咖啡日语论坛

 找回密码
 注~册
搜索
查看: 3029|回复: 20

浮雲

[复制链接]
发表于 2004-12-10 14:35:39 | 显示全部楼层 |阅读模式
  浮雲 1

著者名 : 二葉亭四迷

浮雲はしがき

薔薇の花は頭に咲いて活人は絵となる世の中独り文章のみは黴の生えたちんぷんかんの四角張りたるに頬返しを付けかねまたは舌足らずの物言いを学びて口に涎を流すは拙(つたな)しこれはどうでも言文一途の事だと思い立っては矢も盾もなく文明の風改良の熱一度に寄せ来るどさくさ紛れお先まっくら三宝荒神さまと春のや先生を頼み奉り欠け硯に朧の月の雫を受けて墨摺り流す空のきおい夕立の雨の一しきりさらさらさつと書き流せばアラ無情(うたて)始末にゆかぬ浮雲めが艶(やさ)しき月の面影を思いがけなく閉じこめて驻夥证虨跻褂
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:41:52 | 显示全部楼层
第二回 風変りな恋の初峰入 (上)

高い男とかりに名仱椁护磕肖媳久蚰诤N娜妊豫盲凭矊hの者で、父親は旧幕府に仕えて俸禄を食(は)んだ者であッたが、幕府倒れて王政古(いにしえ)に復えり時津風になびかぬ民草もない明治の御世になッてからは、旧里静岡に蟄居してしばらくは偸食(とうしょく)の民となり、なすこともなく昨日と送り今日と暮らすうち、内座して食(くら)えば山も空しの諺に漏れず、次第次第に貯蓄の手薄になる所からあがき出したが、さて木から落ちた猿猴(さる)の身というものは意久地のない者で、腕には真陰流に固まッていても鋤鍬は使えず、口はさようしからばと重くなッていて見れば急にはヘイの音も出されず、といって天秤を肩へ当てるも家名の汚れ外聞が見ッともよくないというので、足を擂木(すりこぎ)に駆け回ッて辛くして静岡藩の史生に住み込み、ヤレうれしやと言ッた所が腰弁当の境界、なかなか浮かみ上がるほどにはまいらぬが、デモ感心には多くもない資本をおしまずして一子文三に学問を仕込む。まず朝むっくり起きる、弁当を背負わせて学校へ出してやる、帰ッて来る、直ちに傍近の私塾へ通わせると言うのだから、あけしい間がない。とてもよそ外の小供では続かないが、そこは文三、性質が内端だけに学問には向くと見えて、あまりしぶりもせずして出てまいる。もっとも途に蜻蛉を追う友を見てフト気まぐれて遊び暮らし、しょんぼりとして裏口から立ち戻ッて来る事もないではないが、それはたまさかの事で、ママ大方は勉強する。そのうちに学問の味も出て来る、サアおもしろくなるから、昨日までは督責(とくせき)されなければ取り出さなかッた書物をも今日はわれからひもとくようになり、したがッて学業も進歩するので、人も賞めそやせば両親も喜ばしく、子の生長にその身の老ゆるを忘れて春を送り秋を迎えるうち、文三の十四という春、待ちに待った卒業も首尾よく済んだのでヤレうれしやという間もなく、父親はふと感染した風邪から余病を引き出し、年ごろの心労も手伝って、ドット床に就く。薬餌(やくじ)、呪(まじない)、加持祈祷と人の善いと言うほどの事をし尽くして見たが、さて験(げん)も見えず、次第次第に頼み少なになって、ついに文三の事を言い死(いいじに)にはかなくなってしまう。生き残った妻子の愁傷は実に比喩を取るに言葉もなくばかり、「ああいくら嘆いても仕方がない」トいう口の下からツイ袖に置くは泪(なみだ)の露、ようやくの事で空しき骸(から)を菩提所へ送りて荼毘(だび)一片の烟と立ち上らせてしまう。さて*かせぎ*人が没してから家計は一方ならぬ困難、薬礼と葬式の雑用とに多くもない貯叢(たくわえ)をゲッソリつかい減らして、今は残り少なになる。デモ母親は男勝りの気丈者、貧苦にめげない煮焚の業の片手間に一枚三厘のシャツを縫(く)けて、身を粉にしてかせぐに追い付く貧乏もないか、どうかこうか湯なり粥なりをすすって、公債の利の細い烟を立てている。文三は父親の存生(ぞんじょう)中より、家計の困難に心づかぬではないが、何と言ってもまだ幼少の事、いつまでもそれでいられるような心地がされて、親思いの心から、今に坊がああしてこうしてと、年齢には増せた事を言い出しては両親に袂(たもと)を絞らせた事はあっても、またどこともなく他愛のない所もあって、浪に漂う浮き草の、うかうかとして月日を重ねたが、父の死後便のない母親の辛苦心労を見るにつけ聞くにつけ、小供心にも心細くまた悲しく、始めて浮世の塩が身にしみて、夢のさめたような心地。これからは給事なりともして、母親の手足にはならずともせめてわが口だけはとおもう由をも母に告げて相談をしていると、捨てる神あれば助くる神ありで、文三だけは東京にいる叔父のもとへ引き取られる事になり、泣きの泪(なみだ)で静岡を発足して叔父をたよって出京したのは明治十一年、文三が十五になった春の事とか。
  叔父は園田孫兵衛と言いて、文三の亡父のためには実弟に当たる男、慈悲深く、憐ッぽく、しかも律儀真当(まっとう)の気質ゆえ、人の望(う)けもよいが、惜しいかなちと気が弱すぎる。維新後は両刀を矢立てに替えて、朝夕算盤を弾いては見たが、慣れぬ事とて初めのうちは損毛ばかり、今日に明日にと食い込んで、果ては借金の淵に陥まり、どうしようこうしようとあがきもがいているうち、ふとした事から浮かみ上がって、当今ではちとは資本もでき、地面をも買い、小金をも貸し付けて、家を東京に持ちながら、その身は浜のさる茶店の支配人をしている事なれば、さのみ富貴と言うでもないが、まず融通のある活計(くらし)。留守を守る女房のお政は、お摩(さす)りからずるずるの後配(のちぞい)、れっきとした士族の娘と自分ではいうが………チト考え物。しかしとにかく、如才のない、世辞のよい、地代から貸し金の催促まで家事一切独りで切って回るほどあって、万事に抜け目のない婦人。疵瑕(きず)と言ッてはただ大酒飲みで、浮気で、しかも針を持つ事がキツイきらいというばかり、さしたる事もないが、人事はよく言いたがらぬ世の習い「あの婦人(おんな)は裾張蛇の変生だろう」ト近辺の者は影人形を使うとか言う。夫婦の間に二人の子がある。姉をお勢(せい)と言ッて、そのころはまだ十二の蕾、弟は勇(いさみ)と言ッて、これもまだ袖で鼻汁ふくわんぱく盛り(これは当今は某校に入舎していて宅にはおらぬので)、トいう家内ゆえ、叔母一人の機に入れはイザコザはないが、さて文三には人の機嫌気褄(きづま)を取るなどという事ができぬ。ただ心ばかりは主とも親とも思ッてよく事(つか)えるが、気がきかぬと言ッては睨(ね)めつけられる事いつもいつも、そのたびごとに親のありがたサが身にしみ骨に耐(こた)えて、袖に露を置くことはありながら、常に自らしかッて辛抱、使い歩きをする暇には近辺の私塾へ通学して、しばらく悲しい月日を送ッている。トある時、某学校で、生徒の召募があると塾での評判取りどり、聞けば給費だという。何も試しだと文三が試験を受けて見た所、幸いにして及第する、入舎する、ソレ給費がもらえる。昨日までは叔父の家とは言いながら食客(いそうろう)の悲しさには、追い使われたうえ気兼ね苦労のみをしていたのが、今日はほかに掣肘(ひかれ)る所もなく、心いっぱいに勉強できる身の上となったから、ヤ喜んだの喜ばないのとそれはそれは、雀踊(こおどり)までして喜んだが、しかし書生と言ッてもこれもまた一苦界、もとよりよそ外のおぼッちゃま方とは違い、親から仕送りなどという洒落はないから、むだづかいとては一銭もならず、またしようとも思わずして、ただ一心に、便のない一人の母親の心を安めねばならぬ、世話になった叔父へも報恩(おんがえし)をせねばならぬ、と思う心より、寸陰を惜しんで刻苦勉強に学業の進みも著しく、いつの試験にも一番と言ッて二番とは下らぬほどゆえ、得難い書生と教員も感心する。サアそうなると傍(はた)がやかましい。放蕩と懶惰(らいだ)とを経緯(たてぬき)の糸にして織り上がったおぼッちゃま方が、負けじ魂の妬み嫉みからおむずかりあそばすけれども、文三はそれらの事には頓着せず、独りネビッチョ除け者となッて朝夕勉強三昧に歳月を消磨するうち、ついに多年蛍雪の功が現われて一片の卒業証書を懐き、再び叔父の家を東道(あるじ)とするようになッたからまず一安心と、それより手を替え品を替え種々にして仕官の口をさがすが、さて探すとなると、ないもので、心ならずも小半年ばかり燻(くすぶ)ッている。その間終始叔母にいぶされるつらさ苦しさ、初めは叔母も自分ながらけぶそうな貌(かお)をして、やわやわ吹き付けていたからまずよかッたが、次第にいぶし方にも念が入ッて来て、果ては生松葉に蕃椒(とうがらし)をくべるようになッたから、そのけぶいことこの上なし。文三もしばらくは鼻をもつぶしていたれ、ついにはあまりのけぶさに堪え兼ねてむせ返る胸を押ししずめかねた事もあッたが、イヤイヤこれも自分が不甲斐ないからだと、思い返してジット辛抱。そういう所ゆえ、その後ある人の周施で某省の准判任御用係となッた時は天へも昇る心地がされて、ホット一息つきはついたが、始めて出勤した時は異(おつ)な感じがした。まず取り調べ物を受け取ってわが座になおり、さて落ち着いて居回りをみまわすと、子細らしく頸を傾けて書き物をするもの、蚤取り眼(まなこ)になって校合をするもの、筆をくわえてせわしげに帳簿を繰るものと種々さまざまある中に、ちょうど文三の真向こうに八字の浪を額に寄せ、せわしく眼をしばたたきながら、間断もなく算盤を弾いていた年配五十前後の老人が、ふと手を止めて珠を指ざしをしながら、「エー六五七十の二………でもなしとエー六五」ト天下の安危この一挙にありと言ッたような、さも心配そうな顔を振り揚げて、そのくせ口をアンゴリあいて、眼鏡越しにジット文三の顔を見つめ、「ウー八十の二か」ト一越調子高な声を振り立ててまた一心不乱に弾き出す。あまりのおかしさに堪えかねて、文三は覚えずも微笑したが、考えて見れば笑うわれと笑われる人とあまり懸隔のない身の上。アアかつて身の油に根気の心を浸し、眠い目を睡ずして得た学力を、こんなはかないばかげた事に使うのかと、思えば悲しく情けなく、われになくホット太息(といき)をついて、しばらくはただ茫然としてつまらぬ者でいたが、イヤイヤこれではならぬと心を取り直して、その日より事務に取りかかる。当座四、五日は例の老人の顔を見るごとに嘆息のみしていたが、それも向こう境界に移る習いとかで、日を経るままに苦にもならなくなる。この月より国もとの老母へは月々仕送りをすれば母親もよろこび、叔父へは月賦で借金済(な)しをすれば叔母もきげんを直す。その年の暮れに一等進んで本官になり、昨年の暑中には久々にて帰省するなど、いろいろ喜ばしき事が重なれば、眉の皺も自から伸び、どうやら寿命も長くなったように思われる。ここにチト艶いた一条のお噺があるが、これを記す前に、チョッピリ孫兵衛の長女のお勢の小伝を伺いましょう。

 

つづく
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:43:14 | 显示全部楼层
第二回 風変りな恋の初峰入 (下)

お勢の生い立ちのありさま、生来子煩悩の孫兵衛を父に持ち、他人には薄情でもわが子には目のないお政を母に持ッた事ゆえ、幼少の折より插頭(かざし)の花、衣の裏の玉と撫でいつくしまれ、何でもかでも言いなり次第にオイソレとしつけられたのが癖となッて、首尾よくやんちゃ娘に成りおおせた。紐解きの賀済んだころより、父親の望みで小学校へ通い、母親の好みで清元のけいこ、生まれ得て才はじけの一徳には生覚えながら飲み込みの早く、学問、遊芸、両(ふた)つながら出来のよいように思われるから、母親は目も口も一ツにして大よろこび、尋ねぬ人にまで風聴する娘自慢の手前味噌、しきりに涎を垂らしていた。そのころ新たに隣家に引き移ッてまいッた官員は、家内四人活計で、細君もあれば娘のいる。隣づからの寒喧(かんけん)の挨拶が食い付きで、親々が心安くなるにつれ娘同士の親しくなり、毎日のように訪いつ訪われつした。隣家の娘というのは、お勢よりは二ツ三ツ年層で、優しくしとやかで、父親が儒者のなれの果てだけあッて、小供ながらも学問が、好きこそ物の上手でできる。いけ年を仕ッてもとかく人まねはやめられぬもの、ましてや小供といううちにもお勢は根生(ねおい)の軽躁者(おいそれ)なれば、なおさらたちまちその娘にかぶれて、起居挙動から物の言いざままでそれに似せ、急に三味線をほうりだして、唐机の上に孔雀の羽を押し立てる。お政は学問などというかしこまッた事は虫が好かぬが、いとしの娘のしたいと思ッてする事と、そのままに打ちすてて置くうち、お勢が小学校を卒業したころ、隣家の娘は芝辺のさる私塾へ入塾することになッた。サアそうなるとお勢は矢も楯もたまらず、急に入塾したくなる。何でもかでもと親をせがむ、寝言にまで言ッてせがむ。トいってまだ年端もゆかぬに、ことにはなまよみの甲斐なき婦人(おんな)の身でいながら、入塾などとはもってのほか、トいったんは親の威厳でしかり付けて見たが、例の絶食に腹を空かせ、「入塾できないくらいなら生きている甲斐がない」トため息かみまぜの愁訴、しおれ返ッて見せるに両親も我を折り、それほどまでに思うならばと、万事を隣家の娘に託して、おぼつかなくも入塾させたは今より二年前の事で。
お勢の入塾した塾の塾頭をしている婦人は、新聞の受け売りからグット思い上がりをした女丈夫、しかも気を使ッて一飯の恩は酬いがちでも、睚眥(がいさい)の怨みは必ず報ずるという蚰蜒(げじげじ)魂で、気に入らぬ者と見れば、何かにつけて真綿に針のチクチク責めをするが性分。親の前でこそ蛤貝とそっくりかえれ、他人の前では蜆貝と縮まるお勢の事ゆえ、責(さいな)まれるのがつらさにこの女丈夫に取り入ッて卑屈を働らく。もとより根がお茶ッぴいゆえ、その風に染まりやすいか、たちまちのうちに見違えるほど容子が変わり、いつしか隣家の娘とは疎々(うとうと)しくなった。その後英学を初めてからは、悪あがきもまた一段で、襦袢がシャツになれば唐人髷も束髪に化け、ハンケチで咽喉を緊(し)め、うっとうしいを耐えて眼鏡を掛け、独りよがりの人笑わせ、あっぱれ一個のキャッキャとなり済ました。しかるに去年の暮れ、例の女丈夫は、教師に雇われたとかで退塾してしまい、その手に属したお茶ッぴい連も一人去り、二人去りして残り少なになるにつけ、お勢も何となくわが宿恋しくなッたけれど、まさかそうとも言いかねたか、漢字はあらかたできたとこしらえて、退塾して宿所へ帰ッたは今年の春の暮れ、桜の花の散るころの事で。
すでに記したごとく文三の出京したころは、お勢はまだ十三の蕾、幅の狭い帯を締めて、姉様を荷厄介にしていたなれど、こましゃくれた心から、「あの人はお前のご亭主さんにもらッたのだヨ」ト座興に言ッた言葉の露を実(まこと)とくんだか、初めのうちははにかんでばかりいたが、小供のなじむは早いもので間もなく菓子一つを二ツに割ッて食べるほど、睦み合ッたも今は一昔。文三が某校へ入舎してからは、相あう事すらまれなれば、まして一つにいた事は半日もなし。ただ今年の冬期休暇にお勢が帰宅した時のみ、十日ばかりも朝夕顔を見合わしていたなれど、小供の時とは違い、年ごろが年ごろだけに、文三もよろずに遠慮がちでよそよそしくもてなして、さらに打ち解けて物など言ッた事なし。そのくせお勢が帰塾した当座両三日は、百年相識に別れたごとく、何となく心さびしかッたが………それも日数を経るままに忘れてしまッたのに、今また思いがけなく一ツ家に起臥(おきふし)して、折節はなれなれしく物など言いかけられて見れば、うれしくもないが一月がまた来たようで、何となくにぎやかな心地がした。人一人ふえた事ゆえ、これはさもあるべき事ながら、ただ怪しむべきはお勢と席を同じゅうした時の文三の感情で、いつもおかしく気が改まり、円めいていた背を引き伸ばして頸を据え、異(おつ)うすまして変に片づける。魂が裳抜(もぬけ)れば一心に主とする所なく、居回りにあるほどのものことごとく薄烟に包まれて、虚有(きょゆ)縹渺(ひょうびょう)の中に漂い、あるかと思えばあり、ないかと想えばない中に、ただ一物(あるもの)ばかり見ないでも見えるが、この感情はまだ何とも名づけ難い。夏の初めより頼まれて、お勢に英語を教授するようになッてから、文三はすこしく打ち解け出して、折節は日本婦人のありさま、束髪の利害、さては男女交際の得失などを論ずるようになると、不思議や今まで文三を男臭いとも思わず太平楽を並べ大風呂敷を拡げていたお勢が、文三の前ではいつからともなく口数を聞かなくなッて、どこともなく落ち着いて、優しく女性(にょしょう)らしくなッたように見えた。ある一日、お勢のいつになく眼鏡をはずして頸巾(くびまき)を取ッているを怪しんで文三が尋ぬれば、「それでもあなたが、健康な者にはかえって害になるとおっしゃッたものヲ」トいう。文三は覚えずもにっこり、「それはしごくよい事だ」ト言ッてまたにっこり。
お勢の落ち着いたに引き替え、文三は何かそわそわし出して、出勤して事務を執りながらも、お勢の事を思い続けに思い、退省の時刻を待ちわびる。帰宅したとてもお勢の顔を見ればよし、さもなければがっかり力抜けがする。「彼女(あれ)に何したのじゃアないのかしらぬ」トある時われを疑ッて、覚えずも顔をあからめた。
お勢の帰宅した初めより、自分には気が付かぬでも文三の胸には虫がわいた。なれどものそのころはまだ小さく場取らず、胸にあッても邪魔にならぬのみか、そのムズムズうごめく時は世界じゅうが一所に集まるごとく、またこの世から極楽浄土へ往生するごとく、また春の日に瓊葩綉葉(けいはしゅうよう)の間、和気香風(かきこうふう)の中に、臥榻(がとう)を据えてその上に臥(ね)そべり、次第に遠ざかりゆく虻(あぶ)の声を聞きながら、眠るでもなく眠らぬでもなく、ただウトウトとしているがごとく、何ともかとも言いようなくこころよかッたが、虫めはいつのまにか太くたくましくなッて、「何したのじゃアないか」ト疑ッたころには、すでに「添度(そいたい)の蛇(じゃ)」という蛇になッてはい回ッていた………むしろつれなくされたならば、食すべき「たのみ」の餌がないから、蛇めの飢死に死んでしまいもしようが、なまじいに卯の花くだし五月雨のふるでもなくふらぬでもなく、生殺しにされるだけに、蛇めも苦しさに堪えかねてか、のたうち回ッて腸をかみちぎる………初めての快さに引き替えて、文三も今は苦しくなッて来たから、ひそかに叔母の顔色を伺ッて見れば、気のせいか粋を通して見て見ぬ風をしているらしい。「もしそうなればもう叔母の許しを受けたも同前………チョッいっそ打ち付けに………」ト思ッた事はしばしばあッたが、「イヤイヤ滅多な事を言い出して取り着かれぬ返答をされては」ト思い直してジット意馬の絆を引き緊め、藻に住む虫のわれから苦しんでいた………これからが肝心要(かなめ)、回を改めて伺いましょう。

