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发表于 2008-8-16 22:26:10
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半世紀ほど前、川端康成が本紙に連載した『女であること』に、主人公らが都内遊覧に興じる場面がある。ガイドがなかなかの名調子だ。〈この東京は、四季折り折りの変化は申すまでもなく、朝に夕に刻々と、移り変っているのでございます……〉。「はとバス」である
大概半个世纪以前,川端康成在本报连载的《因为是女子》中,有一段描写主人公们兴致勃勃的游览东京的场面。导游非常的口齿伶俐道“东京不仅四季变化分明景色各异,就连这从早到晚的景色也是一直都在变化之中的……”这里说的就是“鸽子巴士”的导游。
▼戦後の東京見物を担ったバス会社が、おととい、設立60周年を迎えた。「お一人でも乗れる観光バス」が実際に走り出すのは1949(昭和24)年。地方からの家族連れや、異国の旅人に、変わり続ける首都の姿と新風俗を紹介してきた
战后负责提供东京观光巴士的巴士公司,前天迎来了其成立60周年的纪念日。“您一个人也可以乘坐的观光巴士”首次发车是在1949(昭和24)年。在这60年来一直持续不断的为从各地带着家属前来的游客和外国友人提供观光巴士,为他们展示着首都日新月异的变化与风貌。
▼隅田美枝子さん(67)がガイドになったのは、川端作品の後、18歳の時だ。女性では屈指の人気職種で、10倍を超す難関だった。高校時代は放送部、案内の口上や歌は家でも磨いた
隅田美枝子(67)就是在看了川端康成的作品之后成为导游的,当时她只有18岁。这是在女性之中屈指可数的人气职业,要想胜任需要经历比平常难过十倍的艰辛。高中时候她就在广播部磨练自己的口才,在家里也不停的练习导游的语言方式与才艺。
▼国会議事堂前から皇居のお堀端を北に進めば、靖国の社(やしろ)が見えてくる。そこで「九段の母」や「東京だよおっ母さん」を歌うと、老夫婦らがよく泣いた。終戦からまだ15年、わが子や夫を戦地で亡くした人はいくらもいた
从国会议事堂前顺着皇宫的护城河向北走的话,就能够看到靖国神社。如果在那里唱起“九段之母”和“东京哟母亲”,常会引得周围的老夫妇哭泣。那时候自从停战为止仅仅过了15年,很多人的丈夫和孩子都在战争之中阵亡了。
▼疎開の記憶もおぼろげな隅田さんは、新米ガイドの歌に涙する客に打たれた。他方、貸し切りで迎えた修学旅行生とは、姉妹のような交流が生まれた。「あの時代と、あの人たちをいとおしく思う」と語る
对那段战争只有模糊的零散记忆的隅田,被那些为“新米”导游的歌曲而流泪的顾客所打动。另外,还有很多包车进行修学旅行的学生们,隅田也和他们结下了姐妹一样的友谊。“那个时代和那个时代的人们都很可怜,也非常可爱” 隅田这样回忆道。
▼四季を重ねるたび、車窓の街は復興から高度成長へ、淡彩から原色へと豊かになった。「走る戦後」である。敗戦で生まれ変わった日本に通じる「はと」の名は素朴だが、時代がひと回りしたせいだろうか、古臭くはない。黄色の車体には、いまも平和の鳥が飛ぶ。
四季不停的交替,车窗外面的街道由复兴到高速成长,从淡彩变为原色,不断的丰富起来。这就是“战后的高速发展”。飞翔于战败后重生的日本的“鸽子”名虽朴素,却丝毫不显得陈旧,是因为时代再次轮回了的缘故吗?黄色的车身,现在也如和平的鸟儿一样飞翔着。 |
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