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[其他问题] 本名、直柔(なおなり)。

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发表于 2009-1-28 21:47:09 | 显示全部楼层 |阅读模式
我想自己寫報告 不想抄網路上的   但是我又看不太懂內容的意思  誰可以幫我翻譯中文好讓我懂文章意思 我要用自己現在的日文能力來表達文章的內容  謝謝  




本名、直柔(なおなり)。通称の「龍馬」は、生れる前に龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を母が見たことによる。1835年、土佐藩高知の郷士(下級藩士)の家に生まれる。18歳の時に江戸へ出て千葉定吉の道場で剣を学ぶが、そこで遭遇したのが黒船来航事件。龍馬は攘夷思想の影響を受け、翌年の帰郷後は藩の尊攘派・武市半平太に接近。1861年(26歳)、半平太が結成した土佐勤王党に加盟して尊王攘夷運動に係わって行く。藩に所属していては自由な行動が出来ないので翌年に脱藩を敢行(27歳)。攘夷の気運の高かった長州を経て江戸に入り、幕府の軍艦奉行・勝海舟の自宅へ「(話が通じなければ)目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ」と論戦を挑みに行くも、逆に渡米体験のある勝の視野の広さに驚愕しその弟子となる。攘夷論を棄てた龍馬は勝の右腕となって幕府の近代海軍創設計画に参加し、神戸海軍操練所設立の塾頭となる(倒幕派なのに幕府軍を強化するのは矛盾しているようだが、ペリー来航のおり、国防の為にも海軍の充実は必要だと思っていた)。
勝のおかげで脱藩の罪は許されたが、土佐藩が勤王党への弾圧を激化させた為、帰藩命令を拒否して再度脱藩。勝が幕府内の保守派に疎んじられて失脚した後、勝の計らいで龍馬は西郷のいる薩摩藩へ身を寄せる。

吉田松陰、高杉晋作ら優れた人材を輩出し、反幕府の先陣を切る長州藩と、諸藩の中で最強の軍を持つ薩摩藩との連合が、倒幕の為に絶対に不可欠と龍馬は考えていたが、1864年、両者は“禁門の変”で武力衝突をし犬猿の仲となってしまう。多くの犠牲者を出した長州藩では薩摩の人間を「薩賊」と呼んで憎んだ。龍馬は「事を起こすのにまず資金が必要」と、翌1865年(30歳)、日本で最初の会社組織と言われる貿易商社・亀山社中(後の海援隊)を長崎で設立し海運業に励み、経済を通して薩摩藩と長州藩の橋渡しとなっていく。※海援隊は身分にこだわらず、菓子屋や町医者など様々な人材で構成されていた。「海援隊には役者もおれば乞食もおるが、腹わただけはきれいだぞ」(龍馬)。

長州藩は来たるべき幕府側の長州征伐を前に、最新鋭の武器を欲していた。しかし幕府は『長州藩への武器売却まかりならぬ』と禁制を出しており、武器購入は不可能。文字通り藩存亡の危機に瀕していた。そこで龍馬は親交のあった西郷に働きかけ、薩摩藩の名義を借りて軍艦・銃砲を購入し、長州藩に調達するという一計を案じた。作戦は大成功。新式の武器を大量に手に入れた長州藩は、薩摩藩が幕命に反してでも名義を貸してくれたことで、わだかまりが消えていく(実際、第二次長州征伐では30倍もの幕府軍を蹴散らした)。龍馬が仲介となって両者は急接近し、悲願だった薩長の軍事同盟締結が現実味を帯びてきた。1866年、正月明けの京都で薩摩・西郷隆盛と長州・桂小五郎のトップ会談が始まる。しかし!同盟へ向けた話し合いが10日目に入っても、互いに「我が藩と同盟を結んでくれ」と切り出せないでいた。先に言った方が“お願いする”立場になるからだ。

長州への帰り支度を始める桂小五郎に龍馬が詰め寄ると「もし長州から和解を申し入れれば、幕府との戦争を控え危機にある長州が、薩摩に情けを求めることになる。たとえ和解が成立せず長州が焦土となろうとも、面目を落とすことは出来ない」との返事。彼は激怒した。「長州の対面云々、一応うけたまわろう。しかし元来、薩長の和解はこの日本国を救わんがためなれば、一藩の私情は忍ばざるべからず!」。藩の名誉や利益は関係ない、今日本を新たな世の中に変えなくてどうする、この談判に桂は心を動かされる。一方、西郷もまた龍馬から無情を痛論され、桂の心情を察して自分から同盟を申し込むことを約束する。1866年1月21日、ここに日本の歴史を変える薩長同盟が締結された!