 

つづく
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:47:54 | 显示全部楼层
第三回 よほど風変わりな恋の初峰入り 上

今年の仲の夏、ある一夜、文三が散歩より帰ッて見れば、叔母のお政は夕暮れより所用あッて出たまままだ帰宅せず、下女のお鍋も入湯にでもまいッたものか、これも留守、ただお勢の子舎(へや)にのみ光明(あかり)が射している。文三初めは何心なく二階の梯子段を二段三段登ッたが、ふと立ち止まり、何かしきりに考えながら、一段降りてまた立ち止まり、また考えてまた降りる………にわかに気を取り直して、まさに再び二階へ登らんとする時、たちまちお勢の子舎の中に声がして
「どなた。」
トいう。
「私。」
ト返答をして文三は肩をすくめる。
「オヤどなたかと思ッたら文さん………さみしくッてならないからちっとお噺しにいらッしゃいな。」
「エありがとう、だがもうちっと後にしましょう。」
「何か御用があるの。」
「イヤ何も用はないが………。」
「それじゃアいいじゃアありませんか、ネーいらッしゃいヨ。」
文三はすこしためらって梯子段を降り果てお勢の子舎の入り口までまいりはまいッたが、中へとては立ち入らず、ただたたずんでいる。
「お入んなさいな。」「エ、エー………」
ト言ったまま文三はなおたたずんでモジモジしている、何か入りたくもあり入りたくもなしといったような容子。
「なぜあなた、今夜に限ッてそう遠慮なさるの。」
「デモあなたお一人ッ切りじゃア………なんだか………」
「オヤマアあなたにも似合わない………アノいつか、気が弱くッちゃア主義の実行は到底おぼつかないとおっしゃッたのはどなただッけ。」
ト*虫秦(しん)*の首を斜めに傾げて嫣然(えんぜん)片頬に含んだお勢の微笑に釣られて、文三は部屋へ入り込み坐に着きながら
「そう言われちゃア一言もないが、しかし………」
「ちっとおつかいなさいまし。」
トお勢は団扇を取り出して文三に勧め
「しかしどうしましたと。」
「エ、ナニサ影口がどうもうるさくッて。」
「それはネ、どうせちっとは何か言いますのサ。また何とか言ッたッていいじゃアありませんか、もしお互いに潔白なら。どうせあなた、二千年来の習慣を破るんですものヲ、多少の艱苦は免れッこはありませんワ。」
「トハ思ッているようなものの、まさか影口が耳に入るといやなものサ。」
「それはそうですヨネー。この間もネあなた、鍋が生意気におかしな事を言ッて私にからかうのですよ。それからネ私があんまりうるさくなッたから、到底わかるまいとはおもいましたけれども、試みに男女交際論を説いて見たのですヨ。そうしたらネ、アノなんですッて、私の言葉には漢語がまざるからまるっきり何を言ッたのだかわかりませんて………ほんとに教育のないという者はしようのないもんですネー。」
「アハハハそいつは大笑いだ………しかしおかしく思ッているのは鍋ばかりじゃアありますまい、きっとおっかさんも………」
「母ですか、母はどうせ下等の人物ですから終始おかしな事を言ッちゃアからかいますのサ。それでもネ、そのたんびに私が辱しめ辱しめしいしいしたら、あれでもちっとは恥じたと見えてネ、このごろじゃアそんなに言わなくなりましたよ。」
「アノーなんですッて、そんなに親しくするくらいならむしろあなたと………(すこしもじもじして言いかねて)結婚してしまえッて………」
ト聞くと等しく文三はぎょっとしてお勢の顔をみつめる。されどこなたは平気の躰(てい)で
「ですがネ、教育のない者ばかりを責めるわけにもいけんませんヨネー。私の朋友なんぞは、教育のあると言うほどありゃアしませんがネ、それでもマア普通の教育はうけているんですよ、それでいてあなた、西洋主義のわかるものは、二十五人のうちたった四人しかないの。その四人もネ、塾にいるうちだけで、外へ出てからはネ、口ほどにもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁にいッたりお婿を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細くッて心細くッてなりません。でしがたネ、このごろはあなたという親友ができたから、アノー大変気丈夫になりましたわ。」
文三はチョイと一礼して
「お世辞にもしろうれしい。」
「アラお世辞じゃアありませんよ、ほんとうですよ。」
「ほんとうならなおうれしいが、しかし私にゃアあなたと親友の交際は到底できない。」
「オヤなぜですエ。なぜ親友の交際ができませんエ。」
「なぜといえば、私にはあなたがわからず、またあなたには私がわからないから、どうも親友の交際は………」
「そうですか。それでも私にはあなたはよくわかッているつもりですよ。あなたの学識があッて、品行が方正で、親に孝行で………」
「だからあなたには私がわからないというのです。あなたは私を親に孝行だとおっしゃるけれども、孝行じゃアありません。私には………親より………大切な者があります………」
トどもりながら言ッて文三は差しうつ向いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子をながめながら
「親より大切な者………親より………大切な………者………親より大切な者は私にもありますワ。」
文三はうなだれた頸を振り揚げて
「エ、あなたにもありますと。」
「ハア、ありますワ。」
「だ………だれが。」
「人じゃアないの、アノ真理。」
「真理。」
ト文三はぶるぶると胴震いをして唇を食いしめたまましばらく無言、ややあッてにわかに喟然(きぜん)として嘆息して
「アアあなたは清浄なものだ潔白なものだ………親より大切なものは真理………アア潔白なものだ………しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだりもんだりして玩弄する。玩弄されるとうすうす気が付きながらそれを制することができない。アア自分ながら………」
トすこし考えて、ややありて熱気(やっき)となり
「ダガ思い切れない………どうあッても思い切れない………お勢さん、あなたは御自分が潔白だからこんな事を言ッてもおわかりがないかもしれんが、私には真理よりか………真理よりか大切な者があります。去年の暮れからまる半歳、その者のために感情を支配せられて、寝てもさめても忘らればこそ、死ぬよりつらいおもいをしていても、先ではすこしもくんでくれない。むしろつれなくされたならば、また思い切りようもあろうけれども………」
トすこし声をかすませて
「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は………どうも………どうあッても思い………」
「アラ月が………まるで竹の中から出るようですよ、ちょっとごらんなさいヨ。」
庭の一隅に栽え込んだ十竿ばかりの繊竹(なよたけ)の、葉を分けて出る月のすずしさ。月夜見の神の力の測りなくて、断雲一片の翳だもない、蒼空一面にてりわたる清光素色、ただ亭々皎々として雫もしたたるばかり。初めは隣家の隔ての竹垣にさえぎられて庭を半ばよりはい初め、中ごろは縁側へ上ッて座舗(ざしき)へはい込み、稗蒔(ひえまき)の水に流れては金瀲*艶*(れんえん)、簷馬(ふうりん)の玻璃に透りては玉玲瓏(れいろう)、座賞の人に影を添えて孤澄一穂(すい)の光を奪い、ついに間の壁へはい上がる。涼風一陣吹きいたるごとに、ませ籬(がき)によろぼいかかる夕顔の影法師がばさとして舞い出し、さては百合の葉末にすがる露の珠が、たちまち蛍となッて飛び迷う。草花立樹の風にもまれる音のざわざわとするにつれて、しばしば人の心も騒ぎ立つとも、須臾(しゅゆ)にして風が吹きやめば、またあたり蕭然(ひっそ)となって、軒の下草に集(すだ)く虫の音のみ独り高く聞こえる。目に見る景色はあわれにおもしろい。とはいえ心に物ある両人(ふたり)の者の目には止まらず、ただお勢が口ばかりで
「アア佳いこと。」

 

つづく
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:48:55 | 显示全部楼层
トいって何ゆえともなくにっこり笑い、仰向いて月にみとれる風(ふり)をする。その半面(よこがお)を文三はぬすむがごとくながめやれば、目鼻口の美しさは常に異(かわ)ッたこともないが、月の光を受けてすこし蒼味を帯(お)んだ瓜実顔に、ほつれ掛かッたいたずら髪、二筋三筋扇頭の微風にそよいで頬のあたりを往来する所は、ぞっとするほど凄味がある。しばらく文三がシケシケとながめているト、やがて凄味のある半面が次第次第にこちらへねじれて………パッチリとした涼しい目がヂロリと動き出して………見とれていた目とピッタリ出あう。螺(さざえ)の壺々口(つぼつぼぐち)ににっこと含んだ微笑を、細根大根に白魚を五本並べたような手が持っていた団扇で隠して、恥ずかしそうなしこなし。文三の目はにわかに光り出す。
「お勢さん。」
ただし震い声で。
「ハイ。」
ただし小声で。
「お勢さん、あなたもあんまりだ、あんまり………残酷だ、私がこれ………これほどまでに………」
トいいさして文三は顔に手をあてて黙ッてしまう。意(こころ)を注(とど)めてよく見れば、壁に写ッた影法師が、ぶるぶるとばかり震えている。今一言………今一言の言葉の関を、踰えれば先は妹背山。蘆垣の間近き人を恋い初めてより、昼は終日(ひねもす)夜は終夜(よもすがら)、ただその人の面影のみ常に眼前ににちらついて、砧(きぬた)に映る軒の月の、払ッてもまた去りかねていながら、人の心を測りかねて、末摘花の色にも出さず、岩堰(せ)く水の音にも立てず、独りクヨクヨ物をおもう、胸のうやもや、もだくだを、払うも払わぬも今一言の言葉の綾………今一言………たった一言………その一言をまだ言わぬ………おりからガラガラと表の格子戸のあく音がする………びっくりして文三はお勢と顔を見合わせる。むっくと起ち上がる。転げるように部屋を駆け出る。ただしその晩はこれ切りの事で、別段にお話しなし。
翌朝に至りて両人の者は始めて顔を合わせる。文三はお勢よりは気まりを悪がッて口数をきかず。この夏の事務の鞅掌(いそがし)さ、暑中休暇も取れぬのでそうそうに出勤する。十二時ごろに帰宅する。下坐舗で昼食を済まして二階の居間へ戻り、「アア熱かった」ト風をいれている所へ、梯子バタバタでお勢が上がッてまいり、二ツ三ツ英語の不審を質問する。質問してしまえばもはや用のないはずだが、何かモジモジして交野(かたの)の鶉(うずら)を極めている。やがて差しうつ向いたままで鉛筆をおもちゃにしながら
「アノー昨夕はあなたどうなすったの。」
返答なし。
「何だか私が残酷だッて大変憤ッていらしったが、何が残酷ですの。」
ト笑顔をもたげて文三の顔をのぞくと、文三はあわててあちらを向いてしまい
「大抵察していながらそんな事を。」
「アラそれでも私にゃ何だかわかりませんものヲ。」
「わからなければわからないでようござんす。」
「オヤおかしな。」
それから後は文三は差し向かいになるごとに、お勢は例の事を種にして乙(おつ)うからんだ水向け文句、やいのやいのと責め立てて、ついには「おっしゃらぬとくすぐりますヨ」とまで迫ッたが、石地蔵と生まれ付いたしょうがには、情談(じょうだん)のどさくさ紛れにチョックリチョイといって除ける事のできない文三、しからばという口つきからまず重くろしく折り目正しく居すまッて、しかつべらしく思いのたけを言い出そうとすれば、お勢はツイとあちらを向いて、「アラ鳶が飛んでますヨ」と知らぬ顔の半兵衛もどき、さればといって手を引けば、また意(こころ)ありげな色目づかい、トこうじらされて文三はちとウロが来たが、ともかく触らば散ろうという下心の自ら素振りに現れるに、「ハハア」と気が付いて見ればうれしくありがたく辱(かたじ)けなく、罪も報いも忘れ果てて命もトントいらぬ顔つき。臍の下を住み家として魂がいつのまにか有頂天外へ宿替えをすれば、静かにはすわッてもいられず、ウロウロ座舗をまごついて、舌を吐いたり肩を縮めたり思い出し笑いをしたり、また変ぽうらいな手つきをしたりなど、よろずに瘋癲(きちがい)じみるまで喜びは喜んだが、しかしお勢の前ではいつも四角四面に食いしばって猥褻(みだり)がましい挙動(ふるまい)はしない。もっともかつてじゃらくらが高じてどやぐやとなッた時、今までうれしそうに笑ッていた文三がにわかに両眼を閉じて静まり返り何と言ッても口をきかぬので、お勢が笑いながら「そんなにまじめにおなんなさるとこうするからいい。」とくすぐりにかかッたその手頭を払いのけて、文三が熱気となり、「アアわれわれの感情はまだ習慣の奴隷だ。お勢さん下へ降りてください。」といったためにお勢に憤(おこ)られたこともあッたが………しかしお勢も日を経るままにくたびれたか、あまりじゃらくらもしなくなって、高笑いをやめて静かになッて、このごろではおりおり物思いをするようになッたが、文三に向かッてはともすればぞんざいな言葉づかいをする所を見れば、泣き寝入りに寝入ッたのでもない光景(ようす)。
アアたまたま咲きかかッた恋の蕾も、事情というおもわぬ沍(いて)にかじけて、おかしくもつれた縁の糸のすじりもじった間柄、海へも付かず河へも付かぬ中ぶらりん、月下翁(むすぶのかみ)の悪戯か、それにしてもよほど風変わりな恋の初峰入り。
文三の某省へ奉職したは昨日今日のように思う間にすでに二年近くになる。年ごろ節倹の功が現れてこのごろではすこしは貯金もできた事ゆえ、老耋(としよ)ッたお袋にいつまでも一人住みの不自由をさせて置くのも不孝の沙汰、今年の暮れには東京へ迎えて一家を成して、そうして………と思う旨を半分報知(しら)せてやれば母親大よろこび、文三にはお勢という心あてができたことは知らぬが仏のような慈悲心から「早く相応な者をあてがって初(うい)孫の顔を見たいとおもうは親の私としてもこうなれど、その地へ住ッて一軒の家を成すようになれば家の大趣皮胜皮胜铯踏掀蕖ⅳ嗓Δ护猡椁κ陇胜橛H類某の次女お何どのは内端でおとなしく器量も十人並みでわたしにはしごく機に入ッたが、この娘を迎えて妻としては」と写真まで添えての相談に、文三はハット当惑の眉をひそめて、物のついでに云々(しかじか)と叔母のお政に話せばこれもまた当惑の躰。初めお勢が退塾して家に帰ッたころ「勇という嗣子(あととり)があッて見ればお勢はどうせ嫁にやらなければならぬが、どうだ文三に配偶せては。」と孫兵衛に相談をかけられた事もあッたが、そのころはお政もさようさネと生返事、どっち付かずに綾なして月日を送るうち、お勢のはなはだ文三に親しむを見てお政もついにその気になり、当今では孫兵衛が「ああ仲がよいのは仕合わせなようなものの、両方とも若い者同士だからそうでもない心得違いがあッてはならぬから、お前が終始看張ッていなくッてはなりませぬぜ。」といっても、お政は「ナアニ大丈夫ですよ、またちっとやそッとの事ならあッたッてようござんさアネ、どうせ早かれ晩(おそ)かれいっしょにしようと思ッてる所ですものヲ。」ト、ズット粋を通し顔でいる所ゆえ、今文三の説話をきいて当惑をしたもそのはずの事で。「お袋の申す通り家をもつようになれば到底妻(さい)をもらわずに置けますまいが、しかし気心もわからぬ者をむやみにもらうのはあまりドットしませぬから、この縁談はまず辞(ことわ)ッてやろうかと思います。」ト常に異(かわ)ッた文三の決心を聞いてお政はようやく眉を開いてしきりにうなずき、「そうともネそうともネいくらおっかさんの機に入ッたからッて肝心のお前さんの機に入らなきゃア不熟の基だ。しかしよくお話しだッた。実はネお前さんのお嫁の事についちゃアちイと良人(うち)でも考えてる事があるんだから、これから先おっかさんがどんな事を言ッておよこしでも、チョイとわたしに耳打ちしてから返事を出すようにしておくんなさいヨ。いずれ良人でお話し申すだろうが、ちイと考えてる事があるんだから………それはそうとおっかさんのもらいたいとお言いのはどんなお子だか、チョイとその写真をお見せナ。」といわれて文三はさもきまりわるそうに、「エ写真ですか、写真は………私の所にはありません、さっきアノ何が………お勢さんが何です………持ッていッておしまいなすった………」
トいう光景(ありさま)で母親も叔父夫婦の者もあてとする所は思い思いながら一様に今年の晩(く)れるのを待ちわびている矢さき、だれの望みもかれの望みも一ツにからげて背負ッて立つ文三が(話を第一回に戻して)今日思いがけなくも………諭旨(ゆし)免職となった。さても*まわりあわせ*というものは是非のないもの、トサ昔気質の人ならば言う所でもあろうか。

