咖啡日语论坛

 找回密码
 注~册
搜索
查看: 5928|回复: 23

『文化大革命』日语版

[复制链接]
发表于 2005-10-14 19:42:56 | 显示全部楼层 |阅读模式
  第一部 文化大革命の十年

1 文革とはなにか
私と中国

波及する文革の熱気

建国四十年、文革十年

文革とはなにか──文革派の立場から

文革とはなにか──実権派の立場から

文革の時期区分──第1段階

「一月革命」の熱狂

武漢事件おこる

第2段階から第3段階へ───周恩来排撃、鄧小平失脚

文革の評価

社会主義経済の試行錯誤
回复

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-14 19:47:38 | 显示全部楼层
第一部 文化大革命の一〇年

1.文革とはなにか

私と中国

一九八九年四月、私は生まれて初めてアメリカを訪れた。胡耀邦の死はワシントンのホテルで知った。訪米の目的はミシガン大学で講義するためである。親しい友人が客員教授として「日本のマスコミ論」を講義しており、その助っ人に招かれたのである。私は「戦後の日中関係」にテーマをしぼった。アメリカの一流大学の学生はよく勉強しているし、おまけに私の講義を聞くのは「日本学」専攻の大学院生十数人である。なまはんかなことを話したら恥を書くにきまっている。そこで「私の個人的体験から見た日中関係」をテーマに選んだ。これなら、どんな勤勉な学生でも参考書と同じだと軽蔑することにはなるまい。

私は特別な「個人的体験」をもっているわけではないが、一人の平凡な大学教師の中国認識の試行錯誤の過程を率直に話したのであった。学生たちの反応は悪くなかったと、客員教授氏が喜んでくれた。そこで妙な自信がついて、日本の学生にもその調子で話を進めることになった次第である。

私は一九三八年一〇月一日に生まれた。蘆溝橋事件の翌年である。「国民学校」に入学した一九四五年に戦争が終わり、まもなく「小学校」と名が変わった。四年後に中華人民共和国が成立した(私は新中国よりも一一歳「年長」である)。一九五八年中国では「人民公社」が組織され、全中国が大躍進に熱気に包まれていたが、私はこの年に大学に入り、中国語を第二外国語に選んだ。中国の熱気に「感染」したのである。私は一九五七年にポーランド映画「地下水道」を見ている。スターリン型の社会主義モデルを懐疑し始めた知識人の卵に対して、毛沢東の追求する中国モデルは、その細部は不明ながら、清新な印象を与えていた。

一九五九年、ソ連のフルシチョフ第一書記が北京を訪れ、毛沢東と七時間会談したが、共同コミュニケを出せないほど、中ソ関係は冷えていた。私が「六〇年安保」のデモに明け暮れていた六〇年夏、ソ連は中国援助を一方的に打ち切った。

六〇年代の前半、私はある経済雑誌社で働き、この間、廖承志・高碕達之助覚書き協定に基づいて来日した第一陣の新聞記者たちとつきあい、彼らを少なからぬ工場に案内した。高度成長さなかの日本経済を知ってもらい、同時に私にとっては中華人民共和国人を知るよい機会となった。六六年夏、中国で文化大革命が発生した。「魂に触れる」と喧伝された熱気はふたたび私を強くとらえ、私は中国研究に専念するため、半官半民のある研究所に移った。

波及する文革の熱気

いま中国の「熱気」を繰り返したが、学生時代のそれと比べものにならないほど、文革のインパクトは大きかった。一つの例を挙げたい。

今回の旅行でデトロイト近郊のアナーバーを立つ日の『ザ・アナーバー・ニュース』(四月八日付)は、八九年四月七~八日に開かれたある“同窓会”のことを報じていた。

この記事によると、二〇年前の一九六九年四月九日、約三〇〇名の学生がハーバード大学の本部ビルを占拠した。翌日早朝ネイザン・プシー総長は四〇〇人以上の警官隊を導入し、学生を排除した。四五人が負傷し、一九七人が逮捕された。三日間の授業ボイコットは、四月二五日までの一五日間のストライキに発展し、期末試験は中止された。

二〇年前に行われたこの闘争を記念して、アメリカ全土から二〇〇人の元活動家がハーバード大学に集まり、ティーチインやディベート、街頭劇、パーティなどが行われ、話題は過去のことだけでなく、中央アメリカや南アフリカに対するアメリカの政策を含んでいた。

ハーバード大学本部ビルが占拠される数カ月前から東大の安田講堂はすでに占拠されており、一月の攻防戦で機動隊は占拠学生を排除したものの、この春、東大は入学試験を中止せざるを得ないほどに混乱していた。

日本の「東大落城」は一九六九年一月一九日でハーバードよりも少し早い。しかし日本の学園闘争よりもさらに早く、フランスでは一九六八年五月、カルチェ・ラタンの闘争があった。これら世界的に拡大した学生や労働者、知識人の闘争は一方ではそれぞれの個別的な要求から出発しつつも、ベトナム反戦を共通項としており、しかもその邉婴现泄挝幕蟾锩摔瑜盲瞥潭趣尾瞍长饯ⅳ臁⒐奈瑜丹欷皮い郡韦扦ⅳ盲俊

ところが、本家本元の文化大革命の政治力学は意外な展開を見せ、毛沢東の後継者に擬せられた林彪が突如消息を絶ったのは一九七一年秋、私はこのニュースをシンガポールの南洋大学で知った。当時、中国は特定の例外を除いて、研究者を受入れなかったので、やむなく周辺から観察していたのである。これは隔靴掻痒の感を否めなかったが、後から考えると、私にとっては、文革の「熱気」を相対的に受け止めるうえで有利であったかもしれない。

建国40年、文革10年

中華人民共和国は今年建国四〇年(一九四九~一九八九年)になるが、この間で文革の一〇年(一九六六~一九七六年)は、どのような位置を占めているであろうか。図1(図説のジグザグ利用)をご覧いただきたい。中国現代史は文革の一〇年を間に挟んで、大きく三分される。文革前の一七年(一九四九~一九六五年)、文革一〇年、ポスト文革の一三年(一九七六~一九八九年)である。

文革前一七年と文革一〇年を合わせて、計二七年は、毛沢東が中国に君臨した時代であるから、仮りに毛沢東時代と称することができる。文革後の一三年は一九七六~一九七八年という短い過渡期(華国鋒時代)を経て、一九七九~一九八九年の一〇年は最高実力者の名をとって小平時代と称することができる。

文革前一七年は、経済建設の面から見ると、三年余の復興期(一九四九~五二年)、二つの五カ年計画期(第一次は一九五三~五七年、第二次は一九五八~六二年)、三年の調整期(一九六三~六五年)に分けられる。ここで、文革の直接的導火線となるのは、第二次五カ年計画期に行われた大躍進、人民公社政策とその挫折である。

大躍進、人民公社の失敗を手直しするために行ったいわゆる「三カ年の調整期」に、人民公社は解体の危機に瀕した。毛沢東はこの現実に強い危機感を抱いて「修正主義の発生」と受け止め、修正主義反対を目指した一大政治邉婴驔Q意した。これが文化大革命にほかならない。

文革とはなにか──文革派の立場から

文革の目的、理念、方法は、「文化大革命の綱領的文献」とされた「五・一六通知」(一九六六年五月一六日)、一九六六年八月、八期一一中全会で採択された「プロレタリア文化大革命についての決定」(略称「十六カ条」)、一九六七年一一月六日の『人民日報』『紅旗』『解放軍報』共同社説「十月社会主義革命の切り開いた道に沿って前進しよう」に盛られた「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」などに示されている。これらは第九回党大会の政治報告(林彪報告)で総括的に要約されている。その核心はつぎのようなものである。

党、政府、軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョア階級の代表的人物と修正主義分子がすでに数多くもぐりこんでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマルクス主義者と人民の手には握られていない。党内の資本主義の道を歩む実権派は、中央でブルジョア司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とをもち、各省市自治区および中央の各部門に代理人をかかえている。これまでの闘争はどれもこの問題を解決することができなかった。実権派の奪いとっている権力を奪いかえすには、文化大革命を実行して、公然と、全面的に、下から上へ、広範な大肖蛄ⅳ辽悉椁弧⑸鲜訾伟迭面をあばきだすよりほかはない。これは実質的には、一つの階級がもう一つの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何回もおこなわなければならない(「歴史決議」一九項に引用)。

文革とは要するに、党機構などの指導部内に発生した実権派を打倒するための、「下から上への」政治大革命である、とする考え方である。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-14 19:48:11 | 显示全部楼层
文革とはなにか---実権派の立場から

これに対して、打倒の対象とされた実権派の立場から見ると、問題はどう理解されるか。造反派による「修正主義」批判や「奪権闘争」(造反派が実権派から権力を奪うことを「奪権」と称した。造反派は実権派から奪権したあと各単位において「革命委員会」を構成した)は、実権派からすれば、次のように論駁さるべきものであった。

まず修正主義批判に対して。

“文化大革命”において、修正主義あるいは資本主義とみなされて批判された多くのものは実際にはマルクス主義の原理と社会主義の原則である。

実権派批判について。

“文化大革命”において打倒された実権派は党と国家の各級組織の指導幹部であり、社会主義事業の中核勢力である。党内には“ブルジョア司令部”などは存在しなかった。劉少奇同志にかぶせられた“裏切り者、敵への内通者、労働貴族”の罪名は完全にデッチ上げである。“文化大革命”は“反動的学術権威批判”によって多くの才能ある、業績のある知識人に打撃を与え迫害した。

文革の方法について。

“文化大革命”は建前は大肖酥苯拥膜艘罀嚖工毪趣筏皮い郡g際には党の組織から離脱し、広範な大肖椁怆x脱していた。邉婴激蓼毪取⒌长胃骷壗M織は衝撃を受けてマヒ状態に陥り、広範な党員の組織生活は停止し、党が依拠してきた積極分子や大肖吓懦猡丹欷俊N母铯纬跗冥摔稀⒚珱g東同志と党に対する信頼から邉婴藥啢zまれた人々もごく少数の極端な分子を除けば、党の各級指導幹部に対する残酷な闘争に賛成しなかった。

文革の歴史的評価について。

“文化大革命”はいかなる意味でも革命や社会的進歩とはいえない。中国では社会主義的改造が完成し、搾取階級が階級としては消滅したあと、社会主義革命の任務はまだ最終的には完成しないとはいえ、革命の内容と方法とは過去のものとはまるで異なるべきである。党と国家機構には確かに若干の暗い面が存在しており、むろん憲法や法律にしたがって解決する必要があるが、断じて“文化大革命”の理論や方法はとるべきではない」「“文化大革命”は指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱であった。

文革を推進した毛沢東派あるいは文革派にとっては「革命」であり、打倒され、後に復権した側からみると「内乱」である。ここで価値判断は全く対立している。一方は「修正主義に対する革命」であると言い、他方は「マルクス主義を堅持した者に対する内乱」だとしている。ここで「修正主義」の実態とはなにか、「マルクス主義の堅持」とはなにかが問われなければならないであろう。

文革の時期区分---第1段階

文革派と実権派の文革像が相反する理由はさまざまであるが、一つは時期区分とも関係している。文革派は概して、実権派打倒に決起して成功した第九回党大会まで文革理念の発揚期ととらえ、その後は「継続革命」すなわち文革体制の堅持を主張する傾向がある。これに対して、実権派の描く文革像は林彪事件で林彪派が失脚し、毛沢東の死とともに失脚した“四人組”粉砕までを含めて、文革期としている。前者はいわば狭義の文革期であり、後者はいわば広義の文革期である。

まず広義の文革期は「歴史決議」に習って、つぎの三段階に分けることができよう。

1)第一段階。文革の発動から第九回党大会まで。

文革の開始をどこで押さえるかについてはいくつかの捉え方がありうるが、一九六六年五月の政治局拡大会議、そして同年八月の八期一一中全会によって文革が始まったとみてよい。前者によって「五・一六通知」が採択され、彭真・羅瑞卿・陸定一・楊尚昆“反党集団”(当時「四家店」と呼ばれた)が摘発された。後者によって「プロレタリア文化大革命についての決定(一六カ条)」が採択され、劉少奇・鄧小平司令部に対する闘争が始まった。

六六年五月、キャンパス内に誕生した「紅衛兵」は、八月一日、清華大学附属中学紅衛兵に対する毛沢東の支持を契機として「造反」に決起し、八月一八日、毛沢東の天安門での接見には全国から一〇〇万の紅衛兵が集まり、紅衛兵パワーを見せつけた。九月五日の中共中央、国務院通知以後「授業を中止して革命をやる」(原文=停課閙革命)邉婴k展し、全国的な経験交流(原文=大串連)が始まった。六六年一一月二六日までに毛沢東は前後八回、紅衛兵を接見したが、その数は一三〇〇万に上る。

他方、党中央の指導機構が改組され、中央文革小組が成立し(六六年五月二八日、組長=陳伯達、副組長=江青、顧問=康生)、政治局に代わって権力を行使するようになった(「五・一六通知」では中央文革小組は政治局常務委員会の下に置かれると明記されているが、「一六カ条」では「プロレタリア文化大革命の権力機構」と格上げされ、“二月逆流”以後、政治局と中央書記処にとって代わるほどの権力を行使することになった)。

「1月革命」の熱狂

毛沢東個人崇拝は熱狂的なほどに高まり、これによって集団指導が個人指導にすり替えられていったのである。文革を推進する側に立ってこれを進めたのは、林彪、江青、康生、張春橋らであった。造反の波が上海「一月革命」(上海市の造反派が上海市党委員会、人民政府の権力を奪権した事件)にまで高まったとき、すなわち一九六七年二月前後に実権派の反発も爆発した。譚震林、陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻ら政治局委員および軍事委員会委員たちが六七年二月一四日、一六日に中南海懐仁堂で開かれた政治局ポン頭会で中央文革小組のやり方を鋭く批判した。しかし、毛沢東はこれを“二月逆流”と逆に批判し、二月二五日~三月一八日、政治局の「政治生活会」を七回開かせ、実権派の活動を封じ込めた。

上海「一月革命」以後、各部門各地方の党政指導機関は奪権闘争され、あるいは改組された。省レベルでの奪権闘争の波は全国的に拡大し、六七年一月三一日o江省革命委員会が成立したのを皮切りに、省レベルでの奪権闘争が推進され、頻発する武闘を「大連合」で妥協させ、「軍幹部、旧幹部、造反派代表」の「三結合」による革命委員会の成立を急いだ。六八年九月五日、チベットと新疆自治区の革命委員会成立をもって、全国に革命委員会が成立し、奪権闘争の段階は一段落し、翌年四月、第九回党大会を迎える撙婴趣胜盲浚ǖ貒怼瘛⑹ˉ欹佶敫锩瘑T会の成立一覧)。

武漢事件おこる

解放軍は六七年一月二三日、毛沢東の指示により「革命的左派大肖沃С帧工韦郡幛私槿毪筏俊H乱痪湃哲娛挛瘑T会が「三支両軍」(左派、労働者、農民の三者を支持し、軍事管制、軍事訓練という二つの軍を行うこと)の決定を行った。以後、解放軍は学校、機関、工場などに進駐し、奪権闘争を支えた。

しかし、奪権闘争は六七年七月二〇日の武漢事件によって大きな壁にぶつかった。文革派の謝富治、王力が武漢の造反派支援のためにかけつけたところ、実権派を支持する大薪M織「百万雄師」によって王力が監禁される事件が発生した。実はこのとき毛沢東もまた宿舎の東湖賓館を包囲され、身動きできなくなっていた。周恩来の努力によりことなきを得たが、その後武漢軍区司令員陳再道らは反革命として処分された(七八年一一月名誉回復)。事後の弾圧により死傷した幹部、軍人、大肖弦话送蛩末柀柀柸摔松悉氪蟛沂陇趣胜盲俊N錆h事件に衝撃を受けた江青は七月二二日、「文で攻撃し、武で防衛する」(原文=文攻武衛)のスローガンを提起し、武闘を煽る結果となった。

武漢事件を間に挟む六七年七~九月、毛沢東は華北、中南、華東地区を視察し、以後、「左派支持」を事実上撤回し、「大連合」を呼びかけるようになった。この前後に、毛沢東の文革構想をまとめたものが「偉大な戦略配置」である。1)文化大革命の四つの段階、2)革命的大連合、三結合、3)造反派の世界観改造、4)中国は世界革命の兵器廠たれ、と呼びかけたものである。

三結合による大連合により奪権闘争が一段落した一九六九年四月に開かれた第九回党大会で選ばれた中央委員の構成は、約四割が軍人、三割が旧幹部、三割が造反派代表であった。

第2段階から第3段階へ--周恩来排撃゛鄧小平 失脚

2)第二段階。第九回党大会から第一〇回党大会まで。

第九回党大会で文革派が権力を掌握したが、これはいわば奪権連合であり、林彪派と江青ら“四人組”との間、そして周恩来グループとの間に深刻な権力闘争が発生した。七〇年から七一年にかけて、林彪派は武装クーデタ(「五七一工程紀要」)を計画するところまで追い詰められた。七一年九月一三日、林彪らを仱护骏去楗ぅ钎螗葯Cがモンゴルに不時着、炎上し、文革はきわめて重大な局面を迎えた。

周恩来が党中央の日常工作を主持するようになり、七二年周恩来は極左思潮を批判しようとしたが、毛沢東は批判対象を「極右」だとして、これを妨げた。七三年八月第一〇回党大会が開かれ、江青、張春橋、姚文元、王洪文が政治局内で“四人組”を組んだ。

