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ワンマン宰相の異名をとった吉田茂は、人を食ったような逸話をいくつも残している。若き外交官時代、旧知の寺内正毅(まさたけ)首相に「秘書官になれ」と言われ、「総理大臣は務まると思いますが、総理大臣秘書官は務まりません」と答えて「出世」を棒に振った。
被称为“一人宰相”的吉田茂,以目中无人闻名。他年轻做外交官的时候,他的老朋友时任首相的寺内正毅对他说:“来做我的秘书官吧。”他却回答道:“我是要做总理大臣的,而不是总理大臣的秘书官。”
戦後は、戦犯容疑者に指定されて自殺した近衛文麿(ふみまろ)の家を借りて、来客に「ここに寝ていたら、近衛が出てくるだろうと思ってね」と平然と語っている。その破天荒さは時に、したたかな実利主義とも結びついた。
战后,吉田租下了因为被认定为战犯嫌疑人而自杀的近衛文麿的房子,对来访的客人泰然的说:“在这里睡觉的话,我觉得也许会见到近衛吧。”他这种前人所未有的性格,和天不怕地不怕的实利主义相结合了。
再軍備を迫る米国にしぶとく抵抗した吉田の軽武装経済中心路線が、戦後日本の繁栄の基礎を作ったことは、よく知られている。「そうした商人的政治観は、必ずしも彼の本質ではなかった」とみるのは、新しい伝記「吉田茂——尊皇の政治家」(岩波新書)を執筆した原彬久(よしひさ)・東京国際大教授だ。
作为顽强的抵抗美国的限制日本军备政策的策略,吉田采用的轻武装经济中心路线,为战后日本的繁荣奠定了坚实的基础,这是广为人知的。“这样的商人的政治观,一定不是他的本意。”执笔新传记「吉田茂——尊皇的政治家」(岩波新書)的东京国际大学教授原彬久这样认为。
原さんに よれば、吉田を動かした原動力は、皇室への尊敬が社会秩序の基礎だという信念だった。少年時代の国粋主義教育に加えて、夫人を通して明治維新の元勲大久保利通(としみち)に連なる系譜は、彼の尊皇の念を一層強めた。
原教授认为,支持吉田行动的动力是“对皇室的尊敬是社会秩序的基础”这样一种信念。吉田少年时代接受的国粹主义教育以及通过自己夫人与明治维新的元勋大久保利通的关系,都使他的尊皇思想进一步的加强了。
「占領軍に協力したのも、マッカーサー元帥が日本の統治のために皇室存続を決断したからだ」と原さん。さらに吉田は、戦争責任から一時は退位すべきか迷っていた昭和天皇を思いとどまらせた。
原教授认为“(吉田)协助占领军的行为,让麦克阿瑟将军统治日本也是为了使皇室存续下去的决定。”因此,天皇也决定不再追究吉田是否因为战争责任而应不应该卸任的问题。
天皇の権威を守るためだっただろうが、「天皇が自らの戦争責任を形にできなかった歴史的含蓄は重い」と原さんは言う。今日まで残る日本の過去の問題を考えると、吉田が落とした影もまた大きかった。
虽然是为了维护天皇的权威,但是原教授认为“天皇不能自己承担战争的责任,暗示着沉重的历史问题。”回想起日本的那些一直遗留到今天的历史问题,吉田的深刻影响仍然存在。 |
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