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楼主: asuka0226

[好书推荐] [山田風太郎] 忍法帖系列 おんな牢秘抄

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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:10:36 | 显示全部楼层
     三

 その夜、魔神エホバの声は、ついにきくことができなかった。
 というのは、それよりさきに、お松婆さんがやってきたのである。お松は、むりに夕食をはこんでいったお葉が、なかなかかえってこないので、不審に思って座敷牢をのぞきにきて、なかの様子をのぞきこんで、金切声をはりあげたのである。その声におどろいて、源兵衛もとんできた。
「あっ、わりゃあ、またどうしてここへ?」
 はだかのままひきずり出された狂女は、縛りつけようとする源兵衛をつきたおすと、怪鳥のようなさけびをあげてにげていった。
 大三郎はふてくされて、そッぽをむいていたが、お松婆さんは、そこにぬぎすてられたままのお葉の衣類をみて、またすッとんきょうな声をあげた。
「これは、お葉の――お葉はどこへゆきおった? 旦那さま、お葉をどうなされました?」
「わしが、可愛がってやったのよ」
 と、下唇をなめて、大三郎はうす笑いをうかべた。
「あとは、小四郎にくれてやったさ」
 源兵衛とお松が、あわてて二階にかけのぼってくると、座敷のまんなかにお葉は、夜着をかけられてあおむけに横たわり、枕もとに端然と小四郎が坐っていた。
「若旦那さま、こ、これアいったいどうしたことでござります?」
「これが兄上につかまって、すんでのことでひどい目にあうところだったから、わしが救い出してやったのだ」
「へ、それじゃあ、からだだけはぶじで――」
 と、ふたりは顔を見合わせたが、すぐに源兵衛がかみつくように、
「救い出して、はだかでここへ――とんでもないことをなさる。わたくしどもにどうしてお知らせ下さりませなんだ」
「はだかで気絶している娘をかついでゆけるか。気がつくまで、ここに寝かしておいてやったのだが――どうやら気がついたらしい」
 お葉は、天井をむいたまま、ぼうと夢みるような眼をしていた。
 源兵衛はそのそばにきものをなげて、
「若旦那さま、下で起っていたことを御承知ではなかったのでござりますか」
「いまのおまえのさわぐ声ではじめて知ったよ。どうやら、またお市がきておったらしいな」
 泰然自若としていう。
 この若者のもちまえの態度だから、それ以上怒りもならず、源兵衛とお松は、ただキナくさいような表情をして、
「お葉、若旦那さまのお部屋で、いつまで何をしておる。はやくこれを着て、ひきとるがいい」
 といった。小四郎は気軽に|起《た》って、
「おお、きものがきた。はやく着かえれ」
 と、いいすてて、ぶらぶら階段をおりていった。
 ――さりげなく、この場はごまかしたものの、石寺家の秘密が、いつまでも秘密のままですみそうもないことは、小四郎とお葉自身がいちばんよく知っていた。そして、その危機は意外にはやく、次の日にきた。朝から源兵衛がいないと思っていたら、ひるごろかえってきて、明朝早々本家の|伯《お》|父《じ》御がくることになったということを小四郎は知ったのである。きのうの騒動にあきれかえった源兵衛が、とりあえず本家に相談にいったらしいのだ。
「……こまった」
 と、小四郎は顔色をかえた。
「伯父がきて、さわがれると、なんのはずみであの十字架が見つけ出されないともかぎらぬ」
 あの十字架は、あんな始末でまだ発見されなかったのである。
「兄上が、どこにかくしておるか……持っていることはたしかなのだ」
「わたしが、もういちどさがしてきます」
 と、お葉がいった。声は決然としていたが、眼はウットリとしていた。一夜のあいだに、彼女は、小四郎のためなら、小四郎の命令なら、火のなかへでもよろこんでとびこんでゆく女になっていたのである。
「たわけ」
 と、めずらしく小四郎はこわい顔になって叱った。
「兄とはいえ、あれは魔物に|憑《つ》かれた獣じゃ、そなたを、二度と獣のところへはやれぬ」
 お葉はうつむいた。しかし、胸は歓喜で爆発しそうであった。そうだ、小四郎さまとわたしとは、もはや他人ではない。――
 その夜、彼女はひそかに座敷牢へしのび寄った。ふところに格子の錠の|鍵《かぎ》をもち、帯に、万一のために|出刃庖丁《でばぼうちょう》をはさんでいた。
 むろん、それはあくまでも|防《ぼう》|禦《ぎょ》用のもので、なんとか大三郎をうまくなだめて、あの十字架をさがし出すつもりであった。
 松に三日月のかかった庭をなかばやってきて、ふいに彼女は、うしろにけらけらと妙な笑い声をきいて、息もとまるばかりにびっくりした。
 ふりかえると――いつのまにあらわれたのだろう、ひとりの女が、お葉のまねをした及び腰で、足音しのばせてついてきているのであった。はだかではなかったが、まごうかたなき山屋敷の狂女だ。
 しかし、そのうしろに、もうひとつの丈たかい影があった。月がくらいのでよくわからなかったが、|合《かっ》|羽《ぱ》であろうか、|吊《つり》|鐘《がね》みたいなかたちをした黒衣を羽織って、頭はさきのとがった|頭《ず》|巾《きん》で、すっぽりつつまれていた。
「お葉……お葉……」
 妙な調子で、その怪物がいった。
「聖なる十字架を盗まんとする盗賊に、エホバの|呪《のろ》いあれ。……」
 その手があがり、三日月に、十字のかたちをしたものが|物《もの》|凄《すご》いひかりをはなつと、風をきって、お葉のあたまにふりおろされた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:11:04 | 显示全部楼层
    エホバの|剣《つるぎ》

     一

 お葉は、ズキズキするあたまのいたみにわれにかえった。
「お葉」
 耳もとでささやく男の声がきこえた。
「あ。……」
「これ、声をたてるな」
 しかし彼女は、恐怖のあまりもういちど声をたてようとして、その口を手でふさがれた。
「小四郎だ。たのむから、しずかにしていてくれい」
 お葉は、ひしと相手にしがみついた。――たった一夜で、このお葉の動作だけ、昨夜とちがっていた。
 それ以外は、きのうの夜と、まったくおなじことなのである。彼女は、狭い、|漆《うるし》のような闇のなかに、男に抱かれていた。――しかし、彼女は、ここがどこか、相手がだれか、きかないでももう知っている。
 お葉は、じぶんの動作が昨夜とちがっていることを意識しなかった。それにもうひとつ、きのうの夜とちがっていることもあった。この下の座敷牢で大三郎に襲いかかられたときもこわかったが、今夜は別の――もっと恐ろしい、えたいのしれぬ怪物に襲われたのである。
「小四郎さま、恐ろしい魔物が、このお屋敷に入りこんでいます。……」
「――お市がきていることは知っておる」
「いいえ、そうではないのです。もうひとり。……」
「なに?」
 と、小四郎はきっとなった様子で、
「お葉、いったい、おまえはどうしたのだ? さっきわしが、星を見ようと庭に出てみたら、おまえがたおれている。はっとして、兄の座敷牢の方をのぞきこむと、お市がまたやってきておった。そのとき――」
 小四郎の声はふるえた。
「わしは妙なものをみたのだ。軒下から――まるで|蝙《こう》|蝠《もり》みたいな、しかも羽根をひろげると五尺か六尺もありそうなものが、三日月の空へ舞いあがったようにみえたが――」
「えっ、蝙蝠が?」
「それが、黒いような、また煙みたいに|透《す》きとおってみえるような――まばたきすると、もうそれはみえなくなっていたから、わしは何かの見まちがいかと思った。しかし、われにかえるとおまえはやっぱりたおれているし、これはただごとではないと思って、あわててここへはこびこんで、さっきから下をのぞいておったのだ」
「大きな蝙蝠ですって?――小四郎さま、わたしはさっき庭で、お市といっしょにあらわれた、黒い|合《かっ》|羽《ぱ》をきて、さきのとがった頭巾をつけた化物のようなものに襲いかかられたのです。……」
「それァ、なんだ?」
 小四郎は、思わず大声をたてかけて、あわてて息をひそめた。ふたりはだまりこんだ。濃い春の闇のなかに、抱きあって横たわっているふたりの背に、そんな状態にそぐわない冷たいものが、すうとながれたようであった。
「そういえば、ふしぎなことがある」
 と、小四郎はつぶやいた。
「いま、下にお市がきているのだが、あれがどうして、座敷牢に入ったかだ。錠の鍵を、あれはもってはおらぬはず。――」
 お葉の眼は闇になれて、あの|柩《ひつぎ》みたいに板でかこった天井裏と、そのなかにしいた布団、それから、そこに積んである本や、筒のようなものや、四角な包みがしだいにみえてきた。それは小四郎がひそかに作ったり、手にいれた西洋の学問の器具であるという。――
「それから――お葉、まず下をのぞいてみろ」
 小四郎が何かをとりのけると、小さな穴がぼうとひかった。
 お葉は、それをのぞきこんだ。――そこには、昨夜のとおり、みるも血のたぎるような黒い獣と白い蛇のからみあいがくりひろげられていた。大三郎とお市は、顔と顔をぴったりくっつけたまま、おたがいの指が肉にくいいるほどに抱きあって、上になり下になりしてころがりまわっていた。――と思うと、ふたりは、何をしているのか判断もできないような奇怪な姿勢になった。もし昨夜のことがなかったら、お葉には、それが人間であるとさえわからなかったろう。なぜなら、その光景を照らすひかりは、まるで|靄《もや》のかかっているように暗かったから。――
「くらい。……妙なひかりだろう?」
 と、小四郎がささやいた。座敷牢に、|行《あん》|灯《どん》はともっている。それは見える。それなのに、ふつうの行灯のひかりとはどこかちがう。昨夜にくらべて、へんにきみのわるいうす暗さなのだ。しかも、それが水のようにゆれる。|灯《ほ》|影《かげ》のみならず、もつれあうふたりの男女の姿までが、水底の人魚のようにゆらめくのだ。
 お葉には、しかし、それがじぶんの魂のゆらめきとしか感じられなかった。息があつくなり、みているだけで手足の指がかがまり、全身が湯に浮いているようなきもちになった。――心臓が破れそうに|動《どう》|悸《き》をうつのにたえきれず、顔をそむけると、小四郎の顔が重なった。柩のような狭い空間だけに、ふたりの姿勢こそ、階下の男女におとらず怪奇なものであった。
 顔をはなして、小四郎はまた穴をのぞきこんだが、
「や。……」
 と、ふいに息をもらした。
「お葉、いま、妙な声がきこえはせなんだか?」
 お葉は、ただじぶんの息づかいと、血の鳴る音をきいているばかりであった。
「どう。……」
「――エホバ――エホバと――」
 お葉は、ぎょっとして、穴に眼をあてた。
 座敷牢の陰火にけぶるようなおぼろなひかりのなかに、大三郎の背がみえた。まるで彼ひとりうつ伏せになっているようだが、それから手足が八本もつれ出てみえるので、その下にお市がかくれていることはあきらかであった。その手足が――妙にふるえている。まるで、|痙《けい》|攣《れん》でもしているようだ。そして、モクモクとうごいている大三郎の背の波も、ただごとでない。いや、彼はうごいてはいない。下のお市だけが、もがいているのだ。大三郎の右肩のところに、お市の顔がみえた。眼をかっとむき、口をひらいて|苦《く》|悶《もん》の|形相凄《ぎょうそうすさ》まじい狂女の顔が。――
 大三郎の右の背に、キラリとつきぬけたひかり――刀のきっさきに気がついたのはそのときである。とみるまに、そこから血の花がぱあっと咲きひろがった。
「あっ」
 と、さけんで、眼をはなす。
「どうした?」
 と、小四郎が顔をよせてきたとき――どうしたのか――まるで天井裏がかたむいたように、お葉の腹ばっていた布団がぐぐっと浮きあがった。思わず布団に顔をうちつけたお葉の口は、その布団が妙にぬれているような感じがした。遠く、どこからともなく、「くるす[#「くるす」に傍点]の敵に、エホバの|剣《つるぎ》の|呪《のろ》いあれ。……」という地にしみいるような声をきいたのはそのときだ。お葉の脳がしびれ、吐き気がし、彼女は失神した。

 それから、どれほどのときがたったか。――気がつくと、彼女は、うすぼんやりと行灯のともった部屋にねむっていた。みまわすまでもなく、小四郎の居室である。それでは、きのうの夜のように、二階の床板とたたみをあげて、小四郎がはこび出してくれたものとみえる。しかし、小四郎はいなかった。
 お葉は、その下に何が起ったか。いまそこに何があるのかを、|閃《せん》|光《こう》のように思い出した。恐怖にかられて彼女ははね起き、|這《は》うようにして階段をおりた。
 そのとき、庭の方から二つ三つの影がはしってきた。避けるまもなかった。彼女は、その影のまえにさらされた。ひとりは小四郎だが、あとのふたりは源兵衛とお松だ。
「あっ、お葉。――」
 というお松婆さんのさけびにつづいて、
「わりゃあ、なんでここにいる?」
 かみつくように源兵衛が眼をむいたが、お葉はもとより、小四郎も|吐《と》|胸《むね》をつかれて棒立ちになったままであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:11:21 | 显示全部楼层
     二

