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楼主: demiyuan

[好书连载] [山田風太郎] 忍法帖系列~魔界転生 上

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 楼主| 发表于 2008-5-8 14:58:15 | 显示全部楼层
【二】

 五月十九日の太陽は西へかたむいていた。
 熊本の西方一里――金峰山へむかって歩めば、落日を追うことになる。
 長岡監物のつけてくれるという案内役を断わって、ひとり山へいそぎながら、如雲斎は、武蔵はあれだと思った。落日のことだ。
 曾て武蔵という剣の太陽が中天にかがやいたことがあった。慶長九年に於ける吉岡一門との激闘、また慶長十七年に於ける佐々木小次郎との決闘がそれである。
 が、それは武蔵自身がいっているように、彼が二十八九までのことであって、「それより以来はたずね入るべき道なくして光陰を送った」のである。世間的にいえば、彼はこの剣名高い期間に、出世の馬に乗りそこねたのである。
 無為に光陰を送ったのではない。江戸に出て直接幕府に仕官しようとしたことがある。尾張藩に仕えようとこころみたこともある。筑前の黒田家に奉公の口がきまりかけたこともある。幕府そのものはもとより、他のいずれも大藩であって、彼の大志を見るべきである。小笠原の軍監などいう肩書を持ったこともあったが、おそらく彼ははじめから、たかが十五万石の小藩にじぶんを売りこむ気はなかったであろう。
 要するに武蔵は、そのどれにも|頓《とん》|挫《ざ》した。あまりに高く吹っかけすぎたからだと世人は評した。
 そして、とどのつまり、彼は、細川藩にわずか十七人扶持三百石で骨を埋める結果となった。しかも、最後に骨を拾ってくれた細川忠利も、その翌年にこの世を去ったのである。
 挫折の生涯である。不遇の人生である。薄運の一生である。――表面的に見ればだ。
 ――しかし、如雲斎は、挫折、不遇、薄運の武蔵にひかれた。そういう武蔵であればこそひかれるといっていいほどであった。
 なんとなれば、そんな運命がじぶんに似ていると思うからだ。じぶんも加藤家を辞してから、十余年浪人した。そして、ただ柳生一族というおのれの家名に屈して、ついにまた不本意な仕官をしてしまったが、その漂泊をほとんど生涯つらぬき通した宮本武蔵という人間は、じぶんよりもはるかに強いと思う。最後に彼が細川家に入ったのも、もはやただ墓に入るつもりの心境であったろう。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 14:58:33 | 显示全部楼层
げんに、さっき読むことのできた武蔵の「遺書」ともいうべき文章の中に、なお如雲斎の胸に彫られている数行がある。
「|独行道《どくぎょうどう》」
 と題するもので、
「一、身に、たのしみをたくまず。
 一、われ、事に於て後悔せず。
 一、いずれの道にも、別れを悲しまず。
 一、恋慕の思いに、寄る心なし。
 一、一生のあいだ、欲心思わず。」
 など。……
 世俗的には、まさに武蔵は無為に光陰を送ったが、心の上では、断じて無為に光陰を送ったのではないことを、如雲斎はみとめざるを得なかった。
 如雲斎がこんどの旅を発心したのは、まさにそういう武蔵の心境に触れたいがためであった。入道してもなおたちきれぬ自分の妄執を、彼はいかに|解《げ》|脱《だつ》したか? と、武蔵によって吹きはらってもらう望みを抱いてのことであった。
 果たせるかな、武蔵はここまで到達している。落日はただひとつ、荘厳な炎をあげて沈みつつある。
 ――その落日を追いながら、しかし如雲斎の心には、もうひとつ別の雲がわいていた。
 いうまでもなく、
