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12月08日付 《天声人語》格斯拉诞辰50周年

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发表于 2004-12-8 09:31:19 | 显示全部楼层 |阅读模式
 97年、映画「ゴジラ」のプロデューサー田中友幸氏が死去したとき、米オハイオ州の新聞に「追悼文」が出た。少年時代の「ゴジラ」をめぐる思い出をつづった記事だった。  60年代前半の米国の地方都市でのことらしい。「ゴジラ」がテレビ放映される日、子どもたちは近隣で一番いいテレビのある家に集まった。まだ白螘r代だった。東京の街を破壊する怪獣のすさまじさに、子どもたちは圧倒され「おい、見ろよ」と口々に言いながら見入ったという。  そのころ原爆や水爆を、子どもたちは単に「爆弾」と言っていた。キューバにソ連の爆弾が配備されていることは知っていた。サイレンが鳴ると、机の下や地下室に隠れるように教えられていた。子どもたちの間でゴジラは何者かを熱心に議論したが、あの怪獣は、まさにすべてを破壊しつくす「爆弾」だったのだと筆者は回顧する。  ビキニ環礁での米国核実験で眠りをさまして来襲するゴジラだが、当初の米国版では核のことはかなりぼかされたらしい。しかし米国の子どもたちは敏感にかぎとっていた。  先日、第1作を再見した。反核メッセージの強さとともに、ゴジラ来襲時の混乱の描写が戦時中の空襲の再現であることを改めて感じた。当時の日本人にとっては、近い過去の鮮烈な経験がよみがえる。米国人には、近い未来に起こるかもしれない「惨事」だった。  ちょうど50年前に「誕生」したゴジラをそれだけで言い尽くすことはできない。ただ、日米関係を映す鏡としても、様々な相貌(そうぼう)を見せてきたヒーローであった。 1997年,《格斯拉》的制片人田中有幸去世时,美国俄亥俄州的报纸刊登了“追悼文”。记述了少年时代关于《格斯拉》的种种想法。 笔者回忆道,那还是在60年代前期美国的某一座地方城市。在播放《格斯拉》时,小朋友们围在一家有最好的电视的屋里。那时候应该还是黑白电视。破坏东京的怪兽真令人恐怖,小朋友们被吓的一边说“嘿,看啊”,一边津津有味的看。 那时候,小朋友们把原子弹和氢弹都叫做“炸弹”。也知道古巴有苏联的“炸弹”。也学到了警报一响,就要躲到桌子下和地下室里。小朋友们之间也在热烈的讨论格斯拉是什么。那个怪兽就是将所有的东西都破坏的“炸弹”吧。 “格斯拉”从比基尼岛的美国核试验中苏醒,对日本进行攻击,当时美国版的《格斯拉》把核问题掩盖得很好。但是,美国的小朋友们却很敏感。 前几天,又看了一遍第一版,感到反对核战争的同时,又重新觉得格斯拉来袭时的混乱描写就是再现了二战的空袭。对于当时的日本人来说,又重温了一次刚过去不久的悲惨经验。对于美国人,则是将来有可能发生的“悲剧”。 整整50年前诞生的格斯拉,不是这里可以讲完的。但是,作为日美关系的一面镜子,它可以被看作反映各种情况的英雄。
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