せまってこない風景
むかしから私は伊勢新九朗と名乗っていた北上早雲の若いころに非常に関心があるんですよ。あの人はどうも伊勢から出てきた、本当の流れ者ですね。室町末期の下克上の先駆をかれがなすわけですが、伝説によれば伊勢から何人かの友人と流れてきて、この中で一国一城の主に早くなった者をいただいて、ほかの者は家来になろうと約束するのです。要するに斉藤道三の先駆的人物ですね。
かれはやがて小田原村付近で活動しはじめて、伊豆方面を平定していくのですけれども、小田原から伊豆の山河が、たとえはこれを書こうとするとき、どうしてもピンとこないんです。地形とか川の具合とか、この浦にはたれが住んでいたということは土地へいけば調べがつくことで、頭でわかるのですがもうひとつワッとせまってくるものがない。
伊豆は温泉も出て、太陽が明るくて、オリーブの花がキラキラして非常にいいところで、観光地として私も好きなところです。しかしそこから歴史を動かす力が出てきたという雰囲気がどうにも私には感じられない。なんとなくそらぞらしくて、印象が希薄なんです。つまり人間にあぶらぎった、人間の血とか汗とかがこびりついた、そういう生命感みたいなものが伊豆の山を見ていてもなにか薄い感じがするんです。こうれはどういうことなのでしょうか。越後や土佐へいくとせまってくるものがあるのですが――これがよくわからない。
这是司马辽太郎的随笔「歴史と風土」中的一段,用词非常“日本”,大家是否有兴趣来翻译一下,一试身手呢? |