 悪夢ではなかった。座敷牢のなかに、石寺大三郎とお市は死んでいた。
 |中間《ちゅうげん》の源兵衛老人が、狂気のごとく本家へはしっていったあと、三人はしばらくそのふたつの|屍《し》|骸《がい》のそばに坐っていたが、あまりの恐ろしさに、だんだんといざり出ていって、格子の外にならんでしまった。
 屍骸の様子は、お葉がみたときとだいぶちがっていた。お葉が気をうしなったあと、二階からかけおりた小四郎がいちど座敷牢にとびこんで兄を抱きあげたということだし、源兵衛とお松も、半狂乱にしがみついたからだ。
 大三郎とお市は、血の海のなかにならんであおむけに横たえられていた。大三郎は左胸部に、お市は右胸部に、それぞれ背までとおる刺し傷があった。その兇器は、いまたたみのうえに、黒血もかわいて、ころがされていた。
「あれが……エホバの剣……?」
 お葉は、にぶくなったあたまでかんがえた。実際、あたまはまだ悪い酒にでも酔ったようにいたみ、しびれていた。
 あの刀が、エホバの剣なのだろうか。しかし、それは|柄《つか》も|鍔《つば》も、ふつうの日本の刀にすぎなかった。――それが、|忽《こつ》|然《ぜん》とあらわれて、下からお市と大三郎さまをふたりいちどに|串《くし》|刺《ざ》しにしてしまったのである。
「奇怪だ。……魔神の呪いが石寺家にとり|憑《つ》いたとしか思われぬ。……」
 と、小四郎は、腕ぐみをして、いくどもうめいた。
「あの刀がどこから出てきたか。どうしてふたりを串刺しにしてしまったのか?」
 泣きくたびれていたお松婆さんは、|梟《ふくろう》みたいな眼でお葉をみて、
「お葉、おまえはここに何をしにきておったのじゃ?」
 と、きいた。
 これもいくどもきかれた言葉である。が、お葉は、歯をくいしばって返事をしなかった。最初小四郎に、「お葉、あのことはだまっていてくれよ」とささやかれたからだ。あのこととはふたりが天井裏にひそんでいたことか、十字架やあの魔人やエホバの剣のことかわからなかったけれど、いずれにせよ、それは小四郎の大事であり、石寺家の大秘事に相違なかった。彼女は、小四郎を信じていた。じぶんはあのとき小四郎さまと天井裏にいたのだ。そのことは、じぶんが小四郎さまが下手人であり得るわけはないと知っているのと同様に、小四郎さまも御存じだ。
 東の空が、やや|蒼《あお》|味《み》がかったころ――本家の伯父が、騎馬でかけつけてきた。別当は外に待たせ、彼だけ源兵衛にみちびかれて、眼をひからせて座に入ってきた。もう七十にちかいが、石寺|左京《さきょう》といえば、|曾《かつ》て目付として在職中は、その|峻厳《しゅんげん》を以て旗本八万騎をふるえあがらせた老人であった。
「何にせよ」
 と、あるきながら、源兵衛を|叱《しか》りつけるように、
「座敷牢などに入れるまえに、腹切らせるべきであったわ。|所《しょ》|詮《せん》、ろくな死にざまはすまいとみておったのを、石寺の名にひかれていままで見のがしておったのが、このような不始末のもとじゃ」
 と、口早にさけんでいる語気でも、その人柄のきびしさは知れた。
 小四郎はおじぎをして、事件発見のいきさつを語った。むろん、天井裏からふたりの死を目撃していたなどとは言わない。ただ、異様なさけびをきいて二階からかけおりてみたら、兄とこの女が、ここで死んでいたと報告をしたのである。
 老人は屍骸の枕もとに|仁《に》|王《おう》立ちになって見おろしていたが、
「この刀は、だれのものか」
 と、きいた。
「当家には見おぼえのないものでございます。……刀は女の手のそばにおちておりました。思うに、この狂女が刀をもって侵入し、兄を刺し殺して、じぶんも死んだものではございますまいか」
 左京の眼が、|爛《らん》とひかった。
「小四郎、わしをたばかろうと思うなよ」
「は?」
「女の傷を見るがよい。女は背から胸へ刺しつらぬかれておるのではないか。おのれのもつ刀で、背から刺せるものか。このたわけめ」
 小四郎はうっとつまった。果然、この目付であった伯父の眼は、容易にくらませるものではなかったのだ。
「このざまはなんじゃ。両人とも、まるはだかにちかいではないか。こいつら推量するに、あられもない姿で抱きあっておったな。そこを一太刀、上から串刺しになったとみえる。……」
「上から?」
 お葉は、思わずつぶやいた。そんなことは決してありませぬ! とさけぼうとして、あわてて口をつぐんだ。左京がじろっとお葉の顔をみたとき、いままで縁側の方をうろうろしている源兵衛が、
「やあ、床下に妙なあとがある」
 と、わめいた。
「なに床下に?」
「何やらものをひきずって出たような土のあとがござります。お待ち下さいまし。ただいま|提灯《ちょうちん》をもって参ります」
 と、源兵衛はかけ去った。左京はいちど縁側に出て、その下をのぞきこんでいたが、すぐにもどってきて、
「床下から刺したというのなら、わからぬ傷ではない。しかし、床下から刺した刀がここにあるとは、どういうわけじゃ。小四郎、そちの申し分には不審がある。いつわりを申すに|於《おい》ては、|甥《おい》とは申せ、わしにも存分があるぞ」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:11:38 | 显示全部楼层
     三

 小四郎は、がばと両手をついて、
「伯父上」
 と、いった。しばらくそのまま、だまっていたが、ふりかえって、「お松、しばらくあっちへいっておれ。源兵衛にもくるなと申せ」と命じて去らせてから、例の十字架のことと、ときどききこえたエホバの呪い|云《うん》|々《ぬん》といううなり声、またお葉が襲われたという黒衣の魔人のことをはじめてうちあけた。
 あの座敷牢の天井裏の密室の一件をのぞいては、お葉の知るかぎり、それは真実であった。――しかし、石寺左京のかたい|頬《ほお》は、ピクリともうごかなかった。
「何をいうかと思えば、ばかなことを」
 と、老人は吐きすてるようにいったのである。
「おまえは、まえから少し変った奴じゃと思っていたが、左様な他愛もない怪異を申したてて、それで他の人間も信じると思っておるのか」
「伯父上――けれど、それはまことでございます」
「その怪物が、何を目的でかようなむざんなまねをしたというのか」
「――おそらく――そやつは狂女お市を|囮《おとり》にして、兄上を邪宗門にひきいれようとしたのではありませぬか。ところが兄も女も、ただ肉欲に狂うのみで、そやつの思うままにならぬのに|業《ごう》をにやして。ついに今夜――」
「左様な化物がどこに住んでおると申すのだ」
「山屋敷に。――」
「たわけ、いま山屋敷に、|伴《ば》|天《て》|連《れん》はひとりもおらぬ。最後の伴天連ジョバンニ・シドウチとか申す奴が死んでからも、十何年かを経ておる。ほかに|切《きり》|支《し》|丹《たん》が五人や十人あそこの牢につながれておろうと、それを山屋敷の鉄の壁が、ゆめおろそかに出すわけはない。――」
 小四郎は沈黙した。
「小四郎」
「はい」
「子供だましのことをいってのがれようとすな。ありていに申せ」
「ありていに申しあげたつもりでございます」
「ふむ。この家が欲しかったとは申さぬのか?」
 小四郎はじいっと伯父の顔をみていたが、ふいにさびしい笑いが片頬をかすめると、いきなりふりむいて、そばのお葉をぴったりと抱きしめた。それどころか、この鉄でできたようなこわい伯父御のまえで、熱烈にお葉の口まで吸ったのである。
「な、なにをいたす」
 と、さすがの左京が|狼《ろう》|狽《ばい》した。
「伯父上、これは拙者の女房にするつもりの女です」
「なんじゃと?」
「いま、この大事をうちあけるのに、源兵衛お松を遠ざけ、この娘のみをここにのこしたことからも、それを信じて下されい」
「…………」
「そんな野心をもつ拙者なら、どうしてかような下女とちぎりましょうや。わたしはむしろ、ちかいうちにこの屋敷を出て、この娘と|市《し》|井《せい》のうちへかくれようと思っていたくらいです」
「…………」
「その決心がつきかねたのは、ただ兄上のお身の上が気づかわれて、去るにも去れぬ心地であったればこそ。――もしわたしがこの家をのっとりたければ、兄上が切支丹屋敷の狂女を屋敷にひきこみ、十字架などをもてあそんでいたことをお公儀に訴えれば、それで足りたのではございませんか? そのことを秘しかくそうとして、わたしがどれだけ悩んだか。……」
 無念さのあまり、声がわなないた。
「さ、左様なことが公儀に知れれば、おまえがあとをつぐどころではない。この石寺家は断絶じゃ……」
 と、うめいて、さすがの左京の顔色が動揺した。まさに、小四郎のいうとおりだったからである。
 お葉は、泣いていた。火のようなものが全身をあれ狂い、その感動と同時に、われをわすれた声がほとばしり出ていた。
「大旦那さま。……御主人をあやめたのは、このお葉でございます」
「何をいう」
 と、小四郎の方がうろたえて、その口をおさえようとしたが、彼女は泣きさけんだ。
「わたしは……まえから、御主人さまのお手がついておりました。そのことは、源兵衛さんやお松さんにたしかめて下さればうなずくにきまっています。それなのに御主人さまは、このようなきちがい女をもひき入れて、わたしのしのんできた眼のまえで、|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な姿をおみせあそばしました。わたしは、つい、かっとして……かような大変なことをしでかしてしまいました。どうぞわたしを、御主人をあやめた大罪人として、お上につき出して下さいまし!」
「お葉! でたらめをいってはいけない」
 と、小四郎がお葉の肩をつかんだが、お葉は涙の眼で微笑したままであった。
「よし」
 と、左京はうなずいた。
「事は左様にきまった!」
「伯父上」
「小四郎、もうきかぬ。大三郎がたとえ心中いたしたのであれ、何者かに殺されたのであれ、このまま届け出ては、石寺家のおとりつぶしは必至じゃ。そなた、この家のあとをつげ、大三郎は素行を恥じて自裁したように届けるのじゃ。……ただその山屋敷の女の|屍《し》|骸《がい》だけは、|如何《いかん》ともしがたい。だれか、下手人が必要じゃ。庭に入ってきたところを、この下女が刺し殺したとでも申したてておけ」
「なりませぬ。それは――」
「いいや、きかぬ、きかぬぞ。小四郎、このことが公けになれば、この家のみか、本家の方もぶじにはすまぬのだ。石寺一族のため、もはや、そちはだまっておれ!」
 |老《ろう》|獪《かい》とも鉄血の面ともみえる無表情に、あらゆる感情はおろか、ひとりの下女の命のごとき、虫同然に圧殺してみじろぎもしない恐るべき「封建」の|権《ごん》|化《げ》の迫力があった。
 あきれたようにそれを見あげていた小四郎が、急にはげしく首をふった。
「伯父上、それではこの女をしばらく下手人としてさし出しましょう。さりながら、拙者がこの家のあとをつぐことだけは、まっぴら御免をこうむります」
「そちがあとをつがいで、だれがつぐか」
「伯父上の御次男なり、御三男なり――」
「なに?」
「拙者は宮仕えには不向きでございます。浪人が望みです」
 老人は、しばらく小四郎のかがやく眼をにらみつけていたが、
「勝手にさらせ!」
 と、さけんだ。小四郎はお葉をふりむいて、ひくい声で、しかし力づよくいった。
「お葉、しばらく目をつむって、石寺家の|犠《いけ》|牲《にえ》になっていてくれい。わしが決して捨ててはおかぬぞ。この怪事のうしろには、かならず何かのからくりがある。そのからくりは、あの山屋敷にあるとわしは見るのだ。わしは自由な浪人になってそれをさぐり出し、きっとそなたを救い出してやるほどに。……望みを失わいで、わしの助けを待っておれよ。……」
 お葉は、石寺家の犠牲だなどといわれたくはなかった。小四郎さまのためだといいたかった。
「小四郎さま、どうぞおあとをおつぎになって。……」
 ――源兵衛がやってきて、縁の下に入ってみたが、なるほどその床の下に何者かが出入りしたらしいあとはあったが、|曲《くせ》|者《もの》の影などはむろん、ほかに何の遺留品もなかった。石寺左京は、そのことに冷静というより、むしろにがい顔をしていた。この「家」だけしかない本家の老人にとって、|極《ごく》|道《どう》|者《もの》の分家の甥が死んだことは、それがどんな死にざまであろうと、内密に事がおさまるうえは、かえってありがたいことだったのである。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:11:59 | 显示全部楼层
    三日のうちに

