおつもりでおざんすか?」
 外記は、ふてぶてしく笑った。
「いや、二度もそうはゆくまい。何なら、この手でしめ殺して、つかまれば、わしとおまえと二人がかりで殺したと申したててもよい。おまえと|磔《はりつけ》の上で、心中するなら、本望じゃ」
「まっ」
「おまえのいうとおり、わしは恐ろしい男だ。ここまでしゃべったのははじめてじゃが、ここまできかれた以上、おまえも同罪にひきずりこまずにはおかぬ。とはいえ、大望あるわしに磔心中をも辞せぬ気を起させたおまえは実にふしぎな女。夢竜、もうわしの手からにげられぬぞ。みるがいい」
 みるがいいとはいわれたが、闇の中だ。しかし、その闇のなかで、南条外記が身をくねらせると、するりと|縄《なわ》からぬけ出す気配がわかった。
「道楽の途中、手品をおぼえてな。縄からぬけ出すのも、もとどおり縄に身を入れるのも、自由自在じゃ」
 笑った声は、縛られた夢竜のまえできこえた。
「ああ、それでは……それも、あの晩のための用意でおざんすね」
「用意――」
「そう、おまえさまが、名代の千弥さんに手をつけなんしたのも、いっしょに折檻をうけなんしたのも、いいえ、そもそものはじめから誰袖さんにちかづきなんしたのも、みんな、ふたりの女をあやつるための用意。――」
「ふたりの女をあやつる?――な、なんのために、わしが女をあやつったと申すのだ」
「千弥さんに惚れなんしたのも、誰袖さんを殺しなんしたのも、どっちも|納《なっ》|得《とく》がゆきいせんと思っておりんした。おそらくそれは、対島屋門兵衛を殺すための――」
「なにっ」
「おのれの手を下さず、千弥さんに――ひとの手で門兵衛を殺させて、じぶんはこのように|何《ど》|処《こ》ふく風とすましておられるための念入りの用意。――とはいえ、おまえさまが、なんのために門兵衛を殺したがったか、ただの恨みや腹立ちで、それほど念の入ったたくらみをするはずはおざんせん。そのうらには、きっと何か|仔《し》|細《さい》がおざんすね。……」
「夢竜! うぬは何者だっ?」
 と、外記の全身が|驚愕《きょうがく》におののきぬいているのが声でもわかったが、しかし次の瞬間、あの美少年とは思われぬ兇暴な息づかいにかわった。
「えい、うぬが何者であろうと、おれの知ったことか? そこまで知られたうえは、もはや生かしてはおけぬ。が、うぬを殺すまえに――」
 闇黒のなかに、外記のあつい、ねばっこい息が夢竜の鼻口を覆い、しばられてムッチリともりあがった乳房を、けだものじみた手がつかんだ。
「ここからは、にげられぬぞ、夢竜、しばられたままの女を犯すのは、吉原で鳴らした南条外記大いに不本意じゃが、うぬがおとなしくなるまで、なぶって、なぶって、なぶりぬいてくれる!」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:58:23 | 显示全部楼层
   江戸の何処かで

     一

 そのとき、ふいに戸がひらいた。外記は身を起した。
 遠あかりを背に、それを|花《おい》|魁《らん》の姿とみたとき、外記は音もなく夢竜からはなれて、|闇《やみ》のよどみにとけこんでいる。
「外記さん」
 花扇の声だ。二、三歩あるいて、のぞきこみ、
「夢竜」
 柱にちかづいたとき、うしろでひくいよぶ声がした。はっとしてふりかえると、いま入ってきた入口に、黒い影が立っている。
「あっ、外記さん。……」
 いつのまにか、そこにまわっていた南条外記は、かがみこんで、|閾《しきみ》のうえに何か細工でもしているようであった。やがて立ちあがって、ピシャリとその戸をしめた。
「栓が落ちないようにしたのだよ。あとで逃げ出せないとこまるからな」
 と、笑った声は、闇のなかだ。花扇は息をのんで、
「外記さん、おまえはどうして――?」
「花扇」
 しばらくかんがえこんでいて、外記はいった。
「おまえ、夢竜の仕置にきたのだろう?」
「おまえが、夜中にこいといったから――」
「仕置をしたいなら、遠慮なくするがいい。|鞭《むち》でぶつなり、毛をむしるなり、なんならくびり殺すなり――」
 花扇はだまって、彼の顔をうかがっているらしかった。これはあたりまえだ。そういう外記だって、夢竜と同罪のはずだからだ。
「外記さん、ほんとはわたし、ふたりをゆるしてやりにきたのでおざんすにえ」
「もうおそい」
 外記はせせら笑った。
「何がおそいのでありんす」
「実はなあ、花扇、それがわしの|狙《ねら》いだった。わしがこの夢竜に惚れたといったのア、ずんと本気だ。おまえにたのんで、こいつを請け出すか、きいてくれなきゃ、手に手をとって廓を脱けてもいいとさえかんがえていた。――しかし、いまはちがう、おい、花扇、この夢竜たあ何者だえ?」
「何者といって――わたしの|名代《みょうだい》」
「ふふん、そらとぼけているのか。それともほんとにおまえは知らねえのか。いいや、めんどうくさい、どっちでもかまわぬ。こいつがわしの秘密を知ったからには、どっちにしても生かしてはここを出せぬのだ」
「え、主さんの秘密とはえ?」
「去年の丁字屋の偽心中よ。わしに惚れた名代が、花魁を殺して、他の客と心中にみせかけた騒動よ」
「あれが?」
「あれァ、実のところ、|諸《しょ》|葛《かつ》|孔《こう》|明《めい》もはだしでにげるわしの色軍略だ。まず誰袖を夢中にさせ、つぎに名代の千弥をのぼせあがらせて、誰袖の仕置をうける。それから誰袖に心中をもちかけて、わしだけ生きのこる。――いや、われながら感服するきわどい芸当だったが、それ以上にみなに感服してもらいたいのはそれからだ。心中して一方が生きのこれば、下手人として死罪になる――ってのが、大岡ってえわからずやの町奉行の野暮な|法《はっ》|度《と》だが、それを逆用したのだ。つまり、わしを下手人にしたくないために、名代の女郎は、誰袖をべつの客と心中したようにみせかけようとした。――ふ、ふ、ふ、あいつはわしの|手《て》|管《くだ》にのぼせあがり、いっしょに仕置をうけたことでいよいよ信心きわまり、ふらふらと|操《あやつ》り人形みたいに誰袖の客を殺しにいったよ。――」
「外記さん。……おまえは……」
「まあ、きけ、むろん、そうしたには、大丈夫、誰袖と客が心中したかにみせかけられるとわしがいったからだ、わしたちは、中から出られぬ折檻部屋におったのだからな。しかし――奉行は大岡だ。万一ということもある。それで、万一それが心中でないと見破られたさい、千弥のみが下手人として名乗り出るように、事をはこんだ。いいや、わざと見破られるように、胸を刺した|匕《あい》|首《くち》やら、くびをつりそこねたしごきやら、小道具をとりそろえておいたのだ。もっとも、こいつは、当の千弥でさえ、それが見破られるもとだとは気がつかなかったくらいだから、ふつうの人間には、なんのことかわからないはずだったのだが――あの同心め、さすがだ。いいや、わしの二段構えの|罠《わな》に、すっぽりはまりゃがった!」
 まるでうれしいことでも思い出しているような声だ。
「外記さん、おまえは、なんのためにそんなことを――」
「ふ、ふ、ふ、なんぞ知らん、一見、とばっちりを受けたかにみえるその男の死が、わしのそもそもの目的だったとは!」
「…………」
「もっとも、誰袖にふられぬいていた客というだけで、それまでわしとなんの縁もなかった男を、わしがそれほど殺したがっていたとア、あの馬鹿同心はもちろんお|釈《しゃ》|迦《か》さまでも気がつかなかったろう!」
「…………」
「花扇、ところでわしが、なんのためにこんなことをしゃべったかわかるか?」
「わ、わ、わかりんせん。……」
「きかせても、大丈夫と思ったからだ」
「大丈夫とは?」
「おまえもここからにげられぬ」
「えっ」
「もうおそいといったのアそのことだ。いまわしのしゃべった秘密をこの夢竜めが知った。知った以上、これからこいつを絞め殺さねばならぬ。絞め殺した以上、下手人がなければならぬ。その下手人におまえがなるのだ」
「あっ、よしておくんなんし!」
 花扇は、腕をつかまれた。じぶんのペットとしていた美少年が、これほど恐ろしい怪物であったと知って、その肌は闇にも|粟《あわ》|立《だ》っていた。
「むろん、おまえも死ぬ。――間夫をとった夢竜を殺して、じぶんもくびれ死んだとみえるように――ふたつの|屍《し》|骸《がい》は、これからおまえの部屋にはこんで、鴨居にぶらさげておいてやろう。わしはまたここにもどって、戸をしめきり、縄に入っていることにしよう」
 片手で、花扇を抱きすくめながら、南条外記は、片手で彼女のくびにしごきをかけようと、あつい息を吐いていた。
「こ、これをかけて……もう一方に、夢竜のくびをかけて……あの柱の環に、いっしょに|吊《つ》りあげてやろう!」
 その外記のくびに、闇からもう一本の腕がまきついた。
「もうよかろう」
 と、思いがけぬ男の声であった。
「あっ、な、何奴だっ」
 |驚愕《きょうがく》して花扇のくびからはなしてふりまわした両腕を、うしろからねじあげられ、キリキリと縄がかかった。――いまこの部屋に入ってきた人間ではない。はじめからこの闇の中にひそんでいた男であることはあきらかであった。
「はかったな、花扇!」
「おまえほど、人を罠にはかけぬ。|人《にん》|非《ぴ》|人《にん》!」
 どうと|蹴《け》たおすと、その影は柱のかげにかがんで、かちっと火打石を鳴らした。古|行《あん》|灯《どん》にぼうと灯が入ると、その男が|頭《ず》|巾《きん》に|面《おもて》をつつんだ武士だということがわかった。彼は柱の下にいって、夢竜をしばったしごきをときにかかっていた。
「あれは、あれは……」
 床にまろんだまま、美しい|獣《けもの》のように髪ふりみだして外記はあえいだ。
「あれはわたしの今夜のお客でありんすにえ」
 と、花扇がいうと、夢竜が立ちあがって、|艶《えん》|然《ぜん》と笑った。
「ほんとは、わたしを初見世以来買ってくれたお客さまでありんすけれど、今夜おまえが花魁のところへきなんしたゆえ、代っていただきんした。もったいない、花魁に、わたしの名代になってもらいんした。……」
 外記の胸を悩乱させたのは、その意外事よりも、いまきいた覆面の武士の声であった。いつか――どこかで――たしかにきいたことがある。
「うぬ、き、きさま、何者だ?」
「さんざんおまえに悪口をいわれて、恥ずかしゅうていままで顔も出せなんだ男だ」
 武士は笑いながら、頭巾をとった。
「外記、丁字屋以来だな」
 八丁堀の巨摩主水介であった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:58:42 | 显示全部楼层
     二

