第二回 風変りな恋の初峰入 (上)
高い男とかりに名仱椁护磕肖媳久蚰诤N娜妊豫盲凭矊hの者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄を食(は)んだ者であッたが、幕府倒れて王政古(いにしえ)に復えり時津風になびかぬ民草もない明治の御世になッてからは、旧里静岡に蟄居してしばらくは偸食(とうしょく)の民となり、なすこともなく昨日と送り今日と暮らすうち、内座して食(くら)えば山も空しの諺に漏れず、次第次第に貯蓄の手薄になる所からあがき出したが、さて木から落ちた猿猴(さる)の身というものは意久地のない者で、腕には真陰流に固まッていても鋤鍬は使えず、口はさようしからばと重くなッていて見れば急にはヘイの音も出されず、といって天秤を肩へ当てるも家名の汚れ外聞が見ッともよくないというので、足を擂木(すりこぎ)に駆け回ッて辛くして静岡藩の史生に住み込み、ヤレうれしやと言ッた所が腰弁当の境界、なかなか浮かみ上がるほどにはまいらぬが、デモ感心には多くもない資本をおしまずして一子文三に学問を仕込む。まず朝むっくり起きる、弁当を背負わせて学校へ出してやる、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とてもよそ外の小供では続かないが、そこは文三、性質が内端だけに学問には向くと見えて、あまりしぶりもせずして出てまいる。もっとも途に蜻蛉を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、しょんぼりとして裏口から立ち戻ッて来る事もないではないが、それはたまさかの事で、ママ大方は勉強する。そのうちに学問の味も出て来る、サアおもしろくなるから、昨日までは督責(とくせき)されなければ取り出さなかッた書物をも今日はわれからひもとくようになり、したがッて学業も進歩するので、人も賞めそやせば両親も喜ばしく、子の生長にその身の老ゆるを忘れて春を送り秋を迎えるうち、文三の十四という春、待ちに待った卒業も首尾よく済んだのでヤレうれしやという間もなく、父親はふと感染した風邪から余病を引き出し、年ごろの心労も手伝って、ドット床に就く。薬餌(やくじ)、呪(まじない)、加持祈祷と人の善いと言うほどの事をし尽くして見たが、さて験(げん)も見えず、次第次第に頼み少なになって、ついに文三の事を言い死(いいじに)にはかなくなってしまう。生き残った妻子の愁傷は実に比喩を取るに言葉もなくばかり、「ああいくら嘆いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖に置くは泪(なみだ)の露、ようやくの事で空しき骸(から)を菩提所へ送りて荼毘(だび)一片の烟と立ち上らせてしまう。さて*かせぎ*人が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼と葬式の雑用とに多くもない貯叢(たくわえ)をゲッソリつかい減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝りの気丈者、貧苦にめげない煮焚の業の片手間に一枚三厘のシャツを縫(く)けて、身を粉にしてかせぐに追い付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥なりをすすって、公債の利の細い烟を立てている。文三は父親の存生(ぞんじょう)中より、家計の困難に心づかぬではないが、何と言ってもまだ幼少の事、いつまでもそれでいられるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢には増せた事を言い出しては両親に袂(たもと)を絞らせた事はあっても、またどこともなく他愛のない所もあって、浪に漂う浮き草の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後便のない母親の辛苦心労を見るにつけ聞くにつけ、小供心にも心細くまた悲しく、始めて浮世の塩が身にしみて、夢のさめたような心地。これからは給事なりともして、母親の手足にはならずともせめてわが口だけはとおもう由をも母に告げて相談をしていると、捨てる神あれば助くる神ありで、文三だけは東京にいる叔父のもとへ引き取られる事になり、泣きの泪(なみだ)で静岡を発足して叔父をたよって出京したのは明治十一年、文三が十五になった春の事とか。
叔父は園田孫兵衛と言いて、文三の亡父のためには実弟に当たる男、慈悲深く、憐ッぽく、しかも律儀真当(まっとう)の気質ゆえ、人の望(う)けもよいが、惜しいかなちと気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立てに替えて、朝夕算盤を弾いては見たが、慣れぬ事とて初めのうちは損毛ばかり、今日に明日にと食い込んで、果ては借金の淵に陥まり、どうしようこうしようとあがきもがいているうち、ふとした事から浮かみ上がって、当今ではちとは資本もでき、地面をも買い、小金をも貸し付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店の支配人をしている事なれば、さのみ富貴と言うでもないが、まず融通のある活計(くらし)。留守を守る女房のお政は、お摩(さす)りからずるずるの後配(のちぞい)、れっきとした士族の娘と自分ではいうが………チト考え物。しかしとにかく、如才のない、世辞のよい、地代から貸し金の催促まで家事一切独りで切って回るほどあって、万事に抜け目のない婦人。