     一

 ――女囚お葉の話は終った。
 これが、座敷牢の主人と密通し、この|無《ぶ》|頼《らい》な主人が狂女をひきいれて痴態をみせつけるのにかっとなり、その狂女を刺し殺したという罪で、お奉行さまから、やがて死刑を宣告される女の物語であった。
「そう」
 と、姫君お竜はうなずいて、
「けれど、お葉さん、それで死罪とは? あなたは御主人さまを|殺《あや》めたことにはなっていないでしょう? そのきちがい女を殺しただけの罪なのでしょう? その女は、気がちがっていて可哀そうだけれど、でも夜中旗本の屋敷にしのびこんでそんなことをしていたのでは、たとえ殺されてもしかたがないと、お奉行さまはおかんがえにならなかったのかしら?」
「それが――表むきは、旦那さまは御切腹ということになってはおりますけれど、いつかお調べのとき、同心の旦那が、主人を殺したふらち者め――と口ばしりなさったことからみて、内々は旦那さまもわたしが殺したものとお奉行所の方ではみていらっしゃるにちがいないのです。……でも、どう思われようと、わたしはかまいません。石寺家さえ、ぶじにのこってくれるなら。……」
「石寺家は、ぶじにのこったの?」
「ええ。御本家の御三男さまが養子としてお入りになったとかきいております。わたしは、小四郎さまがあとをおつぎになるものとばかりかんがえておりましたけれど。……」
「その小四郎さんは?」
「わたしが奉行所へひかれてから、すぐにおうちを出られて、そのまま行方もしれずにおなりになったとかいいます。ほんとうに欲のないお方ですし、本家の大旦那さまにあんなお疑いをかけられては、そのまま居すわるようなお方じゃありません。……いまごろは、どこか遠いお国で、しずかに星でもながめていらっしゃるでしょう」
「でも、そのひとは、きっとあなたを救いにくるといったのでしょう。まだなんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もないの?」
「ええ」
 ――真夜中のおんな牢のなかに、くびもおれるほどうなだれたお葉のひざに、滴々と涙がおちている。
「あのお方だけがわたしに罪のないことを御存じです。その|証《あか》しをたてるには、とどのつまり石寺家の秘密――切支丹とかかわりがあったということを申したてずにはすみますまい。それは、口がさけてもできないことですわ。――お竜さん、わたしはあなただけに、こんなことを打ちあけたのです。打ちあけただけで、せいせいしました。わたしは本望なんです。お竜さん、どうぞこのことは、あなたのお耳だけにとどめておいて下さいね。……」
「切支丹の秘密。――」
 と、お竜はつぶやいた。
「邪宗門の魔法。――」
 と、もういちどくりかえして、
「わたしには、わからない。座敷牢のなかできこえたエホバ、エホバとやらいうきみわるい声、あなたを気絶させた黒い|蝙《こう》|蝠《もり》みたいな男――なんのことか、わたしがわからないばかりじゃなく、たとえお奉行さまがきかれたところで、あのお奉行さまなら、何をたわけたことを、と笑いすてられるにきまっているわ。……ただ、大三郎さんとお市の殺されたのは、やっぱり床下から刺されたものと思うけれど、……」
「でも、お竜さん、たたみにも床板にも、刀のあとなどなかったのです」
「床板とたたみの合わせ目から突きあげたら?」
「そこにうまく旦那さまとお市さんが重なっているものと、床下からわかるでしょうか?」
「…………」
「お竜さん、あなたが信じてくれないのはかなしいけれど、ほんとうをいうとわたしでさえ何が何だかわからないのです。あれは切支丹の魔法にちがいないわ。あの光景を小四郎さまといっしょに天井裏からのぞいていたときから、この世のものではないものを見おろしているようなきもちでした。あの奇妙な暗いひかり、水の底みたいにのびちぢみしてみえたふたりの姿、そしてふたりが殺されたあと、わたしの耳にきこえた、くるすの敵に、エホバの剣の呪いあれ、というきみのわるい声。それから、天井全体をつきあげてわたしの気を失わせてしまった恐ろしい力。――」
「…………」
「お竜さん、そして、あとでかんがえたら、もっとふしぎなことがあるのです」
「いまきいたことより、もっとふしぎなことが?」
「ええ。――旦那さまとお市の殺されたときの姿は、この牢に入ってからなんども夢にみました。あたまに|灼《や》きついて、夢の中まで吐き気のするような恐ろしい姿です。背なかに刀のさきがつきぬけて、もがいている旦那さま。――その旦那さまのむき出しになった左腕[#「左腕」に傍点]に、あの|刺《いれ》|青《ずみ》があったのです。……」
「刺青のことは、きいたわ」
「いいえ、お竜さん、わたしのいったのは――旦那さまの右腕[#「右腕」に傍点]に刺青があるといったのでした。……」
「えっ」
 お竜は、思わずたかいさけび声をたてた。いままでのうすきみわるい話をきいたときより、もっとぞっとさせるものが、たしかに背すじをはしった。
「お葉さん、それほんとなの?」
「こんな|嘘《うそ》ついて何になります。あとでそのことに気がついて、わたしはこの牢のなかでも、まだ|切《きり》|支《し》|丹《たん》|伴《ば》|天《て》|連《れん》の魔法にかけられているのではないかと思ったくらいです」
「大三郎の腕には、両方とも刺青があったんじゃないの?」
「いいえ、右腕だけでした。げんに屍骸の右腕だけに、あの刺青がありました。……」
 お竜は沈黙した。まったくこれは判断をこえる奇怪事だ。
 闇のなかで、苦しげなうなり声がながれてきた。お竜はその方へ顔をむけた。声は牢名主のお紺だ。
「お竜……お竜」
「お名主さん、またいたみますか?」
「うんにゃ、こんないたみなどはなんでもない。それより、お竜、三日のうちに孫の敵を討ってくれるといったなあ」
 と、うなりながらいった。
「お名主さん、まだそんなことをかんがえてるの?」
「おや、おめえはかんがえていねえのか。あれは口から出まかせか」
「いいえ、決して!」
「それよ。おれはおめえを信じている。けれど、この小伝馬町の牢の中にいるおめえが、どうして何者ともしれねえ孫の敵を討ってくれるのか、おれはさっきからいくらかんがえてもわからねえ。――どうして討つ?」
「…………」
 ひとりの老婆は|瀕《ひん》|死《し》の痛みにうめきつつ彼女の背を|鞭《むち》うち、ひとりの娘はみずから無実の罪に身をなげこんで、彼女にくつわをはめようとする。――お竜は、闇のおんな牢にじっと立ちすくんだ。

 夜明け前。――女囚たちはまたあの美しい口笛をきいた。牢格子の外に、例の八丁堀の同心がやってきた。
「武州無宿お竜! 早々に|穿《せん》|鑿《さく》|所《じょ》に|罷《まか》り出ませい!」
 お竜はたちあがった。彼女はなお思案にくれるように、うなだれていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:12:19 | 显示全部楼层
    二

 牢屋敷の穿鑿所は、西大牢のまむかいに白壁の背をみせて、反対側に入口がある。白壁とはいうものの、灰色にさびて、しみついたまだら模様のぶきみさは、風雨のためというより、内部から血がにじみ出してきたようにみえる。
 巨摩主水介がお竜をつれて、そのまえの|埋門《うずみもん》をくぐって入ると、なかはせまい砂利の庭となっていて、穿鑿所の土戸はそのむこうにみえた。土蔵なのである。この拷問蔵と|白《しら》|州《す》の庭をめぐって、忍び返しをうちつけた黒い塀がとりかこんでいた。
 土蔵の土戸をあけて、ふたりは中に入った。たかい明り窓から|幽《かす》かな朝のひかりがふりそそいで、天井からつりさがった|縄《なわ》や、壁にかけられた鞭や、石抱きの石や、|尖《とが》り木馬などが、おぼろおぼろと浮かびあがってみえる。そのいずれもが黒血にひかり、閉めきった土の壁のなかに、むっと血なまぐさい|匂《にお》いが満ちていた。
 お竜は、重ねられた石のうえに腰をおろした。
「六人目の女の話をきいたわ」
 と、主水介を見た。この恐ろしい場所にひきたてられたようでない――さっき、牢を出たときとは、別人のような明るい|瞳《ひとみ》であった。この陰惨な背景に、それはふたつの日光のようにみえた。
 むしろ|悄然《しょうぜん》として、|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうな顔は、同心の巨摩主水介の方であった。
「切支丹坂の石寺家の下女でござるか」
 といって、この女囚のまえにひざをついた。
「そう、お葉という女。――おまえさん、あのときに死んだ石寺大三郎の腕に、刺青があったのをお知りかえ?」
「承っております。たしか右腕に、無作法御免、とあったとか。侍にはめずらしいこととして記憶しております」
「やはり右腕か」
「何か、また妙なことを気づかれましたか」
「そんな気がするが――いいえ、あの娘をいくらおまえさんが責めても、お役人にはほんとうのことは言いやしない。それで、あの事件だけれど、わたしはもうひとりべつの人間の口からききたいことがあるの。おまえさん、あの石寺大三郎の弟の小四郎という男のいどころをお知りでないか」
「はて、左様な男がおりましたか」
「そんなまのぬけたお調べで、女ひとりを死罪にしようってんだから、つかまった方はたすからないね。――その小四郎とやらにいそいで|逢《あ》いたいのだけれど、いまきいたら、その男はあの事件後石寺家を出て行方もわからないという。――」
「いや、たってその男が必要とあらば、江戸じゅう|虱《しらみ》つぶしに探って――」
「行方もしらぬ男をさがすのに、まえに乾坤堂とか弥五郎とかをつかまえるのには、あいつらを誘い出すうまい|罠《わな》があった。しかし、こんどはそんな罠はないし、罠をかけても、その男はかからないかもしれない。それにもうひとつ、べつにわたしは大変いそがしいことがあるの。三日のうちに、わたしを殺した男[#「わたしを殺した男」に傍点]を見つけ出さなけア、お名主さんに約束がはたせない。ぐずぐずしてはいられないのさ」
 といって、お竜はここで奇妙な笑顔で主水介をのぞきこんだ。
「ところで、おまえさん、今度の事件をふくめて、いままでの六つの事件に、どれも似たおかしなことが、一つだけあるのに気がつかなかったかえ?」
「なに」
 主水介は、|愕《がく》|然《ぜん》としていた。
「いままでの六つの事件に共通なこと――」
 と、お竜の顔を見つめたまま、思い出すように、
「お玉の事件――お路の事件――お関の事件――お半の事件――おせんの事件――お葉の事件――下手人がみんな女だということ、いや、女たちが下手人にしたてられたということでござるか」
「ばかなことをおいいでない。おんな牢を|要《かなめ》にした事件だもの、下手人と女に関係があるのは、はじめからわかってらあ」
 と、笑われても、主水介は一語もない。しかしお竜は急に笑顔を消して、|羞恥《しゅうち》のくれないを頬にのぼした。
「いいえ、ひとのことは笑えない。このわたしだって、たったいま、この穿鑿所へくる途中にそのことに気がついて、あっと思ったのだから」
「それは――?」
「それは、女たちでも、女たちをあやつった男たちでもない。殺された男たちのことだけれど、殺された蓮蔵、十平次、玄妙法印、秀之助、対島屋門兵衛、石寺大三郎の六人に、みんな刺青があったということさ」
「お。……」
 と、主水介も瞳をつかれたような表情になったが、すぐにくびをふって、
「いや、それは拙者も存じておる。さりながら、刺青などをするのは世の無頼な男どものありふれた習い、べつにめずらしいこととも思えぬが――」
「その刺青が、雲でも花でも|水《すい》|滸《こ》|伝《でん》でもなく、そろいもそろって文字ばかりであったのは、めずらしいこととは思わないかねえ?」
「文字。――」
「そう、蓮蔵の左腕には『蓮』の字の刺青」
「…………」
「十平次の背中には、『色指南』の刺青」
「…………」
「玄妙法印のひたいには、『玄妙』という字の刺青」
「…………」
「秀之助の左腕には、『法』の字の刺青」
「…………」
「対島屋門兵衛の胸には、『読経無用』の刺青」
「…………」
「石寺大三郎の右腕には、『無作法御免』の刺青」
「蓮、色指南、玄妙、法、読経無用、無作法御免」
「そのなかで、きいたようなおぼえのある文字をさがし出してごらん」
 お竜は白い指を折った。
「蓮――南――妙――法――経――無」
「南無妙法蓮華経!」
 と、巨摩主水介はさけんでたちあがっていた。
 お竜はしずかにかぶりをふって、
「いいえ、華、がない」
「…………」
「華の文字を彫った男が、もうひとりこの世にいる。いや、それもまた、わたしたちの知らないところで殺されたか、それとも――」
 と、主水介を見あげて、
「蓑屋長兵衛、祖父江主膳、乾坤堂、弥五郎、南条外記たちは、なぜあんな人殺しをしたか、白状したかえ?」
「いや、それぞれ、|嫉《しっ》|妬《と》やら、恨みやら、欲やら、もっともらしいことを申したて、それに不審はあるが、きゃつら見かけによらぬ強情者ばかりで、いかに責めても白状はいたしませぬ。それに――いままでとり調べたところによっても、またみたところでも、きゃつらのあいだに何らかのつながりがある風には感じられませぬが。――」
「そう」
 と、お竜はうなずいて、
「もしかしたら、あいつらは、おたがいに何も知らないのかもしれない。――あいつらが女をあやつったように、もうひとり、あいつらをあやつった影があるのかもしれない。それは、あいつらの口を封じるほどの恐ろしい奴か、それともあいつらに途方もない望みをもたせるほどの|大《だい》それた奴にちがいない。……」
「何と? もうひとり、べつにきゃつらをうごかした影があると?」
「|若《も》しかしたら――というのさ。ただ、わたしにそんな気を起させたのは、あの姫君お竜が殺されたからなの。あの女は、姫君お竜があのいくつかの事件の探索に一肌ぬいでいるということを知って、あわてただれかに殺されたような気がするの。そのかんがえから、まだべつの影の男がほかにいるのじゃあないか、という|智《ち》|慧《え》が出て、それからひょいと、殺された男たちに刺青が共通している――と気がついたのさ」
「別の男、それは何者でござろう?」
「それはわたしにもわからない。ただね、もうひとつ、殺された男たちに共通した|或《あ》ることがあるわ。それはねえ、興行師の蓮蔵は、もとは紀州からやってきた男だった。玄妙法印の一行は、熊野の山伏のなれの果て、秀之助も、大坂をほっつきあるいていたことがあったようだし、対島屋門兵衛は大坂の材木問屋、そして石寺大三郎もまた、まえに大坂の城の番士をしていたことがある。十平次だけはどこからきた男かきかなかったけれど、渡り|中間《ちゅうげん》という商売から推して、そっちをながれあるかなかったとはいわれない。――まず、みんな上方――紀州――大坂あたりに関係があった連中ということが奇妙だとは思わないかえ?」
 主水介は、思わずうめいた。ごくりとのどを鳴らして、
「それで?」
「だから、ひょっとしたら、たった一語で|牡《か》|蠣《き》みたいに強情なあいつらを――あいつらの一人でも――とびあがらせて泥を吐かせるようなききめのある言葉があるかもしれない。人の名前でねえ」
「人の名」
「ほら、紀州、ときいて、おまえさん、胸にドキリとくるものはないかえ。ないはずはない。紀州、それこそ、お――お奉行さまが、いまあせりにあせり、血まなこになって、人をやって調べさせているところ――一方、そのお奉行さまをあざわらうように、その上方から江戸へのりこんで、いま品川|常楽院《じょうらくいん》で金ピカ御紋をひからせて、江戸ッ子のきもをでんぐりかえらせている一行がある。その一行と、これらの事件と、なにかの関係はなかろうか?」
 巨摩主水介は両こぶしをにぎりしめ、顔は|蒼《そう》|白《はく》に変じていた。
「あたったら、おなぐさみ」
 お竜は笑った。
「品川に、眼をつけてみな。男の手柄のたてどころだ。うまくいったら――お奉行さまがお姫さまをおまえのお嫁にくれるかもしれないよ。――」
 すでに、猛然と四、五歩はしりかけていた主水介はふりかえった。お竜はうすあかい顔をして、しかし生き生きとした眼をかがやかせて彼を見送っていた。
「あなたは、これからどうなさる?」
 と、主水介はいった。お竜はわれにかえったように、
「そうだ、その常楽院から出る人、|駕《か》|籠《ご》にいちいち眼をつけて、そのゆき場所をつきとめておくれ。そのすじをたどると、そこにわたしの探し人がいるかもしれない」
「探し人とは」
「石寺小四郎さ。その男をしらべて、六番めの女、お葉を救わなくっちゃあ、あたしの眼がひらかない」
「あなたの眼」
「竜の瞳がひらかない――この捕物の絵巻がしあがらないってことさ」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:12:37 | 显示全部楼层
     三

