一
「ひどい顔だな。もう真夜中だぞ。寝ないのか?」
イブが研究室の奥のコンピューター画面から目を上げると、戸口にジョー.クインが寄りかかっていた。「ええ、もうじき」眼鏡を外して目をこする。「たった一晩、遅くまで働いたからって、ワーカホリックだってことにはならないでしょう。この計測結果を点検したらーー」
「分かってる、分かってるよ」ジョーは天井の高いスタジオ型の研究室に入ってくると、机の脇の椅子にどさりと腰を下ろした。「今日、ランチの約束をすっぽかしたってダイアンから聞いてね」イブは面目なさそうにうなずいた。ジョーの妻との約束を間際になって取りやめたのは、今月に入ってこれで三度目だった。「シカゴ市警に急かされてるからって説明しておいたわ。ボビー.スター二スの両親が結果を待ってるのよ」
「で、一致しそうか?」
「ほぼ間違いないわ。スーパーインポーズをする前から、ほぼ決まりみたいものだっけど。頭蓋骨から歯が何本かなくなっていたけれど、歯科治療記録と大体一致してたから」
「だったら、なぜ君に依頼が?」
「ご両親にはとても信じられなかったのよ。私が最後の希望だったってわけ」
「それは気の毒に」
「ええ、でも希望って物については私も身にしみて知ってるから。ボビーの特徴が頭蓋骨とびったり一致するのを見れば、ご両親も諦めるでしょう。わが子が死んだという事実を受け入れて、心を区切りをつけられると思うの」イブはコンピューター画面上の映像にちらりと目をやった。シカゴ市警からは、頭蓋骨一つ七歳の少年ボビーの写真を預かっていた。映像処理装置とコンピューターを使い、ボビーの顔写真を頭蓋骨に重ね合わせた。ジョーに説明したとおり、特徴はほぼ完全に一致した。写真のボビーは生き生きと可愛らしく、イブの胸は締め付けられた。どの子もみんな可愛らしいーーイブは疲労を感じた。「これから家に帰るところ?」 「ああ」
「で、私を叱り付けるために寄ったわけ?」
「それが僕が生きる目的の一つだと思ってるからね」
「嘘ばっかり」イブは彼が手にした铯违暴`スに目を留めた。「それは私に?」
「ノースグウィネットの森で白骨死体が発見された。雨が土中から掘り出してね。動物に食われて原形をとどめていなかったが、頭蓋骨は無傷だ」彼は留め金を外してケースを開けた。「幼い女の子なんだ、イブ」遺体が少女のものだと、ジョーは必ずそのことを最初に告げた。彼女に与える衝撃を和らげているつもりなのだろうとイブは思った。
頭蓋骨を慎重に手に取り、観察する。「幼い女の子ではないわね。九歳から十三歳の間、おそらくは十一歳か十二歳」イブは上顎のぎざぎざのひび割れを指さした。「少なくとも一冬は雨風(あまかぜ)にされていたようね」次に広い鼻腔にそっと指先を触れた。「それから、たぶん摔坤铩筡
「助かるよ」ジョーは眉を寄せた。「だが、それだけじゃ足りない。粘土で復顔像を製作してもらえないか。身元はまるで分かっていない。つまり、スーパーインポーズしてもらおうにも写真がないわけだ。なあ、この街だけで何人の少女が家出してるか、見当がつくかい?もしこの子がスラム街の住人だとしたら、捜索願い一つ出ていないかもしれないな。スラムの親たちときたら、子供の無事より、ドラッグを手に入れる方にーー」彼は首を振った。「悪かった。忘れてたよ。うっかり口を滑らせちまった」
「いつものことじゃないの、ジョー」
「君の前でだけさ。つい気を許してしまう」
「ほめ言葉と受け取るべき?」イブは額にしわを寄せて一心に頭蓋骨を観察した。「うちのママはね、もう何年もコカインに手を出していないのよ。それに、私にも恥ずかしい過去ならいくらだってあるけど、スラム街で育ったことを恥と思ったことはないわ。子供のころ苦労してなかったら、今頃は生きていないかも」
「いや、君なら頑張れたさ」
