日本男子の徴兵による出征ために不足した労働力(特に炭鉱などの重労働)を補うためにとられた国策である、1942年に閣議決定されたいわゆる強制連行(中国からは、3万8,935人―(『連行された中国人の名簿』-明石書店-)の一環として、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年8月から45(昭和20)年6月にかけて、986人の中国人が秋田県に連れてこられた。これらの人は、同県大館市の花岡鉱山にあった鹿島(かじま)組(現・鹿島)花岡出張所の中山寮に入れられ、花岡川の改修工事などに従事した。労働は苛酷であった。栄養不足の上での長時間の重労働はいうまでもなく、鹿島組の補導員らによる暴行、虐待は、日常茶飯事化し、そのため死者が相次いだ。* ?9 D% S0 T$ a; g. M4 v
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45年6月30日深夜、中国人の労働管理を任されていた大隊長の耿諄(ケン・ツェン)さんらは、仲間が虐待や栄養失調で死んでいく状況に耐えらず、約1,000人の命を引き受けてほう起を決行した。ほう起は、憲兵隊らに出動により翌朝、鎮圧(全員逮捕)されたが、日本人補導員4人、中国人1人が死亡した。ほう起鎮圧後、中国人労働者に対する鹿島組の従業員や警官らの暴行・虐待は凄惨(せいさん)を極め、厳しい拷間で113人が虐殺(ぎゃくさつ)された(45年11月までの栄養失調や病気による中国人労働者の死者は実に、42%にあたる418人に上った⇒提訴の際、耽さんは「今でも夢に殺された同僚の顔が出てきて目が覚める。私は亡くなった同胞に対し、今も責任を感じ続けています」と語った)。- b3 h; v$ ~( a4 m3 D
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" s& j J+ ]1 O; a2 @7 X鹿島側の暴行・虐待に対する責任は、戦後の横浜のB・C級戦犯裁判で裁かれ、当時の鹿島組花岡出張所長ら6人に対して絞首刑を含む有罪判決が下された。だがその後、絞首刑は無期に減刑され、全員が釈放された。
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' ^: }2 ?9 _1 H/ r0 l1989年、この「花岡事件」をめぐって耿さんらを中心の結成された「花岡受難者聯誼(れんぎ)会(連合会)」(会長の王敏氏は和解直前の00年11月4日夕、中国河北省の病院で心不全のため亡くなった。享年81歳)の会員が、鹿島側に対して謝罪を求めた。90年7月5日鹿島は、この事件は「①鹿島建設にも責任がある ②補償問題は今後、継続協議する」ことなどを骨子とした共同声明を出した。だが、補償についての話し合いは難航、そのため耿さんをはじめ生存者と遺族の計11人が、事件から50周年目の95年6月、当時の使用者だった鹿島を相手に1人あたり550万円(計6,050万円)の損害賠償を求めた(耿さんは、提訴を「人間としての『仁』と『義』を守る戦い」と語っている)。
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/ n% y1 k9 o) N; E5 `同訴訟は、中国人が日本企業を訴えた初の戦後補償裁判となったが、提訴提訴から2年半、一審の東京地裁は97年12月、本人尋問も一切の証拠調ベもぜず、「強制連行から提訴まで50年近くが経過し、損害賠償請求権は消滅した」として形式的な「入り口」の法律論で請求を退けた(開廷から閉廷まで1分足らずだった)。一審判決の権利消滅の根拠となったのは、「除斥期間」という概念である。つまり、国内の法秩序維持のため過去の問題は蒸し返さない方がいいという考えから、20年を経過した請求権は消滅するという法解釈である。しかも、時効による権利消滅と異なり、中断の制度はない。 7 a* F% U/ M. G( `
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だが、先の大戦(『15年戦争』)相手の中国と日本の国交が回復したのは、1972(昭和47)年。この時すでに、事件から20年以上が経過している。しかも、中国の国内情勢により、一民間人が外国で訴訟を起こすことが可能になったのは、ここ数年のことである。しかも「除斥」という概念自体、戦争にかかわる国外のこうした訴えを想定して作られたものではない。にもかかわらず、東京地裁は、全く次元の異なる法理論を形式的に適用した。戦後補償という、ここ数年の間に生れた新たな問題に対して、柔軟な判断をすべきは、当然の裁判所の責務である。あまりにも、硬直化した判決といわねばならない。それゆえ、来日した全米捕虜賠償連合のデビツド・モンカワ氏は「日本の法廷は権利者のためのものと確信した」と判決後、はき捨てた(『記者の目』(上坂修子)--「司法は戦後保障に柔軟さを」-1998年1月16日付『東京新聞』)。 " k) s7 z$ y" v0 d) z& q l* `