 雑木林に夕月がかかり、青い麦畑に|靄《もや》がうすく|這《は》っていた。一望の野と林に、点々とみえるものは、寺か、農家の|藁《わら》|葺《ぶき》屋根だけの|巣《す》|鴨《がも》村である。
  その一軒の――おそらく豪農であろう――白い壁の離れなどもすぐちかくにみえる裏木戸をあけて、ふたつの影があらわれた。ひとり、黒い|頭《ず》|巾《きん》で面部をつつんだ方が、林のかげにつないであった馬の方へあるきながら、一帯を見まわして、
「いや、江戸もはずれ――ここまでひそめば、探し出すのに苦労をかけたわけじゃ」
 と、苦笑の声をもらした。もう一方はうやうやしく一礼して、
「それならば|挨《あい》|拶《さつ》にまかり出た方がようござったな。何せ、事が成るまで姿を見せるなとの仰せでございましたので、このようなところで、一日千秋の思いで待っておりました」
「うむ、しかしもう安心じゃ。いよいよ明朝晴れの登城というだんどりと相成った。――いま話したように、いささか|胆《きも》をひやしたような事もあったが、お竜とやらいう奉行所の犬も|斬《き》ってすてたゆえ、手がかりがぷっつりきれて、|越《えち》|前《ぜん》も断念したとみえる。いままで当方になんの沙汰もないところをみると、もはや事は成ったも同然じゃ。そなたの大名暮しも目前に迫ったと申してもよいな。はははは」
 と、笑った。これは、本所の回向院の|蓮《はす》|池《いけ》で、姫君お竜を斬った|謎《なぞ》の深編笠のかげからきこえたのとおなじ声であった。
 馬の|鞍《くら》に手をかけると、もういちどふりかえって、
「とはいえ、用心にしくはない。わしがよいというまでかまえてここからあらわれてはならぬぞ。よいか」
「承知仕ってござる」
 と、相手がふたたびお辞儀をするあいだに、頭巾の武士はひらりと馬にとびのった。
「おお、明夜の月は千代田城でみるか。――」
 快笑すると、ピシリと|鞭《むち》をくれ、その騎馬姿はしだいに早く薄月夜の野路を江戸の方へかけ去った。
 それから数時間ののちである。離れ屋の戸をあわただしくたたくものがあった。
「小四郎さま、小四郎さま」
 この家の主人、老農夫の声だ。呼びたてられて戸をあけてのぞいた顔――石寺小四郎の顔は|手燭《てしょく》とともに不安にゆらめいて、
「なんじゃ」
「山屋敷より、お迎えの方々が参られました」
「なにっ、山屋敷?」
 そう話しているあいだに、もう庭にぞろぞろと十人ちかい人影があらわれて、空駕籠のまわりをとりかこんでいるのは、ぶっさき羽織に黒うるしの|陣《じん》|笠《がさ》をつけた武士たちである。
「やあ、石寺小四郎どの、おひさしいな」
 と、呼びかけられて、ぎょっと顔をむけると、切支丹坂に住んでいたころ、よく西洋の話などかわした若い役人である。へらへらした、なつかしそうな笑顔で、
「いや、貴公がこんなところに住んでおられると知るまでに、えらい骨を折ったぞ」
「――どうして、知られた?」
「どうして知ったかと――いや、それどころでない。すぐこのまま小日向にきてもらいたい。貴公の智慧をかりなくては、どうにもとけぬふしぎなことが|出来《しゅったい》した」
「山屋敷に、何か?」
「数日まえ――ひとり切支丹の女をとらえたのじゃが、それが何とも判断をこえる奇怪な魔法を行うのじゃよ」


    |小《こ》|筐《ばこ》の中の修道尼

     一

 ついこの夕刻、「――わしがよいというまで、ここからあらわれてはならぬぞ。よいか――」と、念をおされたばかりなのである。
 その潜伏場所から外に出る。――しかし、石寺小四郎は、そのことにそれほどの不安はおぼえなかった。もし乱世ならばたしかに一世に風雲を呼ぶ大軍師たるべき人物だと、彼が圧倒的に心服している「あの人」は、みずからの手で奉行所からの探索の糸をぷっつり切ったと断言したではないか。そう思いかえすより何より――最初、戸をあわただしくたたかれたときの衝撃が、いいようもなく大きかっただけに、それが奉行所からではなく、山屋敷からの迎えだと知ったときの|安《あん》|堵《ど》感は、|膝《ひざ》もがくがくするほどであった。
 山屋敷ならば、彼もなんどか見学にいったことがある。そこに勤務する役人のうち、若い数人とは意気投合といってさしつかえないほどの仲だ。それは|或《あ》る種の「学問」を通じての親しさであった。というのは、山屋敷のなかには、伴天連から没収した十字架や|数《じゅ》|珠《ず》や聖母子像などの聖具にまじって、さまざまの南蛮渡りの器械や書物や薬品などを入れた官庫があって、そこに出入りする役人のなかには、それらの神秘な知識に、いつしか酔ったものも少なくはなかった。実際は、酔ったのではなく、|醒《さ》めたのだ。医学、算法、暦法、天文学、博物学――など、はるかに進んだ西洋の知識が、それにちかづいたものを、魅惑せずにいるわけはない。むろん、世間に知られてはならぬことだ。しかし山屋敷の内部では、それほど人の耳をはばかるほどのことでもなかった。切支丹の禁制は不変だが、西洋の学問の扉をひらくことに|於《おい》て、実用的な|吉《よし》|宗《むね》はその栄誉をになう最初の将軍だったからだ。|蘭《らん》|学《がく》の|曙《あけぼの》がひそやかながら暗い江戸の空におとずれようとしている時代なのであった。
 石寺小四郎は、そういう器械や書物をみる機会はなかったので、それを見た役人をとおしての知識であったが、しかしそれを解くあたまにかけては、役人たちにひそかに|畏《い》|敬《けい》させるに足る若者であった。げんに、いま彼を呼びにきた役人などもそのひとりであり、それに「山屋敷に奇怪な魔法をつかう|切《きり》|支《し》|丹《たん》の女があらわれた。是非とも貴公の智慧をかりたい」といわれても、そんなことはいままでに幾十回かあったので、小四郎が疑心をいだくどころか、ふと得意な笑顔になったのも当然だ。
 だいいち、うむも否やもいわせない急ぎようなのである。
「では、ちょっと用意をする」
 と、彼がいちど離れにひきかえして衣服をあらため、念のため或るものをふところに入れて出るや否や、そのまま迎えの駕籠に投げこまれた。
「おいっ」
 夜風をきる駕籠のなかから、波のようにゆられつつ、
「切支丹の尼僧と申されたな? 信者といわないで、尼僧とはどういう意味だ? 日本の女か?」
 返事はきこえたようでもあり、きこえなかったようでもある。途中に馬が待たせてあったのに侍たちがとびのったので、飛ぶ駕籠のまわりは、ただ人馬のとどろな音ばかりだ。
「それにしても、わしが巣鴨村にいると、なぜわかったのかっ」
 依然として応答はなく、小四郎はとうとう問いをあきらめた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:13:05 | 显示全部楼层
     二

 ――ここを切支丹の|牢《ろう》屋敷ときめてから、すでに八十余年の星霜がたつ。
 その四千余坪の屋敷をめぐる外壁が、一丈二尺の石垣、さらに一丈二尺の土塀と忍び返しから成っていることはまえにかいたが、その門から入ってゆくと、屋敷のなかに、またおなじようなもの恐ろしげな土塀にかこまれた一|劃《かく》があって、牢獄と官庫とをはめこんでいた。
 役人が何かさけぶと、番人があらわれて、|錆《さ》びついた内門の錠をあける。
「石寺、まず入れ」
 と、役人がいった。こんな陰惨なところに勤めているくせに、いたって平凡な、むしろ陽気な男なのに、うしろに従うふたりの番人のもつ手燭の炎にゆらめくその顔は、別人のように|妖《よう》|怪《かい》じみてみえた。
 小四郎の背を、すうと冷たいものがながれた。予感ではない――彼にしても、この内門の中には、はじめて入るのである。
「このお蔵の向うが、牢獄になる」
 と、役人が、すぐまえにならんだふたつの土蔵を見あげていった。
「そこに、その切支丹の尼僧とやらがおるのでござるか」
「いや、事情があって、このお蔵の中に入れてある」
「事情とは?」
「牢のなかで祈りをささげる声が、ほかの切支丹囚をとらえて、ころばせぬからだ」
「ほう。……その女は何者で、どこでとらえられたのです?」
「小伝馬町――」
「え?」
「いや、そのことはあとで申すとして、とにかく一刻も早くその女のみせる怪異の謎をといてもらいたい。実は、その尼僧の所持していた銀の|筐《はこ》じゃが……それをみてもらいたい。切支丹の魔法などいうものはあり得ない。一見そう思われるものでも、それにはことごとく相応の理があり、からくりがある、と、まえによく貴公と話していたとおりの説を宗門改役に公言しただけに、このたびのことをきかれて、わしははたと困惑した。そのときに、ふと貴公のことを思い出したのじゃ。貴公なら、きっとそれを解いてくれる。――」
 役人はそういいながら、また番人に命じて、右の土蔵をあけさせた。血と|黴《かび》と|埃《ほこり》のまじりあったような匂いが、むっと鼻孔にからまる。番人の手燭が、そのなかに鈍くひかるさまざまの邪宗門の祭具をうかびあがらせた。しかし小四郎には、あれが切支丹の十字架、あれが僧衣、あれが洗礼の鉢、あれが数珠――と、いちいち見わけられる。
 その暗い天井の一角に、ぽっと灯のさした四角な穴があった。だれか、土蔵の二階に灯をともしているものがあるのだ。
「だれだ?」
「例の尼僧じゃ」
 と、役人はささやいて、
「番人、|梯《はし》|子《ご》をかけろ」
 と、命じた。番人のひとりが、下から梯子をあげて二階の穴とつないだ。
 役人はさきにその梯子に這いのぼって、あたまが穴のふちに達すると、そこで足をとめて、
「石寺、あれだよ」
 つづいてのぼった小四郎も、彼と重なるようにして、その肩ごしにあたまを穴からのぞかせた。
 塗り|籠《ご》めの二階のむこうに、金色の壁が、一本の燭台にゆらめいている。それは異国風の祭壇であった。祭壇のまんなかに、|磔《はりつけ》にかかったはだかの男の像が安置されていた。
 そのまえにひれ伏していた影が、梯子のきしむ音に、しずかに身を起して、ふりむいた。若い女だ。炎を半面にうけて、その顔は蒼白く、かなしげで、そしてぞっとするほど|気《け》|高《だか》い美しさが、小四郎の眼を大きく見ひらかせた。
「――あれが、切支丹の尼僧か?」
 と、彼はささやいた。――伴天連の風俗なら、彼も画像で見せられたことがある。しかし、切支丹の尼僧の姿は、はじめて見た。あきらかに日本の女ではあったが、それは日本の尼とはまったくちがっていた。頬とあごの下を純白の布がふちどって、頭上から黒くながい布をたらし、彼女は指を胸のまえにくんでいた。
 いちどその尼僧はこちらをみたが、すぐにまた祭壇にひれ伏して、ひくいきれいな音楽のようにつぶやきはじめた。
「あわれみのおん母……この涙の谷になげき泣きて、おん身にねがいたてまつる……あわれみのおん眼を、われらの身にめぐらせたまえ。……」
 ――役人は、からだをずらせた。そしてつぶやいた。
「実はな、石寺、わしは魔法の|筐《はこ》より、あの声のほうが恐ろしい。切支丹牢の囚人ばかりではない。――あれをきいておると……ふっと、わしまでが切支丹になりとうなる。……」
 小四郎も、おなじ強烈な誘惑にとらえられた。しかし、彼の方が、さきに冷静にかえった。
「それで、その魔法の筐とは?」
「とりあげて、もうひとつの官庫においてある」
 ふたりはそろそろと梯子をおりた。下に立つと、番人が梯子をはずした。ふたりは外に出た。うしろに土戸がしめられて、錠がおろされたが、小四郎の眼底には、いまの尼僧の姿が幻の花のように消えなかった。
「こちらだ」
 役人と小四郎は、左の土蔵に入っていった。ここもまたさっきの官庫と同様、錆びついた祭具の博物館であった。しかし、こんどは天井の一角に灯影はなく、全面|闇《あん》|黒《こく》だ。
「それは、ここにある」
 と、役人はふるえ声でいって、そのまま隅にあゆみより、床上に置かれた黒い布をはらった。すると、そこから銭ほどの大きさのひかりがぼうとさした。
「や。……」
 それは銀でつくられた小さな筐で、そのふたに穴があいているのだ。ひかりはその中からもれてくるのであった。
「石寺、のぞいてみろ。……」
 小四郎は、そのひかりの穴に眼をあてて、「あっ」とさけんだ。
 その小さな銀の筐の中に、別天地があった! 一本の燭台がともり、大きな四角の土の壁をてらし、壁ぎわに鈍く|黄《き》|金《ん》色の祭壇がひかり、そのまえに黒衣の修道尼がひれ伏していた!
「こ、これは……」
 うめいて、小四郎は狂気のごとくその筐をとりあげようとしたが、筐は|釘《くぎ》づけにされたように床からはなれなかった。
 彼はまた眼を穴にあてた。尼僧が顔をあげて、こちらをみて微笑した。まるで、彼がそこからのぞいていることを知ったようだが、まぎれもなく先刻の尼僧だ。
 小四郎はふとそれを、土蔵の二階に穴でもあって、そこからのぞいているような錯覚におちいって、その尼僧が右の土蔵の二階にいたことを思い出し、背に水のはしるのを感じた。――じぶんたちは、左の土蔵の階下にいるのである!
「こ……この下に、また何かあるのでござるか?」
 と、彼は思わずさけんだ。
「たわけたことを、下は土だ」
「しかし、下にもあの尼僧が……」
「それだ、奇怪なのは――きゃつはとなりのお蔵の二階におる。下におりる梯子もはずしたし、土戸もしめて錠をおろした。なのに――石寺、拙者が魔法の筐と申したのは、とんと|腑《ふ》におちたか?」
 と、おののきつつ、小四郎の手をつかんで、
「おぬしにも、この小筐の|妖《よう》|異《い》がとけないか?」
 小四郎は、一歩さがって、その筐をしばらくにらんでいたが、やがてはっとしたように、
「さては!」
 と、さけんだ。
「石寺、わかったか!」
「からくりだ! わしには、このからくりの謎がとけた!」
「お、さすがは石寺、呼んできた|甲《か》|斐《い》があった。石寺、筐のからくりとはなんだ?」
「しかし――しかし――」
 と、彼はなおうめいて、
「こんなからくりが、あの尼僧ひとりに出来ようか? いいや、できぬ。だれか、この山屋敷の役人か番人のうちに、きっと切支丹がおる。そやつが手伝わねば、あの女ひとりにその細工はかなわぬはず。――」
「なに、山屋敷に切支丹の役人?」
「おお、まず、来られい。拙者がこの小細工とあの尼僧の|面《めん》|皮《ぴ》をはぎとってくれる!」
 と、いうや否や、彼は役人の手をひいて土蔵からとび出した。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:13:31 | 显示全部楼层
     三