3)第三段階。第一〇回党大会から一九七六年一〇月まで。

第一〇回党大会以後、周恩来は経済の再建に取り組もうとしたが、一九七四年初め、江青ら“四人組”が「批林批孔」邉婴蚴激幛俊¥长欷显搐狭直毳哎氅`プ摘発の邉婴趣筏剖激幛椁欷郡猡韦坤⑦動の矛先を周恩来にまで拡大したものであった。毛沢東は初めは「批林批孔」邉婴蛟S可したが、その後江青らを逆に批判した(“四人組”を組む勿れ、江青には組閣の野心がある、など)。一九七五年周恩来のガンが重くなり、小平が党中央の日常工作を主持するようになった。小平は一連の重要会議を開き、各方面での工作を整頓したが、毛沢東はこれを許さず、“小平批判、右傾巻き返しに反撃する”邉婴虬k動した。中国はふたたび混乱に陥った。七六年一月、周恩来が死去し、四月周恩来を追悼する天安門事件が起こった。この事件の护∑饯坤趣い碛嗓颏膜堡啤⑿∑饯显偈Ы扭筏浚ń鳐渐鹰ē葧r代を含めれば、三度目の失脚であった)。

文革一〇年を歴史決議のやり方にならって三段階に分けた。この分け方は、まず妥当なものであろう。ただ、ここで一つの欠点は、どうしても結果からすべてを解釈する偏向に陥ることである。なるほど政治的行動は結果がすべてであると言ってよいのだが、問題を分析するに際しては、もう少し余裕をもって多面的に考察する必要があろう。

文革の評価

文革はなぜ失敗したのであろうか。文革とは、毛沢東の煽動により、紅衛兵がまず造反し、ついで労働者たちが造反した社会的大羞動である。ここで問題は二つの側面から考察できよう。一つは毛沢東のイデオロギー、そして具体的な政治的指導の問題である。もう一つは、造反に決起した大肖蝹趣螁栴}である。両者は毛沢東個人崇拝を媒介として結合されていた。造反の帰結は既成秩序の崩壊であり、各種造反派は際限なく武闘を続け、ついに解放軍の介入によって辛うじて秩序を維持する形になった。

文革を「社会的進歩ではなく、内乱にすぎない」とする中国当局の評価はすでに紹介した。この評価は、文革を肯定的に評価することによって自らの政治的地位を保とうとするすべて派(原文=凡是派、華国鋒らを指す)と闘争しつつ、文革を否定することによってすべて派を打倒し政策転換をおこなうべく、復活した旧実権派が提起した評価であるから、そういう政治的文脈における文書であるにすぎない。「歴史決議」と銘打たれているが、過渡的な文書であることは明らかである。そのような政治的立場から独立した自由な隣国の研究者としては、もう少し自主的な評価を試みたい。

社会主義経済の試行錯誤

一九八九年五月一五~一八日、ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中し、三〇年ぶりに中ソ和解が成立したことは文革評価に対しても考察の有力な視点を与えるものである。

鄧小平路線がかつて「修正主義的」と非難された政策よりは数倍も「修正主義的」な経済改革路線を採用し、ゴルバチョフもこれに追随しようとしているかに見える。これは現代社会主義諸国(後進社会主義国)において商品経済を排除した計画経済(指令性経済)が破産したことを示している。

文革は商品経済の排撃を極端まで進めたが、このような形の、物質刺激を排除し、精神的刺激を一面的に強調して経済を邌婴筏瑜Δ趣筏吭嚖撙·筏俊N母锲冥谓U済建設の失敗に鑑みて、毛沢東的経済発展戦略が否定された。そして文革期に批判された鄧小平流の「白猫ā拐摛瑥蜆丐筏俊K健ⅴ竭Bでは文革のような試行錯誤を経験せず、計画経済を堅持してきたが、やはり経済改革を迫られている。歴史におけるif、すなわち仮定は無意味だとよくいわれるが、考えるヒントとしては重要である。つまり中国で仮りに文化大革命が起こらなかったとすれば、計画経済が堅持され、発展してきたはずだが、やはり経済改革が必要とされたであろう。ゴルバチョフ改革はこのことを示唆しているものと解釈できるのである。

この意味で歴史を回顧すると、一九三〇年代に成立したスターリン型の計画経済体制が原点である。五〇年代末にはすでにその限界が意識されていた。中国ではその限界を克服すべく毛沢東型社会主義建設が模索された。この毛沢東モデルを肯定するか否定するかをめぐって文化大革命が発生したといえるわけである。ソ連ではフルシチョフ時代に経済改革が試みられるが、まもなく挫折し、以後ブレジネフ時代の長い停滞を経て、ゴルバチョフ時代になってようやく再び改革が舞台に登場したことになる。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-14 20:05:51 | 显示全部楼层
2 大いなる損失
文革の経済的損失

アジア・ニーズとの経済的ギャップの拡大

文革期の経済成長

食糧生産の伸び

国防戦略のコスト

過度な危機意識

政治的損失

崩壊に向かう現代社会主義

根本的矛盾、根源的失敗

毛沢東思想の誤り

一党独裁制と後進制

文革が播いた民主化「動乱」の種子
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-14 20:06:51 | 显示全部楼层
2.大いなる損失

文革の経済的帰結

鄧小平 時代が始まってまもなく、李先念(当時政治局常務委員)が「全国計画会議」で講話(七九年一二月二〇日)してこう指摘したことがある。

大躍進のときに、広範な大肖螣崆椁细撙盲郡ⅳ铯欷铯欷笇Г摔い七^大な目標〔原文=高指標〕、デタラメ指揮、共産風を吹かせる誤りを犯したので、その結果、損失はたいへん大きかった。ある同志の推計では、国民所得を一二〇〇億元失った。(中略)文化大革命の動乱の一〇年には、政治上国家と人民にもたらされた災難は別にして、経済上、ある同志の推計によれば国民所得で見て五〇〇〇億元失った。

この金額はどの程度の損失なのか。一九五九年、六〇年ころの国民所得は約一二〇〇億元であったから、およそ一年分の国民所得の損失に当たる。文革期の六〇年代後半の国民所得は約一六〇〇億元であるから、五〇〇〇億元という数字は国民所得のおよそ三年分である。李先念は推計方法については説明していないが、おそらくは大躍進や文革がなかったとしたら、この程度の成長率で成長したはずだと計算したものと現実の数字とのギャップがこれだけになるということであろう。

アジア・ニーズとの経済的ギャップの拡大

中国が大躍進期に一年、文革期に三年、足踏みをしていた間に、中国の周辺地域の国家・地域はすばらしい高度成長を遂げた。日本の高度成長はいうまでもなく、日本を見習うかのごとく、台湾、香港、シンガポール、そして韓国が高度成長を遂げた。

たとえば、中国が文革の動乱に明け暮れ、その後一息ついた時期である六五~八六年の二〇余年に、アジア・ニーズの一人当りGNPがどうなったかを見ておこう。中国の八六年の一人当りGNPは三〇〇ドルにしかすぎないのに対して、シンガポール七四一〇ドル、香港六九一〇ドル、台湾三七八四ドル、韓国二三七〇ドルとなった。中国はシンガポールの二四分の一、韓国の八分の一である(資料は世界銀行の『世界開発報告一九八八』、台湾のみ『台湾統計年鑑一九八七』)。

六五~八六年の成長率を見ると、中国が年平均五・一%、シンガポール七・六%、台湾六・九%、韓国六・七%、香港六・二%である。いずれも中国のそれを上回っている。

八六年当時の人口は、中国一〇億五四〇〇万人、韓国四一五〇万人、台湾一九四五万人、香港五四〇万人、シンガポール二六〇万人であったが、貿易額は中国七四三億ドル、香港七〇八億ドル、韓国六六三億ドル、台湾六三九億ドル、シンガポール四八〇億ドルであり、似たような規模であった。これらの数字は、東アジア地域における中国の著しい立ち遅れを浮き彫りにしている。

文革期の経済成長

文革期の経済発展について、もう少し詳しく説明しているのは李成瑞(当時国家統計局局長)である(『経済研究』八四年一期)。六七、六八、六九年の三カ年は、国家レベルの総合統計工作は、ほぼ完全に停止した。国家統計局の大部分の幹部が下放労働に行かされたかである。省レベル、県レベル、各部門レベルの統計工作は完全に中断したわけではないが、統計機構の責任者が「実権派」とされて闘争にかけられ、多くの統計制度が修正主義として批判されていた。国家計画委員会の通知によって、七〇年五月以来、工業、農業、基本建設、職員労働者数、賃金総額などの定期統計報告制度が回復され、過去三年の数字を整理したり、補う作業が行われた。七一年八~九月に国家計画委員会が全国統計工作会議を開いて、国民経済基本統計報告制度を回復した。

李成瑞はさらに統計工作が中断された三カ年においても、つぎの三つの部門は混乱しなかったとしている。すなわち1)銀行、財政、納税の系統。2)鉄道、交通、郵電の系統。3)商業、糧食、外国貿易の系統。各国営企業は人民銀行に口座をもつ制度になっているし、また基層単位には元帳や伝票が残されていたので、これらをもとにして三カ年の数字の空白を埋めたとしている。

こうして推計した各年ごとの国民所得数字が公表されたのは、『中国統計年鑑一九八三』においてであった。その数字をもとに四九年以来四〇年の国民所得の推移を対前年比で見ておけば、表[省略]のごとくである(その後の数字は『中国統計年鑑一九八八』で補った)。〔拙著『図説』利用〕

文革前半の第三次五カ年計画期(六六~七〇年)の年間成長率は八・三%である。文革後半の第四次五カ年計画期(七一~七五年)の年間成長率は五・五%である(単純平均して六・九%になる)。これは鄧小平時代の七九~八七年の九・〇%よりは低いが、五三~八七年の六・八%とほぼ同じである。つまり、文革期にも「平均並みの経済成長」は行われていたことが分かる。

食糧生産の伸び

文革期の一〇年の変動を各年について見れば、こうなっている。文革期の一〇年、経済は三つの山と谷を経験した。第一次ピークは一九六六年前半で、経済は勢いよく発展した。しかし、一九六七、六八年は造反、奪権闘争、武闘の頻発によって大混乱に陥った。第二次ピークは一九六九年から一九七三年までである。第九回党大会により、いちおう秩序が再建され、経済は回復し、発展に向かった。しかし、一九七四年には「批林批孔」によって周恩来が攻撃されるに及び、経済は再び混乱に陥った。第三次ピークは一九七五年の整頓以後である。経済は三たび成長に転じた。しかし、一九七六年の「右傾巻き返しに反撃する」(原文「反撃右傾翻案風」)闘争によって、経済は三たび混乱に陥った。

文革期の経済成長率が意外に高かった第一の理由は、農業が食糧生産を中心に安定的に増産されたことである。これを支えたのは、農業用投入財の増加である。

たとえば、トラクターやハンドトラクター、灌漑排水用ポンプ、化学肥料などである。これらの投入を背景として農業生産の伸び率は年平均三・九%に達した。食糧は安定的に伸び、七六年には二・八六億トンに達した。こうして文革期の人口増にもかかわらず、一人当たり食糧占有量は二七二キログラムから三〇五キログラムに増えた。その他の農産物も総生産量は増えたが、人口一人当たりで見ると、ほとんど増えず、油料、綿花は六五年よりもそれぞれ二〇%、二五%減少した。つまり「食糧をもってカナメとする」政策のもとで食糧だけが目標を達成しえたのであった。

国防戦略のコスト

第二に工業・交通面で特に目立つのは、石油の増産と内陸の鉄道建設である。

まず石油は大慶油田の連年大増産を中心に勝利油田(山東省)、大港油田(天津市)も加わって、七六年の原油生産量は八七〇〇万トンに達した。六五年の六・七倍である。こうして中国は石油の自給を達成した。原油生産の伸びに伴って石油化学工業も発展した。次に内陸の鉄道建設だが、成都──昆明線(一〇八五キロ)は一九七一年に全線の営業が始まった。湘(湖南省)──黔(貴州省)線(八二〇キロ)は七四年に主要区間が完成した。焦枝線(七六〇キロ、河南省焦作──湖北省枝城)は六五年に着工し、七〇年七月に完成した。この線は北は更に五陽(山西省)まで伸び(太──焦線二〇九キロ)、南は柳州(広西自治区)まで伸びた(枝──柳線八八五キロ)。こうして太原から柳州までが結ばれ、北京──広州線と並行する第二の縦断鉄道が完成した。このほか、襄攀(湖北省)──重慶間の襄渝線、同上線の安康と宝成線の陽平関を結ぶ陽安線が建設された。重慶を中心として、内陸にこのような鉄道網が建設されたのは、いわゆる「三線建設」のためである。文革期の経済建設の柱が「三線建設」であったとみてよい。〔地図、鉄道線路、省略〕さらに、核開発の発展がある。一九六四年一〇月一六日に最初の原爆実験に成功した後、六六年五月九日熱核材料を含む核実験を行った。ついで六七年六月一七日に最初の水爆に成功した。六九年九月二三日地下核実験に成功した。六六年一〇月二七日、ミサイル核兵器の実験に成功し、予定目標に命中させた。七〇年四月二四日、人工衛星(一七三キロ)の打ち上げ実験に成功した。七一年三月三日、科学実験用人工衛星(二一二キロ)に成功した。七五年一一月二六日、人工衛星を正常に咝肖丹护酷帷⒂瓒ㄍà昊貐Г工毪长趣顺晒Δ筏俊

三線建設の具体的内容については、第二部で紹介するが、ここであらかじめ結論だけを述べておけば、経済建設の側面から評価すれば、たいへんなムダであった。むろん事は国防の問題であり、コスト面からのみ論ずるのは、一面的である。ただ、この間、日本やアジア・ニーズは高度成長を続けていた。中国はひたすら国防に備える戦略を採ったことと、経済的立ち遅れには深い関係がある。

過度な危機意識

いま三線建設の実態を簡単に素描したが、これらの輪郭だけからでも、毛沢東ら中国共産党の指導部が「帝国主義の侵略」を現実的可能性のあるものと受け止め、それに対する措置を実際に採っていたことが知られるであろう。こうした国際情勢認識はその後の事態の経緯に照らして、侵略の危険性を誤って過度に評価したものと中国側自身によって批判されている。

しかし、これはむろん事後の智慧である。こうした危機意識が文化大革命の発動を毛沢東が決意する上で大きな役割を果していたわけである。毛沢東は死ぬまで第三次世界大戦不可避論に立脚していた。「世界大戦の問題についていえば、二つの可能性しかない。一つは戦争が革命を引き起こすこと、もう一つは革命が戦争を制止することである」(林彪「第九回党大会政治報告」に引用)。要するに、革命によって帝国主義が打倒されないかぎり、戦争はなくならないとする見解である。戦争の勃発はただ遅らせることができるだけだと彼はあくまでも信じていた。

政治的損失

ソ連や東欧諸国と同じく、中国にもノーメンクラツーラ(原文=幹部職務名単制)とよばれる高級幹部たちがいる。中国の党政軍幹部は、いずれも一~七級からなる超高級幹部(大臣級以上の幹部、軍なら兵団級以上)、八~一三級からなる高級幹部(局長級以上、軍なら師団級以上)、一四~一七級の中級幹部(課長級以上、軍なら連隊大隊級)、一八~二四級の一般幹部に分かれている。ここで問題は一三級以上の高級幹部である。幹部は約二〇〇〇万人(人口の約一・八%)いるが、このうち高級幹部は約一〇万人(人口の〇・〇一%)である。文革が打倒対象とした実権派とは、まさにこの階層にほかならない。しかし彼らは一時的に権力から外された(原文=靠辺站)ものの、現実の文革が破産した後、死者は別として文革後そっくり復活し、文革以前と同様に特権を行使している。この意味では、大新肪
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-14 20:07:54 | 显示全部楼层
1)文革期に迫害を受けた「党と国家の指導者」

を数えると、まず政治局委員レベルでは、八期政治局委員および候補委員三三人のうち、逝去者三人を除いて被害者二〇人であった。次に中央書記処一七人のうち被害者一四人である。軍事委員会副主席七人のうち被害者五人、三期全人代常務委員会委員長副委員長一〇人のうち被害者は七人、国務院副総理一五人のうち被害者一二人、各中央局第一書記六人のうち逝去者一名を除き、被害者四人、八期中央委員および候補委員一九四人のうち、病気、死亡者三一名を除き、被害者九六人であった。北京市の幹部、大肖韦Δ猎┳铯撬坤螭勒撸ā冈┆z而死」)九八〇四人に上る。(譚宗級論文『10年後的評説』、なお39頁の政治局メンバーの表参照)。

2)知識人の被害。

文化部の直属単位の被害者二六〇〇余人、著名な作家、芸術家老舎、趙樹理、周信芳、蓋叫天、潘天寿など九〇余人が殺された(原文「整死」)。一七省市の統計によれば、教育界の幹部、教師で被害を受けた者一四万二〇〇〇余人、死んだ者(「致死」)七六八二人。中国科学院の直属単位、第七機械工業部の二つの研究院と一七省市の科学技術人員のうち、五万三〇〇〇余名が被害を受けた。著名な物理学者趙九章、冶金学者葉渚沛、昆虫学者劉崇楽、理論物理学者張家燧などが痛めつけられ死んだ(「折磨而死」)。衛生部直属の一四医科薬科大学の教授、副教授六七四人のうち被害者五五六人、死んだ者(「致死」)三六人である。

