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楼主: syuunfly

[原创作品] 冷静と情熱の間(全书完)

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 楼主| 发表于 2006-3-29 16:21:46 | 显示全部楼层
 工房の門を潜ると、そこは三角形の狭い中庭になっている。屋根もないので普段は自転車置き場として利用されている使い勝手のない石畳の空間を、ぼくは荷物を抱えて進んだ。作業場の方に明かりが灯っていた。誰かが居残りをしているのだろうか。腕時計を見ると十一時を回っている。泥棒かもしれない、と警戒して窓から中をこっそり覗き込んでみた。
 明かりがついているのは、一番奥にある作業場だった。暫く躊躇った後、いっそうの用心をして中に入った。人の気配があった。押し殺した声が聞こえる。中の者たちがぼくに気がつく気配がないので、好奇心に煽られて更に歩を進めた。
 カンテラの光の中で蠢く二つの身体があった。白い肌が見えた。先生かもしれない、とよからぬ想像を掻き立てられて目を凝らすと、ソファの上で抱き合い、唇を重ねあう高梨とアンジェロが確認できた。
 カンテラの弱光が彼らの顔の輪郭を闇の中に線画のように浮かび上がらせている。まもなく高梨と口付けるアンジェロと目があった。アンジエロの目が大きく見開かれ、驚いているのが伝わった。高梨の後頭部が饒舌にアンジェロの顔半分を隠していた。ぼくはすぐにはそこから動けず、じっとアンジェロを見つめるしかなかった。
 高梨は普段の冷静さを失って興奮し、ぼくに背後を見せたままアンジェロを羽交い絞めにしていた。アンジェロの訴えるような目をぼくは記憶した。光を吸い込み、恥部を覗き込まれた者がする怯えの目だ。ぼくは静かにきびすを返した。そして、画材を自分の机の上に置くと、途中から、高梨にも分かるように大きな音を立てて室内を歩いてしまった。何かがぼくを不愉快にさせたのだ。
 目まぐるしくて、息苦しかった。事件らしい事件も起きないこのフィレンツェで、ぼくの周辺だけが奇妙に怪しく発光していた。戸外に飛び出し、一度大きく深呼吸すると、頭上から満月がまたしてもぼくを見下ろしていた。何かが起こるときはいつだって満月が頭上にあった。

 それから暫く、作業場からいつもの無駄な会話が消えた。アンジェロの視線を時々感じたが、高梨はぼくを無視した。何も知らない先生が顔を出しては、あらどうしたのアンジェロ元気ないのね、とからかった。三人は素早く視線を逸らし、無言でまた自分の作業に没頭するふりをした。
 高梨とアンジェロの関係を目撃してから、一週間ほどが過ぎたある日。ぼくが居残り、十七世紀に活躍したフランチェスコ・コッツァの油彩画の施行処置について顕微鏡やX線などで慎重に点検していると、そこに一旦帰ったはずのアンジェロが顔を出した。
 「見てみろ、この支持体や裏打ち布に残留している古いワニス樹脂を。すっかり樹脂分が残留して、画布が硬化してしまっている。
 話題が先日の夜のことに及ぶのを警戒して、わざとこの油彩画の修復の難しさについて会話の先手を打った。
 「このままじゃ、間違いなく画布を劣化させてしまう。取り除くしかないな」 
 同意を求めたわけでもなく、独り言でもない。アンジェロとの距離を微妙に計りながら、できるだけ彼の心に踏み入らないように配慮したのだった。しかしアンジェロは立ちすくんだまま動こうとしなかった。
 「やっかいな作業になりそうだな」
 ぼくがアンジェロの顔を見つめて告げると、彼は小さく嘆息を漏らした。
 「あんなとこを見られて、いまさら言い訳をするつもりはないけど、ぼくは高梨は嫌いだ」
 アンジェロの瞳は室内の光を吸収して鈍く光っていた。
 あの夜の、ぼくをじっと凝固して見つめた飛び出しそうな目玉を思い出した。まるで不倫現場を見つけられた恋人のような慌てようだった。アンジェロがぼくに気がついたとき、高梨はまるで鈍感に反応を示さなかったが、彼は本当に気がつかなかったのだろうか。それとも、アンジェロより早く僕の存在に気がついて、あんな行動に出たのではないだろうか。今になって考えると、あの時の高梨の興奮は第三者に見せつけるようなわざとらしいものだった。あれ以来、アンジェロの動揺とは反対に、高梨は奇妙な冷静さの中にあった。
 「いきなりあんなふうになったんだ。抵抗したんだけど」
 アンジェロのまるで恋人に言い訳するような言い方も不愉快だった。聞いていたくなかった。そんなこと知ったことではない。ぼくは黙って作業に集中する。アンジェロは立ち尽くしたまま、そこから動こうとしなかった。
 「ぼくは高梨ではなくて、順正、君が好きなんだ」
 僕は作業の手を止めて、アンジェロを睨みつけた。
 「おい、君たちのいざこざをぼくに向けるのだけはやめてくれないか」
 「違う、最初からぼくはずっと君が好きだった」
 ぼくは工房の外へ出たほうがよさそうな気がして、フランチェスコ・コッツァの油彩画を片つけ始めた。
 アンジェロは泣き出しそうな顔で訴えた。その真剣な視線が分かっていながら、ぼくはどうしても冷たくしてしまうのだった。油彩画を棚に仕舞うと、ぼくはアンジェロの脇を素通りした。アンジェロはぼくを工房の外まで追いかけてきて行く手を塞いだ。
 「アンジェロ、ぼくはそんなにいっぺんに沢山の感情を抱えきれないんだ。ぼくは自分の恋人とのことで精一杯だし......」
 一段と強く言うと、アンジェロは肩を落とし、青白い顔の真中で大きな瞳だけを潤まれていた。彼の肩を、いつも先生がそうするように、優しくぽんぽんと叩いて離れた。
 
 工房の門を出ると、通りはまだ賑やかだった。金曜日のせい。ヴェッキオ橋には観光客が溢れ、アルコールに酔いつぶれた若者たちの歌声が響いていた。ぼくは家にまっすぐ帰る気になれず、まだギクシャクが続いている芽実のアパートへと向かった。
 アルノ川の暗い水面を見つめながら、川沿いの歩き慣れた側道を辿った。小型自動車が猛スピードですぐ脇を横切っていった。この街の車はいつも速度に慎みがなかった。過去だらけの街で現代と向かい合うことができるのが唯一自動車なのかもしれなかった。だからか、ドライバーはまるで激しく異性を求めるように誰もかれもスピードを出した。
 ぼくは歩きながら、またあおいのことを思い出していた。ぼくたちはよく夜の羽根木公園を並んで歩いた。公園の縁のぼくの狭いアパートに飽きると、夏にはお菓子やビールを持ち、よく散歩に出かけたものだった。同棲をしたわけではなかったが、あの一時期はお互いのアパートを行ったり来たりだった。幸福だった。あおいをしっかりと自分の心に繋留していた。毎日、片時も離れることがなく彼女はぼくの傍にいたのだ。
 公園の子高い丘の上の長椅子に並んで座り、よく夜空に灯る月を見上げた。世界は二人を中心に回りつづけていた。彼女がいるだけで、ぼくは何だってできるような気がしていた。でも、あおいはどうだったのだろう。あんなに幸福な時代を生きていながら、どこかで未来を信用していないようなそんな表情をすることがあって、ぼくは時々不安にさせるのだった。
 「愛しているよ」
 初めてその言葉を使ったので、いつのことだっただろう。その幸福の時期からそう遠くはない日。それまではお互い若者らしくなく、好きだよ、と言い合っていた。あれほど肉体関係を持ちながら、ぼくたちは、愛、という響きに用心していた。いやぼくたちではない。あおいはぼくの前で、愛、という響きを使ったことなどなかった。
 いくら待っても、あおいの返事は戻ってこなかった。不安になり、
 「愛してないの」
と聞き返した。あおいは視線を逸らし、そんなことない、と言った。
 「そんなことないって日本語を、どういうふうに解釈したらいいのかな」
 あおいは困った表情をして見せた。愛と言う言葉を大切にしているに違いない、と良心的に取ることもできたが、正反対にも思えた。はっきりと彼女の口から、愛、という言葉を引き出したかった。
 「愛しているって言ってくれないかな」
 痺れを切らしてそう聞いた。そこではじめてあおいは、愛してる、と言ったのだ。それも聞き取れないほどに低い声で。喜ぶべきはずだったが、ぼくは素直に感情を表に出すことができなかった。
 文連ハウスの前で、彼女の友達を紹介された時のことを思い出し、自分の知らないところにもう一人別のあおいがいるような気がして苦しかった。
 ぼくはそれ以降、あおいに対して愛の確認を求めることができなくなってしまったのだ。
 愛という言葉そのものが、オーソドックス詐欺の手口のように思えてならなかった。
  
 後悔のない人生なんてあるのだろうか。ぼくはずっと後悔をしつづけている。生涯、後悔から逃れることができないような気もする。そう思うと足が不意に重くなる。緩やかに登る坂道を見上げた。カーブする道の途中に芽実のアパートの灯が見えた。ぼくは暫くそこに立ち尽くし、どうしようかと躊躇した。
 
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发表于 2006-3-30 14:57:25 | 显示全部楼层
谢谢了啊,正在努力看中~~~~~~~~~~~
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 楼主| 发表于 2006-3-30 15:32:19 | 显示全部楼层
第4章 秋の風 (il vento autunnale)

 祖父阿形清治から手紙が届いた。

 元気にしていますか。順正が伊太利へ旅立ってから私は随分と草臥れて、また物忘れも酷くなりました。こうして手紙などを書くのもぼけないための一つの手段なのです。
 最近は旅をするのも億劫になって、そのせいで絵筆も進まず、仕事は随分と疎かになってしまいました。にもかかわらず、画壇との付き合いはいっそう深まり、どうでもいいような集まりの理事をしなければならなくなり、まあ年齢順というしきたりなので仕方なく受け、会合に参加してはゲンナリしている次第であります。
 それにしてもこの国は、なかなか意見が纏まりにくいのは政治も絵の世界もまったく一緒のようで、予算の一つといっても、ああでもないこうでもないと日々消耗しております。
 絹江がここのところ臥せっているせいで、外出を渋っておりましたが、君が伊太利にいるうちに最後の大冒険をしてみようかとぼんやり考えております。かねてから興味のあったルネッサンス絵画を一度ゆっくりと眺めてみたいと思います。若いこちには何度か伊太利の美術館巡りをした経験がありますが、年を重ねてまた見方も随分違っているのではないかと思うのです。まだスケジュールなどというものは立ちませんが、画壇の集まりがヨーロッパの似たような連中との交流会なるものを計画しておりまして、もし体力的になんとかいけそうならば、そのついでにそこまで足を伸ばしてみようかと思っております。
 清雅が同行してくれればいいのですが、なにせ君の父親はあのような性格ですから、金も出さず、心はもっと出さず、まあ勝手に粋なよ、といわれるのが落ちでしょうから、やっぱり一人で行くことになるでしょう。若いことは世界中を歩いたので、来年七十五ですが、伊太利ぐらいなんと言うことはありません。フィレンツェの街をカンバスに焼き付けてみようと思います。
 ところで君の修復の仕事の方は順調ですか。前の手紙で十五世紀のフレスコ画の修復なども手掛けていると書いてありましたが、それは実に素晴らしいことです。君がしっかりとした信念で仕事を選ばれたこと、ぼくは金満家の息子より誇りに思います。どうか、急がずその道に精進なさることと亜細亜の果てよりお祈りいたしております。
 さて、季節は次第に寒くなってまいりました。身体は若い時期の何よりの資本、何とぞご体お大切に。

  九月十五日阿形清治
阿形順正さま


 何度も読みなおしたその手紙をぼくは仕舞っておいた机の引き出しから取り出して、ベッドで寝転ぶ芽実に見せた。芽実は読みおわると、順正のお祖父様がどんな方かだいたい想像はついたわ、と微笑んだ。それからぼくたちはもう一度愛し合った。
 
