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发表于 2008-5-8 09:49:18
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口译——阅读(第三課)
有点时间的时候想把整本书都敲上来,希望多少能够对同学们有点益处~
文化変容のさまざまな型
文化変容を、接触しあう二つの文化の質によって分けると次の三つの型に分類される。
Ⅰ文明と無文字文化の接触
Ⅱ文明どうしの接触
Ⅲ無文字文化どうしの接触
しかし実際に人類学で問題にしているのは圧倒的にⅠの場合であって、いうまでもなく無文字文化の力の強大なる文明によってほとんど一方的に変えられていくのである。これに加えて日本の場合などはまさにⅡにあたるわけなのだが、Ⅲの場合は、変化が断片的なためか、あまりとりあげられていない。しかし、その例はあちこちにみられるのであって、たとえば北米ニュー・メキシコ州のナバホ・インディアンはもともとは狩猟民であったが、お隣に住むプエブロ・インディアンとの接触を通じて農耕民となった。
次に文化変容をその内容という点から分けてみると、ごく大ざっぱに分けて物質文化と非物質文化の二つに大別することができる。そして世界中どこでも物質文化のほうが変わりやすく、非物質文化のほうが変わりにくいというのが、大体にあてはまる共通した傾向である。日本の場合にしても、衣食住など物質的な面の西洋化に比べると、人間関係や精神的な面の西洋化ははるかに速度が遅く、変化しにくいのである。されにおなじ日本の国の地方差という点に目をむけてみると、物質文化、ことに衣とか食とかの面では、全国どこでも画一化されつつあるのに、方言などはほとんど変わらずそのままの形で残されている。
もうひとつこの文化変容を第三の基準たるその動因によって分類してみれば、力の強い側からの圧力によっておこる場合と、力の弱い側における自由意志によって起こる場合とに分けられるのであって、さらに後者においては、力の弱い側のもつ劣等感が大きく働いている場合が少なくないと思われる。しかし前者の場合の例としてあげられるのは、1636年にツングース族が明の国を滅ぼして清の国をおこし、漢民族を支配するにいたったときの状況であって、アジア北方民族古来の風習である辮髪を強制したのであった。剃頭辮髪令が出て、男子は12-13歳ごろからすべて辮髪にせねばならなくなり、これに従わなかった者数10万人が首をはねられてしまった。新しい慣習がこれほどまでに強制された例というのは、他にあまり類がないと思われるのだが、この慣習は清代300年近くつづき、その末期には前近代的慣習のシンボルのごとく若者たちから反撥をうけ(この辺の事情は魯迅の有名な小説「阿Q正伝」に描かれている)、しまいに廃止されるにいたったのである。
他方、世界のもろもろの無文字民族のあいだにおいて、欧米人の与えた強制的な文化変容はひじょうに多いのであり、一例をあげるとポリネシアのハワイの場合には1820年に、アメリカからプロテスタントの宣教師たちがはじめて訪れたのだが、当時のハワイ住民は男女とも上半身にはなにも着ていなかったので、これに衣服を強制的に着せることを、まず手はじめの仕事としたのだった。そこで男性に対しては洋服を着せることにしたのだが、女性に対しては、船に積んでもってきてあった布地でワンピースを大量生産した。しかし、住民一人ひとりの体にあわせて裁断していたのでは手間がたいへんでおいつかない。そこでだれにでもあうよう、ブカブカノズンドウ型衣服を考案していっせいに配ったのが、ハワイのムームーの起源であり、幸いにハワイの気候によく合ったので、すっかり受け入れられることになった。なおおなじような衣服の強制的導入の例は、南米ブラジルにおいてもみとめられる。アマゾン河流域奥地のシャバンテス族は、男女ともまったくの全裸であることをもってよく知られ、日本語では裸族などとも書かれていたが、大給近達氏によれば、第二次大戦後、1940年代の末にカトリックの宣教師たちは、強制的に洋服を着せることにした。しかし高温多湿の気候のさなかに洋服を着ることに慣れていないため、これによって皮膚病が一時まんえんするにいたったのである。しかしもっと大きな変化はと言えば、従来は裸のところへ酋長その他の身分に応じて、さまざまな装飾をつけ、これが彼らのあいだにおける重要な象徴的意味をもっていたのが、いっせいにおなじような洋服を着るようになったため、いわば象徴体系が崩れ去り、伝統的な社会関係や価値意識がこれまた大きく崩壊したのであった。
(一)
人間は羞恥心のために身体、そしてとくに陰部を隠そうとする本能をもっており、これが衣服の起源だと考える説がある。暑いのをがまんして身体を包もうとする風習をもこれによって説明しようとしているが、よく考えてみると、これには多くの難点がある。そのまず第一はこの羞恥心が実は諸民族ごとにきわめて多種多様であり、決して簡単なものではないという事実だ。
文明社会においては陰部を、そして女性の場合はさらに胸部をも隠そうとするのが一般だが、日本の庶民階級のあいだではもともと女性といえども胸部を人に見せまいとする風習はあまりなく、人前で母乳をのませることもふつうに行われていたのだった。昭和30年代のはじめごろから欧米流の考え方が入ってくるとともに女性の胸はセックス・アピールの対象となり、同時に胸部に対する羞恥心がたちまち生まれてきたと考えてよい。