3)一般民肖螤咨黒

一般民肖嗓纬潭缺缓Δ蚴埭堡郡驎い抠Y料はほとんどない。各地で頻発した武闘による死者数が問題だが、これらを含めて「文革時の死者四〇万人、被害者一億人」と推計する解説が一一期三中全会(七八年一二月)に行われた(『毎日新聞』七九年二月五日)。しかし、中国当局の公式資料には文革時の死者数の推計数字はない。たとえば“四人組”裁判の起訴状では「国家と民族にもたらした災難は推計困難なほどに大きい」と述べるにとどまっている。「歴史決議」では「建国いらい最大の挫折と損失をこうむった」としているが(決議第一九項)、具体的な数字はない。『解放軍報』の「迫害狂・江青」(八〇年一二月九日)では、「連座(原文=株連)した者は一億人に上る」とされている。家族の一人が反革命と認定されると、家族全員が反革命家族扱いされる。したがって仮りに二〇〇〇万戸の場合、一家族五人と見て一億人が連座することになる。

4)失われた世代

これらは指導者たちであるが、より重大なのは、文革期に教育を受けられず、下放した青年たちである。これについては紅衛兵論(第三部I章)を参照してほしい。

崩壊に向かう現代社会主義

文革を歴史的視野から、つまり遠景から観察して見よう。文革がピークを迎えた第九回党大会当時、つぎのように声高に叫ばれた。「毛沢東思想は、帝国主義が全面的に崩壊に向かい、社会主義が全世界的勝利に向かう時代のマルクス・レーニン主義である」(党規約)。

この一句の「帝国主義」を「社会主義」と読み替え、「社会主義」を「資本主義」と読み替えてみよう。「社会主義が全面的に崩壊に向かい、資本主義が全世界的勝利に向かう時代」と読める。こう誰かが書いたとしても、ブラック・ユーモアにならないところに二〇世紀の悲喜劇があるのではないか。資本主義社会が大きく変貌し、かつて社会主義が主張していたほとんどすべてが、資本主義体制のなかに取り込まれた。たとえば完全雇用の達成や失業、社会保障などの政策がそれである。他方、現代社会主義世界は経済発展の著しい停滞のもとで、資本主義の原理を密輸入せざるをえなくなり、いわばなしくずしに崩壊しつつある。資本主義もそれらしくなく、社会主義はもっとその名にふさわしくない──これが二〇世紀も終末に近い昨今の現実である。

根本的矛盾、根源的失敗

文革の世界史的意味とはなにか。それは中国社会主義の根本的矛盾、そして部分的に現代社会主義の矛盾を極限の形で暴露してみせたこと、その限界を誰の目にも分かる形で示したことであろう。ここで現代社会主義の矛盾というのは、あれやこれやの小さな矛盾ではない。過渡期国家でしかありえない社会主義は、つねに共産主義への展望を明確に提起すべき義務を負っている。共産主義世界における全人類の最終的解放を約束することによって成立した社会主義は、共産主義への移行の展望を示すべき道徳的義務を負っており、これは避けて通れないのである。この点が現世の利益を是認する資本主義世界と根本的相違であり、それゆえに「社会主義の資本主義に対する優越性」が認められてきたわけである。しかしながら現代社会主義はこの共産主義への移行の可能性を提起する上で完全に失敗した。これは小さな失敗ではなく、おそらくは根源的な失敗である。

毛沢東は全世界の百余の自称共産党がこの課題を忘れたとする認識に基づいて、純正な共産主義者たらんとしてこの課題に応えようとした。結果は大失敗であった。それは風車に立ち向かうドン・キホーテであったのか。それとも太陽に向かって火を盗もうとするプロメテウスの冒険であったのか。毛沢東自身は自らを孫悟空になぞらえて、孫悟空が天を騒がしたように「無法無天」に旧世界を破壊し、新世界を樹立しようとした。しかし、彼は旧世界の破壊には成功したが、新世界の樹立には失敗した。

毛沢東思想の誤り

失敗の理由はなによりもまず毛沢東自身の理論的欠陥にあるとみてよい。文革は革命家毛沢東にとって決して一時の思いつきではなく、毛沢東固有の共産主義イメージに基づく壮大な実践であることは、第二部で述べる通りである。中国の理論家たちはいま毛沢東晩期思想のどこに欠陥があったのかを再点検しようとしている。たとえば『光明日報』(一九八八年五月九日)は「毛沢東晩期思想学術研討会紀要」を載せている。キョウ育之(中共中央宣伝部副部長)は「毛沢東晩期思想」の定義の困難性に鑑みて、「プロレタリア独裁下の継続革命」理論によって文革の思想を代表させ、この誤りを批判するのがよいとしている(『在歴史的転折中』五八頁)。

石仲泉(中共中央文献研究室理論組組長)はマルクス主義理論の枠組みのなかで解釈して、毛沢東の所有制変革による共産主義移行論を「生産力基準を無視した空想論」と批判している。石仲泉によれば、毛沢東晩年の誤りは、1)生産力の発展段階を超えようとした空想論、2)社会主義段階と共産主義段階とを混同した「大過渡期論」にある(『中共党史研究』八八年一期)としている。

一党独裁制と後進性

毛沢東晩年の思想のなかに「伝統文化の影」を見出す論者も少なくない。たとえば鄭謙(中共中央党史研究室)はこんな例を挙げている(『十年後的評説』三〇八頁)。毛沢東が七三年元旦の『人民日報』社説で「深く洞を掘って、広く食糧を蓄え、覇権を唱えず」(原文=深ワァ洞、広積糧、不称覇)のスローガンを提起したことはよく知られている。実はこのスローガンは、明朝朱升の「高く牆を築き、広く食糧を蓄え、ゆっくり王を称す」(原文=高築牆、広積糧、緩称王)の換骨奪胎にほかならない。学校よりは実践のなかで真に教育される例として、孔子、秦始皇帝、漢武帝、曹操、朱元璋などを挙げて、彼らは大学に行かなかったとしばしば語った(たとえば一九七六年三月三日など)。このほか汪(水+樹)白『毛沢東思想与中国文化伝統』も毛沢東思想に対する伝統的文化の陰を強調している。

中国の理論家たちは「社会主義の初級段階」という概念を用いて、社会主義の枠を最大限に広げ、毛沢東型社会主義を相対化し、豊かな社会主義イメージを再構築しようとしているが、そこに明るい展望が開けているわけではない。「社会主義の初級段階」は「資本主義への過渡期」であるかも知れないのである(おそらくはその可能性のほうが強いであろう)。

毛沢東の「暴走」を食い止めることができなかった要因は二つある。一つは現代社会主義に固有の「民主集中制」という名の一党独裁制度である。トロツキーの「代行主義」をまつまでもなく、全人民の意思は党によって、党の意思は中央委員会、そして政治局によって、最後には書記長あるいは党主席によって「代行」されるシステムのもとでは、スターリン独裁、毛沢東独裁は不可避である。もう一つは貧困、愚昧、後進性である。大肖巫约航夥扭蛞鈬恧筏课幕蟾锩ⅰ富辘舜イ欷搿刮幕蟾锩稀⒔Y果的には貧困、愚昧、後進性を拡大再生産することに終わった。

文革が播いた民主化「動乱」の種子

文化大革命は中国人民にとって一大悲劇であった。悲劇をもたらした直接的契機は、のちに詳論するように、毛沢東の空想的社会主義モデルである。毛沢東は一方では個人崇拝を利用しつつ、自らを神のように崇拝する中国人民のために、共産主義への大道を切り開かんと奮闘したが、結果から見ると、中国人民を大きな災難のなかに投げ込んだ。こうして最も麗しい理想のために立ち上がった中国人民は、最も苛酷な現実によって復讐されることになった。しかし、そこから「虎を恐れない若者」が生まれたことが文革の成果であろう。「われわれは虎に一度は食われたが、結局食いつくされず、呑みくだされもせず、生き延びた。顔には爪痕を残している」(李一哲大字報の一句、拙著『二〇〇〇年の中国』第一部第一章)。

文革という苦い果実を食べた若者のなかから、社会主義を根底から疑う者が続出したことが、文革の最大の成果ではないか。一九八九年四~六月の民主化「動乱」の種子は文革期に播かれたのだと私は解釈している。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-15 22:49:26 | 显示全部楼层
第二部 毛沢東思想の夢と現実
1 人民公社への夢
毛沢東の生家を訪ねて

文革のナゾの核心

「社会主義中国への道」の模索

大躍進──15年でイギリスに追いつく

規模と公有化の問題点

彭徳懐の人民公社批判

増産数字の虚報

毛沢東の反撃

「反面教師」として利用

人民公社路線への断固たる確信

2 空洞化する人民公社
調整期における農業集団化の解体

人民公社の整頓──社会主義農業の動揺

「社会主義教育邉印工握归_

奪権闘争の提起

工作団による指導

邉硬渭诱撙螇埓骪

中ソ論争・中ソ対決の展開

国内党幹部への矛先

緊迫する国際情勢

大戦に備える建設投資

国防関連工業への重点

3 毛沢東の文革理念
毛沢東思想を「大きな学校」に

「五・七指示」の描いた共産主義モデル

分業廃棄、商品経済廃絶

生産力の発展段階を軽視

平等主義の陥穽

空想的社会主義

「五・一六通知」

作成経緯

「われわれの身辺に眠るフルシチョフ」

「十六カ条の決定」

大肖趣螄饨Y、自己解放

十六カ条の矛盾

「プロレタリア独裁下の継続革命」論の形成過程

高まる毛沢東崇拝

継続革命論の核心

晩年の毛沢東

周恩来と鄧小平のあいだで

夢の崩壊
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-15 22:50:14 | 显示全部楼层
第二部 毛沢東思想の夢と現実

1 人民公社への夢

毛沢東の生家を訪ねて

毛沢東の故郷は湖南省湘潭県韶山郷韶山冲にある。私は前から一度韶山参りをしてみたいと念じていたが、幸いにも一九八八年の夏休みに、中国現代史研究者のグループに加わって、この草深い農村を訪れることができた(『中国現代史プリズム』参照)。

毛沢東自身は建国後、国務、党務に多忙なため、故郷に澶蝻棨盲郡韦稀⒍丐坤堡扦ⅳ搿¥工胜铯烈痪盼寰拍炅露濉呷铡ⅳ瑜右痪帕炅乱话恕巳栅扦ⅳ搿¥筏筏长味丐趣猡藢gに重要な政治的出来事の直前にあたるのが不気味である。前者は同郷の同志・彭徳懐国防部長を解任する(五九年七~八月の廬山会議)直前、後者は文化大革命の構想を実行に移し始めた時期である。前者は人民公社という農業組織の矛盾が噴出し、混乱が表面化してきた時期である。後者は同郷の同志・劉少奇らを「反党分子、修正主義者」として、追放することに仱瓿訾筏繒r期であることが興味深い。

韶山冲の龍盤山と虎踞山に抱かれた中腹に、「滴水洞」と名付けられた毛沢東の別荘が建設されたのは一九六二~六四年である。この滴水洞にはその後、第三次世界大戦に備えて山腹をくりぬいて核シェルターまで付設された。

私は二回(八八年八月二九日および翌三〇日)このシェルターに入った。「滴水洞」の湿っぽい空気を吸いながら、私はいささか興奮した。一つは少年時代に米軍の空襲を避けるため、何度も防空壕に閉じ込められた体験を想起したからであり、もう一つはこの記憶を通じて、毛沢東が備えようとしていた核戦争の脅威を実感できたように思えたからである。平均的日本人の一人として戦後四〇数年、私は戦争をほとんど身近かなものとして意識することなく生活してきたが、毛沢東ら中国の人々にとって第三次世界大戦は遅かれ早かれ確実に発生するものなのであった。彼らはこの前提のもとに、すべての意思決定を行ってきた。

文革のナゾの核心

廬山会議で国防部長を解任された彭徳懐の生家は湘潭県石潭瓦子坪(烏石)にある。韶山冲の南東の直線距離で約三〇キロのところである。文化大革命で粛清された劉少奇の生家は寧郷県花明楼郷炭子冲にあり、韶山冲の北東の直線距離でわずか一八・五キロに位置している。つまり地図で見ると、韶山冲の右上に劉少奇の生家、右下に彭徳懐の生家がある。

この小さな三角形のなかに、中国現代史のいわば核心が凝縮されている。中国はとらえどころのないほど大きな国だが、この小さな三角形の謎を読めば、文化大革命の秘密が解けるのではないかと私は興奮したのであった。

彭徳懐は毛沢東の提唱する人民公社の欠陥を批判して、失脚させられた。劉少奇は人民公社が失敗し、食糧危機、経済危機に陥った際に、経済再建の第一線で陣頭指揮した。ここで劉少奇の採用した自由化政策が「修正主義をもたらした」との理由で毛沢東によって批判された。中国は地大物博、すなわち国土が広く、資源にも恵まれている。南と北、東と西では、きわめて大きな違いがある。だから、南北や東西で対立するのは、容易に理解できることである。しかし、いま私が説明しようとしている三人の場合はどうか。

毛沢東も彭徳懐も劉少奇も、湖南省のほとんど同じ地域の人民公社を実際に現地調査している。ほとんど同じ(場合によっては全く同じ)人民公社を視察して、一方は人民公社が成功したといい、他方は失敗したとする、全く逆の結論を導くことになったのはなぜか。文革のナゾの核心の一つはおそらくこの辺にある。毛沢東が大躍進期に彭徳懐を追放したのはなぜか。文革期に劉少奇を追放したのはなぜか。

この問に答えるためには、毛沢東の共産主義への夢を分析しなければならない。

「社会主義への中国の道」の模索

一九五六年二月二四日、フルシチョフは第二〇回党大会でスターリンの誤りを激しく批判した(いわゆるフルシチョフ秘密報告)。このとき『人民日報』は政治局会議を開いて対応を協議し、「プロレタリア独裁の歴史的経験について」(五六年四月五日)、「再びプロレタリア独裁の歴史的経験について」(五六年一二月二九日)を書いて、スターリンの誤りを個人崇拝の問題としてとらえ、こう分析した。

(スターリンは)誤って自己の役割を不適当な地位にまで誇張し、彼個人の権力を集団指導と対立する地位に置いた。 

一方では人民大肖瑲s史の創造者であること、党は大肖扔肋hに結合すべきこと、党内民主主義を発展させるためには、自己批判と下から上への批判を発展させるべきことを認めたが、他方、個人崇拝を受容し奨励し、個人専断を実行した。 

党と国家の民主集中制を徹底的に遵守し、大肖苏鎰嚖艘罀嚖筏丹à工欷小⑷膜书L期の、重大な誤りは避けることができる。

毛沢東はスターリンが一九三〇年代に「反革命の粛清」を拡大してしまった誤りから教訓を学ぼうとした。一九五七年二月二七日、毛沢東は「敵・味方」の二元論を止揚するために、「人民内部の矛盾」という考え方を提起した(講演「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」)。半年後の六月一九日に講演内容が公表されたときには、すでに反右派闘争が始まっていた。「百花斉放、百家争鳴」の自由化路線は「反右派闘争」へ暗転していた。そこで当時の政治的雰囲気に合わせ、「修正主義反対」や「プロレタリア階級とブルジョア階級のイデオロギー面での闘争は長期の、曲折した、時には激烈なものでさえある」との文言を挿入し、「階級闘争は基本的に収束した」という一句に「革命期の大規模な嵐のような、大械膜省工趣いπ稳菥浃蚋都婴筏郡韦扦ⅳ盲俊

皮肉なことに、毛沢東が講話で「嵐のような階級闘争は収束した」と語った直後に中国で嵐が発生し、彼は講話の修正を迫られたことになる。このとき、毛沢東は「百花斉放は毒草を発見するための手段であった」と弁解し、また陰证扦悉胜啤戈栔」であるとも説明したが、これは本意ではあるまい。共産党に対する予想外の不満が噴出し、毛沢東ら指導部は驚愕したのであった。彼らは直ちに反撃に転じたが、今日では「反右派闘争の拡大化」の誤りが反省されている。あれほどの「階級闘争」が必要であったのかどうか、疑問視されているわけだ。というのは反右派闘争以後、知識人は口を閉ざすようになり、党の欠点を批判しなくなったのであった。「言う者に罪なし」と約束しておいて、「(右派分子には)“言う者に罪なし”は適用されない」とまるでペテン師のような言いわけをして、「右派分子」をデッチ上げたのであった(反右派闘争の被害者はおよそ二〇万人に上る。ほとんどが鄧小平時代初期に、胡耀邦によって名誉回復された)。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-15 22:50:52 | 显示全部楼层
大躍進──15年でイギリスに追いつく

一九五七年秋、毛沢東はロシア革命四〇周年式典参加のためにモスクワを訪れ、各国の指導者を前にして、中国は一五年以内にイギリスに追いつくと宣言した。「わが国は今年五二〇万トンの粗鋼を生産できる。五年後には一〇〇〇~一五〇〇万トンとなろう。さらに五年後には三五〇〇~四〇〇〇万トンとなる。こうして一五年後にはイギリスに追いつき、追い越すことができる」と彼は説いた。毛沢東にとって、粗鋼の生産量が近代化の基準なのであった。毛沢東は「社会主義への中国の道」の模索に本格的に取り組んだ。というのは第一次五カ年計画(一九五三~五七年)は基本的にソ連のやり方を模倣したが、不満が大きかったからである。毛沢東は「あれは必要であった」、しかし「どうしてもしっくりしなかった。心がはればれしなかった」と証言している(『毛沢東思想万歳』丁本)。