 その土蔵からとび出すと、小四郎はとなりの土蔵にはせよった。
「案の定だ」
 と、彼はその外壁の角にそって上下にはしる長いふとい竹をなでて、
「灯をたのむ。――」
 と、地にかがんだ。役人は眼をまるくして、
「石寺、どうしたというのだ。それは|樋《とい》ではないか」
「左様、樋のようにみえます。しかし、樋ならば、下に水を吐く切口があるはず、それが、御覧なされい。地中にめりこんでおる」
「えっ……なるほど、これァ気がつかなんだ! これはいったいどういう――」
「待たれい。御番人、もういちど、この土蔵の戸をあけていただきたい」
 と、小四郎の上ずった声に、番人はあわてて土戸の錠をはずす。小四郎は中にとびこむと、じぶんの手で梯子をかけて、二階にかけのぼった。
 祭壇のまえに、尼僧は依然としてひざまずいている。|跫《あし》|音《おと》にふりむいて、立ちあがった。
「わかったぞ! 邪宗門の女!」
 と、小四郎はたたきつけるように、
「うぬの小細工は即座に解けた! いかにも宗門の法力らしく、子供だましのからくりで諸役人を|畏《い》|服《ふく》させようとしたとみえるが、そうは問屋がおろさぬ」
 小四郎は、二階の天井をみた。|梁《はり》の|翳《かげ》がはしっていて、よくみえないが、そこに何やら|微《かす》かにひかっているものがあるようだった。
「鏡が、あそこにある」
 と、彼は指さした。
「おそらく、屋根と壁のあいだを樋がつらぬいておろう。樋の上下にも、また鏡がとりつけてあろう。樋は土蔵の外をはしり、地中に入って、こんどはとなりの土蔵の床下にもぐりこみ、上に折れて銀の小筐のなかに入っておる。そのあいだ、いたるところに小さな鏡がとりつけられて、次から次へとうつしてゆくのだ。この土蔵の二階の光景をな。――それはだんだん遠くなり、小さくなる。それを大きくするのが、最後の銀の小筐の穴にはめこんだ遠眼鏡のぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]だ」
 ひといきに解いてのけた石寺小四郎のまえに、尼僧は凝然として、美しい彫刻のようにうごかない。
「これだけの仕事に加えて、その途中、ところどころに|蝋《ろう》|燭《そく》をともして、鏡を明るくせねば、あそこまでとどかない。その蝋燭はうつらぬように、鏡の角度を工夫せねばならぬ。――小細工とはいったが、これァなかなかの苦労だ。それだけのことが、うぬひとりに出来るわけはない。ほかに手伝った役人か番人かがあろう、神妙に申せ、その名を!」
「ああ」
 と、尼僧はかすかに嘆声をもらした。
「神は天にいまし|給《たも》う。これで無実の罪に泣く六人めの女囚のいのちは救われた。――」
「なにっ」
「あなたは、|曾《かつ》て|獄《ひとや》にひかれてゆく哀れな女に申された。――わしは決して捨ててはおかぬぞ。この怪事のうしろには、かならず何かのからくりがある。そのからくりは、あの山屋敷にあるとわしは見るのだ。わしは自由な浪人となってそれをさぐり出し、きっとそなたを救い出してやるほどに、望みを失わずに、わしの助けを待っておれ――と申された。そのお約束のとおり、あなたはこの山屋敷にきて、いまみごとに鏡と遠眼鏡のからくりをあばかれました」
 こんどは石寺小四郎が、電撃されたようにうごかなくなった。
「即座に解けるも道理――これはあなたのかんがえたからくりとおなじですもの」
「うぬは――うぬは――」
 と、小四郎はあえいだ。
「おれをなぜおれと知っているのか?」
「|切《きり》|支《し》|丹《たん》|伴《ば》|天《て》|連《れん》の魔法により」
 と、尼僧は笑った。|清《せい》|楚《そ》な頭巾のなかの顔が、はっと息をのむほどあでやかな花になった。
「あなたは石寺家の座敷牢の上に、箱のような秘密のかくれ場所をつくって、わざとお葉さんをそのなかに入れておやりになりました。それから二度めには、こんどは座敷牢の床下にその箱をはこびおろして、そのなかにお葉さんをはこびこんでおやりになりました。けれど、そこに入れられるときも、出されるときも気絶させられていたお葉さんは、やっぱりそこを天井裏だと思いこんだ。――床下にはらばって、穴から下をのぞきこんだら、まるで天井裏から見おろしているようにみえたのが、つまりいまの鏡とぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]のからくり」
「…………」
「そこまでいえば、あとはもうその鏡にかけてみるようなもの――兄上さまの座敷牢に十字架があったとか、それをお市とふたりで礼拝するとか、エホバの声がきこえるとか、みんな|嘘《うそ》。お葉さんを気絶させた|蝙《こう》|蝠《もり》のような男は、つまりあなたとおなじ人間で、兄上さまの殺されたのをみたあとで、お葉さんを、ふとんにしみこませた|睡《ねむ》り薬でまた気絶させたとき、エホバ、エホバ――何とかと、妙な声がきこえたというのも、それはつまりあなたののど[#「のど」に傍点]から出るものとおなじ声だったのです。お葉さんが、天井裏がうごいたとかんちがいしたのは、ふとんの下に戸板でもあり、戸板の下に丸太でもあり、その戸板のはしをあなたがふんだのでしょう」
「…………」
「鏡で兄上さまとお市の位置を上から見ながら、あらかじめ床板とたたみのすきにさしこんでおいた刀を下からつきあげる。よしやその場では殺せなくとも、あとで座敷にかけこんでからとどめを刺すこともできたでしょう。すべてが終ってから、床下のからくりを始末し、お葉を二階にはこんでおいて、さて|中間《ちゅうげん》を呼びにはしっていった。――」
「…………」
「わたしが思うのに、お市は単なる色きちがい、兄上さまは、そんな女でもやってくればよろこんで夢中になるほどの、これまた半狂人にすぎなかったのです。そんな人間が殺されるのはかえって世のためになるかもしれないけれど、にくいのは、その殺人の下手人に、無実の娘をしたてあげたこと」
「…………」
「あなたにとって、お葉は、鏡とぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]のからくりにだまされて、あなたがその殺人の下手人ではないと信じてくれる証人にだけなってくれれば、よかったはずです。いいえ、あなたは最初はそのつもりだったのかもしれない。しかし、もっとじぶんが安心できるように、あの純真な娘のからだと心にも細工をして、よろこんで石寺家とあなたのための犠牲に立つような女になさいましたね」
「…………」
「しかもなおわるいことに、あとできっと助けにゆくなど、口から出まかせのことをいって、あの娘にかなしい望みを抱かせて、本人は巣鴨の奥でのほほんと、お葉の死罪を待っていらっしゃった。その|奸《かん》|悪《あく》無惨な魂にこそ、エホバの|剣《つるぎ》の|呪《のろ》いあれ!」
 石寺小四郎の顔は、鉛色にかわっていた。|瞳《どう》|孔《こう》がひろがって、ほとんど相手の姿もみていない表情には、しかし惨として痛恨のいろがある。おそらく、この|夕《ゆうべ》――「外に出るな」と、あれほどかたく足どめを命じられたにもかかわらず、ついうかうかと釣り出されたことへの悔いであったろう。――ようやく、
「何を、勝手な|妄《もう》|想《そう》を――」
 と弱々しくつぶやいた。笑うような声がはねかえる。
「妄想ではありません。それは――兄上さまの|刺《いれ》|青《ずみ》は右腕にあったのに、殺されるときには左腕にあったというお葉の言葉でした。そのことから、わたしは鏡のからくりに気がついたのです。鏡にうつり――うつり――うつってゆくうちに、最後に右左が、最初の鏡とおなじく逆になってうつったにちがいないのです」
 ふっと小四郎は、相手の声が、相手の口から出ていないという感じにとらえられた。奇怪な感覚であったが、それこそ彼が衝撃の自失から|醒《さ》めた証拠であった。彼はふところにふれた。巣鴨からもってきたものが、そこにあった。
「おいっ、おまえはだれだ?」
 尼僧の唇がうごいた。なぜか声はきこえなかったが、その唇のかたちで、彼は耳にだけきいていた実に意外な名を読んで、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「うぬか! うぬは……うぬは、|死《し》|人《びと》のはずだ!」
「それが、切支丹伴天連の魔法により――」
 と、相手がのけぞって笑った|刹《せつ》|那《な》――小四郎のふところから、短銃がたぐり出された。
 相手がのけぞったのか、それとみて避けようとしたのか、燭台を消そうと泳いだのか、それともすでに血の花を黒衣の胸にちらす寸前の姿勢であったか。――
 小四郎にはわからなかった。すべては一瞬のことである。燭台はきえ、土蔵の二階は闇黒になった。しかし、同時に|轟《ごう》|然《ぜん》たるひびきとともに、弾は|狙《ねら》い狂わずに尼僧の胸のまなかへ、火の糸をひいて飛んでいった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:13:49 | 显示全部楼层
    竜の目ひらく