 南条外記が、会所に待っていた目明しの銀次にしょっぴかれてつれ去られてからまもなく――もう大引けちかい深夜というのに、扇屋の新造夢竜を、急に身請けしていった武士があった。
 扇屋の亭主、花魁花扇をはじめ、ほかの新造、|禿《かむろ》たちが|大《おお》|門《もん》まで見おくったが、みんな眼に涙をたたえていたのは、わずか三、四日暮しをともにしたばかりなのに、去りゆく夢竜という新造に、それほど愛される何かがあったのだろうか。
 見返り柳の下で、夢竜は|駕《か》|籠《ご》にのり、主水介はそのそばについて、たったとあるき出す。|衣《え》|紋《もん》|坂《ざか》をのぼると、まんまるい月が南風に吹かれていた。
「みんな泣いていた。――わかれるとなると、わたしもかなしい」
 駕籠のなかでつぶやく声がきこえて、それから笑い声になった。
「などといっては、せっかく身請けをして下さんす|主《ぬし》さんにはわるうありんすけれど」
 主水介は苦い顔で何かいいかけたが、駕籠かきをちらっとみて、口をつぐんで八丁土手をひたすらあるく。
「まあ、廓の空は、まひるのような――不夜城というのはまことでありんすねえ。あの下に、あのように恐ろしい、またかなしい魂がうごめいているとは――」
 駕籠のなかから、ふりかえって、
「かわいそうに、千弥さん、たった一夜の情けにほだされて、あんな罪を犯したとは、ほんとうのことを告げる勇気もないほど哀れではありんせんか。それにつけても、その哀れな女ごころにつけこんであやつった男がにくい。――でも、そうとわかれば、まさかお奉行さまは、千弥さんを死罪にはしなんすまいね?」
 主水介は、おもいあごでうなずいた。
「ありがとう。どうやらこれで、おんな|牢《ろう》の五人めの女の命を救えたようでおざんす。……でも、ほんとうにあぶないところでありんした。八丁堀で鬼といわれた主さんでさえ、人形つかいを見のがして、人形の方をつかまえなんしたくらいでありんすもの」
「あの場合、千弥がそう言いはる以上、いたしかたがなかった。……」
 と、ひくい声でうめいたが、すぐにみずからいきどおるもののごとく、
「それにしても、まさかほんとうの狙いが対島屋門兵衛にあろうとは夢にも気づかなんだことこそ、|慙《ざん》|愧《き》|汗《かん》|顔《がん》のいたり。……きゃつ、そもそも、なんのために門兵衛を殺さねばならなんだのか?」
「奉行所へいってから、とくとお調べなんし」
「しかし、か――お竜――」
「駕籠かきがきいていなんす。夢竜と呼んでおくんなんし」
「そ、その|廓《くるわ》言葉は、どうも背なかにみみずの|這《は》うような――いや、夢竜、そなたは、どうして外記があやしいと感づいたのか」
「外記が、急に千弥さんを好きになったというそのこころに納得がゆかなかったのでおざんす。また、誰袖さんが、ふたりのまえで首を吊ったということにも不審がありんした。そして、ききただしているうちに、どうやら、眼のまえで誰袖さんが首をつったというのはうそだ、千弥さんは誰袖さんが死んだのを見てはいなかったのではなかったか――と思いはじめたのが、そもそものもとでおざんした。……」
 夢竜は、また|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「それにしても、外記がまたぬけぬけと廓へあそびにこなんだら、なかなかつかまえられなかったでありんしょう。ほんにこわいのは、色の道でありんすねえ」
 身請けされてきた遊女がそんなことをいうから|可《お》|笑《か》しい。月光におぼろなその顔をみると、童女のように愛くるしくまた|神《こう》|々《ごう》しく、いよいよ奇妙だ。主水介はちらりとそれをのぞきこんで、|唐《とう》|辛《がら》|子《し》をなめたような表情になった。
 夢竜は、肩や|袖《そで》に虫でもついているようにはらいながら、
「こわかった。……いままで、いろいろこわい目にもあいんしたが、今夜ほどこわかったことはありんせん。名代のまねにしろ、外記に抱きつかれたときほど――」
 巨摩主水介はだまっていた。彼は、その三夜、スヤスヤとあどけなくねむる夢竜の|枕《ちん》|頭《とう》に坐って、腕をくんでその寝顔を見つづけていたときの名状しがたい|戦《せん》|慄《りつ》を、いまも胸も苦しくなるくらいに思い出していた。
 |廓《くるわ》の灯が、しだいに月明りに|霞《かす》み、遠ざかっていった。

 その翌日である。|深《ふか》|編《あみ》|笠《がさ》の武士が、ひとり扇屋をおとずれた。夢竜という遊女にあいたいというのである。
 深編笠をかぶっているので、顔はわからなかったが、服装はみるからに|大《たい》|身《しん》らしく、声は扇屋の亭主も記憶がなかったが、中年すぎの荘重なひびきをもっていた。
 夢竜は昨夜身請けをされたむね、亭主はおそるおそるこたえた。
「なに、昨晩身請けされた? どこの、何者に?」
 と、武士は|愕《がく》|然《ぜん》としたようであった。亭主はそらとぼけた。
「さあ、それが、事情があって何もきくなと仰せられ、そのお武家さまはいつも覆面でおいであそばしましたゆえ、お顔もわかりませぬ」
 武士は深編笠をかたむけたが、その笠越しの見えない眼光に、亭主はなぜか背すじまで冷たくなるような思いがした。
 しかし、武士はそれ以上何もきかず、だまって去った。なにか、ひどく思案にしずんでいるような背にみえた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 09:59:59 | 显示全部楼层
     三

 江戸の|何《ど》|処《こ》かで。――
 |誰《だれ》も知らず、こんな問答をかわしたものがある。
「――一足ちがいだ。夢竜という女は、身請けされていったとやら」
「なに、いない? それは残念」
「きけば、昨夜、外記が縄にかかってから、すぐに駕籠で吉原を去ったらしい。深夜、身請けをされたというのが不審だ。やはり、そうだ。……」
「そうだ、とは?」
「身請けをしたのは、覆面の武士という。きっとそやつは、八丁堀の同心に相違ない。……外記をとらえたから、もう吉原に用はなくなったのだ」
「ううむ。……」
「もっとも、外記がつかまったことをきいたのが、けさだ。それから――さては――と気がついたのだから、みすみすにがしたのも是非がない。……」
「さては――と気がつくのが、おそかったかなあ」
「蓑屋長兵衛がつかまえられていったということをきいたとき、まだその女のことには気がつかなかった。なぜ長兵衛がつかまったのかわからなかった。ただ、あとになって、そのまえに車佐助一座の小屋へ、小伝馬町のおんな牢から出てきたお竜という女がたずねていったことをきいた。――しかし、それが長兵衛の縄にかかったこととつながっていようとは、まったく思いおよばなんだ。……」
「…………」
「祖父江主膳のとらえられたときも、そのまえに、お竜と名乗る女が、死顔の|蝋《ろう》|兵《べ》|衛《え》のところをおとずれたときいたのは、あとのことだ。そして、その翌日は、奉行の娘に化けて、同心をひきつれてやってきたという。あの同心はほんものだ。お竜は同心とつながりがあるのだ。……」
「…………」
「白山下で|乾《けん》|坤《こん》|堂《どう》が縄にかかったとき――その光景を往来でみていたものの話によると、その場に娘占い師がおったという。これもそのお竜とやらいう女だったにちがいない。……」
「…………」
「浅草寺裏で弥五郎がつかまった鉄火場にも、またそのお竜という女があらわれておったという。それなのに、この女の影に気がついたのは、まだあとのことだったのだから、わしともあろうものが、お話にならぬ。……」
「気がついたとき、外記にすぐ知らせてやればよかったなあ」
「それが――わしが、よい、というまで、われわれとは連絡をするな、時節到来するまで名乗って出てはならぬときびしく命じてあったのがたたって、彼らがつかまったことすら、しばらくこちらは知らなんだのじゃ」
「彼らは、白状したろうか」
「いいや、白状はしておらぬはずだ。ああみえて、わしが一人一人見込んだだけの奴らだ。だいいち白状すれば、わしたちがここでこうして無事におるわけがない。それに――たとえおなじ牢に入れられても、きゃつらはおたがいに知らぬ。つかまったのは、じぶんひとりと思っておる。わしはひそかに手をまわして、それぞれに、いましばらくがまんせよ、わしたちはすでに堂々と江戸へのりこんでおる。牢からときはなすはおろか、大名暮しも眼前じゃとつたえさせ、力づけておいた。――」
「しかし、それにしても、そのお竜とは何者だろう?」
「おんな牢からきた女という。たしか、姫君という異名があるという。――おそらく、同心につかわれておるのだな。毒を|以《もっ》て毒を制す、むかしから、|御判行《ごはんぎょう》の裏をゆく連中を探索するのに、よくつかわれる手だ。――しかし、たとえその背後に八丁堀がおるとはいえ、いままでの手ぎわからみると、女自身も相当なしたたかものだな」
「もうひとり――六人めのあいつ[#「あいつ」に傍点]にはやく知らせておかねばまた二の舞いどころか、六の舞いをふませることになるが、|手《て》|筈《はず》はしたか」
「それが――時節到来するまで、つながりを断てと申しておいたものだから、まだあいつ[#「あいつ」に傍点]のいどころがしれぬ。それよりも――その女だ。そいつをさきに始末しなければならぬ。その女をとらえれば、八丁堀がいかなる意図で、どこまで手をまわしておるかが判然とする。――」
「その女をとらえる。――われわれには、その顔も知れぬのだ。一刻も争うが、うまくとらえられるかの」
「姫君お竜という。江戸の闇の世界にさぐりを入れれば、かならず釣れる。その女をまず|俎《まないた》にのせるのが|焦眉《しょうび》の急じゃ。三、四日待て、きっとひッとらえてみせる。すでにわしは、その方に手をまわしておる。――」
 荘重な、自信にみちた声であった。むしろ笑いすらふくんで、
「おい、|宝沢《たからさわ》、おめえがくだらねえ奴らとつきあって妙なちぎりをむすぶからよ。あとの始末に、これほどわしが苦労をしなければならぬ」
「ゆるせ、ゆるせ、まだおめえを知らねえ以前のことだ。まったく若気のいたりだった」
 と、閉口した声がまだ若気のいたりをぬけきれぬひびきをおびて、
「しかと、あと始末をたのんだぜ」
「ふむ、おまえ、この二、三日よくねむれねえらしいが、|胆《きも》が小せえぞ、大岡越前にキリキリ舞いをさせるほどのおれだ。こんな小事、気にかけねえで、大船にのった気でいるがいい」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:00:26 | 显示全部楼层
    蓮ッ葉往生