イブにはそう断言はできなかった。正気を保つとか、生きていくといったことが、ごく当たり前のこととは思えないほど思いつめた日々があった。「コーヒーでもいかが?私たちスラム育ちの子供は、おいしいコーヒーを淹れられるんだから」
ジョーがすくみあがった。「きついな。悪かったと謝ったろう」
イブは微笑んだ。「ジャブの一つくらい打っておこうと思っただけ。人間を一般論でとらえようとした罰よ。コーヒーは?」
「いや、もう帰るよ。ダイアンが待ってる」ジョーは立ち上がった。「この件は急がなくていいよ。そんなに前から埋められてたなら、あわてても仕方がない。さっきも言ったように、身元はまるで見当もつかない状態だから」
「ええ、ゆっくりやるわ。夜の空いた時間にね」
「君には無限の時間があるってわけだ」ジョーはテーブルの上に山と積まれた教科書を眺めた。「お母さんに聞いたが、今度は形質人類学の勉強を始めるたんだって?」
「通信制大学でね。通学してる時間はないから」
「なあ、いったいどうして形質人類学の勉強なんか?山ほど仕事を抱えているんだろう」「役に立つかと思っただけ。人類学者と仕事をするたびにできるだけ知識を吸収するようにしてきたけど、まだまだ知らないことぁたくさんあるもの」
「それでなくても働きすぎだってのに。何ヶ月も先まで仕事が入っているんだろう」
「私のせいじゃないわ」イブはしかめ面をして見せた。「市警の本部長が{60ミニッツ}で私をほめたりするからよ。余計なことをしてくれたものね。ただでさえ忙しいのに、アトランタ市警以外からも依頼がくるようになっちゃって」
「まあ、困ったときに頼れる友人は誰か、忘れないでおいてほしいな」ジョーはドアに向かった。「どこかの一流大学に行くために、引っ越したりしないでくれよ」
「一流大学に行くなだなんて、ハーバードを出たあなたに言われたくはないわね」
「それは大昔の話さ。今の僕は気さくな南部男だ。僕の例に倣って、君にふさわしい街に留まっていてくれ」
「私はどこにも行かないわよ」イブは立ち上がって作業台の上の棚に頭蓋骨を置いた。来週の火曜日にダイアンとランチにでかける以外はね。ダイアンがいいといってくれればだけど。あなたから訊いて見てくれない?」
「自分で訊けよ。伝言係はもうごめんだ。僕には僕の悩みがあるんだから。警官の妻というのはダイアンにとって辛い役回りなんだ」ジョーは戸口で足を止めた。「寝ろよ、イブ。相手は死人だ。みんな死んでるんだよ。君が少しくらい眠ったって誰も気を悪くしないさ」
「やめてよ。そのくらい分かってる。ノイローゼ患者何かみたいに扱わないで。仕事を怠けるなんてプロらしくないと思ってるだけ」
「ああ、そうだな」ジョーはそこしためらってから続けた。「ところで、ジョン.ローガンから連絡はあったかい?」
「誰」
「ローガンだよ。ローガン.コンピューター社の。ビル.ゲイツを追い越そうかという勢いの大金持ちだ。このところ、よくニュースに取り上げられてるだろう。ハリウッドで立て続けに共和党の資金集めパーティを開いてるからね」
イブは肩をすくめた。「ニュースにはあまり関心がなくて」それでも前の週の日曜版で、ローガンの写真を目にしたような気がする。年齢は三十代終わりか四十代はじめ、カリフォルニアの住民らしい日に焼けた肌、短く刈った濃い褐色の髪。ブロンドの映画スターに微笑みかけていた。シャロン.ストーンだったろうか。記憶があいまいだった。「今のころ寄付を依頼されたりはしてないわ。頼まれたって寄付なんかしないけど。私は無党派だもの」イブはコンピューター画面に目をやった。「これもローガン.コンピューター製ね。その人の会社が作るコンピューターは優秀だけど、偉大なるローガン氏の接点はせいぜいそれくらい。でも、どうして?」
「君の身辺を調査している」
「え?」
