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楼主: syuunfly

[原创作品] 冷静と情熱の間(全书完)

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 楼主| 发表于 2005-12-15 17:02:26 | 显示全部楼层
 「卵になってみて」
 先生は新しい注文をぼくに与えた。ぼくは小さな四角い天窓から差し込む、雨空の光の中で丸くなった。
 息づかいが聞こえるほどのところに先生はいたが、ぼくはモデルなので、壁や柱を見つめていることがほとんどで、描いている先生の姿を知らなかった。その時二人の間には、冷静な膠着状態とでも言うべき関係があった。ぼくはそこに安らぎを覚えていた。
 いつもの台の上にあがると手を前に組み、体を丸め、あたまを膝にくっつけた。先生にお知りを向けていることになる。
 「いいわ、生まれようと意識していて頂戴ね」
 先生はそう言うと小さく笑った。顔を描いている時以外はお喋りを許された。
 「ジョバンナ、皆はあなたとぼくのことを噂しています」
 先生は、
 「私とジュンセイのいったい何を?」
 と低い声でその噂を迷惑そうに排除した。自分たちは潔白だということを先生に教えられたのだ、と気がつき、言葉を失った。
 「私がジュンセイの身体を描くことが、いったいどんな噂になるのかな。」
 先生の言い方には、ぼくまでをも拒むニュアンスが微妙にあり、ぼくは膝に額を押し付けながら顔を赤らめてしまった。ぼくが下らないことを持ち出したばっかりに、先生と間に薄い膜ができてしまったのではないかと後悔をした。
 「つまらないことです」
 慌てて全てを否定し、そのようなことはどうでもいいことなのだ、と自分に言い聞かせた。先生は微笑み、余計なことで集中力を削いではだめですよ、と付け足した。
 「ジュンセイは嫉妬なんか負けないで、立派な修復士になる方が先よ」
 暫くして先生はもう一度告げた。
 
 雷が窓ガラスを光らせた。雷鳴りが遠くで轟き、雨音がガラスを叩き始め、いつしかそのリズムの中でぼくは眠ってしまった。すうっと意識が遠のいていき、一方記憶がしみ出してきた。
 学生の頃ぼくは時々あおいをモデルに絵を描いた。日曜の午後や、大学をずる休みした平日の夕刻、特にすることがないと、祖父のカンバスと絵の具をこっそりと借りて描いた。あおいは最初嫌がっていたが描きあがった絵が気に入ったらしく、そのうち自分から、描いて、とねだってくることもあった。
 芽実とは対照的な、あおいの彫刻のような無表情な顔が好きだった。どこを見ているのか分からない物憂げな眼差しもお気に入りだった。現実から不意に逸れて、彼女にしか分からない空間を視線が泳いでいた。多少厭世的な、なげやりなところもあった。繊細で壊れそうな瞳だった。
 ぼくはあおいの視線の先にあるものがいつも気になって絵を描いた。彼女が見つめようとしているところを一緒に覗きたくて絵を描いた。もっともっと彼女に近づきたいと思っていた。なのに近づこうとするとどんどん遠のく逃げ水のような人でもあった。
 
 工房を出ると雨は上がっていた。傘を持ったままぼくは一人アルノ川河畔を歩いた。オレンジ色の街灯が通りを赤く浮かび上がらせている。時折背後から小型の自動車が近づいてきてはエンジン音を轟かせて走り去っていった。
 「五月二十五日か」
 ぼくは遠くの空を見つめながら呟いた。一体あおいはこの祝福の日を誰と一緒に過ごしているのだろう。彼女の二十七回目の誕生日をどんな人々に囲まれて......
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 楼主| 发表于 2005-12-16 11:33:30 | 显示全部楼层
 あおいの二十二歳の誕生日、あの日も雨だった。
 ぼくたちは七十周年記念講堂脇のコンクリートの階段で待ち合わせた。そこは二人のお気に入りの場所だった。
 大学のオーケストラに所属する学生が地下へと続く階段に腰掛けてチェロを練習していた。低く優雅な響きは建物の半地下部のコンクリート壁に反響し、心地よく一帯に響き渡っていた。
 雨を避けながら、折角の誕生日なのに、とぼくが言うと、あおいは、いいの、と微笑んだ。あの頃の二人にはどれほどの未来が見えていたのだろう。今日のこの時を予感することなんかできないほどに、虞は何一つなかったように思い返される。
 どこへ行こうか、と僕が言うと、あおいは、無理してどこかへ行く必要なんてないわ、と呟いた。二人は雨が上がる方に賭けて、階段に並んでしゃがむと、未来の天才チェリストの演奏に耳を傾けた。
 ぼくらはその夜下北沢の欧風レストランに出掛けてあおいの二十二歳を祝った。でもぼくにはあの七十周年記念講堂で聞いたチェロの音の方が、店の殷賑な雰囲気やオリーブオイルの効いた美味しい料理たちよりも強く印象に残った。雨音とチェロの響き、隣にあおいがいて、ぼくは彼女の手を握りしめていた。
 その時、チェリストの青年が演奏していた曲の題名をぼくはもう思い出すことができない。クラシック音楽、特にオペラが好きだったあおいには、その曲名がすぐに分かった。ぼくの知らない曲だった。
 人は全てを記憶にしておくことはできないが、肝心なことは絶対に忘れない、と僕は信じている。あおいがあの夜のことをすっかり忘れてしまったとは思いたくない。もう二度と彼女とは会うことはないかもしれない、としてもだ。
 夜、ぼくは芽実の部屋で、ルームメートの韓国人、インスーを紹介された。明るいインスーは芽実と語学学校の同期生だというのに、イタリア語は流暢だった。
 インスーとはイタリア語で話した。インスーと芽実はインスーが片言の日本語で、芽実が片言の英語で喋っていた。芽実はぼくとインスーがイタリア語で仲良くしているのがつまらないらしく、途中でまた不貞腐れて会話に参加せずにテレビを点けて寝転がってしまった。
 そこは語学学校の紹介による学生専門のアパートだった。部屋は全部で三つあり、食堂と風呂場が共用だった。もう一つの部屋には日本人の男性が住んでいるということだったが、見かけたことはなかった。
 「雨すごかったですね」
 インスーは窓のほうを見ながら言った。ぼくも、もうやみましたよ、と告げた。
 「芽実、こっちへ来て一緒にお茶を飲もう」
 言うと、芽実は、グラッツィエ、と呟いただけだった。
 イタリア版MTVが流れていた。短髪のロックシンガーが、画面の中で顔をクシャクシャにして歌っていた。日本のフォークソングに似ていた。イタリアの曲はどこか日本人向きな旋律だと思わない、と前に芽実に言われたことがある。確かにそう言われれば似ているものが多かった。
 「今日はどんな一日でしたか」 
 インスーが言い、僕は微笑んだ。ぼくは今日振り返ろうとして、耳元に懐かしいチェロの旋律が蘇るのをほのかに感じた。それを捕まえようと目を閉じてみた。旋律は一瞬耳元で大きくなったが、すぐにテレビから流れるイタリアのポップスにかき消されてしまった。
 「Era una giornata come quella di ieri」<昨日にそっくりな一日でした>
 ぼくが言うと、インスーはそれを口腔の中で繰り返した。昨日にそっくりな一日。不思議な響きだ。ぼくたちはいつだって昨日に戻ることができそうでできない。昨日は少し前のことなのに、明日とは違い永遠に手の届かない場所にあった。
 「みんなでこれからパーティーをしよう」
 ぼくが笑顔でインスーと芽実に持ちかけた。三人は初めて意見が一致し、早速その準備に取りかかった。 
 「ところでこれはいったい何のパーティーですか」
 インスーが芽実にも分るよう、片言の日本語で質問した。
 ぼくは冷蔵庫を漁りながら、今日は昔の恋人の誕生日なんです、と早口のイタリア語で答えた。芽実が、えっ何、と聞き返したが、インスーは苦笑いをしているだけだった。
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 楼主| 发表于 2005-12-19 16:02:21 | 显示全部楼层
第3章 静かな呼吸 un alito tranquillo