     一

 桜がちり、ほととぎすの声をきいたかと思うと、もう気のはやい江戸ッ子は|袷衣《あわせ》をきてかけあるく。江戸の風物詩は廻り|灯《どう》|籠《ろう》のようにまわって、五月も末になると、もう両国の川開きのうわさが、人々の心をいさみたたせる。――
 江戸で、川開きは五月二十八日ときまっていて、その夜は恒例の花火をうちあげる。ひきつづいて涼み船の出る八月の終りまで、花火は二、三度うちあげられるが、むろんその盛大さは川開きの夜にはるかにおよばない。
 この夜は――いうまでもなく――両岸と橋上は人にうずまり、料亭水茶屋の灯はあふれ、川は川で、水面もみえないほどな屋形船、そのあいだを酒や水菓子を売るうろうろ船にみちて、夜空にあがる五彩のひかりと|轟《ごう》|音《おん》もうすれんばかりだ。
「|玉《たま》|屋《や》あ」
「|鍵《かぎ》|屋《や》あ」
 例によって例のごとき声をはりあげる雑踏のなかで、あちこち「あっ、財布がない!」「スリだ!」というさけびがきこえるのも、例によって例のごとしだ。そのさわぎをあとに、まるで水をすべる魚のように群衆のなかをかけぬけていった影が、ふりむいて、
「ちくしょう」
 と、つぶやいた。
 はっとあたりを青く染めた花火に浮かびあがったのは、お|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》をかぶった女である。そのまま、ふたたび水にもぐる魚のように、群衆の中にとけこんでゆく。
 その影から、十メートルばかりあとを、これはあらあらしく人々をかきのけ、つきとばして追う男に、「な、何をしゃがる!」「よしゃがれ!」と|肩《かた》|肘《ひじ》張って押しかえそうとした連中も、からだに触れた冷たいかたいものを十手と知って、あわてて身をはねのけた。
 川沿いからはなれると、人はしだいにまばらになる。そのあいだを縫って、いっそう足をはやめた女は、いきなりだれかにどしんとぶつかった。
「急病人だ。はい、ごめんよ!」
 身をひるがえして、横にはしろうとするお高祖頭巾を、また赤い花火が彩ってきえた。ぶつかられた人間よりも、そばに立っていたもうひとりの|頬《ほお》かぶりした男が、はっとした。
「案の定、ここにいやがった」
「あれが、お竜か?」
 見送ったのは、深編笠の武士である。
「へい、頭巾はかぶっていやすが、あの姿かたちはまぎれもなく――あいつが、スリのかき入れどきの今夜、ここに現われねえわけはねえと思っていやした」
「追われているようじゃな」
「あ、あそこを|岡《おか》っ|引《ぴき》らしいのが息せききって追っかけてゆきやす。うふっ、ころびやがった。あれじゃあお竜はつかまらねえな」
「よし、|直《なお》|助《すけ》、あそこの|辻《つじ》|駕《か》|籠《ご》を呼んで、あれを追え」
「合点だ」
 頬かぶりの男は、|脱《だっ》|兎《と》のごとくかけ去った。

 お高祖頭巾の女は、向両国を東へはしりながら、もういちどふりかえって、「しつこい野郎だ」と舌うちした。
 すぐゆくてに、|回《え》|向《こう》|院《いん》がみえてきた。そのとき、また両国橋の夜空たかくひらいたひかりの花に、|風鳥《ふうちょう》のようにかける彼女の姿が、ぱあっと照らし出された。うしろから、地ひびきたてて岡っ引が追ってくる。
 すると、回向院の土塀のかげから、急にあらわれた一|挺《ちょう》の駕籠があった。ふらふらと往来に出て、女と目明しのあいだをさえぎると、
「これへ入れ」
 ひくい声とともに、女はふいにうしろから抱きかかえられ、うごいている駕籠の中へなげこまれた。駕籠はそのまま、くるりとまわってあるき出す。
「待てっ」
 追ってきた岡っ引は、その棒先きをつかまえ、ゆくての|闇《やみ》をすかした。|跫《あし》|音《おと》はない。また花火があがったが、往来はほかに猫の影もなかった。
「おい、いまここへ女がひとりにげてきたろう?」
「何奴じゃ?」
 と、駕籠のそばで、深編笠の武士がききとがめた。目明しはじろっと見あげて、
「御用筋のものでごぜえます。にげた女スリを追っております。この駕籠のなかに不審がごぜえますが、ちょいと拝見させて下せえまし」
「この駕籠に不審? 無礼なことを申すな」
 高びしゃにおさえつける調子ではない。おちついて、|錆《さび》をふくんだ声だ。
「|下《げ》|郎《ろう》、こんど花火があがったら、わしの|袖《そで》をみろ」
 花火があがった。岡っ引は反射的にその武士の袖をのぞきこんで、はっとした。その袖に浮かびあがったのは、まごうかたなき|葵《あおい》の紋であったからである。――岡っ引はとびのいて、土下座せんばかりの姿勢になった。
「よい、よい。御用のものとあらば、とがめぬ」
 と、武士はうなずいて、
「女スリを追っておると? 大儀じゃ。――女かどうかはよく見なんだが、いまこの駕籠をかすめた影は、そっちの路地へかけこんでいったようじゃが」
 すると、その路地の暗がりで、急にまたあわただしい跫音が起って、向うへかけていった。
「あ、御無礼をいたしやした! どうぞひらに御勘弁を――」
 と、キリキリ舞いをして、目明しはその方へすッとんでゆく。
 深編笠の武士は見おくって、笠の中でちょっと笑ったようであった。そのまま、駕籠屋に、「やれ」と命じたが、回向院の門のまえまでくると、
「いや、ここでよい」
 と、すぐにとめて、
「女、やはりこの駕籠屋はあぶない。おりろ」
 と、声をかけた。
 お高祖頭巾の女が|茫《ぼう》|然《ぜん》と出てくると、武士は駕籠かきに|駄《だ》|賃《ちん》をあたえたが、その手ざわりから、駕籠屋は「ひえっ、これは一両!」とたまげた声をあげた。
「かまわぬ。そのまま、はやくゆけ」
 追いはらって、女をうながすように深編笠をまわすと、さきに立って回向院の中へ入ってゆく。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:02:17 | 显示全部楼层
     二

