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あの戦争は何だったのか------杉浦正健

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发表于 2005-7-28 18:23:51 | 显示全部楼层 |阅读模式
文章作者是自民党议员,是一篇写于十年前的文章,今年又是二战60周年的纪念,对文章我做了翻译,但是有一些地方不能理解,所以不是翻得很好,还希望高人指点。 文章从序言开始共十三篇,今天先贴序言。 前面是全文方便可以贴的人。 才发现这个板块,前面贴错地方了,决定在这里连载 あの戦争は何だったのか 一九九五年は敗戦五十年目の節目の年だった。  海外からは、欧米の各地で開催された戦勝記念式典や真珠湾五十周年祭などの様子が華々しく報道されたし、国内でも記念式典はじめさまざまな行事が例年になく盛大に開催され、国会でも「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」いわゆる国会決議がなされ、各種メディアにおいても過去の戦争がいろいろな角度から大きく取り上げられるなど、節目にふさわしい一年だった。  私は敗戦の年は国民小学校五年生の「軍国少年」だった。あの忌まわしい戦争と敗戦後の五十年を振り返ることは、私の一生を省みることにほぼ等しい。政治の世界での浪人の立場でこの節目の年を迎えるとは、敗戦の当時は夢想すらできなかったことではあるが、一九九五年は、その立場からわが国の今後の五十年、そしてそれから未来へ向かってどうあるべきかに想いを巡らすことと、還暦を迎えた人生の節目の年として過去に思いを馳せることとが重なって、私にとって感無量の一年であった。本稿は、私の人生の節目に当たってのいささかの感慨を、昨年綴ったものである。 一九九七年 三月 杉浦正健 一.昭和二十年八月十五日 二.あの戦争は何だったのか 三.やくたいもない戦い 四.近代史の流れの中で 五.日清戦争から日本はおかしくなった 六.孫文と勝海舟 七.お上から与えられた明治憲法 八.明治憲法の欠陥 九.神道について 十.共存から共生へ 十一.軍事的鎖国を 十二.「栄光の二十一世紀」をめざして あの戦争は何だったのか 那场战争是什么? 一九九五年は敗戦五十年目の節目の年だった。 1995年是战败50周年。  海外からは、欧米の各地で開催された戦勝記念式典や真珠湾五十周年祭などの様子が華々しく報道されたし、国内でも記念式典はじめさまざまな行事が例年になく盛大に開催され、国会でも「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」いわゆる国会決議がなされ、各種メディアにおいても過去の戦争がいろいろな角度から大きく取り上げられるなど、節目にふさわしい一年だった。 在海外欧美各地,二战胜利的纪念典礼,珍珠港事件50周年的纪念等等活动被轰轰烈烈地报道,就连国内,也开始盛大地举行各式各样的纪念典礼,甚至在国会通过了所谓“接受历史教训,坚持和平道路决议”的国会决议。各路媒体也从各个角度大肆报道过去的战争,这一切真是这一年的世界主流相吻合啊。  私は敗戦の年は国民小学校五年生の「軍国少年」だった。あの忌まわしい戦争と敗戦後の五十年を振り返ることは、私の一生を省みることにほぼ等しい。政治の世界での浪人の立場でこの節目の年を迎えるとは、敗戦の当時は夢想すらできなかったことではあるが、一九九五年は、その立場からわが国の今後の五十年、そしてそれから未来へ向かってどうあるべきかに想いを巡らすことと、還暦を迎えた人生の節目の年として過去に思いを馳せることとが重なって、私にとって感無量の一年であった。本稿は、私の人生の節目に当たってのいささかの感慨を、昨年綴ったものである。 战败的那一年,我还是小学五年级的军国少年。回想那场不幸的战争和战败后的50年,几乎相当于反省我的一生。在政治世界中,一旦以中立的立场来迎接这重要的一年,虽然战败的时候连梦想都失去过,1995年,从这个立场,思考我国以后的50年,甚至遥想未来该是怎样的想法,与我迎来花甲之年回想过去的念头重合在一起,对我来说真是感慨万千。这本小册子,就是去年我在这个人生阶段的一些感慨的记录。 一九九七年 三月 杉浦正健 一.     昭和二十年八月十五日 一、昭和二十年八月十五日 二.     あの戦争は何だったのか 二、那场战争是什么? 三.     やくたいもない戦い 三、毫无利益的战争 四.     近代史の流れの中で 四、在近代史的潮流中 五.     日清戦争から日本はおかしくなった 五、甲午战争后日本变得怪异 六.     孫文と勝海舟 六、孙文和胜海舟 七.     お上から与えられた明治憲法 七、由上而下的明治宪法 八.     明治憲法の欠陥 八、明治宪法的缺陷 九.     神道について 九、关于神道 十.共存から共生へ 十、从共存到共生 十一.軍事的鎖国を 十一、军事锁国的反省 十二.「栄光の二十一世紀」をめざして 十二、迎接“光荣的二十一世纪”
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 楼主| 发表于 2005-7-28 18:28:46 | 显示全部楼层