「ローガン自身ではない。ケン.ブァクという、西海岸でも有名な弁護士を通してだ。署でその話を聞いてちょっと探ってみたんだが、ローガンの指示で調査しているのは間違いないと思う」
「そうかしら」イブはいたずらっぽい笑みを浮かべて駄洒落を言った。「筋が通らない話だわ」
「個人の依頼なら以前にも来ただろう」ジョーはにやりと笑って続けた。「あれだけの地位にある男だよ、死体の山を踏み越えてトップの席についたに違いないさ。そのうちの一つを埋めるのを忘れていたとか」
「面白い冗談だこと」イブは疲れを覚え、うなじを揉み解した。「で、その弁護士は私に関する情報を手に入れたのね?」
「おいおい、よせよ。僕らだって守る義理くらい心得てる。もし奴が自宅の電話番号を探り出して連絡してきたりしたら、言ってくれよ。じゃあ、又」ジョーは出て行き、ドアが閉まった。
そうね、ジョーならこれまでどおりに守ってくれる。他の人にはとても真似できないくらいに。何年も前、初めて出会った時から、彼は変わった。時は、彼の中に残っていた少年の面影を容赦なく追い出してしまった。フレイザーが処刑された直後、ジョーはFBIをやめてアトランタ市警に移った。現在は警部補になっている。市警に移った本当の理由を、ジョーは一度もイブに打ち明けない。尋ねてはみたが、ジョーの答えにーーーFBI特有の重圧から逃れたかったのだという返答には、いまだに納得がいかなかった。彼は個人的なことをあまり話そうとせず、彼女の方も詮索はしなかった。イブが知っているのは、彼が常に彼女に寄り添っていてくれたことだけだった。あの死刑執行の夜、イブがこの上ない孤独を感じたあの夜も。あの晩のことは思い出したくなかった。失望と苦悩はあの日と少しも変わらずーーいいわ、気の済むまで思い出しなさい。イブは、その痛みと共存していくには、正面から向き合うしかないことをすでに学んでいた。フレイザーは死んだ。ボニーは戻らない。イブは目を閉じ、苦悶が波のように全身を洗うに任せた。波が去ると、目を開き、コンピューター画面に向かった。どんな時も仕事をしていれば気がまぐれた。ボニーは死に、永遠に発見されないとしても、ほかの子供たちはーー
「又次のがきたのね」サンドラ.ダンカンが研究室の戸口に立っていた。パジャマの上に、いつものピンク色のシェール織りのローブを羽織っている。視線は部屋の奥の頭蓋骨に注がれていた。「車の音が聞こえたような気がして。ジョーも少しそっとしておいてくれたらいいのに」
「あら、私は放っておかれたくないわ」イブは机の前に腰を下ろした。「大丈夫よ。急ぎの仕事ではないから。さあ、ベットに戻って、ママ」
「あなたこそ寝さいな」サンドラ.ダンカンは頭蓋骨に歩み寄った。「小さな女の子?」「十一歳か十二歳」サンドラはしばらくイブを見つめていた。「ねえ、あの子はもう見つからないのよ。ボニーは死んだの。忘れない、イブ」
「もう忘れたわ。私はただ仕事をしてるだけ」
「又そんなことを言って」
イブは微笑んだ。「ねえ、ベットに戻って」
「何か手伝えない?夜食でも作る?」
「私はね、消化器官をいたわることにしてるの。ママの料理なんか消化させたらかわいそう」
「努力はしてるんだけど」サンドラは困ったように鼻にしわを寄せた。「世の中には、料理に向かない人間が居るのね」
「でもママ他の才能に恵まれてるじゃない」
サンドラうなずいた。「法廷速記者として優秀だし、こうして小言を言うのも得意よ。ほらほら、ベットにいりなさい。さもないとここでハンストしますよ。」
「後十五分だけ」
「そのくらいの猶予はあげるとしましょうか」サンドラは出口に向かった。「ただし、あなたの寝室のドアが閉まるまで、耳を澄ましていますからね」それから足を止めると、ぎこちない口調で切り出した。「明日の晩、仕事の後ちょっと寄り道をするわ。夕食に誘われてるから」