 回向院は、明暦の大火の焼死者、|溺《でき》|死《し》者二万二千人を葬った墓穴の上にたてられた|伽《が》|藍《らん》だ。由来が由来であるうえに、ここには小伝馬町の牢死者、小塚原の刑死者などの幽魂を追福するために建てられた三仏堂などもある。二町四方の境内は、すぐちかくの浮世の大叫喚を、幻の壁で断ちきッたようにしずまりかえっていた。
 ただ、たかい夜空の花々の遠あかりが、門を入ってすぐ右手にある池の|蓮《はす》を明滅させたが、その蓮池もなにやらこの世のものならぬ|凄《すご》|味《み》をおびてみえた。
 武士は、その池のそばの石に腰をかけた。
「お竜」
 笠の中で呼ぶ。女はまだボンヤリと夢みるように立ったままだ。
「姫君お竜というか?」
「あい、たすけられたおひとなら、|嘘《うそ》をつくわけにもゆきますまい。わたしはそういう名でござんすが、お武家さまは?」
「さっきわしの紋をみたか」
「はい。あの岡っ引は――あれは|伊《い》|皿《さら》|子《ご》の銀次という腕ききの目明しでござんすが――あのような高貴な御紋をつけたお武家さまが、あたしのような女をかばうわけがないと思って、あわててとんでゆきましたが、わたしもわけがわからない。いったい、どこのどなたさまでござんす?」
「紋の手前、名乗れぬが」
「それにしても、どうしてわたしのようなものを?」
「ききたいことがあるのは、わしの方じゃ。そのために、おまえをここにつれこんだ」
「わたしにききたいこと? な、何を?」
「あの目明しはなぜおまえを追うのか」
「ぷっ、さっきおききになったじゃあござんせんか、にげた女スリを追っかけてるって――」
「きゃつは、おまえが奉行所の犬であることを知らぬのか」
 お竜はだまりこんだ。それをどうとったか、武士はうなずいて、
「いや、そうであろう。八丁堀の同心が探索につかう女賊を、いちいち目明し手先におしえるわけがない」
「なんのことだか、ちっともわかりゃしないよ」
 武士は、急に、ひくい、恐ろしい声を出した。
「お竜、とぼけるな。おまえを岡っ引からたすけてやったのは、おまえの命をたすけるためではないぞ」
「――へ?」
「返答しだいでは、|斬《き》る」
「そいつあ、お侍さん、むりですよ。わけのわからないいいがかりをつけちゃあ、返答のしようもないじゃあないか」
「よし、あくまでシラをきるなら、いおう」
 深編笠のなかから、夜目にも|凄《すさ》まじい眼光が、お竜の面上にすえられたようであった。
「うぬは、男装して浪人者に化けて、浅草山の宿町の蓑屋長兵衛なる町人を公儀の手にわたした。二番めに、小伝馬町の|牢《ろう》から出てきたといって、飯田町の御家人祖父江主膳に縄をかけた。三番めに、大道易者に化けて八|卦《け》|見《み》の乾坤堂をとらえた。四番めに、ばくち打ちに化けて、弥五郎という男をつかまえた。五番めに、吉原の遊女に|扮《ふん》して番町の南条外記を奉行所へおくりこんだ。――何に化けようと、その正体がうぬという女、姫君お竜であることはすでに調べがついておるのだ」
「――わたしが?」
「むろん、うぬだけの|智《ち》|慧《え》であろうはずがない。うしろで八丁堀の巨摩主水介という同心があやつっておる?」
「巨摩主水介!」
 はじめてお竜は、はっとしたような声をたてた。
「見ろ、ぎくりときたろう」
 と、深編笠は冷笑した。
「うぬが、この春、その同心の縄にかかったことも知っておる。それにもかかわらず、すぐに奉行所から、ときはなたれたことも知っておる。お竜、そのとき、巨摩とやらいう同心の犬になったな?」
 お竜はだまりこんで、夜空をあおいでいた。
「もうひとりのわたし――」
 と、つぶやいた。それから、深編笠に眼をうつして、
「あいつら[#「あいつら」に傍点]が――おまえさんの何なのさ?」
「おれの手下だ」
「手下――おまえさん、いったい、だあれ?」
 こんどは武士が沈黙した。みえない闇のなかで、四つの眼が火花をちらした。やおら、|陰《いん》|々《いん》と、つぶやくように、
「どうやら、まだおまえはわしを知らぬようだな。いや、知らぬはずだ。きゃつらが、殺されても白状するわけがない。……」
「知ってるよ、知ってるよ。ふふん、ちゃあんと、知ってるよ。――」
「なんだと? 何を知っておる?」
「天下を|狙《ねら》う|大《おお》|伴《とも》の|黒《くろ》|主《ぬし》。――」
 がばと武士はたちあがった。|鯉《こい》|口《くち》をぷっつときる音がしたが、お竜はにげない。花火の遠あかりに、ひきつるように笑った顔がうかびあがった。
「へん、あてずッぽうをいったが、|中《あた》ッたね?」
「お竜――おまえの探索はここまでだ。ところはよし、無縁塚のある回向院、ここでうぬの探索の糸は、命ごめに断ちきってくれる!」
 本能的に身をひるがえそうとして、次の|刹《せつ》|那《な》、何をかんがえたのか姫君お竜は、ひらめく刀身にわれとわが身をぶっつけていった。肩から|袈《け》|裟《さ》がけに――一瞬、棒立ちになったが、たちまち片足を池にふみこんで、水けむりをあげて、お竜は崩折れていた。
「|所《しょ》|詮《せん》、斬らねばならぬ女であった。――まず、これでよし」
 深編笠は、なお|痙《けい》|攣《れん》するお竜の足をつかんでひきずりよせようとしたが、そのとき門のあたりに御用|提灯《ぢょうちん》の灯がひとつあらわれたのをみると、はっとして身を伏せ、そのまま、奇怪な|蜘《く》|蛛《も》みたいに、つつつつ、と境内の地面を|這《は》いさがっていって、ふっと闇にきえてしまった。
「銀次、たしかに直助だったな」
 そう話しかけている声は、巨摩主水介である。
 しかし、その声はもうお竜にはきこえなかった。お高祖頭巾は水にとられて、大きな蓮の葉のうえに、彼女は|白《はく》|蝋《ろう》のような顔をのせていた。
「姫君お竜が、悪い奴をつかまえる探索にのり出している。……あの野郎、その糸を断ちきるといいやがった。わたしを殺して、断ちきったと思ってるだろう。……けれど、そうは問屋がおろさないよ。……姫君お竜は死ぬけど、生まれてたったいちど受けたやさしい心へ御恩がえしに死んでゆく、……何が何だかわからないけれど……」
 かすかに笑いをうかべた顔が、蓮にのったまま、|水泡《みなわ》をたてて沈んでいった。
 波紋のひろがる音をきいて、主水介と銀次がかけてきた。

 ――巨摩主水介と伊皿子の銀次がこの回向院にやってきたのは、お竜がここへつれこまれたと知ったからではない。
 まんまととりにがして、銀次が歯がみをしながら両国の方へもどってゆくと、ばったり巨摩主水介に|逢《あ》ったのである。話をきいて、やっぱりその駕籠があやしい、と主水介は断定した。姫君お竜もさることながら、葵の紋をつけたその怪人物の出現に、彼はひどく職業意識をつきうごかされたらしかった。それで、ふたりはいそいで回向院の方へやってきたのである。
 そして、その門のところで、中をうかがっているひとつの影を花火のひかりで発見したのだ。こちらの気配に感づいて、ふりかえった顔は|手《て》|拭《ぬぐ》いで覆われていたが、一瞬に銀次はその正体をみぬいた。
「あっ、直助っ」
 さけびとともに、その男は|蝙《こう》|蝠《もり》みたいに宙に舞いあがった。いや、そう見えた。まるで闇の天に飛び立ったかのように、彼は|忽《こつ》|然《ぜん》と消えてしまったのである。
 主水介と銀次がさがしていたのは、お竜ではなく、その直助というお尋ね者であった。――しかし、その男は、そのまま、ついに彼らの眼から姿を没してしまった。
 ――|謎《なぞ》の深編笠にたのまれて、姫君お竜のいどころをおしえたのは、その男である。さっき、路地でわざと影の跫音をひびかせて、銀次をあらぬ方へはしらせたのもその男である。彼はむろんたっぷりと深編笠の武士から謝礼の金をもらっていたが、さてその依頼人の正体がよくわからないので、禁じられていたにもかかわらず、一応銀次をまいてしまうと、またこの回向院にもどってきて、そっと中をうかがっていたものであった。
 ――この夜こそまんまとにげおわせたが、のちに彼は巨摩主水介の手で縄にかかることになる。もと深川万年町の医師|中島隆碩《なかじまりゅうせき》の下男で、主人夫婦を殺害して財物をうばい、いまなお|逐《ちく》|電《てん》中のこの直助は、またの変名を|権《ごん》|兵《べ》|衛《え》といった。この男を、|南《なん》|北《ぼく》はのちの文化文政の時代に登場させて|凄《せい》|惨《さん》な「四谷怪談」を創作したが、事実はこの|享保《きょうほう》のころ、大岡越前守の手で処刑された犯罪者のひとりである。すなわち、江戸の闇に巣くう悪党のひとり、世にこれを呼んで直助権兵衛という。――
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:08:44 | 显示全部楼层
     三