「死期迫った宮本武蔵を再生させるために、わが師が熊本へ参られておる。すべては九州におゆきになればわかるでござろう。そこにてわが師にきかれませ」
 といった由比正雪の言葉から発した雲だ。
 いまや如雲斎がここへ旅してきたのは、むしろこの言葉に憑かれてのことだといっていい。それ以上、如雲斎は正雪からきかなかった。彼ほどの人物が恐怖のために、それ以上きけなかったのだ。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 14:58:50 | 显示全部楼层
熊本に来て、さらに彼は、長岡監物が奇怪なつぶやきをもらすのをきいた。
「深夜、岩戸山を亡霊のごとき白い影が上ってゆくのを見た者がある。――」
 監物はどういうつもりでいったのかよくわからないが、如雲斎としては、心中にうめきをあげざるを得ない。
 夕焼けの金峰山の山塊を、竹杖をついて如雲斎は上っていった。岩戸山はその一峰だ。
 上ってゆくにつれて、東の空には遠く阿蘇の噴煙のたなびくのが見えた。また西の方、樹間をこえて有明の海の水光が見えてきた。いずれも朱色に染められている。
 岩戸山の雲巌寺にたどりつくと、そこから七八人の武士が走り出て来た。
「待て。……どこにゆかれる」
 これが細川の藩士で、武蔵の門弟たる面々であろう、と見ながら、如雲斎は答えた。
「武蔵どののお見舞いに名古屋から参ったものじゃ。……武蔵どのは、この奥の霊巌洞におわすな」
「名古屋から?」
 さすがにおどろいたようである。
「名は何と申される」
「柳生如雲斎。……兵庫と名乗っておったころ、武蔵どのの知遇を得たものじゃ。左様にお伝え下されい」
「柳生兵庫……どの!」
 およそ、剣法を修行する者で、その名を知らぬ者はあるまい。武士たちは驚きと敬意を浮かべた眼で、まじまじとこの入道頭の|魁《かい》|偉《い》な老人を見まもった。
 すると、ゆくての雲巌寺の方から、またひとり飛鳥のように走り出て来た者がある。
「いけない! 何ぴとであろうと、ここは通してはならぬ!」
 前髪立ちの十七八の少年であった。
「拙者以外には、この門弟の方々も、ここより奥へは入ってはならぬことになっておる。せっかくですが、おひきとり下さい!」
 如雲斎は、じろと若衆を見た。そして、これが監物からきいた、ただひとり武蔵の身辺に侍しているという、たしか伊太郎という弟子であろうと思った。
 その伊太郎がいまここにいるということは、他の弟子たちのところへ用あって来たか、物でもとりに来たのか。――
「藩の重役であっても、ここから帰っていただいておる。おひきとり願いたい」
 と、伊太郎は大手をひろげてまたくりかえした。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 14:59:07 | 显示全部楼层
美少年だが、話にきいていた通り、異様にやつれている。それが眼を血ばしらせて、必死の形相なのだ。
「武蔵どのは御存命でおわすな。ならば、ともかく柳生兵庫が来たと申してもらいたい」
「どなたさまであろうと、きょうはならぬ」
 伊太郎は絶叫した。
「このわしでさえ、きょうはそばにいてはならぬとお師匠さまからいわれたのだ。お帰り下さい!」
「きょうは?」
 如雲斎は、この若者の様子にただならぬものをおぼえた。何事かが、いま武蔵の身の上に起こりつつある、と感じた。武蔵はきょう死ぬのではないか。いまのいま、死につつあるのではないか、それとも、ひょっとしたら。――
 黙って、如雲斎は足を踏み出した。
「ならぬと申すに!」
 伊太郎は刀のつかに手をかけた。如雲斎は重い声でいった。
「どけ」
 伊太郎の刀身がひらめくと、そのまま彼はからだをくの字なりにして、どうと地にたおされて|悶《もん》|絶《ぜつ》している。如雲斎は杖としていた青竹でその胴をなぎはらっただけであった。
「これは|狼《ろう》|藉《ぜき》!」
