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发表于 2005-6-20 17:41:41
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南風競わず
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春秋戦国も末近い、周の霊王の十七年、魯の襄公の十八年(BC.555)の# D5 Q, z5 s3 X4 t& ^/ B
ことであった。7 A! g( {. H& Q7 t7 U. O# g, v- |8 Z
7 A3 N# X" K' M% Q4 T3 W F' y 鄭の子孔(公子嘉)は、強い野心に燃えていた。邪魔になる諸大夫を除
& O, G y; }0 x) `# xいて、国権を専らにしようと企んだのである。* J: V, V" u4 [) `! w- Q( m
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当時、諸侯は晉を盟主として、強暴斉に対する討伐の軍を起し、着々
0 D6 z% F, }" Q/ N7 l4 I6 nその包囲陣を圧縮しつつあった。そこで、その隙に、子孔は晉に叛き、
D& _# G4 g7 j南方の名門楚の軍隊をそそのかして野望を達成しようと考えた。使いを: A6 B1 x5 c- A, B; b2 A% C2 ^2 C
楚の令尹子庚(公子午)のもとへやって、この旨を告げさせたが、子庚は3 E ]& I6 J7 A+ u7 G! a. n$ N
聴き入れなかった。ところが、楚の康王がそれを聴いて、子庚のところ
2 c# ?# n% B4 c" Pへ使者を遣わし、6 ^: K0 }" G# z6 A9 F+ w2 {9 C
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「余が社稷を司ってより五年、( I J: L, b/ D
軍隊を出したためしがない。, o! L. A( B" @6 k b4 N/ X4 C0 e
国民は余のことを、
' u1 o' k, X W" N8 j みずから安逸を貪って、
. S# T1 ?$ R; Y2 D+ o- o4 \ 先君の遺業を忘れていると思っているにちがいない。# j; E' Z6 z l h) K
大夫、何とか考えてくれよ。」 j- K/ b4 G9 B8 N6 K8 {8 q6 w
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国家の利益を専一に心がけている子庚は、それを聴いて、深く嘆じた4 J: Z+ D! l8 ?, Q
が、相手が国王のこと、使者に稽首してこう答えた。
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「目下、諸侯は晉になびいておりますが、
/ h# I; z% H# x; r1 \ ともかく一つ当ってみましょう。
& ]4 B7 p( z! V8 k6 o うまくいけば、あとから続いてください。
$ O& Q, T+ K2 t うまくいかなければ、軍隊を引いてくださるよう。7 q6 b7 b" a! q4 B9 v& q/ Z7 O
そうすれば、損害もないし、' s2 k0 L' F; ^0 K* L$ K1 F
わが君にも恥とはならないでしょう。/ ^! _1 H& Q8 j" l: A5 [3 i
& \$ [: j% p) X8 p. T 子庚は軍隊を率いて、鄭国に討って出た。鄭伯の一統は斉の討伐に参% n5 I& ~- }& P* z& n+ }
加していて、子孔・子展・子西が留守を守っていた。子展・子西の二子
5 O& w* [+ z C* j h( J1 y5 q/ bは、子孔の腹の中を読んでいたので、本城の守備はおさおさ怠りがなか
& ?$ p8 T3 `& o, Jった。子庚の軍は各地を転戦して侵略をつづけたが、城下にはわずか二% w. x: U2 I6 B5 ~
日間駐屯しただけで、引き揚げるていたらくであった。
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5 V7 e& v) D" j1 G( S4 b 魚歯山の麓を通るとき、大雨に遭い、真冬のこととて、人馬は凍え、& X( r, A6 w% `' F
軍はほとんど全滅のありさまになってしまった。 E& {# r' I' R* ]$ H
5 I$ Z( o# u4 x& P( h 晉国でも、楚軍出動のうわさはひろまっていた。しかし、師コウ(字
& K1 k' Y6 J, ~" d4 D" j' yは子野、真の楽官)がいうには、
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「なあに、大したことはあるまい。
- r: m; _: U3 Z/ m8 a わたしがしばしば南方の歌、
8 Y) d+ |; h, N+ o% i8 ?& m* A# p2 S 北方の歌をうたうのに、" [2 [5 T5 o' T1 \! w7 X
南方の音調は微弱で、ちっとも生気がない。
# g% ~3 K3 M# }/ Q (南風競わずして、死声多し。)
$ M. n7 m7 J- ?: W 楚軍はきっと失敗するだろう。」& f) ]: m; Y1 t3 b" T
5 U9 E& W$ i; E" W' Z$ d 董叔(暦教家)も、* y- z: s* R- D9 ?4 v/ \( L H
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「歳廻り、月廻り、% h l0 [; g7 r4 R& o% P
大抵は西北方に当っておる。
) X7 ^& {: K4 m3 C" ]- y 南軍は、時を得ておらぬ、
( u* c% I# Z( g* @/ F( H; x, I# C% f 必ずや不成功に終わるであろう。」! K6 Y" u* j* k# F+ D$ I4 Q' V9 Y
8 b; R7 p4 w( g8 _" q 叔教(政治家)も、
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「すべては君の徳にあるものだ。」 z$ r% ~& X9 J. F
% j- d0 u k# ^6 l 三人とも、同じような予言をしたわけである。2 ~; I! |( U3 @# X
, G, R7 N5 V: n8 x3 m0 L これは、「左伝」の襄公十八年の条にある話であるが、「日本外史」/ r v4 ^$ K5 ?1 {0 v4 X/ M# m7 G
では、南朝(吉野朝廷)の勢いの衰えたことに借用しているし、一般に、
% e8 K- V6 B$ F. u5 C/ f4 M0 J勢いの振るわないことによく使うことばである。 |
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