 小伝馬町のおんな牢で、牢名主の天牛のお紺は、妙なことをはじめた。
 牢内の掃除は三日に一度だ。むろん囚人がやらされるので、その|都《つ》|度《ど》十数本の|草箒《くさぼうき》が投げこまれる。掃除がすむと、あとでこれをかえすのだが、お紺は一度に一本ずつごまかして、三本を牢内にかくしたのだ。
 |或《あ》る夜――獄衣を裂いて、お紺が、この三本の箒の柄をかたくむすびはじめたのをみて、お甲とお伝が不安そうにのぞきこんだ。
「お名主さん」
「むむ、何だ」
「何をしているのだえ?」
「牢を出るのさ」
「えっ」
 さすがのお甲お伝も、のけぞるばかりに|驚愕《きょうがく》した。――おんな牢はおろか、男の無宿牢でも、この小伝馬町から破獄したものはかつてない。――しかし、お紺は平然として、
「どうせ、みなにゃいわなきゃならねえと思っていた。……わたしゃ、急に|娑《しゃ》|婆《ば》に出たくなったんだよ」
「そりゃあ、だれだってそうだが……」
「お名主さん、|磔《はりつけ》獄門も、まだ追っつかないことになるよ。――」
「どうせ、おれはあんまりながくはないよ」
 と、お紺はうす笑いした。
「このごろ、ひどくからだがいたんでな。腹をおさえると、かたいしこりみてえなものがある。――おれのおふくろがな。死んだときにやっぱり腹にかたいしこりができて、まもなくおそろしい苦しみ|死《じに》をしたがな。おなじことが、おれにもきたようだ」
 実際、この一、二か月のあいだに、お紺はひどく|憔悴《しょうすい》していた。もとから青黒く、やせこけていたのが、いまはまったく|骸《がい》|骨《こつ》のようだ。気のつよい婆あだけに、いままで痛いといううめきをきいたこともなかったが、そういわれてみると、いかにももはやこの世の人間の顔ではない。
「けれど……ど、どうして、そんなに急に娑婆へ出たいんだね?」
「孫に|逢《あ》いとうてのう」
「へ――お名主さんに孫があったのかい?」
「|倅《せがれ》があれア、孫はあるわさ。その倅は、天牛の|弥《や》|太《た》|郎《ろう》というばくちうちで、ずっとむかし鉄火場で死んでしまったがの」
「天牛の弥太郎――というと、やっぱり倅にも、お名主さんとおなじように、胸に赤い天牛みたいな|痣《あざ》があったからかい?」
「そうよそうよ。それにしても、倅をそんな人間にしたのア、まったくおれのせいだ。痣までつたえた母親じゃというのに、おれアよその男と駆け落ちしたのじゃからな」
「お名主さんが、かけおち?」
「妙な顔をすることアねえ。そのころア、このおれだって、すてた女ぶりじゃあなかった。その――駆け落ちした男が――いちどかかわりあったら女をむちゅうにさせずにはおかねえ男じゃああったが、同時に獣みてえな悪党でな」
「ふうん」
「それで、おれがもとの亭主や倅のところへもどったりしようものなら、おれはいうまでもなく、亭主も倅もたたッ殺してやるなどとおどして――また、ほんとにやりかねない男でもあったから、おれはとうとうこんな女になっちまったが、それでも、なんどかその倅をよそながらみたこともあった。倅が嫁をもらって、やがて生まれた孫を――そうだ、孫はまだ五つか六つのころじゃったが、いちど深川八幡の境内でな、母親といっしょにきたその孫に、なにげなくちかづいて、この手に抱いてやったこともあったぞい。それアきれいな眼をした可愛いらしい女の子であったが、おお、その胸に、やっぱり天牛みたいなかたちをした赤い痣があったぞい」
 お紺の声はふるえた。
「おれは、そのときぞっとしてあわてて母親の手にかえしたがの――いま思えば、むしょうにあの赤い痣のある孫がいとしい。逢いたい。――とはいうものの、ほんのこのあいだまで孫のことなど思い出しもせなんだのじゃから、これアやっぱりおれに|末《まつ》|期《ご》がちかづいてきた証拠じゃわい」
「お名主さん、それでそのお孫さんのいまのいどころを知っていなさるのか」
「知らねえ。どんな女になって、どこに、どんな暮しをしているのかも知らねえ」
「それじゃあ、探しようがないだろ?」
「いいや、おれは探す。名はお|蝶《ちょう》、それで胸に天牛のような痣のある娘を、おれは一念かけてさがし出す。――|倖《しあわ》せにくらしているなら、遠くからながめただけで死のう。不倖せになっていたら、それアおれのせいだ。おれは両手をついてあやまる。――」
 お紺は宙に眼をすえて、つぶやいた。もとから恐るべき老婆であったが、その姿には、みなを凍りつかせるような鬼気があった。
「いまさら、磔獄門をおそれるおれか? どうせ、ちかいうちに死ぬのじゃ。やりたいことをやりとげて死なねば、おれは死んでも浮かばれぬぞい。みんな、だまってみていてくれ。それとも――」
 と、お紺は、氷のような眼を、牢の片隅にむけた。
「お竜――おめえ、お役人に告げ口したかったら、告げてもいいぜ」
 ひとりの女囚と話をしていたお竜は、かなしげな眼をお紺にむけて、しずかにかぶりを横にふった。
 お竜――姫君お竜は、依然としておんな牢のなかにいる?
 お勘が、ふるえ声でいった。
「それで、お名主さん、牢を破るのに、そんな草箒を何にするのだえ?」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:09:05 | 显示全部楼层
    山屋敷界隈

     一

「赤猫を出すのよ」
 |天《かみ》|牛《きり》のお紺はひくい声でいって、じっと手につかんだ|草箒《くさぼうき》を見つめた。かたくむすび合わされた草箒は、四メートルちかい長さになっている。
 それから、眼をあげて、|牢《ろう》|格《ごう》|子《し》の方をながめた。格子の外は、幅一メートルの|外《そと》|鞘《ざや》になっていて、そのむこうはまた格子になっている。つまり、牢格子は二重になっているのだ。その外鞘から、さらに二メートルもはなれて、ボンヤリと釣り|行《あん》|灯《どん》の灯がともっている。
「赤猫。……」
 お勘もお甲もお伝もお熊も息をのんだ。
「赤猫」とは、牢の隠語で、火事のことをいう。――お紺は、放火して、破牢をしようというのである。いかにおんな牢の、老いたる女王のごとき天牛のお紺とはいえ、なんたる恐怖すべきことを思いついたものか。
 しかも、お紺は、おちつきはらっていうのだ。
「牢が火事になれア、罪人はみんな解きはなされる。そして、おれがみんなをひきつれて、本所の回向院へたちのくことになっているのだが、そのひまもなけれア、みんなバラバラに打ちはなしになる。とはいえ、そのままずらかってしまっちゃあ、あとで草の根わけても探し出され、その身はおろか、罪のない親子兄弟まで獄門になる。神妙にかえってくれア、罪一等はへらされるのが習いだから、みんなおとなしくかえってこなけりゃいけねえぞ。……おれア、逃げるがの。みんな、おれが何をしていたか、火をつけるまで知らなんだと申したてるがいい。おれア、逃げて、娘をさがして一目逢やあ、あとは|磔《はりつけ》、火あぶりも覚悟のめえだ。……」
 お紺は、そろそろと草箒をとりあげた。――二重の格子のあいだからさし出して、箒のさきに、釣り行灯の火をうつすつもりらしい。
「いいかえ? みんな焼け死なねえように、うまく逃げろよ。……」
「待って!」
 と、さけんだのはお竜だ。じろっとお紺はふりむいて、
「――やっぱり、おめえは、おれに刃むかうかえ?」
「いいえ、夜廻りがやってきます」
「なに、夜廻り?――拍子木の音はきこえねえぞ」
「でも、|跫《あし》|音《おと》がちかづいてきます」
 お紺は、ぎょっとして、耳をすませた。なるほど、遠くから、しとしとと跫音がちかづいてくる。しかも、相当な早足だ。
 そして、外鞘に黒い影が立った。
「武州無宿お竜、急に不審の儀|出来《しゅったい》せるにつき、早々に|罷《まか》り出ませい!」
 その声から、例の八丁堀の同心であることがわかった。
 しかし、いかに重罪人とはいえ、この夜中に急な呼び出しは、それこそ不審だ。だいいち、あれだけ何度も取り調べながら、いまさら不審もないだろうと思う。――お竜自身もふしぎそうに、ぽかんと口をあけて牢の外をみていたが、調べとあれば、やむを得ない。いそいで立ちあがり、お紺のそばをとおるとき、
「お名主さん、おねがいだから、わたしのかえってくるまで、火はつけないでおくんなさいよ――」
 口早に、耳もとにささやいて、出ていった。
 お紺はさすがに|狼《ろう》|狽《ばい》して、草箒をひざの下にしいて、そのうしろ姿を見おくった。
「ちくしょう」
 と、つぶやいたのは、お竜をののしったのか、同心を|罵《ののし》ったのか、わからない。
 ともあれ、彼女の破天荒の冒険は、いちじ|頓《とん》|挫《ざ》したことはあきらかであった。このまま火事を出したところで、もしお竜が出火の原因を役人に告げたら、はたして慣例どおりに囚人一同が打ちはなしになるかどうかは疑問だ。それどころか、いまにも役人たちが|雪崩《なだれ》をうってここへおしかけてくるのではないか。――さっきお竜は、牢破りの計画を訴えはしないといったけれど、お竜に反感をいだいているお紺としては、その言葉を信じきれないのもむりはなかった。――お紺は、歯をくいしばって、闇を刻む時に、おのれの胸をも刻んでいた。
 しかし、お竜がもどってきたのは、わずかに二、三十分を経てからだ。
 お竜ばかりではない。四、五人の役人があとにつづいて、しかも、妙なものといっしょだ。何者か――たしかに戸板にのせられた人間が、外鞘に置かれたのである。
「…………?」
「…………?」
 いっせいに、けげんなおももちで見まもる女囚たちの眼に、まず戸前口から、お竜が入ってくるのがみえた。彼女は、だまって、まっすぐに天牛のお紺のまえにあるいてきた。
「お竜」
 なんとなく、お紺は不安の思いにかられて、
「あれア何だえ?」
「新入りだよ」
「なに――病気か」
「名は、姫君お竜という。――」
「えっ」
「あたしの|偽《にせ》|物《もの》さ。――そう名乗っていた女が見つけ出されたので、あたしが呼び出されたのさ。偽物にきまっている。なぜなら――」
「なぜなら?」
「いま、|屍《し》|骸《がい》の胸をみたら、乳房のあいだに、天牛のようなかたちをした赤い小さな|痣《あざ》がある――」
「な、なにっ、屍骸だと? 胸に痣があると?」
 立ちあがるお紺のまえに、戸板にのせられたその「新入り」の女がはこびこまれてきた。
「牢番、灯をもってきな。――」
 と、お竜がいった。釣り行灯がはずされて、牢格子の外へちかづいた。
 戸板にあおむけに横たわった女の顔が、格子の|縞《しま》にふちどられて、|蒼《あお》|白《じろ》く浮かびあがった。かたく、うごかぬ、うら若い顔――それが、なぜかにんまりと笑って、ぞっとするほど美しかった。まさに、死んでいた。
 お紺は、その顔から、胸へ眼をうつした。お竜が、しずかにその上にぬれた|襟《えり》をかきひらいた。これまた格子の影にくぎられて、|象《ぞう》|牙《げ》細工みたいにひかる双の乳房のあいだを恐ろしい|斬《き》り|傷《きず》がはしっていたが、血は洗われて天牛のような痣がみえた。どうしたことか、きものはぐっしょりとぬれ、片手に|蓮《はす》の葉を一枚にぎっていたが、お紺はそれはみなかった。ただ、もういちど、くいいるように女の顔をみた。
 ふいにお紺は、がばとその屍骸にしがみつき、
「お蝶!」
 と、絶叫した。お竜は息をひいて、
「やっぱり、そうか?」
「お蝶じゃ。わしの孫じゃ! こ、この顔に、深川八幡でみた幼な顔がのこっておる。おお、お蝶、おまえは、いってえ、ど、ど、どうして――」
「お名主さん、おまえさんが、本所の回向院へにげてゆく気を出したのア、虫が知らせたんだ。……このひとは、回向院の蓮池のなかで殺されていたとか。……」
 お紺は屍骸を抱きあげて、頬ずりしながら|凄《すさ》まじい眼をあげて、
「だ、だ、だれがこんなことをしゃがった?」
「わからぬ。……」
 と、巨摩主水介が、沈んだ声でいった。
「|旦《だん》|那《な》、お蝶はなぜこんな目にあったのでごぜえます。お蝶は、何をしていたんでごぜえます……」
「わからぬ。……」
 主水介、苦しそうだ。
「わからねえ? お、お蝶は、姫君お竜と名乗っていたとかいいやしたね。それはいってえどういうわけだ。そこのお竜と、どんな関係があったんだ?」
 お竜も、はっとしたらしい。口をおさえて、しばらく返事もないのに、お紺は獣のようにとびかかって、そのくびをしめつけた。
 抵抗もせず、お竜はしめつけられていて、やっとさけんだ。
「ま、待っておくれ、お名主さん」
「言え!」
「三日たったら。――」
「なに?」
「三日たったら、お竜さんを――いや、お蝶さんを殺した奴を教えてあげる」
「なぜ、三日待たなきゃならねえんだ」
「実は、知らないのよ」
 お紺は、|唖《あ》|然《ぜん》として、お竜の顔をみた。「ふざけるな。――」といおうとして、その頬にたれるふたすじの涙をみると、急になぜか手の力が|萎《な》えた。
「おめえは、まったくわからねえ女だ。……」
「すみません、もう何もきかないでおくれ。ただ……このひとは、あたしのために死んだにちがいないと思う。あたしの名を|騙《かた》ったばかりに、こんなむごい目にあったんだと思う。……このひとを殺した奴は、あたしにとっても|敵《かたき》だ。お名主さん、三日のうちに、お蝶さんの敵はきっと討つ!」
 巨摩主水介は、じっと三本つらねた草箒に眼をおとしていた。その足もとに、急にお竜がひれ伏した。
「旦那、おねがいです。……このひとは、回向院の無縁塚に葬むるんでございましょう。……」
「そういうことになるが、ねがいとはなんだ」
「このお名主さんを、一日でいいから牢から出して、その手で埋めさせてやっておくんなさいまし。……」
 主水介は、屍骸にしがみついて泣いている老婆の姿を見つめ、お竜をながめ、まばたきをして、
「|牢奉行《ろうぶぎょう》に、そう願っておいてやろう」
 と、うなずいた。
 お紺は、がばとふたりのまえにひれ伏して、すすり泣きながらいった。
「ありがとうごぜえます。おれは、もう、お蝶といっしょに回向院の無縁塚に入りとうごぜえます。……」
「お名主さん、そんな気の弱いことをいわないで。――お名主さんがいないと、おんな牢は|闇《やみ》だよ。……」
「何をいう、おめえこそ、この牢のおてんとうさまだ。お竜、わたしゃ、おめえに負けた。今夜から、おめえ、牢名主になれ。……」
「とんでもない、お名主さんじゃあないと、とてもみんなのおさえがきかないわ。――それに、あたしゃ、もう一つ、ほかに用がある――」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:09:23 | 显示全部楼层
     二