 秋の気配が夜風とともに、開けっ放しの窓から忍び込んでくる。呼吸をするたびに胸のおくが切なくなって、横で眠る芽実の寝顔がいとおしい。何度も激しく抱き合ったのに、それでもしたりない、と芽実は駄々をこねたが、結局疲れ果てて眠りこけてしまった。長く黒い髪が芽実の頬に流れて顔を微妙に隠している。寝顔に口付けしようとそっと手を伸ばした途端、芽実の目が開いた。
 「起きてたんだ」
 「夢見た」
 「なんの」
 「順正がどこか行っちゃう夢」
 「正夢じゃないか」
 一瞬沈黙した後、芽実は、なんてこというのよ、と言いながら目を大きく開いてぼくの首に力強く手を回してきた。
 しがみついて離れようとしない。芽実は寝ぼけながらぼくの顔にまるで犬のようにキスをしてくる。顔が濡れて、思わず顔を背けた。
 そのまま芽実はぼくの上に跨ると、両手でぼくの肩を押した。ペニスの上に腰を沈めてゆっくりと動かしはじめた。柔らかい彼女の臀部の肉がぼくを刺激する。
 「するなら避妊しなけりゃ」
 芽実はぼくの声を無視して腰を振りつづけた。彼女の部分を感じる。すでにぼくを受け入れる態勢が整っていた。ペニスが静かに持ち上がってくる。角度を付け、そこに吸い込まれていく。
 「駄目だ。避妊をしないならぼくはできない」
 はっきりとそう言った。芽実が夢の続きにいるのが分かった。
 「子供ができてしまう」
 自分の声に驚いた。その時、記憶の底から黒い声が届いた。それはぼくの声ではなかった。あおいの声だ。何度も夢の中で聞いたあおいの声。慟哭するあおいだった。
 ペニスの先端がくぼみに消えかかった瞬間、慌てて腰を引き、力任せに身体を捩ると芽実から離れた。力の加減ができず、芽身はそのまま反動でベットの後方へと倒れてしまう。
 「心配しなくても大丈夫よ」
 起き上がりながら芽実が言った。
 「何が」
 「だってあんなに出した後だもん。もう空っぽになってるよ」
 「馬鹿言うな」
 目実は驚き身を引く。ぼくがこれほど起こった姿を彼女は見たことがなかった。ぼく自身、久しぶりに大声を張り上げたので心臓が一人勝手に唸っていつまでも元に戻らなかった。鼓膜が膨張して、圧迫感を覚えた。頭骨の内側で血液が激しく流れ始めているのを伝えた。大太鼓が頭の中で鳴っている、そんな感じだった。
 あおいの泣き顔がいつまでも消えない。それが芽実と重なり、胸の奥をいっそう切なくさせた。思い出したくない記憶だった。

 ぼくとあおいは何度も繋がって離れた。その繰り返しの中に誤差が生まれ、一瞬の気の緩みが生じたのだ。あの出来事によってぼくたちは別れることになったが、でも実際には本当に繋がってしまったということもできる。二度と恋人としてやり直しことはできないが、生涯背負いつづける運命をぼくたちは共有してしまった。切り離れてしまったもう一つのぼくたちと引き換えに......
 「どうしたの?」
 芽実がぼくを覗き込む。そっと抱き寄せる。芽実は腕の中でおとなしくしていて動かない。感づかれたくなかった。遠い過去から早くぼくは飛び立たなければならなかった。
 芽実を抱きしめたまま一回転し、今度はぼくが上になって、彼女の形の良い薄紅色の唇にキスをした。すっかり萎縮して窪みこんだ唇は花のつぼみのようだった。ぼくは自分自身を鼓舞するようにその蕾に執拗に口づけた。
 「いいよ、無理しなくて」
 そういってぼくは芽実の身体にゆっくりと覆い被さった。芽実の手を伸びてきてぼくの頬を包み込む。引き寄せられ彼女の唇が今度はぼくの唇を吸ってきた。ぼくたちは長いキスを交わした。吸い付いては離れ吸い付いては離れ.....

 もう一度抱き合った後、芽実は裸のまま窓辺に立った。夜空を見上げる彼女の後姿をぼくは美しいと思った。彼女には恥じらいはなかった。何処も隠そうとはしない。
 そういえば最初から光の元でぼくたちは抱き合った。あおいは決して暗がりでしか求めなかったのとは違う。イタリア人の血が混じっているその見事なプロポーションを自慢しているわけでもない。
 「パパに会いに行こうかなって思うの」
 芽実を見つめるために体を起こした。室内灯の光を受けて瞳の表面が仄かに輝いている。
 「ミラノまで?」
 「そうよ」
 「やっと決心したんだな」
 「そう、今のこの膠着した気分を打ち破るにはとりあえず何か行動を起こす必要があったから」
 ぼくは、へえ、と思わず呟いてしまった。芽実は僕に背中を向けた。
 「ミラノまでついてきてくれる?」
 ベットから下りると芽実の横まで歩いた。彼女の横顔を覗き込んだ。暗い瞳の中で微かに光が灯っているのが確認できる。秋風は心地よさの中にも若干芯があり、頬を強く撫でるのだった。
 うん、構わないよ、とぼくは小さくつぶやいた。
 「ごめん、でも一人では自信がないんだ」
 「いいよ、つきあうよ」
 ぼくはもう一度言った。芽実に抱きつかれた。
 「生きているんなら、会った方がいい。ぼくのお母さんみたいにもう死んでしまった人間には会いたくても会えないんだから。......それに会ってみたら許せるようになるかもしれない。ここまできていながら、もしも会わなければ一生後悔するよ」
 芽実の体が冷え始めていた。彼女の胸の鼓動がぼくの胸に届く。
 「順正には、まだお母さんの記憶あるの?」
 芽実の声が耳元をくすぐった。ぼくはかぶりを振る。
 「生まれてすぐに死んだ。写真でしか知らないけれど、あまりぼくには似てないんだ。ぼくは御父さん似でね。それでよかった。自分の顔を見るたびに母親の面影をなぞるのなんかたまったもんじゃないから」
 芽実はぼくの手を引っ張ってベッドまで歩いた。シーツの中に二人はもぐりこみ彼女はぼくを背後から抱きしめた。二人は背中とお腹をくっつけて眠った。

 翌朝、工房からの電話で起こされた。番頭のような存在の古株の修復士からで、ぼくがここ一月ほど修復を手掛けていたフランチェスコ・コッツァの絵が何者かによって引き裂かれているとの連絡だった。慌てて服を着て、寝ぼけや芽実をそこに残し、取るものもとりあえずアパートを飛び出した。
 工房に着くと、訓練生たちが絵を囲んでいた。ぼくは押しのけて中に割り込んだ。絵は無残に大きな×印を描くように刃物で切られていた。言葉が出ず、放心した。あと数日で完成というところまで来ていたのだ。いったい何が起こったのかすぐには理解することができなかった。
 歴史的な名作を損傷させてしまった工房への責任は免れないだろう。同時に、それは先生の信用を落とすことにもなる。
 高梨がやってきた。ぼくが下を向いて黙っていると、彼はことの顛末を訓練生たちから聞き終えるなり、何てことだ、ト大げさに漏らした。高梨が眉間にしわを寄せ、心配している素振りを見せれば見せるほど、心の中で疑念が燃え滾った。
 高梨の言い方は、わざとらしく響いた。
 「朝着てみたら、すでにこの状態になっていた」
 第一発見者の修復士が説明した。
 「他には?」
 「まだちゃんと見てはいないけど、物色した後もないし......、盗まれた絵もない。先生が手掛けているペルジーノの方は無事なんだ......」
 「どういうことかな。どうしてこの絵だけが狙われたんだろう」
 高梨はぼくに向かってそう言った。ぼくは一度唾を飲み込み、自分を落ち着けようと努力した。
 「ぼくに恨みのあるやつの仕業じゃないか」
 「恨みったって、こんなことをするかい?犯人の頭がよっぽどおかしいのか、それとも相当お前に恨みのある奴の犯行だな」
 ぼくは、大声で、お前がやったんじゃないのか、と言いかけ、それを音声にしないかわりに大きな嘆息にして体の外へ吐き出した。
 そこへ今度はアンジェロが顔を出した。アンジェロはあれ以降、まともに口もきいていなかった。ぼくが避けたのではなく彼の方からぼくを避けていた。アンジェロは切り裂かれた絵に驚いた表情をして見せたが、同時にぼくの視線からも逃げた。そのはぐらかしかたがまた疑わしかった。アンジェロと高梨がぐるになってやったのかもしれなかった。
 先生が来てから、ぼくは屋根裏の仕事部屋に呼び出された。二人きりになると先生は、どう思う、と言った。誰が犯人だと思うか、と聞かれたのだと解釈した。喉元まで出かかっていたが、高梨とアンジェロの名前を口にするのは控えた。
 「困ったわ。泥棒の仕業ならまだ何とか協会にも言い訳ができるけど、信じたくはないけど身内の人間の犯行だとすると、この工房全体の信用を失うことになりかねない。まあ、もう隠すことはできないでしょうね。実際にコッツァは切り惹かれているんだし」
 先生の困惑は良く伝わってきた。彼女にしては珍しく動揺している。
 「これからどうなるのですか」
 ぼくは聞いた。
 「分からないけれど、多分大変なことになると思う。まず警察に連絡を取って、これを事件にしないとならないでしょうね。これだけの出来事を隠すことはできない。犯人もそれが狙いだったかもしれないわね」
 
 午後警察の調べが始まり、第一発見者や昨日最後までここに残って作業をしていたものが事情を聴取された。もちろん警察はぼくに一番質問をしてきた。誰かにこの工房自体が恨みを買った覚えはないか、こういうことをしてそうな人間の心当たりはないか、と聞かれた。
 絵のオーナーや修復協会の人たちが次々に訪れ、先生と今後のことを協議に入った。それだけではその日は収まらなかった。事件らしい事件のないフィレンツェに久しぶりに起こった事件なのだ、新聞やテレビがほうっておくわけがなかった。新聞記者やテレビ局の人間がやって来ていろいろと嗅ぎ回っていった。
 翌日の新聞には「フランチェスコ・コッツァの悲劇」と題してこの事件が大きく取り上げられ、先生の顔写真までが紙面を飾ってしまった。
 犯人南部説を主張する想像力の豊かな記者までいた。そこにはぼくや高梨やアンジェロの名前は出てこなかったが、身内の者が読めば誰のことを指しているのかすぐ分かるような、よく調べぬいた工房での人間関係が詳細に書かれていた。
 別の記事には先生の過去の男性関係まで載っていた。
 結局コッツァの修復はぼくの元を離れることになった。切り裂かれた絵の修復作業は警察の鑑定が済み次第、余所の工房へと引き継がれることになった。先生のこれまでの築いてきた名誉は絵と同等の損傷を受けた。珍しく先生は落ち込み、言葉が少なくなった。 人を疑うことのできない人だけに、新聞が時々取り上げる内部犯行説に困惑を隠せず、彼女の神経が消耗する日々が続いた。それでも強い人なので弟子たちの前では弱気な顔を微塵も見せなかった。
 外の雑音に負けず、先生はどうにか日々仕事をこなした。彼女の人柄を知る人々が先生の才能の光を消してはいけないと前にして仕事を回してくれたことで、工房は経済的には大きな打撃を受けずに済んだ。イタリア人の仲間思いにはいつだって救われる。
 数日後、ぼくが帰り支度をしているとアンジェロが来てぼくの前におどおど立ちふさがった。そして、ぼくを疑っているんだね、と呟いた。彼の目を見ず、鞄に道具を仕舞った。
 コッツァの作業が中断したことでぼくは当面大きな仕事から解放されて、夕方まで訓練生の指導をして過ごし、時に警察から呼び出されることはあったが、大抵は時間がきたらいつものような居残りもなく家に帰っていた。
 「順正はぼくが犯人だと思っているんだろ。そういう目をしている。あの事件以降、ますます僕をちゃんと見てくれないの。僕が君への仕返しのためにあんなことをしたと思っているんだ」
 ゆっくり立ち上がった。
 「仕返しってなんに対してかな。君を無視したことにかい?」
 アンジェロは口ごもった。視線を慌てて逸らすと下を向いたきり黙りこんでしまった。僕はアンジェロの脇を通り過ぎた。芽実と食事の約束をしていたので急いでいた。そればかりではなく一刻も早くアンジェロの憂鬱な顔の前から離れたかった。
 彼が追いかけてくるのが分かった。急いで出ようと、玄関の扉を力任せに引いたところで夕食を済ませて戻ってきた高梨とかち合ってしまった。
 高梨はぼくとアンジェロを交互に見つめた後、ふっと口元を歪めて苦笑した。
 「もう帰るのか?」
 高梨の声には刺々しさが混じっていた。
 「仕事がないんじゃしょうがないな」
 抑えていた怒りが胸の奥を揺さぶった。気がついたら殴りつけていた。高梨はぼくのパンチをかわしそこね、鼻先を抑えたまま後退して積み上げていた発泡スチロール製の箱の山の中に倒れこんでしまった。
 「調子に乗るな」\
 僕は日本語でそう叫ぶと、そのまま高梨に飛び掛った。アンジェロがぼくの背後から止めにかかったが、怒りは収まらなかった。自分の内側に押し込めていたあらゆる我慢が決壊して吐き出されていくのを叩き出す拳の先に感じた。
 発泡スチロールの割れた破片が空中で舞った。奥で作業していた訓練生たちが駆けつけてきた。ぼくは自分でも抑えられないほどの大きな声を張り上げていた。
 騒ぎを聞き付けて屋根裏部屋から下りて来た先生が訓練生たちに押さえ込まれたぼくと高梨をじっと睨みつけるのだった。無言の叱咤がむしろぼくを苦しくさせる。先生は怒鳴りつけるわけでもなく哀れむような悲しげな目で、いつまでもぼくたちを静かに見下ろしていた。
 冷静になればなるほど、自分がした行為に青ざめるしかなかった。
 「どうしてそんなに愚かなの」
 先生は一言そういうとぼくたちに背中を向けてまた自分のアトリエへと戻っていった。その後姿は今まで見た彼女の姿の中で一番小さく弱々しいものだった。
 