------------------------------------------------------------

     第四回 言うに言われぬ胸の中(うち)

さてその日もようやく暮れるに間もない五時ごろになっても、叔母もお勢もさらに帰宅する光景(ようす)も見えず、いつまで待っても果てしのない事ゆえ、文三は独り夜食を済まして、二階の縁端(えんさき)に端居しながら、身を丁字欄干に寄せかけて暮れ行く空をながめている。この時日はすでに万家の棟に没しても、なお余残(なごり)の影を留めて、西の半天を薄紅梅に染めた。顧みて東方の半天をながむれば、淡々とあがった水色、諦視(ながめつめ)たら宵星の一つ二つはほじり出せそうな空合い。幽かに聞こえる伝通院の暮鐘の音に誘われて、塒(ねぐら)へ急ぐ夕鴉の声が、あちこちに聞こえてやかましい。すでにして日はパッタリ暮れる、あたりはほの暗くなる。仰向いてみる蒼空には、余残の色もいつしか消えうせて、今は一面の青海原、星さえ所斑(ところまだら)にきらめき出でて殆(と)んと交睫(まばたき)をするようなまねをしている。今しがたまで見えぬ隣家の前栽も、蒼然たる夜色に偸まれて、そよ吹く小夜嵐に立ち樹の所存(ありか)を知るほどの闇(くら)さ。デモ土蔵の白壁はさすがに白いだけに、見透かせば見透かされる………サッと軒端近くに羽音がする、ふりかえッて観る………何も眼にさえぎるものとてはなく、ただもう薄ぐらいのみ。
心ない身も秋の夕暮れには哀れを知るが習い、まして文三は糸目の切れた奴凧の身の上、その時々の風次第で落ち着く先は籬(まがき)の梅か物干しの竿か、見きわめの付かぬ所が浮世とは言いながら、父親が没してからまる十年生死の海のうやつらやの高波に揺られ揺られてかろうじて泳ぎいだした官海もやはり波風の静まる間がないことゆえ、どうせ一度は捨小舟(すておぶね)の寄る辺ない身になろうも知れぬとかねて覚悟をして見ても、そこが凡夫のかなしさで、危うきに慣れて見れば苦にもならずあてにならぬ事をあてにして、文三は今歳の暮れにはお袋を引き取ッて、チト老楽をさせずばなるまい、国へ帰ると言ッてもまさかに素手でもいかれまい、親類の所へ土産は何にしよう、「ムキ」にしようか品物にしようかと、胸で弾いた算盤の桁は合いながらも、ともかく合いかねるは人の身のつばめ、今まで見ていた盧生(ろせい)の夢も一炊の間にさめ果てて「アアまた情けない身の上になッたかナア………」
にわかにパッと西の方が明るくなッた。見かけた夢をそのままに、文三が振り返ッて視やる向こうは隣家の二階、戸を繰り忘れたものか、まだ障子のままで人影が射している………スルトその人影が見る間にムクムクとふくれ出して、よい加減の怪物となる………パッと消えうせてしまッたあとはまた常闇(とこやみ)。文三はホッと吐息をついて、顧みてわが家の中庭をみおろせば、所狭きまで植えならべた草花立樹などが、わびしげに啼く虫の音を包んで、黯
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:49:20 | 显示全部楼层
第五回 胸算違いから見一無法は難題

枕もとでよびさます下女の声に見果てぬ夢を驚かされて、文三がうろたえた顔を振り揚げて向こうを見れば、はや障子には朝日影が斜めに射している。「ヤレ寝過ごしたか………」と思う間もなく引き続いてムクムクと浮かみ上がッた「免職」の二字で狭い胸がまずふさがる………*おんばこ*を振り掛けられた死蟇(しにがいる)の身で、おどり上がり、衣服をあらためて、夜の物を揚げあえず、楊枝を口へ頬ばり故(ふる)手ぬぐいを前帯にはさんで、あわてて二階を降りる。その足音を聞きつけてか奥の間で「文さんはやくしないと遅くなるヨ。」トいうお政の声に圭角(かど)はないが、文三の胸はぎっくり応えて返答にもまごつく。そこで頬ばッていた楊枝をこれ幸いと、われにもわからぬでたらめを句
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:50:04 | 显示全部楼层
第六回 どちら着かずのちくらが沖

秋の日影もやや傾いて庭の梧桐(ごとう)の影法師が背丈を伸ばす三時ごろ、お政は独り徒然(つくねん)と長手の火悚摔猡郡欷盲啤⑿堡幛摔工铯辘胜椤⒒痼绀驁踏盲苹窑貢S書(いたずらがき)も倭文字、牛の角文字いろいろに、心に物思えばか、怏々(おうおう)たる顔の色、ややともすれば太息(といき)をついている折しも、表の格子戸をガラリトあけて、案内もせず入ッて来て、隔ての障子のあなたからヌット顔を差し出して、
「今日は。」
ト挨拶をした男を見れば、どこかで見たような顔と思うも道理、文三の免職になった当日、打ち連れて神田見附の裏より出て来た、ソレ中背の男と言ッたその男で、今日は退省後と見えて、不断着の秩父縞の袷衣の上へ南部の羽織をはおり、チトくたびれた博多の帯に袂時計の紐を巻き付けて、手にトルコ形の帽子を携えている。
「オヤどなたかと思ッたらお珍しいこと。こないだはさっぱりお見限りですネ。マアお入んなさいナ、それとも老婆ばかりじゃアおいやかネ、オホホホホホ。」
「イヤ結構………結構もおかしい、アハハハハハ。トキニ何は、内海はいますか。」
「ハアいますヨ。」
「それじゃちょいと逢って来てからそれからこの間の復讐(かたきうち)だ、覚悟をしてお置きなさい。」
「返り討ちじゃアないかネ。」
「違いない。」
ト何かわからぬ事を言ッて、中背の男は二階へ上がッてしまッた。
帰ッて来ぬ間にチョッピリこの男の小伝を言うべき所なれども、何者の子でどんな教育をうけどんな境界を渡ッて来た事か、過ぎ去ッた事は山媛の霞に互盲皮埭恧埭怼ⅴ去螗趣铯椁淌陇韦摺oL聞によれば総角(そうかく)のころに早く怙恃(こじ)を喪(うしな)い、寄る辺渚の棚なし小舟ではなく宿無し小僧となり、あすこの親戚ここの知己と流れ渡ッているうち、かつて侍奉公までした事があるといいイヤないという、粉々たる人のうわさは滅多にあてになら坂や児手(こので)柏の上露よりももろいものとかたづけて置いて、さて正味の確実(たしか)な所をかい摘まんで誌せば、産まれは東京で、水道の水臭い士族の一人(かたわれ)だと履歴書を見た者の噺し、こればかりは偽ではない。本田昇と言ッて、文三より二年前に某省の等外を拝命したこのかた、吹小歇(ふきおやみ)のない仕合わせの風にグットのした出来星判任、当時は六等属の独身でまずは楽な身の上。
昇はいわゆる才子で、すこぶる知恵才覚があッてまたよく知恵才覚を鼻にかける。弁舌は縦横無尽、大道に出る豆蔵の塁を摩(ま)して雄を争うも可なりというほどではあるが、竪板の水の流れを堰きかねて折節は覚えず法螺を吹く事もある。また小奇用で、何一ツ知らぬという事はない代わり、これ一ツ卓絶(すぐれ)てできるという芸もない、怠(ずるけ)るが性分で倦きるが病だといえばそれもそのはずか。
昇はまたすこぶる愛嬌に富んでいて、きわめて世辞がよい。ことに初対面の人にはチヤホヤもまた一段で、婦人にもあれ老人にもあれ、それ相応に調子を合わせて、かつてそらすという事なし。ただ不思議な事には、親しくなるにしたがい次第に愛想がなくなり、鼻の頭(さき)であしらって、折に触れては気にさわる事を言うか、さなくばいやにおひゃらかす。それを憤りて食ってかかれば、手に合う者はその場で捻(ねじ)返し、手に合わぬ者は一時笑ッて済まして後、必ず讐(あだ)を酬ゆる………尾护胜椤⑷渭Sで横面を打(は)り曲げる。
とはいうものの昇は才子で、よく課長殿に事える。この課長殿というお方は、かつて西欧の水を飲まれた事のあるだけに、「殿様風」という事がキツイおきらいと見えて、常に口をきわめて御同僚方の尊大の風を御誹謗あぞばすが、御自分は評判の気六ヶ敷屋(きむずかしや)で、御意にかなわぬとなると些細のことにまで目を剥き出して御立腹あそばす、言わば自由主義の圧制家というお方だから、哀れや属官の人々はごきげんの取りようにまごついてウロウロする中に、独り昇はまごつかぬ。まず課長殿の身態(みぶり)声色はおろか、咳払いの様子から嚔(くしゃみ)の仕方までまねたものだ。ヤそのまた真似の巧みな事というものは、あたかもその人がそこにいて云為(うんい)するがごとくそっくりそのまま、ただ相違と言ッては、課長殿はだれの前でもアハハハとお笑いあそばすが、昇は人によッてエヘヘ笑いをするのみ。また課長殿に物など言いかけられた時は、まずせわしく席を離れ、子細らしく小首を傾けて謹んで承り、承り終わッてさてにっこり微笑して恭しく御返答申し上げる。要するに昇は長官を敬すると言ッても遠ざけるには至らず、狎れるといっても*涜(けが)*すには至らず、諸事万事御意の随意随意(まにまに)かつて抵抗した事なく、しかのみならず………ここが肝心要………他の課長の遺行を数えて暗に成徳を称場する事も折節はあるので、課長殿は「見所のある奴じゃ」ト御意あそばしてごひいきにあそばすが、同僚の者はよく言わぬ。昇の考えでは皆法界悋気(りんき)でよく言わぬのだという。
ともかくも昇は才子で、毎日怠らず出勤する。事務にかけてはすこぶる活発で、他人の一日分たっぷりの事を半日で済ましても平気孫左右衛門、難渋そうな顔色もせぬが、大方は見せかけの勉強ぶり、小使給事などをしかり散らして済まして置く。退省(ひけ)して下宿へ帰る、衣服を着がえる、すぐいずれかへか遊びに出かけて、落ち着いて在宿していた事はまれだという。日曜日には、御機嫌伺いと号して課長殿の私邸へ伺候し、囲碁のお相手をもすれば御私用をも達す。先ごろもお手飼いに狆(ちん)が欲しいと夫人の御意、聞くよりも早飲み込み、日ならずしてどこでもらッて来た事か、狆の子一ぴき携えてごらんに供える。件の狆を御覧じて課長殿が「こいつ妙な貌をしているじゃアないか、ウー。」と御意あそばすと、昇も「さようでございます、チト妙な貌をしております。」ト申し上げ、夫人が傍から「それでも狆はこんなに貌のしゃくんだ方がよいのだと申します。」トおっしゃると、昇も「なるほど夫人の仰せの通り狆はこんなに貌のしゃくんだ方がよいのだと申します。」ト申し上げて、御愛嬌にチョイト狆の頭をなでて見たとか。しかし永い間には取り外しもあると見えて、かつて何かの事ですこしばかり課長殿のごきげんを損ねた時は、昇はその当座一両日の間、胸がつかえて食事が進まなかッたとかいうが、ほどなく夫人のお癪からもみやわらげて、殿さまの御肝癖も療治し、果ては自分の胸のつかえも押しさげたという、なかなか小腕のきく男で。
下宿が目と鼻の間のせいか、昇はしばしば文三の所へ遊びに来る。お勢が帰宅してからは、一段足しげくなって、三日にあげず遊びに来る。初めとは違い近ごろは、文三に対して気にさわる事のみを言い散らすか、さもなければ同僚の非を数えて「おれは」との自負自賛、「人間地道に事をするようじゃ役に立たぬ。」などと勝手な熱を吐き散らすが、それは邂逅(たまさか)の事で、大方は下坐敷でお政を相手にむだ口をたたき、ある時は花合わせというものを手中に弄して、いかがなまねをしたあげく、寿司などを取り寄せておごり散らす。もちろんお政にはことのほか気に入ッてチヤホヤされる、気に入り過ぎはしないかと岡焼きをする者もあるが、まさか四十面をさげて………お勢には………シッ足音がする、昇ではないか………当たッた。
「トキニ内海はどうも飛んだ事で、実に気の毒な、今もいって慰めて来たがふさぎ切ッている。」
「うっちゃってお置きなさいヨ。身から出た錆だもの、ちっとはふさぐもいいのサ。」
「そう言えばそんなような者だが、しかし何しろ気の毒だ。こういう事になろうとはやくから知っていたらまたどうにかしようもあったろうけれども、何をしても………」
「何とか言ッてましたろうネ。」
「何を。」
「わたしの事をサ。」
「イヤ何とも。」
「フムあなたも頼もしくないネ、あんな者を朋友(ともだち)にして同類(ぐる)におなんなさる。」
「同類にも何もなりゃアしないが、ほんとうに。」
「そう。」
ト談話のうちに茶を入れ、地袋の菓子を取り出して昇にすすめ、またお鍋をもってお勢を召(よ)ばせる。いつならば文三にもと言う所を今日は八分にしたゆえ、お鍋が不審に思い、「お二階へは」ト尋ねると、「ナニ茶がカッ食らいたきゃア………言わないでもいいヨ。」ト答えた。これを名づけてWoman's revenge「婦人の復讐」という。
「どうしたんです、鬩(いじ)り合いでもしたのかネ。」
「鬩り合いならいいがいじめられたの、文三にいじめられたの………」
「それはまたどうしたわけで。」
「マア本田さん、聞いておくんなさい、こうなんですヨ。」
ト昨日文三にいじめられた事を、おまけにおまけを付けてベチャクチャとしゃべり出しては止め度なく、滔々蕩々として勢い百川(ひゃくせん)の一時に決したごとくで、言い損じがなければたるみもなく、多年の揣摩(すいま)一時の宏弁、自然に備わる抑揚頓挫、あるいは開きあるいは闔(と)じて縦横自在に言い回せば、鷺も烏にならずには置かぬ。哀れむべし文三はついに世にも怖ろしい悪棍(わるもの)となり切ッた所へ、お勢は手に一部の女学雑誌を持ち立ちながら読み読み坐舗へ入って来て、チョイト昇に一礼したのみでにっこりともせず、しゃべりながら母親が汲んで出す茶碗を憚りとも言わずに受け取て一口飲んで下へ差しおいたまま、済まアシ切ッてまた再び読みさしの雑誌を取り上げて眺め詰めた、昇と同席の時はいつもこうで。
「トいうわけでツイそれなりけりにしてしまいましたがネ、マア本田さん、あなたはどっちが理屈だと思いなさる。」
「それはもちろん内海が悪い。」
「そのまた悪い文三の肩を持ッてサ、あたしに食ッてかかッた者があると思し召せ。」
「アラ食ッてかかりはしませんワ。」
「食ッてかからなくッてサ………あたしはもうもう腹が立って立ってたまらなかッたけれども、何してもこの通り気が弱いシ、それに先には文三という荒神(こうじん)様が付いているからとてもかなう事ちゃアないとおもって、虫を殺して黙ってましたがネ………」
「アラあんな虚言(うそ)ばッかり言ッて。」
「虚言じゃないワ真実(ほんと)だワ………マなんぼなんだッてあきれ返るじゃありませんか。ネーあなた、どこの国にか他人の肩を持ッてさ、シシババの世話をしてくれた現在に親に食ッてかかるという者があるもんですかネ、ネー本田さん、そうじゃアありませんか。ギャッと産まれてからこれまでにするにゃア仇や疎かな事じゃアありません。子を持てば七十五度泣くというけれども、この娘の事てはこれまで何百回泣いたかしれやアしない。そんなにして育ててもらッて露ほどもありがたいと思ッてないそうで、このごろじゃ一口いう二口目にゃすぐ悪たれ口だ。マアなんたら因果でこんな邪見な子を持ッたかと思うとシミジミ悲しくなりますワ。」
「人が黙ッていればいい気になってあんな事を言ッて、あんまりだからいいワ。わたしは三才の小児じゃないから親の恩ぐらいは知っていますワ。知っていますけれども条理………」
「アアモウわかッたわかッた、何も宣(のたま)うナ。よろしいヨ、わかッたヨ。」
ト昇は憤然(やっき)となッてしゃべりかけたお勢の火の手を手頸で煽り消して、あてお政に向かい、
「しかし叔母さん、こいつは一番しくじッたネ、平生の粋にも似合わないなされ方、チトお恨みだ。マア考えて御覧じろ、内海といじり合いがあッて見ればネ、ソレ………というわけがあるからお勢さんも黙ッて見ていられないやアネ、アハハハハ。」
ト相手のない高笑い。お勢は額で昇を睨めたまま何も言わぬ、お政も苦笑いをしたのみでこれも黙然、ちと席がしらけたおもむき。
「それは戯談(じょうだん)だがネ、ぜんたい叔母さんあんまり欲が深過ぎるヨ、お勢さんのようなこんな上出来な娘を持ちながら………」
「なにが上出来なもんですか………」
「イヤ上出来サ。上出来でないと思うなら、まず世間の娘っ子をごらんなさい。お勢さんぐらいの年格好でこんなに縹致(きりょう)がよくッて見ると、学問や何かはそっちのけでぜひ色狂いとか何とかろくなまねはしたがらぬものだけれども、お勢さんはさすがに叔母さんの仕込みだけあッて、縹致はよくッても品行は方正で、かつて浮気らしいまねをした事はなく、ただ一心にお勉強しておいでなさるから、漢学はもちろんできるシ、英学も………今何を稽古しておいでなさる。」
「「ナショナル」の「フォース」に列国史(スイントン)に………」
「フウ、「ナショナル」の「フォース」。「ナショナル」の「フォース」と言えば、なかなかむつかしい書物だ、男子でもよめない者はいくらもある。それを芳紀(とし)も若くッてかつ婦人の身でいながら稽古しておいでなさる、感心な者だ。だからこの近辺じゃアこういやア失敬のようだけれども、鳶が鷹とはあの事だと言ッて評判していますゼ。ソレごらん、色狂いして親の顔に泥を塗(なす)ッてもしようがない所を、お勢さんが出来がいいばっかりに叔母さんまで人にうらやまれる。ネ、何も足腰さするばかりが孝行じゃアない、親を人によく言わせるのも孝行サ。だからぜんたいなら叔母さんは喜んでいなくッちゃアならぬ所を、それをまだ不足に思ッてとやこういうのは欲サ、欲が深過ぎるのサ。」
「ナニちっとばかりなら人様に悪く言われてもいいからもうすこし優しくしてくれるといいんだけれども、邪慳(じゃけん)で親を親臭いとも思ッていないから悪くッてなりゃアしません。」
ト目を細くして娘の方をみかえる。こういう睨(にら)め方もあるものと見える。
「喜びついでにもう一ツ喜んでください。わが輩今日一等進みました。」
「エ。」
トお政はこなたを振り向き、びっくりした様子でしばらく昇の顔をみつめて、
「御結構があったの………ヘエエー………それはマア何してもおめでとうございました。」
ト鄭重に一礼して、さて改めて頭を振り揚げ、
「ヘー御結構があったの………」
お勢もまた昇が「御結構があッた」と聞くと等しくびっくりした顔色をしてすこし顔をあからめた、咄々(とつとつ)怪事もあるもので。
「一等お上がんなすッたと言うと、月給は。」
「たった五円違いサ。」
「オヤ五円違いだッて結構ですワ。こうツ今までが三十円だッたから五円ふえて………」
「何ですネーおっかさん、他人の収入を………」
「マアサ五円ふえて三十五円、結構ですワ、結構でなくッてさ。あなたどうして今時高利貸したッて月三十五円取ろうと言うなア容易な事ちゃアありませんヨ………三十五円………どうしても働き者は違ッたもんだネー。だからこの娘とも常不断そう言ッてます事サ、アノー本田さんは何だと、内の文三や何かとは違ッてまだ若くッておいでなさるけれども、利口で気働きがあッて、如才がなくッて………」
「談話(はなし)も艶消(つやけ)しにしてもらいたいネ。」
「艶じゃアない、ほんとにサ。如才がなくッてお世辞がよくッて男振りもいいけれども、ただ物食いの悪いのがあったら瑜(たま)に疵だッて、オホホホホ。」
「アハハハハ、貧乏人の質で上げ下げが怖ろしい。」
「それはそうと、いずれ御結構振る舞いがありましょうネ。新富かネ、ただしは市村かネ。」
「いずれへはなりとも、ただし負ぶで。」
「オヤそれはありがたくも何ともないこと。」
トまた口をそろえて高笑い。
「それは戯談(じょうだん)だがネ。芝居はマア芝居として、どうです、明後日団子坂へ菊見というやつは。」
「菊見、さようさネ、菊見にもよりけりサ。犬川じゃア、マア願い下げだネ。」
「そこにはまた異な寸法もあろうサ。」
「笹の雪じゃアないかネ。」
「まさか。」
「ほんとにいきましょうか。」
「おいでなさいおいでなさい。」
「お勢、お前もお出ででないか。」
「菊見に。」
「アア。」
お勢は生得の出遊き好き、下地は好きなり御意はよし、菊見の催しすこぶる妙だが、オイソレというも不見識と思ッたか、手弱く辞退して直ちに同意してしまう。十分ばかり経て昇が立ち帰ッたあとで、お勢は独り言のように、
「ほんとに本田さんは感心なもんだナ。まだ年齢も若いのに三十五円月給取るようになんなすった。それから思うと内の文三なんざア盆暗(ぼんくら)の意気地なしだッちゃアない、二十三にもなッて親を養す所か自分の居所立所にさえまごついてるんだ、なんぼ何だッて愛想が尽きらア。」
「だけれども本田さんは学問はできないようだワ。」
「フム学問学問とお言いだけれども、立身出世すればこそ学問だ。居所立所にまごつくようじゃア、ちっとばかり書物が読めたッてねっからありがた味がない。」
「それは不撙坤椁筏瑜Δ胜ぅ铩!
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 14:59:27 | 显示全部楼层
第七回 団子坂の観菊(きくみ) 上