 しばらくののち、お竜は例のごとく羽目板にもたれかかって、ひとりの若い女囚にやさしく話しかけていた。
「お|葉《よう》さん、あなたはどうしてこんなところに入ってきたの?」
「わたしは、御主人を殺したのです」
「御主人とは?」
「御旗本、|石《いし》|寺《でら》|大《だい》|三《ざぶ》|郎《ろう》さま。……」
「え、御旗本を? なぜ?」
 お葉という女囚は、しばらく返事をしないで、じっとお竜を見まもっていたが、やがてふるえ出して、
「お竜さん、それはきかないで下さい。……」
「それは、話したくないだろうけれど、でも、ほかの――お玉さんだって、お路さんだって、お関さんだって、お半さんだって、おせんさんだって、みんな身の上話をきかせてくれたわ。あなた、わたしが、きらいなの?」
「いいえ、そうじゃあありません。それどころか、あなたがここに入ってきたときから、わたしはあなたが好きでした。……それが、こわいのです。あなたには、何もかも、しゃべってしまいそうで……」
「なぜ、わたしに何もかも、しゃべるのがこわいの?」
「何もかもわかると、たいへんなことになるのです。ああ、もうわたしは、こんなことをいってしまった。……」
「たいへんなことになるって、お葉さん、あなたは、ほうっておくと|斬《ざん》|罪《ざい》になるのよ。それ以上にたいへんなことがあるものですか」
「わたしの殺されることくらい何でもありません。それより、もっと恐ろしいことが……」
 一見、ただ|可《か》|憐《れん》で愛くるしいこの娘に、殺されるよりもっと恐ろしいこととは何だろう? さすがのお竜が判断を絶した表情で、娘の眼をのぞきこんだ。その眼は、さざなみのように動揺していた。
 どんな大罪を犯してきたにしろ、入牢以来、ひそと音もたてなかったこの娘に、その犯罪や処刑に対する|怯《おび》えがあろうとは思われなかった。すくなくとも、彼女が|或《あ》る覚悟をきめていることはあきらかであった。その|悶《もだ》えは、あの――どんな女や男もが、見つめられるとそれだけでふらふらと白状したくなるというふしぎなお竜の眼と、それに対する抵抗から|醸《かも》し出されるものであったに相違ない。
「お竜さん、もしわたしがほんとうのことをお話ししても、ほかのだれにもしゃべりはしないでしょうね?」
 ついに、お葉はいい出した。
「わたしが、ほかのだれにしゃべるというのです」
 と、お竜はしずかにこたえた。
「お葉さん、わたしの眼をごらん。そして、わたしを信じて――」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:09:40 | 显示全部楼层
     三