 秋が深まり始めた頃、ぼくは先生に申し出少し長い休暇をもらい、芽実と一緒に彼女の父親を探しにミラノへ行くことにした。芽実といっしょにぼくも気分を変える必要があった。
 インスーに手伝ってもらってぼくたちは荷物を纏めた。一週間ほどの旅だったが、荷物はスーツケース一つで済んだ。彼女ははじめてのイタリア国内の旅に、表向き、父親を探さなければならないという本題を忘れてはしゃいでいた。わざとそうして気分をはぐらかしているのかもしれなかった。行きたいところだらけだわ、と芽身の顔から笑みは絶えなかった。
 「センピオーネ公園でしょう。それにヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガレリアでしょう。スフォルツェスコ城に、そうだサンタ・マリア・デッレ・ダラツィエ教会にも行ってみたい」
 芽身の明るさが唯一の光だった。彼女のその天真爛漫な性格にぼくはいつも助けられている。インスーもいっしょになって微笑んでいた。
 「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会か」
 ぼくはガイドブックを覗き込みながら言った。
 「確かにそこにはレオナルド・だ・ヴィンチの『最後の晩餐』があったはずよね」
 インスーが言った。なになに、と芽実が聞いてきた。
 「そうだよ。そして、『最後の晩餐』は今でも歴史的な修復作業の途中なんだ。ぼくは一度その様子を見てみたかったんだよ」
 ぼくはもう一度口腔で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会、とまるで何かの呪文のように呟いてみた。

第4章はここまで終わり。。
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 楼主| 发表于 2006-4-4 14:46:56 | 显示全部楼层
第5章 灰色の影 lombra grigia

 ぼくたちを乗せたニューロスター(国際特急)は予定通り夕方の四時にミラノ中央駅に到着した。秋の深まる北イタリアの大都市は低い雲が濃厚に空を覆い隠し薄暗かった。
 薄着だったせいもあり、思わぬ寒さに、芽実は駅を出るなりぼくの腕にしがみついてきた。芯のある風が地面から吹き上げては彼女の髪を靡かせた。芽実は風で顔を洗うように頭を左右に振って、乱れ髪を払った。なんだか、暗い。ぼくの肩に頬を押し付けてそう呟いた。
 天候のせいもあったが一帯は、イタリアというよりはヨーロッパ的な陰鬱とした印象だった。湿った空気が歴史的な建造物の硬質な表面に染み込んでは、いっそうあたりを重たくさせている。人々もポケットに手を入れたまま足早に駅構内へと逃げ込んでくる。ミラノの人々の表情には、どこか東京の人間に似た険しさがあった。
 ぼくらはタクシーを捕まえ、チェントロにある宿泊先に向かった。あんなにユーロスターの中ではしゃいでいた芽実だったが、父親の住むミラノに着いてから口数も極端に減った。タクシーの両側を流れていく街の風景を眺めて、口はずっと真一文字に閉じたままだった。ぼくはぼくでフィレンツェでのこの数週間の悪夢のような日々が心に大きな蟠りを残しており、気持ちもここの天候のように沈んでいた。

 ドゥオモに近い繁華街のホテルにチェックインして、部屋に落ち着くと、もう外は暗かった。部屋の小さな窓から芽実は表をぼんやり眺めていた。近代的な建物が窓を塞ぐように建てっており、市街の景色はまるで見えなかった。
 「この街は好きになれそうもない」
 芽実がそう呟いた。ぼくは窓を開けてそこから頭を出し、四方をビルに囲まれたミラノの小さな夜空を見上げた。真っ暗で何も見えなかった。雲がいっそう分厚く垂れ込めている。そこには反対側のビルの屋上で点灯しているイルミネーションの灯りが僅かに反射しては、数秒間隔で雲の色を変えていた。
 窓を閉め、部屋の中に戻った。芽実はベッドの上で仰向けになって寝転んでいた。両手両足を広げ、大の字になっている。瞬きもせずに眼球が天井を睨み付けている。
 「テレビでも点ける?」
 ベッドに腰をおろし、そう聞いてみた。
 「いい」
 そっけない返事が戻ってきて、それから芽実はまぶたを閉じてしまった。ぼくはトランクを開け、中のものを外すことにした。衣類はハンガーに掛けた。彼女の化粧バッグやぼくの読みかけの本はテーブルの上に置いた。持ってきた小型のラジカセにバッハのピアノ曲が入ったカセットを入れ、スイッチを押した。繊細なピアニストの指先が、まるで詩人が言葉を丁寧に紡ぐように鍵盤の上に優雅に行き交い、旋律が室内に仄かな香りのような雰囲気を持ち込んだ。
 芽実がため息をついた。
 「ここまで来ていまさらなんだけど、お父さんに会うのやめようかな」
 「なんだよ、いまさら。会ったほうがいいよ」
 芽実は自分に言い聞かせるように小さく、どうして、と呟いた。どうしても、とぼくは返事にならない返事を戻した。沈黙が暫く二人を包み込んだ。ピアノの音だけが静かに漂っている。
 芽実がぼくの膝の上に顔を載せてきた。つんと尖った鼻、大きな瞳、右目が二重で左目が一重、そして薄い唇。こうして改めて眺めると、美しい人だと思った。ウフィツィ美術館にあるボッティチェリの描くビーナスにどこか似ていた。いつも子供のようにはしゃいでいるせいでか、なかなかこういう顔を拝むことができなかった。彼女は自分の美しさにまだ気がついていなかった。そこが素敵だと思った。
 「あって、いったい何を言えばいいのかな。向こうには新しい家族もあることだし、それに私は捨てられたわけじゃない。なにのよ、もしも無理して会いに行って、来ないでほしかったなんて言われたら、もっと悲惨じゃない」
 芽実の波うつ黒髪を摩った。彼女の気持ちはわかる。自分が必要とされなかった時の衝撃を想像して怖じ気づいていているのだ。
 芽見は小さくため息をついて、それからぼくの膝に頬ずりをしてきた。腰に手を回し、石のように動かなくなった。

 殺風景な部屋。人工的な近代建築の穴蔵。ぼくたちがいる部屋は、とても何週間もこもっていられる広さではない。ミラノに着いてからずっと感じているこの閉塞感は近代建築の粗雑さが歴史的な佇まいに混入しているせいで生まれたものだ。
 フィレンツェには近代建築のビルは一つもなかった。しかしここミラノでは中世の建築物と近代のそれとが混じり合っている。
 遺跡や歴史的な遺産を多く持ちながらも、一方でここは世界の最新ファッションの発信地でもある。しかしこの街にはフィレンツェのような統一感がなく、最先端の文化に汚染されているような印象を感じてならない。
 それはぼくが過去へと向かう修復士という職業に従事しているから。ここで未来に向かって活動的に生きている人に言わせれば余計なお世話ということになるのだろうが、修復を拒絶した逞しさと野心的な新しさに心を奪われた都会的な雰囲気には、どうしても冷たさを覚えてしまう。
 ぼくらが宿泊したホテルなどはその最たる例で、湿った匂いのするベッド、壁には芸術の国イタリアとは思えない粗末なリトグラフが飾られ、絨毯は逆に妙に真新しく、何より部屋は納戸のような広さしかなく、フィレンツェのぼくの部屋に比べればここは無機質な、まるで刑務所の独居房のようであった。
 ぼくたちはルームサービスで夕食を摂り、それからシャワーを浴び早々にベッドに潜り込んだ。芽実はなかなか寝付けないらしく、冷たくなった足先をぼくの足に絡ませてきては、腕の中でいつまでもこそこそしていたが、そのうちいつのまにか動かなくなってしまった。
 バスルームの水道の蛇口があまく、規則的に滴り落ちる水滴の音を追いかけているうちにぼくもいつのまにか眠りに落ちてしまった。
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 楼主| 发表于 2006-4-5 12:07:28 | 显示全部楼层
 ぼくが夢の中で抱きしめて寝ていたのはあおいだった。昼間はしっかりと自分を持っている人だったが、夜になると時々怖い夢を見るらしく、何度も夜中に起こされ子供のように抱きつかれた。どうしたの、と問うと、怖い夢を見た、と震えていた。人がどんどん減っていくのよ、と言う。みんながいつのまにか死んでしまっているの、と言う。知っている人が豹変してしまっていて、私のことを知らない、と言うの。順正が死んじゃった。それをひとづでに聞いたわ。
 彼女は夢を思い出しては泣いていた。決意に貫かれた力強い昼間の表情とはまるで別の、弱弱しい人間がそこにいた。今もあんな風に怖い夢を見ては誰かそばにいる人に抱きついているのだろうか。抱きつかれるその人が羨ましかった。
 彼女に真夜中に頼られることが、男としての幸福であったことをその当時ぼくは全く気がついていなかった。
 しがみついてくる芽実に現実へと連れ戻される。彼女の甘い体臭が鼻孔を微かにくすぐる。自分が今ミラノにいることを思い出す。芽実の背中をなすった。それから静かに抱きしめてみた。順正、と芽実が寝言でぼくの名を呼ぶ。彼女のおでこにキスをした。
 