 そこにいた七八人の武士は騒然とした。一瞬、抜きつれたのは、相手がだれかということを忘れたわけではあるまいが、武蔵の門弟としては当然な反射的行動だ。
 夕焼けに|灼《やき》|金《がね》のごとくかがやいた乱刃は、しかし次の瞬間、|凄《すさま》じい音をたてて、その五本までがたたき折られて宙に飛んでいた。刀身を折ったのは、ただ青竹の|一《いっ》|閃《せん》であった。神技としかいいようがない。
 そのままあともふりかえらず、如雲斎は奥の山道にかかった。そして、棒立ちになって立ちすくんでいる侍たちを、ここではじめてふりむいて、
「来てはならぬぞ」
 と、まるでどちらが武蔵の守護者かわからないような言葉を、ニコリともせずに吐いて、スタスタと山道を上っていった。
 霊巌洞は、雲巌寺の奥の院というかたちで、さらに一山越えたところにある。その途中の夕日もささぬ小暗い杉林の中の小道に、じっと笠をかぶった鼠色の影が二つ立っていた。
 如雲斎がちかづいても、うごこうともしない。――かえって、向こうから、
「そこに参られたは柳生如雲斎どのか」
 と、|錆《さび》をおびた声をかけて来た。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 14:59:31 | 显示全部楼层
【三】

 鼠木綿のきものに、やはり鼠色の|手《てっ》|甲《こう》|脚《きゃ》|絆《はん》、それにいわゆる|六《ろく》|部《ぶ》|笠《がさ》をかぶった――いうまでもなく、六十六部だ。
「どうもそのような虫の知らせがあって、ここまでお迎えに参った」
「――そなたらは?」
 すでにあることを予感しながら、如雲斎はきいた。
「正雪からおききでござろうが」
 こう、やや笑いをおびた声でいうのは、どうやら老人らしく、もうひとりの六部は、若い、というより十七八の少年に見えた。
「まず、間に合うてよかった。武蔵はまだ生きておる。間に合うたということは、やはり例のことを如雲斎どののお眼にかけようと、魔天の神もこころがけられたとみえる」
「何のこと?」
「などと、いまさらおとぼけあるな。あなたがひとりでここに来られたのが、それを見ようという思いに憑かれての何よりの証拠」
 ひくく笑いながら、老六部は暗い杉木立を先に歩く。無礼な言い分である。ふだんの柳生如雲斎なら、決してただではおかぬところだ。にもかかわらず、如雲斎は、その老六部の|仏《ぶつ》|龕《がん》を背負った背を見つつ、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたようであった。
「正雪が田宮坊太郎を以て|御《ぎょ》|見《けん》に入れたはず。……それを、これより宮本武蔵を以てふたたびお見せしようというのじゃ」
「武蔵どのが」
 と、如雲斎は息をつめていった。
「女と交合して……再生するというのか」
「やはり、御存じじゃな」
「――ば、ばかな!」
「如雲斎どの、それが決して荒唐無稽のわざでないことは、田宮坊太郎を以てとくとお知りなされたはず」
「あの若者とはちがう。武蔵どのはことし六十二じゃ。しかも……修行のため、いまだいちどとして妻帯なされたことのない孤高の剣人じゃ。いや、哲人といってもよい。それが。――」
「身にたのしみをたくまず。――恋慕の思いに寄る心なし。――ふふ」
 と、相手はまた笑った。例の「独行道」を知っているのだ。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:00:06 | 显示全部楼层
「そのおのれの生涯を、武蔵は悔いているのでござる」
「なに?」
「あの武蔵ほどの超人的な体力を持っておる男が、一生女知らずに道を求め、悟りを求めて悪戦苦闘、六十二年の命の果てに何を得たか。あわれ、三百石の捨扶持のみ。――いや、禄のことをいうではない、彼もいまさらそれを不服には思うていまい。それ以上の――すべて、ひっくるめて、残ったのはただ|惨《さん》|澹《たん》たる|空《くう》の思いだけではなかったか?」