他方、陰部をかくす風習のほうは、地球上の大部分の地域でみとめられるのだが、例外はいくらでもある。南米アマゾン川流域地方などには全裸で生活するシャバンテスその他の種族がたくさん住んでいる。ことに面白いのはおなじアマゾン川流域のウィトト族の場合で、男はどんな場合でも人前で絶対とりはずさぬ樹皮皮のフンドシをつけているのに、女性のほうは日常全裸で歩きまわるだけでなく、祭の日に着ける広い腰巻の前部にはわざわざ三角形の切り穴がついていて、隠すべき場所を他人に示そうとしているのである。
さらに世界中をながめてみると、隠そうとする身体の部分は民族・種族ごとに異なっている。戦前の中国女性は纏足を他人に見せることをもっとも恥ずかしがり、スマトラ、セレベスの住民の一部はヒザを見せることを恥じる。文明社会の場合についてみても、羞恥心はそのときにつけている衣服の種類によって変化するようだ。日本の女性の場合、和服を着ているときにはフクラハギをはいているあいだは、いつもこの部分を外にあらわしたままで、なんらの抵抗も感じない。だがそのときでも上腿部は出そうとしないのだが、ひとたびショート・パンツや海水着ともなれば平気でこの部分をも露出する。
こうしてみると、羞恥心とは決して本能的なものなのではなく、むしろ逆に、それぞれの習慣によって生み出されたものだおいうことがわかる。さらに言えば、最後にあげた和服、スカート、ショート・パンツの例でわかるように、むしろ衣服でおおい隠されることになった部分が羞恥心の集中する場所だということになってくる。19世紀に人類の結婚史を論じた人として知られる英国の社会科学者ウェスターマルクは、「裸体に対する羞恥心は決して衣服の発生原因ではなく、むしろ衣服の存在によって生み出されたものである」と述べているのははなはだ適切だと思う。どんな文明人でも、子どものときは裸体に対してなんら恥ずかしがることはなかった。一定の年齢に達し、衣服を着せられてから羞恥心をもち始めたのである。
(二)
日本人は欧米志向だと言われてきました。着ている服はフランスのディオール、持っているバッグはイタリアのグッチ、履いている靴はイタリアのフェラガモ。習いたい外国語は、何といっても英語、たまにフランス語かドイツ語……。
こう書くと、「それはひと昔前の日本人で、今の僕たちはそんなことありません。着ている服だって、中国製のTシャツだし、旅行も韓国やタイに行きますよ」という若者の声を聞こえてくるようです。しかし、「では君が聴いているCDの日本産の歌の中にどれほど英語の歌詞がちりばめられているか数えたことはあるかい」と尋ねれば、日本の若者は何もいえなくなってしまうこと請け合いです。
さて、歴史的には、スペインやポルトガルの人々が日本にもたらした文物を戦国の武将たち、とくに織田信長が好んだというのが、ヨーロッパ文化が好きだった歴史上の人物の最初の記録かも知れません。
日本が開国をして欧米を訪れるようになると科学技術面や社会資本面での欧米との格差があまりにも大きいことを、当時の日本人たちは嫌というほど見せつけられました。日本が200年間、国を閉ざしていた間に欧米は長足の進歩を遂げていたのです。
そこで、「脱亜入欧」などという極端な意見を唱える人も出てくる始末で、欧米の真似をして、アジアに日本の植民地を作ろうとする動きも社会で支配的になってきました。すると、すべてを上下の縦の関係で捉えようとする傾向が強い日本人の中では、「欧米は日本より上、アジアは日本より下」と考える人が増えてきたのです。欧米の欠点やアジアの優れた面を見ようとする人、あるいは日本や世界の文化や価値観の多様性を認識しようとする人々は当時の日本社会では力を持ち得ませんでした。
そして1945年8月、アメリカが広島と長崎に落とした原爆によって日本の敗戦が決まり、それまでの日本の歴史的歩みの方法と方向性の間違いは明らかになったわけです。
ところが興味深いことに、戦勝国アメリカの進駐軍が日本に来ると、敗戦国日本の若者たちはアメリカの文明を競って受け入れ、アメリカに憧れたのです。戦後から今日に至るまで51年間というもの、日本人の間ではアメリカに対して、おおよそこのような傾向が続いてきたといっても間違いではありません。
では、あなたの国ではどうでしょうか。私自身がアジアで見たことを率直に言えば、アジアも日本人より心理的にはやや複雑な構造をもっている場合があるにせよ、結局は日本と同じ欧米志向だということです。
こう見てくると、日本人を含むアジアに住む人々は、すべて欧米志向で、自らのアイデンティティーを大切にしない、節操のない人間たちだということになるでしょうか。
自らの住んでいる国が世界中で一番良い国だと信じられる人は幸福には違いありませんが、必ずしも現実を客観的に見ていることにはなりません。これは、かつての封建主義者や軍国主義者が国民を操る方法として使ったやり方です。
私は、アジア人の欧米への憧れは、アジアを活性化してきたと考えるのです。私たちの国や地域にないものを他の場所に求めるということは、私たちアジア人が常により優れたものや環境を手に入れようとしているということです。
ただし、現実の欧米はかつての力を持ち得なくなりつつあります。にもかかわらず、日本人も、他のアジアの人たちも、心が描いた欧米というイメージに憧れているのが現実なのではないでしょうか。
自分にないものを他に求めるのは人間心理に共通した性癖でしょう。それがアジア人に共通した欧米志向なのです。良い点は取り入れるべきでしょうが、相手の国や文化の現実を冷静に見つめ、分析することを忘れるべきではないでしょう。一つの現象や事物の背後に長い歴史・伝統や深い文化があることを見落としてしまったとき、私たちの欧米志向は猿真似以外の何物でもない滑稽極まりないものとなってしまうに違いありません。 |
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