 ミラノ滞在の予定は一週間だったが、芽実はいつまでも父親に会いに行こうとはしなかった。ブティック街でウインドウショッピングをしたり、近所を散策しては時間を潰していた。仕方がないので、その気になるまでぼくも芽実を摂津かないことにした。
 ぼくはぼくでこの機会に訪ねておきたい場所が幾つかあった。
 ミラノに着いた翌々日、早速サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会脇に隣接する建物へと出かけた。そこは大昔、修道僧の食堂だったところだ。この教会を世界的に有名にしたのは、この隣接する小さな建物の中にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があるからだった。
 ぼくたちは行列を作る人々の一番後ろに並んで入場を待った。三十分以上待ってようやく中に入ることが許された。まるで細菌研究施設化原子力施設を思わせる、幾重もの厳重な仕切り扉を潜って中に入ると、小ぢんまりとした縦長の体育館ほどの室内に出た。かつては大食堂だったという建物の突き当たりの壁面に、その絵は堂々と掛けられていたのだった。ぼくは駆け寄った。
 見事な透視図法による、中世の景色が横たわっていた。このルネッサンス期に発明された描法はまさにこの絵のためにできたものだ、と一人勝手に確信し、レオナルド・だ・ヴィンチの才能に今更ながら大きなため息をつかずにはおれなかった。
 絵画の両側には、第二次世界大戦後から今もって続けられているという修復作業用の櫓が組まれていた。
 「なんか、教科書で見て知っていたあの『最後の晩餐』とは随分違うのね」
 ぼくに追いついた芽実がそうこぼした。確かに素人が見るとそういう印象は否めないのだろう。絵の色味は落ち、まるで消えかかった水彩画のようなものだからだ。
 しかしこれはぼくにとっては魔法のような出来事なのだった。ダ・ヴィンチが当時この絵に使用した絵の具はテンペラ・フォルテと呼ばれる一種の油彩で、当時としては画期的な新手法だったが、これは絵の保存に関しては全く不向きなもので、すでにダ・ヴィンチが生きていた頃から画面の剥落が始まっていた。
 加えて十七世紀には、絵の中央部分を切除して台所へと通じる扉ができ、フランス占領下の一八〇〇年にはこの食堂がフランス軍の、なんと糧秣置き場に使われていたというのだ。しかも第二次世界大戦中には建物自体が爆撃にあっている。
 それらの時間的、人工的な浸食を受けながらもこの絵が現在こうして多くの人々の目に触れられるほどに復元されているのは、何十年も続くこの修復作業の力業でもあった。修復士たちの地味だが着実な仕事が世界の遺産を守ったのだとぼくは誇らしくてならなかった。
 「でもこのぼやけた『最後の晩餐』も悪くないわ」
 思わず芽実の顔を振り返って噴出してしまった。芽実もぼくを見て微笑んだ。
 「この絵は何を表しているのかな」
 学校で何を勉強してきたんだよ、と言い返すと、芽実は、えーだって、こんなこと一々覚えてないよ、と口を尖らせた。
 「君たちの中に私を裏切ったものがいる、とキリストが言った直後の弟子たちの硬直した反応を描いているんだよ」
 「ああ、ユダのことか」
 「そう、ユダ」
 ぼくは不意に切り裂かれたフランチェスコ・コッツァの絵を思い出してしまった。先生の弟子の中にもユダが紛れている。ぼくはフィレンツェに戻ったらまずその裏きり者を見つけ出さなければならなかった。高梨やアンジェロの顔が浮かび上がった。もっとぼくの知らない人間がこの陰謀の糸を引いている可能性もあった。
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 楼主| 发表于 2006-4-6 11:42:12 | 显示全部楼层
 一時間ほどそこで「最後の晩餐」を見つめた後、外に出た。ぼくに付き合った芽実はすっかり退屈してしまい、表に出た途端大きな欠伸をした。
 日本人観光客たちのようにブランド品を買う金もなかったので、その翌日もぼくたちは美術館巡りをすることになった。昼食をホテルの側のレストランで済ませた後、ぼくらはまずポルディ・ペッツォーリ美術館へと出掛けた。
 スカラ広場からマンヅォーニ通りを行くと右手にそのこぢんまりとした建物があった。辺りは古い邸宅地で、この美術館自体も個人の邸宅を改造したものだった。ミラノの邸宅独特の、縦長に伸びた門を潜って中に入ると静謐な中庭に出た。空気は染み入るように落ち着いていて、ミラノ市内の喧噪が幻のように寛いだ気持ちになる。
 展示品もぼくにはどれも興奮せずには見ることのできないものばかりで、初期ルネッサンスにフィレンツェで活躍したポッライオーロの「女性の肖像」をはじめ、ボッティチェリの「聖母子」、ジョバンに・ベリーの「死せるキリスト」などがあった。
 さらにポルディ・ペッツォーリ美術館から北に二百五十メートルほどの場所に壮麗な宮殿を利用したブレラ美術館があった。十五世紀から十八世紀にかけてのロンバルディア派とべネツィア派の絵画が集められており、そこはまさにルネッサンス美術の宝庫と言えた。芽実のことなどまたもやすっかり忘れて、ぼくはどんどん一人先に歩いていった。しかしぼくたちがラッファエッロが二十一歳の時に描いたと言われる「聖母マリアの結婚」の前に来た時、突然芽実が父親のところを訪ねると言い出してぼくを驚かせた。 
 彼女はさらに数歩絵に近づいていてから、語り始めるのだった。
 「......お父さんはね、靴のデザイナーだった。二十代の後半には名前は忘れけどこっちではものすごく有名な映画監督の衣装デザイナーも任されているの。才能だけはある人だった、と母が言っていた。といってもそれ以上のことは語らなかったけれど......
 母さんとは京都で出会って恋に落ちた、交際を始めてすぐに母は私を身ごもったんだけど、二人の愛は長くは続かなかった。二人はいつも片言の英語で話をしていたのだそう。うまく気持ちを伝え合うことができなかったのね。京都はどこかフィレンツェに似て余所者に対して排他的なところのある街だから、日本語のあまり得意ではない父にとっては日々が孤独だったんでしょうね。ホームシックも酷かったって母が言っていた。結局、二人は入籍することもないまま別れたの」
 初めて聞かされる話だった。あんなにおしゃべりな芽実が今まで一度も話したことのない自分の境遇だった。話し終えると、口元をぐいと引き締め、決意したかのように息を吐き出した。ポケットから一枚の紙切れを取り出しそれをぼくに手渡した。消えかかった鉛筆文字は読みづらかったが、そこには住所らしきものと父親の新しい名字とがうっすらと走り書きされていた。
 「何年も前のものだからそこにいるかどうかわからない」
 芽実はそう言うとぼくの方を向いた。目の玉の縁が仄かに揺れている。ぼくは人目も気にせず彼女を抱きしめた。誰にでも、どんなに幸福そうに見える人間にさえ、一つ二つは人生の中に暗い影が差しているものだ。ぼくは、普段は人の何倍も賑やかな芽実に差し込むその歪な影が、いとおしくてならない。それはぼく自身とも重なり合う灰色の影でもあった。
 
 マンヅォーニ通りまで歩き、そこで車を拾って住所の場所まで行くことになった。美術館の公衆電話からこの住所の電話番号を調べようと試みたが、登録されてはいなかった。車はミラノ市内、ポルタ・ガリバルディ駅内の西側に広がる記念基地の裏手で泊まった。運転手は、この辺りだ、とこりオラーノ広場の周辺を指差した。ぼくらは車をおり、歩き始めた。小雨が振り出し、傘のないぼくたちはまとわりつく雨を払うように急いだ。もっとも芽実の足取りは鈍く、ぼくに追いつこうと小走りになりながらも、躊躇しては速度を落とし、時折ぼくが掛け声を掛けなければ歩き出さないこともあって、目的の住所に着いた時には二人ともすっかり濡れていた。
 ちょうど幾つかの道が交差する角にある建物が目的のアパートのようだった。決して豪華な建物というわけではなかった。しかしそのファサードには中世風の彫刻が施してあり、可愛らしかった。紅葉を終えた高木が中央に聳えていた。枝には所々色褪せた葉が残ってはいたが、風が吹くたびにそれらは木々から少しずつはなれ、あてもなく飛翔した。
 アパートを見上げながら、
 「やっぱりあたし......」
 と芽実が告げた。ぼくは一旦歩道に出て周辺を見回してみた。もう一つ先の角にバールらしき店があった。そこを指差し、あそこで待っていてくれないかな、と彼女の落ちつかない背中を押した。
 「どうする気?」
 「まずぼくが会ってみる」
 芽実はじっとぼくの瞳を覗き込んだ。
 「いいかい、どんな感じがぼくが会って判断するよ。なんとなく、感触を確かめてみる。いいだろ」
 芽実はしばらく迷ってから、小さく頷いた。気の重い役目ではあったが、今の芽実には呼び鈴を押すだけの勇気はなかった。バールへと向かう彼女の後姿を見送ってからぼくはもう一度アパートの表札と向かい合った。
 横に着いている小さな呼び鈴のボタンへ手を伸ばした。できるだけ事務的にことを進めるしかなかった。こういうときに余計な感情や迷いは必要ない。ぼくはボタンを押した。返事がなかったので、もう一度押した。今度は暫く長く押してみた。すると機械的な雑音が響いた後、子供の声が小型スピーカーから飛び出してきてぼくを驚かせた。
 ダレ? と子供たちは騒いだ。御父さんはいるかい。慌ててしまい声が上擦ってしまった。まるで自分が親を探しているような感じだった。幼い頃のかすかに残る自分の母親の感触をふと思い出してしまい、血が頭の天辺に向かって逆流するのを感じた。
 「どなたですか?」
 まもなく低い男性の声に変わった。ぼくは一度呼吸を整えてから、日本から来た阿形といいます、と告げた。男が沈黙したので、
 「あなたのお嬢さんの友人です。今彼女とこの街に滞在しているのですが、良かったら顔を見て話をしてあげてもらえませんか」
と切り出してみた。男は暫く迷い、それから、少しそこで待っていて、今降りていくから、と告げるとインターフォンは一方的に切れてしまった。
 芽実の父親が動揺しているのは明らかだったが、しかし拒絶されたわけではなかった。顔を見て話し合えば、何らかの光が見えてくるはず。
 ぼくは歩道まで下がり、それから芽実が待つワンブロック先のバールを見た後、アパートの上の方へと視線を移動させた。微細な雨が灰白色の空から降ってきた。それが顔に張り付いてきた。瞼を閉じじっと待った。雨の冷たさが心を落ち着かせてくれる。雨粒は次第に顔の表面を濡らしていった。
 自殺をした母のことを考えた。ぼくを残して死んだ母をかつて子供だった頃のぼくは恨んだことがあった。少し成長した今は、可哀相だと思う。死を急がず、ぼくの成長を待っていてくれたなら、ぼくが母のささくれだった心を癒してあげられたのに、と悔しかった。
 扉が開く音がしてぼくは我に返った。エントランスの奥から中年の男性が紺色のカーディガンを羽織って現れた。ボナセーラ。男は辺りを見回してから、芽実は? と日本語で告げた。ぼくがバールを振り返ると芽実の父親はそこを目掛けて小走りで駆け出した。その表情は硬かったが、娘への愛情が薄れていないことを物語っていた。
 すぐに彼の後ろを追った。雨が次第に強く降り始めていた。掌で顔をぬぐい、それから前を行く目実の父親の背中を見つめた。
 
 バールの中に芽実の姿はなかった。芽実の父親がぼくの顔を、どういうこと、と見つめるので、ぼくはカウンターで立ち飲みしている人々を押し分けて中で働く店の者に訊ねてみた。みんな首を左右に振った。ぼくは店の外へ飛び出し、広場や周辺を探した。しかし芽実の姿はどこにもなかった。
 父親はバールの前で立ち尽くしていた。ぼくは息を切らせながら彼の前に戻り、見当たらない、と小さくかぶりを振った。芽実の父親は落胆した表情をして見せ、それから同じように小さく首を振った。芽実に似ていた。目や鼻や輪郭はそっくりだった。
 芽実は勇気を振り絞ることができなかった。父親に会うのが怖いのはあたりまえだった。まだ時間はある、滞在している間に二人が再会すればそれでいいのだった。芽実の父親の背後に新しい妻と思われる女性がいつのまにか寄り添うように立っていた。そっと手を伸ばしている夫を支えた。
 ぼくたちはバールに入り、エスプレッソで体を温めながら少し立ち話をした。芽実が今どういう心境でフィレンツェで生活を送っているのか、これまでの人生をそんな思いで生きてきたのか、など今日までの彼女の経緯を知っている限り細かく彼らに説明した。芽実の父親はうっすらと目に涙を浮かべていた。妻は黙って話に耳を傾けている。優しい女だということがよく分かる。言葉数は少なかったが、彼女が夫の手をずっと握っていたことが、その優しさを物語っていた。
 この男性が芽実を捨てたのではないことは明らかだった。芽実だって心のどこかでは理解しているに違いなかった。父親は低い声で、この数十年、芽実のことを考えなかった日は一度もなかった、と最後にぼくに告げた。ぼくは大きく頷いた。この時点で両者を隔てるものは何もなかった。
 
 ホテルに戻ると芽実がベッドの上で丸くなっていた。ぼくは濡れた頭をタイルで拭いてから彼女の横に腰を下ろした。それから父親に会ったこと、彼の今の気持ちなどを説明した。芽実は起き上がり、ぼくに抱きつき、唇を押し付けてきた。温もりがあった。彼女を抱きしめ、それから二人はそのままベッドで交わった。
 芽実の肌は白く透き通っていた。胸はこちらが恥かしくなるくらい健康的な膨らみを持っていた。括れた腰から広がる臀部はイタリア産の果実であった。柔らかい女性的な曲線はまさにビーナスのそれであった。抱きしめると瑞々しく肉体が撓った。すらりと伸びた足は、ぼくを受け入れやすく信じられないほどに柔らかく折れ曲がった。あおいの、細い身体とは対照的な肉体である。あおいの骨は細く、手首や足首は頼りなかった。身体もがりがりで、胸や尻が辛うじてそこにくっついているという控えめな感じだった。
 芽実との交接はいつもどんな時も運動をしているような健康的なものであった。高まり方にも勢いがあった。苦しみの中にあっても、彼女は太陽のように眩しかった。最後まで行った後、腕の中にいる芽実の頬に涙が留まっているのをぼくは発見した。肉体と気持ちが目に見えないところで小さく分断されているのだった。
 
