文章作者是自民党议员,是一篇写于十年前的文章,今年又是二战60周年的纪念,对文章我做了翻译,但是有一些地方不能理解,所以不是翻得很好,还希望高人指点。
文章从序言开始共十三篇,今天先贴序言。
前面是全文方便可以贴的人。
才发现这个板块,前面贴错地方了,决定在这里连载
あの戦争は何だったのか
一九九五年は敗戦五十年目の節目の年だった。
海外からは、欧米の各地で開催された戦勝記念式典や真珠湾五十周年祭などの様子が華々しく報道されたし、国内でも記念式典はじめさまざまな行事が例年になく盛大に開催され、国会でも「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」いわゆる国会決議がなされ、各種メディアにおいても過去の戦争がいろいろな角度から大きく取り上げられるなど、節目にふさわしい一年だった。
私は敗戦の年は国民小学校五年生の「軍国少年」だった。あの忌まわしい戦争と敗戦後の五十年を振り返ることは、私の一生を省みることにほぼ等しい。政治の世界での浪人の立場でこの節目の年を迎えるとは、敗戦の当時は夢想すらできなかったことではあるが、一九九五年は、その立場からわが国の今後の五十年、そしてそれから未来へ向かってどうあるべきかに想いを巡らすことと、還暦を迎えた人生の節目の年として過去に思いを馳せることとが重なって、私にとって感無量の一年であった。本稿は、私の人生の節目に当たってのいささかの感慨を、昨年綴ったものである。
一九九七年 三月
杉浦正健
一.昭和二十年八月十五日
二.あの戦争は何だったのか
三.やくたいもない戦い
四.近代史の流れの中で
五.日清戦争から日本はおかしくなった
六.孫文と勝海舟
七.お上から与えられた明治憲法
八.明治憲法の欠陥
九.神道について
十.共存から共生へ
十一.軍事的鎖国を
十二.「栄光の二十一世紀」をめざして
あの戦争は何だったのか
那场战争是什么?
一九九五年は敗戦五十年目の節目の年だった。
1995年是战败50周年。
海外からは、欧米の各地で開催された戦勝記念式典や真珠湾五十周年祭などの様子が華々しく報道されたし、国内でも記念式典はじめさまざまな行事が例年になく盛大に開催され、国会でも「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」いわゆる国会決議がなされ、各種メディアにおいても過去の戦争がいろいろな角度から大きく取り上げられるなど、節目にふさわしい一年だった。
在海外欧美各地,二战胜利的纪念典礼,珍珠港事件50周年的纪念等等活动被轰轰烈烈地报道,就连国内,也开始盛大地举行各式各样的纪念典礼,甚至在国会通过了所谓“接受历史教训,坚持和平道路决议”的国会决议。各路媒体也从各个角度大肆报道过去的战争,这一切真是这一年的世界主流相吻合啊。
私は敗戦の年は国民小学校五年生の「軍国少年」だった。あの忌まわしい戦争と敗戦後の五十年を振り返ることは、私の一生を省みることにほぼ等しい。政治の世界での浪人の立場でこの節目の年を迎えるとは、敗戦の当時は夢想すらできなかったことではあるが、一九九五年は、その立場からわが国の今後の五十年、そしてそれから未来へ向かってどうあるべきかに想いを巡らすことと、還暦を迎えた人生の節目の年として過去に思いを馳せることとが重なって、私にとって感無量の一年であった。本稿は、私の人生の節目に当たってのいささかの感慨を、昨年綴ったものである。
战败的那一年,我还是小学五年级的军国少年。回想那场不幸的战争和战败后的50年,几乎相当于反省我的一生。在政治世界中,一旦以中立的立场来迎接这重要的一年,虽然战败的时候连梦想都失去过,1995年,从这个立场,思考我国以后的50年,甚至遥想未来该是怎样的想法,与我迎来花甲之年回想过去的念头重合在一起,对我来说真是感慨万千。这本小册子,就是去年我在这个人生阶段的一些感慨的记录。
一九九七年 三月
杉浦正健
一. 昭和二十年八月十五日
一、昭和二十年八月十五日
二. あの戦争は何だったのか
二、那场战争是什么?
三. やくたいもない戦い
三、毫无利益的战争
四. 近代史の流れの中で
四、在近代史的潮流中
五. 日清戦争から日本はおかしくなった
五、甲午战争后日本变得怪异
六. 孫文と勝海舟
六、孙文和胜海舟
七. お上から与えられた明治憲法
七、由上而下的明治宪法
八. 明治憲法の欠陥
八、明治宪法的缺陷
九. 神道について
九、关于神道
十.共存から共生へ
十、从共存到共生
十一.軍事的鎖国を
十一、军事锁国的反省
十二.「栄光の二十一世紀」をめざして
十二、迎接“光荣的二十一世纪” |