  工房の前を登るグイッチャルディーに通りを五十メートルほど辿ると、パラッツオ・ピッティの重々しい立面が姿を現す。フィレンツェでも名高い大商人ルーカ・ピッティが十五世紀後半に作らせた私邸だ。 
 ぼくは昼休憩の時間を利用して、ここによく出掛ける。ピッティ宮の中にあるパラティーナ美術館には、大好きなラッファエッロの絵がたくさん飾ってある。そこでは「ヴェールの女」や「アーニョロ・ドーニの肖像」、それに「小椅子の聖母」等の名作を間近で見ることができる。でも何よりの楽しみは、サトウルヌスの間に飾ってある「大公の聖母」。あの絵を見ると心が落ち着くのだ。
 
 ラッファエッロの描く聖母はどれも静謐で豊麗な美しさに溢れている。他のルネッサンス画家たちが描いた多くの聖母たちにはない柔らかい愛らしさがある。ぼくはいつの頃からか、「大公の聖母」と自分の理想の母親の姿とを重ね合わせてきた。寂しくなると、ここへ来て、じっと下から覗きこんだ。「大公の聖母」にだけぼくは自分の心を素直に見せてきた、とも言える。
 ある時、あんまり毎日のようにぼくが「大公の聖母」を見つめていたものだから、サトウルヌスの間の監視員が声をかけてきた。
 「ここから盗み出したいほどに好きだよ」
 ぼくがイタリア語でそう告げると、彼女は一瞬身構え、私がここで目を光らせている限りは絶対に無理だから、とぼくを指差して言った。ぼくたちは微笑みあった。
 自分に母親がいないことを告げると、監視員は神妙な顔を拵え、小さく頷いた。ここにこっそり母親に会いに来ているんだ、と誰にも打ち明けたことのない秘密をぼくは彼女にだけ喋ってしまった。お喋りになりたい時は誰にでもあるものだ。
 「ラッファエッロの描く聖母は世界一だと私も思う。世界中の人々がここで足を止めるのよ。実は私、ラッファエッロと同じウルビールの出身なの。あの街で生まれた者にとっては何よりの誇り。ここでこうして彼の絵の監視をして生きる人生を誇りに思っているのよ」
 ぼくは頷いた。それからラッファエッロについて彼女が知っている限りのことをぼくに教えてくれた。神童と呼ばれた少年期のことに始まり、教皇付きの芸術家として莫大な富と権力と名声を手に入れたローマ時代のこと、偏屈な奇人ミケランジェロとは対照的に誰からも愛され、何より明朗快活で温厚、そして美しい容姿に恵まれた彼の奇跡とでも呼ぶべき華麗な半生のことを......
 「だから彼は三十七歳という若さで夭折したんだわ。もしも彼がレオナルド・ダ・ヴィンチほども長生きしたら、どれほどの素晴らしい名作を生み出していたか分からない」
 ぼくは彼女の意見に賛成し、僕もそう思うよ、と答えた。
 「あら、君はよくみるとラッファエッロにそっくりね」
 ぼくたちはそれからお互いの顔を穴があくほど覗き込んで笑いあった。あれから数年の歳月が流れ、その監視員はどんな理由か分からないまま、まもなくそこから姿を消し、今は背の高いアフリカ系の男性が彼女の席を温めている。
 柱の袂の椅子に腰掛けるその男性を見るたび、絵画の持つもう一つの時間の雄大で残酷な流れを見る気がして仕方ない。こうしてこれらの絵は時空を飛び越え、様様な人間たちの手から手へと受け継がれて生き延びていくのだ。
 このアフリカ系の監視員もまたいつか違う別の監視員にその席を譲るだろう。何世紀もパラティーナ美術館が存続するとしても、ここを管理する人々や訪れる人々は、時間とともに変化していくはず。またこのぼくにしても、この絵の寿命の前では余りにも短すぎる人生しか持っていないのだ。
 優れた第一級の修復士と進歩する科学によって、この絵は何度も命を取り戻し、永劫に限りなく近い人生を生きるに違いない。ぼくは直接この絵に命を注ぐ可能性はないだろうが、同業の修復士たちが丹精込めてそこに新しい命を注ぐことになる。それだけでもぼくは自分の仕事に誇りを持つことができる。そういう仕事の末端に携わることができた自分を誇らしく思うことができる。
 「大公の聖母子」と向かい合う。あおいの視線にも似た、斜め下を静かに見下ろす物憂げな視線の先を想像しながら、ぼくは何百年も前に描かれた聖母のいまだ消えない美しさに見入る。まるでまだラッファエッロが生きているかのようだ。いや、画家は生きている。彼の魂はここにまだある。
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 楼主| 发表于 2005-12-20 11:18:11 | 显示全部楼层
 夕方、先生とカブール通りにある馴染みの画材屋まで出掛けた。ヴェッキオ橋を渡り、シニューリア広場の観光客たちの騒ぎの中をチェントロへと進み、賑やかなカルツァイウォリ通りを抜けて、ドゥオモの前に出た。先生は時々、ぼくの腕に手を巻きつけてくる。もっともそれはほんの一瞬のことで、彼女の機嫌のいい時に限る行為だ。ぼくに気を許した上でのことだが、いつまでもそうしていてほしいというぼくの願いはすぐに打ち消されて、先生は笑いながらすっと手を引っ込めてしまうのだ。
 夏が近づきつつある。うっすらと汗をかいている。日が長くなっていて、夕方なのにまだまだ太陽に力がある。光の先を見上げると、ドゥオモのクーポラが見えた。ふいにあおいを思い出してしまった。陽光がクーポラの周辺で踊っている。
 「どうしたの」
 少し先へと行きかけていた先生が、たち止まってドゥオモを見上げるぼくを振り返る。「前にも、ここで立ち止まって上を見ていたけど......」
 先生には何も隠せない。ぼくは気持ちを見透かされた少年さながら顎を引き、小さく肩を竦めて見せた。
 「思い出があるのね」
 先生の優しい声が僕の耳元をくすぐる。ぼくはかぶりを振る。
 「思い出じゃないんです。約束です」
 「約束か......」
 先生は微笑み、一緒にクーポラを見上げた。鳩が数羽クーポラから飛び立った。羽ばたく影がドゥオモの壁面を優雅に下がる。
 「約束は未来だわ。思い出は過去。思い出と約束では随分意味が違ってくるわね」
 先生の顔を見た。その穏やかな顔にも光が降り注いで、透き通るような皮膚をいっそう白く輝かせて見せる。
 「未来はいつだって先が見えないからいらいらするの。でも焦ってはだめ、未来は見えないけれど過去とは違って必ずやってくるものだから」
 先生は微笑むのを控える。
 「ぼくにとっては苦しい未来です」
 「......希望が少ししかなくったって、苦しくったって、可能性がゼロでないかぎり、諦めないことね」
 そういってぼくの肩を、ぽんぽん、と叩いた。
 「いい、この街を見てごらん。ここは過去へ逆行した街なのよ。誰もが過去の中で生きている。近代的な高層ビルなんか何処にもない。京都にだって新しいビルは幾らでもあるじゃない。パリだって、そう。でもここにはご覧の通り、中世の時代からぴたっと時間を止めてしまった街なのよ。歴史を守るために、未来を犠牲にしてきた街」
 ぼくは広場をぐるりと見回した。確かに、ここには新しいビルは一つもない。古い建物の外観をそのまま残している。歴史的美観を損なわないように街全体が保存されているのだった。
 「街だけではないわ。ここに生きる人たちは、少し大げさに言えば、ここを守るためにその人生の全てを捧げなければならないのよ。若者たちに、新しい仕事はない。私たちのような遺産を守る仕事か、観光業だけ。しかも馬鹿高い税金のほとんどが、この街の修復に充てられているのよ。街はどんどん老朽化していく。修復しても次から次に壊れていく。冬は寒く、夏は暑い。それでも、ここの人々は過去を生きる。少しも未来なんてないんだから、ゼロではない未来があるだけ、ジュンセイは幸せだわ」
 言い終わると先生は歩き始めた。ぼくは先生の後を追いかけたが、広場を出る間際、もう一度クーポラを振り返った。あおいが約束を覚えているとは思えなかった。それほどはっきりした約束ではなかった。冗談のような、或いは吹き抜ける風のような......