日曜日は近ごろにない天下晴れ、風も穏やかで塵もたたず、暦を繰って見れば、旧暦で菊月初旬という十一月二日の事ゆえ、物見遊山には持って来いという日和。
園田一家の者は朝から観菊行きの支度とりどり。晴れ着の互長(ゆきたけ)を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪となって、回りの髪結いの来ようの遅いのがお鍋の落ち度となり、はては万古の茶瓶(きゅうす)が生まれもつかぬい口(いぐち)になるやら、架棚(たな)の擂
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:00:06 | 显示全部楼层
第八回 団子坂の観菊 下

お勢母子の出向いた後、文三はようやくすこしおちついて、つくねんと机のほとりにうずくまッたまま、腕をくみ、顎に襟を埋めて懊悩たる物思いに沈んだ。
どうも気にかかる、お勢の事が気にかかる。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気にかかってならぬ。
およそ相愛する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、またしようとてできるものでもない。ゆえに一方の心が歓ぶ時には他方の心も共に歓び、一方の心が悲しむ時には他方の心も共に悲しみ、一方の心が楽しむ時に他方の心も共に楽しみ、一方の心が苦しむ時には他方の心も共に苦しみ、嬉笑(きしょう)にも相感じ怒罵(どば)にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚び起こして決して齟齬(そご)し扞格(かんかく)する者でないと今日が日まで文三思っていたに、今文三の痛痒をお勢は感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気がのみ込めぬ。
もし相愛していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉づかいを改め起居動作を変え、蓮葉をやめて優に艶しく女性らしくなるはずもなし、また今年の夏一夕の情話に、われから隔ての関を取り除け、乙な目づかいをし麁匆(ぞんざい)な言葉をつかって、折節に物思いをする理由(いわれ)もない。
もし相愛していなければ、婚姻の相談があった時、お勢が戯談にかこつけてそれとなく文三の肚を探るはずもなし、また叔母と悶着をした時、他人同前の文三をかばって真実の母親と抗論する理由もない。
「イヤ妄想じゃない、おれを思っているに違いない………ガ………」
そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割れが、従兄弟なり親友なり未来の………夫ともなる文三の鬱々として楽しまぬのをよそに見て、行かぬといッても勧めもせず、平気で澄まして知らぬ顔でいるのみか、文三と意気(そり)が合わねばこそ自家も常居(つね)からきらいだといッている昇ごとき者に伴われて、物見遊山に出かけて行く………
「わからないナ。どうしてもわからん。」
わからぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々にしてこの気がかりなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物があってその中にこもっているように思われる、イヤこもっているに相違ない。が、何だか地体はさらにわからぬ。よってさらにまた勇気を振り起こしてただこの一点に注意を集め、わき目も觸(ふ)らさず一心不乱にここを先途として解剖して見るが、歌人のいわゆる箒木(ははきぎ)で、ありとは見えてどうもわからぬ、文三はそろそろジレ出した。スルトいたずらな妄想めが野次馬に飛び出して来て、アアではないかこうではないかと、真っ赤な贋物、宛事もない邪推をつかませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、また必ずしもいないでもなく、ウカウカと文三がつかませられるままにつかんで、あえだりもんだり円(まる)めたり、また引き延ばしたりして骨を折って事実にしてしまい、今目前にそのことが出来したようにあがきつもがきつ四苦八苦の苦しみをなめ、しかる後フト正眼を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取り越し苦労だ。腹立ち紛れに贋物を取ッて木灰微塵と打ち砕き、ホッと一息つきあえずまた穿鑿(せんさく)に取りかかり、また贋物をつかませられてまた事実にしてまた打ち砕き、打ち砕いてはまたつかみ、つかんではまた打ち砕くと、いつまでたっても果てしもつかず、終始同じ所にのみ止まッていて、前へも進まず後へも退かぬ。そして退いてよく視れば、なお何物だか、冷淡の中にあッて朦朧として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭(つ)き勇気も沮(はば)んだ。すなわち目を閉じ頭顱(かしら)を抱えてそこへ横に倒れたまま、、五官をばかにし七情の守りを解いて、是非も曲直も栄辱も窮達もお勢も我の吾たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悩を解脱(のが)れようと力め、ややしばらくの間というものは身動きもせず息気をもつかず死人のごとくになっていたが、たちまちむっくと跳ね起きて、
「もしや本田に………」
ト言いかけてあえて言い詰めず、さながら何か捜索(さがし)でもするように、愕然としてあたりをみまわした。
それにしてもこの疑念はどこから生じたものであろう。天より降ッたか地より沸いたか、そもそもまた文三のひがみからでた蜃楼海市(しんろうかいし)か、忽然として生じて思わずしてきたり、恍々惚々としてその来所を知るには由なしとはいえど、何にもせよ、あれほどまでにあがきつもがきつして穿鑿(せんさく)してもわからなかったいわゆる冷淡中の一物を、今わけもなく造作もなくツイチョット突き留めたらしい心持ちがして、文三覚えず身の毛がよだッた。
とはいうものの心持ちはまだ事実でない。事実から出た心持ちでなければ、ウカとは信をおき難い。よって今までのお勢の挙動をおもい出して熟思審察して見るに、さらにそんな気色は見えない。なるほどお勢はまだ若い、血気もいまだ定まらまい、志操もあるいは根強くあるまい。が、栴檀(せんだん)は二葉から馨ばしく、蛇は一寸にして人をのむ気がある。文三の目より見る時はお勢はいわゆる女豪の萌芽だ、見識も高尚で気韻も高く、洒々落々として愛すべく尊ぶべき少女であって見れば、よし道徳を飾り物にする偽君子、磊落(らいらく)をよそおう似而非(えせ)豪傑には、あるいは欺かれもしよう迷いもしようが、昇ごときあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷うはずはない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑している。相愛は相敬の隣に棲む、軽蔑しつつ迷うというは、わが輩人間のよく了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら………ガ………」
トまた引っかかりがある、まださっぱりしない。文三あわててブルブルと首を振ッて見たが、それでもまだ散りそうにもしない。この「ガ」めが、藕糸孔中蚊睫(ぐうしこうちゅうぶんしょう)の間にも入りそうなこの眇然(びょうぜん)たる一小「ガ」めが、目の中の星よりも邪魔になり、地平線上に現れた砲車一片の雲よりも畏ろしい。
しかり畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡がひそまッているかもしれぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬうちに一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほどなお散りかねる。しかも時刻の移るにしたがッて枝雲はできる、砲車雲は拡がる、今にも一大颶風(ぐふう)が吹き起こりそうに見える、気が気でない………
国もとより郵便がまいッた。散らし薬には崛竟(くっきょう)の物がまいッた。飢えた蒼鷹(くまだか)が小鳥をつかむのはこんなあんばいであろうかと思うほどに文三が手紙を引っつかんで、封じ目を押し切ッて、わざと声高にして読み出したが、中ごろに至ッて………フト黙して考えて………また読み出して………また黙して………また考えて………つい天を仰いで轟然と一大笑を発した、何をいうかと思えば、
「お勢を疑うなんぞといッておれもよっぽどどうかしている、アハハハハ。帰ッて来たらすっかり咄(はな)して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞといッて、アハハハハ。」
この最後の大笑で砲車雲は全く打ち払ッたが、その代わり手紙は何を読んだのか皆無判からない。
ハッと気を取り直して文三がまじめになッて落ち着いてさて再び母の手紙を読んでみると、免職を知らせた手紙のその返事で、老耋(としよって)の悪い耳、愚痴をこぼしたり薄命を嘆いたりしそうなものの、文の面を見れば、そんなけびらいは露ほどもなく、何もかも因縁ずくとあきらめた思い切りのよい文言。シカシさすがに心細いと見えて、返す書きに、あとでおもい出して書き加えたように薄墨で、
「こう申せばそなたはお笑いなされ候うかは存じ申さず候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧のようにお成りなされ候うように○○のお祖師さまへ茶断ちして願掛けいたしおり候まま、そなたもそのつもりにて油断なく御奉公口をお尋ねなされたく念じ参らせ候。」
文三は手紙を下において、黙然として腕をくんだ。
叔母ですら愛想を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないといッて愚痴をもこぼさず、茶断ちまでして子を励ます、その親心を汲み分けてはありがた泪(なみだ)に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、ただ何となくお勢の帰りが待ち遠しい。
「畜生おっかさんがこれほどまでに思ッてくださるのに、お勢なんぞの事を………不孝きわまる。」
ト熱気として自らしかッて、お勢の貌を視るまでは外出などをしたくないが、わざと意地悪く、
「これからいって頼んで来よう。」
ト口に言って、「お勢の帰って来ないうちに」ト内心で言い足しをして、憤々しながら晩餐を喫して宿所を立ち出で、足早に番町へまいって知己(ちき)を尋ねた。
知己というのは石田某といって某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間がら、かつて某省へ奉職したのも実はこの男の周施で。
この男はかつて英国に留学した事があるとかで英語は一通りできる。当人の噺によれば彼地(あちら)では経済学を修めて随分上出来の方であったという事で、帰朝後も経済学で立派に押し回される所ではあるが、少々子細あッて当分のうち(七、八年来の当分のうちで)、ただの英語の教師をしているという事で。
英国の学者社会に多人数知己がある中に、かの有名の「ハルベルト?スペンセル」ともかつて半面の識があるが、シカシもう七、八年も以前のことゆえ、今面会したら恐らくは互いに面忘れをしているだろうという、これも当人の噺で。
ともかくさすがは留学しただけありて、英国の事情、すなわち上下議院の宏壮、ロンドン府市街の繁昌、馬車の華美、料理の献立、衣服杖履(じょうり)、日用諸雑品の名称等、すべて閭港猥瑣(りょこうわいさ)の事にはよく通暁していて、カルタをもてあそぶ事もでき、紅茶の好悪を飲み別ける事もでき、指頭で紙巻烟草(シガレット)を製する事もでき、片手で鼻汁をふく事もできるが、その代わり日本の事情は皆無わからない。
日本の事情は皆無わからないが当人は一向苦にしない。ただ苦にしないのみならずおよそ一切の事一切の物を、「日本の」トさえ冠詞が付けばすなわち鼻息でフムと吹き飛ばしてしまってそして平気で済ましている。
まだ中年のくせにこの男はあだかも老人のごとくに、過去の追想のみで生活している。人にあえば必ず留学していたころの手柄噺を咄し出す、もっともこれを封じてはさらに談話のできない男で。
知己の者はこの男の事を種々に評判する、あるいは「懶惰(らんだ)だ」ト言いあるいは「鉄面皮だ」と言いあるいは「うぬぼれだ」ト言いあるいは「ほら吹きだ」トいう。この最後の説だけには新知古交ひっくるめて総起立、薬種屋の丁稚が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒がなくッていい。」とだれだか評した者があッたが、これはきわめて確評で、恐らくは毒がないから懶惰で鉄面皮でうぬぼれでほらを吹くので、トいッたらあるいは「イヤ懶惰で鉄面皮でうぬぼれでほらを吹くから、それで毒がないように見えるのだ。」トいう説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
尋ねてみると幸い在宿、すなわち面会して委細を咄して依頼すると「よろしい承知した。」ト手軽な挨拶、文三は肚の裏で「毒がないから安請け合いをするが、その代わり身を入れて周施はしてくれまい。」ト思ッてひそかに嘆息をした。
「これが英国だと君一人ぐらいどうでもなるんだが、日本だからいかん。わが輩こう見えても英国にいたころは随分知己があったものだ、まず「タイムス」新聞の社員で某サ、それから………」
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、しばしば聞いて耳にタコが入ッているほどではあるが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言い兼ねて文三も始めて聞くような面相をして耳を借している、そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間前ばかりというもの、のべつに受けさせられた。その受け賃というわけでもあるまいが帰りぎわになって、
「新聞の翻訳物があるから周施しよう。明後日午後に来たまえ、取り寄せて置こう。」
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か………日本の新聞は英国の新聞から見りゃまるで小供の新聞だ、見られたものじゃない………」
文三はあわてて告別の挨拶をしなおしてそこそこに戸外へ立ち出で、ホッと一息ため息をついた。
早くお勢にあいたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思い詰めながら文三がいそいそ帰宅してみるとお勢はいない。お鍋に聞けば、いったん帰ってまた入湯にいったという、文三すこし拍子抜けがした。
居間へ戻ッて橙火を点じ、臥て見たり起きて見たり、立って見たりすわッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸を伸ばして待ち構えていると、やがて格子戸のあく音がして、縁側に優しい声がして、梯子段を上る足音がして、お勢が目前に現れた。と見れば常さえ艶やかな緑の姢稀⑺畾荬蚝螭钎鹰愆`ドをも欺くばかり。玉と透きとおる肌は塩引きの色を帯びて、目もとにはほんのりと紅を潮したあんばい、どこやらがいたずららしく見えるが、ニッコリとした口もとのしおらしい所を見ては是非を論ずるいとまがない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしもなくニタニタと笑いながら、
「お帰んなさい。どうでした団子坂は。」
「非常に雑踏しましたよ、お天気がいいのに日曜だッたもんだから。」
ト言いながら膝から先へベッタリすわッて、お勢は両手で矯面をおおい、
「アアせつない、いやだというのに本田さんが無理にお酒を飲まして。」
「おっかさんは。」
ト文三が尋ねた、お勢は何を言ッたのだかトントわからないようで。
「お湯から買い物に回ッて………そしてネ自家もモウいい加減に酔ってるくせに、私が飲めないというとネ、助けてやるッてガブガブそれこそ牛飲したもんだから、しまいにはグデングデンに酔ってしまッて。」
ト聞いて文三は満面の笑いを半ば引っ込ませた。
「それからネ、私どもを家へ送り込んでから、しようがないんですものヲ、ふざけてふざけて。それにおっかさんも悪いのよ、今夜だけは大目にみて置くなんぞッていうもんだからいい気になっておふざけて………オホホホ。」
ト思い出し笑いをして、
「ほんとに失敬な人だよ。」
文三は全く笑いを引っ込ませてしまッて腹立たしそうに、
「そりゃさぞおもしろかッたでしょう。」
といッて顔をしかめたが、お勢はさらに気が付かぬ様子、しばらく黙然として何か考えていたがやがてまた思い出し笑いをして、
「ほんとに失敬な人だよ。」
つまらぬ心配をしたことをすっぱり咄して、快く一笑に付して、心の清い所を見せて、お勢に………お勢に………感信(かんしん)させて、そして自家も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリはずれた。昇が酒を強いた、飲めぬといッたら助けた、何でもない事。送り込んでからふざけた………道学先生に聞かせたらふざけさせて置くのが悪いというかもしれぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯れならそう立腹するわけにもいかなかッたろう。要するにお勢の噺において深くとがむべき節もない。がシカシ文三には気に食わぬ、お勢の言いようが気に食わぬ。「昇ごとき犬畜生にも劣ッた奴の事を、そううれしそうに「本田さん本田さん」トうわさをしなくてもよさそうなものだ。」トおもえばまた不平になッて、またおもしろくなくなッて、またお勢の心意気がのみ込めなくなッた。文三は差しうつ向いたままで黙然として考えている。
「何をそんなにふさいでおいでなさるの。」
「何もふさいじゃいません。」
「そう、私はまたお留さん(大方老婆が文三の嫁に欲しいといッた娘の名で)とかの事を懐い出して、それでふさいでおいでなさるのかと思ッたら、オホホホ。」
文三は愕然としてお勢の貌をしばらくみつめて、ホッとため息をついた。
「オホホホため息をして。やっぱり当たッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当たッたものだから黙ッてしまッて。」
「そんな気楽じゃありません。今日母の所から郵便が来たから読んで見れば、私のこういう身になッたを心配して、このごろじゃ茶断ちして願掛けしているそうだシ………」
「茶断ちして、おっかさんが、オホホホ。おっかさんもまだ旧弊だ事ネー。」
文三はジロリとお勢をしり目にかけて、恨めしそうに、
「あなたにゃおかしいか知らんが私にゃさっぱりおかしくない。薄命とは言いながら私の身が定まらんばかりで老耋(としよ)ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分………耐らない。それにおっかさんも………」
「また何とか言いましたか。」
「イヤ何ともおっしゃりはしないが、アレ以来終始気まずい顔ばかりしていて打ち解けてはくださらんシ………それに………それに………」
「あなたも」ト口さきまで出たが、どうもあつかましく嫉妬も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く定めなければならぬと思ッて今も石田の所へいッて頼んでは来ましたが、シカシこれとてもあてにはならんシ、実に………弱りました。ただ私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定まらぬために「方々」が我他彼此(がたびし)するのでまことに困る。」
トしおれ返ッた。
「そうですネー。」
ト今まで冴えに冴えていたお勢もトウトウ引き込まれて共に気をめいらしてしまい、しばらくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さなあくびをして、
「アアねむくなッた。ドレもういッて寝ましょう。お休みなさいまし。」
と会釈をして起ち上がッてフト立ち止まり、
「アそうだッけ………文さん、あなたはアノー課長さんの令妹をご存じ。」
「知りません。」
「そう。今日ネ、団子坂でお目にかかッたの。年紀は十六、七でネ、随分別品は………別品だッたけれども、束髪のくせにヘゲルほど白粉をつけて………薄化粧ならいいけれども、あんなにつけちゃアいや味ッたらしくッてネー………オヤいい気なもんだ、また噺し込んでいるつもりだと見えるよ。お休みなさいまし。」ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまった。
縁側でただ今帰ッたばかりの母親に出あッた。
「お勢。」
「エ。」
「エじゃないよ。またお前、二階へ上がッてたネ。」
また始まッたといッたような面相をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎へ入ッてしまッた。
さて子舎へ入ッてからお勢は手早く寝衣に着替えて床へ入り、しばらくの間臥ながら今日の新聞をみていたが………フト新聞を取り落とした。寝入ッたのかと思えばそうでもなく、目はパッチリ視開いている、そのくせ静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「なぜアア不活発だろう。」
ト口へ出して考えてフト両足を踏み延ばしてにっこり笑い、あわてて起き揚がッて枕頭のランプを吹き消してしまい、枕について二、三度臥反りを打ッたかと思うと間もなくスヤスヤと寝入ッた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:00:38 | 显示全部楼层
第九回 すわらぬ肚(はら)