 お葉は、|小《こ》|日《ひ》|向《なた》|切《きり》|支《し》|丹《たん》|坂《ざか》の下、旗本の石寺家に下女として奉公して、石寺家の人々が、変物ばかりなのにびっくりした。
 奉公して、はじめて知ったのだが、まず当主の石寺大三郎が、座敷牢の住人である。なんでも、先年大坂の城の番士を仰せつかって、数年、|上《かみ》|方《がた》にいっていたそうだが、そこですっかり身をもちくずしてしまったらしい。旗本には、一般の大名の藩士とちがって江戸勤番ということはあり得ないが、そのかわり、交代に大坂城や京都の二条城に詰めさせられるのである。そこで、ひどい道楽をおぼえて、帰府をすると、すぐに|小《こ》|普《ぶ》|請《しん》入りを命じられた。小普請組は、非役である。しかも、彼の場合は、いわゆる「しくじり小普請」という奴だ。
 むろん、本人は謹慎あいつとめなければならないのだが、これでいよいよやけになって乱暴をはたらくので、組支配からにらまれて、あやうく処分されそうになったのを、本家の|伯《お》|父《じ》が奔走して、しばらく彼を座敷牢にとじこめることになったということであった。
「おおい、|源《げん》|兵《べ》|衛《え》、酒をもってこい。――」
「お|松《まつ》、何か、うまいものはないか。――」
 毎日、彼は格子のなかでこんなことをわめいて、いばっている。お葉が奉公してから、むろん食事は彼女が運ぶ役になったのだが、たちまちふるえあがって、にげかえった。座敷牢のなかにひきずりこまれそうになったのだ。
 ぶしょう|髭《ひげ》をはやした大男で、酒のために眼はいつもあかくただれ、まるで|狒《ひ》|々《ひ》か何かにつかまえられたような気がした。
 死物狂いににげもどって、台所で泣いていると、|中間《ちゅうげん》の源兵衛とお松という婆さんがよってきて、|溜《ため》|息《いき》をついたが、しかし、それが奉公というものだ、と|叱《しか》りつけた。
 そのとき、ぶらりとそこに入ってきた大三郎の弟の|小《こ》|四《し》|郎《ろう》が、
「いや、兄貴のところへゆくのはかんべんしてやれ。若い女には、まるできちがいだ。お葉がこわがるのもむりはない」
 と、とりなしてくれた。源兵衛とお松はそっぽをむいた。
 この小四郎は、しかしほかに家族もいないのに、この屋敷ではひどく冷遇されていた。――のちに知ったところによると、彼は大三郎の異母弟で、つまり|妾《めかけ》の子で、一年ほどまえこの屋敷に入ってきたばかりだということだ。この屋敷に何十年も奉公している源兵衛とお松が、露骨に|軽《けい》|蔑《べつ》的な態度をみせて、何かといえば、かげで、
「やはり、お育ちが、お育ちじゃ。――」
「とても、石寺家の若さまのようではない」
「大三郎さまのおしくじりから、妙な慾を起さしゃっても、わしたちがそうはさせない」
 と、悪口をいったり、りきんだりするのもそういう素性の青年だからであった。
 しかし、この兇暴な座敷牢の主人をひたすらまもっているだけに、この源兵衛とお松もやっぱり少し変っていた。忠義というより、じぶんたちの子供みたいな気がするらしい。ばかな子ほど可愛いという、それとおなじ心理かもしれない。婆さんは大三郎のいいつけたものを、何はおいてもすぐにもっていって、座敷牢の目的を半ばぶちこわしにしているし、反対に|爺《じい》さんは大変厳格である。それも、三日めごとに検分にやってくる本家の伯父殿の手前というより、一日もはやく大三郎にまともになってもらいたいという熱意からだということは、あきらかにみてとれた。
 ただ、このふたりが小四郎をきらうのは勝手として、妙な疑心暗鬼をいだくのは少々見当ちがいだと、お葉には思われた。つまり、|無《ぶ》|頼《らい》の兄が隠居でも命じられることを望んで、そのあとがまを狙っているのではないかと源兵衛たちは心配しているのだが、小四郎はまったくそんな気はないようであった。
 ぶらりと台所に入ってくる態度をみてもわかるように、|洒《しゃ》|脱《だつ》で、庶民的で、そしてやさしい。非常に学問が好きだとみえて、庭を|逍遥《しょうよう》しているときでもふところから書物がのぞいている。それから小半日地面にかがんで土に何やらすじをひっぱったり、円を描いたりしてかんがえていることがあるかと思うと、終夜星を仰いでいたりする。
「変ったおひとじゃ」
 と、源兵衛とお松が、じぶんたちのことを棚にあげて、そのうしろ姿にささやくのに、
「あの方は、学者なんだわ」
 と、お葉は、胸のなかでつぶやいた。
「それに、小四郎さまは、どこへも出かけられないことはたしかなのに、どこをさがしてもいらっしゃらぬことがある。奇妙な方じゃ」
 と、老人たちが、首をかしげることがあった。それだけは、お葉にもわからなかった。
 ひょっとしたら、たしかにあのお方がこのうちで一番変っていらっしゃるかもしれない――そう思い出したにもかかわらず、彼女は、この詩的で夢想的な日蔭の青年に、しだいに好意をおぼえてくるのを、どうしようもなかった。
 ――ところで、この変物兄弟の家へ、さらに|錦上《きんじょう》花をそえるがごとき人間の飛び入りがあることを知ったのは、この春のことだった。
 突然、庭でけたたましいさけびがあったので、かけつけてみると、草むしりをしていたらしい源兵衛が大手をひろげてはしりまわり――それに追われつつ、けらけらと笑っているのは、見知らぬひとりの若い娘であった。しかも、それが、まっぱだかなのである。
 笑っている顔は、あきらかに正気を失った表情であったが、美しい娘だ。その肌は、まるでひかっているように白かった。それが|羚《かも》|羊《しか》みたいに庭をかけまわっている光景に、お葉は眼をまるくして、息をのんだ。
「こいつ――春になったら、また色気づきゃがって!」
 爺さんは泡をふいてののしりながら、やっと彼女をつかまえた。そして、ひきたてつつ庭の一方へまずつれていったので、気がついてみると、そこに彼女がぬぎすてたらしい華やかな衣類がある。
 あらあらしく投げつけるようにそれをまとわせると、源兵衛はその奇怪な女をひきずって、門の方へあるいていった。
「ああ、またあの女が来おったかいの」
 と、すぐそばで、溜息がきこえた。ふりかえると、お松である。
「お松さん、あのひとは――」
「この坂の上の山屋敷の牢番の娘でな。きちがいじゃ」
 ――山屋敷とは、切支丹牢のことだ。
 もと宗門奉行|井《いの》|上《うえ》|筑《ちく》|後《ごの》|守《かみ》の下屋敷を改造したもので、外まわりの石垣は一丈二尺、土塀のたかさが一丈二尺、さらに八寸の忍びがえしの|釘《くぎ》がひかって、その陰惨なかまえは、この家の庭からも遠く仰がれて、お葉の心を冷たくした。――すでに百年にちかく、そのあいだ何百人の切支丹が、ここに投獄され、血と涙のなかに殉教したり、転宗したりしたことであろう。また――ここに|囚《とら》われた|伴《ば》|天《て》|連《れん》ジョバンニ・シドウチを審問した|新《あら》|井《い》|白《はく》|石《せき》が、その結果獲得した知識から「西洋紀聞」を著したことでも、日本史上忘るべからざる山屋敷だが、しかし江戸の人々にとって、これこそは小伝馬町の大牢にもまさる恐怖の城であった。
「そのひとが、どうしてこのお屋敷へはだかでくるんですか?」
「きちがいのきもちはわからないよ。恋しゅうてくるのか。憎うてくるのか。……」
「――というと?」
「あの――お|市《いち》という娘はの、まえにここに下女にきておった。二年ばかりまえ、旦那さまが大坂からかえっておいでになってまもないころのことよ。……そのとき、旦那さまのお手がついた。……」
「えっ――それで――気がちがったんですか」
「いいや、妙になったのは、それがもとじゃない。ちょうどそのころ、あれの父親の牢番が、|切《きり》|支《し》|丹《たん》|牢《ろう》の切支丹に、逆に|妖術《ようじゅつ》にかけられて切支丹になりおっての。それが発覚して、お仕置になった。それから気がふれてしまったのだよ」
「では、あれは切支丹の娘――」
「いまは、となりの牢番が養ってくれて、ふだんは家にとじこめておいてあるはずなのが、春になると浮かれ出して、このお屋敷にあんな姿でもぐりこんでくる。こまったことじゃが、大きな声ではいえないけれど、うちの旦那さまにも罪がないとはいわれない。けれど、その旦那さまも座敷牢にいさっしゃるとァ、これァ因果な話さね」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:09:59 | 显示全部楼层
    無作法御免

     一

 まるはだかになって、座敷牢の男をたずねてくるきちがい娘。――
 むろん、それを面白がる年ごろでもなければ、好奇心をいだく立場でもない。お葉はただ、無惨、という印象でこの事実を受けとったが、お葉自身が、それとあまりちがわない無惨な目にあいかけたのは、それから数日ののちであった。
 その夕方、お葉は小四郎に、そっと物蔭によばれた。
「お葉、ちょっとたのみがある」
「はい、なんでございます?」
「これから、兄上のところへ婆やが夕食をもってゆくのだが――今夜は、おまえにはこんでもらいたいのだ」
 お葉は、まじまじと小四郎の顔をみた。このまえのことがあってから、大三郎の身の廻りの世話をするのは、やっぱり婆さんにきめられて、お葉は胸をなでおろしていたのだが、しかし小四郎にそういいつけられては、いやだといえる身分ではない。しかし、そのことより、お葉は小四郎の不安そうな表情に|眉《まゆ》をひそめた。
「それは、もって参じますけれど……どうかなすったのでございますか」
「実は、座敷牢に妙なものがある」
「妙なものとは?」
「|十《ク》|字《ル》|架《ス》じゃ」
「くるす?」
「切支丹の護符だ」
「切支丹。……」
 お葉はさっと|蒼《あお》ざめた。小四郎のささやく声もふるえている。
「おそらく、あの山屋敷の狂女――お市がはこんだものではないか。それを兄上が、どういうおつもりで手もとにとっておかれるのか、そのお心は判断に苦しむが、万一、本家の伯父上にでも見つけ出されたら、一大事、なんとしてでも、あれをとり出しておかねばならぬ。と申して、ふだんゆかぬわしがゆけば、兄上も用心するだろう。お松、源兵衛|爺《じい》でも心もとない。というより、あれたちにこのことを知られたくない。まかりまちがうと、兄上のいのちがなくなるばかりではない。この石寺家そのものがおとりつぶしになりかねぬ」
「……わかりました。若さま、わたしがそれをとってまいります」
 と、お葉はこっくりした。恐怖よりも、小四郎にそれほどじぶんが信頼されたのがうれしかった。いや、ふだんあまり世話をやかせない小四郎に、用を命じられたことだけでも心がはずんだ。
 ――そして夕方、お葉は夕食の|膳《ぜん》をもって座敷牢に入ったのである。
「お……おまえか」
 と、|髯《ひげ》だらけの大三郎は、顔をあげてニヤリとした。
「お松はどうした?」
「お松さんは、ちょっと気分が悪うて……」
「酒は忘れはすまいな。これ、ついでに酌をしてゆけ」
 お葉は、いまにもにげ出したかったが、むりに笑顔をつくって、お膳のまえに坐った。大三郎はとびつくように、つがれた|盃《さかずき》をあおり、また盃をつき出し、たてつづけに三杯ほどのんでから、はじめて生きかえったように大きな息をふうとついて、上眼づかいにお葉をみた。
「若い女の酌で、酒をのむのはしばらくぶりじゃ」
 と、右腕の|袖《そで》をぐいとまくりあげると、また盃をつき出して、
「つげ。ふむ、可愛い顔をしておるの」
 お葉はそのとき大三郎の右腕に、へんなものがあるのに気がついた。|刺《いれ》|青《ずみ》である。――それは「無作法御免」という文字であった。もっともお葉には読めなかったので、意味もわからなかったが、それにしても、お侍で、しかもれっきとしたお旗本で、刺青をするのは珍らしい。おそらく、大坂で、無頼な暮しをしているときに彫ったものではあるまいか。これでは、なるほど座敷牢に入れられるのもむりはない。――
「これ、ふるえるな、酒がこぼれる。――お葉、もうすこしここにいてくれるであろうな」
「はい。……すこし、お身廻りをきれいにいたしましょう」
 と、お葉は眼をそらして、|寝《ね》|臭《ぐさ》い夜具や、ちらかった黄表紙や、灰のこぼれた|煙草《たばこ》盆などを見まわした。――あの十字架とやらはどこにある?
「左様か。それでは、酌はよい。そこらをかたづけてもらおうか」
 と、大三郎は案外おとなしくいった。
 お葉は、ほっとして隅の方へゆき、ぬぎすてたままの寝巻などをたたみながら、眼をあたりにはしらせた。十字架――銀の棒を十字にくみあわせたものだと、小四郎さまはおっしゃったが――しかし、どこへかくしたか、そんなものはみえなかった。
「お葉、何をしておる?」
 ふいに、すぐうしろで、酒くさい息が吐きかけられた。
「まるで|枕《まくら》さがしでもしておるようだが、座敷牢の囚人に金はないぞ」
 はっとしてふりむいたとたん、いきなり両腕をつかまえられた。ちかぢかと寄った大三郎の眼が、酔いと狂暴な欲望に、ぶきみに赤くひかっている。
 ――お葉は、声も出なかった。
「あははは、掃除は、あとでよいわ。それより、わしをよろこばせてくれ、のうお葉」
「あっ――ゆるして下さいまし!」
 やっとさけんで、身をもんでのがれ出る。しかし、外へは格子がへだてていた。小さな出入口で、身をかがめようとしたところを、帯をつかまれた。
「待て、これ、よいではないか」
 帯がとけた。お葉はひきもどされ、くるくると回転しながら、夜具のうえに投げ出された。そのうえに、|熊《くま》か|狼《おおかみ》のように大三郎が襲いかかる。もがけばもがくほど、帯のないきものはみるみるはぎとられて、空気までがいたいような処女の肌が、大三郎のあらあらしい腕にもみしだかれた。
「旦那さま!」
「えい、おとなしくしろ、これも忠義じゃ」
 胸毛を乳房のあいだに感じると、お葉はくらくらと眼まいがした。――そのとき、何者か、黒い影がそばに立ったようであった。
「兄上! なりませぬ!」
「や、小四郎か、じゃまするな」
 猛然とたちあがる大三郎の足に|脾《ひ》|腹《ばら》をけられて、お葉は|悶《もん》|絶《ぜつ》した。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:10:17 | 显示全部楼层
    二