 夜、灯の消えた部屋で芽実はぼくに抱かれながら、このまま会わずにフィレンツェに帰るわ、と言った。なんでだよ、とむきになって講義した。せっかく父親があんなに会いたがっているのに、会っていってあげなよ。
 「いいの。このまま帰る。」
 彼女はそう頑なに言い張った。
 彼女の寝息がミラノの夜を奏でていた。ぼくはどうしていいのか分からなかった。母親を早くに失った自分には芽実の気持ちが理解できなかった。
 芽実をそっと抱きしめてみる。熟睡しているくせに芽実はそれに応えてぼくに寝ぼけたまましがみついてきた。
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 楼主| 发表于 2006-4-6 14:25:06 | 显示全部楼层
 翌日、ミラノはぼくらが訪れてからはじめての晴天となった。排気ガスのせいで晴天といってもフィレンツェのような突き抜けるような快晴ではない。それでも青空は二人の心を久しぶりに晴れやかにさせた。
 気分を変えるために彼女をドゥオモに連れ出すことにした。ドゥオモ前の広場にたつとその壮麗な外観には誰もが圧倒させられる。正面から見るとそのファサードは巨大な王冠のような形をしていた。数え切れないほどの小尖塔が空を目指して伸びている。そのせいもあり、フィレンツェのドゥオモよりも数段煌びやかだ。大勢な観光客が早い時間から集まり、写真機を構えていた。
 内部に足を踏み入れるとそとの華やかさとは正反対に薄暗く、巨大なステンドグラスが厳かな空間を作り出している。芽実はその雰囲気に圧倒されて、すごいね、と声を漏らした。外と内のこのイメージの落差こそ、中世の人々の想像力の偉大さなのかもしれない。ここを訪れる人たちが、最初はその華やかさに引かれ、それから中に入って今度は信仰の尊さに心を奪われる仕組みだった。
 「登ってみたいわ、この上に」
 突然芽実がそう告げた。ぼくは耳の奥を横切る風を感じた。
 「登れるはずよ。フィレンツェのドゥオモは上まで登れるじゃない」
 ぼくは、え、と聞き返した。不意にあおいとの約束を思い出してしまったからだ。時々思い出しては子供の頃の恥かしい失敗のように記憶の中に押し込めようとしていた古ぼけた約束。
 あの時最初二人は、かつて幼少の頃あおいが暮らしていたこのミラノのことを話していたのだった。それから話はいろいろと移っていったが、その日あおいは珍しく情熱的に語り続け、彼女の方からあの約束を口にした。冗談まじりに、あるいは勢いに任せるままに。
 あのね、約束をしてくれる?
 どんな?
 私の三十歳の誕生日に、フィレンツェのドゥオモのね、クーポラの上で待ち合わせをするの、どお?
 フィレンツェのドゥオモ? どうしてそんな場所で? ミラノのドゥオモではいけないの?
 ミラノのほうは世界で一番綺麗なドゥオモで、フィレンツェの方は世界で一番素敵なドゥオモだって、フェデリが言ってた。
 またフェデリか。
 何百段の階段を汗を流して必死で登りきった後に待っているフィレンツェの美しい中世の街並みは、間違いなく恋人たちの心を結びつける美徳があるんだそうよ。
 でも別に、待ち合わせなんかしなくてもいいじゃないか。三十歳の君の誕生日に一緒に行こうよ。
 そうね、二人が別れていなけば。
 変なことを言う。それじゃまるでぼくたち別れちゃうみたいじゃないか。君は預言者かい?
 わかんないわ。未来のことは。だからね、今日を大切に思うのなら、約束をしてほしいの。今日のこの気持ちをいつまでも自分たちのものだけにしたいから約束をするの。私の三十歳の誕生日に、クーポラの上で待っていて。
 君が先に着くかもしれないじゃないか。
 いいえ、私のことをいつまでも思っていてくれるならあなたが先に登って待っていてくれなきゃだめ。
 三十歳か。あと十年も先のことだ......
 
 「順正」
 ぼくはステンドグラスのさらに上のドゥオモの天井部を見つめていた。あおいの声に重なるように芽実の声がぼくを現実へと連れ戻す。
 「順正。どうしたの?」
 「いや、なんでもない。上に登るのはよそう」
 ぼくはそう言うと芽実の手を掴んで引っ張った。薄暗いドゥオモの、沼地の水のような空気をかき分け外を目指した。
 どうしたの。ねえ、そんな顔してどうしたのよ。芽実が声を潜めながらも力強くぼくを呼び止める。ぼくは過去を追いかけていいものか、それとも未来を信じていいものか迷っていた。ぼくだけが覚えている約束。その呪縛にいつまでも縛られている自分。それがどんなにつまらないことかも分かっていながら、過去に引きずられ今日を生きている。未来にも過去が待っている。三十歳の誕生日。二〇〇〇年の五月二十五日......
 巨大な扉を押し開けて外に出ると光が広場を埋め尽くしていた。眩しくてぼくらは芽を細めなければならなかった。人々の残像が視界の先を幽霊のようにゆっくりと流れていった。
 団体客がドゥオモの北側にある鉄とガラスで作られたアーケード、ヴィットリオ・エマヌエール二世のガレリアから出てきた。激しい風が吹いた。アメリカ人らしき女性が被っていた鍔広の帽子が宙を舞い、それを追いかけるように何人かが団体から離れて飛び出した。広場で群れていた鳩が一斉に羽ばたく。時報が鳴り、ぼくの記憶の中に光が差し込んだ。
 その次の瞬間、視界の先をふいに一人の女性が過ったのだ。過去の記憶を辿っていなければ見落としてしまいそうな懐かしい人影であった。涼しげな目。ほのかにふっくらとした頬。しなやかな髪の毛。意志の強そうな唇。細い身体。ぼくがずっと心に刻みつづけていたあおいその人の記憶のままであった。
 身体が勝手に反応を起こし、握っていた芽実の手を自然に外れてしまった。芽実の声が後方から響いたが、その時ぼくはもう既に駆け出していた。
 あおい。
 心の中でぼくは叫んだ。あおいに似た東洋人の女性がガレリアの中へと吸い込まれていく。ぼくは団体客の間を分け入り、全力で走った。音が耳の中で膨らみ、ふいに現実に目覚めた。どこだ。どこにいる。あおいの後姿をぼくは数十メートル先の人込みの中に見つけた。ガレリアの交差する十字路をあおいに似た女性が歩いていく。彼女の前後左右を観光客が通過していく。四方を見渡す。何度も何度も見返った。
 
 「順正」
 遠くてぼくの名を呼ぶ声がする。順正。声に引きすられるように振り替えると、それはあおいではなく芽実だった。
 「どうしたの。いったいどうして私を置き去りにするのよ」
 そう言うと芽実は僕に抱きついた。
 あおい......。あれは、あおいだったのだろうか。それとも人違いだったのか。昔の記憶が見せた悪戯だったかもしれない。ぼくは力なく芽実を抱き寄せた。そこには幻ではなく一人の女の現実の肉体があった。
 それからぼくは戻る日までの毎日、ドゥオモ広場に立ち寄ることになった。芽実はそんなぼくに呆れながらも毎日付き合ってくれた。時間がたつうちにあのそっくりな女性があおいのではない、と思うようになってきた。あおいは東京で暮らしているはずなのだ。親も今は東京にいる。彼女は東京で就職して、東京で誰かと結婚しているはずだった。
 ぼくは大きなため息をついて、幻惑を振り払おうとした。あれはあおいではなく記憶の悪戯なのだ、と言い聞かせて。
 僅か一週間の滞在だったが、思わぬ出来事がぼくを大きく揺さぶってしまった。幻にせよ本物にせよ、ぼくの中で再びあおいと会えるのではないかという期待が生まれてしまったことに違いはない。会えると信じていれば、また会えそうな気がした。それがふと、あの過去の約束を現実のものとしてぼくの中で浮上させるのだった。
 二〇〇〇年の五月二十五日。フィレンツェのドゥオモ......

 ぼくと芽実はお互いさまざまな思いを胸に抱いてミラノを後にすることになった。ぼくはあおいのことを。芽実は父親のことを。
 「いいのか、折角会う気になれば会えるところまで来ていながら、お父さんに会わないままで」
 問うと、芽実ははっきりと頷いた。
 「いいの。私には順正がいるから」
 トランクをぼくが抱え、芽実がドアを開けた。芽実の視線はドアノブに注がれ、そこからいつまでも動こうとしなかった。廊下に出たぼくは芽実がドアを閉めるのを待った。芽実が必死で父親のことを忘れようとしているのが痛々しいくらい伝わってきた。
 ロビー階にエレベーターが着き、扉がゆっくりと開くと、フロントの前に芽実の父親の姿があった。エレベーターを出たところでぼくらは気がつき足がぴたりと止まった。
 父親は、こちらへとまっすぐに向かってきた。そして芽実を見つめた。ところが二人を引き離していたこの時間の隔たりが、これほど酷く二人にのしかかってくるとは、その瞬間まで誰も予想することはできなかった。
 芽実と父親とは、血が繋がった親子なのにもかかわらず、会話が成り立たなかったのだった。芽実も父親も片言の言葉で挨拶をしたが、それぞれの思いを言葉にしようとすると相手がそれを理解できなかった。芽実はイタリア語がまだ不十分で、父親はもうすっかり日本語を忘れてしまっていた。父親は僅か数年の日本滞在なので仕方ない。十数年の歳月が流れているのだった。芽実もその瞬間はじめてイタリア語を真剣に勉強しなかったことを後悔しているようであった。
 二人はそれぞれの思いを胸に秘めたまま、別れることとなった。言葉が通じないせいで芽実の落胆はいっそう増してしまった。ぼくが通訳をするのにも限界があった。通訳をしなければ通じ合えないことのショックはまず芽実を襲い、彼女を失語症のように無言にさせてしまった。父親が呼ぶ芽実の名ばかりが、朝のせわしないホテルのロビーでいつまでも響きつづけては、虚しくぼくの耳に絡み付いてきた。

第5章ここまで終わり。。。
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 楼主| 发表于 2006-4-6 15:18:32 | 显示全部楼层
第6章 人生って che vita e

 痛いくらいに冷たく張り詰めた空気が充満する冬の朝の工房が気に入っている。
 誰もいない作業場で一人、近くのバールで買ってきたパニーノをカプチーノで胃に流し込むのは格別だ。カプチーノの香りに混じって、修復の際に使用するエタノールや希アンモニア水、強化ワックス、ワニスなどの匂いが鼻孔をつんと刺激してくる。
 テーブルの上に並べられている修復途中の作品を眺めるのがまた楽しい。
 絵が制作された当時の、時代の香りをほのかに味わいながら.....
 ぼくは先生の回転椅子に腰掛けて、誰かがやってくるまでの一時をそうして幸福に過ごす。それは、この工房で働くようになってからのぼくの唯一の安らぎの時間でもある。
 そんな時、ふとあおいと過ごした透明な時間のことを考えてしまう。あおいは一時期、詩を書いていた。別れる頃にはもう書くのを止めていたけれど、手帳や教科書の片隅に落書きのかわりに数行の詩が消えそうな文字で記されていた。ライトバースばかりだったが、印象に残るものが多く、ぼくはこっそりとそれを自分の手帳に書き写して保存しておいた。
 
 石英がなる、かちかち
 冬のミラノの路地裏で
 何かの合図
 わたしは見つけ出される
 少年の声がはじけ
 ふりかえると、まだ
 いきていてもいいよ、と
 なぐさめられる

 それらの詩はぼくの財布の中にしまってある。一人の時間に取り出しては眺める。
 
 どこにもいかないといった
 あなたはいまここにいない
 いつか、は辿りつかない
 いつも、行きすぎてしまう
 わたしはここでどうにもまた
 いきすぎてしまう

 クリップで留めたそれらの詩篇に混じって、あおいの顔写真が一枚ある。自動車の免許取得のときに使った残りをもらったもので、髪を短く切る前のもので、唯一長い髪をしている。癖のないストレート。それが嫌である夜、彼女は自分ではさみで切ってしまった。まっすぐにカメラを見ているというのに、瞳はとても不安そうに揺れている。僅かに光を反射して目が赤く見えるからか、ミュータントのようだ。
 冷たくなったカプチーノを飲み干した。思い出もいっしょに飲み干す。

  ミラノから戻ってきて、ぼくは久々にこの習慣の素晴らしさを再認識していたが、年が変わって一九九八年の一月のある日、先生が突然工房を閉めたいと言い出した。
 もちろん引き金は前年に起こったあの事件であることは明らかだ。
 「ジュンセイ、ごめんね。あなたの未来のことを考えると、何とかこの工房を維持しておきたかったんだけれど、コッツァの絵同様、私の心にも生涯残る大きな亀裂ができてしまったのよ」
 先生を悲しませた犯人は依然見つかってはいない。高梨もアンジェロも変わりなく仕事をしていた。
 先生は、この工房に出入りしている人間を疑うくらいいっそ工房を閉めてしまった方が楽になる、と独り言を呟いた。
 「ぼくのことは心配しないでください。それより心配なのは先生のことです。これからどうなさるおつもりですか」
 先生は力なくかぶりを振った。
 「しばらくは仕事をしないつもり。少し元気になったら、どこかの美術か学校で修復術を教えることになるでしょう」
 職を失うことよりも先生やこの工房を失うことの方がぼくには大きな痛手だった。落胆をできるだけ顔に出さないようにはしたが、登るべき山を失った登山家のように、生き甲斐をなくすことになり、ぼくは全く気力がわかなかった。
 「犯人を捕まえることができたら、いくらか気分が晴れるのに・・・・・・」
 苛立って吐き捨てると、先生は強く首を左右に振って否定した。
 「いいのよ、もう。このまま犯人が分からない方がいいの。分からない方がいい」
 先生がすっかり小さく萎んでしまっているのが痛々しかった。この僅か数ヶ月のうちに、美しい黒髪に白髪が目立つようになっていた。\
 