一.昭和二十年八月十五日  あの日は、小学校五年生の夏休み最中の、暑い一日だった。前日から、正午に天皇陛下の玉音放送がある、との予告があった。天皇は神であり、陛下のお姿やお声を直接、見聞きすることが考えられなかった時代のことである。重大なことが陛下ご自身から語られる、何事だろう、と世間はざわめき立った。  夏休みに入る直前の六月末、岡崎は大空襲を受けた。夜半すぎ、空襲警報のサイレンでたたき起こされた時には、東の空は真っ赤に燃え上がっていた。郷東の田植えが終わったばかりの水田も火の海だった。降りしきる火のかたまりからわら葺きの家を守るため、村人は大わらわとなった。翌朝、郷東の田んぼは、焼夷弾で、月面のような穴ぼこだらけで、大半の稲が焼け焦げているのに、村人たちは呆然となった。  村の神社の境内は、田んぼから抜き取られ撙肖欷繜喴膹帳尾泻·紊饯Bかれた。初めて目にする正六面体の鋼鉄製弾体の山を前にして、この一群の投下がもう千メートル西へずれたら、集落は丸焼けになったに違いないと背筋が寒くなると同時に、日本中がこのような目に遭っていって、本当にこの戦争が勝てるのか、という疑念が湧き上がるのを、どうしようもなかった。  八月に入って、広島と長崎に大型爆弾が投下され、大きな被害が出たと報道されたが、その頃から、空襲警報がめっきり減ってきたなと感じていた矢先の玉音放送の予告であった。当時は、ラジオのある家は多くはなかった。わが家には、あまり性能はよくないが、ラジオがあったので、隣近所から聞きに来る人もいた。文字通り、初めて耳にする天皇陛下の肉声は、ラジオの性能の悪いこともあって雑音が多く、よく聞き取れなかった。「耐え難きを耐え」とか、「万世のため太平を」とか、きれぎれに耳に入るお言葉の端々から、戦いが終わったと察しられた。両親や祖母ら大人の人々は意外と平静だった。祖母から、戦争は負けに終わったと聞かされた軍国少年は、絶対にこの戦、負けることはないと教えられ信じ込んでいただけに、頭の中が真っ白になったのを、今でも昨日のように想い出す。 一.昭和二十年八月十五日  あの日は、小学校五年生の夏休み最中の、暑い一日だった。前日から、正午に天皇陛下の玉音放送がある、との予告があった。天皇は神であり、陛下のお姿やお声を直接、見聞きすることが考えられなかった時代のことである。重大なことが陛下ご自身から語られる、何事だろう、と世間はざわめき立った。 那天正是五年级暑假的当中,一个炎热的日子。从前天开始,就有预告说:天皇陛下将要在电台广播御言。在那个时代,天皇就是神,能够直接看到陛下的身影,听到陛下的声音,是想也没有想过的事情。天皇陛下发表广播,对天皇陛下来说是重大的事情,到底发生了什么事?人们骚动了起来。  夏休みに入る直前の六月末、岡崎は大空襲を受けた。夜半すぎ、空襲警報のサイレンでたたき起こされた時には、東の空は真っ赤に燃え上がっていた。郷東の田植えが終わったばかりの水田も火の海だった。降りしきる火のかたまりから藁葺きの家を守るため、村人は大わらわとなった。翌朝、郷東の田んぼは、焼夷弾で、月面のような穴ぼこだらけで、大半の稲が焼け焦げているのに、村人たちは呆然となった。 在暑假开始前的六月底,爱知县冈崎市受到了大空袭。半夜一过,就被空袭警报惊醒,起来时,东面的天空一片通红,烧了起来。村子东面,刚刚种完的水田也是一片火海。为了保护茅草的屋子免于被从天而降的的火球点燃,村民们积极投入救火行动。第二天早上,村东的田里,都是被燃烧弹在地向月球表面一样的坑坑洼洼,大半的稻子被火烧焦了,但是村民们愕然的不知所措。  村の神社の境内は、田んぼから抜き取られ撙肖欷繜喴膹帳尾泻·紊饯Bかれた。初めて目にする正六面体の鋼鉄製弾体の山を前にして、この一群の投下がもう千メートル西へずれたら、集落は丸焼けになったに違いないと背筋が寒くなると同時に、日本中がこのような目に遭っていって、本当にこの戦争が勝てるのか、という疑念が湧き上がるのを、どうしようもなかった。 在村里神社的院子里,从田里拔出来,运到这里的燃烧弹残骸,堆得象山一样高。第一眼看到这正六面体的钢铁弹体的小山,只要再向西1000米投下的话,整个村子一定会被烧光,想到这里背上一阵阵发冷。同时,有这样的疑虑涌上心头,在日本都找到这样的打击,这场战争我们真的打赢了吗?  八月に入って、広島と長崎に大型爆弾が投下され、大きな被害が出たと報道されたが、その頃から、空襲警報がめっきり減ってきたなと感じていた矢先の玉音放送の予告であった。当時は、ラジオのある家は多くはなかった。わが家には、あまり性能はよくないが、ラジオがあったので、隣近所から聞きに来る人もいた。文字通り、初めて耳にする天皇陛下の肉声は、ラジオの性能の悪いこともあって雑音が多く、よく聞き取れなかった。「耐え難きを耐え」とか、「万世のため太平を」とか、きれぎれに耳に入るお言葉の端々から、戦いが終わったと察しられた。両親や祖母ら大人の人々は意外と平静だった。祖母から、戦争は負けに終わったと聞かされた軍国少年は、絶対にこの戦、負けることはないと教えられ信じ込んでいただけに、頭の中が真っ白になったのを、今でも昨日のように想い出す。 进入八月,传来广岛和长崎遭到大型炸弹袭击,蒙受巨大灾害的报道。从那个时候开始,感到空袭警报明显减少——。当时有收音机的家庭不是很多。在我家有一个性能不是很好的收音机,但是也有人到我家来听。第一次听到天皇陛下的声音,因为收音机性能不好,杂音又多,非常听不清楚。“忍受难以忍受的痛苦”、“为了万世的太平”等等,零零碎碎听到一些话语的片断,由此可以察觉到,战争结束了。父母和祖母等那些大人们感到意外,但也很平静。从祖母,到听到战争以失败而告终的军国少年,都被引导相信,这场战争绝对不可能失败,当时脑中一片空白,现在想来,也如昨日一般。 ]
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