今日は十一月四日、打ち続いての快晴で空は余残(なごり)なく晴れ渡ッているが、憂愁ある身の心は曇る。文三は朝から一室に垂れこめて、独り屈託の頭を疾ましていた。実は昨日朝飯の時、文三が叔母に対って、一昨日教師を番町に訪うて身の振り方を依頼して来た趣を縷々咄し出したが、叔母は木然として情すくなき者のごとく「ヘー」トよそごとに聞き流していてさらに取り合わなかった、それが未だに気になって気になってならないので。
一時ごろに勇が帰宅したとて遊びにまいッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押坐(すわり)相撲の噺、体操音楽のうわさ、取り締まりとの議論、賄方征討の義挙から、試験の模様、落第のいいわけに至るまで、およそ偶然に懐(むね)に浮かんだことは、月足らずの水子思想、まだまとまっていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着はない、訥弁ながらやたら無性に陳べ立てて返答などはさらに聞いていぬ。文三も最初こそ相手にもなっていたれ、ついにはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意の空気を鼓動さして置いて、自分は自分でよそごとを、といッた所がお勢の上や身の成り行きで、熟思黙想しながら、おりおり間外れなため息かみ交ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段を上ッて来て、中途から貌のみを差し出して、
「勇。」
「だから僕ア議論してやッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。「ボート」の順番を「クラッス」(級)の順番で………」
「勇といえば。お前の耳は木くらげかい。」
「だから何だといッてるじゃないか。」
「綻びを縫ってやるからシャツをお脱ぎとよ。」
勇はシャツを脱ぎながら、
「「クラッス」の順番で定めるというんだもの。「ボート」の順番を「クラッス」の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、「ボート」は………」
「さッさとお脱ぎでないかネー、人が待っているじゃないか」
「そんなに急がなくたッていいやアネ、失敬な。」
「どっちが失敬だ………アラあんな事を言ッたらなおわざとぐずぐずしているよ。チョッ、ジレッタイネー、さっさとしないと姉さん知らないからいい。」
「そんな事言うなら Bridle path という字を知ってるか。I was at our uncle's という事を知ってるか。I will keep your ………」
「チョイとお黙り………」
ト早口に制して、お勢が耳をそばだてて何か聞き済まして、たちまち満面に笑いを含んでさもうれしそうに
「きっと本田さんだよ。」
ト言いながらあわてて梯子段を駈け下りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば………オイ………ヤ失敬な、モウいっちまッた。あいつ近ごろ生意気になっていかん。さっきも僕アけんかしてやったんだ。婦人のくせに園田勢子という名刺をこしらえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤ッたッけ。」
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然むちゃくちゃに高笑いをし出したが、もちろんすこしもおかしそうではなかッた。しかし少年の議論家は称賛されたのかと思ッたと見えて、
「お勢ッ子で沢山だ、婦人のくせにいかん、生意気で。」
ト言いながら得々として二階をおりていった。あとで文三がしばらくの間また腕を組んで黙想していたが、フト何かおもい出したような面相をして、立ち上がッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。
奥の間の障子をあけて見ると、果たして昇が遊びに来ていた。しかも傲然と火悚韦郡铯椁舜螭ⅳ挨椁颏い皮い俊¥饯韦饯肖摔獎荬佶氓骏辘工铯盲啤⒑韦磨佶偿伽趣悉筏郡胜丹à氦盲皮い俊I倌辘巫h論家は素肌の上に上衣を羽織ッて、子細らしく首を傾げて、ふかし甘薯(いも)の皮をむいてい、お政は囂々(ぎょうぎょう)しく針箱を前に控えて、おぼつかない手振りでシャツの綻びを縫い合わせていた。
文三の顔を視ると、昇が顔で電光(いなびかり)を光らせた、けだし挨拶のつもりで。お勢もまた後方を降りかえッてみはみたが、「だれかと思ッたら」トいわぬばかりの索然とした情味のない面相をして、急にまたあちらを向いてしまッて、
「ほんとう。」
ト言いながら、首を傾げてチョイと昇の顔をみつめた光景。
「ほんとうさ。」
「虚言だとききませんよ。」
アノ筋のわからない他人の談話という者は、聞いてあまり快くはないもので。
「チョイと番町まで。」と文三が叔母に会釈をして起ち上がろうとすると、昇が、
「オイ内海、すこし噺がある。」
「ちと急ぐから………」
「こっちも急ぐんだ。」
文三はグッと視おろす、昇は視上げる、目と目をにらみ合わした、何だか異なあんばいで。それでも文三はしぶしぶながら坐舗へ入ッて座に着いた。
「他の事でもないんだが。」
ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。するとお政は針仕事の手を止めて不思議そうに昇の貌をみつめた。
「今日役所での評判に、この間免職になった者の中で、二、三人復職する者ができるだろうという事だ。そういやア課長の談話にすこし思い当たる事もあるから、あるいは実説だろうかと思うんだ。ところでわが輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんはもちろんお勢さんも………」ト言いかけてお勢をしり目にかけてニヤリと笑ッた。お勢はお勢でおかしく下唇を突き出して、ムッと口を結んで、額で昇をにらみつけた。イヤにらみつけるまねをした。
「お勢さんも非常に心配しておいでなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊んでいて食えるという身分でもあるまいシするから、もし復職できればこの上ないといッたようなもんだろう。ソコデもし果たしてそうならば、よろしく人の定まらぬうちに課長にのみ込ませて置くべしだ。がシカシ君の事だから今さら直付けにいきにくいとでも思うなら、わが輩一臂(いっぴ)の力をかしてもよろしい、橋渡しをしてもよろしいが、どうだおぼしめしは。」
「それは御信切………ありがたいが………」
ト言いかけて文三は黙してしまった。迷惑はかくしてもかくし切れない、自から顔色に現れている。モジつく文三の光景を視て、昇は早くもそれと悟ッたか、
「いやかネ、ナニいやなものを無理に頼んで周施しようというんじゃないから。そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ………やせ我慢なら大抵にして置く方がよかろうぜ。」
文三は血相を変えた。
「そんな事おっしゃるがむだだよ。」
トお政が横合いから嘴(くちばし)を容れた。
「内の文さんはグッと気位が立ち上がっておいでだから、そんな卑劣な事ァできないッサ。」
「ハハアそうかネ、それはしごくお立派な事だ。ヤこれは飛んだ失敬を申し上げました、アハハハ。」
と聞くと等しく文三は真っ青になッて、ぶるぶると震え出して、拳を握ッて歯を食いしばッて、昇の半面をグッとにらみつけて、今にもむしゃぶりつきそうな顔色をした………が、ハッと心を取り直して、
「エヘ………」
何となく席がしらけた、だれも口をきかない。勇がふかし甘薯を頬ばッて、右の頬をふくらませながら、モッケな顔をして文三をみつめた。お勢もまた不思議そうに文三を見つめた。
「お勢が顔を視ている………このままでおめおめと退くは残念、何かいッてやりたい、何かコウ品のいい、悪口雑言、一言の下に昇を気死させるほどの事をいッて、アノ鼻頭をヒッこすッて、アノ者面をあからめて………」トあせるばかりで凄み文句は以上見つからず、そしてお勢を視れば、なお文三の顔をみつめている………文三はどぎまぎした………
「モウそ………それッきりかネ。」
ト覚えず取りはずしていッて、われながらわが音声の変わッているのにびっくりした。
「何が。」
またやられた。蒼ざめた顔をサッとあからめて文三が
「用事は………」
「ナニ用事………ウー用事か、用事というかわからない………さよう、これッきりだ。」
モウ席にも堪えかねる。黙礼するやいなや文三が蹶然(けつぜん)起ち上がッて坐舗を出て二、三歩すると、後ろの方でドッと口をそろえて高笑いをする声がした。文三はまたぶるぶると震えてまた蒼ざめて、口惜しそうに奥の間の方をにらみ詰めたまま、しばらくの間釘付けにあッたようにたたずんでいたが、やがてまた気を取り直してすごすごと出てまいッた。
が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂したのをば無理無体に圧し着けたために、発しこじれて内攻して胸中に磅*はく*鬱積(ほうはくうっせき)する、胸板が張り裂ける、腸(はらわた)が断絶(ちぎ)れる。
無念無念、文三は恥辱を取ッた。つい近ごろといッて二、三日前までは、官等にちとばかり高下はあるとも同じ一課の局員で、優り劣りがなければ押しも押されもしなかッた昇ごとき犬自物(いぬじもの)のために恥辱を取ッた、しかり恥辱を取ッた。シカシ何の遺恨があッて、いかなる原因があッて。
想うに文三、昇にこそ怨みはあれ、昇に怨みられる覚えはさらにない。しかるに昇は何の道理もなく何の理由もなく、あたかも人を辱める特権でももっているように、文三を土芥のごとくに蔑視(みくだ)して、犬猫のごとくにとりあつかッて、あまつさえ叔母やお勢のいる前で、嘲笑した侮辱した。
復職する者があるという役所の評判も、課長の言葉に思い当たる事があるというも、昇のいう事ならあてにはならぬ。よしそれらは実話にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢するという昇が、自家の利益を賭け物にして他人のために周施しようという、まずそれからがのみ込めぬ。
かりに一歩を譲ッて、全く朋友の信実心からあのような事を言い出したとした所で、それならそれで言いようがある。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦(れいていこく)、みすぼらしい身になッたといッて文三を見くびッて、失敬にも無礼にも、復職ができたらこの上がなかろうといッた。
それもよろしいが、課長は昇のために課長なら、文三のためにもまた課長だ。それを昇は、あたかも自家(うぬ)一個(ひとり)の課長のように、課長課長とひけらかして、頼みもせぬに「一臂の力をかしてやろう、橋渡しをしてやろう。」といッた。疑いもなく昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕に措くごとき信用を得ているといッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己(うぬ)一個で鼻に掛けて、己一個でひけらかして、己と己が愚を披露している分の事なら、空き家で棒を振ッたばかり、当たり触りがなければ、文三も黙ッてもいよう立腹もすまいが、その三文信用をさしはさんで、人に臨んで、人を軽蔑して人を嘲弄して人を侮辱するに至ッては、文三腹に据えかねる。
面と向かッて図大柄(ずおおへい)に、「やせ我慢なら大抵にしろ。」と昇はいッた。
やせ我慢やせ我慢、だれがやせ我慢しているといッた、また何をやせ我慢しているといッた。
俗務をおッつくねて、課長の顔色を承けて、強いて笑ッたり諛言(ゆげん)を呈したり、四ン這いに這い回ッたり、乞食にも劣るまねをしてようやくの事で三十五円の慈恵金にありついた………それがどこが栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈なまねはできぬ。それを昇は、お政ごとき愚痴無知の婦人に持ち長じられるといッて、おれほど働き者はないとうぬぼれてしまい、しかも廉潔な心から文三が手を下げて頼まぬといえば、嫉(ねた)み妬(そね)みから負け惜しみをすると臆測をたくましゅうして、人もあろうにお勢の前で、「やせ我慢なら大抵にしろ。」
口惜しい、腹が立つ。余の事はともかく、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて手出しもしなかッた。」
トどこかで異な声が聞こえた。
「手出しがならなかッたのだ、手出しがなっくもし得なかッたのじゃない。」
ト文三憤然としていいわけをし出した。
「おれだッて男児だ、虫もある胆気もある。昇なんぞは蚊蜻蛉とも思ッていぬが、シカシあの時なまじこっちから手出しをしてはますます向こうの思う坪に陥ッて玩弄されるばかりだシ、かつ婦人の前でもあッたから、しにくい我慢もしてやッたんだ。」
トは知らずしてお勢が、怜悧に見えても未惚女(おぼこ)の事なら、蟻とも螻(けら)とも糞中の蛆とも言いようのない人非人、利のためにならば人糞をさえなめかねぬ廉恥知らず、昇ごとき者のために文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出しをもせずおめおめとして退いたのを視て、あるいは不甲斐ない意気地がないと思いはしなかッたか………よしお勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、恥ずかしい………
「トいうも昇、貴様から起こッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ。」
ト憤然として文三が、拳を握ッて歯を食いしばッて、ハッタとばかりにらみつけた。にらみつけられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立ち止まッて不思議そうに文三の背長を目分量に見積もりていたが、それでも何とも言わずにまたあちらの方へと巡行していッた。
愕然として文三が、夢のさめたような面相をして、キョロキョロとあたりをみまわして見れば、いつのまにか靖国神社の華表(とりい)際にたたずんでいる。考えて見るとなるほど俎橋(まないたばし)を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微かに残ッている。
すなわち社内へ進み入ッて、左手の方の杪枯(うらが)れた桜の樹の植え込みの間へ入ッて、両手を背後に合わせながら、顔をしかめてそここことうろつき出した。けだし、尋ねようという石田の宿所は、後門を抜ければツイそこではあるが、何分にも胸に燃やす修羅苦羅(しゅらくら)の火の手が盛んなので、しばらく散歩して余熱(ほとぼり)を冷ますつもりで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ。」
ト文三がうろつきながら愚痴をこぼし出した。
「現在自分の………おれが、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた………平気で人の顔を視ていた………」
「しかも立ちぎわにいっしょになッて高笑いをした。」ト無慈悲な記憶が用捨(ようしゃ)なく言い足しをした。
「そうだ高笑いをした………シテ見ればいよいよ心変わりがしているかしらん………」
ト思いながら文三が力なさそうに、とある桜の樹の下に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛けへ腰を掛ける、というよりはむしろ尻餅をついた。しばらく間は腕をくんで、顎を襟に埋めて、身動きをもせずに静まり返ッて黙想していたが、たちまちフッと首を振り揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想を尽かさして………そして自家の方になびかそうと思ッて………それでわざとおれを………お勢のいるところでおれを………そういえばアノ言い様、アノお勢を視た目つき………コ、コ、コリャこのままにはおけん………」
トいッて文三は血相を変えて突ッ立ち上がッた。
がどうしたものであろう。
何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通りある、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度(かいりょうたいど)だからだぞ、無気力だからではないぞ。」ト口で言わんでも行為で見せつけて、昇の胆を褫(うば)ッて、叔母の睡りをさまして、もし愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買い戻して、そして………そして………自分も実に胆気があると………確信して見たいが、どうしたものであろう。
思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断絶絶交する………イヤイヤ昇もなかなか口強馬、舌戦は文三の得策でない、といッてまさか腕力に訴える事もできず。
「ハテどうしてくれよう。」
トほとんど口へ出して言いながら、文三がまた旧の腰掛けに尻餅をついてつくづくと考え込んだまま、一時間ばかりというものは、静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君。」
トいう声が頭上に響いて、だれだか肩をたたく者がある。びッくりして文三がフッと貌を振り揚げて見ると、手ずれて垢光りに光ッた洋服、しかも二、三か所手きずを負うたやつを着た壮年の男が、よほど酩酊していると見えて、鼻持ちならぬほどの熟柿臭いにおいをさせながら、いつの間にか目前に突っ立ッていた。これはもと同僚であッた山口某という男で、第一回にチョイとうわさをして置いたアノ山口と同人で、やはり踏みはずし連の一人。
「ヤだれかと思ッたら一別以来だネ。」
「ハハハ一別以来か。」
「大分ごきげんのようだネ。」
「しかりごきげんだ。シカシ酒でも飲まんじゃーたまらん。あれ以来今日で五日になるが、毎日酒浸りだ。」
トいッてその証拠立てのためにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「なぜまたそう Despair を起こしたもんだネ。」
「Despair じゃーないがシカシ君おもしろくないじゃーないか。何らの不都合があッてわれわれどもを追い出したんだろう、また何らの取り得があッてあんな庸劣(やくざ)な奴ばかりを撰んで残したのだろう、その理由が聞いてみたいネ。」
ト真っ摔圣盲皮蓼妨ⅳ皮俊ⅳ饯蚊菠蛞姢啤ⅳ饯肖蛲à辘工盲奎衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は少し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー………」
「すこし小さな声で咄したまえ、人に聞こえる。」
ト気を付けられてにわかに声を低めて、
「事務にかけちゃこういやアおかしいけれどもあとに残ッたやつらにあえて多くは譲らんつもりだ。そうじゃないか。」
「そうとも。」
「そうだろう。」
ト仱甑丐摔圣盲啤
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:01:13 | 显示全部楼层
 第十回 負けるが勝ち