その3日後の深夜3時。龍馬が宿をとる伏見・寺田屋に奉行所の役人たちが踏み込んだ。彼が長州藩士の三吉慎蔵と同盟締結の祝杯を酌み交わしていると、龍馬に惚れる楢崎お龍が外の異変を2人に知らせた。宿に突入してきた役人と対峙した龍馬はピストルで相手の出鼻をくじく。彼は右手に深手の刀傷を負いながらも何とか薩摩屋敷に脱出したが、2名の役人を射殺したことで龍馬は奉行所の恨みを買う。
この事件後、龍馬とお龍は正式に結婚。傷の治療には鹿児島・霧島の温泉が良いという西郷の勧めもあって、薩摩藩の汽船で日本初と言われる「新婚旅行」を敢行、高千穂の峰を登ったり温泉に入ったりと行楽を楽しんだ。
翌1867年6月、龍馬は京に向かう船中で大政奉還など八ヵ条の構想「船中八策」を考える。土佐藩はそれを基に幕府へ建白し、10月14日、ついに将軍慶喜の大政奉還を実現させる。

1ヵ月後、運命の11月15日。寺田屋事件の後、京や大阪に人相書が出回っていた龍馬は、京都河原町蛸薬師の醤油商・近江屋の裏庭の土蔵に密室を造って、そこを隠れ家にしていた。裏手の誓願寺への脱出ルートも作って万全を期していたが、この日の龍馬は風邪気味で、土蔵の中は寒さがこたえるからと、夕方から来訪していた同志・中岡慎太郎と母屋の二階で火鉢にあたっていた。さらに2人の仲間が加わり談笑していると、龍馬が「栄養たっぷりの軍鶏(しゃも)鍋でも食おうぜ」と言い、20時半ごろ一人(菊屋峰吉)を鶏を買いにやらせた。もう一人も所用で帰り、この時点で母屋にいたのは龍馬、中岡、龍馬の下僕藤吉の3人。その直後、十津川郷士と名乗る七人の男たち(通説では幕府見廻り組の佐々木唯三郎等)が訪問し、龍馬の部屋に案内する藤吉を背後から斬りつけた。龍馬は藤吉が倒れる音を聞いて部屋の外でふざけていると思い「ほたえな!(騒ぐな!)」と声をかける。そこへ3人の刺客が飛び込み、不意を突かれた両名は剣を抜く間もなく、龍馬は前頭部を斬られ、中岡は全身を10箇所以上斬られた。賊が去った後、龍馬は刀の表面に映った自分の傷を見て「脳をやられたからもう駄目だ」と言い絶命した。この日は奇しくも龍馬の32回目の誕生日だった。
虫の息だった中岡は、暗殺時の状況を伝えた後、翌々日に息絶えた。龍馬の葬儀は死の3日後に近江屋で執り行われ、亡骸は中岡や藤吉らと共に京都東山霊山(りょうぜん)に埋葬された。その後、龍馬の非業の死から一ヶ月も経たずして王政復古の大号令が発され新生日本が誕生した。

[ 本帖最后由 龙猫 于 2009-1-31 15:24 编辑 ]
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发表于 2009-1-28 22:05:58 | 显示全部楼层

参考まで

你要是说自己翻译完之后,让别人修改,还可能有人帮你。
直接让别人翻译,挺难
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 楼主| 发表于 2009-1-28 22:22:48 | 显示全部楼层
但是我就是看不懂那麼深的日文  所以才需要有人幫我翻成中文
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发表于 2009-1-28 22:26:17 | 显示全部楼层
没这时间,太长了。。。。。
看有没有好心的加上很闲得人。。。。。。。。。
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 楼主| 发表于 2009-1-28 22:34:13 | 显示全部楼层
誰可幫幫我  
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发表于 2009-1-28 22:38:57 | 显示全部楼层
好好先生都发话说不行了
基本上就是不行哦

