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发表于 2005-6-22 09:24:11
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三十六計逃ぐるにしかず 9 |: b" I; r" |: ^$ r/ F
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三十六計逃ぐるにしかず? 全く判りきった文句のようだ。……が、
4 u/ p9 G8 L+ Q4 l1 G/ }. C) w" T: Kそう簡単でもないらしい。ある本では、「はかりごとが多いが、逃げる
7 R6 c: z. m! ^4 r5 M' ?べき時には逃げて、身を全うするのが最上の策ということ、転じて、困
* x6 ?( F5 Q# v0 R/ ?6 H; L3 uった時には逃げるのがいちばんよい方法だ、となる」とある。だが別の$ @, H4 w S9 [" ^$ a3 h
本では、「最上の策」までは同じでも、これは「卑怯者をそしる言葉だ」と
]+ e/ `" l5 Z' v! R7 b7 }- `7 \あるのだ。こういうニュアンスは、どこからでてくるのだろう?
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) M8 E! I6 H6 k3 D1 V2 B1 k) b 魏・呉・蜀漢、三国の争いも終って、天下が晉朝に統一されたのも、
, C* o% Q% Y) Y* c/ S# K+ p( X& oわずかに四十年、晉は内乱と匈奴の襲来にほろびて、その後は揚子江の
' B, E. p5 e" K: S: S南にうつり、北方の黄河流域には、北から、また西から、たくさんの異 Q% Z) b1 y5 a1 k
民族がなだれこんだ。こうして麻のように乱れた勢力分布も、しだいに
, ?! l3 e, b, S. E, U! @$ f, J南と北の二つに大きく分れ、それぞれの中での内紛と、南北両朝の争い
9 v: j$ ]) h# ~' s; G% o7 ^9 pが小止みなくつづくようになる。この南北朝のころのことだ。北方では( C+ x8 l" H% ^
鮮卑族の建てた魏が勢いをまし、南朝は斉の時代だった。宗の最後の皇
5 P0 r' z- M6 V% f. e& a帝だった順帝は、斉王蕭道成や王敬則らの圧力で、国を斉に譲らされ、
: h6 Z# S" B( T3 X# ]$ uやがて殺されたのである。+ p3 O: `* w: B; A+ ?2 L7 t
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そして今、その王敬則は、叛軍をひきいて、成都・建康(今の南京)め
% e" y$ I' ?7 d6 R$ v& k( z0 }! eざして攻めのぼっていた。彼は会稽の太守になっていたが、いまの皇帝
% P+ K6 D, _6 p6 aとはながく争いをつづけ、息子たちも殺されていた。もう決着をつける
! [* ]( b/ ?+ c# u; K* |- E& U6 ~つもりだった。その途上だった。彼は皇帝側がとばしたうわさを耳にし6 D _! V: L, b$ R
た。王敬則が逃げるらしい、というのだ。敬則は、吐きだすように言っ
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, J5 B7 l* F! O: y 「檀将軍の計略はかずかずあったというがな、
$ g' L* S# e2 T! n0 @& M 逃げるのがいちばんの策だったそうな。
3 }- W$ w. J8 o (檀公の三十六策は走るがこれ上計なりと)) x2 s& D; c) b* ^
きさまらこそ、さっさと逃げるがよいわ……」
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, s% g6 ^; \# | これにつづけて、「この語は、檀道済が魏軍をさけたのをそしったも
$ q# q+ n) k0 a; E1 Iのである」と、注している書もある。8 ]( H- ^: d# K1 N) @( v, s$ j4 |( h
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王敬則はやがて斉の軍にかこまれ、逃げることもならずに首をうたれ1 n" T' a% p4 Q4 N
たが、「三十六策……」のことばは残って、語りつたえられるようになっ7 N# Y3 y' e% D6 |% u) k2 L9 K# G
た。だが、こう言われた檀道済とは、どんな人物だったのだろう。5 _! P$ g4 p+ s! ]+ p: G' Q; |
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檀道済は、前代の宗につかえた名将である。宋の基をきずいた武皇帝