毛沢東は一九五八年初夏、農業合作社の合併問題を研究していた。五五年以来の農業集団化邉婴韦胜浅闪ⅳ筏哭r業合作社をさらに飛躍的に発展させるために、「工、農、商、学、兵」を含む「大公社」に組織し、それを「社会の基本単位」にしようとする構想がひらめいた。新組織には「大公社」あるいは「人民公社」の名が浮かんだ。ちなみにパリ・コミューンは中国語では「巴黎公社」と訳されている。公社はコミューンの意味である。ただし、毛沢東の場合には「兵」すなわち民兵の役割が大きく、人民皆兵によるゲリラ戦争のための根拠地コミューンの色彩が濃厚である。五八年八月一七日から三〇日まで、夏の避暑地北戴河で政治局拡大会議が開かれた。毛沢東はこの会議で人民公社の夢を語り、「人民公社設立についての決議」が採択された。「工、農、商、学、兵の結合した人民公社の樹立は、社会主義建設を速め、しだいに共産主義に移行するうえでとるべき基本方針である」「一般には一郷を一つの人民公社とし、規模は約二〇〇〇戸が適当である」とされた。この決議が発表されるや、一一月初めまでの約三カ月間で全国農村に人民公社化が実現し、従来の七四万の農業合作社は二万六〇〇〇の人民公社に改組された。人民公社加入農家は一億二〇〇〇万戸に上った。

規模と公有化の問題点

人民公社は「共産主義への移行を目指す基礎組織」であり、行政権力と農業合作社が合体された組織(原文=政社合一)であるとされた。そこでは「生産と生活と政権」の管理が目指された。人民公社では集団労働、そして「労働点数制」による収穫の分配が全面的に行われた。生活の場では「公共食堂」が設けられた。農民は家庭での個別的な食事をやめて公共食堂で食事をとり、婦人はカマドから解放され、農場や水利工事に動員された。政権としての人民公社は、学校や養老院を経営するだけでなく、民兵による武装の任務をも担おうとしていた。

人民公社の成立はあまりにも準備不足であったために、極左偏向の誤りが少なからず見られた。第一は規模の問題である。いくつかの郷を一つの人民公社にし、戸数六千、七千という大公社さえ現れ、なかには県レベルを単位とする「連社」を提唱する動きさえあった。第二に、公有化の程度である。貧しい生産隊と豊かな生産隊の所得を公社レベルで平均分配する偏向、公共蓄積の名において、過大な無償労働を強要すること、生産隊や農民の財産を無償で公社の所有に帰することなど、が広範に行われた。こうした偏向を批判する言葉が一に平均主義、二に徴発主義(原文=一平二調)である。また私有制の残滓の一掃という名目で、自留地が集団所有制に移され、家庭副業が禁じられ、自由市場も閉鎖された。

彭徳懐の人民公社批判

三カ月足らずで全中国に人民公社を作るという、ケタ外れに熱狂的な大羞動のなかで「極左偏向」は免れなかった。この偏向に毛沢東宛て「私信」(意見書)を書いて、問題提起したのは、国防部長彭徳懐であった。

彭徳懐が大躍進に対して最初に疑問を抱いたのは、実は五八年一二月のことである。当時彼は故郷の湘潭県烏石やかつてゲリラを戦った平江などを訪れ、農民の直訴に衝撃を受けたのであった。食糧不足のもとでムリな集団労働を幹部が強要するために、子宮下垂や月経停止などの婦人病が少なくなかった。また鍋や鉄器を破壊して製鉄原料として供出する例、家屋や樹木を破壊して製鉄の燃料とするなど、行き過ぎた大羞動の欠点を目のあたりにしたのであった。しかし、彼は当時は疑問を抱きつつも、五九年四月のチベット反乱対策、その後の東欧訪問などに忙殺され、他方では毛沢東による政策の手直しに期待をつないでいたのであった。

さて五九年五月彭徳懐は東欧各国を訪問し、六月中旬に北京に帰った(アルバニアの首都チラナでフルシチョフと会っている)。帰国翌日、留守を預かる黄克眨ňt参珠L)に国内情勢を聞くと、山東省の食糧不足は出国当時よりは改善されている。甘粛省は食糧余剰の省と報告されてきたが、いまや厳しい不足である。しかし輸送力が欠如しており、食糧を撙伽胜ぁ:\姢庵貞cまで食糧輸送に動員され、空軍も動員されている。これ以上に軍を動員することは「備戦」の建前からして不可能である。そのうえ、いまやガソリンの備蓄にも問題が出てきた、という惨憺たるありさまである。

増産数字の虚報

彭徳懐は東欧旅行の長旅のため、疲労しており、廬山会議への出席を黄克栅舜铯盲皮猡椁Δ趣筏郡⒒瓶苏の勧めでやはり重い腰を上げたのであった。廬山に着くと、周小舟(湖南省第一書記)が訪ねてきた。周小舟によると、昨五八年の食糧増産数字は誇大報告だという。上級が圧力をかけるので、下層の地方幹部が「虚報」(誇大報告)を行ったのだと彼が説明してくれた(たとえば『中国報道写真展』陝西日報社編、八九年、一一三頁に大躍進期の三葉のフェーク写真がある。「子供が仱盲皮獾工欷胜しR穂」の偽造された写真などである)。周小舟はさらに「いまは公共食堂なので、大釜飯であり、薪も労働力も節約せず、浪費している。そのうえ、公共食堂制度は家庭で茶を飲むにも不便なので、大肖鲜程盲藢潳筏拼螭什粶氦颏猡盲皮い搿工仍Vえた。張聞天(外交部副部長)とは廬山で宿舎が隣だったので、散歩のときにいろいろ意見を交換した。彭徳懐が「土法製鉄〔近代的方法によるものではなく、鍛冶屋による製鉄〕は得あり、失ありだ」と述べたのに対して、張聞天は現実はもっとひどい、「あなたの評価は甘すぎるほどだ」とたしなめた(『彭徳懐元帥豊碑永存』)。こうした経緯を経て、彭徳懐は七月一三日夜、三〇〇〇字余りの私信を書いて、翌一四日朝に毛沢東のもとに届けた。

毛沢東の反撃

この彭徳懐私信に対する毛沢東の扱いは異様であった。毛沢東はこの私信に「意見書」の表題を付して印刷させ、会議用資料として配付した。そして意見書は「右傾日和見主義の反党綱領」だと厳しく批判し、「廬山で出現した闘争は、階級闘争であり、過去一〇年の社会主義革命の過程におけるブルジョア階級とプロレタリア階級という敵対する階級の生死をかけた闘争の継続である」と論断した。

事の成り行きに驚いたのは、むしろ彭徳懐の方である。廬山会議(七月二日~八月一日の政治局拡大会議と、八月二日~一六日の八期八中全会からなる四五日間の大会議)の前半、政治局拡大会議の冒頭、毛沢東は「成績は偉大、問題は少なからず、前途は光明なり」の三句で総括し、会議で討論すべき課題として、情勢、五九年の任務、六〇年の任務など、先に文書にまとめておいた一九の問題を列挙して講話を行った。この講話のあと、会議はグループ討論に移った。彭徳懐は西北小組の討論に参加した。七月一〇日、毛沢東は「情勢と任務について──廬山会議議定記録(修正草案)」を配付し、討論をよびかけていた。彭徳懐は七月一三日朝、小組会議の模様および自らの見解を毛沢東に報告しようと出かけたが、ボディガードから「主席はいましがた就寝されたばかりだ」と伝えられ、安眠を妨げてはならないと思い直し、私信を書いたのであった。

「反面教師として利用」

毛沢東が同志彭徳懐の意見書を敵による人民公社の攻撃であるかのごとく扱ったのはなぜか。二つの理由が考えられる。毛沢東にとって人民公社はいわば「共産主義の夢」なのであった。毛沢東がその夢にかけていたことは、成都会議以後一連の会議における毛沢東の活動を見れば、推測がつく。五七年一一月の訪ソ(一一月二日~二一日)から帰国した毛沢東は、五八年初めから大車輪で活動を始めた。一月、杭州会議で「工作方法六〇カ条」構想を語り、南寧会議(五八年一月一一日~二二日、九省二市党委員会書記会議)で大躍進を呼びかけ、「六〇カ条草案」を起草した。

続く成都会議(五八年三月九日~二六日、政治局拡大会議)で、社会主義建設の一連の問題を検討し、「地方工業の問題」など三七の文件を採択している。この会議で毛沢東は「フアイトを燃やし、高きを目指し、より多く、早く、立派に、ムダなく」社会主義建設を行う総路線を提起した。第八回党大会二次会議(五八年五月五日~二三日)では、工農業同時並進、中央地方工業の同時並進、大型企業中小型企業の同時並進からなる社会主義建設の総路線を決定している。こうした流れのなかで北戴河会議(五八年八月一七日~三〇日)が開かれ、人民公社設立と、一〇七〇万トンの鉄作り(五七年の生産量を五八年だけで倍増させようとするもの)が決定されたのであった。毛沢東はこの間、一貫して陣頭指揮を行った。自らが煽動して燃え上がった大羞動の熱気のなかで、毛沢東はいささか頭に血が上っていたようである。彭徳懐の手紙はこうした毛沢東に冷水を浴びせたのであった。毛沢東はむしろ、この機会をとらえて、彭徳懐を日和見主義者の代表に仕立て上げ、反面教師として利用しようとしたものと考えられる。「反面教師」というのは、悪い例を示すことによって、奮闘目標を明確にする手段とすることである。

人民公社路線への断固たる確信

もう一つの理由は、彭徳懐がチラナでフルシチョフと会ったことである。国防部長彭徳懐が「中ソ蜜月」時に同盟国のリーダーに会ったところで、何の不思議もない。しかし、毛沢東はこのとき、「社会主義への中国の道」を提起することによって、共産主義世界におけるフルシチョフの権威に挑戦しようとしていた。社会主義建設の総路線、とりわけ人民公社はその有力な武器なのであった。彭徳懐が人民公社にクレームをつけたとき、毛沢東は彭徳懐の背後にフルシチョフの顔を見たはずである。むろん彭徳懐がフルシチョフと組んで、毛沢東打倒を考えたなどというのは、憶測も甚だしい。彭徳懐は国防部長解任後、毛沢東を訪ねて、1)私はいかなる情況下でも反革命はやらない、2)いかなる情況下でも自殺しない(自殺は処分に対する「抵抗」の意思表示と受け取られる)、3)今後は生産労働を行い、自力で生活する、の三カ条を誓約している。彭徳懐から見たボス毛沢東とのつきあい方がよく分かるであろう。他方、毛沢東は解任六年後の六五年九月二三日、彭徳懐と会って、「三カ条の誓約」を聞かされ、こう答えている。「後の二カ条は私はまだ覚えている。〔廬山会議の論争において〕真理はあなたの側に在ったかもしれぬ」と。つまり、ここで毛沢東は彭徳懐の意見書の正しさを事実上認め、にもかかわらず彼を処分してしまった自己の誤りを示唆しているわけである。しかし、毛沢東は彭徳懐にシャッポを脱いだわけではない。総路線は基本的に断固として擁護さるべきものである。誤りは部分的なものにすぎないというのが、毛沢東の確信なのであった。これが人民公社問題をめぐる毛沢東と彭徳懐の対決物語である(蘇暁康ほか「ユートピア祭:一九五九年廬山の夏」『華人世界』八九年一期は、興味深いノンフィクションである)。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-15 22:52:15 | 显示全部楼层
2 空洞化する人民公社

調整期における農業集団化の解体

五九年二月の第二次鄭州会議で「三級所有制、隊を基礎とする」方針が決定された。ここでいう「隊」とは、生産大隊であり、人民公社レベルでのドンブリ勘定をやめて、旧生産大隊レベル(二〇〇~三〇〇戸からなる。旧高級農業合作社に相当する)に下ろしたのであった。六一年九月の毛沢東の「党内通信」以後、「三級所有制、隊を基礎とする」方針の「隊」が生産大隊ではなく、「生産隊」(二〇~三〇戸からなる。旧初級農業合作社に相当する)を指すようになった。こうして、五八年の大躍進は人民公社という形は残ったものの、五九年初めにすでに手直しが始まり、六一年秋の時点では経済計算の単位(原文=基本核算単位)に関するかぎり、五五年段階にまで後戻りしていたことになる。

劉少奇、Deng Xiaoping ら第一線の指導者たちは、毛沢東が第二線に退いた後を襲って、指導部の全面に立って、六一年一月、「調整、強化、充実、向上」の政策を掲げたのを皮切りに、大躍進の失敗をつくろう仕事に全力を挙げていた。

一九六二年一月、七〇〇〇人大会で毛沢東は「社会主義建設において経験が不足していた」と自己批判するとともに、このような混乱がもたらされた原因が民主主義の不足にあるとして、民主主義の発揚を呼びかけている。

他方、劉少奇は経済困難は「三分が天災、七分が人災である」、「人民公社はやらない方がよかった」、「彭徳懐同志の意見書は、やはり事実に合致していた」(「七〇〇〇人大会における講話」『選集(下)』)などと述べた。Deng Xiaoping は「党内闘争に偏向が生じ、一部の幹部を誤って処分した」と反省した。

大躍進や人民公社路線の失敗は明らかであった。毛沢東の指導権は大きくゆらいだ。こした潮流を毛沢東は逆流と認識した。そして一九六二年九月、「絶対に階級闘争を忘れるな」と訴え、大躍進や人民公社を批判する同志を階級闘争の対象と考えるようになった。もはやスターリンの粛清の誤りという教訓は忘れられ、スターリンの階級闘争激化論と類似した社会主義社会における階級闘争論が主張されるようになった。つまり、五六年にスターリンの誤りを批判した毛沢東は、六二年には早くもスターリンの誤りを繰り返し始めたことになる。

人民公社の整頓──社会主義農業の動揺

毛沢東は人民公社の設立に共産主義への夢を託したが、矛盾に気づかなかったわけではない。早くも一九五八年末から人民公社の整頓邉樱ā刚L整社」)に取り組んでいる。整頓邉婴悉膜稳膜味坞Aに分けられる。

第一段階。一九五八年末の八期六中全会から一九五九年七、八月の廬山会議まで。

この段階の整頓邉婴掀骄髁x、徴発主義、「共産風」によってもたらされた経済的混乱を是正することに重点が置かれた。幹部の作風や階級闘争の問題にも目が向けられたが、地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子と同列視されることはなかった。

第二段階。一九五九年の廬山会議から一九六〇年冬の「一二カ条緊急指示」通達まで。この段階になると、整風整社邉婴嫌覂A日和見主義邉臃磳潳韧瑫rに行われ、人民公社の基層幹部の問題と社会的な階級闘争とが結びつけて扱われるようになった。

基層幹部の官僚主義をあばくだけでなく、幹部の「組織不純」問題に注意が向けられ、農村基層政権には反革命分子、富農分子、悪質分子が少なくない、それゆえにこそ一部の生産隊は貧困隊になったのだと認識されるようになった。こうして人民公社(生産大隊、生産隊)を三種類に分類し、三類の人民公社の幹部は政治的に信用できないとした。しかし、この段階では邉婴沃行膜掀骄髁x、徴発主義是正という経済闘争に置かれていたために、基層幹部問題での極左的政策はまだ登場しなかった。

第三段階。一九六〇年一一月の「緊急指示一二カ条」から一九六三年二月の中央工作会議まで。

人民公社整頓邉婴沃行膜U済から政治に移り、基層幹部と基層政権に対する懐疑が深まり、「奪権闘争」が提起され始めた。単幹風批判と奪権闘争が結びつけて論じられ、人民公社整頓邉婴险芜動化した。

「社会主義教育邉印工握归_

一九六三年五月の杭州会議から文革の開始まで三年にわたって「社会主義教育邉印工肖铯欷俊¥长欷馊膜味坞Aに分けられる。

第一段階。一九六三年五月から一九六四年五月まで。

党中央は二つの重要会議を開いて、この問題を討論した。一九六三年五月二日~一二日、毛沢東は杭州で一部の政治局委員と大行政区書記(当時全中国を六つの行政区=協作区に分けていた)の参加する小型会議を開いた。この会議で「当面の農村工作における若干の問題についての決定(草案)」(いわゆる「前十条」)が採択され、社会主義教育邉婴尉V領的文件とされた。このなかで先鋭な階級闘争の状況が九カ条にわたって列挙され、こう断言された。「一部の人民公社、生産大隊の指導権は、実際には彼らの手中にある。その他の機関の一部の環節にも彼らの代理人がいる」。また「前十条」には毛沢東のつぎのコメントが引用された。「(階級闘争をつかまなければ)地主、富農、反革命分子、悪質分子、妖怪変化が一斉に飛び出してこよう。多くの者は敵見方の区別がつかず、敵に腐蝕させられ、瓦解させられ、引きずりだされ、殴りこまれる」「少なければ数年、十数年、長くとも数十年のうちに不可避的に全国的な反革命復活が行われ、マルクス・レーニン主義の党は必ず修正主義の党に変質し、全中国が変色してしまうだろう」(この一句は「九評」にも引用された)。

まもなく党中央は九月五日~二七日、北京で中央工作会議を開いた。会議は「農村の社会主義教育邉婴摔堡肴舾嗓尉咛宓恼撙摔膜い皮螞Q定」(「後十条」)を採択し、「前十条」の補充とした。

たとえば「前十条」は「九五%以上の幹部と団結し、九五%以上の大肖葒饨Yすることが前提条件である」としていたが、この点について「後十条」は「誤りを犯した幹部に対しては教育を主とし懲罰を輔とする。(資本主義)復活を行う階級敵とぼんやりして敵に利用された後れた大肖趣锨鴦eする。投機活動と正当な自由市場活動は区別する」など政策の境界を明らかにしている。ここで注目すべきことは、この段階では社会主義教育邉婴悉蓼涝嚨悚蜻xんでの試行にとどまっていたことである。