给你个百度百科看看吧
http://baike.baidu.com/view/83618.htm
坂本龙马

简介
  
  日本明治维新时代的维新志士,倒幕维新运动活动家,思想家。1835年1月3日出生。原名直柔,别名才谷梅太郎。土佐藩出身,生于从豪商才谷屋分出来的商人乡士的家庭。1861年加入土佐勤王党,参加尊王攘夷运动。1862年入幕府军舰奉行胜海舟门下,受其开明思想影响。后经胜海舟介绍,结识西乡隆盛,并得到萨摩藩(今鹿儿岛县)的援助,于1863年在长崎龟山创建“社中”(又称龟山队),从事海运贸易,为倒幕派购入枪枝弹药及军粮。1866年奔走游说于萨摩藩、长州藩(今山口县)倒幕派之间,促致两藩于同年 3月缔结“萨长倒幕联盟”密约 。1867 年回土佐藩,改组“社中”,成立附属于藩的海援队,自任队长。海援队实际上成为倒幕派兵站。同年7月 10~13日 ,在从长崎到兵库(今神户市一区)的航行中,提出“船中八策”,强调政权归还天皇朝廷,并设想建立以天皇为中心的新的国家政权体制。经过他的努力 ,7月23~27日 ,又先后缔结萨摩、土佐两藩盟约(萨土盟约)和萨土艺三藩约定(艺即安艺,在今广岛县),进一步扩大了倒幕统一战线。后通过同藩的后藤象 二 郎说服藩主山内丰信 ,促其劝告幕府将军德川庆喜“奉还大政”。1867年12月10日夜,在京都与同藩倒幕派人士、陆援队队长中冈慎太郎商谈时,被刺客暗杀。
[编辑本段]
生平
  熟悉战国历史的朋友,一定记得明智光秀的封地中心是在坂本城。坂本姓氏,正是源之于此。
  明智光秀之婿明智秀满(左马之助),传说未死于山崎合战,而是逃到了土佐的长冈郡,四代至八兵卫,开了一家居酒屋“才谷屋”,六代至八郎兵卫,始取得乡士资格。八郎兵卫大名直益,正是坂本龙马(本名直柔)的祖父。
  坂本龙马天保六年11月15日(1836年1月3日)出身于土佐藩(位于日本四国岛,今高知县)高知城下上町(今高知市本丁筋一丁目)富裕乡士家庭。他的祖辈经营才谷屋酒店,出售清酒,后取得乡士身份,即出钱购买的武士阶层中最低的一种。其父坂本八平直足,母亲幸氏。据说其母怀孕时梦见云龙奔马在腹内飞腾,因而取名龙马。
  因此,龙马和其它大部分维新志士不同,一是身份低微,只是个乡士,再就是非常有钱(才谷屋是土佐数一数二的大商家)。
  1849年14岁时开始学习“小栗流”剑术。1853年(嘉永六年)北上江户学习“北辰一刀流”剑术,同时学习炮术。此时美国的佩里海军准将到日本递交国书要求开国通商,日本史称“黑船来航”。
  1855年,十九岁时去江户,在千叶周作门下学剑术,受培理来日一事的刺激,与水户攘夷论者交往。翌年回乡与河田小龙结识,立志于振兴海军和海外贸易,与近藤长次郎等结交。
  1858年(安政五年)在土佐学习洋式炮术。1861年(文久元年)加入武市瑞山倡导的土佐勤王党,活动于京坂和长州之间。1862年因反对土佐藩的政策而脱藩。
  1862年(文久二年)谋刺从美国学习海军军事归国的幕府开明派重臣胜海舟,被胜海舟的见解所倾倒。胜海舟告诉他在世界列强林立的时代,日本国内各藩相争毫无意义。坂本龙马拜胜海舟学习海军航海术。后参与组建神户海军操练所。同年在江户入幕府军舰奉行胜海舟门下,协助胜海舟,致力于建立幕府的神户海军操练所。幕府下令关闭海军操练所后,依靠西乡隆盛而得到萨摩藩的保护。一面在萨摩藩援助下与近藤长次郎等组织社中,从事海运和贸易。1864年(元治元年)随同胜海舟调停美、英、荷、法四国炮轰长州藩下关事件。
  1865年(庆应元年)应西乡隆盛、小松带刀之邀在萨摩藩长崎组建“龟山社中”。次年在坂本龙马等人的奔走调停下萨摩藩和长州藩的萨长同盟成立。1866年(庆应2年)斡旋缔结萨长同盟,成功地团结了倒幕派。第二次征伐长州时更为活跃,曾指挥长州藩的海军。 1867年土佐藩加入萨长阵营。龟山社中改编为“土佐海援队”,龙马为队长,自称“才谷梅太郎”。