. R7 l3 ~" ~7 m5 ^のころから軍事をあずかり、北方の大敵、魏の軍としばしば戦い、功を
) e* v9 G( C K5 `+ D) hたててきた。そのころ魏の勢いはますます強く、燕国も涼国もその鉄騎. [( Q3 r# ]; ^, X( d' X5 e8 _
のために攻めほろばされた。檀道済は、こういう敵を支えるために心を
: O2 b2 s& d% P D0 p; z1 V' Iくだきつづけたのだ。彼は兵を用いることに老練であり、その生きてい
, ]: O: q9 m% p# M9 E( f! \るあいだは、宋の土地をあまり失わずしっかりと守っていた。名将檀道) w$ W/ ]) q. R/ P3 m( R0 ?* O# g
済の名はしだいに重きを加えていったが、その名をにくむものは、ひそ
9 g4 G6 E$ [- {7 d Pかに彼をおとしいれる機会をうかがっていた。* u. G& C# G, M+ W
$ K2 C( J8 a8 c$ u ~ 前王の葬儀にからんで、讒言が王の耳につぎこまれた。戦国時代の国& W9 Q) a5 M) M
王は、じぶんの将軍の力が強大になるのをつねに恐れている。讒言は聞; m" a+ n/ T; I9 t. @. e6 p
きいれられ、ついに檀道済は捕えられて、皇帝のまえに引き出された。& ~: e8 I7 t4 D K8 }) O
死罪は必定だった。そのとき、彼は頭巾をつかむと、それを床にたたき
. Z4 a6 _0 I/ I: y/ W W" @つけ、火のように燃える眼をかっと見ひらき、皇帝をにらんで言ったと' Q& y X1 W5 `7 f, Z- n8 J2 b
いう。* {, O1 Z& A% k
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「皇帝よ、この檀道済を殺すとは、. R: }7 b+ B5 C% V- {' ~; p
みずからの手で万里の長城を壊すにひとしいですぞ!」
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q$ Z. I, ~7 m/ I 道済の死をききつたえると、魏軍はこおどりしてよろこんだ。はたし; F5 J1 W' b# l- p. j0 j
て、宋の元嘉二十八年冬、魏王仏狸は百万と号する大軍をひきい、かた8 x' s9 J. I4 f1 A* y" k1 \
く凍った河をかけわたって、宋に侵入した。この鉄騎のまえに、宋軍は
6 d, [: B- _/ M" g$ y) L2 aもろくも敗走し、魏軍はそれを追って宋の奥ふかく攻めこんだ。村々は
# J; q: M& Z3 H6 ?$ |: m5 t7 w強掠され、大人は斬り殺された。魏兵は槍の先に赤子をさして、それを7 [" X0 F; z4 d* \3 y
振っておどったという。家々が焼きはらわれたため、春になって帰って2 P0 x' m; `2 ?& C3 h
きた燕も、林の木に巣をつくった。建康の人々も先をあらそって避難し6 }/ A3 l8 {: Z$ y" M( p
た。……
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* j% O# h" j0 P5 C W このころ、皇帝は石頭城にいたが、城のやぐらからはるかに北をのぞ
6 D2 |$ q5 U1 Z' |んで、嘆いて言った。
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「ああ、檀道済さえいたならば、: C1 A. X# h5 e
あの胡軍にこうも踏みにじらせはしなかったろうに!」) P1 ~/ \6 d+ m" z
. A% F" s$ S3 Y9 n) x 「三十六策走るを上計」としたとそしられた檀道済とは、こういう人物
( z! g) l; N2 }1 a, T( Kであった。彼は宋の支柱であったようだし、じぶんでも、はっきりそう- @3 T5 h. K+ e9 h! Q- g, R! T3 O
思っていたのだ。強大な魏軍と戦って、いったんは退くことが「上計」で
% C9 W- x/ k. C, s( `あったことも多いだろう。じぶんや兵力を「全うする」ことは、宋のため
# n6 V4 t: c9 D) sにも、たしかに必要であったろう。逃げるといっても、いろいろの意味+ ]7 a7 f4 r7 s1 G3 b3 f' W5 R
があるのだ。だが、こうしてはじまったことわざは、ことわざとして、
G; a, d9 U# _. X% o t独立に生きはじめる。やがては、張扇につれて、「三十六計逃ぐるにし, y. J6 d4 u [ J4 A5 Q0 F& x4 Y
かずと、尻に帆かけてすたこら……」と語られるようになる。歴史とい
' t- N2 [5 C! Xうもの、よくこういう妙なことをするものだ。 (「斉書」王敬則伝) |
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