知己を番町の家に訪えば主人は不在、留守居の者より翻訳物を受け取ッて、文三がもと来た路を引き返して俎橋まで来たころはモウ点火しごろで、町屋では皆店頭ランプを点している。「免職になッて懐ざみしいから、今ごろ帰るに食事をもせずに来た。」ト思われるのも残念と、つまらぬ所に力瘤を入れて、文三はトある牛店へ立ち寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて、見掛けはしごくよかッたが裏へ入ッて見ると大違い、もっとも客も相応にあッたが、給事の婢が不慣れなのでまごつくほどには手が回らず、帳場でも間違えれば出し物も後れる。酒を命じ肉を命じて文三が、待てど暮らせど持って来ない、催促をしても持って来ない、また催促をしてもまた持って来ない。たまたま持って来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三もついには癇癪を起こして、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをしてようやくの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度ありがとうござい」の声を聞き流して戸外へでた時には、厄落としでもしたような心持ちがした。
両側の夜見世をのぞきながら、文三がブラブラと神保町の通りを通行したころには、胸のモヤモヤもようやく絶えだえになッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気にさわッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、ただ*かお*に当たる夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持ちはしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸を開けて裏へ入ると、奥坐舗の方でワッワッという高笑いの声がする。耳をそばだててよく聞けば、昇の声もその中に聞える………まだいると見える。文三は覚えず立ち止まッた。「もしまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ。」ト思えばしきりに胸が浪だつ。しばらくたたずんでいて、度胸を据えて、戦争が初まる前の軍人のごとくに思い切ッた顔色をして、文三は縁側へ廻り出た。
奥坐舗をのぞいて見ると、杯盤狼藉と取り散らしてある中に、昇が背なかに円く切り抜いた白紙を張られてウロウロとして立っている、そのそばにお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、がお政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」という者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三はぷりぷりしながらそのままにして行き過ぎてしまうと、たちまち後ろの方で、
 昇「オヤこんないたずらをしたネ。」
 勢「アラわたしじゃありませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ。」
 鍋「アラお嬢さまですよ、オホホホホ。」
 昇「だれもかれもない、二人共敵手だ。ドレまずこの肥満奴(ふとっちょ)から。」
 鍋「アラ私じゃありませんよ、オホホホホ。アラいやですよ………アラー御新造さアん(引)」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタという足音も聞こえた、オホホホという笑い声も聞こえた、お勢のしきりに「引っかいておやりよ、引っかいて」トわめく声もまた聞こえた。
騒動に気を取られて文三が覚えず立ち止まりて後方を振り向く途端に、バタバタと足音がして、避ける間もなくだれだかトンと文三に衝き当たッた。あわてた声でお政の声で、
「オー危ない………だれだネーこんな所に黙ッて突っ立ッてて。」
「ヤ、コリャ失敬………文三です………どこぞ痛めはしませんでしたか。」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ入りてあとピッシャリ。恨めしそうにあとを目送ッて文三はしばらくたたずんでいたが、やがて二階へ上がッて来て、まず手探りでランプを点じて机のほとりに蹲踞(そんこ)してから、さて
「実に淫哇(みだら)だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格品格と口癖にいッているお勢が、あんな猥褻な席に連なッている………しかもいっしょになッてふざけている………平生の持論はどこへやッた、何のために学問をした。先自侮而後人侮v之(まずみずからあなどるしこうしてのちひとこれをあなどる)[注 vはレ点]、そのくらいの事は承知しているだろう、それでいてあんなまねを………実に淫哇だ。叔父の留守に不取り締まりがあッちゃおれが済まん、明日厳しく叔母に………」
トまでは調子につれて黙想したが、ここに至ッてふと今のわが身を省みてグンニャリとしおれてしまい、しばらくしてから「まずはともかくも」ト気を替えて、懐中してきた翻訳物を取り出して読み初めた。
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical partty. For over fifty years the party………
ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口をつぐんで、
「チョッ失敬きわまる。おれの帰ッたのを知ッていながら、どいつもこいつも本田一人の相手になッてチヤホヤしていて、飯を食ッて来たかという者もない……アまた笑ッた、アリャお勢だ……いよいよ心変わりがしたならしたというがいい、切れてやらんとはいわん。何の糞、おれだッて男児だ、心変わりした者に………」
ハッと心づいて、また一越(いちおつ)調子高に、
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political………
フト格子戸のあく音がして笑い声がピッタリ止まッた。文三は耳をそばだてた。いそがわしく縁側を通る人の足音がして、しばらくすると梯子段の下でランプをどうとかこうとかいうお鍋の声がしたが、それから後はひっそとして音沙汰をしなくなった。何となく来客でもある容子。
高笑いのする声がするうちは何をしているくらいは大抵想像がついたからまずよかッたが、こう静まッて見るとサア容子がわからない。文三すこし不安心になッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければよし、あればそばに付いてはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思い付いた、イヤ思いだした事がある。今初まッた事ではないが、先刻から酔いざめの気味での咽喉が渇く。水を飲めば渇きがとまるが、シカシ水は台所よりほかにはない。しこうして台所は二階には付いていない。ゆえにもし水を飲まんと欲せば、ぜひとも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているもばかげている。」ト種々にいいわけをして、文三はついに二階を降りた。
台所へ来て見ると、小ランプが点してはあるがお鍋はいない。皿小悚蜗搐い堡郡蓼蓼谴颏翏韦皮皮ⅳ胨蛞姢欷小⒓堡擞盲扦魄菠い摔扦猡い盲郡猡韦!赴伦nは」と聞き耳を引き立てれば、ヒソヒソとささやく声が聞こえる。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞き取れない。そこでぬすむがごとくに水を飲んで、抜き足をして台所を出ようとすると、たちまち奥坐舗の障子がサッとあいた。文三は振り返ッて見て、覚えず立ち止まった。お勢が開けかけた障子につかまッて、出るでもなく出ないでもなく、ただこっちへ背を向けてたたずんだままで、坐舗の裏をのぞき込んでいる。
「チョイとここへおいで。」
トいうはたしかに昇の声。お勢はだらしもなく頭振(かぶ)りを振りながら、
「いやサ、あんな事をなさるから。」
「モウいたずらしないからおいでといえば。」
「いや。」
「ヨーシいやといッたネ。」
「ほんとか、そこへいきましょうか。」
ト、チョイと首を傾げた。
「ア、おいで、サア………サア………」
「どっちの目で。」
「コイツメ。」
ト確かに起ち上がるまね。
オホホホと笑いをこぼしながら、お勢はあわてて駆け出して来て、危うく文三に衝き当たろうとして立ち止まッた。
「オヤだれ………文さん………いつ帰ッたの。」
文三は何も言わず、ツンとして二階へ上がッてしまッた。
その後からお勢も続いて上がッて来て、遠慮会釈もなく文三のそばにベッタリすわッて、常よりはなれなれしく、しかも顔をしかめておかしく身体を揺すりながら、
「本田さんがふざけてふざけてしようがないんだもの。」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色をしてお勢の柳眉(りゅうび)をひそめた矯面(かお)をにらみつけたが、恋は曲者、こうにらみつけた時でもなお「美は美だ」と思わないわけにはいかなかッた。せっかくの相好(そうごう)もどうやらくずれそうになッた………が、はッと心づいて、わざと苦々しそうに冷笑(あざわら)いながらそっぽうをむいてしまッた。
折柄梯子段を踏みとどろかして昇が上がッて来た。ジロリと両人の光景を見るやいなや、たちまちウッと身を反らして、さも業山(ぎょうさん)そうに、
「これだもの………大切なお客様を置き去りにしておいて。」
「だッてあなたがあんな事をなさるもの。」
「どんな事を。」
ト言いながら昇はすわッた。
「どんな事ッてあんな事を。」
「ハハハ、こいつァいい。それじゃーあんな事ッてどんな事を。ソラいいたちこッこだ。」
「そんならいッてもようござんすか。」
「よろしいとも。」
「ヨーシよろしいとおッしゃッたネ、そんならいッてしまうからいい。アノネ文さん、今ネ、本田さんが………」
ト言いかけて昇の顔をみつめて
「オホホホ、マアかにしてあげましょう。」
「ハハハ言えないのか、それじゃーわが輩が代わッて噺そう。「今ネ本田さんがネ………」」
「本田さん。」
「私の………」
「アラ本田さん、おっしゃりゃー承知しないからいい。」
「ハハハ、自分から言い出して置きながらそうも亭主というものは恐いものかネ。」
「恐かアないけれども私の不名誉になりますもの。」
「なぜ。」
「なぜといッて、あなたに凌辱(りょうじょく)されたんだもの。」
「ヤこれは飛んでもないことをお言いなさる、ただチョイと………」
「チョイとチョイと本田さん、あえて一問を呈す、オホホホ。あなたは何ですネ、口には同権論者だ同権論者だとおッしゃるけれども、虚言ですネ。」
「同権論者でなければ何だというんでゲス。」
「非同権論者でしょう。」
「非同権論者なら。」
「絶交してしまいます。」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃアじゃないか、アハハハ。どうしてどうしてわが輩ほど熱心な同権論者は恐らくはあるまいと思う。」
「虚言おッしゃい。たとえばネ熱心でも、あなたのような同権論者は私ア大きらい。」
「これは御挨拶。大きらいとは情けない事をおッしゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き。」
「どういうッてアノー、僕(あたし)のすきな同権論者はネ、アノー………」
ト横目で天井をながめた。
昇が小声で
「文さんのような。」
お勢も小声で
「Yes………」
ト微かにいッて、おかしな身振りをして、両手を貌にあてて笑い出した。文三は愕然としてお勢をみつめていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨーやけます(引)うらやましいぞ(引)。どうだ内海、エ、今の後託宣は。「文さんのような人が好きッ」アッたまらぬたまらぬ、もう今夜うちにゃ寝られん。」
「オホホホホそんな事をおっしゃるけれども、文さんのような同権論者が好きといッたばかりで、文さんが好きといわないからいいじゃありませんか。」
「そのいいわけ闇(くら)い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事でございます。」
「オホホホホそんならばネ………アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私がきらいだからいいじゃありませんか。ネー文さん、そうですネー。」
「ヘンきらいどころか好きも好き、足駄はいて首ッたけという念の入ッた落ッこちようだ。すこし水層が増そうものなら、ブクブク往生しようというんだ、ナア内海。」
文三はムッとしていてにッこりともしない。その貌をお勢はチョイと横目で視て、
「あんまりあなたが戯談おっしゃるものだから、文さん憤ッてしまいなすッたよ。」
「ナニまさかうれしいともいえないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ました所は内海もなかなか好男子だネ、苦味ばしッていて。モウすこし彼の顎がつまると申し分がないんだけれども、アハハハハ。」
「オホホホ。」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横目で視た。
「シカシそうはいうものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝をたたいて、
「すこぶる付きの別品、しかも実のあるのに想い付かれて、叔母さんに油を取られたといッては保護してもらい、ヤ何だといッては保護してもらう。実にうらやましいネ。明治年代の丹治というのはこの男の事だ。焼いて粉にして飲んでしまおうか、そうしたらちっとはあやかるかもしれん、アハハハハ。」
「オホホホ。」
「オイ好男子、そう苦虫を食いつぶしていずと、ちっとこっちを向いてのろけたまえ。コレサ丹治君。これはしたり、御返答がない。」
「オホホホホ。」
トお勢はまた作り笑いをして、また横目でムッとしている文三の貌を視て、
「アーおかしいこと。あんまり笑ッたものだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へいッてお茶を入れましょう。」
「マアもうちっと御亭主さんのそばにいて顔を視せておあげなさい。」
「いやだネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れてここへ持ッて来ましょうか。」
「茶を入れて持って来る実があるならいっそ水を持ッて来てもらいたいネ。」
「水を。お砂糖入れて。」
「イヤ砂糖のない方がいい。」
「そんならレモン入れて来ましょうか。」
「レモンが入るなら砂糖けがチョッピリあッてもいいね。」
「何だネーいろんな事いッて。」