 事件後、先生の絵のモデルを頼まれなくなった。絵を描く気分でないことは分かる。しかし一方で、嫌われてしまったのではないか、と気が揉めて仕方なかった。自分のせいでコッツァは切り裂かれてしまったような気がしてならなかった。
 ある日、勇気を出して、もう絵は描かないのですか、と聞いてみた。ジョバンナは微笑み、その内またモデルを頼むわ、と言った。しかし、そのうちはもう来ないような気がした。
 
 春に工房が正式に閉鎖することが決まると、アンジェロはすぐにライバル工房への就職を決め、高梨は予定よりも一ヶ月早く日本に戻ることになった。冬の激しい季節が通過する中で、他の就業員や研修生たちもそれぞれ新しい道が決まっていったが、ぼくだけが就職活動をする意欲がわかず、日々ぼんやりと過ごしていた。
 「どうするの。いいのかなあ、そんなグウタラさんで」
 芽実が、家の中に閉じこもり気味のぼくを捕まえてはそうハッパをかけてきた。ミラノから戻ってきて、芽身は真面目に語学学校に通うようになっていた。父親と会話ができなかったことが彼女を変えたのだ。
 「分かんない。どうしたいのか自分でも決めかねてるんだ」
 「らしくないじゃん」
 言うと芽実はぼくに抱きついてきた。どうしたらいいのか本当に分からなかった。ずっと先生のところで修復の仕事をしてきた。うちへ来てくれないかという他の工房からの誘いは幾つかあった。中にはアンジェロ同様競争相手だった工房からの誘いもあった。待遇もかなり良かった。ジョバンナの工房の重要な仕事はぼくがほとんどこなしていたのだ。先生ではなくぼくに直接依頼が来ることも会った。フランチェスコ・コッツァもそんな仕事の一つだ。
 しかし今更余所の工房で働く気にはなれなかった。アンジェロのようにライバル工房に簡単に鞍替えすることができなかった。ジョバンナの工房を愛していた。ここに骨を埋めても構わないと思っていたのだから・・・・・・
 「しばらくふらふらしてもいいかな。昔を思い出して絵でも描いてみようかな」
 芽実を抱きしめた。彼女の背中がミラノに行く前よりも痩せているような気がした。
 「やっていける?」 
 「少しは貯金があるし、なくなったらどこかの工房でバイトをするさ」
 「いいの? 折角、修復の仕事に大きな意味を感じていたのに」
 これからの人生を見つめ直すには丁度いい休暇だ。少し走りすぎたのかもしれない。
 修復の仕事はもっとゆっくりと精神的なゆとりの中でする必要があるんだ。言葉には出さなかったが、ぼくはそのとき芽実を抱き寄せながら、自分自身をそう鼓舞していた。いつまでも春が来なければいいのに、と窓の外へ視線を飛ばしながら・・・・・・
 
 三月のある日、工房の閉鎖へ向けて最後の後始末のような仕事をしているぼくの元に突然祖父の阿形清治が訪ねてきて、心底驚かせた。来客だというので、工房の玄関ホールに顔を出すと、祖父が壁に掛けられたテンペラ画を、腕組をしながら見ているのだった。近づいたり離れたりしながら、壁の絵を興味深げに覗き込んでいる祖父の姿を見ているうちに、強張っていた口元に久しぶりの微笑みが戻ってきた。
 「おじいさん」
 言うと、祖父は振り返りこういった。
 「これは模写かい?」
 「えっ」
 祖父が最初何を言っているのかすぐには分からなかった。懐かしさを埋め合う間もなく、彼が壁に掛けられている絵について質問をしてくるなど、孫の自分でも想像ができなかったからだ。 
 「このテンペラ画だけど、これはフラ・アンジェリコの絵だろ。とするとこんなところに埃に塗れて置かれているわけがない。しかしここはフィレンツェの修復工房なのだから、もしかすると本物かもしれない。それでわしは先ほどから悩んでおるんだがね」
 やっと、理解することができた。
 「ああ、それかい。それは模写だよ」
 「やっぱりそうか。しかしよくできている。今から十五年程前にサン・マルコ修道院でこれの本物を見たことがあってな。だけど良くできる。これはどなたが描かれたものかな」
 「それは先生だと思うけど、随分昔からあるんで、ぼくも詳しくは知らないんだ」
 祖父はぼくのそばまでやって来ていきなり握り拳で腹部を殴ってきた。力はなかったが、拳が見事に鳩尾に命中したことで、思わず後ろへよろけてしまうのだった」
 「すきあり」
 ぼくに向かって突然大声でそんなことを言うものだから、反論や抗議どころが、ぼくは目をぱちくりとさせることしかできなかった。祖父は笑った。腹筋ができとらん、と言いながらも、右手で握手を求めてきた。握ると力一杯握り返されてしまった。
 「どんなに信頼している人間にさえ、すきを見せたらだめだ。男は一旦外に出たら七人の敵がいると思えよ」
 「無茶言うなよ」 
 「何を言ってる。お前は異国でいきとるんだ。何が起こるか分からんだろ」
 「一人?」
 「何が?」
 「一人でここまで来たの?」
 「ああ、勿論だ」
 「なんでって、迷惑を掛けたくなかった」
 「迷惑だなんて、空港まで迎えに行ったのに」
 「子供扱いするな」 
 昔から祖父は理屈が通らない人だった。そこが祖父のもっとも祖父らしいところでもあった。祖父の顔は色艶も良く、眉毛はきりりと反り上がり、相変わらずの頑固爺然としていた。
 ぼくは声を出して笑い出してしまった。祖父はもう一度絵に視線を戻し、よくできている、と感心を繰り返した。
 先生に祖父を紹介すると、祖父は日本語でテンペラのことを次々質問して、先生を困らせてしまった。
 「順正、先生にこう言ってくれ。私は、いいか、十四世紀のシェナ派のテンペラ画が一番好きなんです、と。いいか、十四世紀だぞ。間違えるな、ちゃんと訳せよ」 
 ぼくがそう通訳すると先生は祖父の手を握りしめた。それで気分を良くした祖父は、フラ・アンジェリコの生の作品に触れるために若い頃は何度もフィレンツェに来たことがあるのです、と自慢する始末であった。
 「いいお祖父様だわ」
 とジョバンナは言った。先生は祖父が七十五歳になるにもかかわらず、たった一人で日本からやってきたことを知ると、目を丸くして驚きを隠さなかった。
 突然の祖父の来訪で、ぼくは休暇をもらうこととなった。先生は気にしなくてもいいからお祖父さん孝行をしなさい、とぼくに休暇を勧めてくれたが、工房がもうすぐ閉鎖になるのに、と心は工房から離れたがらなかった。
 それでも祖父を一人でフィレンツェの街中にほっぽり出すわけには行かない。親代わりになってぼくを育ててくれたのは父でも義理母でもなく、祖父だった。彼が元気なうちに精一杯の孝行をしておきたかった。
 
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 楼主| 发表于 2006-4-7 12:03:21 | 显示全部楼层
 翌日からぼくと芽実は祖父をつれて美術館巡りをすることとなった。芽実と祖父は初対面なのにすぐに意気投合し、間もなく芽身は祖父の腕に手をまわして歩くようになった。
 最初に行ったのはサン・アルコ修道院だった。修道院はフラ・アンジェリコの美術館と呼んでもいいくらいにアンジェリコの作品を所有しており、祖父の興奮は続いた。芽実の手を引っ張って、どちらが観光客か分からなくなるほど彼はぼくらを連れまわした。
 「見ろ、これがアンジェリコの代表作『受胎告知』だ。なんとも言えない構図だな。この清楚な佇まい。心が洗われるとはまさにこういうものに触れたときに感じるものだ。見ているだけで気持ちが穏やかになってくる。つまらないことの多い世の中を清める力がある」
 祖父のはっきりとした意見に、芽実は終始微笑んでいた。
 ぼくたちは「受胎告知」に続いて、「キリストの変容」「茨の戴冠」「聖母戴冠」「我に触れるな」と祖父の解説付きでアンジェリコを堪能したのだった。工房の入り口に揚げられていた模写の原画である「リナイオーリの祭壇画」の前に出た時にはさすがの祖父も息が上がっており、口数が少なくなっていた。
 「少し休ませた方がいいんじゃない」
 と芽実がぼくに耳打ちしたので、ぼくは祖父を支えて、修道院の一階にある聖アントー二の回廊まで連れ出した。外気に触れながら、三人並んで冷たい回廊に腰掛け、祖父の体力が回復するのを待った。サン・マリコ修道院の中で黙ってこうして並んで座っていると、まるで十四世紀に生きているような気分になった。
 これまでのことを振り返った。フィレンツェを訪れた日のこと。先生の工房を訪ねた日のこと。工房で仕事を覚えていった日々。それからあの事件のこと。さらには未来のことを考えた。これからのこと。工房を辞めること。辞めてからのこと。来年のこと。西暦二〇〇〇年の五月のこと・・・・・・
 ぼくは将来もずっと修復の仕事を続けるつもりだろうか。この仕事を天職として一生をこれに打ち込むつもりなのだろうか。分からなかった。それを考えるにはいい機会かも知れなかった。
 「仕事は楽しいかね」
 まるでぼくのそんな心の迷いを見透かすように祖父が呟いた。芽実は興味深そうな表情でぼくの顔を覗き込んでいる。
 「仕事をしている時は自分を忘れることができる」
 「修復の仕事は自分に向いていると思うかね」
 それには答えられなかった。向いているのかどうか改めて考えたことはなかった。ただ使命のようなものを感じることはあった。過去を未来に伝える役目にかかわっていると思うと、どこからともなく力が湧いた。自分ができるような気にもなった。自分が修復絵が千年後また誰かに修復されるかと思うと、人間の限界を超越することができるような気にもなった。しかしそれらはとても気の長い作業だ。それに生きている間には確認できないことでもある。自分の仕事がどれほど人類の未来に貢献しているのかは計りかねた。
 「どうかな。わかんないけど、向いていないかもしれないね」
 ぼくはやっと言葉を紡ぎだすことができる。祖父はゆっくりこちらを振り返る。
 「いや、まだよく分からないんだ。いろんなことが自分にいっぺんに降りかかっていて、自分の人生なのに、自分一人では決められないような気もする・・・・・・」
 切り裂かれたフランチェスコ・コッツアの絵を思い出した。もしもあの絵を切り裂いたのが仲間の一人だとしたら、そいつをぼくは生涯許すことはできない。人類の遺産を預けられた修復士のプライドに掛けて・・・・・・
 「ぼくはエゴが強いだろ。昔からこう見えてもエゴだらけだったじゃない。自分を殺せない人間には修復の仕事は苦痛になるときがあるんだ」
 「迷っているんだな」
 祖父が言った。芽実は遠くを見つめてわざと聞かないふりをしていた。ぼくは瞼を閉じた。回廊を流れていく冷たい風を感じる。まだまだ春は遠い気がした。
 「テンペラ画を描いてみたらどうかな」
 唐突なアドバイスにぼくは相好が崩れてしまった。テンペラ画を? しかし祖父は至って真面目だった。
 「しばらく模写を勉強するんだ。過去を正す作業から、過去の画家たちの偉業をなぞる作業へと移行する。そうすることで今まで見えなかったものが見えてくる」
 「テンペラ画家になれっていうのかい」
 「それも一案」
 「いきなり言われても」
 祖父は立ち上がった。
 「言ってみただけさ。なんとなくそう思ったにすぎん。後は自分で考えてみたらいい」
 笑った。芽実も笑っていた。ぼくも笑うしかなかった。三人の口から吐き出される白い息が回廊を流れる空気に沿って漂った。テンペラ画家になることはないだろう。しかし祖父のアドバイスには真実も含まれていた。ぼくは自分の未来を限定しすぎるところがある。もう少し柔軟に世界と向き合ってみる必要もあるだろう、ということだ。
 