  1867年结识后藤象二郎。脱藩之罪被赦免后。把社中改称海援队,扩大业务。坂本酝酿一个统一国家的设想,于1867年在“夕颜丸”上,坂本龙马把著名的“船中八策”(舟中八策)交给土佐参政后藤象二郎。船中八策奠定了明治维新的理论基础,成为日本新国家体制的基本方针。后藤象二郎将船中八策与藩主山内容堂交涉,并作为白皮书交于幕府将军德川庆喜手中,促成同年10月的奉还大政。11月9日,德川庆喜根据船中八策下达“大政奉还”指令,明治维新开始。
  一个月后,庆应三年11月15日(1867年12月10日)晚上9点左右,坂本龙马33岁生日时与中冈慎太郎在京都酱油商近江屋遇刺身亡。翌年以在坂本龙马斡旋下成立的萨长同盟为主力的官军击败幕府军,为日后的明治维新奠定了基础。
[编辑本段]
走在时代前面
  坂本龙马在日本人心目中的形象是不为过去所拘泥,永远走在时代的前面。一个小例子是坂本龙马曾经对土佐勤王党成员桧垣直治说:“今后在室内乱打乱斗的情况会多起来。我喜欢小太刀,小太刀灵活,比太刀实用[当时流行太刀]。”之后直治带了小太刀再见龙马,他却掏出来一柄手枪:“这个比小太刀更具威力。”坂本龙马拜胜海舟为师后,直治带了枪再见龙马,这次龙马掏出的是一部《万国公法》(一本国际法方面的书):“手枪只能杀伤敌人,此书可以振兴日本!”
  西乡隆盛曾对坂本龙马说:“你前天所说的和今天所说的不一样,这样你怎么能取信于我呢。你作为天下名士必须有坚定的信念!”坂本说:“不是这样的。孔子说过,君子从时。时间在推移,社会形势在天天变化。因此,顺应时代潮流才是君子之道!西乡,你一旦决定一件事之后,就想贯彻始终。但这么做,将来你会落后于时代的。”
[编辑本段]
船中八策
  ●大政奉还,天下政权奉还朝廷(指天皇,而不是幕府),政令出于朝廷。
  ●设立议会。
  ●招揽天下才俊,去除从前有名无实的官员。
  ●通过广泛的公议订立和外国的交际。
  ●折衷过去的法律,制定新的大典。
  ●扩张海军。(坂本龙马因此被称为大日本帝国海军之父)
  ●建立亲兵拱卫京师。
  ●与外国订立平衡金银物价的法律。
  船中八策中的许多条文日后被原封不动地搬入明治宪法和各种法律中。
[编辑本段]
死因
  ●新选组暗杀论:证据显示犯人会说四国方言且现场遗留有十番组组长原田左之助(四国人)的刀鞘。
  ●见回组犯案论:在见回组组员家中发现斩杀龙马的刀及文件,一般认为佐佐木只三郎及六名刺客所为。
  ●萨摩藩阴谋论:起因西乡隆盛不满龙马对武力倒幕态度趋於保守且策划大政奉还。
[编辑本段]
其他
  ●坂本龙马第一个提出“日本国”的概念。
  ●司马辽太郎著有历史小说《龙马来了》(《竜马がゆく》)。“龙”日文原文为“竜”。
  ●日本位于南国市的高知市机场称为“高知龙马机场”,以纪念坂本龙马。
  ●中国京剧院在1990年代移植改编了京剧《坂本龙马》。
  

  ●坂本龙马是第一个带新娘蜜月旅行的日本人。
  
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 楼主| 发表于 2009-1-30 00:17:07 | 显示全部楼层
那請可以幫我翻一下這幾句話嗎?

此事傳到土佐藩後,在下士之間自然也受到了廣泛的討論,由於此時尊王思想已逐漸成為土佐藩下士之間的主流價值,故水戶脫藩浪士斬殺跋扈擅權幕府高官的舉動,也多被視為是如同赤穗義士為君主報仇一般的義舉,而此時的龍馬,其想法亦應不脫此範疇。
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发表于 2009-1-30 00:47:27 | 显示全部楼层
。。。。。。。。。。。。你不认识中文?
还是要翻译成日语哦?
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