奪権闘争の提起

第二段階。一九六四年五月~一九六四年末まで。

この段階で邉婴显嚨悚味坞Aから全国的に拡大され、矛先は主として幹部と党内に向けられるようになった。一九六四年五月一五日~六月一七日、党中央は北京で工作会議を開いて、「中華人民共和国貧農下層中農協会組織条例(草案)」を採択した。毛沢東はこの会議で六月一六日に「農村と都市の約三分の一の権力はわれわれの手ではなく、敵の手に握られている」と述べて、中央にも修正主義が現れると危惧し、もし現れたら抵抗しなければならないと問題を提起した。劉少奇は一年来の邉婴袱筏胜ぴ颏仙蠈訋植郡陇虮婴盲皮い毪椁坤趣贰⑥r村革命の「妥協風」を批判し、大肖虬k動して奪権闘争を行う必要があると述べた。六四年八月下旬、劉少奇は各中央局第一書記を集めた会議で「後十条」を修正した。これに毛沢東が朱筆を加える過程で、階級敵は「反革命の両面政権を樹立しようとしている」など状況認識はますます激しくなり、「今回の邉婴贤恋馗母铯瑜辘鈳诠牑巧羁踏蚀笮邉婴扦ⅳ搿工趣丹欷毪酥沥盲俊>旁乱话巳铡ⅰ羔崾酢工涡拚莅袱逻_され、「すべての邉婴瞎ぷ麝牑沃笇Г摔瑜辍埂复蟊鴩庾鲬椤工摔瑜盲菩肖铯欷毪长趣摔胜盲俊¥工胜铯粮魇·扦系厍欹佶毪騾g位として工作隊を重点県に集中し、上下左右から同時に点検を行うわけである。

工作隊による指導

毛沢東が奪権闘争を提起すれば、下からはこれに呼応する動きが出てくる。六月二三日に党中央は甘粛省党委員会の「白銀有色金属公司の指導権奪還についての報告」を通達したが、そこには白銀公司が地主ブルジョア階級グループの統治する独立王国になり、社会主義所有制はブルジョア所有制に変質していたと書かれていた。この事件では数百名の幹部と大肖┳铯诉B座した。

天津市南郊外の小站地区では三つの党支部が反革命集団とされ、二五〇余人がメンバーにデッチあげられ、残酷な闘争にかけられたが、陳伯達が捏造したものとされている。一〇月二四日、党中央は「社会主義教育邉婴螉Z権闘争の問題についての指示」を発出し、敵に指導権を簒奪されたところ、堕落変質分子が指導権を握っているところでは「奪権闘争を行うべし」と指示した。一一月一二日、党中央は「問題の重大な地区で貧農下層中農協会が権力を行使することについての批示」を発出し、さらに翌一三日には「農村の社会主義教育邉婴喂ぷ鲊猡沃笇叵蓼摔膜い皮我幎ǎú莅福工蛲ㄖ筏皮い搿9ぷ鲊猡嗡冥筏皮い氡hでは、県党委員会および県人民政府は工作団党委員会の指導に従い、県内の各公社もその指導に従うべきものと決めたものである。これ以後、工作団による奪権闘争が邉婴沃鳏誓谌荬趣胜盲俊

邉硬渭诱撙螇埓骪

毛沢東は一二月五日、あるコメント(瀋陽冶煉工場での謝富治の蹲点報告に対する批示)のなかで「われわれの工業は経営管理の面で結局どれほど資本主義化しているのであろうか。三分の一か、二分の一か、それとももっと多いのか。一つ一つ調査し改造して初めて分かる」と書いている。一二月一二日には「官僚主義者階級」の語を用いている(洛陽トラクター工場での蹲点報告を書いた陳正人に対する批示)。

社会主義教育邉婴悉嗓纬潭趣我幠¥切肖铯欷郡韦9I面では六四年五月の中央工作会議以後、各級党委員会が一三万人の工作隊を組織して一八〇〇余の企業で四清邉婴蛐肖ぁ⑦動参加者は職員労働者の三・九%に達した。農村では全国三分の一の県で行われ、二〇〇万人の幹部がこの邉婴瞬渭婴筏俊

第三段階。一九六五年一月から一九六六年前半まで。

六四年一二月一五日から六五年一月一四日まで政治局の全国工作会議が開かれ、「農村の社会主義教育邉婴韦胜扦い尢崞黏丹欷皮い肴舾嗓螁栴}」(「二三カ条」)が採択された。「この邉婴沃氐悚系衬冥韦ⅳ钨Y本主義の道を歩む実権派をたたくことにある」という規定はこれに書き込まれた(魏維鈞論文『党史研究』八四年六期)。

こうして、人民公社の整頓を行う過程で、「修正主義者による指導権の奪権」という観念が生まれ、マルクス主義による再奪権の闘争が構想されたのであった。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2005-10-15 22:52:38 | 显示全部楼层
中ソ論争・中ソ対決の展開

中国農村の指導権の二分の一が修正主義の手に奪われたとする実態認識は穏やかなものではない。社会主義体制のもとで平和的な資本主義復活がなしくずしに進行しているとする事実認識はどのような経緯で生まれたのであろうか。ここで見落とすことのできないのは中ソ論争、中ソ対決である。

毛沢東の「修正主義」認識はまずソ連社会論から出発した。すなわち盟友の中国社会主義を裏切り、アメリカ帝国主義に屈伏するソ連は修正主義によって、指導権を奪われたからだと毛沢東は認識したのであった。こうして観点から社会主義教育邉酉陇沃泄维F実を見直すと、「内なる修正主義」現象があふれていた。毛沢東曰く、全国の約三分の一はすでに修正主義に変質している、指導者も中央レベルから基層レベルまで約三分の一が修正主義に堕落した、と。

毛沢東が人民公社のアイディアを自負しつつ、ソ連のコルホーズ、ソフホーズの不徹底さを批判し、翻って中国の幹部たちをゴリゴリの官僚主義者(原文=死官僚主義者)と難詰したのは、一九六〇年後半から六一年にかけてである。

一九六三年九月六日、中ソ論争の第一評「ソ連共産党指導部とわれわれの分岐の由来と発展」の発表に前後して北京では中央工作会議が開かれていた。毛沢東はこう述べた。

農村の社会主義教育邉婴榷际肖挝宸催動は、国内の反修正主義の基礎を固めるものであり、国際的な反修正主義、国内の階級闘争拡大と結合しなければならない。 

これ以後、社会主義教育邉婴蛲à袱啤⑿拚髁x発生の社会的基礎をなくすという言い方が党内文件にしばしば登場するようになった。このとき毛沢東は、階級闘争をカナメとするスローガンを提起している。ユーゴが官僚ブルジョア階級によって支配されるに至ったと非難したのは「ユーゴは社会主義国家か」(三評、六三年九月二六日)においてである。「フルシチョフのエセ共産主義とその世界史的教訓」(九評、六四年七月)では特権階層なる概念を提起している。

国内党幹部への矛先

第九評発表の一カ月前に開かれた中央工作会議(一九六四年五月一五日~六月一七日)では劉少奇が現代修正主義反対の報告を行い、すべての社会主義国家において修正主義あるいは資本主義の復活がありうるとする考え方を提起しているが、皮肉なことに劉少奇自身がまもなく現代修正主義者扱いされることになる。一九六四年一二月、陳正人の蹲点報告へのコメントのなかで、毛沢東は官僚主義者階級という言葉を提起している。

官僚主義者階級と労働者階級および貧農下層中農とは、鋭く対立する二つの階級である。 

資本主義の道を歩むこれらの指導者たちは、労働者の血を吸うブルジョア分子に変わり果てたか、あるいは変わりつつある。  

これらは闘争対象であり、革命対象である。

一九六五年一月、中央政治局は全国工作会議を開いて「農村の社会主義教育邉婴韦胜恰ⅳい尢崞黏丹欷皮い肴舾嗓螁栴}」(二三カ条)を採択したが、こう述べている。

今回の邉婴沃氐悚稀⒌衬冥韦ⅳ钨Y本主義の道を歩む実権派である。 

党内の資本主義の道を歩む実権派は四清邉婴未驌膜沃氐銓澫螭扦ⅳ搿!

ある者は下におり、ある者は上にいる。地方にいるだけでなく、中央にもいる。党の各級組織のどこにもいる。     

こうして階級闘争の矛先は党中央の幹部にまで向けられた。Deng Xiaoping が文革後に証言したところによれば、毛沢東は北京には二つの独立王国すなわち劉少奇の政治局とDeng Xiaoping の中央書記処があると批判し始めた(『Deng Xiaoping 文選』二六〇頁)。以上から分かるように、毛沢東は中ソ論争におけるソ連修正主義を見る眼で、中国国内の階級闘争を見ていた。さらに「レーニン主義か、社会帝国主義か」(『人民日報』一九七〇年四月二二日)では官僚独占ブルジョア階級の用語を用いている。一九七五年にはこれを中国国内に適用して、「ブルジョア階級は(共産)党内にいる」と断定したのであった。

緊迫する国際情勢

毛沢東が修正主義者による権力の簒奪という危機感を深めていた、まさにこのときに、中国は「四面楚歌」の状況に直面していた。

中ソ対決に伴う中ソ国境の緊張はいうまでもない。中国インドの国境では、一九六二年一〇月、中印国境紛争は双方の武力衝突にまで発展した。台湾当局による武装特務の派遣も頻繁になった。台湾の国民党当局は経済困難と中ソ関係断絶の機に仱袱啤⒁痪帕瓿酩幛椁筏肖筏小肝渥疤貏铡工虼箨懁伺汕菠贰ⅴ播辚榛顒婴蛐肖ぁ⑻ㄍ搴O郡o張した。こうしたなかで、トンキン湾事件が発生した。一九六四年八月二日、米国防総省は北ベトナム沿岸で米駆逐艦が攻撃を受けたと発表し、アメリカによる北ベトナム攻撃が始まった。中国は「唇亡べば歯寒し」と危機感を強めた。ベトナム戦争における北爆が中国にまで拡大される危機が懸念された。

中国は国防対策を再検討して、国防三線建設の構想を固めた。国防を第一線(沿海地区およびソ連国境)、第二線(第一線に対する兵站地域)、第三線(第一線、第二線が破壊された場合の最後の抵抗ライン。四川省を中心とする内陸部に設けられた。大三線ともいう)に分ける計画が具体化した。

一九六四年八月一七日および二〇日に、毛沢東は中央書記処会議を開き、内地建設問題についてこう指摘した。

帝国主義が侵略戦争を発動する可能性があるので、準備しなければならない。現在、工場は大都市と沿海地区に集中しているのは戦争に備えるうえで不利である。工場は急いで内地に移す必要がある。各省とも引越しし、自らの戦略的後方を建設する必要がある。工業交通部門が引越しするばかりでなく、学校、科学院、設計院、北京大学も引越しする必要がある。 

成昆(成都・昆明)、湘黔(四川・貴州)、テン黔(雲南・貴州)、これら三本の鉄道建設を急ぐべきである。レールが足りないならば、他の路線から外したらよい(『経済大事記』三七九頁)。

大戦に備える建設投資

六四年一二月七日、毛沢東の許可を得て国家計画委員会が関係部門に下達した「長期計画編制案」は第三次五カ年計画(一九六六~七〇年)の当初計画変更についてこう指摘した。1)攀枝花(四川省渡口市)、酒泉、重慶を中心とする建設(いわゆる「大三線建設」)を速めるために投資を三八億元増やす。2)成昆鉄道など戦略的鉄道建設の投資を四二億元増やす。3)省レベルの「後方建設」(大三線に対して「小三線建設」という)のために、三〇億元増やす。このほか関連産業の建設のために二〇〇億元投資を増やし、結局総投資規模を五カ年で約一二〇〇億元とする。そして基本建設投資において旧来のノルマで計算するのではなく、設計革命、技術革命を重んずること、農業は大寨精神に、工業は大慶精神に学ぶよう呼びかけたのであった(『経済大事記』三八五頁)。

一九六五年二月二六日、中共中央、国務院は三線基地たる西南建設の体制問題について、こう決定した。1)地域建設にかかわる総合プロジェクトは大慶油田式の集中指導を行い、中央の国務院主管部が責任をもって統一指揮をとり、各省レベルと国務院の多部門が協力して行う。2)攀枝花特区党委員会、工地指揮部は冶金工業部が統一指導を行う。3)重慶地区を中心とする部品建設指揮部は主管の機械工業部が統一指導する。4)西南建設の指導を強化するために、西南建設委員会を成立させる。西南建設委員会の主任は李井泉、副主任は程子華、閻秀峰であった。

一九六五年八月二一日、国家建設委員会は北京で全国移転(原文=搬遷)工作会議を開き、第三次五カ年計画期の移転問題を討議した。大戦に備え、早戦に備える(原文=準備大打、早打)、分散、隠蔽などの原則が決定された。一九六五年九月一八日~一〇月一二日、北京で中共中央工作会議が開かれ、三線建設の加速が決定された(『経済大事記』三八九頁、『党史大事年表』三三八、三四〇頁)。

国防関連工業への重点

一九六五年一〇月一三日~一一月一五日、全国計画会議が開かれ六六年の国民経済計画が討論された。鉄鋼業は、攀枝花、酒泉、武漢、包頭、太原の五大鉄鋼コンビナートを重点的に建設すること、国防工業に服務する一〇箇所の移転および継続建設プロジェクトが決定された。炭鉱建設の重点は六枝、水城、盤県(いずれも貴州)など一二鉱区に置かれること、水力発電所、火力発電所九九箇所(容量は一五三万キロワット)の建設が決定された。重点は四川の映秀湾、咀、甘粛の劉家峡などの水力発電所、四川の夾江、湖北の青山などの火力発電所である。さらに四川の天然ガス、華北油田?と大慶油田の建設に力が入れられた。機械工業の重点は四川の徳陽重機械工場、東風電機工場、貴州ベアリング工場および通常兵器の部品工場である。化学工場も国防関連が優先された。

一九六五年一一月一三~一九日、毛沢東は山東、安徽、江蘇、上海などを視察し、戦備工作を強調した。

戦争が始まったら、中央に頼ることはできない。地方の自力更生に頼らなければならない。早急に後方を建設しなければならず、三、五年内にこれをやる。食糧と綿布を準備し、自分で粗鋼を作り、武器を作る。塹壕を作り、防御し、防空壕を掘らなければならない。 

軍隊は過去の三大伝統を回復すべきであり、戦闘、生産のほかに大泄ぷ鳏猡浃椁胜堡欷肖胜椁胜ぁ7擒娛鹿ぷ鞯5闭摺苍模降胤焦ぷ鞯摹长廛娛陇颏浃辍④婈牴ぷ髡撙夥擒娛鹿ぷ鳌苍模降胤焦ぷ鳌长颏浃椁胜堡欷肖胜椁胜ぁJ臣Z生産に力を入れなければならない。さもないと戦争が起こったらどうするのか? 豚はやはり増やさなければならない。一頭の豚は一つの化学肥料工場に匹敵する。

こうして拍車のかかった三線建設のピークは二つある。第一次ピークは一九六五~六六年である。文革の前夜と重なる。第二次ピークは一九六九~七一年である。珍宝島での中ソ武力衝突が危機感を高め、林彪事件、ニクソン訪中が建設熱をさますまでの時期である(閻放鳴「三線建設述評」)。

中国内外の修正主義者による奪権、そうした状況のもとでの国防の危機こそが文化大革命発動の客観的情勢である。国際的に危機が存在するから国内的に団結すべきだとする見解を毛沢東は排する。国際的な敵が存在する状況のもとで、国内に隠れた敵が存在するならば、そのほうがもっと危険ではないかと考えたはずである。むしろ、国際的な危機が深まったときこそ、それと真に対決するのか否かをめぐって、革命家か修正主義者かが識別できると毛沢東は考えたごとくである。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-2-8 19:09:14 | 显示全部楼层
3 毛沢東の文革理念
毛沢東思想を「大きな学校」に

「五・七指示」の描いた共産主義モデル

分業廃棄、商品経済廃絶

生産力の発展段階を軽視

平等主義の陥穽

空想的社会主義

「五・一六通知」

作成経緯

「われわれの身辺に眠るフルシチョフ」

「十六カ条の決定」

大衆との団結、自己解放

十六カ条の矛盾

「プロレタリア独裁下の継続革命」論の形成過程

高まる毛沢東崇拝

継続革命論の核心

晩年の毛沢東

周恩来と鄧小平のあいだで

夢の崩壊
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-2-8 19:13:36 | 显示全部楼层
3 毛沢東の文革理念

毛沢東思想を大きな学校に

毛沢東の考えた文化大革命とは、いったい何であったのか。文化大革命の綱領的文件とされているものはいくつかある。たとえば「五・七指示」、「五・一六通知」、「一六カ条の決定」、「継続革命の理論」などである。これらのうち毛沢東の発想の原点が明確に現れているものと、毛沢東の発想を踏まえて文革派の理論家たちが理論化したものと二つの系列に分けられる。ここで「五・七指示」は毛沢東の発想の原点が色濃く現れており、後三者は中共中央の決定あるいは『人民日報』の社説として書かれているため、内容がより整理されている反面、毛沢東の発想は輪郭が曖昧になっている。そこでまず「五・七指示」から毛沢東の文革構想をとらえて見よう。

これは解放軍総後勤部の農業副業生産についての報告に対するコメント(原文=批示)として、毛沢東が林彪宛て書簡の形で書いたものであるが、これはむろん単なる私信ではない。私信の形をとって毛沢東の政治的抱負を示したものであり、林彪はいわば側近として、この私信の公表を命じられたに等しい。これは六六年五月一五日に全党に「通知」されたが、その際に歴史的意義をもつ文献であり、マルクス・レーニン主義を画期的に発展させたものと説明されていた。そして六六年八月一日付『人民日報』社説(「全国は毛沢東思想の大きな学校になるべきである」)のなかで、その基本的精神が説明された。社説はいう。

