第一部 文化大革命の一〇年
1.文革とはなにか
私と中国
一九八九年四月、私は生まれて初めてアメリカを訪れた。胡耀邦の死はワシントンのホテルで知った。訪米の目的はミシガン大学で講義するためである。親しい友人が客員教授として「日本のマスコミ論」を講義しており、その助っ人に招かれたのである。私は「戦後の日中関係」にテーマをしぼった。アメリカの一流大学の学生はよく勉強しているし、おまけに私の講義を聞くのは「日本学」専攻の大学院生十数人である。なまはんかなことを話したら恥を書くにきまっている。そこで「私の個人的体験から見た日中関係」をテーマに選んだ。これなら、どんな勤勉な学生でも参考書と同じだと軽蔑することにはなるまい。
私は特別な「個人的体験」をもっているわけではないが、一人の平凡な大学教師の中国認識の試行錯誤の過程を率直に話したのであった。学生たちの反応は悪くなかったと、客員教授氏が喜んでくれた。そこで妙な自信がついて、日本の学生にもその調子で話を進めることになった次第である。
私は一九三八年一〇月一日に生まれた。蘆溝橋事件の翌年である。「国民学校」に入学した一九四五年に戦争が終わり、まもなく「小学校」と名が変わった。四年後に中華人民共和国が成立した(私は新中国よりも一一歳「年長」である)。一九五八年中国では「人民公社」が組織され、全中国が大躍進に熱気に包まれていたが、私はこの年に大学に入り、中国語を第二外国語に選んだ。中国の熱気に「感染」したのである。私は一九五七年にポーランド映画「地下水道」を見ている。スターリン型の社会主義モデルを懐疑し始めた知識人の卵に対して、毛沢東の追求する中国モデルは、その細部は不明ながら、清新な印象を与えていた。
一九五九年、ソ連のフルシチョフ第一書記が北京を訪れ、毛沢東と七時間会談したが、共同コミュニケを出せないほど、中ソ関係は冷えていた。私が「六〇年安保」のデモに明け暮れていた六〇年夏、ソ連は中国援助を一方的に打ち切った。
六〇年代の前半、私はある経済雑誌社で働き、この間、廖承志・高碕達之助覚書き協定に基づいて来日した第一陣の新聞記者たちとつきあい、彼らを少なからぬ工場に案内した。高度成長さなかの日本経済を知ってもらい、同時に私にとっては中華人民共和国人を知るよい機会となった。六六年夏、中国で文化大革命が発生した。「魂に触れる」と喧伝された熱気はふたたび私を強くとらえ、私は中国研究に専念するため、半官半民のある研究所に移った。
波及する文革の熱気
いま中国の「熱気」を繰り返したが、学生時代のそれと比べものにならないほど、文革のインパクトは大きかった。一つの例を挙げたい。
今回の旅行でデトロイト近郊のアナーバーを立つ日の『ザ・アナーバー・ニュース』(四月八日付)は、八九年四月七~八日に開かれたある“同窓会”のことを報じていた。
この記事によると、二〇年前の一九六九年四月九日、約三〇〇名の学生がハーバード大学の本部ビルを占拠した。翌日早朝ネイザン・プシー総長は四〇〇人以上の警官隊を導入し、学生を排除した。四五人が負傷し、一九七人が逮捕された。三日間の授業ボイコットは、四月二五日までの一五日間のストライキに発展し、期末試験は中止された。
二〇年前に行われたこの闘争を記念して、アメリカ全土から二〇〇人の元活動家がハーバード大学に集まり、ティーチインやディベート、街頭劇、パーティなどが行われ、話題は過去のことだけでなく、中央アメリカや南アフリカに対するアメリカの政策を含んでいた。
ハーバード大学本部ビルが占拠される数カ月前から東大の安田講堂はすでに占拠されており、一月の攻防戦で機動隊は占拠学生を排除したものの、この春、東大は入学試験を中止せざるを得ないほどに混乱していた。
日本の「東大落城」は一九六九年一月一九日でハーバードよりも少し早い。しかし日本の学園闘争よりもさらに早く、フランスでは一九六八年五月、カルチェ・ラタンの闘争があった。これら世界的に拡大した学生や労働者、知識人の闘争は一方ではそれぞれの個別的な要求から出発しつつも、ベトナム反戦を共通項としており、しかもその邉婴现泄挝幕蟾锩摔瑜盲瞥潭趣尾瞍长饯ⅳ臁⒐奈瑜丹欷皮い郡韦扦ⅳ盲俊
