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我想自己寫報告 不想抄網路上的 但是我又看不太懂內容的意思 誰可以幫我翻譯中文好讓我懂文章意思 我要用自己現在的日文能力來表達文章的內容 謝謝
本名、直柔(なおなり)。通称の「龍馬」は、生れる前に龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を母が見たことによる。1835年、土佐藩高知の郷士(下級藩士)の家に生まれる。18歳の時に江戸へ出て千葉定吉の道場で剣を学ぶが、そこで遭遇したのが黒船来航事件。龍馬は攘夷思想の影響を受け、翌年の帰郷後は藩の尊攘派・武市半平太に接近。1861年(26歳)、半平太が結成した土佐勤王党に加盟して尊王攘夷運動に係わって行く。藩に所属していては自由な行動が出来ないので翌年に脱藩を敢行(27歳)。攘夷の気運の高かった長州を経て江戸に入り、幕府の軍艦奉行・勝海舟の自宅へ「(話が通じなければ)目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ」と論戦を挑みに行くも、逆に渡米体験のある勝の視野の広さに驚愕しその弟子となる。攘夷論を棄てた龍馬は勝の右腕となって幕府の近代海軍創設計画に参加し、神戸海軍操練所設立の塾頭となる(倒幕派なのに幕府軍を強化するのは矛盾しているようだが、ペリー来航のおり、国防の為にも海軍の充実は必要だと思っていた)。
勝のおかげで脱藩の罪は許されたが、土佐藩が勤王党への弾圧を激化させた為、帰藩命令を拒否して再度脱藩。勝が幕府内の保守派に疎んじられて失脚した後、勝の計らいで龍馬は西郷のいる薩摩藩へ身を寄せる。
吉田松陰、高杉晋作ら優れた人材を輩出し、反幕府の先陣を切る長州藩と、諸藩の中で最強の軍を持つ薩摩藩との連合が、倒幕の為に絶対に不可欠と龍馬は考えていたが、1864年、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲となってしまう。多くの犠牲者を出した長州藩では薩摩の人間を「薩賊」と呼んで憎んだ。龍馬は「事を起こすのにまず資金が必要」と、翌1865年(30歳)、日本で最初の会社組織と言われる貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立し海運業に励み、経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなっていく。※海援隊は身分にこだわらず、菓子屋や町医者など様々な人材で構成されていた。「海援隊には役者もおれば乞食もおるが、腹わただけはきれいだぞ」(龍馬)。
長州藩は来たるべき幕府側の長州征伐を前に、最新鋭の武器を欲していた。しかし幕府は『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、武器購入は不可能。文字通り藩存亡の危機に瀕していた。そこで龍馬は親交のあった西郷に働きかけ、薩摩藩の名義を借りて軍艦・銃砲を購入し、長州藩に調達するという一計を案じた。作戦は大成功。新式の武器を大量に手に入れた長州藩は、薩摩藩が幕命に反してでも名義を貸してくれたことで、わだかまりが消えていく(実際、第二次長州征伐では30倍もの幕府軍を蹴散らした)。龍馬が仲介となって両者は急接近し、悲願だった薩長の軍事同盟締結が現実味を帯びてきた。1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。しかし!同盟へ向けた話し合いが10日目に入っても、互いに「我が藩と同盟を結んでくれ」と切り出せないでいた。先に言った方が“お願いする”立場になるからだ。
長州への帰り支度を始める桂小五郎に龍馬が詰め寄ると「もし長州から和解を申し入れれば、幕府との戦争を控え危機にある長州が、薩摩に情けを求めることになる。たとえ和解が成立せず長州が焦土となろうとも、面目を落とすことは出来ない」との返事。彼は激怒した。「長州の対面云々、一応うけたまわろう。しかし元来、薩長の和解はこの日本国を救わんがためなれば、一藩の私情は忍ばざるべからず!」。藩の名誉や利益は関係ない、今日本を新たな世の中に変えなくてどうする、この談判に桂は心を動かされる。一方、西郷もまた龍馬から無情を痛論され、桂の心情を察して自分から同盟を申し込むことを約束する。1866年1月21日、ここに日本の歴史を変える薩長同盟が締結された!
その3日後の深夜3時。龍馬が宿をとる伏見・寺田屋に奉行所の役人たちが踏み込んだ。彼が長州藩士の三吉慎蔵と同盟締結の祝杯を酌み交わしていると、龍馬に惚れる楢崎お龍が外の異変を2人に知らせた。宿に突入してきた役人と対峙した龍馬はピストルで相手の出鼻をくじく。彼は右手に深手の刀傷を負いながらも何とか薩摩屋敷に脱出したが、2名の役人を射殺したことで龍馬は奉行所の恨みを買う。
この事件後、龍馬とお龍は正式に結婚。傷の治療には鹿児島・霧島の温泉が良いという西郷の勧めもあって、薩摩藩の汽船で日本初と言われる「新婚旅行」を敢行、高千穂の峰を登ったり温泉に入ったりと行楽を楽しんだ。
翌1867年6月、龍馬は京に向かう船中で大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考える。土佐藩はそれを基に幕府へ建白し、10月14日、ついに将軍慶喜の大政奉還を実現させる。
1ヵ月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋の裏庭の土蔵に密室を造って、そこを隠れ家にしていた。裏手の誓願寺への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪していた同志・中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。さらに2人の仲間が加わり談笑していると、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食おうぜ」と言い、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)を鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の下僕藤吉の3人。その直後、十津川郷士と名乗る七人の男たち(通説では幕府見廻り組の佐々木唯三郎等)が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。龍馬は藤吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ3人の刺客が飛び込み、不意を突かれた両名は剣を抜く間もなく、龍馬は前頭部を斬られ、中岡は全身を10箇所以上斬られた。賊が去った後、龍馬は刀の表面に映った自分の傷を見て「脳をやられたからもう駄目だ」と言い絶命した。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日だった。
虫の息だった中岡は、暗殺時の状況を伝えた後、翌々日に息絶えた。龍馬の葬儀は死の3日後に近江屋で執り行われ、亡骸は中岡や藤吉らと共に京都東山霊山(りょうぜん)に埋葬された。その後、龍馬の非業の死から一ヶ月も経たずして王政復古の大号令が発され新生日本が誕生した。
[ 本帖最后由 龙猫 于 2009-1-31 15:24 编辑 ] |
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