毛沢東同志はわが国社会主義革命と建設の各種の経験を総括し、十月革命以来の国際プロレタリア階級とプロレタリア独裁の各種の経験を研究し、とりわけソ連フルシチョフ修正主義集団が資本主義復活を実行した重大な教訓を吸収し、資本主義の復活をいかに防ぎ、プロレタリア独裁を強固にし、逐次共産主義に移行するのを保証するかの問題に、科学的な答案を創造的に作り出した。 

毛沢東同志の提起した各業各界が工業も農業もやり、文も武もやる革命化した大きな学校とする思想こそがわれわれの綱領である。

この社説から当時の「五・七指示」の意義付けが知られる。

「五・七指示」の描いた共産主義モデル

「五・七指示」は毛沢東の共産主義イメージを語った最も重要な文献の一つである。短いものであるから、段落に分け、タイトルをつけて全文を引用して見よう。

1)世界大戦の有無にかかわりなく「大きな学校」を作ろう。 

世界大戦が発生しないという条件のもとで、軍隊は大きな学校たるべきである。第三次世界大戦という条件のもとにあっても、大きな学校になることができ、戦争をやるほかに各種の工作ができる。第二次世界大戦の八年間、各抗日根拠地でわれわれはそのようにやってきたではないか。

2)軍隊は「大きな学校」たれ(共産主義への移行形態としての「大きな学校」)。

この大きな学校は、政治を学び、軍事を学び、文化を学ぶ。さらに農業副業生産に従事することができる。若干の中小工場を設立して、自己の必要とする若干の製品、および国家と等価交換する製品を生産することができる。この大きな学校は大衆工作に従事し、工場農村の社会主義教育運動に参加し、社会主義教育運動が終わったら、随時大衆工作をやって、軍と民が永遠に一つになることができる。また随時ブルジョア階級を批判する文化革命の闘争に参加する。こうして軍と学、軍と農、軍と工、軍と民などいくつかを兼ねることができる。むろん配合は適当でなければならず、主従が必要である。農、工、民の三者のうち、ある部隊は一つあるいは二つを兼ねうるが、同時にすべてを兼ねることはできない。こうすれば、数百万の軍隊の役割はたいへん大きくなる。

3)労働者のやるべきこと。

同様に労働者もこのようにして、工業を主とし、兼ねて軍事、政治、文化を学ぶ。社会主義教育運動をやり、ブルジョア階級を批判しなければならない。条件のあるところではたとえば大慶油田のように、農業副業生産に従事する必要がある。

4)農民のやるべきこと。 

人民公社の農民は農業を主とし(林業、牧畜、漁業を含む)、兼ねて軍事、政治、文化を学ぶ。条件のあるときには集団で小工場を経営し、ブルジョア階級も批判する。5)学生のやるべきこと。 

学生も同じである。学を主とし、兼ねて別のものを学ぶ。文を学ぶばかりでなく、工を学び、農を学び、軍を学び、ブルジョア階級を批判する。学制は短縮し、教育は革命する必要がある。ブルジョア知識人がわれわれの学校を統治する現象をこれ以上続けさせてはならない。

6)第三次産業のやるべきこと。 

商業、サービス業、党政機関工作人員は条件のある場合にはやはりこのようにしなければならない。

7)この構想の性格について。 

以上に述べたことは、なんらかの新しい意見だとか、創造発明だとかではなく、多くの人間がすでにやってきたことである。ただ、まだ普及されていないだけなのである。軍隊に至ってはすでに数十年やってきたが、いまもっと発展しただけのことである。

分業廃棄、商品経済廃絶

「五・七指示」の思想を分析してみよう。第一は分業の廃棄である。マルクスは『ゴータ綱領批判』のなかで、分業から解放され、個人が全面的に発展する社会を構想している。毛沢東はここでマルクスにならって、分業の廃棄を強く打ち出していることは、これらの引用に明らかであろう。ただし、マルクスは資本主義社会の到達した高度の生産力を前提として分業の廃棄を考えたが、毛沢東の場合は中国の後れた経済、自然経済を多分に残した段階でそれを提起した点が大きな違いであろう。この生産力の発展段階を軽視した点でいえば、毛沢東は空想的社会主義者であったとする非難もありうる。ただし、毛沢東自身は生産力の発展を追求しなかったわけではない。生産関係の変革を通じてこそ生産力を飛躍的に発展させうるのだというのが毛沢東の信念であった。

第二は商品経済廃絶の思想である。分業が廃絶されれば、分業に伴う労働生産物の交換すなわち商品経済は不要になる。この意味で分業の廃棄と商品経済の廃絶とはメダルの両面ではあるが、過渡期においていずれを戦略的課題として提起するかはまた別の問題である。一九六六年に毛沢東が提起した「大きな学校」という観念は、彼が一九五八年に提起した人民公社構想と酷似している(都市人民公社は最終的に放棄されたが、構想としては存在していたことに留意しなければならない)。すなわち両者ともに共産主義へ至る過渡期の組織形態である。ところが「人民公社」と「大きな学校」の間に大きな違いが少なくとも一つある。それは人民公社が「工・農・商・学・兵」の五つを備えたコミューン構想であったのに対して、「大きな学校」は「工・農・学・兵」の四つであり、商業が除外されている。ここに、毛沢東の思想的変化が反映されていると見る論客もある(王禄林論文『党史研究』八七年二期)。

生産力の発展段階を軽視

大躍進期における毛沢東の商品経済観点は二転三転している。五八年一一月には賃金制度の廃止、供給制度の復活、すなわち月給による消費財の購買ではなく、消費財の貨幣によらざる分配を主張している(『万歳』二五〇頁)。しかしまもなく、経済困難に直面して商品生産は多すぎるのではなく、少なすぎるとも述べている(『万歳』丙本一二一頁)。

その後、六〇年代初期の思索と研究を経て、共産主義への移行を早めるためには、商品生産と貨幣交換制度を逐次廃止しなければならないと考えるに至った。ここで登場したのが自給自足(あるいは半自給自足)による「大きな学校」構想であった。一九六六年に五・七指示によってこの構想にたどりついて以後、毛沢東はもはや動揺することなく、断固として商品経済の廃絶の道を彼なりの歩き方で歩み始めた。それから一〇年後の一九七五年二月、毛沢東は有名な理論問題についての指示を発表した。「八級賃金制、労働に応じた分配、貨幣交換、これらは旧社会といくらも違いがない」(『人民日報』七五年二月九日)。この問題について毛沢東がいかに一貫していたかを端的に示す重要証拠である。

商品経済は自然経済から発展し、やがて商品形態が廃絶され、産品経済によって代替されるというのがマルクス主義の正統的な考え方であることを毛沢東が理解しなかったわけではない。しかし、中国の遅れた現実を観察すると、そうしたプロセスで共産主義への移行を考えるならば、移行を単に将来に引き延ばすだけのことになり、ほとんど現実性がない。そこで毛沢東は一方では商品経済の不足、すなわち商品経済の発展を論ずるとともに、他方で商品経済の制限を論ずるという二正面作戦を展開した。毛沢東の頭脳のなかでも両者は矛盾を引き起こしていたが、それが具体的な政策として展開されるや、混乱は必至であった。現実には商品経済の廃棄こそが共産主義への道であるとする認識から、事実上はこの路線をひたすら走り、生産力の発展を軽視する結果に終わった。

中国共産党の理論家たちが商品経済の十分な発展は、飛び越えることのできない発展段階であると認識し、それを党中央の公認見解としたのは、一九八四年一〇月「経済体制改革につての決定」においてである事実に注目したい。毛沢東のドグマはその後二〇年近くにわたって彼らの思考を束縛していたことになる。

平等主義の陥穽

第三の特徴は平等主義(原文=平均主義)である。毛沢東が社会的分業を廃棄し、商品経済を廃絶しようとした根本的目標は、労働者と農民、都市と農村、肉体労働と精神労働の差異を逐次縮小していく(『人民日報』六六年八月一日社説)ためであった。これらの「三大差異」の消滅した社会こそが共産主義社会であると理解されていた。これが共産主義の理想であることは確かであろう。問題はそこへ至る道筋である。正統的なマルクス主義は、三大差異の根拠を生産力の発展段階と結びつけているから、三大差異の廃絶をただちに提起することはしなかった。しかし、実践的な革命家たる毛沢東はこうした日和見主義を排して、生産力の十分な発展を待つことなしに三大差異の廃絶が可能であると考えた。貧しきを憂えず、等しからざるを憂うるという平等主義が社会主義の理念として強調された結果、生産力の発展よりは、平等化の方向に政策の重点が置かれ、生産力の発展が結果的に大いに損なわれたわけである。

空想的社会主義

毛沢東がこのような共産主義モデルに到達したのはなぜか。まず第一にマルクス主義の共産主義文献の読み方、そして変革対象たる資本主義世界の認識の問題がある。マルクスは資本主義のもとでの生産力の高度な発展を前提として共産主義を構想していたが、毛沢東はこの点を軽視していた。ここで決定的なのは、彼が第二次大戦以後の資本主義世界の実情をよく知らなかったことである。それどころか彼はレーニンの帝国主義論を金科玉条としており、第三次世界大戦不可避論を死ぬまで信じていた。毛沢東の外国体験はソ連を二度(一九五〇年、一九五七年)訪問しただけであり、資本主義諸国は一度も訪れたことがなかった。これらの情報不足が毛沢東の認識にとって大きな制約となったことは明らかである。

第二に中国革命の成功の経験に眩惑されたことが挙げられよう。ここから客観的法則を軽視する主観主義が生まれた。主観能動性の哲学は、毛沢東の真骨頂だが、これが空想論に飛躍し、空想的社会主義に陥った。

五・七指示の末尾で、毛沢東は「以上に述べたことは、なんらかの新しい意見だとか、創造発明だとかではなく、多くの人間がすでにやってきたことである。ただ、まだ普及されていないだけなのである。軍隊に至ってはすでに数十年やってきたが、いまもっと発展しただけのことである」と書いているが、ここには延安時代の経験を全中国に拡大しようとしていること、抗日戦争時代の経験を社会主義建設に適用しようとしていることが端的に示されている。

第三に、毛沢東のこの発想は社会的分業と商品経済が未発達である中国の現実を根拠として成立したものである。つまり、毛沢東は中国の後れた現実から出発して社会主義を構想したために、その社会主義モデルは「自然経済」と「平均主義」によって特徴づけられることになったのである。すなわち商品経済を止揚した後に来る産品経済のイメージと商品経済以前の自然経済とが混同されたわけである(この点については王琢・劉国光論争についての拙稿『中国開放のブレーン・トラスト』一二六頁を見よ)。

「五・一六通知」

文革の初期に「旧世界をたたきつぶせ」「新世界を建設せよ」というスローガンが声高に叫ばれた。同じ趣旨は「破旧立新」の四字で表現され、後には「破私立公」の四字でも表現された。毛沢東が文革を発動した目的は、単なる権力闘争をはるかに越えており、旧世界(中国)をたたきつぶし、中国に新世界を建設するという気宇壮大なものであった。しかも「中国は世界革命の兵器工場たれ」(『万歳』六七九頁)というアピールと連動していたことから分かるように、毛沢東のいう新世界とはさしあたりは中国における新世界ではあるが、それは世界革命の基地としての中国なのであり、この意味では毛沢東の文革構想は地球レベルの新世界を対象としていたことになる。

毛沢東の発想を破壊と建設との二元論で捉えるならば、「五・一六通知」こそが破壊の綱領であり、「五・七指示」は建設の綱領であった(王禄林論文『党史研究』八七年二期)。

作成経緯

では旧世界はなぜ破壊されなければならないと毛沢東が考えたのかを「五・一六通知」に探って見よう(以下時に「通知」と略称する)。これは六六年五月の政治局拡大会議(五月四日~二六日)の途中の五月一六日、毛沢東が主宰して制定した「中国共産党中央委員会通知」だが、毛沢東自身はこの会議には出席していない。彼は舞台裏でこの会議を動かした。まず四月中旬に康生、陳伯達が主持して起草し、毛沢東が幾度か修正したのち、四月二四日の政治局常務委員会拡大会議で基本的に採択され、五月政治局拡大会議に提起されたものであった。この「通知」の直接的狙いは、「二月提綱」の破棄にあった。すなわち彭真を組長とする「文化革命五人小組」が会議を開き、「当面の学術討論についての匯報提綱」(略称「二月提綱」)を作成したのは六六年二月三日である。翌々日二月五日に劉少奇が在北京の政治局常務委員を招集してこれを討論した。彭真がこれに手を加え、二月七日に武漢滞在中の毛沢東に電報で知らせた。翌八日、彭真、陸定一、康生は武漢へ行き、毛沢東に内容を報告した。二月一一日、彭真は武漢で中央に代わって「文化革命五人小組の当面の学術討論についての匯報提綱を批転する中央の批語」を書いて、一二日朝、北京に電報で伝えた。在北京の政治局常務委員間で回り持ち承認したのち、中共中央文件として発出したものであった(『注釈本』八九頁)。

「われわれの身辺に眠るフルシチョフ」

「五・一六通知」は二月提綱を攻撃の対象として、こう難詰した。二月提綱は実際には彭真同志一人のものであり、彭真同志が康生とその他の同志に背いて自分の意見によりデッチあげたものだ。彭真はきわめて不正当な手段で武断的専横的に職権を乱用し中央の名義を盗んであわてて全党に発出した。

「通知」は、プロレタリア文化大革命の大きな旗を高く掲げて、1)反党反社会主義のいわゆる学術権威のブルジョア的反動的立場を徹底的に暴露し、2)学術界、教育界、新聞界、文芸界、出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判し、これらの文化領域における指導権を奪取するよう呼びかけていた。そしてこれをやり遂げるためには、党、政府、軍隊、文化領域に紛れ込んだブルジョア階級の代表を批判し、洗い清め、一部は職務を変える必要があるとしていた。というのは、反革命社会主義分子は一度機会が成熟するや、政権を奪取し、プロレタリア独裁をブルジョア独裁に変えようとするからである。要するに、ブルジョア知識人批判、党、政府、軍隊、文化領域のブルジョア階級の代表の粛清である。ここには中国共産党の指導部がすでに修正主義によって汚染されているとする事実認識があった。われわれの身辺に眠るフルシチョフという不気味な表現も、ここで現れた。

「十六カ条の決定」

もう一つの綱領たる「十六カ条」は、八期一一中全会(八月一日~一二日)さなかの八月八日に採択された。毛沢東は文革について、修正主義反対、修正主義防止(原文=反修防修)の演習だと語っている(江青への手紙、六六年七月八日)。十六カ条はいわばこの演習のためのプログラムであった。十六カ条は冒頭で、文革は人々の魂に触れる大革命であると指摘し、次いでわれわれの目的は資本主義の道を歩む実権派を打倒し、ブルジョア的反動的学術権威を批判し、ブルジョア階級と一切の搾取階級のイデオロギーを批判し、教育を改革し、文芸を改革し、社会主義の経済的基礎に合わないすべての上部構造を改革し、これによって社会主義制度を鞏固にし、発展させることであるとしている。要約すれば、実権派の打倒と上部構造の改革である。

では、この目的をどのようにして達成しようとするのか。党の指導部が思い切って大衆を立ち上がらせるか否かが文化大革命の運命を決するとして、党の各級組織の状況をつぎのように分析している。

1)運動の最前線に立つ指導部、2)闘争を理解できない軟弱無能な指導部、3)常日頃あれやこれやの誤りを犯しており、大衆を恐れている指導部、4)資本主義の道を歩む実権派の握っている指導部、の四種類に分けている。

そして党中央の各級党委員会に対する要求は、2)の状態を改め、3)の誤りを改めるよう激励し、4)の実権派を解任することである、としている。つまりここでは党中央は正しいが、各級党委員会にはさまざまの問題があると認識されている。

大衆との団結、自己解放

大衆を立ち上がらせる方法としては、「大鳴、大放、大字報、大弁論」の「四大」(これは「大民主」とも呼ばれた)の方法が打ち出された。文化大革命の主力軍は、広範な労働者、農民、兵士、革命的知識人、革命的幹部であるとされた。大衆に対してはプロレタリア文化大革命において、大衆が自分で自分を解放することを求め、大衆の解放を誰かに委ねることはできないと強調していた。大衆を信頼し、大衆に依拠すること、革命運動のなかで自分で自分を教育することが呼びかけられ、最終的には九五%以上の幹部、九五%以上の大衆と団結することが党の指導部に求められていた。文化大革命の推進機関としては、党の指導のもとに大衆が自分で自分を教育する組織形態として「文化革命小組、文化革命委員会、文化革命代表大会」を設けるものとし、これは党と大衆を結びつける最良のかけ橋であり、文化大革命の権力機構であるとしていた。しかもこれらの組織は長期の常設の大衆組織として、学校、機関、工鉱企業、街道、農村に設けるものとし、そのメンバーの選出においてはパリ・コミューンのような全面的選挙制を実行するものとされていた。