 
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 楼主| 发表于 2005-12-22 17:20:52 | 显示全部楼层
 画材屋で買い物を済ませ、、店を出たところでばったり芽実とはちあわせた。向こうは珍しく学校の帰りだった。ぼくは間に入りジョバンナに芽実を紹介したが、芽実のことを恋人と紹介しなかったのはぼくの失敗だった。彼女のことを友達といったのが芽実の機嫌を損ねさせる原因となった。先生には芽実の気の強さが分かるようで、自分に対して向けられた嫉妬心を回避するように、
 「用事を思い出したので、私はここから一人で行くわ。ジュンセイ、それを工房に届けておいてくれたら、今日は上がって構わないわよ」
 と言った。芽実さん、今度ゆっくり三人でご飯でも食べましょう。先生はそう付け足すとぼくたちに背中を向けた。二人きりになると芽実はぼくをそこにおいて、先生とは反対の方向へと歩き出してしまった。
 「どうして君はそんなに子供なんだい」
 追いかけ、彼女の横顔に向かって説得するように告げると、芽身は勢いよく振り返り声を浴びせた。
 「子供なのは、君じゃない。どうしてぼくの恋人ですってちゃんと紹介できないのよ。何よ友達って、私はいつから君のただの友達になったの。ねえ、いつから。ここはイタリアなんだからね。気を使う必要ないじゃない。いくら先生だからって、本人を前に友達呼ばわりは失礼だわ。君が逆の立場だったら、どうかしら。順正はわたしのただの友達なんですよって……。酷すぎる。最低。君がそんな卑怯な男だとは思わなかった。」
 ぼくは、画材の詰まった袋を抱えなおすとさっさと歩き出した芽実を慌てて追いかけた。すれ違う人々がそんなぼくたちに微笑を投げてくる。振り返ると遠くに先生の後姿が見える。先生には聞こえないとは思うが、気が気ではない。
 「みんな見てるから、あんまり大きな声を出さないの」
 「何でそこで日本の男になるの、大きな声を出させているのは君でしょ」
 何を言っても無駄だった。仕方なく、ぼくは一人でカッカする芽実の後を黙ってついていくしかなかった。
 あおいと交際していた頃、芽実のようになるのはいつもぼくの方だった。あおいは感情を剥き出しにするようなことはなかった。いつも、どんなことがあっても誰より冷静だった。
 あの頃のぼくは芽実ほどひどくはないにしても、男としてまだ何も出来上がってはおらず、青臭かった。あおいが、改めて真剣に付き合ったに等しい女性だったので、力加減が分からず、力を込めすぎた。いつでも彼女に自分を見ていてほしかった。
 かつてぼくは激しく嫉妬したことがある。あおいがぼくの知らない男子学生と文連ハウスの階段前で親しげに立ち話をしているのを目撃した直後のこと。ぼくがジョバンナといるところを目撃した芽実のような気持ちである。一瞬気まずい顔をあおいがしたような気がして、その瞬間からぼくの心は頑なになってしまった。
 あおいはその男にぼくのことを、阿形君、と紹介し、相手のことを、武田君、と同じ調子で説明したのだった。すると男が、
 「武田君なんて言い方されると照れるな、いつもの呼び方でいいのに」
 と微笑んだ。男が去った後、ぼくは芽身に負けないくらい大きな声で、青いに当り散らした。あの男の子とを君はどんなに親しげに普段読んでいるんだろうな、と。
 あおいは冷静を少しも崩さず、そんなぼくの嫉妬心を包み込むような微笑を口元に湛えて、 「彼とは幼なじみなんだもの」と低い声で告げるだけだった。
 そういう一方的なけんかは絶えなかった。いつでもあおいは姉のような態度で、激しく嫉妬するぼくを宥めた。今思い返すと、あれでは長続きはしないはずだった。
 ぼくは後悔している。でも時間は後戻りはしない。どんどん前へ、前へ突き進んでいくだけなのだ。ぼくは少しずつ離れていく芽実の背中を見ながら、小さいが途切れることのない嘆息を漏らすしかなかった。
 