     一

 |闇《やみ》の|彼方《かなた》で、何かがくだけるような大きな物音がした。
 その音の大きさと性質から、それが何であるかを直感した瞬間、小四郎はじぶんの全身までがばらばらに散乱したような思いがした。――鏡なのだ! さっき、相手の声がその口からでていないような感じがしたのも道理、彼は鏡のなかの尼僧と話をしていたのだ!
 ――それでは、きゃつはどこにいる?
 |狼《ろう》|狽《ばい》しつつ二、三歩ふみ出したが、二階は|漆《うるし》の闇だ。その闇のなかで、すぐちかくで、たからかな女の笑い声がした。――彼女は、|梯《はし》|子《ご》の上り口の側に立っていたのである。笑い声をたよりにふたたび短銃をその方へむけたとき、その短銃はうしろからたたきおとされて、
「石寺小四郎、神妙にしろ!」
 と、男の声がした。いつのまにか、上り口にのぼって|仁《に》|王《おう》立ちになっている影が、階下にさわぐ手燭のゆらめきに浮かびあがってみえる。――はかったな! と思うと、その黒い影に、あのへらへらした役人の顔が、小四郎の胸で、激怒とともにむすびついた。
 ふりかえりざま、抜きうちにその影を|薙《な》いだ。かっと青い火花がちって、刀身ははらいおとされている。そのままよろめいて、からだをひらいた相手をかすめ、小四郎は、どどどど、と梯子段をころがりおちていった。
 下で、なだれかかった番人たちのなかに、あの役人の顔をみて、乱髪と鼻血のなかに小四郎が眼をむき出したとき、梯子の上からふたつの影がゆるゆるとおりてきた。ひとりは|捲《まき》羽織の八丁堀同心で、もうひとりはむろんあの修道尼であった。
「兄殺しの大罪人め、|天《てん》|網《もう》はついにのがれられなんだと知れ」
 と、同心が|叱《しっ》|咤《た》した。
「知らぬ、知らぬ!」
 全身のいたみも忘れて、小四郎はもがいた。両手はうしろにねじあげられていた。
「みんな言いがかりだ。鏡だの、遠眼鏡だのは、うぬらのかんがえたからくりではないか。おれの知ったことではない!」
「あれほどのからくりが、ひとめ見ただけで即座に解けるものか。それを解いたということは、すなわちうぬのかんがえたからくりだからでなくて何だ」
「証拠がないぞ! おれがかんがえたという証拠をみせろ!」
「小四郎、巣鴨村の、うぬの借りていた離れの天井裏からな――天井裏の好きな、|鼠《ねずみ》のような男だ。――」
 と、同心は|嘲笑《ちょうしょう》したが、小四郎は息もとまってしまった。
「遠眼鏡やら南蛮の眠り薬やら、そのほかたしかにもとはこの山屋敷のお蔵にあったものが見つけ出されたぞ。二年ばかりまえ、ここの牢番をしていたお市の父親が切支丹になってお仕置を受けたが、そのとき紛失したままになっていたものと同じものが|喃《のう》。狂女お市をうしろであやつっていたうぬだから、お市の父親がどこかに埋めておいたものを探し出す機会もあったに相違ない。げんに――いまうぬがもっていたこのいすぱにあ[#「いすぱにあ」に傍点]短銃がそうではないか?」
 小四郎は同心の手にぶらぶらしている短銃をみて、ただ口のはしから泡をふいた。
「おれが、な、なんのために兄を殺す? 家督にも何にも望みのないこのおれが――捨てておいただけで、兄は隠居を命じられるにきまっていたものを――」
「そうだ。ふしぎだのう。あれほど手のこんだ細工で兄を殺して、あと|武蔵《むさし》|野《の》で|高《こう》|風《ふう》の隠士然と春の雲をながめていたおまえの心というものは――わしなど、それにあやかって、すこし修業したいものだ。どうじゃ、その心事をきかせてくれぬか?」
「だ、だから、わしが兄を殺す道理がないと申しているではないか!」
「きかせてくれなければ、わしの方からいってやろうか」
「なに」
「石寺家などより、もっと大きな望みがあるとしたら?」
「うっ。……」
「その望みをうぬに抱かせた人間の名も教えてやろうか。――」
 |手燭《てしょく》のひかりは赤くゆれるのに、小四郎の顔の|陰《いん》|翳《えい》は、デス・マスクみたいにうごかなくなった。
「主水介、もうよいではありませんか」
 と、そのときうしろから黒衣の修道尼が呼びかけた。
「これよりあとの取調べは、この小日向よりも小伝馬町の牢屋敷の方がよかろう」
「では、左様に――おい、銀次、こいつを小伝馬町へつれてゆけ」
「へい!」
 と、手燭をもっていた番人がうなずいて、
「立て、さあ、きやがれ」
 と、小四郎をひったてた。
 縛りあげられた石寺小四郎をとりかこんで、どやどやと一同が去ったあとに、修道尼と巨摩主水介だけがのこった。
「これで、どうやら、おんな牢の六人めの女のいのちを救えたようだ。……」
 と、尼僧はつぶやいたが、銀次から受けとった手燭を片手に、彼女はなぜかこの山屋敷の切支丹蔵を去りがたい|風《ふ》|情《ぜい》にみえた。しずかに壁に沿うてあるき、そこに陳列された聖像や聖具などをみてまわっている。
「さ、もうゆこうではありませぬか」
 と、主水介は心いそぐ様子だ。
「主水介、これが切支丹の神々ですか? この美しい母と子の画像も……」
「されば、たしかマリアと申す。……」
「まあ、なんという気高い顔……わたしには、こんなに美しい母や、気高いきりしと[#「きりしと」に傍点]やらを神とする切支丹が、とうてい邪宗門とは思われぬ。これは、お|上《かみ》の何かのお考えちがいではあるまいか?」
 こんどは主水介が、さっきの石寺小四郎みたいな表情になった。――この女性の天真|爛《らん》|漫《まん》な唇から、彼の心胆を宙がえりさせるような言葉が、こともなげにもれるのは、いままでにいくどかおぼえがあるが、これはあまりといえば、身の毛のよだつ見解であった。
「と、と、途方もないことを――」
 と、いいかけて、彼はしかし絶句した。恐怖のゆえではなかった。手燭の円光のなかにマリアをあおいでいる修道尼の、そのマリアにまさるともおとらぬほどの気高い美しさにうたれて、そのまま声が出なくなってしまったからであった。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:14:07 | 显示全部楼层
     二

 江戸の|何《ど》|処《こ》かで。――いや、南品川の常楽院という寺だ。
 以前は荒れさびれた山伏の寺にすぎなかったのに、去年の秋から急に大がかりな修築をはじめ、寺というより大旅館といった感じの建物になったとみていたら、この一ト月ばかりまえに、|上《かみ》|方《がた》から下ってきた二百何十人という大集団がここにのりこんだ。品川|界《かい》|隈《わい》はおろか、江戸八百|八町《やちょう》を|震《しん》|駭《がい》させた一団である。
 昨夜は、|徹宵《てっしょう》、能楽の鼓をうつ音がきこえていた。とくに作らせた能舞台に、|金《こん》|春《ぱる》|太夫《だゆう》、|観《かん》|世《ぜ》太夫も呼ばれて舞ったらしいのである。鼓の音が、ようやく|止《や》んだあとでも、酔った声、笑う声、それにざわざわと寺を出入りする人々の跫音はいつ果てるともなく、ついにしらじら明けがおとずれた。
 その夜明け前。――常楽院の奥ふかく。
「鶴。――ながせ」
 と、ざあっという水音とともに、若い声がした。――湯殿の中だ。
 |高《こう》|麗《らい》|縁《べり》の八畳につづいて、また八畳の流し場は、天井ともすべて|総檜《そうひのき》、|風《ふ》|呂《ろ》も|白《しら》|木《き》造りで、竹のたが[#「たが」に傍点]がはまっている。これはそっくり将軍家のお湯殿を模したものであった。
 その風呂からあがってきた青年は、四尺四方の|栗《くり》の台に腰をおろし、背をむけた。初夏の暁とはいえ、まだ満天は星で、冷えているせいか、湯殿のなかは湯けむりでいっぱいであった。
 うしろから、|裾《すそ》をたかくとり、たすき[#「たすき」に傍点]をかけた若い女が、|糠《ぬか》ぶくろをもって|甲《か》|斐《い》|甲《が》|斐《い》しくよりそった。――青年は、遠く近くきこえる院内のざわめきに耳をすませて、
「いよいよ、父上と晴れの対面じゃ。酒の気のふッきれるまで磨いてくれよ」
 と、あおのいて、眼をつむった。
 女は、うやうやしくその背をこすり出したが、若者はふとけげんそうにふりむいて、
「いかがいたしたのじゃ、鶴」
「鶴ではございませぬ」
「なんと?」
 と、彼はむきなおった。ひざまずいたままの女は、湯けむりのなかにおぼろおぼろとしてはっきりわからないが、顔色は雪のように白く、美しい。
「御家老さまが、わたくしごときもののことをいちいち申しあげられるはずもございますまいが、昨夜お召しにあずかり、これより御対面の御用意をお手伝い申しあげます|花《はな》と申す女でございます」
「花。――」
 と、若者はつぶやいて、
「家老とは、|伊《い》|賀《が》のことか」
「はい、石寺小四郎という名を御存じでございましょうか。小四郎の妹でございます。きのう、御家老さまにつれられて、巣鴨村から参上仕りました」
「――さては、伊賀め――鶴を|斬《き》ったな、女は口さがなきものと――」
「え?」
「いや、こちらのことだ。おお、小四郎の妹か。あれの妹ならば、大事あるまい。しかし、|垢《あか》すりはへたじゃの」
「申しわけございませぬ」
「よい。よい。それより、そなた、美形じゃのう。垢すりなどより、もそっとこちらへ寄れ」
 と、白く柔かい手くびをつかんでじぶんのはだかの胸へぐいとひきよせた。
 彼は、きのうまでこの湯殿付きの|湯《ゆ》|女《な》をしていたお鶴という女にも、この湯殿で手をつけていた。それがいなくなった――おそらく、この世から永遠に――ということは、思い出すとふびんであるが、しかし消えた女を思い出すには、新しい女はあまりにも美しすぎた。夜をとおしての酒盛りの酒も、まだ体内にのこっていたのである。
「これ、花と申すか――余がお城に入ったならばの、そなたをお湯殿の中老に――いやいや、石寺小四郎の妹とあらば、余の|側《そば》|妾《め》といたしてやっても苦しゅうないぞ」
「あの――御召物の御用意もございますゆえ――」
「まだ、時はある。おお、可愛い口をしておるではないか。酔いざめの水よりうまいは美女の口、これ、じっとして、いちどその口を吸わせろ。――」
 そのとき、湯けむりの彼方から、
「若君、何をしておいであそばします」
 と、男の声がした。若者が狼狽して手をはなしたはずみに、女はとびのいて、そのまま、
「御免下さりませ」
 と、御上湯――浴室つきの脱衣室――の入口に立ってのぞきこんでいた影のそばをすりぬけて、小走りににげていった。
「日もあろうに、朝もあろうに――いよいよ御生涯の運命決する日のあした、あまりと申せばおつつしみなき――」
 と、その影が吐き出すようにいうのに、若者はあたまをかきながら、
「ゆるせ、ゆるせ、まだ祝いの酒がすこし残っておる。それに、はじめての女ゆえ、ちょっとからかってみたのじゃ」
「はじめての女?」
「さらば、昨晩、そなたが巣鴨村からつれて参ったというではないか?」
 相手は沈黙した。霧のような湯けむりに、その影は、雷にうたれたようにうごかなくなっていた。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:14:27 | 显示全部楼层
     三

 突如、彼はふりかえって、背後にひざまずいていた幾人かの武士たちにさけんだ。
「追え! いまの女を!」
 どどっと床をふみ鳴らしてみだれ立つ影に、
「また、お鶴もさがすのだぞ!」
 と、|鋼《はがね》のような声で追いうった。そのまま、なお凝然とつったったままなのに、はだかの貴公子はあっけにとられて、
「伊賀、どうしたのじゃ。いまの女は、そなたの――」
「知らぬ女でござる!」
「な、なにっ」
 貴公子はのけぞった。ワナワナとふるえ出した。相手はあたりに人影もないのを見すますと、すうと湯殿に入ってきた。
「おい、宝沢」
 と、言葉づかいが変って、
「どうやら、うまくしてやられたようだ」
「い、伊賀。……」
「ふるえるな。おちついて返事をしろ。いまの女は、何と申したと?」
「石寺小四郎の妹で、昨夜、おめえと巣鴨村から同道したといった。おれはてっきり、手まわしのいいおめえが、おれの秘密を知るお鶴を始末して、同志の身よりの女にかえたのかと思ったのだよ。……」
「石寺小四郎――その名まで知っていたか? その女の名は?」
「たしか、お花と――」
「ううむ、宝沢、まんまと見られたなあ。きょう登城のけさ、もはやしすましたりとゆだんのゴタゴタさわぎに、うまくまぎれこんできたらしいが、それもおめえの裸を見るのが狙いにちげえねえ。――このぶんじゃあ、巣鴨村の石寺も、やられたな。……」
「伊賀! あ、あいつはだれだ?」
「いまの女がだれか。……まさか、あいつのはずはねえが……」
「そうだ、おめえは、あの女を斬ったといった。だから、おれは安心していたんだ。まさか、殺された女がこの湯殿の中へ、のこのこと平気で出てくることはなかろうじゃねえか。それとも、あの女は死ななかったとでもいうのか?」
「そんなはずはねえ。邪魔が入って、とどめこそ刺せなかったが、あの|深《ふか》|傷《で》じゃあ……だいいち、あの女を斬ったのがちょうど三日まえ、たとえ生きていたとしても、ここに出てくるわけはない……」
 宝沢は、この相手が、これほど|惨《さん》|澹《たん》たる顔色になっているのを見たのははじめてであった。
 やや|面《おも》|長《なが》、色白で、学者のような重厚さに満ち、しかもはや登城の用意のためか|裃《かみしも》さえもつけたその堂々たる押出しは、|曾《かつ》て|九条《くじょう》関白家に仕えて|稀《き》|代《だい》の才物といわれた評判にたがわず、また百万石の家老とみても不足はない、その荘重な風姿から、べらんめえ調が出てくるのが、名状しがたい|凄《すご》|味《み》をあたえる。
 ――何にしても、その姿に曾て動揺の波がわたったことがなく、その唇から曾て弱音が吐かれたことのないのを、宝沢は知っていた。いかなる不可能な局面に相対しても、|奸《かん》|智《ち》といってもしかるべき縦横の機略をふるい、いかなる危地におちいっても、ふてぶてしい微笑を消したことのないこの男が、いまほとんど|茫《ぼう》|然《ぜん》としてなすところもない顔色なのに、若い宝沢は恐怖のあまり口をぽかんとあけた。
「伊賀、おめえはおれに大船にのった気でいろといったじゃあねえか?」
「そういった。たしかに波はさばいた。越前め、紀州の方に同心をかけまわらせて素性洗いに血まなこになったらしいが、そんなことにぬかりのあるおれか。――とせせら笑っておった。げんにきょう晴れの登城ときまったほんの先刻まで、越前はこの常楽院に打った|葵《あおい》の金紋に指一本さすことは出来なんだ。……ところが、船に穴をあけられたよ。えたいの知れねえ、女のほそい指でなあ。……」
 まるでおのれのからだの一部に穴でもあけられたような、痛苦にみちた声だ。
 宝沢は、まだ事態の重大さを、それほどはっきり意識しなかった。それより、この絶望を知らぬはずの男の絶望ぶりに恐怖して、
「伊賀、そんな穴、なんとかふさげねえか? 大器量人のおめえなら――」
「|若《も》し、いまの女をとらえることができたならばだ」
 そのとき、二、三人の武士がまろぶようにかけもどって、
「無念ですっ、はや門外へのがれ出たか。いずこを探しても見あたりませぬ!」
「――お鶴は?」
「お鶴は、昨夜より姿を消しておるそうにござります」
「――いまの女が、うまくいいくるめて、のがしたな?」
 と、うなずいてうめいたが、このときから伊賀の表情には、ふしぎに清朗快活なものがあふれてきた。
「宝沢、もうあきらめな」
「な、なんじゃと?」
 そこに、やはり|裃《かみしも》をつけてもったいぶった顔をした中年の武士たちや、紫の衣をまとった|和尚《おしょう》がかけつけてきた。
「ど、どうなされたというのだ、このさわぎは?」
「おい、|大《だい》|膳《ぜん》、|右《う》|門《もん》、|天忠《てんちゅう》、この伊賀が、なぜかしらぬが、もうあきらめろというのだ」
「ぷっ、突如として何を申される。まさか、大事成らんとするよろこびのあまり乱心なされたわけでもあるまい」
「ふふん、正気だ」
 と、伊賀はそらうそぶいた。
「正気、それはいかなるわけでござるかっ」
 伊賀はそれにこたえず、
「宝沢、おれがこういっても、あきらめねえかえ」
「あきらめるものか! すでに門外には|供《とも》|揃《ぞろ》いもはじまっている物音、おめえの心配がるようなくだらねえ理由で、いまさらひっこみのつく場合か。伊賀、おめえらしくもねえぞ。たとえ、いま|尻《しり》に帆をかけたところで、とうてい逃げおわせることじゃあねえ。たとえ、少々妙なことがあったって、こうなりゃ、やるよりほかはねえ、なあ、一同!」
「もとよりでござる! 何が何やらさっぱりわからぬが、とにかく出陣のまえの|臆病《おくびょう》風は大禁物、断じて行えば鬼神もこれを避く。――」
 伊賀は、みんなの血相を見まわして、うす笑いをした。
「えらい、やるがよかろう」
 と、大きくうなずいた。
「それにな、上手の方から水のもったとはこのことか――あの女を消したと思って安心したこと――念のためこっちから巣鴨村へいったこと――が、逆に敵の|罠《わな》にはまったような|塩《あん》|梅《ばい》だ。おれのしくじりから起ったこの|破《は》|綻《たん》だ。おれがおめえたちにあきらめろというのァ、ちっとむげえ話かもしれねえ」
「そうだ、伊賀、むげえ、むげえ。たのむから、ばかげたことァ言い出さねえでくれ!」
 伊賀は明るく笑った。
「よし、おれはもういちど考える。出門の時刻まで、わしはじっくり思案をしてみるが、それまで、かたくおれの座敷をのぞいては相ならぬぞ!」
 いままでに、いくどか|老中《ろうじゅう》や町奉行の呼び出しに、すわ[#「すわ」に傍点]と一同が色めくたびに、こういって一室にとじこもって沈思し、秘策妙案成ったとみるや決然として出むいて、みごとに難関をきりぬけてきた男であった。
 |従容《しょうよう》として立ち去る伊賀を、一同は|愁眉《しゅうび》をひらいて見送った。