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一審判決に関して、1997年12月13日付『東京新聞』社説は、「戦後処理をめぐる訴訟は政治的要素も絡んだ微妙な問題で、裁判官にとっても悩ましい。だが、『遠い過去のことだから』と事件の中身に全然踏み込まない門前払い判決で、司法への不信感を募らせた人が多いのではないか。戦後補償訴訟では除斥期間の経過を理由に次々と棄却されている。…『消滅時効完成』と賠償諸求を退けられた原告が大勢いる。犠牲者、弱者にしわ寄せされることのある除斥、消滅時効制度の矛盾だ。除斥も消滅時効も一定の期間内(期間は権利によって異なる)に権利を行使しないと権利が消滅する制度だ。除斥は期間を経過していれば当然『消滅』とされ、時効は事情によっては期間が延長されるうえ相手方が時効の主張をしなければ『消滅』されないという違いがあるが、事実関係が真実の法律関係に合致していなくても、ある期間続いていれば現実を法的に肯定する点は同じである。『法は権利の上に眠るものを救済しない』『法的安定性を尊重するため』などと説明している。しかし、戦後補償問題の被害者は権利の上に眠っていたのではない。法的にどんな権利が自分にあるのか、だれを訴えたらいいのか、分からないまま数十年が過ぎたのだ。…このような弱者の犠牲で成り立つ法的安定性とは何なのか。安定性の利益を享受するのが強大な加害者でも、『法律で決まっている』とすべて容認するしかないのだろうか…」と論説した。3 ]. Z- z& K$ z" V9 K# X, v9 y
6 ~/ F3 O# s9 u+ m7 V# S- {, Q原告は直ちに控訴、99年9月、東京高裁は、日中間の戦後補償裁判では初めて職権で和解を勧告する。和解協議は、支払額などをめぐって双方の隔たりは大きく、暗礁に仱晟悉病⒔粶hは20回を数えたが、同高裁が「20世紀中の解決」を目指して粘り強く説得を続けた。その結果、00年11月28日、双方が、同高裁が示した和解案を受け入れることで合意し、翌29日に同高裁で正式に和解が成立した。
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+ k* d6 b3 P) I7 }5 P6 S0 w『花岡事件』和解までの歩み+ P! |! f1 \, N! o6 V& N
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事件勃発0 S2 U0 Z0 t! W
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1989(平成01)年12月
" Q0 c1 t5 H! A) C7 V$ i/ p 耿諄(ケン・ツェン)ら事件関係者が、鹿島に対して「謝罪をすべきだ」等の3項目要求の公開書簡を発表(事件から44年後)( P0 \( v2 K2 t" h( p$ q
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1990(平成02)年07月# @9 B4 x& ~. D! g& U
中国人生存者・遺族と鹿島は「企業としても責任があり、謝罪の意を表明する」等の共同声明を発表
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1 O/ k0 v2 g* }: m; Q2 E$ ^6 A1995(平成07)年03月7 E. Z- {" X6 R0 G3 D: d5 p
鹿島との補償交渉が決裂
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0 i ?) \, i$ ^& S0 q# H/ h" E8 g1995(平成07)年06月. u8 n* L" e' Y0 w8 |3 l2 ]
中国人生存者・遺族11人;損害賠償を要求して東京地裁に提訴
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3 J# c8 C9 |$ M" B3 n1 u1997(平成09)年12月
& e. a* H& l" Q& n+ y 東京地裁;原告の請求を棄却。原告;東京高裁に控訴+ u+ b$ T' ^. e5 i
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1999(平成11)年09月; R" J, c8 A& f$ i) X! p( Q, _' O
東京高裁;職権で和解勧告
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2000(平成12)年11月, l, n5 {( k7 E# g% u* _
和解成立(事件から55年後)