疵瑕(きず)と言ッてはただ大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイきらいというばかり、さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬ世の習い「あの婦人(おんな)は裾張蛇の変生だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢(せい)と言ッて、そのころはまだ十二の蕾、弟は勇(いさみ)と言ッて、これもまだ袖で鼻汁ふくわんぱく盛り(これは当今は某校に入舎していて宅にはおらぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機に入れはイザコザはないが、さて文三には人の機嫌気褄(きづま)を取るなどという事ができぬ。ただ心ばかりは主とも親とも思ッてよく事(つか)えるが、気がきかぬと言ッては睨(ね)めつけられる事いつもいつも、そのたびごとに親のありがたサが身にしみ骨に耐(こた)えて、袖に露を置くことはありながら、常に自らしかッて辛抱、使い歩きをする暇には近辺の私塾へ通学して、しばらく悲しい月日を送ッている。トある時、某学校で、生徒の召募があると塾での評判取りどり、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見た所、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費がもらえる。昨日までは叔父の家とは言いながら食客(いそうろう)の悲しさには、追い使われたうえ気兼ね苦労のみをしていたのが、今日はほかに掣肘(ひかれ)る所もなく、心いっぱいに勉強できる身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのとそれはそれは、雀踊(こおどり)までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界、もとよりよそ外のおぼッちゃま方とは違い、親から仕送りなどという洒落はないから、むだづかいとては一銭もならず、またしようとも思わずして、ただ一心に、便のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になった叔父へも報恩(おんがえし)をせねばならぬ、と思う心より、寸陰を惜しんで刻苦勉強に学業の進みも著しく、いつの試験にも一番と言ッて二番とは下らぬほどゆえ、得難い書生と教員も感心する。サアそうなると傍(はた)がやかましい。放蕩と懶惰(らいだ)とを経緯(たてぬき)の糸にして織り上がったおぼッちゃま方が、負けじ魂の妬み嫉みからおむずかりあそばすけれども、文三はそれらの事には頓着せず、独りネビッチョ除け者となッて朝夕勉強三昧に歳月を消磨するうち、ついに多年蛍雪の功が現われて一片の卒業証書を懐き、再び叔父の家を東道(あるじ)とするようになッたからまず一安心と、それより手を替え品を替え種々にして仕官の口をさがすが、さて探すとなると、ないもので、心ならずも小半年ばかり燻(くすぶ)ッている。その間終始叔母にいぶされるつらさ苦しさ、初めは叔母も自分ながらけぶそうな貌(かお)をして、やわやわ吹き付けていたからまずよかッたが、次第にいぶし方にも念が入ッて来て、果ては生松葉に蕃椒(とうがらし)をくべるようになッたから、そのけぶいことこの上なし。文三もしばらくは鼻をもつぶしていたれ、ついにはあまりのけぶさに堪え兼ねてむせ返る胸を押ししずめかねた事もあッたが、イヤイヤこれも自分が不甲斐ないからだと、思い返してジット辛抱。そういう所ゆえ、その後ある人の周施で某省の准判任御用係となッた時は天へも昇る心地がされて、ホット一息つきはついたが、始めて出勤した時は異(おつ)な感じがした。まず取り調べ物を受け取ってわが座になおり、さて落ち着いて居回りをみまわすと、子細らしく頸を傾けて書き物をするもの、蚤取り眼(まなこ)になって校合をするもの、筆をくわえてせわしげに帳簿を繰るものと種々さまざまある中に、ちょうど文三の真向こうに八字の浪を額に寄せ、せわしく眼をしばたたきながら、間断もなく算盤を弾いていた年配五十前後の老人が、ふと手を止めて珠を指ざしをしながら、「エー六五七十の二………でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙にありと言ッたような、さも心配そうな顔を振り揚げて、そのくせ口をアンゴリあいて、眼鏡越しにジット文三の顔を見つめ、「ウー八十の二か」ト一越調子高な声を振り立ててまた一心不乱に弾き出す。あまりのおかしさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑うわれと笑われる人とあまり懸隔のない身の上。アアかつて身の油に根気の心を浸し、眠い目を睡ずして得た学力を、こんなはかないばかげた事に使うのかと、思えば悲しく情けなく、われになくホット太息(といき)をついて、しばらくはただ茫然としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取り直して、その日より事務に取りかかる。当座四、五日は例の老人の顔を見るごとに嘆息のみしていたが、それも向こう境界に移る習いとかで、日を経るままに苦にもならなくなる。この月より国もとの老母へは月々仕送りをすれば母親もよろこび、叔父へは月賦で借金済(な)しをすれば叔母もきげんを直す。その年の暮れに一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて帰省するなど、いろいろ喜ばしき事が重なれば、眉の皺も自から伸び、どうやら寿命も長くなったように思われる。ここにチト艶いた一条のお噺があるが、これを記す前に、チョッピリ孫兵衛の長女のお勢の小伝を伺いましょう。
つづく |