 ぼくと芽実はあてもなく古都フィレンツェの町中をさまよい歩いた後、アルノ川沿いにあるレストランに入った。窓際の席に向かい合って座ったが、芽実は相変わらず視線を合わせてはくれなかった。ワインを水のように飲み、酔いつぶれていっそうぼくに絡むつもりのようだった。それから、とても二人では食べきれない量の料理を注文した。
 芽実は、まずキャベツと豆と香味野菜を古くなったパンと一緒に長時間に込んだリボッリータと呼ばれる料理を食べ、次に白インゲンのパスタを胃に流れ込み、最後に、代表的なトスカーナ料理の、小牛の胃袋のトマトに込み、トリッパ・アラ・フィオレンティーナを平らげてしまったのだった。とても女の子が普段食べる量ではないので、店員も目を丸くして芽実を見つめていた。
 ぼくは途中で、いい加減にしたらどうだい、と小声で窘めたが、彼女はその忠告に耳を傾けるどころか、ぼくが何か言えば言うだけ向きになって、いっそう口の中にものを押し込む始末だった。
 ワインもほとんど一人で一本近く空けてしまった芽実を、結局ぼくは担いで彼女のアパートまで送り届けなければならず、画材を左手に、芽実は右手で抱き支えて、すっかり暮れたフィレンツェの街を歩いたのだった。
 それでも不思議なもので、何故かこんな子供のような芽実でも、嫌いになれなかった。どれほど彼女のことを好きか、自分でも計りかねていることは確かだったが、むしろ彼女が子供であればあるほど、あおいとは違った角度で、ぼくは芽身の中にかつての自分に似た匂いをかぐことができた。
 芽身の温もりをぼくは右腕の内側に感じながら、彼女のアパートへと上がる坂道を登った。身体中から滲みしてくる汗も、決して不快ではなかった。誰かのためにこうして生きたことがなかった自分を少し反省するほどに、芽実は今のぼくにとって誰よりも人間らしい純朴な人なのだと理解できた。
 アパートにはインスーがいた。ぼくはことのてん末を素早く彼女に告げ、二人で芽実をベッドに運んだ。最後の余力で暴れまわっていため実が眠りに落ちたとき、ぼくは彼女に対して、少し今までとは違う感情を持つことができた。それはなんと表現したらいいのだろう、まるで父親のような気持ち、とでも呼ぶべきか。
 インスーが淹れてくれた紅茶を啜った後、ぼくは後のことをインスーに任せて、そこを出た。画材を抱えて登った坂道を、坂下から誰かに引っ張られるように下がった。初夏のさわやかな夜が雅川から吹き上げてきて、ぼくのシャツの中で膨らんだ。汗が少し抑えられて、ぼくはそこで初めて深々と呼吸をすることができた。
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发表于 2005-12-28 12:09:07 | 显示全部楼层
很多阿
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 楼主| 发表于 2006-3-24 10:13:41 | 显示全部楼层
消失了几个月,这里还是冷清一片阿.都怪自己管理不好呀,辜负大家前来观看的一片热情.以后一定要经常鞭笞一下自己,不好再这么懒了.希望各位兄弟姐妹时常来监督才是啊..
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 楼主| 发表于 2006-3-24 11:17:18 | 显示全部楼层
 朝食兼用の食事を済ませた後、芽実はやはりアルノ川沿いにある自分のアパートへ戻り、ぼくは工房に出かけた。
 アパートから歩いて五分ほどのヴェッキオ橋の傍に工房がある。大きな石造りの門の脇に作業場へと通じる小さな扉があり、そこを潜ると十坪ほどの狭い中庭に出た。四方を石壁に囲まれた空間は、植木鉢に入った植物が並べられていて、可愛らしい。その庭の突き当たりに工房の玄関があり、ぼくは傘を歴史の重みを伝えてくるダークチェルー色の木製の扉に立てかけてから中に入った。
 初めてここを訪れた時は、そこら中に置かれた中世の彫刻や油彩画に驚いた。
 歴史的な作品がまるで失敗作のように無造作にごろごろと放置され、堆く積まれているのだった。最初は練習用かと思ったが、そうではなかった。どれも本物だった。
 ここは街自体が中世なんだから、何も驚くことではないわ、と先生はぼくの肩を叩いて微笑んだ。あれから三年の歳月が流れ、ぼくは幾つかの修復士の資格にも合格した。持ち込まれる年代物の油彩画やテンペラ画の中でもとくに難しいものがぼくのところに多く回ってきた。ジョバンナはぼくを、最も信頼している、と二人きりの時に言ったことがあった。僕はずっとそれを信じていた。
 
 先生は近所の修復学校から訪れた数人の若い生徒たちを前に、支持体と呼ばれる絵が描かれた麻布や板の老朽や剥落などの傷みをどのように修繕していくべきか、を細かく指導していた。
 浅い桃色のシャツが彼女のお気に入りで、それはとても似合っていた。眼鏡の金の鎖がシャツに弛みを描いていた。
 先生はぼくを一瞥するや、素早く微笑んで見せた後、またもとの真剣な表情に戻った。ぼくは一番奥にある修復のための作業場へ向かった。
 最近この工房に国費留学でやってきた日本人、高梨明が洗浄の作業に入っていた。高梨はぼくよりも五歳年上の三十二歳だった。東京芸術大学の大学院で修復家養成のコースをマスターした後、日本の修復研究所に就職したが、より専門的な技術を修得するために文化庁から派遣されてやってきていた。
 
