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求:没有字的明信片的感想文 日语500字左右 谁能帮帮忙~~!!急111

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发表于 2011-3-24 20:09:50 | 显示全部楼层 |阅读模式
三妹走之前的那晚,一家人围坐在昏暗的灯光下默默无语。母亲低头缝着为三妹赶制的衣服,用的是当时最昂贵的白布。父亲不知从哪儿弄来一大摞明信片,一个人趴在桌旁默默地写着什么。
  “喏,走的时候带着这个。在那边若是健健康康地生活着的话,就在这上面画一个圈,每天寄一张回来。家里的地址我已经全都写好了。”过了好一会,父亲才打破沉默,缓缓地说道。三妹当时认字还不多,更谈不上写了。
  翌日一早,三妹就上路了。随身行李除了一个饭盒,剩下的就是那个盛满了明信片的大背包。看着三妹瘦小的身影渐渐被朝阳吞没,想到下次的相会遥遥无期,我的心就一阵阵的揪痛。
  一周后,第一张明信片寄来了。父亲一把抢了过去,只见上面用红铅笔画着一个大大的、很有气势的圈,仿佛都要溢到纸外了。末尾的附言是别人代写的:“我在这儿受到当地妇女协会的热烈欢迎。食物有红薯饭和脆饼干,比在东京吃的南瓜蔓强多了。所以我画了一个很大的圈。”
  可是第二天来的圈急剧缩小,仿佛是极不情愿画上去似的。再往后的日子里,圆圈越来越小,最终变成了一个叉号。这个时候,正巧住在离甲府不远的二妹决定去看望三妹。当时正坐在学校围墙下吃梅干的三妹,一见自己的姐姐来了,噗的一声吐出梅核,哇地哭了出来。
  不久之后,带叉号的明信片没有了。第三个月,母亲去接三妹回家。据说当时母亲去的时候,正患严重咳嗽的三妹在一间不足四平方米的房间呼呼大睡,头上生满了虱子。
  三妹要回来的那天,我和弟弟把自家菜园种的南瓜全摘了下来,从两手抱不过来的大南瓜到手掌可容的小南瓜。以往见到我们摘下不熟的瓜就大发雷霆的父亲,那天竟破天荒地一个字也没说。我们把这二十几个南瓜一字排在厅房,这是惟一可以令三妹高兴的事。
  夜深了,一直趴在窗口张望的弟弟突然喊道:“来了!回来了!”正端坐在茶房独自饮茶的父亲赤着脚奔了出去,一把把三妹抢到怀里,搂着她瘦削的肩膀哭得一塌糊涂。这是我第一次也是惟一一次见到平素严肃不苟言笑的父亲哭泣。
  从那以后三十一年,父亲永远地离开了我们。三妹也到了当时父亲的年龄。但是,那些无字的明信片却下落不明,我一次也没有见过。

字のないはガき          向田邦子
死んだ父は筆まめな人であった。
 私が女学校一年で初めて親元を離れたときも、三日にあげず手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
「向田邦子殿」
と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。父が娘あての手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、
「おい、邦子!」
と呼び捨てにされ、「ばかやろう!」の罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の変わりように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。
 文面も、折り目正しい時候のあいさつに始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女とよび、
「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」
という訓戒も添えられていた。
 ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、かんしゃくを起こして母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親がそこにあった。
 暴君ではあったが、反面照れ性でもあった父は、他人行儀という形でしか十三歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日ごろ気恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれない。
 手紙は一日に二通来ることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへいってしまった。父は六十四歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年付き合ったことになるが、優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。
 この手紙もなつかしいが、最も心に残るものをといわれれば、父があて名を書き、妹が「文面」を書いた、あのはがきということになろう。
 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
 あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。
 一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。
 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。
 下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。
 まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
 あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない
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