ところが、本家本元の文化大革命の政治力学は意外な展開を見せ、毛沢東の後継者に擬せられた林彪が突如消息を絶ったのは一九七一年秋、私はこのニュースをシンガポールの南洋大学で知った。当時、中国は特定の例外を除いて、研究者を受入れなかったので、やむなく周辺から観察していたのである。これは隔靴掻痒の感を否めなかったが、後から考えると、私にとっては、文革の「熱気」を相対的に受け止めるうえで有利であったかもしれない。
建国40年、文革10年
中華人民共和国は今年建国四〇年(一九四九~一九八九年)になるが、この間で文革の一〇年(一九六六~一九七六年)は、どのような位置を占めているであろうか。図1(図説のジグザグ利用)をご覧いただきたい。中国現代史は文革の一〇年を間に挟んで、大きく三分される。文革前の一七年(一九四九~一九六五年)、文革一〇年、ポスト文革の一三年(一九七六~一九八九年)である。
文革前一七年と文革一〇年を合わせて、計二七年は、毛沢東が中国に君臨した時代であるから、仮りに毛沢東時代と称することができる。文革後の一三年は一九七六~一九七八年という短い過渡期(華国鋒時代)を経て、一九七九~一九八九年の一〇年は最高実力者の名をとって小平時代と称することができる。
文革前一七年は、経済建設の面から見ると、三年余の復興期(一九四九~五二年)、二つの五カ年計画期(第一次は一九五三~五七年、第二次は一九五八~六二年)、三年の調整期(一九六三~六五年)に分けられる。ここで、文革の直接的導火線となるのは、第二次五カ年計画期に行われた大躍進、人民公社政策とその挫折である。
大躍進、人民公社の失敗を手直しするために行ったいわゆる「三カ年の調整期」に、人民公社は解体の危機に瀕した。毛沢東はこの現実に強い危機感を抱いて「修正主義の発生」と受け止め、修正主義反対を目指した一大政治邉婴驔Q意した。これが文化大革命にほかならない。
文革とはなにか──文革派の立場から
文革の目的、理念、方法は、「文化大革命の綱領的文献」とされた「五・一六通知」(一九六六年五月一六日)、一九六六年八月、八期一一中全会で採択された「プロレタリア文化大革命についての決定」(略称「十六カ条」)、一九六七年一一月六日の『人民日報』『紅旗』『解放軍報』共同社説「十月社会主義革命の切り開いた道に沿って前進しよう」に盛られた「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」などに示されている。これらは第九回党大会の政治報告(林彪報告)で総括的に要約されている。その核心はつぎのようなものである。
党、政府、軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョア階級の代表的人物と修正主義分子がすでに数多くもぐりこんでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマルクス主義者と人民の手には握られていない。党内の資本主義の道を歩む実権派は、中央でブルジョア司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とをもち、各省市自治区および中央の各部門に代理人をかかえている。これまでの闘争はどれもこの問題を解決することができなかった。実権派の奪いとっている権力を奪いかえすには、文化大革命を実行して、公然と、全面的に、下から上へ、広範な大肖蛄ⅳ辽悉椁弧⑸鲜訾伟迭面をあばきだすよりほかはない。これは実質的には、一つの階級がもう一つの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何回もおこなわなければならない(「歴史決議」一九項に引用)。
文革とは要するに、党機構などの指導部内に発生した実権派を打倒するための、「下から上への」政治大革命である、とする考え方である。 |