 「雨だね」
 高梨は洗浄の手を休めず告げた。
 「湿気は修復に良くない」
 彼は綿棒を微細に動かして洗浄作業を行っていた。表情は冷静沈着だったが、手先が僅かに震えているのが分かった。ぼくはジャケットを脱ぎ、作業着を頭から羽織ると、高梨の隣に座った。
 「湿気の多い日本では修復は大変な作業だ。こちらは乾燥しているから、膠に酢を混入したりするけど、あんなことは日本でしたら真っ先にかびてしまう」
 彼は独り言のようにぼそぼそと告げた後、一人で笑った。
 「根本的に日本とは方法が違う」
 「どう違うだい」
 ぼくが問うと、高梨は、うん、と一つ大きく頷いた。質問されることを待っていたような力のある返答である。
 「一例に過ぎないけれど、日本の場合は、いかに見た目をオリジナルに近づけて復元するかが重視されるんだ」
 なるほど。ぼくはそう丁寧に返事を返した。イタリアの場合、遠目には違和感のないよう色を差していくのは日本と同じだが、傍に寄ってよく見ると、明らかに補修が行われたことが分かるようにしなければならなかった。
 「文化財として価値が高ければ高いほど、何処が修復されているか、誰か見ても分かるようにしておくのがこの国では前提じゃないか」
 高梨はそう言うと、イタリアの方法が間違っていると言っているわけじゃない、つまり国によって考え方がまちまちだと言いたいだけなんだ、と付け足し、同時にそれは自分をぼくに肯定させようとしている言い方のようにも響いた。
 ぼくは作業に入った。高梨のように大学院で専門の知識を修得していないぼくは、いわゆる現場のたたき上げだった。ここではぼくは年上の高梨に専門的な技術を教える立場にあった。
 「君は凄いな。ここはフィレンツェでもトップクラスの工房なのに、国のバックアップもなしでよく入れたものだ。大学でとくに修復について学んできたわけじゃないんだろ」
 ぼくは、ああ、と答えてから作品を持ち上げ、隅々を点検した。ボッティチェリの初期の作品をぼくは手掛けていた。個人が所有しているものだったが、価値を考えると手が竦むので、ただ古い絵だと自分に言い聞かせていつも作業をすることにした。
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发表于 2006-3-24 11:39:53 | 显示全部楼层
老天忘了给我翅膀
于是我用幻想飞翔
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 楼主| 发表于 2006-3-24 13:39:36 | 显示全部楼层
 「大学で何を専攻してた」
 「国文学」
 「専門は?」
 「『山家集』とか、あの類よ」
 『山家集』か、と高梨は笑った。俺なんか、ずっとこの道一筋でここまで来たのに、自力でやってきた君に敵わないんだから、やになっちゃうな。
 高梨の言い方に刺があるのは分かっていた。仕事を離れると彼とは口も利かなかった。狭い街なので、知らず知らず日本人同士の繋がりを求めてしまうものだが、ぼくは芽実以外の日本人とはあまり関わりを持たないようにしていた。
 「どんな手を使ってここへもぐり込んだか教えろよ」
 「どんな手って」
 「先生と寝るとかさ」
 目を見開いて高梨を振り返った。高梨は片側の頬だけに微笑みを浮かべている。
 アンジェロがやって来て、イタリア語で雨が激しくなったことをぼくらに告げた。雷なんて珍しい、と濡れた服を引っ張ってアピールした。
 背が高く色白の青年だった。まだ顔に幼さが残っていた。アンジェロは無邪気に笑った。真っ白な綿のシャツがびっしょりと濡れており、その下の彼の細身の体に張り付いていた。高梨が視線を逸らし、片言のイタリア語で、着替えた方がいい、風邪引くぞ、と告げた。アンジェロは末の弟のように素直に従い、みんなが見ている前で白い肌をさらけ出した。
 
 作業が終わると、ぼくは先生に呼ばれて屋根裏にあるアトリエに行った。高梨もアンジェロもまだ残って作業をしていた。一度部屋を出て行く際に高梨を見返ったが、彼はさっきの挑発も忘れて黙々と作品を向かっていた。
 細い階段を振り返りつつ登る。階段は上に行くにしたがってやや細くなるようにできており、突き当りに先生の部屋があった。
 先生の絵のモデルをするようになったのは一年ほど前からのことだった。先生に仕事が終った後呼ばれて、モデルのことを相談された。迷わず、やらせてください、と返事をしたがあれからすでにぼくを描いた絵は五枚ほど仕上がっている。
 先生の前で服を脱ぐことにもう抵抗はない。母親のいない自分が先生に対して特別な感情があるのではないかと気にもしたが、それもどうやら杞憂のようだった。ぼくたちの関係は極めて冷静なものだった。ぼくは先生を信頼し、先生の作品に描かれることをこの上のない喜びと感じていた。先生は普段と少しも変わらない表情で黙々とぼくの裸体を描いていったに過ぎず、ぼくもそれ以上の期待を持たなかった。
 
 モデルをしている時、ぼくはよく母親のことを考えた。自分を生んだ人間がどんな人だったのかということを。ぼくが生まれてすぐの頃に自死を選んだ哀れな母親のことを。ぼくを残して死ななければならなかった彼女の心の破壊について。
 ふと、ジョバンナのような人ではなかったか、と思うときがあった。そう推測する根拠もあった。父は余り母のことを話したがらなかったが、祖父の清治は母が絵描きだったことをある時打ち明けた。最もそれは手紙の中でほんの一、二行書かれていたに過ぎなかった。余りうまい絵描きではなかったが、不思議な作風を持っていた。全体をうまく整えようとしないところが良かった、と祖父は書いていた。
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 楼主| 发表于 2006-3-27 11:48:13 | 显示全部楼层
 「卵になって」
 先生は新しい注文をぼくに与えた。ぼくは小さな四角い天窓から差し込む、雨空の光の中で丸くなった。
 息づかいが聞こえるほどのところに先生はいたが、ぼくはモデルなので、壁や柱を見つめていることがほとんどで、描いている先生の姿を知らなかった。その時二人の間には、冷静な膠着状態とでもいうべき関係があった。ぼくはそこに安らぎを覚えていた。
 「これでいい?」
 いつもの台の上に上がると手を前に組み、体を丸め、頭を膝にくっつけた。先生にお尻を向けていることになる。
 「いいわ、生まれようと意識していて頂戴ね」
 先生はそう言うと小さく笑った。顔を描いているとき以外はお喋りを許された。
 「ジョバンナ、皆があなたとぼくのことを噂しています」
 と低い声でその噂を迷惑そうに排除した。自分たちは潔白ということを先生に教えられたのだ、と気がつき、言葉を失った。
 「私がジュンセイの体を描くことが、一体どんな噂になるのかな」
 先生の言い方には、ぼくまでをも拒むニュアンスが微妙にあり、ぼくは膝に額を押し付けながらも顔を赤らめてしまった。ぼくが下らないことを持ち出したばっかりに、先生との間に薄い膜ができてしまったのではないかと後悔をした。
 「つまらないことです」
 慌てて全てを否定し、そのようなことはどうでもいいことなのだ、と自分に言い聞かせた。先生は微笑み、余計なことで集中力を削いではだめですよ、と付け足した。
 「ジュンセイは嫉妬なんかに負けないで、立派な修復士になる方が先よ」
 暫くして先生はもう一度告げた。
 
 雷が窓ガラスを光らせた。雷鳴が遠くて轟き、雨音がガラスを叩き始め、いつしかそのリズムの中でぼくは眠ってしまった。すうっと意識が遠のいていき、一方記憶が滲み出してきた。
 学生の頃ぼくは時々あおいをモデルに絵を描いた。日曜の午後や、大学をずる休みした平日の夕刻、とくにすることがないと、祖父のカンバスと絵の具をこっそりと借りて描いた。
あおいは最初嫌がっていたが、描きあがった絵が気に入ったらしく、そのうち自分から、描いて、とねだってくることもあった。
 芽実とは対照的な、あおいの彫刻のような無表情な顔が好きだった。どこを見ているのか分からない物憂げな眼差しもお気に入りだった。現実から不意に逸れて。彼女にしか分からない空間を視線が泳いでいた。多少厭世的な、なげやりなところもあった。繊細で壊れそうな瞳だった。
 ぼくはあおいの視線の先にあるものがいつも気になって絵を描いていた。彼女が見つめようとしているところを一緒に覗きたくて絵を描いた。もっともっと彼女に近づきたいと思っていた。なのに近づこうとするとどんどん遠のく逃げ水のような人でもあった。
 
 
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 楼主| 发表于 2006-3-27 17:10:42 | 显示全部楼层
 工房を出ると雨は上がっていた。傘を持ってままぼくは一人アルノ川河畔を歩いた。オレンジ色の街灯が通りを赤く浮かび上がらせている。時折背後から小型の自動車は近づいてきてはエンジン音を轟かせて走り去っていった。
 「五月二十五日か」
 ぼくは遠くの空を見つめながら呟いた。一体あおいはこの祝福の日を誰と一緒に過ごしているのだろう。彼女の二十七回目の誕生日をどんな人々に囲まれて.......