 祖父は一週間ほどフィレンツェに滞在し、その間あちこちの美術館をとても七十五歳とは思えないほど精力的に歩き回ってから、パリへと旅立った。留学していた頃の恋人にパリで再会するとのことだった。祖父が留学をしていたという話は初耳だったし、当時の恋人がいまだに元気にしていて交流があるとはどうしても思えなかった。しかし詮索は止めた。祖父は人にとやかく心配を掛けるのが何より嫌いなのだ。一人でパリに行くと言ったら死んでも行かなければ気がすまない人だった。ぼくと芽実は空港まで祖父を見送りに行き、祖父は、次は東京で会おう、と微笑んだ。
 「東京か・・・・・・」
 次の瞬間、祖父はまたしてもぼくの腹部を殴った。それが前よりもいっそう的確に鳩尾に命中し、ぼくはよろけて、かっこわるいことに芽実に支えられてしまった。
 「すきあり」
 祖父は笑っていた。なんて事をするんですか、と芽実が驚いて祖父に抗議した。
 「その痛みを忘れるな。少しは人生の厳しさを思い知るがよい」
 芽実の口元が呆れ果てて、緩んでしまった。ぼくはと言えば、祖父が言った、東京で会おう、という言葉が気になって仕方がなかった。
 「東京ですか」
 呟くと、祖父は、なんだって、よく聞こえないな、と耳をこちらに傾けた。
 「東京に戻ろうかな」
 ぼくははっきりとそう告げた。祖父は頷いた。
 「えー、東京に戻るの?」
 芽実がぼくの顔を覗き込んで聞き返す。
 「決めたわけじゃないさ」
 でも、それも手だな、とは思う。一度東京に戻って態勢を整えてから出直すのがいいかもしれない。
 「人間、迷っている時は、思い切って方向を変えてみるのがいい。お前のその面は迷いだらけだ。そんな面でいい仕事ができるとは思えん。お前の部屋はまだ当時のままにしてある。いつでも帰ってきなさい」
 祖父はそう言い残して去って行った。七十五歳の老人がたった一人でゲートを潜って行く姿は実に頼もしかった。そう思うと不思議なことに身体のどこか底の方から笑みが沸き起こってきた。結局頼まれるのは自分だけなのだ、と彼はそう言いたかったに違いない。
 芽実の手を握った。彼女はすぐにぼくの手を握り返してきた。
 ぼくはかぶりを振る。分からない、と言いかけて、その言葉を胃の中に呑み込んでしまった。
   
 東京に戻れば、偶然あおいと再会できるかもしれない。
 もう一度でいいから、あおいに会いたかった。
 
 工房が後数日で閉鎖になるという日、ぼくはアンジェロに呼びされて、チェントロのバーで彼と会った。どうしても伝えておきたいことがある、と言うのだった。ライバルの工房に鞍替えしたアンジェロをますます敬遠するようになっていたが、話というのがコッツアを切り裂いた犯人についての情報だと言われて会わないわけには行かなくなった。
 暗い店内の一番隅っこの席でアンジェロはぼくを待っていた。アンジェロは決意したものの厳しい表情をしていた。イタリアの流行歌が流れる店内は、若い恋人たちで溢れていた。フロアーでは踊っている客もいる。伝統を守るこの歴史的な街の中にも若い人間たちは生きている。多くの活動的な連中はミラノやローマに出て行ったが、残った連中はこういう盛り場に集まっては表で発散できないエネルギーをぶつけ合っていた。
 スピーカーから流れ出る音楽のせいでぼくたちは顔を近づけなければお互いの声を聞き取ることができなかった。アンジェロの言葉をぼくは必死で追いかけた。
 「なんだって?」
 アンジェロの声は雑音の中を漂っていた。
 「もう一度言ってくれ。もっと大きな声で」
 しかし彼が言う言葉はぼくを判断不能にした。彼が呟いた恐ろしい言葉が頭の中をいつまでもぐるぐると巡っては、ぼくを震えさせるのだった。
 アンジェロと別れてぼくは一人夜のフィレンツェを彷徨った。どこへ行けばいいのか分からなかった。アルノ川沿いをどこまでも歩いた。一旦は芽実のアパートの下まで行きながら、しかし呼び鈴を押すことはなかった。彼女の部屋の電気が灯っているのをしばらく見上げて、それから静かに踵を返した。

 あの絵は先生が切り裂いたんだ……

 アンジェロの声がぼくの頭の中に蘇った。それは物凄い勢いで膨張と収縮を繰り返しては、頭を破裂させようとしてきた。
 「なんだって、そんな馬鹿な。いい加減なことを言うとただじゃすまないぞ」
 「いい加減じゃない。こんなこと、ふざけて言えるか」
 アンジェロの目が嘘を言っているものの目ではないが分かれば分かるほど、ぼくは混乱を来した。あの絵は先生が切り裂いたんだ……
 「訓練生が目撃していた。でもそいつは口を閉ざしてきた。あまりにも恐ろしい事実だからだ。随分悩んでぼくにだけ彼はこっそり教えてくれたんだ」
 アンジェロの瞳が揺れていた。眼球に微かに涙が溜まっている。そこに店の照明が薄く当たって縁を輝かせていた。
 「……先生は君に嫉妬していたんだよ」
 「どうして?」
 「さあ、それは、分かるようで分からない。……先生は自分よりも完璧な仕事ができる君に嫉妬したんだ。いいかい、それが事実だ」
 スピーカーから流れ出てくる流行歌のリフレインがその言葉とともに耳に焼き付いてはなれなかった。
 che vita e,che vita e…… (人生って、人生って)
 「馬鹿げている」
 ぼくは立ち上がり、アンジェロに背を向けた。店を出たかった。この意味のない雑音が耐えられなかった。歩こうとしたが、足が縺れた。体が思うように動かなかった。アンジェロが走ってきて平衡感覚を失って壁についているぼくを脇から支えた。ぼくはフィレンツェのまだ冷たく重たい冬の空気を吸い込んでは、嘔吐を堪えていた。
 「ジュンセイ!」 
 アンジェロの手を力の限り振り払った。
 「うるさい、ぼくのまわりでうろちょろするな」
 ぼくはアンジェロから離れ身を翻すと、夜の町へと飛び出した。
 「ジュンセイ! ぼくは君のためを思って……」
 追いかけてきたアンジェロの胸を突き飛ばして駆け出した。夜のフィレンツェの中を全速力で……
 ジュンセイ、行かないでくれ。アンジェロの声が背後で響きつづけた。あらゆる音が頭の中で萎んでは消え、逆にコッツアを切り裂くジョバンナの暗く憂鬱な顔だけが闇の中に浮上しては悲しく明滅した。
 
 che vita e,che vita e…… (人生って、人生って)

 あの流行歌のリフレインだけがいつまでも耳奥から離れなかった。

 
 
 
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发表于 2006-4-8 22:04:03 | 显示全部楼层
おお、来た来た! 遅くなちゃってごめんなぁ。 う~ん 日本語の小説か、私にとって分かりにくいね。まあぁ できるだけみよう。 がんばってね!応援するよ!
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 楼主| 发表于 2006-4-11 09:56:16 | 显示全部楼层
ありがとう~~  宝宝是只猪ちゃん~~
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 楼主| 发表于 2006-4-12 14:53:01 | 显示全部楼层
第7章 過去の声 未来の声 la voce del passato. la voce del futuro 

 それほど大きくない窓があった。室内が薄暗いせいで、外の光がハレーションを起こし、窓の枠がトンネルので口のように見える。その先に広がる風景は、工房の作業場の小さな石窓から見えていた景色とも、アルノ川沿いのぼくの部屋の窓からの眺めとも違い、もっと平坦な印象の、箱庭的な距離感のない世界だった。
 梅ヶ丘・羽根木公園の小高い丘が眼前にある。学生時代の記憶と重なる懐かしい景色だったが、長くフィレンツェの石畳を見慣れてきたせいか、日本的な眺めに違和感を覚えてしまう。
 この街に戻ってきてからぼくは、まるで退職して時間を持て余している人みたいに毎日をのんびり、ぼんやりと過ごしている。仕事を探すこともしないで、祖父の作品が山積みされたアパートの一室で、毎日ラジオをつけっぱなしにして音楽や取りとめもなく続く日本語に耳を傾け、簡易ベッドの上でごろごろとしていた。ぼくは心をあの街に置き去りにしてきてしまった。
 午後、することもなく公園を散策した。外出を許可された患者のように脱力したまま歩いていると、子供の手を引いた母親とすれ違った。
 ジョバンナのことを考えてしまい、思わず目を瞑ってしまった。
 真実を確かめずにぼくは帰国した。確かめるのが怖かった。ジョバンナを問い詰める勇気がないまま、逃げるように帰国してしまった。先生を信じたい、と繰り返し祈っては見るが、祈れば祈るほどに、ジョバンナはぼくの心の中で悪魔のように薄気味悪く立ちはだかった。
 母のように慕っていた人間に裏切られたのだから、立ち直るまでに時間が必要だった。
 日本に戻ってきて既に半年がすぎようとしていた。嫌な記憶は忘却させるしか解決方法はないのだから、もう忘却よう、と心に言い聞かせた。
 公園のベンチに腰掛け、空や雲や家々の屋根をじゅんぐりに眺めていった。何かが心の奥底からむくむくと芽を吹こうとしているのが感じられて仕方なかった。それが何か、頭では理解することができなかった。しかし過去の一時ぼくを支配していた感情の残骸によるものだということは分かっていた。
 あおいとの思い出に縋る。現実の苦悩から離脱するために昔の記憶の、一番楽しかった頃を思い浮かべた。楽しかった頃……
 実際にはその期間は短い。なのに、その後の寂しい別れよりも、最初に思い出すのは美しい日々のことばかりだった。今は、特に綺麗な思い出だけを求めていたかった。二人で回し読みした本。二人で聴いた音楽。二人で通ったカフェ。二人で歩いた道。二人で見た空……
 
 ぼくは世田谷の上空を流れていく雲を見つめていた。つい昨日のことのようにあの日々を思い出すことができる。この街に戻ってきたのも、あおいとの思い出に縋ることで苦しい現実から離れていたかったからかもしれない。フィレンツェで費やした時間を一時的に忘却するために、ぼくは今、この街で一人暮らしを始めた。
 駅前のコンビニで求人雑誌を買った。祖父がこっそり小遣いをくれてはいたが、いつまでも甘えるわけにはいかなかった。そろそろここで生きていく算段を考えなければならないのだ。日常を取り戻すために、働かなければならなかった。
 しかし修復の技術しか持たないぼくに、この未来へと向かう街の中、いったいどんな仕事があるというのだろう。ここでは過去を切り捨てられているように感じられてならない。
 東京中が未来へと傾斜している。どんどん新しく建て直されていくビルは、未来のシンボルのような凛々しさでにょきにょきと生え、家々の頭上に君臨している。過去とは何か、とぼくは考えた。過去は人間にとって不必要なものだろうか。過去を修復してきたぼくは、この街にもう一つ居場所を見つけ出せずにいる。この街の速度の中で自分を保って生きていくことができるだろうか。
 