 ――お葉は、ヒリヒリする皮膚のいたみにわれにかえった。
「お葉」
 耳もとで、ささやく男の声がきこえた。
「あ。……」
「これ、声をたてるな」
 しかし、彼女は恐怖のあまりもういちど声をたてようとして、その口を手でふさがれた。
「小四郎だ。たのむから、しずかにしていてくれい」
 何が、どうなったのかわからない。ここがどこかも知れなかった。ただまわりは|漆《うるし》のような|闇《やみ》で、その闇がひどく狭い感じであった。彼女は、男に抱かれて横たわっていた。男も重なるように身を横たえている。――お葉は、じぶんがまるはだかなのにはじめて気がついて、またうなり声をたてかけた。
「お葉、おねがいだ。さわがないで――」
 小四郎がいう。息をころし、必死の声が耳もとで、
「そのままで、きいてくれ。――おまえは、兄上に身をけがされようとした。それをわしが救い出して、ここにつれてきたのだ」
 お葉は、血が逆流するような感じで、さっきの恐怖を思い出した。
「若さま。……ここは、どこでございますか?」
「わしの部屋の下だ」
「え。……」
「この下には、兄上の座敷牢がある」
 そういわれて、お葉は、大三郎の座敷牢の二階が小四郎の居室になっていることを思い出したが、しかしそれではここがどこか、いっそうわからない。
「つまり、座敷牢の、天井裏なのだ。――さっき、おまえをたすけ出して、庭へとび出したら、庭のむこうからだれやら走ってくる跫音がきこえた。これはいかぬと、あわててわしの部屋に抱いてにげのぼったのだが、おまえははだかのままじゃ。走ってきたのが爺やか婆やか、いずれにせよ見つけられては要らざる騒ぎのもとともなり、また――下の座敷牢に、その人間が入っていった様子なので、何か見てやろうと、ここに入りこんだ。――」
 お葉は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として周囲を見まわした。眼がだんだんなれて、闇のなかにおぼろに柱がみえてきた。まさに、天井裏だ。しかし、その一|画《かく》だけ板でかこってあり、下には音をたてないためか、夜具がしいてあった。立ってはおれないほどひくい空間に、しかし本や筒のようなものや、四角な包みがいっぱいおいてある。
「お葉、だれにもいってはならぬぞ。わしは切支丹ではないが、西洋の学問をしておる。本心では、天地に恥じないつもりだが、|姑《こ》|息《そく》な人間どもにはどのようなかんちがいを受けるかもしれぬ。ひそかにあつめた本や器械を、伯父上や源兵衛にみつけられては面倒なことになるとかんがえて、こんなかくし場所をこしらえた。……実は、下の座敷牢をつくるとき、その騒ぎや物音にまぎれて、こんな穴蔵をつくったのだ」
 はじめてお葉は、いままで小四郎がえたいのしれぬ消失をした|謎《なぞ》を知ったのである。押入れとか、物置とかではあぶない。なるほど、ここなら――だれが二階と一階のあいだに、こんな秘密の場所がつくってあると想像できるだろうか。
「お葉。……おどろいて、たかい声をたててはならぬぞ。座敷牢に入っていったのは、源兵衛でもお松でもない。――ここから、そっとのぞいてみろ」
 小四郎は、わずかに|布《ふ》|団《とん》をまくった。すると、そこに小さなふし穴があらわれた。お葉は、まるで魔法の眼鏡でものぞきこむように、その穴に眼をあてた。
「あ。……」
「しっ」
 ――いかにも、真下は座敷牢であった。それは、上からみえた。
 そこには、ふたりの人間がいた。ひとりは、主人の大三郎だが、もうひとりは――はだかの若い女だ。それがあの山屋敷の狂女であることは、ひと息かふた息ついたあとでわかった。
「お市じゃ。座敷牢の|鍵《かぎ》はあけたままになっておったから、やすやすと入りこんだものであろう。……」
 小四郎がうめいた。
 はだかの狂女は、ぴったりと大三郎のひざに抱きすくめられていた。くびをのけぞるようにしてあおのけ、男に口を吸われながら、片腕を男のくびにまきつけている。男の手があらあらしく乳房をもむたびに、くずれた|髷《まげ》のからす蛇のような髪が、ゆさゆさと夜具を|這《は》った。
「まっ。……」
 お葉は、ピタリとふし穴を手でふさいで、顔をそむけた。息もつけなかった。
「お葉、見るのだ。けがらわしいが、がまんして見ていろ。そのうち、ふたりが妙なことをはじめるから。いや、けしからぬ、|淫《みだ》らなふるまいではない。そのあとで、ふたりはえたいのしれないふしぎな儀式をはじめるから。……それから、恐ろしいことが起る。……」
 と、小四郎はささやいた。その声の厳粛さに、お葉はまたおそるおそるふし穴に眼をあてた。が、またあわてて顔をそらして、こんどは肩で息をした。そこには、まるで黒い獣と白い獣との凄まじいばかりのからみ合いがみられただけであった。
「まだ、ふたりはあの儀式をせぬか。……」
 と、小四郎が、お葉の肩に手をかけた。
「儀式とは?」
「わしはな、あの狂女が、ほんとうにきちがいかどうかうたがっておる。……」
「え。……」
「あのけだものとしかみえぬ淫らさをみると、正気の女とは思われぬ。しかし、あとであれは十字架をとり出して、ひれ伏して、さもかなしげに泣くのだ。……」
「あのひとは、なんどもこの下の座敷に入ってきたのですか?」
「いいや、今夜がはじめてじゃ。しかし、|格《こう》|子《し》の外にしのびよって、格子越しに兄上に、筆舌につくしがたい姿で挑む。それに応ずる兄上は、兄上の方が狂人ではないかと思われるくらいじゃ。しかも、そのあとで、兄上も例の十字架をとり出して、ひれ伏して、かなしげに泣く。――わしは、ここからそれをいくどか見た。しかし、そのことをだれにも言えなんだ。人にはいえぬ恐ろしいことが、そのあとで起るからだ」
「恐ろしいこととは?」
「女は泣く。兄上も泣く。泣きながら、何やら祈りのごとき言葉をつぶやく。なんでも、エホバ、エホバ……という言葉がしばしばきこえるところをみると、エホバとは、邪宗門の神の名ではあるまいか。するとな――どこからともなく、うなるような声がきこえるのだ」
 お葉は水をあびたような思いにうたれて、われしらず小四郎にしがみついた。
「兄上の声ではない、むろん女の声ではない。――この世のものとは思われぬ声だ。しかも、それが地の底からきこえるようでもあり、暗い天井からきこえるようでもある。といって、屋敷で、ほかにだれもきいた様子はないから、座敷牢の中か、|或《ある》いはすぐ外でうなる声だ。ところが、それらしい姿もみえなければ、なんの気配もない。その声が言う。――大三郎、大三郎、牢より出でよ、きよく名乗り出て、まるちり[#「まるちり」に傍点]を受けよ、ただ肉のはらいそ[#「はらいそ」に傍点]にふけるのみならば、かならず天の剣が下ろうぞ。――」
「…………」
「それとなく、山屋敷の役人にきくと、まるちり[#「まるちり」に傍点]とは切支丹の言葉で殉教、はらいそ[#「はらいそ」に傍点]とは極楽ということだそうな。――思うに、あの狂女のうしろには、奇怪な魔神エホバがついておる。エホバが、あのお市をつかって、兄を邪宗門にさそいにくるのじゃ」
「…………」
「お葉、のぞいてみろ。ふたりはまだ十字架を拝んではいないか?」
 お葉は、三たびふし穴に眼をあてた。――しかし、そこには、処女の正視し得ぬ光景が、いつはてるともなくくりひろげられているばかりであった。ただ無頼の侍と、狂える女が、白い炎につつまれて、髪ふりみだし、息も絶え絶えに、身もだえしてからみあい、のたうちまわっているだけであった。
「‥……なぜ……なぜ……」
 お葉の声はかすれた。
「そんな恐ろしいことを、お上にお訴えなさらないのです?」
「兄上を|磔《はりつけ》や火あぶりにしてよいというのか?」
「でも、このままでは……」
「だから、わしは苦しんでいるのだ。このことは、偶然おまえにみせ、また打ちあけることにはなったが、みせてはならぬ、知らせてはならぬ石寺家の大秘密ではあった。しかし、正直なところ、おまえにでもみせて、きいてもらわねば、いてもたってもいられないきもちになったのだ。このことを、万一、公儀に知られたならば、断罪をうけるのは決して兄上だけではない、いままでの例から、一族すべて魔性のものにとりつかれたものとして、家名断絶、人も屋敷もいもち[#「いもち」に傍点]にかかった稲のように焼きはらわれてしまうであろう」
「ああ。……」
「お葉、なぜかわしはおまえだけは信じた。石寺家のためにわるくはしてくれぬ娘と見た。……わしはおまえが好きであった。……」
「小四郎さま。……」
 もう、何をきいているのか、じぶんが何をいっているのか、お葉ははっきり意識していなかった。|瞼《まぶた》には、下界の光景が|火《ひ》|華《ばな》となって|灼《や》きつき、身体はせまい穴のなかにひしと男に抱きしめられて、全身が熱病におかされたような感じであった。
 若いふたりの唇は、ひたと合った。
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