十六カ条の矛盾

この十六カ条はいうまでもなく毛沢東の強いリーダーシップのもとに執筆されたものであるが、このとき毛沢東は党の指導と大衆運動との関係、党の上級と下級との関係をどう考えていたのであろうか。党中央と各級党委員会との関係については、上からの指導として処理できるであろうが、そうなると大衆の自己解放との関係はどうなるのか。党中央内部に実権派がいるとすれば、党中央の改組あるいは奪権を党中央の指導のもとで行うという自己矛盾に逢着してしまう。また、文革の推進機関はパリ・コミューンのような選挙制によるというが、その場合党の指導をいかにして確保するのか。党の指導とパリ・コミューン理念(たとえば全面選挙制)はそもそも矛盾しているのではないか……。このように、十六カ条に描かれた文革の理念は大きな矛盾をはらんでいた。なかでも資本主義の道を歩む実権派の概念の曖昧性は最大の欠陥であった。しかし、これらの矛盾、欠陥にもかかわらず、この理念は大衆の琴線に触れるものを含んでいた。党の指導が命令主義、奴隷主義に転化するなかで窒息しそうになっていた中国の大衆、なかでも感受性の豊かな学生たちは、大衆の自己解放というアピールに大きな魅力を感じたようである。

「プロレタリア独裁下の継続革命」論の形成過程

「プロレタリア独裁下の継続革命」論は文革の理論的根拠であるとともに、文革の経験の総括でもあるとされていた。ここでこの理論の形成過程を見ておく。

この理論の一つの核心は、党内の実権派がブルジョア司令部を形成したとする認識であり、もう一つはこの司令部を覆すための政治革命が必要だとする考え方である。ブルジョア司令部という発想の原点には、最も純潔な、完全な社会主義という毛沢東の発想がある(胡縄「マルクス主義と中国の国情」『紅旗』八三年六期)。毛沢東のこうした考え方からすれば、劉少奇ら党中央の第一線指導部のやり方は我慢のならないものであった。一九六六年八月四日の政治局常務委員会拡大会議で毛沢東はこう語って出席者を驚かせた。「北洋軍閥や国民党が学生運動を弾圧しただけでなく、いまやわが党内に学生運動を鎮圧する者がいる。これは路線の誤りだ」(『万歳』六五〇頁)。

八月五日毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報を書いて、ブルジョア司令部の批判を呼びかけたが、私の意見は(八期一一中全会で)過半数をわずかに上回る支持を得たにすぎなかったと毛沢東自身が一九六七年五月に語っている(『万歳』六七四頁)。八期一一中全会から一九六六年末まで文革の中心内容は、ブルジョア反動路線の批判であった。六六年一一月三日、林彪は天安門楼上から毛沢東の校閲を得た講話をこう読みあげた。

毛主席の路線は大衆をして、自分で自分を教育し、自分で自分を解放する路線である。大衆を信頼し、大衆に依拠し、思い切って大衆を立ち上がらせる路線である。これは党の大衆路線の文化大革命における運用であり、新発展である。

大衆の自己解放に対置されているのは、これまで行われてきた党の指導という名の党による支配である。支配からの逸脱の自由を与えられ、しかも支配する側を反動路線と批判する自由を与えられた大衆は、やりたいようにやる無政府主義に走っていく。大衆を信じ、依拠することに伴う天下大乱は、やがて大衆自身のエネルギーにより天下大治に至るとする革命的楽観論は、結果的には軍事管制によるほか収拾不可能な天下大乱に陥ってしまった。

高まる毛沢東崇拝

ブルジョア反動路線の批判の過程で生じたきわだった特徴は、毛沢東個人崇拝が極限まで高まり、事実上党中央の集団指導体制に代替したことである。ただし、一一中全会の時点では、ブルジョア反動路線の批判およびその路線の執行者としての劉少奇批判が決定されたわけではない。毛沢東個人崇拝の高まりのなかで、紅衛兵運動が現れ、個人崇拝がいやますという構造であった。

一九六六年一二月三一日、毛沢東は(一九六七年は)全国で全面的に階級闘争が展開される一年となろうという見通しを明らかにした。まもなく上海の造反派が奪権闘争に着手するや、これは一つの階級が一つの階級を覆したもので、一場の大革命であると断定し、全国的に全面的に奪権闘争に取り組むよう呼びかけた。こうしてプロレタリア独裁下の継続革命論がほぼ骨格を整えた。いまや文革の対象は、劉少奇の修正主義政治路線と組織路線であり、劉少奇の各省レベル、中央各部門における代理人と目標が定められた。

継続革命論の核心

一九六七年一一月六日、『人民日報』『解放軍報』『紅旗』の共同論文「十月社会主義革命の切り開いた道に沿って前進しよう」は、継続革命論の核心を六カ条にまとめた。これは陳伯達、姚文元が主持して起草したものだが、毛沢東自身が校閲している。1)マルクス・レーニン主義の対立統一の法則を用いて社会主義社会を観察しなければならない。2)社会主義社会は相当に長い歴史段階であり、階級・階級闘争・階級矛盾が存在し、社会主義と資本主義の二つの道が存在し、資本主義復活の危険性が存在している。平和的変質を防ぐために、政治戦線、思想戦線における社会主義革命を最後まで行わなければならない。3)プロレタリア独裁下の階級闘争は、依然政権の問題すなわちブルジョア階級がプロレタリア階級を覆す問題である。プロレタリア階級はプロレタリア独裁を強固にしなければならない。プロレタリア階級は各文化領域を含む上部構造においてブルジョア階級に対して全面的独裁を行わなければならない。4)党内の資本主義の道を歩む実権派とは、ブルジョア階級の党内における代表である。彼らに奪われた権力をプロレタリア階級の手中に奪回しなければならない。5)継続革命にとって最も重要なことは、プロレタリア文化大革命を展開することである。6)文革の思想領域における根本的綱領は、私と闘争し、修正主義を批判すること(原文=闘私、批修)である。

晩年の毛沢東

毛沢東は七一年春から、病いに悩まされるようになったが、林彪事件以後、急速に老いこんだ。晩年を見守ったある女性秘書(張玉鳳は当初は「生活秘書」であったが、のちに「機要秘書」になった。一般には愛人と見られている)が、神格化された毛沢東ではなく、生身の人間としての痛々しい毛沢東の姿について、こう証言している。

このとき彼はすでに七七歳の高齢であり、人々が想像するような元気溌剌では全くなく、髪は白く、明らかに老衰していた。人々がこの方に“限りないご長寿を”とどんなに祈ろうと、自然法則の発展には抗しようがなく、彼も普通の老人と同じく、老年のさまざまな疾病に悩まされていた。 

われわれの国家指導者たちの身体状況は、なべて秘密にされている。毛主席の場合はなおさら厳しい秘密にされており、通常は極めて小さな範囲の者しか主席の病気を知らない。病気の程度を知る者はなおさら少なかった(『炎黄子孫』八九年一期)。

では病はどの程度であったのか。張玉鳳の証言が続く。七一年春以来、気管支炎を患い、咳のため寝られず、日夜ソファに坐り続けるありさまであった。張玉鳳と看護婦長呉旭君が昼夜を問わずつきそった。七二年一月六日、陳毅元帥が死去し、一〇日午後、陳毅の追悼会が開かれた。毛沢東は突然時間を聞いて、パジャマ(原文=睡袍)の上からダブダブの人民服をはおり、五〇年代にソ連政府から贈られたジムに乗って八宝山に向かった。毛沢東はこの追悼会に出席したシアヌーク殿下を通じて、三カ月前の林彪事件を洩らし、「林彪は私に反対したが、陳毅は私を支持した」と陳毅を再評価し、同時に鄧小平復活を示唆したのであった。

七二年一月、毛沢東は肺炎と酸素不足のためにショックで倒れた。主治医が注射し、心臓専門家の胡旭軍が毛主席、毛主席と呼びつづけ、ようやく意識を回復した。七四年春から毛沢東は書類が読めなくなった。八月に武漢の東湖賓館で検査したところ、老人性白内障とわかった。七五年八月中旬のある夜唐由之医師が手術を行い、片目が見えるようになり、六〇〇余日の見えない状態から解放された。この間、張玉鳳が文件、報告、手紙などを読み、代筆した。元来はこの仕事は「機要秘書」徐業夫の仕事であったが、徐業夫が不治の病を得て入院したため、張玉鳳にその仕事が回ってきたのであった。

七六年一月八日、周恩来が死去した。張玉鳳が総理の追悼会に出席されますか?と聞くと、毛沢東は片手で文件を置く間もなく、片手で腿をさすりながら、わしはもう歩けないよと言った。毛沢東は第一〇回党大会(七三年八月)以後、老いた身を人々に見られるのを望まなくなり、避けるようになっていた。周恩来死後は、両手が震え、文件を手に持つ力も失われた。そこで張玉鳳らが本や文件を支えてやった。このころは書籍や文件を読むときにだけ、病の苦痛から逃れるごとくであった──。

これが張玉鳳の描く晩年の毛沢東である。この間、政治の流れを表面から見るとどうなっていたであろうか。

周恩来と鄧小平 の間で

一九七三年八月には、米中和解、日中国交正常化に活躍した周恩来は現代の孔子として批判されている。毛沢東は夫人の江青をはじめとする“四人組”の讒言を容れて、周恩来批判を指示したのである。しかし、一年後の七四年一〇月には、逆に毛沢東は周恩来と図って鄧小平 を復活させている。このころ、総理はやはりわれわれの総理であると周恩来支持を語り、七四年一二月二六日、八一歳の誕生日の夜は寝室で周恩来と長い間語り合っている。 

レーニンはなぜブルジョア階級に対して独裁せよといったのだろうか。この問題をはっきりさせなければならない。さもないと修正主義に変わってしまうだろう。全国に知らしめなければならない。 

やはり安定団結がよい。 

国民経済を向上させるように。     

その後、七五年二月までの間に、「理論問題についての指示」としてこう述べている。

いまでもなお、八級賃金制、労働に応じた分配、貨幣による交換が行われている。これらは旧社会とたいして変わらない。異なっているのは、所有制が変わったことである。 

いまわが国で行われているのは商品制度であり、賃金制度も不平等であり、八級賃金制度が存在している。これらはプロレタリア独裁のもとで、制限を加えるほかない。プロレタリア階級の中にも、機関の工作要員の中にも、ブルジョア的生活作風に染まる者がある(『人民日報』七五年二月二二日)。

文革によって、修正主義の禍根を断つことを夢見たが、ふと見直すと現実は旧社会とあまりにも似ていて、社会主義建設の歩みはあまりにものろい。それだけではなく、ややもすれば、容易に逆流してしまう。文革の開始時期において、構想したものはほとんど実現できず、夢の残骸のみが残っている。

孫文も「革命未だ成らず」と遺言した。毛沢東の心境もこの点では似ていよう。しかし、理想を追求し続けた断固たる革命家毛沢東にとって、夢が粉々に砕けていく現実のなかで迎える老年とは、いったいいかなる味の晩年であったのか。

その一年後の七五年八月には『水滸伝』批判にこと寄せた“四人組”の鄧小平 批判を許し、七六年四月の天安門事件では、その黒幕として鄧小平処分を決定している。鄧小平 は党内外の一切の職務を剥奪された。最晩年の毛沢東は左派の“四人組”と右派の周恩来の間で、右へ揺れ、左へ揺れていたのであった。

結末はどうか。毛沢東の死後一カ月を経ずして、軍事委員会を握る葉剣英(軍委副主席)が華国鋒(当時公安部部長、党副主席、国務院総理)を押し立てて、“四人組”を逮捕してケリをつけた(この間の経緯は范碩「風雷激蕩の十月」『党的文献』八九年一期が詳しい)。

しかし、まもなく鄧小平 が復活するや、華国鋒はしだいに権力から外されていく運命をたどった。七八年一二月の一一期三中全会で鄧小平 が権力を掌握した。

夢の崩壊

毛沢東の夢の崩壊過程はあまりにも無残である。五四年から七六年九月の死去まで二二年にわたって毛沢東の侍医を務めた李志綏(六九歳、中華医学会副会長)の証言が興味深い。

毛主席は早くから神経衰弱と不眠症に悩まされた。彼に施された医療の一つは、毎晩睡眠薬を大量に与えることであった。 

(毛沢東の死因について)七六年には五月、六月、八月と三回にわたって心臓発作を起こした。これで体が弱り、肺炎と喘息を併発し、九月九日に死去した。 

彼の頭脳は息をひきとる最後の瞬間まで完全に機能していた。しかし、最後の段階で彼の脳裏にあったのは、国や家族というより自分自身のことだったと思う。 

彼は自分は神でも聖人でもない普通の人間だと言っていた。一般の人間と同様に毛主席にも長所と短所があった。自分の敵、とくに鄧小平 氏や右派にたいしては残酷なまでに容赦せず、こうした性格が文化大革命時の大弾圧につながった。 

鄧小平 氏は毛主席に二度非難され、二度失脚した。毛主席は鄧小平 氏を信頼していなかったが、いつかは彼が権力を握るだろうと考えていた(『読売新聞』八九年八月二日付)。
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-2-8 19:14:46 | 显示全部楼层
第三部 文革の推進者たち
1 紅衛兵──権力闘争に利用された若者たち
知識人の「自己批判」

紅衛兵の登場

昂揚する文革の気運\

「造反有理」のスローガン

紅衛兵の天下

紅衛兵の分裂

混乱する教育機関

下放運動おこる\

毛沢東による教育改革

下放工作の難題

人材の欠落と経済的損失

「失われた世代」から「思考する」世代へ

民主化への遠い道程
回复 支持 反对

使用道具 举报

 楼主| 发表于 2006-2-8 19:16:42 | 显示全部楼层
1 紅衛兵──権力闘争に利用された若者たち

知識人の「自己批判」

六六年春の時点で中国の政治的環境がいかに緊張していたかの一例は、郭沫若の「自己批判」によって、その一端が知られる。六六年四月一四日に行われた全国人民代表大会常務委員会拡大会議の席上、彼はこう発言して皆を驚かせた。

今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである。 

私はもう七〇歳であるが、泥にまみれ、油にまみれたい。いや仮にアメリカ帝国主義がわれわれを攻めてくるならば、血まみれになって手榴弾を投げつけたい(『光明日報』六六年四月二八日、『人民日報』五月五日)。

中国科学院院長として中国知識界の頂点に立つ人物、しかも日本にもなじみの深い郭沫若の爆弾発言は日本にも大きな衝撃波となって押し寄せてきた。作家三島由紀夫、阿部公房らは文化弾圧に抗議声明を発した。声明の起草者は三島であり、『全集』第35巻に収められている。

紅衛兵の登場

緊張が極度に高まるなかで凝縮されたかのように、文化大革命の申し子ともいうべき紅衛兵(原文=紅衛兵)が北京に誕生したのは五月下旬のことである。『中国現代史詞典』(李盛平主編、中国国際広播出版社、一九八七年)に「紅衛兵運動」はこう説明されている。“文化大革命”期に林彪、江青反革命集団に利用された全国的な青年学生運動である。紅衛兵は一九六六年五月下旬北京に現れ、まず首都の青少年の間に紅衛兵運動が起こった。ごく少数の悪質なリーダーを除けば、圧倒的多数は党と毛沢東への信頼から天真爛漫に自分たちは“毛主席を防衛し”“反修防修”の闘争に参加するものと考えていた。毛沢東は青年学生を“文化大革命”を全面的に展開する突撃勢力と考え、同年八月一日清華大学付属中学紅衛兵に手紙を書いた。彼らの行動は“反動派に対する造反には道理があることを示すもの”とその“造反”に支持を表明した。ここから紅衛兵運動は迅速に全国に発展した。八月一八日、毛沢東は軍服を着て紅衛兵の腕章をつけて、天安門で全国各地から来た百万の紅衛兵と人民大衆を接見し、再度紅衛兵運動を支持すると表明した。\

九月五日、中共中央、国務院は「外地の革命的教師学生が北京に来て文化大革命運動を参観するのを組織することについての通知」を発して以後、全国各地の教師学生が“授業をやめて革命をやる”(原文=停課閙革命)ようになり、全国的な大経験交流(原文=大串連)が始まった。一一月二六日までに毛沢東は前後八回全国各地から来た一三〇〇万人の教師学生と紅衛兵を接見した(三六五頁)。

以上の記述から、紅衛兵が青年学生運動であること、毛沢東の呼びかけに応えて社会主義を防衛するために立ち上がったこと、毛沢東が天安門上から接見した紅衛兵の数が一三〇〇万人の多きにのぼること、など紅衛兵についての基本的事実は理解できよう。

しかしなんとも味気ない説明ではある。理想に燃えた青年たちの運動がここでは、いわば燃えカス同然の姿で描かれている。これを読んでやりきれない思いにとりつかれているときに、八九年四~六月の民主化「動乱」が勃発した。民主化「動乱」とは、奇妙な言い方だが、学生たちは「愛国民主の学生運動」と自称し、政府側は「動乱、ついには暴乱」と断定して、八九年六月三~四日、武力鎮圧に踏み切った。

この圧倒的なデモの隊列をテレビ画面で見つめ、私はかつての文革当時の興奮を追体験し、あれやこれやの当時の印象を鮮明に反芻した。

高揚する文革の気運\

前述のように一九六六年八月一八日、天安門広場で文化大革命を祝う百万人の集会が行われた。このなかに数万の紅衛兵が参加して注目を集めた。二日後の八月二〇日、北京の紅衛兵たちは四旧の打破を叫んで、街頭に繰り出した。北京の銀座通りともいうべき王府井のデパートや宝石店、クリーニング店、写真館などの看板をとり外し、東方紅、紅旗、北京、文革などの革命的看板に取り替えた。彼らは非革命的な名称を旧文化、旧風俗だとして打倒しようとしていた。街は大字報や修正主義批判ビラに溢れ、三角帽子(原文=戴高帽子)をかぶせられた実権派(原文=走資本主義道路的当権派)、反革命分子が引回しされる姿も随所で見られるようになった。この際に「ジェット機を飛ばす」(原文=(手高)噴気式)形が強制されることも少なくなかった。紅衛兵たちはまた実権派の自宅に押し掛け、家宅捜索(原文=抄家)をやり、反革命資料なるものを持ち去った。ついでにブルジョア的なものを戦利品として持ち去ることも少なくなかった。紅衛兵から造反の対象とされた実権派は職務を外され(原文=靠辺站)、牛小屋(原文=牛棚)に押し込められたり、便所掃除などの屈辱的な仕事を押しつけられた。