ト言いながらお勢は起ち上がッて、二階を降りてしまッた。あとには両人の者が、しばらく手持ちぶさたという気味で黙然としていたが、やがて文三はいやに落ち着いた声で、
「本田。」
「エ。」
「君は酒に酔ッているか。」
「イイヤ。」
「それじゃアすこし聞く事があるが、朋友の交わりというものは互いに尊敬していなければできるものじゃあるまいネ。」
「何だ、おかしな事を言い出したな。さよう、尊敬していなければできない。」
「それじゃア………」
ト言いかけて黙していたが、思い切ッてすこし声を震わせて、
「君とはしばらく交際していたが、モウ今夜ぎりで………絶交してもらいたい。」
「ナニ絶交してもらいたいと………何だ、唐突千万な。何だといッて絶交しようというんだ。」
「その理由は君の胸に聞いてもらおう。」
「おかしくいうな。わが輩少しも絶好しられる覚えはない。」
「フン覚えはない。あれほど人を侮辱して置きながら。」
「人を侮辱して置きながら。だれが、いつ、何といッて。」
「フフンしようがないな。」
「君がか。」
文三は黙然としてしばらく昇の顔をみつめていたが、やがてすこし声高に、
「何にもそうとぼけなくッたッていいじゃないか。君みたようなものでも人間と思うからして、すなわち廉恥を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら………」
「オイオイオイ人に物をいうならモウちっとわかるようにいってもらいたいネ。君一人ぐらい友人を失ッたといッてそんなに悲しくもないから、絶交するならしてもよろしいが、シカシその理由も説明せずしてただむやみに人を侮辱した侮辱したというばかりじゃ、ハアそうかといッておられんじゃないか。」
「それじゃなぜさっき叔母やお勢のいる前で僕に、「やせ我慢なら大抵にしろ」といッた。」
「それがそんなに気にさわッたのか。」
「あたりまえサ………なぜ今また僕の事を明治年代の丹治すなわち意気地なしといッた。」
「アハハハいよいよ腹筋だ。それから。」
「事に大小はあッても理に巨細(こさい)はない。やせ我慢といッて侮辱したも丹治といッて侮辱したも、帰する所はただ一の軽蔑からだ。すでに軽蔑心がある以上は朋友の交際はできないものと認めたからして絶好を申出したのだ。わかッているじゃないか。」
「それから。」
「ただしこうはいようなものの、園田の家と絶交してくれとはいわん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母とカルタを取ろうが、」
トいッて文三、冷笑した。
「お勢を芸娼妓(げいしょうぎ)のごとくもてあそぼうが、」
トいッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何ともいうまい。だから君もそう落胆イヤ狼狽して遁辞(とんじ)を設ける必要もあるまい。」
「フフウ嫉妬の原素も雑ッている。それから。」
「モウこれよりほかに言う事もない。また君も何も言う必'要'もあるまいから、このまま下へ降りてもらいたい。」
「イヤいう必要がある。冤罪を被ッてはこれを弁解する必要がある。だからこのまま下へ降りる事はできない。なぜやせ我慢なら大抵にしろと「忠告」したのが侮辱になる。なるほど親友でないものにそう直言したならば侮辱といわれてもしようがないが、シカシ君とわが輩とは親友の関繋(かんけい)じゃないか。」
「親友の間にも礼義はある。しかるに君は面と向かッて僕に「やせ我慢なら大抵にしろ」といった。無礼じゃないか。」
「何が無礼だ。「やせ我慢なら大抵にしろ」といッたッけか、「大抵にした方がよかろうぜ」といッたッけか、どっちだッたかもう忘れてしまッたが、シカシどっちにしろ忠告だ。およそ忠告という者は――君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが――忠告という者は、人の所行を非と認めるからというもので、是と認めて忠告を試みる者はない。ゆえにもし非を非と直言したのが侮辱になれば、すべての忠告という者は皆君のいわゆる無礼なものだ。もしそれで君がわが輩の忠告を怒るのならば、わが輩一言もない、謹んで罪を謝そう。がそうか。」
「忠告なら僕はかえって聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ。」
「なぜ。」
「もし忠告ならなぜ人のいる前でいッた。」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか。」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景を見てひそかに冷笑した。
「内輪の者だけれども、シカシ何もアア口ぎたなく言わなくッてもいいじゃないか。」
「どうも種々に論鋒が変化するから君の趣意がわかりかねるが、それじゃア何か、わが輩の言い方すなわち忠告の Manner が気に食わんというのか。」
「もちろん Manner も気に食わんサ。」
「Manner が気にくわないのなら改めてお断わり申そう。君には侮辱と聞こえたかもしれんがわが輩は忠告のつもりで言ッたのだ、それでよかろう。それならモウ絶交する必要もあるまい、アハハハ。」
文三は何と駁してよいかわからなくなッた、ただムシャクシャと腹が立つ。風がよければさほどにも思うまいが、風が悪いのでなお一層腹が立つ。油汗を鼻さきににじませて、下唇を食い締めながら、しばらくの間口惜しそうに昇のばか笑いをする顔をにらんで黙然としていた。
お勢がこぼれるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッてまいッた。
「ハイ本田さん。」
「これはお待ちどうさま。」
「何ですと。」
「エ。」
「アノとぼけた顔。」
「アハハハハ、シカシあまり遅かッたじゃないか。」
「だッて用があッたんですもの。」
「浮気でもしていやアしなかッたか。」
「あなたじゃあるまいシ。」
「わが輩がそんなに浮気に見えるかネ………ドッコイ「課長さんの令妹」と言いたそうな口つきをする。いえばこっちにも「文さん」トいう武器があるからすぐ返り討ちだ。」
「いやな人だネー、人が何も言わないのに邪推を回して。」
「邪推を回してといえば、」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、また胸に落ちんか。」
「君のいう事は皆遁辞だ。」
「なぜ。」
「そりゃ説明するに及ばん、Self-evident truth だ。」
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか。」
「どうしたの。」
「マア聞いてごらんなさい、よほどおもしろい議論があるから。」
トいッてまた文三の方を向いて
「それじゃその方の口はまず片が付いたと。それからしてもう一口の方は何だッけ………そうそう丹治丹治、アハハハなぜ丹治といッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ。」
「どうしたの。」
「ナニネ、さっきわが輩が明治年代の丹治といッたのが御気色(みけしき)にさわッたといッて、この通り顔色まで変えてご立腹だ。あなたの情夫(いろ)にしちゃちと野暮天すぎるネ。」
「本田。」
昇は飲みかけた「コップ」を下に置いて
「何でゲス。」
「人を侮辱して置きながらとがめられたといッて遁辞を設けて逃げるような破廉恥的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕には何も言うまいが、シカシ最初の「プロポーザル」(申し出)より一歩も引く事はできんから、モウ降りてくれたまえ。」
「まだそんな事をいッているのか、ヤどうも君も驚くべき負け惜しみだな。」
「何だと。」
「負け惜しみじゃないか。君にもう自分の悪かッた事はわかッているだろう。」
「失敬な事を言うな。降りろといッたら降りたがいいじゃないか。」
「モウおよしなさいよ。」
「ハハハお勢さんが心配し出した、シカシ真にそうだネ、モウよした方がいい。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見たまえ、ばかげ切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に食わないの、丹治といッたが癪にさわるのといッて絶交する、まるで子供のけんかのようで、人に対して噺しもできないじゃないかネ、オイ笑ッてしまおう。」
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃよろしい、こうしよう、わが輩があやまろう、全くそうした深い考えがあッていッたわけじゃないから、お気にさわッたらまっぴら御免ください。それでよかろう。」
文三はモウ堪え切れない憤りの声を振り上げて、
「降りろといッたら降りないか。」
「それでもまだ承知ができないのか。それじゃしようがない、降りよう。今何を言ッてもわからない、のぼせ上がッているから。」
「何だと。」
「イヤこっちの事だ。ドレ。」
ト起ち上がる。
「ばか。」
昇もすこしムッとした趣で、立ち止まッてすばらく文三をにらみつけていたが、やがてニヤリと冷笑ッて、
「フフン、前後忘却の体か。」
ト言いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起ち上がッて、不思議そうに文三の容子を振りかえッてみながら、これも二階を降りてしまッた。あとで文三は悔しそうに歯を食いしばッて、拳を振り揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ。」
梯子段の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞こえた。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:02:14 | 显示全部楼层
第十一回 取り付く島

翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は終始顔をしかめていて口もろくろく聞かず、文三もその通り。独りお勢のみはソワソワしていてさらにおちつかず、はしたなくさえずッて他愛もなく笑う。かと思うとフト口をつぐんでまじめになッて、おもい出したように額越しに文三の顔をながめて、笑うでもなく笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑そうな奇々妙々な顔色をする。
食事が済む。お勢がまず起ち上がッて坐舗を出て、縁側でお鍋に戯れて高笑いをしたかと思う間もなく、たちまち部屋の方で低声に詩吟をする声が聞こえた。
ますます顔をしかめながら文三が続いて起ち上がろうとして、叔母に呼び留められてまたすわり直して、不思議そうに恐る恐る叔母の顔色をうかがって視てウンザリした。思いなしかして叔母の顔はとがッている。
人を呼び留めながら叔母は悠々としたもので、まず煙草を環に吹くこと五、六ぷくお鍋の膳を引き終わるを見済ましてさてようやくに、
「他の事でもありませんがネ、昨日わたしがマアそばで聞いてれば――またよけいなお世話だッてしかられるかもしれないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ッておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断わッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事たから、いずれ先に何とか確かな見当てがなくッてあんな事をお言いなさりゃアすまないネ。」
「イヤ何も見当てがあッてのどうのというわけじゃありませんが、ただ………」
「へー、見当てもありもしないのにむやみに辞ッておしまいなすッたの。」
「目的なしに断わるといッてはあるいは無考えのように聞こえるかもしれませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評というだけでナニモ確かに………」
縁側を通る人の足音がした。多分お勢が英語のけいこに出かけるので。改まッて外出をする時を除くのほかは、お勢は大抵母親に挨拶をせずして出かける、それが習慣で。
「確かにそうとも………」
「それじゃ何ですか、いよいよとなりゃ御布告にでもなりますか。」
「イヤそんな、布告なんぞになる気づかいはありませんが。」
「それじゃマア人のうわさをあてにするほかしようがないといッたようなもんですね。」
「デスガ、それはそうですが、シカシ………本田なぞの言う事は………」
「あてにならない。」
「イヤそ、そ、そういうわけでもありませんが………ウー………シカシ………いくら苦しいといッて………課長の所へ………」
「何ですとえ。いくら苦しいといッて課長さんの所へはいけないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言っておいでなさるのかえ。」
トお政は層にかかッて極めつけかたので、文三はあわてて、
「そ、そ、そればかりじゃありません………たとえ今課長に依頼して復職ができたといッてもとても私のような者は永く続きませんから、むしろ館員はモウ思い切ろうかと思います。」
「官員はモウ思い切る、フン何が何だか理由がわかりゃしない。この間お前さん何とお言いだ、私がこれからどうして行くつもりだと聞いたら、また官員の口でもさがそうかと思ッていますとお言いじゃなかッたか。それを今となッて、モウ館員は思い切る………さようサ、オヤの口は干上がッてもかまわないから、モウ官員はおやめなさるがいいのサ。」
「イヤ親の口が干上がッてもかまわないというわけじゃありませんが、シカシ官員ばかりが職業でもありませんから教師になッても親一人ぐらいは養えますから………」
「だからだれもそうはならないと申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫になと何になとおなんなさるがいいのサ。」
「ですがそう御立腹なすッちゃ私も実に………。」
「だれが腹を立てると言いました。何お前さんがどうしようとこっちに関繋のない事だからだれも腹も背も立ちゃしないけれども、ただ本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周施(とりも)ってもらッて課長さんに取り入ッて置きゃア、よしんば今度の復職とやらはできないでもまた先へよって何ぞれかぞれお世話アしてくださるまいものでもないトネー、そうすりゃ、お前さんばかりかおっかさんも御安心なさる事たシ、それに………何だから「三方四方」円く納まること事たから(この時文三はフット顔を振り揚げて、不思議そうに叔母を見つめた)と思ッて、チョイとお聞き申したばかりさ。けれどもナニお前さんがそうした了簡方(りょうけんかた)ならそれまでの事サ。」
両人共しばらく無言。
「鍋。」
「ハイ。」
トお鍋が窑颏ⅳ堡祁啢韦撙虺訾筏俊R姢欷锌冥颔猊搐膜护皮い搿
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:02:36 | 显示全部楼层
第十二回 いすかの嘴(はし)

