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[求精资料整合]源平争战的黑幕:后白河法皇

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发表于 2014-6-16 10:54:46 | 显示全部楼层 |阅读模式
後白河天皇の在位はわずか3年だったが、上皇として院政を始め、一時中断はあるものの、天皇五代30余年にわたり院政を敷いた。その間、隆盛を誇った平氏一門と対立。「鹿ケ谷の陰謀」事件や、平氏政権転覆を企てるなど平氏一門を翻弄し、比類なき政略家、陰謀を好む専制君主だったという見方がある。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝から「日本国第一の大天狗」と評されたほど、権謀術数に明け暮れる一生を送った人物だ。半面、政治的洞察力に優れ、決断力に富んだ偉大な政治家だったのではないかとの見方もある。後白河法皇は果たして本当に“悪役”だったのか否か?見方の分かれる人物に違いない。
后白河天皇在位的时间只有3年,但他其实是作为上皇实行院政,尽管期间有中断,实际的统治还是长达30年,历经了5代天皇。在此期间,他和权势熏天的平氏一门相互对立,有人把后白河天皇视为不凡的政略家、喜好权术阴谋的专制君主,他策划了“鹿谷阴谋”等企图颠覆平氏政权的计划,将他们玩弄于掌上。他是一个一生埋头权术谋略的人物,此后开创镰仓幕府的源赖朝甚至对他做出“日本第一大天狗”的评价。后白河法皇到底是不是“大反派”?无疑,后世对这个人物的评判是不一的。
武士の台頭によって、公家政権が衰退していくという大きな流れの中で、後白河法皇のエネルギーは常に公家政権の存続のために費やされた。“武力”を表看板とする武士たちとの虚々実々の駆け引きには、確かに極めて興味深いものがある。
由于武士势力抬头,公家政权走向衰退,在这样一个时代潮流中,后白河法皇把一身精力都用于维持公家的政权。对那些以“武力”为招牌的武士们,他运用巧妙策略与之周旋,的确是趣味深长。
後白河法皇は第七十七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子、母は待賢門院璋子。在位はわずか3年だったが、保元の乱で崇徳上皇方を破り1158年(保元3年)、皇子の二条天皇に譲位、上皇として院政を開始した。そして、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代にわたって院政を行い、30年以上にわたり君臨した。後白河は父の鳥羽院から「その器に非ず」との烙印を押され、忠通の子で博覧強記で知られる九条兼実には「不徳の君」などと蔑まれたが、新たに登場した武家の世にその辣腕ぶりを遺憾なく発揮した。
后白河法皇是是第七十七代天皇,鸟羽天皇的第四皇子,母亲是待贤门院璋子。尽管他在位仅3年,却在保元之乱中打败了崇德上皇,于1158年(保元3年)让位皇子二条天皇,自己成为上皇开始了院政。此后历经二条、六条、高仓、安德、后鸟羽五代天皇的时代,后白河法皇通过院政,在长达30年的时间里君临天下。然而,他的父亲鸟羽法皇却给他烙上了“非君之器”的负评,藤原忠通之子、以博学多才闻名的九条兼实也轻视他是“不德之君”,但在武家刚刚登场的时代,后白河法皇却畅快地大显了一番身手。
後白河が院政政権を確立するにあたって協力関係にあった平家とは、平清盛の妾の妹にあたる小弁の君(建春門院)を寵愛し、その所生の皇子を皇位に就けて高倉天皇としたあたりまでだった。この後は清盛と激しく対立し、その流れの中で1177年(治承元年)の鹿ケ谷事件の発覚となった。1179年(治承3年)には亡くなった平重盛の遺領をめぐって清盛と衝突し、鳥羽殿に幽閉されてしまった。しかし、1180年(治承4年)に院の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が源頼政に擁立され、平家打倒の兵を挙げ、源頼朝・義仲らの源氏勢力が次々と蜂起。また高倉院や清盛が相次いで死去する幸運(?)に恵まれ、後白河は再び政界に復帰した。
在后白河法皇刚着手确立院政政权时,和平家还保持着合作关系,此时他宠爱平清盛妾的妹妹小弁君(建春门院),两人所生的皇子继承了皇位,成为高仓天皇,不过和平家的蜜月也到此为止。此后他与平清盛发生激烈冲突,在这种形势下,1177年,反清盛的鹿谷事件被暴露。1179年,围绕平重盛死后遗留的领地,后白河法皇又与清盛产生矛盾,结果他被幽禁在了鸟羽殿。不过在1179年,源赖政拥立法皇的第三皇子以仁王,发起讨伐平家的战争,接下来,源赖朝、木曾义仲等源氏的势力纷纷兴起。这个期间,高仓天皇与平清盛相继去世,在一系列的幸运(?)中,后白河法皇重新恢复了政权。
源(木曽)義仲と対立した際は、法住寺の御所に兵を集めて戦ったが、敗れて五条内裏に幽閉された。さらに源頼朝と義経との離間を計るなど、権謀術数に磨きがかかってきた。義経には頼朝追討の宣旨を与え、義経が敗れるや、頼朝に義経追捕の院宣を与えるという具合だ。
打败平家后,后白河法皇又与木曾义仲对立,在法住寺御所召集军队与之作战,然而却不幸战败,被幽禁在五条内里。此后他又在源赖朝和源义经两兄弟之间施离间计,不断施展他的权谋之术,他对源义经下达讨伐濑朝的宣旨,而眼看义经遭到失败,又立即对源赖朝下达讨伐义经的院宣。
1169年(嘉応元年)、後白河は43歳で出家し以後、法皇と呼ばれるようになったが、神仏への信仰は極めて篤く、熊野への参詣は34回にも及んだ。また、今様を愛好し、自らその歌謡の選集「梁塵秘抄」を編んだ。その口伝集によると、世間に評判の能者は、その身分に関わらず院の御所に招き、その一人の遊女、乙前とは師弟の契りを結んだ。後白河法皇は、陰謀を好む比類なき政略家だったが、半面、信仰心の篤い一人の文化人でもあった。
1169年,后白河天皇43岁出家,此后被称为法皇,他对神佛的信仰十分深厚,曾34次前往熊野参拜。另外,他还喜好“今样”,自己编辑了“今样”的歌谣集《梁尘秘抄》。在《口传集》中记载,他不分身份高低,只要是民间有名的艺术家,都会将他们召进御所,甚至还拜其中的一位游女“乙前”为师。后白河法皇虽是一位喜好权谋的杰出政略家,另一方面也是一个信仰笃厚的文化人。
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