「|先《さき》|箱《ばこ》はどこにおる」
「|陸尺《ろくしゃく》はそろったかっ」
「馬々、馬はこちらに――」
 境内から山門へかけて、|潮《しお》|騒《さい》のごとくたかまってゆくどよめきをよそに、彼は一室に端坐して、朝の日光に眼ざめるような奥庭を見わたした。池の|蓮《はす》が、いま花ひらいたとみえて、水のなかから香が立ってくる。
「まぬけめ」
 と、彼は遠い騒音に耳をすませて|嘲《あざけ》ったが、やがて肌をおし|拡《ひろ》げ短刀をぬき放つと、ニンマリとして、
「いや、天下一の大まぬけ、|山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》、ここにまぬけの年貢を納める」
 ぶつりと腹につきたて、キリキリとひきまわした。
「越前、おめえがこの幾月か、夜は夢、昼はうつつにまでおれの姿をみて、歯ぎしりしたことを知っている。そのおれが、おめえの|縄《なわ》にかかるまえに、ここであっさり死んだと知ったら、おめえはさぞ|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふむだろう。ざまアみやがれ。……」
 がばとひれ伏す一瞬に、伊賀亮の眼に、ふいに庭に立ったひとつの影を見た。それは庭の蓮池から、氷滴をきらめかして立ちあがったようにみえた。
「伊賀亮、伊賀亮」
 と、美しい女の声に、彼は|瀕《ひん》|死《し》の顔をあげて、
「――うぬか!」
 と、うめいた。裂いた傷口からほとばしるような声であった。
「伊賀亮、回向院の蓮池から|冥《めい》|途《ど》の迎えにやってきた」
「――お、おいっ、おまえはだれだ? おまえには負けた。おれほどのものが、おまえだけには|翻《ほん》|弄《ろう》された。――いくらからかわれても一言もないが、もはや、からかわれておるひまもない。――山内伊賀亮、いまわの願いだ。おまえの正体をおしえてくれ。……」
 女は、伊賀亮のそばにひざまずいて、その耳にささやいた。それから、きっと立ちあがって、
「さらば伊賀亮、わたしが題目をとなえて進ぜる。本懐と思うて死ね。――|南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》。……」
 山内伊賀亮の全身をいちど|驚愕《きょうがく》の|痙《けい》|攣《れん》が波うったが、すぐにその満面はきゅっと死微笑をきざんだまま、がっくりとたたみにうち伏した。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:14:46 | 显示全部楼层
    女人斬魔剣

     一

「若君さま御登城。――」
 おごそかな声がながれると、玄関さきから、境内、門外にまであふれてざわめいた|供侍《ともざむらい》たちが、ぴたりとしずまった。
 もと山伏寺であったのが、改築して旅館のように、しかも大本陣のように豪壮な建物にかわった常楽院だ。
 その|唐《から》|破《は》|風《ふ》造りの玄関の式台に、しずしずと、ひとりの貴公子があらわれた。うしろに、紫ちりめんの|袱《ふく》|紗《さ》につつんだ銀の|佩《はい》|刀《とう》をささげて、うやうやしく小姓がしたがっている。
 その若者は、|白《しろ》|綾《あや》の|小《こ》|袖《そで》の下に、|柿《かき》色綾の小袖五つをかさね、紫|丸《まる》|絎《ぐけ》をしめ古|金《きん》|襴《らん》の|法眼袴《ほうげんばかま》をはき、上は|顕《けん》|紋《もん》|紗《しゃ》の十徳をき、手には金の中啓をもっていた。|漆《しっ》|黒《こく》の総髪の下には、おっとりとして気品のたかい顔があった。その顔がほとんど|蒼《そう》|白《はく》にみえるのも、彼の色白なのを知っている家来たちは、たんなる緊張のためであろうとあやしまなかった。
 ――去年の春ごろ、紀州から大坂に出てきて、いまの将軍の|御《ご》|落《らく》|胤《いん》だという評判がたちはじめたころのこの若者の周囲には、まだ十人くらいのおつきの者がいるだけであったが、それが大坂城代、また京都所司代から「御証拠にまぎれもなし」という早打が江戸へ立ったという|噂《うわさ》がひろまってから、われもわれもと上方の豪商たちが御用金を献じ、人々は雲集し、やがてこの春、威風堂々と東海道を下ってきたときには二百何十人という大名行列そこのけの供侍をしたがえ、途中ゆきあった|播州姫路《ばんしゅうひめじ》十五万石の|酒《さか》|井《い》|雅楽《うたの》|頭《かみ》など、|駕《か》|籠《ご》からおりて土下座したとさえいわれる。
 それ以来、数度、町奉行、老中などと往来があったが、この常楽院にうたれた|葵《あおい》の金紋はいよいよかがやきをまし、ついにけさ、江戸城に上って、将軍と|親《しん》|子《し》御対面の晴れの日が到来したのだ。当人が緊張するのもむりはない。
 ただ、式台にいながれる近侍の人々のなかに、当然いるべき御落胤さま第一の重臣山内伊賀亮の姿がみえないのに、ふとけげんな思いをした者が数人ある。それはちかくの数人だけであったが――主人を蒼白にさせたものは、実にその「いない伊賀亮」なのであった。
 彼は、ほんの先刻、ひとり|屠《と》|腹《ふく》している伊賀亮の姿を発見して、愕然としたのだ。この|期《ご》におよんで、あれほどの男がなぜ死んだ?――大地もゆらぐ思いであったが、立ちすくむいとまもなかった。登城の時刻は切迫していたからである。――けれど、人形のようにものものしい|衣裳《いしょう》をつけられてゆくうちに、彼の度胸はすわった。伊賀亮は気が狂ったのだ。みよ、事は予定のごとく進行してゆくではないか。みよ、一帯にみちみちる乗物、馬、先箱、|槍《やり》、|傘《かさ》、そのいたるところに葵の紋はきらめき、供侍は足ぶみしているではないか。……
 |飴《あめ》|色《いろ》|網《あ》|代《じろ》|蹴《け》|出《だし》|黒《くろ》|棒《ぼう》の乗物は、すでに式台にかつぎあげられて待っていた。――いちど、波のごとく平伏する供侍たちを、にっと微笑して見わたし、彼がその乗物の方へ、二歩、三歩あゆみ出したとき――
「――天一坊、待てっ」
 と、どこかでさけんだものがある。
 みんな、大地からはねあげられたようにあたまをあげ、次に幻覚かとふたたび伏せようとしたひたいのまえを――門の方から、たたたた、と何者かがはしりぬけていった。この場合に、|袴《はかま》もつけぬ着流しに、|雪《せっ》|駄《た》をはいた|粋《いき》な足であった。
 いっせいにどよめきわたる供侍たちをしりめに、玄関のまえに、その男はりんとして立っていた。羽織をまいて帯にはさみ、片手ににぎった朱房の十手も|燦《さん》として、
「その駕籠待った! 南町奉行大岡越前守配下の同心巨摩主水介、なんじに不審の条あり、取調べにまかり越した。神妙にいたせ!」
 と、さけんだ。
 天一坊は、|雷《らい》にうたれたように立ちすくんでいたが、
「やあ、無礼であろうぞ、不浄役人、なんじ乱心いたしたか。余は当将軍家の落胤、徳川天一坊――」
「とは、よくも化けたな、天一坊、いやさ山伏宝沢。――」
「な、なに!」
「なんじの素性を知る六人の男。数年前大坂でなんじと悪事をほしいままにした無頼の六人、彼らに|闇《やみ》の手をのばして殺害した一味の下手人どもはことごとくとらえられ、すべて白状いたしたぞ。もはや悪あがきするな、天命ついにつきたと知って神妙にお縄にかかれ」
 天一坊は、蒼白をとおりこして|土《つち》|気《け》色になり、歯をかちかち鳴らしていたが、
「やあ、|誣《ぶ》|説《せつ》|雑《ぞう》|言《ごん》にもほどがある。左様な男ども、余は知らぬ。なんの証拠あってかかる|大《だい》それたいいがかりをなすか」
「殺害された六人の男には、一人一字、法華の題目の|刺《いれ》|青《ずみ》があった。それがなんじと同類であった証拠は――」
 巨摩主水介は、つつつ、と式台にかけのぼった。
 身をひるがえして、にげようとして小姓にぶつかった天一坊は、あわててその佩刀をひっつかんで、抜きうちの|閃《せん》|光《こう》をうしろに|薙《な》いだが、刀身は十手にまかれて大きく侍臣たちの頭上にとんだ。このときまで気絶したように身をこわばらせていた侍臣たちが、名状しがたい絶叫をあげ、猛然と式台を鳴らして|起《た》とうとする。――
「さわぐな! あれ見よ」
 と、主水介は|叱《しっ》|咤《た》した。ふりかえる一同の眼に、門から潮のようになだれこんでくる捕吏のむれがうつった。
 主水介は天一坊をむずととらえると、片手をのばして、いっきにその十徳をひき裂き、|襟《えり》もとをおしひろげた。
「もったいなや、将軍家御落胤ともあろうおん方が、あたら玉のおん肌に――」
 口から泡をふき、身をもみねじる天一坊の胸に、朱色に彫られた「華」の一文字。
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:15:23 | 显示全部楼层
     二