たとえば文学者の老舎は、たまたま作家協会の責任者(北京市文聨主席)であったために、つるし上げ(原文=批闘)の対象とされ(八月二三日)、二日後に死体で発見される事件も起こった。老舎のほか、作家の趙樹里、京劇俳優の周信芳なども迫害のなかで死んだ。紅衛兵の街頭行動はまもなく上海、天津、杭州、南京、武漢、長沙、南昌など全国各地に急速に拡大した。

「造反有理」のスローガン

中共中央、国務院はこの紅衛兵運動を支持し、九月五日「各地の革命的学生が北京を訪れ、革命運動の経験交流を行うことについての通知」を出し、汽車賃を無料とするほか、生活補助費と交通費を国家財政から支出する方針を決定している。

こうして授業をやめて革命をやる運動(原文=停課閙革命)と全国的な経験交流(原文=串連)が始まった。六六年一一月下旬までに、毛沢東は天安門楼上から八回の紅衛兵接見を行い、全国各地から北京を訪れた計一三〇〇万人の若者たちを激励した。無賃で天安門参りをした紅衛兵たちは、故郷に帰るや「造反有理」のスローガンを武器に、まず学校でついで地方各級の党委員会に造反した。

紅衛兵はなぜ造反に立ち上がったのであろうか。ある紅衛兵は「父母への公開状」のなかで、こう書いている。

十数年来、あなたたちは優遇されて、長いこと事務室から出ませんでした。あなたたちの“もとで”はとっくに使いきっているのです。あなたたちの革命的英気は、とっくに磨滅しているのです。労働人民から隔たることあまりにも遠いのです。事務室を出て、大衆運動の大風浪のなかに来て、あなたたちの頭を入れ替え、体の汚れを洗い落とし、新しい血液を注ぎ、徹底的にこのような精神状態を改めるべきです。そうでないと、この大革命のなかで淘汰されることになるでしょう(『人民日報』六六年八月二六日)。

これは中央直属機関に勤める父母をもつ紅衛兵の手紙である。恵まれた高級幹部の子弟であろうと推測される。彼らは社会主義の理想、文化大革命の理念を文字通りに素直に理解し、この理想に照らして、現実の中国に存在する負の現実を厳しく批判したのであった。ひとつはやり言葉を紹介しよう。「鳳凰から鳳凰が生まれる。ネズミの子に生まれたら土を掘るばかり」。中国社会主義のもとで、特権幹部の子と庶民の子との間には、龍とネズミほどの運命の差があるという風刺である。

紅衛兵の天下

北京の紅衛兵が旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣(原文=四旧)の打破を叫んで街頭へ初めて繰り出した八月二〇日を契機として、赤い八月が始まった。六六年末には紅衛兵運動がピークに達した。やがて造反の主流が労働者にとって代わられるようになるまで、六六年後半から六七年は紅衛兵の天下であった。

紅衛兵に襲撃され、北京市内の各教会が破壊され、外国藉の尼僧は国外へ追放された。カラフルなスカートや旗袍を身につけた女性は鋏で切り裂かれただけでなく、時には陰陽頭(頭髪を半分だけ剃り落とすもの)にされた。粤劇の女優紅線女もこの辱めを受けた。紅衛兵はまたソ連大使館のある通りを反修路、東交民巷を反帝路と改称し、北京の銀座といわれる王府井大街はまず革命路、ついで人民路と改められた。ついには赤は良い色であるから、赤信号で前進すべきであり、青信号で停止すべきだとする主張さえ登場した。しかもこれらは各紅衛兵組織が勝手にやるものであるから、混乱は必至であった。ロックフェラー資金で建設された協和病院は反帝病院、ついで首都病院と改称された。ペキン・ダックの全聚徳は北京(火考)鴨店となった。紅衛兵はまた反革命修正主義分子の家を勝手に捜索し(原文=抄家)、胸にプラカードを下げさせ、頭に三角帽子をかぶせて、街頭を引き回した。なかでも彭真(北京市長、政治局委員)の引回し姿を写した写真は外国の新聞にも報道され、衝撃を与えた。

鄧拓(一九一二年~一九六六年五月一八日)は自殺した。呉han (一九〇九年~一九六九年一〇月一一日)は、獄死した。呉晗の妻袁震は病弱であったが、反革命の家族として労働改造隊に送られ、六九年三月一八日死去した。長女呉小彦は一九七六年九月二三日自殺した。結局四人家族のうち長男呉彰だけが生き残った。この種の悲惨な例は少なくなかった。党内では、延安時代に毛沢東秘書を務め、彭徳懐事件に連座した周小舟が自殺し、さらに文革直前まで毛沢東秘書を務めていた田家英も自殺している。

紅衛兵の分裂

紅衛兵は元来は毛沢東の唱える文化大革命のイデオロギーに共鳴して立ち上がったものだが、やがてある派閥は中央文革小組に操縦され、他方はこの指導を受け入れず、むしろ実権派を擁護し、対立するようになった。北京の大学生からなる政治意識の高いグループは、聶元梓(北京大学「新北大公社」)、カイ大富(清華大学「井岡山兵団」)、韓愛晶(航空学院「紅旗戦闘隊」)などをリーダーとする天派と王大賓(地質学院「東方紅公社」)、譚厚蘭(師範大学「井岡山公社」)をリーダーとする地派に分裂して、武闘を繰り返した。W・ヒントンは清華大学における内戦さながらの一〇〇余日間の武闘を活写している。実権派打倒のためには彼らのエネルギーを利用した毛沢東は、頻発する武闘に手を焼いて、六八年七月二八日早朝、これら五人の指導者を呼びつけ、引導を渡した。曰く「君たちを弾圧している“黒い手”は実は私である」(『万歳』六八七頁)。

こうして毛沢東から見てその利用価値のなくなった紅衛兵たちは、農村や辺境へ下放させられることになった。その後の紅衛兵の姿の一端を描いてみよう。

混乱する教育機関

一九六七年春には、中共中央は外地への経験交流を停止し、教室に戻って革命をやるよう呼びかけた。しかし、この指示は徹底せず、紅衛兵による各級指導機関の襲撃や武闘流血事件が絶えず、六七年七~九の三カ月は混乱が極点に達した。

一九六七年一〇月一四日、中共中央は「大中小学校で教室に戻り革命をやることについての通知」を正式に発し、全国の各学校が一律に授業を開始し、授業を行いつつ、改革を進めるよう要求した。とはいえ、多くの学校では大連合(原文=大聯合)は実現できておらず、武闘は不断に発生していた。中学高校の授業再開にとって重大な問題の一つは、大学入試を停止したために、一九六六、六七年度卒業生が中学でも高校でもあぶれており、授業再開の障害となっていることだった。一九六七年一〇月二二日、教育部は卒業生の就職配分(原文=分配)が喫緊の課題であるとして、こう報告した。「卒業生を分配しなければ、新しい学生を入学させられない。しかも今年の卒業生と新入生は例年の二倍以上である。これは教師と校舎の限界のためである」。

卒業生の分配問題は緊急であったが、当時社会は大混乱しており、多くの地域でまだ革命委員会が未成立の情況(22頁の「革命委員会成立地図」参照)のもとで、分配工作は進めようがなかった。こうしたなかで一九六七年一一月三日、『人民日報』が毛沢東の教育革命の指示を伝え、こう述べた。プロレタリア教育革命を行わなければならない。学校のなかの積極分子に依拠して、プロレタリア文化大革命を最後まで行うプロレタリア革命派にならなければならない。このように六七年までは、大量の中学卒業生は依然学校に留まっていたのであった。

下放運動起こる\

一九六八年になると、中学卒業生の分配問題はいっそう深刻化した。各学校には一九六六、六七年の卒業生に加えて、六八年度の中学高校卒業予定者を加えて、一〇〇〇万人以上が溢れていた。他方、六八年前半には大多数の地域で革命委員会が樹立された。卒業生の分配工作は解決しないわけにはいかないし、また解決する条件もできてきた。六八年四月、中央は黒竜江省革命委員会の「大学卒業生分配工作についての報告」を承認し、毛沢東の指示を伝えた。卒業生の分配は大学だけでなく、中小学校においても普遍的な問題であるとして、この文件は各部門、各地方、各大中小学校が1)農村、2)辺境、3)工場鉱山、4)基層、の四つに向かい、卒業生の分配工作を立派にやるよう要求していた。

文件にいう四方面のうち、3)工場鉱山と4)基層とは、秩序が混乱しており、新規労働力を受け入れる余裕はまるでなかった。そこで卒業生は事実上、1)農村と2)辺境に分配された。一九六八年七、八月から紅衛兵への再教育が叫ばれ、次の毛沢東最新指示が繰り返された。「われわれは知識分子が大衆のなかへ、工場へ、農村へ行くよう提唱する。主として農村へ行くのである……。そして労働者農民兵士(原文=工農兵)の再教育を受けなければならない」。六八年末に毛沢東はこう呼びかけた。「知識青年が農村へ行き、貧農下層中農の再教育を受けることはとても必要である」。これを契機として、下放運動が巻き起こり、紅衛兵運動は終焉した。

毛沢東による教育改革

こうして起こった下放運動は、毛沢東特有のイデオロギーによって支えられていた。それは青年学生に対して再教育を行うことによって修正主義を防ぐという考え方であり、再教育の内容として強く意識されていたのは、三大差異(原文=三大差別)の縮小に代表される極度に平等主義的な社会主義論であった。また階級闘争を極端に重視し、書物は読めば読むほど愚かになる。学校のカリキュラムは半減してよい。学制は短縮してよい、など教育内容は単純化していた。社会主義の条件のもとで、政治、経済、文化などの面で差異の存在することが修正主義の生まれる根源であるとする毛沢東の修正主義理解がその根本にあった。毛沢東は五・七指示に見られる思想によって教育を改革しようとしていた。

一九六八年、六九年の二年間で約四〇〇万余りの都市卒業生(六六~六八年度)が農村や辺境に下放させられた。青年たちは現地でさまざまの問題に直面した。生活面では長らく自給自足の生活はできず、食糧(原文=口糧)、住居、医療などの面でとりわけ問題が大きかった。

一九七三年、福建省の李慶林が息子の生活問題を直訴したのに答えて毛沢東はこう返信を書いた。「三〇〇元を送ります。食費として下さい。全国にこの種の例ははなはだ多く、いずれ統一的に解決しなければなりません」。問題の所在には気づきつつも、毛沢東自身いかんともしがたく、この手紙を書いたようである。

下放工作の難題

この年に全国知識青年下放工作会議が開かれ、長期計画が検討されたが、この計画は実現されるに至らず、政策は依然混乱していた。ある年は工場で募集したかと思えば、次の年は下放させる。下放した者のなかから、工場で募集するなどという具合に、地方当局によってマチマチの政策(原文=土政策)が行われた。

一九七六年二月、毛沢東はふたたび知識青年の問題についての手紙にコメントを書いて、知識青年の問題は専門的に研究する必要があるようだ。まず準備し、会議を開き、解決すべきであると指摘した。しかし、毛沢東の死まで彼らの問題は解決されなかった。

一九七八年の全国知識青年下放工作会議紀要はこう指摘している。一九六八~七八年の知識青年下放運動は、全体的計画を欠いており、知識青年の工作はますます困難になった。下放青年の実際的問題は長らく解決されていない。これこそが鳴物入りで大々的に展開された下放運動の総括なのであった。

下放運動がいかに絶対化されたかは、つぎの記事に一端が示されている。曰く、下放を望むか否か、労農兵と結合する道を歩むか否かは、毛主席の革命路線に忠実であるか否かの大問題である。修正主義教育路線と徹底的に決裂し、ブルジョア階級の“私”の字と徹底的に決裂する具体的な現れである(『人民日報』一九六八年一二月二五日)。

しかもある青年が革命的であるか、非革命的であるか、反革命であるかの唯一の基準は、下放に対する態度であるとしたのであった。下放地点の選択においても現実にそぐわない例がしばしば見られた。一部ではより困難な地域ならば、ますますそこへ行かなければならない、と絶対化された。都市近郊で多角経営に成功した青年農場は、下放しても都市を離れないもの、下放したが農業に努めない、大方向に違反している、などと批判された。一部の地域では、下放青年の生活に必要な食料や石炭などをわざわざ都市から運んだ。国家、青年の所属単位、家長などは、下放青年一人当たり年間一〇〇〇元もの費用をかけるケースもあった。

人材の欠落と経済的損失

では下放運動はいかなる帰結をもたらしたのであろうか。第一は人材の欠落である。文革期に養成を怠った大学生は約一〇〇万人余り、高校生は二〇〇万人以上に上る。このために人材の欠落がもたらされた。一部の地域では中学卒業生はすべて下放し、高校は開かなかった。一部の地方では中学高校の一、二年生も、卒業生とともに農村へ下放した(『教育年鑑』四七〇頁)。

一九六八年から七八年までの一〇年間に全国で下放した知識青年は約一六二三万人である。一部の青年はのちに学習して学力を取り戻したが、大部分は中学かそれ以下の学力しかない。下放運動は三大差異の縮小に役立たなかっただけでなく、中国と世界の教育水準の格差を拡大し、近代化にとっての困難をますます増やすことになった。

下放運動は経済的にもマイナスであった。文革期に国家や企業は下放青年の配置のために約一〇〇億元あまり支出した。これらの一部は開墾事業に貢献したが、経済効率ははなはだ悪かった。また一九七九年大量の下放青年が都市へ帰るに際して、すでに結婚した者も含めて、就業問題は経済建設への大きな重圧となった。

下放青年を受け入れたことによって、農民も損失をこうむり、また青年の家長たちも仕送りのために経済的負担を余儀なくされた。

青年が農村の現実を知ったことにはプラスの面もあるが、人生の黄金時代に正規の教育を受ける機会を失した損失は取り戻すことができない。紅衛兵──下放青年の体験をもつ世代はまさに現代中国の失われた世代である。この世代の空白は彼ら自身にとっての損失であるばかりでなく、中国の近代化にとっても人材の面での大きな痛手となって、その後遺症は長く続いている。

「失われた世代」から「思考する世代」へ

こうして紅衛兵たちは、修正主義路線打倒を目指して、決起したものの、まもなくある者は武闘に倒れ、ある者は辺境開拓に追いやられ、総じて、権力闘争に利用される結果に終わった。この意味では、六〇年代後半に一〇代、二〇代であった紅衛兵世代は失われた世代である。しかし、文化大革命という苦い果実を味わった若者たちのなかから、思考する世代が生まれることになった。その嚆矢は「中国はどこへ行くのか?」(別名「極左派コミューン成立宣言」六八年一月六日付)を書いた湖南省プロレタリア階級革命派連合指揮部(略称=省無連)のリーダー楊曦光(本名=楊小凱)らであろう。当時彼は反革命罪で逮捕され、生命が危ぶまれたが、一七歳という若さのゆえに、懲役一〇年の刑で済んだ。彼はその後“監獄大学”でエコノメトリックスを学び、出獄後アメリカに留学した。いまはオーストラリアのある大学で講師をしている。「虎に食われ損なって生き延びた」この若者は、暴力革命を断固として否定し、広い視野から社会主義を再考するよう呼びかけている。

“四人組”失脚を予言した大字報として話題になった李一哲「社会主義の民主と法制について」(初稿、七三年九月一三日)の三人の筆者の一人たる王希哲のその後の思想的発展は、『王希哲論文集』(香港七十年代雑誌社、八一年六月)などによって知ることができる。

民主化への遠い道程

こうした非体制、反体制的思想に目覚めた若者たちが七六年四月の天安門事件を経て、七九年の「北京の春」を担ったことはよく知られている。彼らの一部はたとえば『探索』の編集者魏京生のように投獄された。しかしたとえば中国人権連盟の活動家任(田+宛)町は、出獄後も活動を続け、八九年政変後ふたたび逮捕されている。七九年「北京の春」の活動家の一部は、アメリカなどに留学したあと中国民主聯盟を組織し、雑誌『中国之春』を発行して国内の民主化運動を続けている。八九年の運動に対しても、ニューヨークから連帯のメッセージを送っている(拙編『チャイナ・クライシス重要文献』第一巻所収)。彼らの思想はさまざまであるが、中国の近代化にとって最大の壁が政治の民主化、政治改革にあるとする一点では共通していると言えよう。当局の掲げた「四つの近代化」に対して、魏京生はこれに「政治の近代化」を加えた第五の近代化(原文=第五個現代化)を提唱していた。当時はこれが過激であるとして投獄されたが、その後、一〇年政治改革の必要性はほとんど共通の了解事項になっている。しかし、実際に学生たちが政治改革を要求した場合に、権力の側がどう対応したかを今回の武力鎮圧が端的に示している。

中国民主化の道は遠い。しかし、中国の若者たちは、スターリン批判直後の民主化運動で一部が、そして紅衛兵運動のなかでは大衆的な規模で政治的に覚醒した。この意味で損失のきわめて大きかった紅衛兵運動にも苦い果実は実ったことになる。
回复 支持 反对

使用道具 举报

您需要登录后才可以回帖 登录 | 注~册

本版积分规则

小黑屋|手机版|咖啡日语

GMT+8, 2024-5-9 07:01

Powered by Discuz! X3.4

© 2001-2017 Comsenz Inc.

快速回复 返回顶部 返回列表