 そして老六部は「空」そのもののような声でつぶやいた。
「われ、事に於て、後悔せず。――ふふ、ふふ」
「きのどくなことに、武蔵は、恋のみならず剣すらも捨てた」
 杉木立の中の細道を歩きながら、六部はいう。
「実は、われらが武蔵に逢うたのは、こんどがはじめてではない。伊太郎なる弟子の話によれば、七年前、武蔵は島原でわれらを見たことがあるという。――わしが、落城した原の城外で天草四郎などを再生させるのを見たことがあるという。――」
「何という。天草四郎を――天草四郎といえば――」
「にもかかわらず、武蔵は黙して、それを見のがした。武蔵はすでに剣を捨てていたからじゃ。武蔵自身の語によれば、剣法を|一《いち》|分《ぶ》の兵法と呼び、大軍の指揮、政道むきの工夫を|大《だい》|分《ぶ》の兵法と呼ぶ。武蔵は三十にして一分の兵法を捨て、大分の兵法を志したのじゃ。三十以後、武蔵は剣をふるってはおらぬ。少なくとも、人を殺してはおらぬ」
「…………」
「が、思うてもみるがよい。三十以前六十余度に及ぶ決闘のあいだに、武蔵はどれほどの敵を作ったか。その敵が三十以後にどのようなかたちで武蔵のまえに現われたか。これに対して武蔵がついに剣をぬいたことがないということは、その|猛《たけ》|々《だけ》しい気性からして、どれほどの|克《こっ》|己《き》|堅《けん》|忍《にん》を要したか。察するにあまりある。つまり、武蔵はそれほどまでにして大いなる兵法を志したのじゃ。――いかんせん、世はそんな武蔵を求めなんだ」
 老六部は冷たく笑う。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:00:45 | 显示全部楼层
「|斬《き》りたかったであろう。武蔵は、さぞ斬りたかったであろう。……新免武蔵の本領はそこにある。豪剣をふるわざる武蔵というものは存在し得ないのだ。世の人の値ぶみは正しい」
 糸のように細く、しかしぞっとするような声であった。
 このあいだ、もう一方の六部は一語も発せず、ただわらじの音だけをヒタヒタと土にたてている。
「あのとき武蔵が挑んでくれば、ほかにも追手あり、われらとてどうなったかわからぬ。が、武蔵は見のがした。善因善果、見のがしたおかげで、きょうわれらから、文字通り再生の恩を受けようとはな」
「む、武蔵どのは、そのことを承知したのか」
「少なくとも、われらと逢い、言い分はきいた。そして、きょう弟子の伊太郎を遠ざけた。――おのれの死期を、きょうと悟ったからでござる」
「…………」
「|粛殺落莫《しゅくさつらくばく》たる武蔵の人生に、ただいちど、最後にいまや花ひらかんとする。――世の何ぴとも知るまいが、如雲斎どのだけには是非お目にかけたい。ようおいでなされた」
「花」
 如雲斎はいった。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:01:04 | 显示全部楼层
「女がいるか」
「われらがつれて参った」
「どこのいかなる女を」
「お通という女人を」
「お通。――」
「武蔵の生国播磨宮本村の娘で、いまから三十数年前、武蔵を愛し、武蔵もまたふかく愛したが、剣の修行のさまたげになるとついに思い切った女。――」
「その女か」
「いや、その女は捨てられて、嘆いて死んだ」
「では?」
「その女の姪じゃが、名もおなじお通。その母が若くして死んだ姉の名をとってつけたものであろうが、村人にきけば昔のお通にそっくりの娘じゃそうな。年は二十三、それを探して、つれて来た」
「正雪は」
 と、如雲斎は記憶をよび起こしながらいった。
「その女は、当人がふかく恋着しておる女にかぎるといった。武蔵はその二十三の娘に恋着したのか」