 青いのに十二歳の誕生日、あの日も雨だった。
 ぼくたちは七十周年記念講堂脇のコンクリートの階段で待ち合わせた。そこは二人のお気に入りの場所だった。
 大学のオーケストラに所属する学生が地下へと続く階段に腰掛けてチェロを練習していた。低く優雅な響きは建物の半地下部のコンクリート壁に反響し、心地よく一帯に響き渡っていた。
 雨を避けながら、折角の誕生日なのに、と僕が言うと、あおいは、いいの、と微笑んだ。あの頃の二人にはどれほどの未来が見えていたのだろう。今日のこのときを予感することとなんかできないほどに、虞は何一つなかったように思い返される。
 どこへ行こうか、と僕が言うと、あおいは、無理してどこかへ行く必要なんてないわ、と呟いた。二人は雨が上がる方に賭けて、階段に並んでしゃがむと、未来の天才チェリストの演奏に耳を傾けた。
 ぼくたちはその夜下北沢の欧風レストランに出かけて青いのに十二歳の誕生日を祝った。でもぼくにはあの七十周年記念講堂で聞いたチェロの音の方が、店の殷賑な雰囲気やオリーブオイルの効いた美味しい料理たちよりも強く印象に残った。雨音とチェロの響き、隣にあおいがいて、ぼくは彼女の手を握りしめていた。
 その時、チェリストの青年が演奏していた曲の題名をぼくはもう思い出すことができない。クラシック音楽、とくにオペラが好きだったあおいには、その曲名がすぐに分かった。ぼくの知らない曲だった。
 人間は全てを記憶しておくことはできないが、肝心なことは絶対に忘れない、と僕は信じている。あおいがあの夜のことをすっかり忘れてしまったとは思いたくない。もう二度と彼女とは会うことはないかもしれない、としてもだ。
 夜、ぼくは芽実の部屋で、ルームメイトの韓国人、インスーとを紹介された。明るいインスーは芽実と語学学校の同期生だというのに、イタリア語は流暢だった。
 インスーとはイタリア語で話した。インスーと芽実はインスーが片言の日本語で、芽実が片言の英語で喋っていた。芽見はぼくとインスーがイタリア語で仲良くしているのがつまらないらしく、途中でまたもや不貞腐れて会話に参加せずテレビをつけて寝ころがってしまった。
 そこは語学学校の紹介による学生専門のアパートだった。部屋は全部で三つあり、食堂と風呂場が共用だった。もう一つの部屋には日本人の男性が住んでいるということだったが、見かけたことはなかった。
 「雨凄かったですね」
 インスーは窓の方を見ながら言った。ぼくは、もうやみましたよ、と告げた。
 「芽実、こっちへ来て一緒にお茶を飲もう」
 言うと、芽実は、グラッツィエ、と呟いただけだった。
 イタリア版MTVが流れていた。短髪のロックシンガーが画面の中で顔をクシャクシャにして歌っていた。日本のフォークソングに似ていた。イタリアの曲はどこか日本人向きな旋律だと思わない、と前に芽実に言われたことがあった。確かにそういわれれば似ているものが多かった。
 「今日はどんな一日でしたか」
 インスーが言い、ぼくは微笑んだ。ぼくは今日を振り返ろうとして、耳元に懐かしいチェロの旋律が蘇るのを仄かに感じた。それを捕まえようと目を閉じてみた。旋律は一瞬耳元で大きくなったが、すぐにテレビから流れるイタリアのポップスにかき消されてしまった。
 「Era una giornata come queiia di ieri」「昨日にそっくりな一日でした」
 僕が言うと、インスーはそれを口腔の中で繰り返していた。昨日にそっくりな一日。不思議な響きだ。ぼくたちはいつだって昨日に戻ることができそうでできない。昨日は少し前のことなのに、明日とは違い永遠に手の届かない場所にあった。
 「みんなでこれからパーティーをしよう」
 ぼくが笑顔でインスーと目実に持ちかけた。三人は初めて意見が一致し、早速その準備に取り掛かった。
 「ところでこれはいったい何のパーティーですか」
 インスーが芽実にも分かるよう、片言の日本語で質問した。
 ぼくは冷蔵庫を漁りながら、今日は昔の恋人の誕生日なんです、と早口のイタリア語で答えた。芽実が、えっ何、と聞き返したが、インスーは苦笑いをしているだけだった。
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 楼主| 发表于 2006-3-28 10:37:14 | 显示全部楼层
第3章 静かな呼吸 (un ailto tranquillo)

 工房の前を登るダイッチャルディーニ通りを五十メートルほど辿ると、パラッツオ・ピッティの重々しいファサードが姿を現す。フィレンツェでも名高い大商人ルーか・ピッティが十五世紀後半に作らせた私邸だ。
 ぼくは昼休憩の時間を利用して、ここによく出掛ける。ピッティ宮の中にあるパラティーナ美術館には、大好きなラッファエッロの絵が沢山飾ってある。そこでは「ヴェールの女」や「アーニョロ・ドーニの肖像」、それに「小椅子の聖母」等の名作を間近で見ることができる。でも何よりの楽しみは、サトウルヌスの間に飾ってある「大公の聖母子」。あの絵を見ると心が落ち着くのだ。
 