イブは顔を上げ、目を丸くした。「誰に?」
「ロン.フィッツジェラルドよ。前にも話したわね。地方検事局の検事。いい人なの」サンドラの口調は、まるで挑むようだった。「一緒にいると楽しいの」
「素敵。そのうち紹介して頂戴」
「私はあなたとは違うのよ。男性とお付き合いしなくなって、もうずいぶんになる。私には誰か必要なの。尼僧じゃないんだもの。それにね、私ははまだ五十にもならないのよ。人生を捨てたみたいにーー」
「ねえ、どうしてそう思いことをしてるみたいな言い方をするの?ずっと家にいてくれなんて、私、一度でも言った?ママにはね、ママのしたいようにする権利があるのよ」
「やましいと思ってるように聞こえたなら、それは本当にそう思ってるからよ」サンドラは眉間にしわを寄せた。「あなたがそこまで自分に厳しくなければ、私だって少しは気が楽になるのに。尼僧じみてるのはあなたのほう」
今夜だけはそんな話は勘弁して。疲れて言い返す気力もない。「私だってお付き合いくらい何度かしたわ」
「デモ仕事の邪魔になると分かったとたんにさようならじゃないの?長くて二週間?」
「ママ」
「はいはい、もう黙ります。ただ、あなただって普通の生活に戻ってもいいころだと思っただけ」
「ある人にとっての普通の生活が、必ずしも別の人にとっても普通の生活だとは限らないでしょう」イブはコンピューター画面に目を落とした。「ほら、行って行って。寝る前にこれを終わらせてしまいたいの。明日の晩、帰ったら忘れずにデートの首尾を聞かせて頂戴」
「聞けば自分のことみたいで満足できるから?」サンドラは責めるような口調で言った。
(平田さん、私の手痛い、目も痛い、お腹も空いてます)
「黙っていようかしら」
「黙っていられないくせに」
「ええ、そうね」サンドラはため息をついた。「お休み、イブ」
「おやすみなさい、ママ」イブは椅子の背にもたれた。母親が変化を求め、不満を溜め込んでいることに、もっと早く気づくべきだった。更生中の薬物中毒者を不安定な精神状態においておくのは、どんな場合でも危険だ。だけど、そうよ、ママはボニーの二歳の誕生日以来、一度だって麻薬には手を出していないのよ。それは、母と娘の生活にボニーがもたらした贈り物の一つだった。たぶん、彼女は深刻に受け止めすぎているのだ。薬物中毒者の母親に育てられたせいか、色眼鏡で見る癖が染み付いてし合っている。大体、変化を求めるのは、母らしく、自然なことだ。信頼で結ばれた恋人を持つのが、母にとっても一番いいに決まっている。だったら母の好きなようにさせておいて、成り行きを注意深く見守ることにしょう。
イブの目は画面に向けられていたが、集中できなかった。今日はここまでにしょう。預かった頭蓋骨が幼いボビー.スター二スのものであることにお互いの余地は殆どないのだ。ネットワークからログオフし、コンピューターの電源を切った時、ローガン.コンピューターのログマークが目に留まった。おかしなものね、こういうものにはまるで関心がなかったのに。ローガンはいったいなぜ彼女に関する情報を集めているのだろうか。いや、ローガンは無関係なのかもしれない。何かの間違いだろう。イブとローガンの生活は、互いに社会の正反対に位置しているようなものなのだから。
イブは立ち上がり、凝りをほぐそうと肩を上下させた。ボビーの頭蓋骨はケースに戻し、報告書と一緒に家に持って帰って、翌朝、発送しようと決めた。研究室に二つ以上の頭蓋骨を同時に保管しておくと、どうも落ち着かない。そう話すとジョーは笑ったが、別の頭蓋骨がじっと自分の順番を待っているのが目に入ると、仕事に集中できなくなる。ボービー.スター二スと彼の報告書には家のほうで夜を明かしてもらい、それからシカゴに発送すれば、明後日にはボビーの両親にも息子が家に戻 |