「はじめは昔の女の姪と承知しておった。しかし……しだいに迷って来た。その娘と昔の女との見さかいがつかなくなって来た。まず見られい!」
 突如、杉木立を出た。
 一瞬、視界はふたたび朱色に変わった。それは先刻の赤さよりもっと赤い――血に染めつくされたようなひかりであった。
 そこに如雲斎は、それまで想像していたよりもさらに|妖《よう》|異《い》|凄《せい》|絶《ぜつ》の光景を見たのだ。
 彼らはちょうど横から出て来たことになるが、西に向かう岩戸山の中腹に、人の背丈にあまる|窟《いわや》が洞然と口をあけていた。霊巌洞である。
 ふだんなら暗い穴であろうが、ちょうど前面に|俯《ふ》|瞰《かん》できる有明海に朱盆のような落日が沈みつつあるので、そのひかりにぬれて、巨大な獅子が真っ赤な口をひらいているように見える。岩肌から|雫《しずく》がおちているのが、それも血潮さながらに見えるのだ。
 その赤い口の中に、ひとりの武者が端座していた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:01:20 | 显示全部楼层
【四】

 文字通り、鎧武者だ。|甲冑《かっちゅう》というより、|剽悍《ひょうかん》無比の黒ずんだ当世具足の姿だが、それもまた|兜《かぶと》から鮮血をあびたようだ。ただ兜の下の|頬《ほお》|当《あて》のあたりだけが暗かった。ひかりの陰というより、死の|翳《かげ》りのようであった。
「……武蔵でござる」
 老六部はつぶやいた。
「あの鎧姿も、女を魔性のものと見て、それから身を護らんとするあがきでござった」
 さしてひくい声というわけでもないのに、武蔵にはきこえないらしい。耳をすますと、その鎧がカチャカチャと鳴っている。武蔵は、|瘧《おこり》のようにふるえているのであった。
 柳生如雲斎も、立ちすくんだままふるえた。
 洞窟のまえはやや広い空地となっていて、まわりは奇岩と石の五百|羅《ら》|漢《かん》にとりかこまれている。五百羅漢のうち十数個はその広場にたおれて、散乱していた。
 その中に、石の羅漢とは見まがうべくもあらず、一枚のむしろがしかれ、そこに一糸まとわぬ若い女が雪白の裸身を横たえているのであった。
 眼をとじた頭を西へむけて、両肢をひらいて――すなわちひらいた足を武蔵へむけて。
 暗かった兜の下に、二つ燐光のようなものがひかり出した。――武蔵の眼だ。
 おのれが愛し、しかも修行のためについにしりぞけた昔の女――いや、それにそっくりの娘がいま美しい裸身を夕焼けにぬらして横たわっているのを眼前にして、いままで武蔵の胸にいかなる思念が渦まいていたのか。
 一瞬、青く燃えたその眼には、あきらかに苦悶がはためきすぎたようであった。いまや耳をすまさずとも、その鎧の音はいよいよはげしく鳴りさやいだ。
 ふいに彼はぬうと立ちあがった。
 あごの緒に手をかけて兜をぬいだ。腰におびた陣刀をはずした。頬当をとり、胴丸をぬぎ、膝当を去り――ことごとくこれを投げすてた。鎧を迅速につけ、またぬぐのはもののふの習練の一つだが、この場合、それはこがらしに巨木が枯葉をふり散らすように見えた。
 そしてそこに、裸の武蔵が立った。
「……む、武蔵どの!」
 如雲斎は両腕をさしのばしてうめいたが、うめいたことを意識しなかった。声にもならなかった。また声になったとしても、武蔵に聴感覚はないように思われた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:01:36 | 显示全部楼层
兜をとった武蔵の髪は灰色であった。くしけずったことのない|蓬《ほう》|々《ほう》[#電子文庫化時コメント 底本は濁点付き大返しであるが、参照したすべての版・大辞林は「ほうほう」]たる髪、渦をまいてまばらにのびている頬ひげ、はねあがった眉、高い鼻、えぐったようにこけた頬――それは昔見た通りの武蔵の相貌にまぎれもないが、あきらかに老いている。それ以上に、病みやつれている。