文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子をあけるその途端に、今まで机に頬杖をついて何事か物思いをしていたお勢が、びっくりした面相をして少し飛び上がッて居ずまいを直した。顔に手のあとの赤く残ッている所をみると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃありませんか。」
「イイエ。」
「それじゃア。」
ト言いながら文三は部屋へ入ッて坐に着いて
「昨夜は大きに失敬しました。」
「私こそ。」
「実に面目ない、あなたの前をもはばからずして………今朝そのことでおっかさんに小言を聞きました。アハハハハ。」
「そう、オホホホ。」
ト無理に押し出したような笑い、何となく冷たい。今朝のお勢とはまるで他人のようで。
「トキニ少しあなたに御相談がある。他の事でもないが、今朝おっかさんのおっしゃるには………シカシもうお聞きなすッたか。」
「イイエ。」
「なるほどそうだ、ご存じないはずだ………おっかさんのおっしゃるには、本田がアア信切にいッてくれるものだから橋渡しをしてもらッて課長の所へいッたらばどうだとおっしゃるのです。そりゃなるほどおっかさんのおっしゃる通り今ここで私さえ我を折れば私の身も極まるシ、老婆も安心するシ、「三方四方」(ト言葉に力瘤を入れて)円く納まる事だから私もできる事ならそうしたいが、シカシそうしようとするには良心を絞め殺さなければならん、課長の鼻息(びそく)をうかがわなければならん、そんな事はわれわれにはできんじゃありませんか。」
「できなければそれまでじゃありませんか。」
「サそこです。私にはできないがシカシそうしなければおッかさんがまた悪い顔をなさるかもしれません。」
「母が悪い顔したッてそんなことは何だけれども………」
「エ、かまわんとおっしゃるのですか。」
ト文三はニコニコと笑いながら問いかけた。
「だッてそうじゃありません。あなたがあなたの考えどおりに進退して良心に対してすこしも恥ずる所がなければ、人がどんな貌をしたッていいじゃありませんか。」
文三は笑いを停めて、
「デスガただおッかさんが悪い顔をなさるばかりならまだいいが、あるいはそれが原因となッて………あなたにはどうかはしらんが………私のためにはもッとも忌むべきもッとも哀しむべき結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困るのです………もッともそんな結果が生ずると生じないとはあなたの………あなたの………」
ト言いかけて黙してしまッたが、やがて聞こえるか聞こえぬほどの小声で、
「心一ツにある事だけれども………」
トいッて差しうつ向いた。文三のかけた謎々が解けても解けない風をするのか、それともどうだかそこは判然しないが、ともかくお勢はすこぶる無頓着な容子で、
「私にはまだあなたのおっしゃる事がよくわかりませんよ。なぜそう課長さんの所へゆくのがおいやだろう。石田さんの所へいってお頼みなさるも課長さんの所へいってお頼みなさるも、その趣は同一じゃありませんか。」
「イヤ違います。」
トいッて文三は首を振り揚げた。
「非常な差がある、石田は私を知っているけれど課長は私を知らないから………」
「そりゃどうだかわかりゃしませんやアネ、いって見ないうちは。」
「イヤそりゃ今までの経験でわかります、そりゃおおうべからざる事実だから何だけれども………それに課長の所へゆこうとすればぜひともまず本田に依頼をしなければなりません、もちろん課長は私も知らない人じゃないけれども………」
「いいじゃありませんか、本田さんに依頼したッて。」
「エ、本田に依頼をしろと。」
トいッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色がすこし変わッていた。
「命令するのじゃありませんがネ、ただ依頼したッていいじゃありませんか、というの。」
「本田に。」
ト文三はあたかもわが耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア。」
「あんな卑屈な奴に………課長の腰巾着………奴隷………」
「そんな………」
「奴隷といわれても恥とも思わんような、犬…犬…犬猫同前な奴に手をついて頼めとおっしゃるのですか。」
トいッてジッとお勢の顔をみつめた。
「昨夜の事があるからそれであなたはそんなにおっしゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃありませんワ。」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない。」
トいッてさも苦々しそうに冷笑いながら顔をそむけたが、たちまちキッとお勢の方を振り向いて、
「いつかあなた何とおっしゃッた、本田があなたに対ッて失敬な情談を言ッた時に………」
「そりゃあの時はいやな感じも起こッたけれども、よく交際して見ればそんなにあなたのお言いなさるように破廉恥の人じゃありませんワ。」
文三は黙然としてお勢の顔をみつめていた、ただしよろしくない徴候で。
「昨夜もあれから下へ降りて本田さんがアノー「おっかさんが聞くときっとやかましく言い出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ。」と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイしゃべッて………」
「古狸め、そんな事を言やアがッたか。」
「またあんな事をいッて………そりゃ文さん、あなたが悪いよ。あれほどあなたに罵詈されても腹も立てずにやっぱりあなたの利益を思ッていう者を、それをそんな古狸なんぞッて………そりゃあなたは温順だのに本田さんは活発だから気が合わないかもしれないけれども、あなたと気の合わないものはみんな破廉恥ときまッてもいないから………それをむやみに罵詈して………そんな失敬な事ッて………」
トすこし顔を赤めて口早にいッた。文三はますます腹立たしそうな面相をして、
「それでは何ですか、本田はあなたの気に入ッたというんですか。」
「気に入るも入らないもないけれども、あなたのいうようなそんな破廉恥な人じゃありませんワ………それを古狸なんぞッてむやみに人を罵詈して………」
「イヤ、まず私の聞く事に返答してください。いよいよ本田が気に入ッたというんですか。」
言いようがすこしはげしかッた。お勢はムッとして、しばらく文三の容子をジロリジロリと視ていたが、やがて、
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、あなたの関係した事じゃありませんか。」
「あるから聞くのです。」
「そんならどんな関係があります。」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要はない。」
「そんなら私もあなたの問いに答える必要はありません。」
「それじゃアよろしい、聞かなくッても。」
トいって文三はまた顔をそむけて、さも苦々しそうに独語(ひとりごと)のように、
「人に問いつめられて逃げるなんぞといッて、実にひひ卑怯きわまる。」
「何ですと、卑怯きわまると………ようござんす、そんな事お言いなさるなら匿(かく)したッてしようがない、言ッてしまいます………言ッてしまいますとも………」
トいッてスコシ胸を突き出して、きッとして、
「ハイ本田さんは私の気に入りました………それがどうしました。」
ト聞くと文三はぶるぶると震えた、真っ蒼になッた………しばらくの間は言葉はなくて、ただ恨めしそうにジッとお勢の澄ました顔をみつめていた、その目縁が見る見るうるみ出した………がたちまちはッと気を取り直して、きッと容(かたち)を改めて、震え声で、
「それじゃ………それじゃこうしましょう、今までの事はすっかり………水に………」
言い切れない、胸がいっぱいになッて。しばらく杜絶(とぎ)れていたが思い切ッて、
「水に流してしまいましょう………」
「何です、今までの事とは。」
「この場になッてそうとぼけなくッてもいいじゃありませんか。いッそ別れるものなら………きれいに………別れようじゃ………ありませんか………」
「だれがとぼけています。だれがだれに別れようというのです。」
文三はムラムラとした。すこし声高になッて、
「とぼけるのもいい加減になさい。だれがだれに別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情をもてあそんで置きながら、今となッて………本田なぞに見返るさえあるに、人が穏やかに出れば付け上がッて、だれがだれに別れるのだとは何の事です。」
「何ですと。人の感情をもてあそんで置きながら………だれが人の感情をもてあそびました………だれが人の感情をもてあそびましたよ。」
トいった時はもうお勢もうるみ目になっていた。文三はグッとお勢の顔をにらみつけているのみで、一語をも発しなかった。
「あんまりだからいい………人の感情をもてあそんだの本田に見返ったのいろんな事をいって讒謗(ざんぼう)して………自分がうぬぼれてどんな夢を見ていたって、人の知った事ちゃありゃしない………」
トまだ言い終わらぬうちに文三はスックと起ち上がって、お勢をにらみつけて、
「モウ言う事もない聞く事もない。モウこれが口のきき納めだからそう思っておいでなさい。」
「そう思いますとも。」
「沢山………浮気をなさい。」
「何ですと。」
トいった時にはモウ文三は部屋にはいなかった。
「畜生………ばか………口なんぞ聞いてくれなくッたッてちっとも困りゃしないぞ………ばか………」
ト跡でお勢が敵手もないで独りで熱気となって悪口を並べ立てている所へ、いつのまにか帰宅したかフと母親が入って来た。
「どうしたんだえ。」
「畜生………」
「どうしたんだといえば。」
「文三とけんかしたんだよ………文三の畜生と………」
「どうして。」
「さっきいきなり入ッて来て、今朝おッかさんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜おッかさんが言ッた通りに………」
「コレサ、静かにお言い。」
「おッかさんの言ッた通りにいッて勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事をいッて。」
ト手みじかにもちろん自分に不利な所は悉皆(しっかい)取り除いて次第を咄して、
「おッかさん、わたしァくやしくッてくやしくッてならないよ。」
トいッて襦袢の袖口で泪をふいた。
「フウそうかえ、そんな事をいッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな者でも家大人(おっとさん)の血統だから今となッてかれこれ言い出しちゃ面倒臭いと思ッて、こッちから折れて出てやれば付け上がッて、そんなわがまま勝手をいう………モウ勘弁がならない。」
トいッてすこし考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段と声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、家大人はネ、ゆくゆくはお前を文三に配合(めあ)わせるつもりでおいでなさるんだが、お前は………いやだろうネ。」
「いやサいやサ、だれがあんな奴に………」
「きっとそうかえ。」
「だれがあんな奴に………乞食したッてあんな奴のお嫁になるもんか。」
「その一言をお忘れでないよ。お前がいよいよその気ならおっかさんも了簡があるから。」
「おっかさん、今日からわたしを下宿さしておくんなさいな。」
「なんだネこの娘は、藪から棒に。」
「だッてわたしァ、モウ文さんの顔を見るのもいやだもの。」
「そんな事を言ッたッてしようがないやアネ。マアもうちっと辛抱しておいで、そのうちにゃおっかさんがいいようにしてあげるから。」
この時はお勢は黙していた。何か考えているようで。
「これからはほんとうにおっかさんの言う事をきいて、モウあんまり文三と口なんぞお聞きでないよ。」
「だれが聞いてやるもんか。」
「文三ばかりじゃない、本田さんにだッてそうだよ。あんな昨夜のように遠慮のない事をお言いでないよ。ソリャお前の事だからまさかそんな………不埒(ふらち)なんぞはおしじゃあるまいけれども、今が嫁入り前で一番だいじな時だから。」
「おっかさんまでそんな事をいッて………そんならモウこれから本田さんが来たッて口も聞かないからいい。」
「口は聞くなじゃないが、ただ昨夜のように………」
「イイエイイエモウ口も聞かない聞かない。」
「そうじゃないといえばネ。」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない。」
ト頭振(かぶ)りを振る娘の顔を視て、母親は
「まるで狂気だ。チョイと人が一言いえばすぐ腹を立ってしまッて、手も付けられやアしない。」
ト言い捨てて起ち上がッて、部屋を出てしまッた。

つづく
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:03:19 | 显示全部楼层
第十三回 

 心理の上から観れば、知愚の別なく人ことごとくおもしろ味はある。内海文三の心状を観れば、それはわかろう。
 前回参看。文三すでにお勢にたしなめられて、憤然として部屋へ駆け戻ッた。さてそれからは独り演劇(しばい)、泡をかんだり、拳を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが気に入りました、」それは一時の激語も、承知しているでもなく、またいないでもない。から、あながちそればかりを怒ッたわけでもないが、ただ腹が立つ、まだ何か他の事で、おそろしくお勢に欺かれたような心地がして、わけもなく腹が立つ。
 腹の立つまま、ついに下宿と決心して宿所を出た。ではお勢の事はすでにすッぱり思い切ッているか、というに、そうではない、思い切ッてはいない。思い切ッてはいないが、思い切らぬわけにもゆかぬから、そこでむしゃくしゃする。利害得喪、今はそのような事に頓着ない。ただおのれに逆らッてみたい、おのれの望まない事をして見たい。鴆毒(ちんどく)? 持ッて来い。なめてこの一生をむちゃくちゃにして見せよう!…
 そこで宿所を出た。同じ下宿をするなら、遠方がよいというので、本郷辺へ往ッて尋ねてみたが、どうもなかッた。から、彼地から小石川へおりて、そこここと尋ね回るうちに、ふと水道町で一軒見当てた。宿料も廉、そのわりには坐舗も清潔、下宿をするなら、まずここらと定めなければならぬ…となると文三急に考え出した。「いずれ考えてから、またそのうちに…」言葉を濁してその家を出た。
「お勢と諍論(いいあ)ッて家を出た――叔父が聞いたら、さぞ心持ちを悪くするだろうなァ…」と歩きながらそろそろ畏縮(いじけ)だした。「といって、どうもこのままには済まされん…思い切ッて今の家に下宿しようか?…」
 今さら心が動く、どうしてよいかわけがわからない。時計を見れば、まだようやく三時半すこし回ッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所から牛込見附へかかッて、腹の屈託を口へ出して、おりおり往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪れてみた。
 折りよくもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒のうわさ、留学、ロンドン、「たいむす」、"はッばァと?すぺんさあー"――相変わぬ噺で、おもしろくも何ともない。「わたし…事によると…このごろに下宿するかもしれません。」唐突にあてもない事をいッてみたが、先生少しも驚かず、何故かふむと鼻を鳴らして、ただ「うらやましいな。もう一度そんな身になってみたい、」とばかり。とんと方角が違う。おもしろくないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
 出た時の勢いに引き替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事であッたろう。まず目を配ッてお勢をさがす。見えない、お勢が…棄てた者に用も何もないが、それでも、文三にいわせると、人情というものは妙なもので、何となく気にかかるから、火を持ッて上がッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いとおっしゃッて、御膳もろくに召し上がらずに、モウお休みなさいましたという。
「御膳もろくに?…」
「御膳もろくに召しゃがらずに。」
 確かめられて文三急にしおれかけた…が、ふと気をかえて、「へ、へ、へ、御膳も召し上がらずに…今に鍋焼きうどんでも食いたくなるだろう。」
 おかしな事をいうとは思ッたが、使いに出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
 と、独りになる。「へ、へ、へ、」とまた思い出して冷笑ッた…が、ふと心づいてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋(やくたい)もない事にかかわッている時ではない。「叔父の手前何といッて出たものだろう?」と改めて首をひねッて見たが、もウ何となくばかげていて、まじめになって考えられない。「何といッて出たものだろう?」と強いて考えてみても、心めがいう事をきかず、それとは全く関繋(かんけい)もないよそごとをいつからともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもそのよそごとが気にかかッて、気にかかッて、どうもならない。こらえに、こらえに、こらえて見たが、とうとうこらえ切れなくなッて「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん。」はッといッても追い付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三あわてて後悔をしてしまッた。
 しかるよりはあやまる方が文三には似合うとだれやらがいッたが、そうかもしれない。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2004-12-10 15:04:01 | 显示全部楼层
第十四回 

「気の毒気の毒、」と思い寝にうとうととして目をさまして見れば、烏の鳴き声、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶を軋らせる響き。少し眼足りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、ただお鍋が睡そうな顔をして釜の下を焚き付けているばかり。だれも起きていない。
 朝寝が持ち前のお勢、まだ臥ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
 早く顔が視たい、どんな顔をしているか。顔を視れば、どうせよい心地がしないは知れていれど、それでいてただ早く顔が視たい。
 三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、こそばゆい。髪の寝乱れた、顔の蒼ざめた、腫れ瞼(まぶち)の美人が終始目前にちらつく。
「昨日下宿しようと騒いだはだれであッたろう、」といったような顔色…
 朝飯がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はそのころになッてようよう起きて来て、入ろうとする、――縁側でピッタリ出会ッた…はッとうろたえた文三は、かねて期した事ながら、それに引き替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三をしり目にかけたまま、奥坐舗へツイともいわず入ッてしまッた。ただそれだけの事であッた。
 が、それだけで十分。そのじろりと視た目つきが目の底にしみついて忘れようとしても忘れられない。胸はつかえた。気は結ぼれる。かてて加えて、朝の薄曇りが昼少し下がるころより雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
 お勢は気分の悪いを口実にして英語のけいこにもいかず、ただ一間にこもッたぎり、音沙汰なし。昼飯の時、顔を合わしたが、お勢はなりたけ文三の顔を見ぬようにしている。たまたま目を視合わせれば、すぐ首を据えておかしく澄ます。それがにらみつけられるより文三にはつらい。雨はやまず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッてだれとて口を聞く者もなし。文三果ては泣き出したくなッた。
 心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たが、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞こえる。お勢はその時奥坐舗にいたが、それを聞くと、うろたえて起ち上がろうとしたが、間に合わず、――気軽に入ッて来る昇に視られて、さも余儀なさそうにまたすわッた。
 何も知らぬから、昇、例のごとく、好もしそうな目つきをしてお勢の顔を視て、挨拶よりまず戯言をいう、お勢はにっこりともせず、まじめな挨拶をする、――かれこれくいちがう。から、昇も怪訝な顔色をして何かいおうとしたが、突然のお政が、三日も物をいわずにいたように、たてつけてしゃべりかけたので、つい粉らされてその方を向く。その間にお勢はこッそり起ち上がッて坐舗をすべり出ようとして…見つけられた。
「どこへ、勢ちゃん?」
 けれども、聞こえませんから返答をいたしませんといわぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
 部屋は真の闇。手探りでマッチだけは探り当てたが、ランプが見つからない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないのであろう。「鍋や、」と呼んで少し待ッてみてまた「鍋や…」返答をしない。「鍋、鍋、鍋。」たてつけて呼んでも返答をしない。じれきッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ…そんな…呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを。」
「だッて奥で御用をしていたンですものを。」
「用をしていると返答はできなくッて?」
「御免あそばせ…何か御用?」
「用がなくッて呼びはしないよ…そんな…人を…くらみ(暗─扦毪韦铯茫ǚ证椋─圣盲ē茫俊
回复 支持 反对

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注~册

本版积分规则

小黑屋|手机版|咖啡日语

GMT+8, 2024-5-8 17:54

Powered by Discuz! X3.4

© 2001-2017 Comsenz Inc.

快速回复 返回顶部 返回列表