 ラッファエッロの描く聖母はどれも静謐で豊麗な美しさに溢れている。他のルネッサンス画家たちが描いた多くの聖母たちにはない柔らかい愛らしさがある。ぼくはいつの頃からか、「大公の聖母子」と自分の理想の母親の姿とを重ね合わせてきた。寂しくなると、ここへ来て、じっとしたから覗き込んだ。「大公の聖母子」にだけぼくは自分の心を素直に見せてきた、とも言える。
 「その絵がよッぽど気にいったみたいね」
 ある時、あんまり毎日のようにぼくが「大公の聖母子」を見つめていたものだから、サトウルヌスの間の監視員が声を掛けてきた。
 「ここから盗み出したいほど好きだよ」
 ぼくがイタリア語でそう告げると、彼女は一瞬身構え、私がここで目を光らせているかぎりは絶対無理だからね、とぼくを指差して言った。ぼくたちは微笑みあった。
 自分に母親がいないことを告げると、監視員は神妙な顔を拵え、小さく頷いた。ここにこっそり母親に会いに来ているんだ、と誰にも打ち明けたことのない秘密をぼくは彼女にだけ喋ってしまった。お喋りになりたいときは誰にでもあるものだ。
 「ラッファエッロの描く聖母は世界一だと私も思う。世界中の人々がここで足を止めるのよ。実は私、ラッファエッロと同じウルビールの出身なの。あの街で生まれた者にとっては何よりの誇り。ここでこうして彼の絵の監視員をして生きる人生を誇りに思っているのよ。」
 ぼくは頷いた。それからラッファエッロについて彼女が知っているかぎりのことをぼくに教えてくれた。神童と呼ばれた少年期のことにはじまり、教皇付きの芸術家として莫大な富と権力と名声を手に入れたローマ時代のこと、偏屈な奇才ミケランジェロと対照的に誰からも愛され、何より明朗快活で温厚、そして美しい容姿に恵まれた彼の奇跡とでも呼ぶべき華麗な半生のことを......
 「だから彼は三十七歳という若さで夭折したんだわ。もし彼はレオナルド・ダ・ヴィンチほども長生きしたら、どれほどの素晴らしい名作を生み出していたか分からない」
 ぼくは彼女の意見に賛成し、僕もそう思うよ、と答えた。
 「あら、君を良く見るとラッファエッロとそっくりね」
 朴たちはそれからお互いの顔を穴があくほど覗き込んで笑いあった。あれから数年の歳月が流れ、その監視員がどんな理由か分からないまま、まもなくそこから姿を消し、いまは背の高いアフリカ系の男性が彼女の席を温めている。
 柱の袂の椅子に腰掛けるその男を見る度、絵画の持つもう一つの時間の雄大で残酷な流れを見る気がして仕方ない。こうしてこれらの絵は時空を飛び越え、様様な人間の手から手へと受け継がれて生き延びていくのだ。
 このアフリカ系の監視員もまたいつか違う別の監視員にその席を譲るだろう。何世紀もパラティーナ美術館が存続するとしても、ここを管理する人々や訪れる人々は、時間とともに変化していくはず。またこのぼくにしても、この絵の寿命の前では余り短すぎる人生しか持っていないのだ。
 優れた第一級の修復士と進歩する科学とによって、この絵は何度も命を取り戻し、永劫に限りなく近い人生を生きるに違いない。ぼくは直接この絵に命を注ぐ可能性がないだろうが、同業の修復士たちが丹精込めてそこに新しい命を注ぐことになる。それだけでもぼくは自分の仕事に誇りを持つことができる。そういう仕事の末端に携わることができた自分を誇らしく思うことができる。
 「大公の聖母子」と向かい合う。あおいの視線にも似た、斜め下を静かに見下ろす物憂げな視線の先を想像しながら、ぼくは何百年も前に描かれた聖母のいまだ消えない美しさに見入る。まるでまだラッファエッロが生きているかのようだ。いや、画家は生きている。彼の魂はここにまだある。
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 楼主| 发表于 2006-3-28 17:29:25 | 显示全部楼层
 夕方、先生とカブール通りにある馴染みの画材屋まで出かけた。ヴェッッキオ橋を渡り、シニョーリア広場の観光客たちの騒ぎの中をチェントロへと進み、賑やかなカルツァイウォリ通りを抜けて、ドゥオモの前に出た。先生は時々、ぼくの腕に手を巻きつけてくる。もっともそれはほんの一瞬のことで、彼女の機嫌のいいときに限る行為だ。ぼくに気を許した上でのことだが、いつまでもそうしていてほしいというぼくの願いはすぐに打ち消されて、先生は笑いながらすっと手を引っ込めてしまうのだ。
 夏が近づきつつある。うっすらと汗をかいている。日が長くなっていて、夕方なのにまだまだ太陽に力がある。光の先を見上げると、ドゥオモのクーポラが見えた。不意にあおいのことを思い出してしまった。陽光がクーポラの周辺で踊っている。
 「どうしたの」
 少し先へと行きかけていた先生が、立ち止まってドゥオモを見上げるぼくを振り返る。
 「前にも、ここで立ち止まって上を見ていたけど......」
 先生には何も隠せない。ぼくは気持ちを見透かされた少年さながら顎を引き、小さく方を竦めて見せた。
 「思い出があるのね」
 先生のやさしい声が僕の耳元をくすぐる。ぼくはかぶりを振る。
 「思い出じゃないんです。約束です」
 「約束か......」
 先生は微笑み、一緒にクーポラを見上げた。鳩が数羽クーポラから飛び立った。羽ばたく影がドゥオモの壁面を優雅に下がる。
 「約束は未来だわ。思い出は過去。思い出と約束では随分と意味が違ってくるわね」
 先生の顔を見た。その穏やかな顔にも光が降り注いで、透き通るような皮膚をいっそう白く輝かせて見せる。
 「未来はいつだって先が見えないからいらいらするもの。でも焦ってはだめ、未来は見えないけれど過去とは違って必ずやってくるものだから」
 先生の瞳の中を覗き込んだ。
 「でも、その未来は希望が少ないんです」
 先生は微笑むのを控える。
 「ぼくにとって苦しい未来です」
 「......希望が少ししかなくったって、苦しくったって、可能性がゼロでないかぎり、諦めないことね」
 そう言ってぼくの肩をぽんぽん、と叩いた。
 「いい、この街を見てごらん。ここは過去へ逆行した街なのよ。誰もが過去の中で生きている。近代的な高層ビルなんか何処にもない。京都にだって新しいビルは幾らでもあるじゃない。パリだって、そう。でもここはご覧の通り、中世の時代からぴたっと時間を止めてしまった街なのよ。歴史を守るために、未来を犠牲してきた街」
 ぼくは広場をぐるりと見回した。確かにここには新しいビルは一つもない。古い建物の外観をそのまま残している。歴史的美観を損なわないように街全体が保存されているのだった。
 「街だけではないわ。ここに生きる人たちは、少し大げさに言えば、ここを守るためにその人生の全てをあげなければならないのよ。若者たちに新しい仕事はない。私たちのような遺産を守る仕事か、観光業だけ。しかも馬鹿高い税金のほとんどが、この街の修復に充てられているのよ。街はどんどん老朽化していく。修復しても次から次に壊れていく。冬は寒く、夏は暑い。それでも、ここの人々は過去を生きる。少し未来なんてないんだから、ゼロではない未来があるだけ、ジュンセイの幸せだわ」
 言い終わると先生は歩き始めた。ぼくは先生の後を追いかけたが、広場を出る間際、もう一度クーポラを振り返った。あおいが約束を覚えているとは思えなかった。それほどはっきりとした約束ではなかった。冗談のような、或は吹き抜ける風のような......
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 楼主| 发表于 2006-3-29 10:01:50 | 显示全部楼层
 画材屋で買い物を済ませ、店を出たところでばったり芽実とはちあわせた。向こうは珍しく学校の帰りだった。ぼくが間に入りジョバンナに芽実を紹介したが、芽実のことを恋人と紹介しなかったのはぼくの失敗だった。彼女のことを友達と言ったのが芽実の機嫌を損ねさせる原因となった。先生には芽実の気の強さが分かるようで、自分に対して向けられた嫉妬心を回避するように、
 「用事を思い出したので、私はここから一人で行くわ。ジュンセイ、それを工房に届けておいてくれたら、今日あがって構わないわよ」と言った。芽実さん、今度ゆっくり三人でご飯でも食べましょうね。先生はそう付け足すとぼくたちに背中を向けた。二人きりになると芽実は僕をそこにおいて、先生と反対の方向へと歩き出してしまった。
 「どうして君はそんなに子供なんだい」
 追いかけ、彼女の横顔に向かって説得するように告げると、芽実は勢いよく振り返り声を浴びせた。
 「子供なのは、君じゃない。どうしてぼくの恋人ですってちゃんと紹介できないのよ。何よ友達って、私はいつから君のただの友達になったの。ねえ、いつから。ここがイタリアだから。気を遣う必要ないじゃない。いくら先生って、本人を前に友達呼ばわりは失礼だわ。君が逆の立場だったら、どうかしら。順正は私のただの友達ですよって......。酷すぎる。最低。君がそんな卑怯な男だとは思わなかった」
 ぼくは、画材の詰まった袋を抱きなおすとさっさと歩き出した目実を慌てて追いかけた。すれ違う人々がそんなぼくたちに微笑みを投げかけてくる。振り返ると遠くに先生の後姿が見える。先生には聞こえないとは思うが、気が気ではない。
 「みんな見てるから、あまり大きな声を出さないの」
 「何でそこで日本の男になるの。大きな声を出させているのは君でしょ」
 何を言っても無駄だった。仕方なく、ぼくは一人でカッカする芽実の後ろを黙ってついていくしかなかった。
 あおいと交際していた頃、芽実のようになるのはいつもぼくの方だった。あおいは感情を剥き出しにするようなことはなかった。何時も、どんなことがあっても誰よりも冷静だった。
 あの頃のぼくは芽実ほど酷くはないにしても、男としてまだ何も出来上がってはおらず、青臭かった。あおいが、初めて真剣に付き合ったに等しい女性だったので、力加減が分からず、力を込めすぎた。いつでも彼女に自分を見ていてほしかった。
 かつてぼくは激しく嫉妬したことがある。あおいがぼくの知らない男子学生と文連ハウスの階段前で親しげに立ち話をしているのを目撃した直後のこと。ぼくがジョバンナといるところを目撃した芽実のような気持ちであった。一瞬気まずい顔をあおいがしたような気がして、その瞬間からぼくの心が頑なになってしまった。
 あおいはその男にぼくのことを、阿形君、と紹介し、相手のことを、武田君、と同じ調子で説明したのだった。すると男が、
 「武田君なんて言い方されると照れるな、いつもの呼び方でいいのに」
と微笑んだ。男が去った後、ぼくは芽実に負けないくらい大きな声で、あおいに当り散らした。あの男のことを君はどんなに親しげに普段呼んでいるんだろうな、と。
 あおいは冷静さを少しも崩さず、そんなぼくの嫉妬心を包み込むような微笑みを口元に湛えて、
 「彼とは幼なじみなんだわ」
 と低い声で告げるだけだった。
 そういう一方的な喧嘩は絶えなかった。いつでもあおいは姉のような態度で、激しく嫉妬するぼくを宥めた。今思い返すと、あれでは長続きはしないはずだった。
 ぼくは後悔をしている。でも時間は後戻りはしない。どんどん前へ、前へ突き進んでいくだけなのだ。ぼくは少しずつ離れていく芽実の背中を見ながら、小さいが途切れることのない嘆息を漏らすしかなかった。
 