 ただ裸になった六尺ゆたかの肉体は、ふとい骨格の上に筋肉を盛りあがらせて、一見壮年と変わらない。
 曾て見た独特の茶金色の眼が、いまぶきみに青くひかっている。――如雲斎たちには視線もくれず、その眼は地上の女身に吸いつけられている。
 武蔵は歩み出した。
 そして柳生如雲斎は、この老武蔵が朱金の落日の中で女を犯すのを目撃したのである。愛撫というより、それは老いたる獅子の交合のごとく凄絶、むしろ荘厳の気をおびた光景であった。
 ――日が|昏《くら》くなった。朱盆のような太陽が不知火の海に落ちたのだ。
 |仄《ほの》白い|裸形《らぎょう》に覆いかぶさった武蔵のからだは、いつしか黒ずんで、うごかなくなっていた。それは花にとまった巨大な黒い|蜘《く》|蛛《も》のように見えた。
「忍法魔界|転生《てんしょう》、ここに成る」
 と、老六部がつぶやいた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:02:07 | 显示全部楼层
【五】
       
「四郎、武蔵はすでに女に入った。介抱してやれ」
 もうひとりの六部がすすみ寄って、うごかぬ武蔵のからだを朽木でも移すようにひきおとし、女を助けて立たせ、そばにぬぎすてられたきものを手わたした。如雲斎は悪夢からさめたようにいった。
「武蔵どのは――死んだのでござるか?」
「いや、女の胎内で生きておる」
 若い六部に手をひかれて、女が歩いて来た。いまの無惨の姿態は、あれは夢ではなかったかと思われるような、おぼろ月のような佳人であった。
 むろん、はじめて見る顔だが、如雲斎はどこかで見たような気がした。――そして、あれはお類という娘であったと思い出した。田宮坊太郎を再生させた娘だ。もとより容貌はまったくちがう。それにもかかわらず、どこか非常によく似た感じなのだ。
 半透明な、青味をおびた皮膚、美しい顔に似合わぬ凄壮なひかりをはなつ眼、しかも、どこか夢の中にいるような、何かに憑かれたような感じがそっくりなのであった。
「武蔵はこの女の胎内におります」
 と、老六部はくりかえした。
「いや、こうしている間にも刻々と子宮から腹中にひろがりつつあります」
 うすら笑いを浮かべて、ちょっとあたまを下げた。
「如雲斎どの、ではおさらばでござる」
「待て」
 如雲斎は呼んだ。
「そなたは何者だ。名を名のれ」
「森宗意軒」
「何?」
「天草の乱、原の城で死んだといわれる森宗意軒は、ここにかくのごとく生きておる」
「森宗意。――」
 かっと眼をむいて、銀のような白髪とひげに覆われた枯木みたいに痩せた長身の老六部を凝視したまま、柳生如雲斎の脳髄はしびれたようであった。
「おなじく、ここにおるは、天草四郎時貞」
 六部笠の下で、十七八の少年は、にっと妖しく笑った。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:02:37 | 显示全部楼层
天草四郎は七年前島原で死んだ。ときに十七歳か十八歳かであったという。それなのに、いま天草四郎と紹介されたその少年は、依然として十七八に見える。――とはいえ、如雲斎にはそんなことを怪しむ余裕はない。
「と申しても、常人ならば信じまいが、田宮の一件をごらんになった以上、如雲斎どのならばお信じいただけよう。では」
「ま、待て」
 如雲斎は思わず手をさしのべた。
「な、ならば天下の逆賊、さなきだにこの怪事を見せて、やわかわしがこのまま見逃がすものと思うておるか?」
 正雪に吐いたのと同じ言葉を、ふたたび如雲斎は吐かずにはいられなかった。
 森宗意軒はおちつきはらってうなずいた。
「その通り」
 うす笑いを消さずにいう。