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, K& \+ m0 A% A( N和解内容は、鹿島が5億円を供出して「花岡平和友好基金」を設立、和解協議の途中から利害関係人として訴訟に参加した中国紅十字会(日本の赤十字社にあたる)が資金の受け皿になって、原告側でつくる基金の邌游瘑T会が資金を哂谩咨撙浃饯芜z族らの救済(犠牲者の慰霊や追悼の活動)などに充てるというものである。
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# ?7 _# \+ X8 ^- A) C2 f花岡事件訴訟 和解条項(骨子)- b9 _, O" K" q' K6 l5 k% ~2 C' a0 ~
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1.1990年7月の「共同発表」を再確認する。ただし、鹿島は「共同発表」は法的責任を認める趣旨ではないと主張し、中国人元労働者らはこれを了解した。
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2.鹿島は受難者に対する慰霊などの念の表明として、中国赤十字会に5億円を信託する。 6 \6 U; ?( h7 L7 [2 ?% g
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3.赤十字会は信託金を「花岡平和友好基金」として管理する。適正な管理哂盲韦郡帷高営委員会」を設置する。基金は日中友好の観点に立ち、受難者に対する慰霊や追悼、受難者とその遺族の自立、介護や子弟育英などの資金に充てる。 * ~, S! b, p& V |
4 w8 \' C" P: F& g: H4.和解は花岡事件についてすべての懸案の解決を図るもので、受難者とその遺族がすべて解決したことを確認し、国内はもとより他の国、地域で一切の請求権を放棄することを含む。
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和解によって生存者や犠牲者の遺族ら全員の救済を図る形となるとともに、救済の規模や方式ともこれまでに例がないものとなる。また、戦時中の企業による強制連行・労働をめぐる他の戦後補償裁判などにも大きな影響を与えるのは必至である。
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なお、日本企業や日本政府に戦後補償を求めた訴訟は約60件にのぼる。このうち、企業を相手取った訴訟では、97年に旧・日本製鉄(現・新日本製鉄)が釜石製鉄所で死亡した韓国人の遺族に対して裁判外で慰霊金を支払うことで和解した。
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日本鋼管の川崎工場でリンチを受けた韓国人男性が賠償を求めた訴訟は99年、会社側が解決金を支払う和解が東京高裁で成立した(NKK裁判)。00年7月には、韓国人の元女子勤労挺身(ていしん)隊員らが不二越(富山市)に未払い賃金の支払いなどを求めた訴訟の和解(解決金の総額は3,000万円以上)が最高裁で成立している。花岡事件は、4件目で、事件の被害者を一括して救済するのは初めてである。
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東京高裁;新村正人裁判長の「所感」要旨" U3 q; S# `' u# V4 K% x: V3 n
. _, D: `6 B( q% G" c裁判所は、当事者間の「共同発表」を手がかりに99年9月、全体的解決を目指した和解を職権で勧告した。立場の異なる当事者の認識や意向がたやすく一致し得るものではない。公平な第三者として調整の労を取り一気に解決を目指す必要があると考えた。
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0 J0 w# U- C- a2 n+ J) f4 n. {& t勧告する過程で、戦争がもたらした被害の回復に向けた諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配り、従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想で、花岡事件のすべての懸案の解決を図るべく努力を重ねてきた。
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; I% d. e6 t }& i/ l( Z6 J「共同発表」から10年。20世紀がその終えんを迎えるにあたって、花岡事件がこれと軌を一にして和解によって解決することは栅艘饬xがある。双方の紛争の解決にとどまらず、日中両国と両国民の相互の信頼と発展に寄与するものだ。 |