 ぼくと芽実はあてもなく古都フィレンツェの街中をさまよい歩いた後、アルノ川沿いにあるレストランに入った。窓際の席に向かい合って座ったが、芽実は相変わらず視線をあわせてはくれなかった。ワインを水のようにのみ、酔いつぶれていっそうぼくに絡むつもりのようだった。それから、とても二人では食べきれない量の料理を注文した。
 芽実は、まずキャベツと豆と香味野菜を古くなったパンと一緒に長時間煮込んだリボッリータと呼ばれる料理を食べ、次に白インゲンのパスタを胃に流し込み、最後に、代表的なトスカーナ料理の、子牛の胃袋のトマト煮込み、トリッパ・アラ・フィオレンティーナを平げてしまったのだった。とても女の子が普段食べる量ではないので、店員も目を丸くして芽実を見つめていた。
 ぼくは途中で、いい加減にしたらどうだい、と小声で窘めたが、彼女はその忠告に耳を傾けるどころか、ぼくが何か言えば言うだけ向きになって、いっそう口の中に物を押し込む始末だった。
 ワインもほとんど一人で一本近く空けてしまった芽実を結局ぼくは担いで彼女のアパートまで送りと届けなければならず、画材を左手に、芽実を右で抱き支えて、すっかり暮れたフィレンツェの街を歩いたのだった。
 それでも不思議なもので、なぜかこんな子供のような芽実でも、嫌いにはなれなかった。どれほど彼女のことを好きか、自分でも計りかねていることは確かだったが、むしろ彼女が子供であればあるほど、青いとは違った角度で、ぼくは芽実の中にかつての自分に似た匂いを嗅ぐことができた。
 芽実の温もりをぼくは右腕の内側に感じながら、彼女のアパートへとあがる坂道を登った。身体中から滲み出してくる汗も、決して不快ではなかった。誰かの為にこうして生きたことがなかった自分を少し反省するほどに、芽実は今のぼくにとって誰よりも人間らしい純朴な人なのだと理解できた。
 アパートにはインスーがいた。ぼくはことのてん末を素早く彼女につげ、二人で芽実をベットに運んだ。最後の余力で暴れまわっていため実が眠りに落ちたとき、ぼくは彼女に対して、少し今までとは違う感情を持つことができた。それはなんと表現したらいいのだろう、まるで父親のような気持ち、とでも呼ぶべきか。
 インスーが淹れてくれた紅茶を啜った後、ぼくは後のことをインスーに任せて、そこを出た。画材を抱えて登った坂道を、坂下から誰かに引っ張られるように下がった。初夏の爽やかな夜風が川から吹き上げてきて、ぼくのシャツの中で膨らんだ。汗が少し抑えられて、ぼくはそこで初めて深々と呼吸をすることができた。
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