「わしらを斬られれば、武蔵はもはやこの世にあらわれることはできぬ。……如雲斎どの、もういちどあの不幸不遇なる大剣士を、この地上に見とうはござらぬか?」
 如雲斎は、息のつまったような顔をした。
 ――少なくともあと一ト月たてば、眼前にいるこの美しい娘のからだを押し破って、武蔵が再誕してくることが可能であることを、彼は知っていた。
「あなたならば、もういちど武蔵を|甦《よみがえ》らせたいはず。武蔵に――あくまで武蔵でありながら、別の人生を送らせてみたいとお思いのはず」
 と、森宗意軒はいった。しずかな声であったが、それにきまっている、という絶大な自信のひびきがあった。
「とすると、この女人を逃がすよりほかはない。またわれらを見逃がすよりほかはない。――」
 |髯《ひげ》の中で、きゅっと笑った。
「そう思って、お呼びしたのでござるよ。いや、そもそものはじめから、田宮の一件をわざわざお見せしたのでござるよ」
「宗意。……なぜ、わしに見せた? なぜ、このわしをえらんだ?」
 如雲斎は恐怖の声を発した。恐ろしいのは、相手のふるう驚倒すべき忍法よりも、むしろそのことであった。
「正雪よりおききのことと存ずるが、……いずれあなたも魔界に|転生《てんしょう》していただこうと思うてな」
「――わしを」
「これで、魔界に転生するだけの力、望みを抱いておる人間は、ありそうで存外ない。わしは探しておる。先年来より探し、またこれからも探そうとしておる。あなたはその貴重なる人材のおひとりで」
「な、なんのために?」
「いずれそのことは、あなたが魔界へ転生されてから申しあげる」
「いつ? ……それは、いつのことじゃ?」
「さあて」
 森宗意軒は、くぼんだ|眼《がん》|窩《か》の奥から、|梟《ふくろう》みたいな眼で如雲斎を見た。如雲斎の背に冷気がながれた。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:03:05 | 显示全部楼层
「ふふ」
 と、宗意軒はやがてふくみ笑いをした。
「それもいずれ。……あなたがこの世を去られるまえに、わしがお訪ねして申しあげる。万事は、その節」
 そして老六部は、若い六部と女をうながした。
 すでにまったく海の果ての残照も消えて、|蒼《そう》|茫《ぼう》たる山肌を、彼らは「亡霊のごとき白い影」として西へ下ってゆく。
 彼らはどこへゆくのか?
 それをきこうとして、如雲斎はきく気力すら失っていた。
 世の人が知ったら|震《しん》|駭《がい》せざるを得ない人物、生きているはずのない七年前の天草の乱の首謀者、天草四郎と森宗意軒と名乗られながら、如雲斎は人も呼ばず、追いもせず、彼自身の方が死びとと化したかのように凝然と立ちすくんで見送っているばかりであった。
 そして――柳生如雲斎は、やがて岩戸山を下り、熊本を去ったが、ついにこの怪異を他にもらすことがなかった。

 ――正保二年五月十九日、宮本武蔵死す。彼は岩戸山の洞で、具足をつけたまま|結《けっ》|跏《か》|趺《ふ》|坐《ざ》して死んだとも、まだ息のあるうちに門弟らが背負ってはこび、熊本の私邸で死んだとも世には伝える。
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:03:25 | 显示全部楼层
地獄篇第四歌


     【一】

 正保三年二月半ばのある午後のことである。
 名古屋広井郷にある柳生家の下屋敷に、また奇妙な来訪者があった。また――というのは、取り次ぎに出た侍の頭を、ちょうど一年ばかりまえにやってきた幽鬼のような田宮坊太郎のことが、ちらとかすめたからだが、しかしこの屋敷の門を、風変わりな客がたたくのは、さほど珍しいことではない。主としてそれは兵法者である。
「如雲斎先生はおいででおわそうか」
「御用は?」
「一手御指南をたまわりたい」