「南無妙法蓮華経。……」
「南無妙法蓮華経。……」
 小伝馬町のおんな牢では、朝からむせぶような合唱がながれつづけていた。
 牢屋敷では、囚人に死罪が執行されることがつたえられた場合、牢内で同囚たちがいっせいにこの題目をとなえはじめるのだが、ふしぎなことに、「南無|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|仏《ぶつ》」とはとなえない。念仏は、|法《はっ》|度《と》になっている。念仏ではそのまま往生するが、題目ならば日蓮が|竜《たつ》ノ|口《くち》でこれをとなえて命びろいしたように、|断《だん》|刀《とう》から助かるという迷信からきたともいうが、さりとて念仏を法度にまでする理由はよくわからない。
 題目の輪のなかで、六人の女囚がうなだれていた。――けさ、未明のことである。町奉行所から牢奉行の|石《いし》|出《で》|帯《たて》|刀《わき》のところに、六枚の半紙がおくりとどけられた。この紙には、死罪に行なわれる人間の名と生国がかいてあるのが例だ。ふつうなら、それは執行の前夜にくることになっていて、これを牢役人がすばやくかきうつして、朝になってから非公式に牢名主にわたし、当人に覚悟をうながすことになっているのだが、こんどにかぎり、異例にその断罪の告知状が未明にきて、かきうつすひまがなかったので、ただその紙の数から、六人の囚人が死罪になるということしかわからなかった。しかも、それはきょうのうちに行なわれるらしく、牢屋敷東北隅の死刑場では、もう公儀おためし御用の|山《やま》|田《だ》|浅《あさ》|右衛《え》|門《もん》が到着して、執行のだんどりを指図しているという。――六人、という人数をきいて、さてこそ、と女囚たちがいっせいに六人の女をみたのは当然だ。お玉、お路、お関、お半、おせん、お葉、このおんな牢にいる死刑囚に、そっくり数は符合する。
「南無妙法蓮華経」の題目の声がながれはじめたのは、それからであった。
 六人の女は、うなだれていた。覚悟はしていたが、その白い肌はそそけ立っていた。……ただいちど、いちばん年少のお関が、
「ごいっしょに、あの世へゆけるなんて、せめてものしあわせね」
 と、みなを見まわして、かすかににっと笑ってみせただけである。そのとき、天牛のお紺がはいずってきて、
「おれもいっしょじゃ。|三《さん》|途《ず》の川で鬼が出てきたら、おれが追っぱらってやろうぞい」
 といった。昨夜も、うなりつづけのお紺であった。すでに死相は|蒼《あお》くその顔をくまどっている。この恐ろしい牢名主に、|冥《めい》|土《ど》までくっついてこられるのは、ありがたいようでもあり、迷惑なようでもある。だれも礼もいわず、ののしりもせず、ただだまったままなのに、お紺は、
「しかし、それにしても、あのお竜はどうしたかの」
 と、ひとりごとをいった。
「三日のうちに、孫のかたきをとってくれるといった。その三日めはきょうなのに……わしも、きょうじゅうに、くたばりそうじゃというのに。……」
「――お竜さん――――」
 六人の女はつぶやいて、いっせいに顔をあげて宙をみた。
 彼女らの話をやさしくききとってくれ、なぐさめ、力づけてくれたお竜だ。お竜が彼女らを救ってくれるという見込みはなく、またそんなことはまったく期待も希望もしなかった彼女たちであったが、ただしかし、断罪の場へひかれてゆくまえに、なぜかひとめでも|逢《あ》ってゆきたいひとであった。――しかし、お竜は三日まえ同心に呼び出されたっきり、まだこの牢へかえってこない。……
 日は、中天をまわった。ただ北むきのこのおんな牢は、真昼も、依然として夕ぐれのようだ。
「おんな牢!」
 |凜《りん》|烈《れつ》たる声が、|外《そと》|鞘《ざや》にひびいた。外鞘に、|鍵《かぎ》役、牢屋同心、牢番、下男などの黒い影が入ってきた。
「御仕置物がある。お玉、お路、お関、お半、おせん、お葉――早々にまかり出ませい!」
「へい!」
 と、声をしぼったのは牢名主のお紺だ。はたせるかな、名指された六人の女囚のうしろから、お熊、お伝、お甲たちがふるえ声で、
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経!」ととなえ出した。
「なお、南町奉行大岡越前守さまの|御諚《ごじょう》には、このたびにかぎり、みせしめのため、女囚一同、死罪の様子を見物させいとのことじゃ」
 はっとした。みんな、水をあびたような顔色を見あわせる。――が、牢屋同心の声はのしかかるように、
「一同、|罷《まか》り出ませい!」

 牢からひき出されると、|藁《わら》|縄《なわ》をふたすじよりあわせた死刑囚だけにつかう切縄を、六人の女に張番がかけた。ふつうなら、このあと、
「おんな牢、ほかに|御《ご》|沙《さ》|汰《た》はない。――」
 と、鍵役が知らせると、はじめて囚人一同が、
「ええい」
 と、よろこびの声をあげるのだが、きょうにかぎって、ひとりのこらずぞろぞろと追い出された。死罪は六人だけということはわかっているのだが、それでも、三歩、五歩、十歩、あゆんでゆく足が地にめりこむような思いを禁じ得ないのは、当然な恐怖感情であった。
 火ノ番のまえにくると、例の八丁堀同心が厳然と待っていた。さすがのお紺も、この場合、「お竜はどうしましたえ?」と、きくのもわすれた。六人の女はここで|面《つら》|紙《がみ》をあてられた。面紙とは、奉行からきた死刑の宣告状であって、この半紙をたてに顔にあて、細い藁でひたいにしばり、紙のなかばを前にかえして眼かくしする。それから、|槍《やり》をつらねた|非《ひ》|人《にん》のむれが、|鉄《てっ》|桶《とう》のごとく女囚一同をつつんであるき出した。くぐってゆく|埋門《うずみもん》は、死罪場へつながるので、牢屋敷ではこれを「地獄門」という。――
 女囚たちが死罪場に入ると、いっせいにどよめきがあがった。眼かくしされた六人の女には何もみえなかったが、それだけでここに相当な人数がつめかけていることが判断された。おしひしがれたように、女囚たちはだまりこんでいる。――実は、彼女たちは、この場に入って、思いがけないものを発見して、はっと息をのんだのであった。
 牢奉行石出帯刀、その左右にならぶ検使、見廻り与力、牢役人、非人たちが周囲をかこむ死罪場のまんなかで、刀をあらっている異様に|凄《せい》|惨《さん》の気をたたえた武士は、あれが|首《くび》|斬《き》り浅右衛門だろう。彼は、弟子らしい若侍がつぎつぎにさし出す刀身を、せっせと水で洗っていた。台にのせられた刀は、みんなで六本あった。おそらく、あちらこちらの大名や旗本から依頼された新刀であろう、彼はこれをもって罪人をためし斬りにして、その報酬をうけるのである。
 しかし、女囚たちが息をのんだのは、その風景よりも、浅右衛門のそばに大きな穴が掘られ、その穴のふちにひきすえられた六人の男であった。彼らは、いずれも六人の女囚とおなじように切縄をかけられ、眼かくしされている。――
「用意相ととのってござる!」
 と、浅右衛門がふりかえっていった。
 そのとき、お紺の口から、何とも形容のできない声がつっぱしった。
「あっ……お竜!」
 その声に、六人の女囚は身をもがいた。
「えっ、お竜さんが……どこに? みせておくれ、あたしたちにもみせておくれ!」
 すぐうしろにいたお勘やお熊やお甲も、口をぱくぱくさせていたが、夢中でその面紙をめくりとってやった。
「いいえ、それをとってはなりませぬ。――」
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 楼主| 发表于 2008-4-30 10:16:03 | 显示全部楼层
 むこうで、美しい声がきこえたが、まにあわなかった。六人の女死刑囚は、まぶしいばかりのひかりのなかに、死罪場を見た。検使席から山田浅右衛門の方へあるいてくるひとりの女を見た。――文金高島田にきらめく|櫛《くし》とかんざし、稲妻あられの|振《ふり》|袖《そで》に|金《きん》|襴《らん》の帯――その帯に、なぜか一本長刀をおとしざしにした姫君の姿を。
「お竜――あれは、たしかに姫君お竜――」
 と、なおお紺があえぐと、そばの牢屋同心が叱りつけた。
「ひかえい、あれは南町奉行、大岡越前守さまの――」
「えっ」
「御息女でいらせられるぞ!」
 姫君は、たちどまって、
「越前守娘、霞です」
 と、りんとして名乗った。そして――
「浅右衛門、その六人の男の縄をきれ、眼かくしをとれ」
 と、命じた。
 浅右衛門は、六人の男の縄をきり、眼かくしをとった。六人の男は、かっと眼をむき出して、霞の姿を見まもったが、それ以上にのけぞりかえったのは、六人の女死刑囚であった。いっせいにその口から、わけのわからない絶叫がほとばしり出た。
「あっ蓑屋さん!」とさけんだのはお玉で、「旦那さま!」といったのはお路で、「乾坤堂さん!」とあえいだのはお関で、「弥五郎さん!」と息をひいたのはお半で、「外記さん!」と身もだえしたのはおせんで、「小四郎さま!」と|帛《きぬ》をさくような声をあげたのはお葉だ。それらはひとつにもつれて、むしろ悲痛のひびきをおびて、刑場の大気を裂いた。
「だから、眼かくしさせておいたのに――」
 と、霞はなげくようにつぶやいたが、
「いいえ、やはり見させなくてはならぬ。見なくてはならぬ。黒い眼を、しっかりあけて、この|卑怯《ひきょう》な男どもを――」
 といって、うつむいてふるえている男たちを見わたした。
「おまえたち、あの女たちのかなしげな声に恥じぬかえ?」
 ――六人の女囚は、無我夢中で刑場にまろび出ようとしていた。非人が死物狂いにこれを抱きとめていた。
 霞はかなしそうな顔でふりむいて、これをみていたが、ふいに、
「きくがよい、女たち」
 と、呼びかけた。
「そなたらへのふびんさと、この男たちへの怒りに胸もさけるようだけれど、やはりいわねばならぬ。この男たちは、そなたらの思っているような善人ではない。それどころか、天下を|狙《ねら》う大陰謀団の一味。――」
「えっ」
「一介の山伏崩れの身分でありながら、将軍さまの御落胤といつわって、あわや|御《ご》|親《しん》|子《し》御対面をまではこびかかった陰謀はけさ破れた。その首領は、もと大坂で六人の無頼な男たちと、義兄弟のちぎりをかわし、南無妙法蓮華経の刺青をからだにきざんで、よからぬことにふけった悪党であった。それがこのたびまんまと御落胤に化けて江戸城にのりこみ、ゆくゆくは将軍さまにもなろうかという大野心を起したについて、じゃまになるのは古い悪事の仲間――蓮蔵、十平次、玄妙法印、秀之助、門兵衛、大三郎の六人」
 女たちは、金しばりになった。
「お城に入れば、もはや顔をみられることもあるまいが、何のはずみで、おのれの胸に彫った|華《はな》の刺青が、|巷《ちまた》のうわさにたたぬでもあるまい。そのとき、これらの仲間が、もしや――と、うたがいを起さぬために、彼らをこの世から消し去るたくらみがめぐらされた。その殺し手が、この陰謀の軍師に命じられた六人の男であったのじゃ。――ただ、その刺客でとどまりさえしたら、野心に|憑《つ》かれたあわれな男として、まだゆるせもしたであろう。けれど、江戸で人が殺されれば、かならずその下手人をつかまえずにはいぬ名奉行さまがある。そのお奉行さまの眼をのがれるには、べつに下手人をたてるにしかず――と、この男たちはそれぞれ策をめぐらした。その白羽の矢をたてられたのが、そなたたち六人の女であった」
 なげくがごとくひくく、しかも澄んだ姫君の声はつづく。
「ふびんなのはそなたらの純情、にくむべきはその純情につけこんだこの男たちの|奸《かん》|悪《あく》――|或《ある》いは恩人面をし、或いは親切顔をし、或いは恋人、或いは夫でさえありながら、娘の、妻の、母としての女のこころをあざむき、もてあそび、まんまと無実の下手人につくりあげた!」
 霞は、きっとなって、六人の男を見すえて、
「これ、そなたらに男の性根があらば、刀をとれ!」
 と、いった。
 男たちは、|愕《がく》|然《ぜん》として、台上の六本の刀をみる。
「霞、あの六人の哀れな女にかわり、いいえ、この世の女すべてにかわり、女の敵として、そなたらの|頭《こうべ》をうちおとしてくれる。|起《た》てっ」
 蓑屋長兵衛は、ぐいっとまわりを見まわした。長槍をたてつらねた牢役人のむれは、すでに|蟻《あり》のはい出るすきまもなくとりかこんでいる。
「どうせのがれられぬ運命じゃ。――やれっ」
 さけぶとともに、六人は土を|蹴《け》たてて台上の刀をうばいとった。とみるまに、まず長兵衛と弥五郎が、獣のごとく反転する。
 ふたりのあいだを、稲妻あられの振袖がひるがえったあと、長兵衛と弥五郎は、おのれの血の散った刑場の土をつかんでいる。
 その血潮を吸った姫君の刃は、すでにがっきと石寺小四郎の刀とかみ合っていた。とみえた一瞬、小四郎の刀身はひッぱずされて、うしろにながれる霞の|一《いっ》|閃《せん》に、しのびよった乾坤堂は胴を|薙《な》ぎはらわれて、横に四、五歩およいでどうところがり、あとを追うようにつんのめっていった小四郎の背に銀蛇の光流がはしった。
 そのまま、身をひくくした霞の頭上で、かっと祖父江主膳と南条外記の刀が青い火花をちらした。花かんざしがきらめきつつまわってとびずさるのを、
「地獄でうぬももてあそんでやろう」
「死ね!」
 追いすがる二条の|剣《けん》|尖《せん》が、|霰《あられ》のごとくたたき折られると、そのまま主膳は|袈《け》|裟《さ》がけに――旋風のごとくまわる|破邪顕正《はじゃけんしょう》の姫君一刀流、みごとに南条外記の美しい顔を|唐《から》|竹《たけ》割りにした。
 それはまさに、血潮とひかりに狂いとぶ一|颯《さつ》の花|吹雪《ふぶき》をみるような一瞬であった。
 茫然として、口をあけたままの人々のまえで、霞さまは刀をなげすて、何事もなかったかのように、シトシトと女囚たちの方へあるいていった。
「牢名主さん」
 地に|這《は》いつくばった天牛のお紺は、蒼い顔をあげたが、声も出ない。
「いうのがおくれましたが、あなたの孫のお蝶さんを殺した男は、けさ死にました。……やがて、役人がその首を見せにくるはずです。それで心が安まったら、元気を出して、もっと生きて――牢の中でいばって下さい」
 それから、微笑の眼で六人の女死刑囚を見わたした。
「お玉さん、お路さん、お関さん、お半さん、おせんさん、お葉さん」
 六人の女もみな地に両腕をついて、顔をあげて霞さまをあおぎ、みひらいた眼から涙をながし、口はあえぎつつ、言葉にならなかった。
「あなたたちはみんな無罪です。父上さまもきっと御承知なさいます。おんな牢を出て、町でもういちど|倖《しあわ》せな暮しができるでしょう。もし、心の傷がふさがらないで、さびしかったら、遠慮なく霞のところへあそびにいらっしゃい」
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