「あいや、それならば名古屋三の丸にある御本邸の茂左衛門先生の方へお回りねがいたいが」
「それが、存ずるところあって、是非如雲斎先生とお手合わせねがいたいのでござる」
 こういう問答は、例によって例のごとしだ。隠居したとはいえ、如雲斎の剣名の方が高いからである。
「如雲斎先生は、去年から京へゆかれてお留守でござるが」
「ほ、京のどこへ」
「一応、|洛《らく》|西《せい》妙心寺の中に|草《そう》|廬《ろ》を結ばれておるが、しかしいまもそこにおわすかどうか、しかとはわからぬ」
 そう答えながら、侍はまじまじと訪問者を見つめていた。
 風変わりな旅の兵法者は多いが僧とは珍しい。――玄関に立っているのは、雲水だったのである。しかも、槍を立てている。その上、美しい女をひとりつれている。――
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 楼主| 发表于 2008-5-8 15:03:45 | 显示全部楼层
年はもう五十をこえているであろう、背は五尺そこそこと見えるほどひくいが、横はばは異常にひろく、まるで碁盤みたいに頑丈なからだである。くりくりと|剃《そ》ったというより、|禿《は》げた大きな頭に、眼がギョロリとひかっていた。澄み切って|精《せい》|悍《かん》きわまるその眼は、日にやけて黒びかりしている頭に似ず若々しい。とにかく、ただ者でない眼光である。
「……御坊、槍をお使いなさるのか」
「されば。――」
 と、いったまま、雲水は思案している。如雲斎不在ときいて失望したらしい。
「……やむを得ぬ。またいずれかの日、参るとしよう」
 と、うなずいて、雲水はうしろの女をかえりみた。
「佐奈、ゆこう」
「あいや、念のため承っておきたい。御姓名は?」
 槍をあやつる雲水とは――と、好奇心にかられて侍はきいた。
「愚僧、宝蔵院|胤舜《いんしゅん》と申す」
 みじかく答えて、その老いたる金剛力士のような雲水は、|網《あ》|代《じろ》|笠《がさ》をかぶりなおし、長大な槍をかついだまま、スタスタと門の方へ出ていった。女がそのあとを追う。
 あっ――と口の中でさけんだきり、侍は眼をむいてそのうしろ姿を見送った。
 取り次ぎの侍は、田宮坊太郎が訪れてきたときよりも驚いた。
 それはそうだろう。宝蔵院という名は、兵法の道に入った者なら誰でも知らぬ者はない。
 奈良の宝蔵院は、興福寺四十余坊の一つで、春日明神の社務を担当しているものだが、戦国時代、その院主に|胤《いん》|栄《えい》なる者あり、僧にして刀槍の術を好み、柳生石舟斎などとともに剣法を上泉伊勢守に学び、やがて槍術を独創して宝蔵院流の名を世にとどろかせるに至った。この胤栄を初代とする。
 爾来、この宝蔵院では、ここに勤める僧のうち、仏道ならず槍術に長ずる者を住持とする不文律をたて、これによって二代目をついだのが――いま、名乗った|胤舜《いんしゅん》だ。
「その槍法神に入る」
 という噂はきいたことがある。
 が、その胤舜も、もう十数年まえに院主の地位から去り、すでに宝蔵院は三代目胤清にゆずられたときいている。が、この胤清は先代ほどの達人ではないということも耳にしたことがある。――その達人胤舜が、|飄然《ひょうぜん》としてこの尾張柳生の如雲斎を訪ねてこようとは。――
 かんがえてみれば、いままで訪ねてこなかった方がおかしい。
 たったこれだけの挨拶で帰ってもらっていい人物ではない、と取り次ぎの侍は狼狽したが、しかし、どうすることもできなかった。さっき胤舜にのべた口上は、まさにその通りだったのである。去年の夏、九州からいちど帰った柳生如雲斎は、かねてから親交のあった妙心寺の霊峰禅師のもとへ参禅にゆくと称して、また京へ旅立ったのである。
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