 「さあ、そろそろこれからのことを考えないとだめだな。いつまでもぐうたらとしているのは若さに毒だ」
 時折、祖父阿形清治がそんなぼくの様子を見に訪ねてきてはハッパをかけた。この半年の間、祖父だけが外の世界との唯一の接点でもあった。
 「何をしたいのか自分でもわからないんだ」
 「絵を描けばいい。テンペラ画をやってみたらいい」
 「描いてはみたいけれど、日本でテンペラなんか描いて生きていけるとは思えない。実際問題、差し当たっての生活のことも考えていかないと。いつまでもおじいちゃんに甘えているわけにもいかないからな」
 祖父は画壇の理事は続けていたものの、ほとんど後進に道を譲ってすっかり隠居の身分に落ち着き、他にすることもないせいか、とにかくぼくの世話を焼きたがった。金満家の自分の息子には夢を託せなかったので、ぼくに託したいのだろう。しかし、祖父がこつこつ地道に積み上げてきた創作世界は、ちょっと努力をしたくらいで簡単に真似のできるものではなかった。何をやるのも時間を根気が必要であった。
 「やっぱりぼくには修復の仕事が向いているんじゃないかって思う」
 「それはリッパなことだ。だけどな、お前が行き詰まっているのもわしには分かる。イタリアで何があったのかは知らんが、お前のその精気の失わせた瞳を見ていると、わしは何とか力になってやりたいと思うのだ」
 「ありがとう。そういってくれるだけで嬉しいよ。でも、これはぼくの問題だから、そのうち自分で解決しなければならないんだ」
 祖父はソファの上に胡坐をかき、キセルにタバコを詰めながら、ただお前に絵を描いてほしいだけなのにな、と呟いた。
 「どうしても修復の仕事を続けたいというのなら、幾つか修復所を紹介しても構わないが」
 「うん、もう少し考えてみるよ。まだ貯金も残っているし、ここの家賃がかからないだけでも助かる。後ちょっと甘えさせてもらっていいかな」
 「構わない。まだお前は若い。十分にやり直せる若さだ」
 祖父は、見せたい作品がある、奥の作品を保管している部屋を顎で指した。
 黙って従うと、自慢げに一つ一つの作品を長い時間かけて案内してくれた。
 どの作品にも祖父の生命力が漲っていた。暗幕が下ろされた一番広い部屋には、六〇年代、祖父が中南米を旅行しながら描いた抽象木版画が犇いていた。ほとんどの作品はなぜか人よりも建物が多く描かれていた。しかし、人物が描かれていないにもかかわらず、それらの絵は人間の生活や歴史の匂いを濃厚に漂わせていた。
 祖父は一枚の木版画を指して示した。広大な砂漠の真中に中南米の家らしき平屋の建造物がぽつんと描かれているだけの作品だ。
 「単純で作為のない空間構成を心掛けたんだな。仲のいい批評家がこれから人群の作品を『家の肖像画シリーズ』と名付けおった」
 それから祖父は同じように杭だけが描かれたものや壁だけが描かれたものを見せてくれた。それらは家シリーズと同様、杭や壁がただそのまま描かれている変哲のない作品だったが、旅をしている祖父の視線や、そこに描かれていない人々の生活感などが透けて見える不思議な味わいのある力作であった。
 「この杭や扉は、生活の一部を抽出することによって、世界の果てを描き出そうと試みたものでな。これ、この壁はメキシコの壁なんだが」
 その版画は、まるで写真のように精密に壁が描かれているだけのものだった。全体が鮮やかな緑色をした壁で、ちょうど中央部に、どういう理由でかは分からないが、煉瓦で埋めてしまった扉らしきものがあった。
 壁の絵には全く生き物の気配が描かれてはないのに、その埋められた扉とその鮮やかな緑のペンキがメキシコの人々の心模様を見事に表現していてユーモラスながらしっとりと心に迫ってきた。
 「きっとわしは日常風景の観察者でありたかったんだろう。こうして的確にモチーフを切り取って再生させる若い頃のわしは、ある意味でカメラの目を持っていたといってもいい。もう今はこの機械の目は失われてしまったがね。カメラアイを持って世界を放浪し、感じたものをカンバスに複写する。それだけなんだが、当時の自分の行動の原点が現れている。こうしてわしに切り取られた世界はわしという人間の目を通じて一つの作品となり未来へと旅をし続けているんだ。もうこの同じ家や壁や杭は地球上にないかもしれん。なのにそれを拵えた者たちの精神はこうして残っている。画家の役目とはそういうものだ。未来へ掛け橋とでもいうのかな」
 「未来への掛け橋か。随分と眩しい言葉ですね」
 「順正に絵を勧めるのは、お前には未来を見つめてほしいからだ」
 ぼくは、小さくかぶりを振った。
 「ぼくにはそんな壮大なテーマを描く力があるかな」
 「ある。お前の目は画家の目だ」
 「絵を描くのは好きだけどさ……。それはおじいちゃんがぼくの父さんに託せない夢をぼくに託したいから、そう思うんだよ」
 祖父は口をへの文字に噤んだ。ぼくは言いすぎたと反省した。 
 「ごめん。気持ちはすごく嬉しいんだけど、ぼくは結局修復士が性にあっている。過去を未来に伝える役目に誇りえ思っている。ぼくみたいな人間も重要なんだ」
 祖父は、確かに、お前の言う通りだ、と小さく頷いた。
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 楼主| 发表于 2006-4-14 12:01:44 | 显示全部楼层
 十月のある日、母校成城大学へ足を伸ばすことにした。小田急線に乗って、成城学園前で降りた。駅は当時のままだった。改札を出た途端、記憶が一気に蘇った。卒業してから一度も訪ねたことがなかったためか、無性に懐かしかった。二度、三度、振り返りつつ階段を下りた。学生たちの顔には見覚えがあった。知っているものは一人といないはずなのに、なぜかどの顔も懐かしかった。
 駅の階段をひりきると狭いロータリーがあり、車や人々でにぎわっている。変わってしまった店もあったが、昔のままの商店もあった。
 そうだ。この道をぼくは通学していたのだ。
 自然に体は動き出していた。あおいと時々待ち合わせたビルの二階の喫茶店はもうなくなっていた。代わりにそこに新しいレストランがオープンしており、その窓変にカップルの姿があった。当時のぼくとあおいのような生真面目な雰囲気の二人。ぼくは一瞬足を止め、当時の記憶の輪郭を手探りでなぞっては、ため息を漏らした。
 記憶にある花屋やブティックやケーキ屋を見つけるたびに、胸にこみ上げてくる仄かな熱で目元が緩んだ。まるで学生に戻ったような気分だ。道の両側に聳え立つ銀杏の並木を見回しながら歩いた。ここをぼくたちは片寄せ合って歩いたのだった。あの頃の二人の面影がそこら中に溢れている。ぼくは何度も立ち止まり、すれ違う学生たちの足取りを目で追いかけた。

 校門を入ると、記憶がいっそう激しく感情を揺さぶってきた。何もかも六年前のままだった。まっすぐ学生ホールへと足が向かった。学生ホールに入る手前の、一号館のロビーでぼくたちは授業の後よく待ち合わせ絵押したものだ。窓に面した椅子にあおいはいつも座っていた。背後から光が射し、あおいの輪郭が逆に黒く浮き上がって、まるで中の宗教画のようだった。\
 彼女が、溢れ返る学生たちの中にぼくを探しているのを、ぼくはすぐには駆け寄らず、少し離れた物陰からじっと見つめた。あおいは首を捻ったり、目を凝らしたりしていた。普段はクールな人なのに、ぼくをそんな風に、首を長くして待っていてくれたことが嬉しかった。案の定、ぼくが、やあ、と顔を出すと、私も来たところよ、という顔をしてさっさと立ち上がって歩き出した。彼女という人はそういう人だった。冷静の中に情熱を押し隠して持ち歩いているような……
 思い出がそこら中に残っていた。歩くたびに胸が熱くなった。二号館と三号館の間を下がる坂道の右手には池があり、その突き当たりの分連ハウスがあった。
 学園祭の頃になるとこの坂道はその準備に走り回る学生たちの闊達な姿で溢れ返った。ぼくたちはそんな学生たちの急ぎ足に逆流するかのごとくこの道を下がった。
 テニスコートのある雑木林で人目を避けながら手を取り合った。大きな栗の木があり、二人はその袂で初めてのキスをした。そこが校内だということがむしろ二人を大胆にさせのかもしれない。周囲を気にしての慌しい口付けだったが、その時のあおいの唇の柔らかさははっきりと記憶に残っている。一度唇を離した直後、熱で朦朧としたぼくがもう一度口づけをしようと迫ったら、彼女はぼくの胸を押し返した。そして背を向けると七十周年記念講堂の方へと走り出してしまったのだ。
 季節は同じく秋だった。落ち葉を踏みしめてぼくは坂道を掛けた。振り返るあおいの顔に満面の笑みが溢れていた。
 それらの記憶を反芻しながら、暗くなるまでぼくは大学の周辺を歩き回った。
 
 夜、スケッチブックにあおいの顔を描いてみた。開け放した窓の向こうに羽根木公園の木立の暗い輪郭が街灯の明かりに照らし出されて鬱蒼と膨らんで見えた。チーズをつまみに安物のワインを飲み、酔いに任せて何枚もの彼女の顔を描きつづけた。どれも似ていなかった。彼女はもっと優しい顔をしていたじゃないか、と描きながらため息を零した。
 あおいはぼくの中で薄れてはじめている。グラスに残ったワインを一気にあけて、無理やり微笑みを拵えてみた。六年もの日々が過ぎているのだ、仕方なかった。どんなに彼女のことを考えても、元通りになるはずはない。
 私の三十歳の誕生日に、フィレンツェのドゥオモのね、クーポラの上で待ち合わせをするの、どお?
 約束とも言えないような子供じみたやり取りの中で、彼女は確かにそう言った。彼女から言い出したことだったが、あおいがこのやり取りを覚えているとは思えない。その後別れるまで、二人の間でこのことが話題に上がったことはなかったのだから。
 
 空きになったグラスの中に新しいワインを注いでいると、玄関の呼び鈴が鳴った。開け放たれた窓から秋の冷たい夜気が室内に注ぎ込んでいた。ぼくは窓を閉めてから玄関の覗き窓に顔を近づけ、思わず声を張り上げそうになった。芽実が立っていた。顔が引き、ドアをじっと見つめて放心していると、再び呼び鈴がなった。
 「順正! いるじゃない。逃げないで開けてよ。いま窓を閉めたくせに」
 声にせっつかれてかぎを外し、ドアを開けた。彼女はドアに足を挟み大きな鞄を投げ入れると勢いよく部屋の中に上がりこんできた。そのままぼくに抱きつき、泣き出した。
 どうして連絡もくれないの、何度も手紙を書いたのに、というようなことを訴えていたが、それははっきりとした言葉にはならず、泣き声に混じってぼやけていった。
 「ねえ、もう私のこと嫌いになっちゃったの。だったらちゃんと別れてよ。勝手にいなくなって連絡もくれないなんて、ひどい。ひぢすぎる。芽実だって人間で、意思もあって、いつだってそれなりに考えていて、悩むこともあるし、苦しいと思うことだってあるのよ」 
 そこで彼女は大きく息を吸い込んで、そうは見えないかもしれないけれど、と付け足し、会えなかったこの半年間の日々を、一気に埋めるかのように泣きじゃくった。
 どうしていいのか分からず、彼女を優しく抱き寄せ、苦々しくドアを見つめた。その扉の向こう側にフィレンツェの街が広がっているような気がしてならなかった。アルノ川、ジョバンナの工房、ヴェっキオ橋、シンヨーリア広場、ウフィツィ美術館、そしてドゥオモ。再び過去がぼくの心の中で渦を拵えた。
 「来るなら迎えに行ったのに」
 そう言うと、芽実はぼくの胸から顔を話し、怖い形相でぼくを睨みつけた。
 「どうして手紙もくれない人が迎えに来るの?」
 「迎えに行くさ」 
 「どうして?」
 「どうしてって、わざわざイタリアからきたんだから」
 「そんな言い方は侮辱している。好きだから迎えに行くんだってどうしていえないの。そうでしょ。私は順正が好きだから、学校も辞めてこうして」
 「ちょっと待って、学校を辞めたのをぼくのせいにするなよ。やめたかったんだろ」
 「何で意地悪を言うの。イタリアから日本まで何時間かかるか知ってるでしょう? 順正の気持ちを確かめるために何もかも捨ててやってきたのに」
 もう一度芽実を抱きしめた。ところが芽実は激しく抵抗し、やめて、そんな風に情けをかけられたくないもん、と叫んだ。
 「国を退去したら、愛も退去できると思ったんでしょうけど」
 「そんな風に言ってない」
 「でも同じよ、言ったも同然。手紙もくれない」 
 「電話したじゃないか」 
 「電話なんか、一度か二度じゃない。それも忘れ物を送ってくれないかて、住所だけ言い残して。私は順正の妹や母親じゃないのよ。恋人でしょ」
 「恋人か」
 「違うの?」 
 芽実の瞳に再び涙が溜まった。目が赤くなっていた。
 「そうだよ」
 思わず口にした自分に我慢ならず、芽実から離れて背を向けてしまった。正面のソファの上にあおいの顔を描いた画用紙が広げられていた。気づかれる前に片付けなければ、と足を踏み出した瞬間、芽実がぼくを追い越し先に居間へ行き、その絵を掴んだ。芽実が考えていることが手に取るように理解できる。
 「何時ごろついたの?」
 できる限りさり気なく、この場の雰囲気をかわすしかない、と考えた。
 芽実は一枚を握りしめてこちらを振り返ると、これなに、と語気を強めた。
 「絵だよ」
 「誰の?」
 「誰ってことはないさ、想像上の人物だ。少し絵を勉強しはじめてるんだ」
 「想像上の人物にしては全部同じ顔に見えるけど」
 「そういう訓練なんだ。一つのイメージを具現化させるためのさ」
 「モデルはいるでしょ」
 ぼくは嘆息を零した。
 「ああ、多分」
 「誰?」
 「誰というほどの人じゃないって」
 「そうじゃない。分かるもの。こんなに愛情のこもった順正の絵ははじめて見る」
 「そうかな」
 「そうよ」
 「じゃ、腕を上げたんだなきっと」
 芽実は僕の見ている前でその絵を破った。破れていくあおいの似顔絵を救うことはできずにただ呆然と見ていた。芽実はそんなぼくの様子を窺っていた。ぼくは過去から離脱しなければならないのかもしれない、床にまき地散らされた画用紙の残骸を見つめて思った。芽実はもう一枚が用紙を掴み、それをいっそう激しく引き裂いた。
 
 翌朝、目を覚ますと横に芽実が寝ていた。ぼくの腕に絡めた手には力が入ったままで、南京錠のようだった。引き抜くわけにも行かず、彼女が起きるのを待つしかなかった。朝の静かな時間の中、ぼくは芽実の隣でおとなしく、これからのことを少しだけ真剣に考えていた。自分がいったい何をしたいのか、それをまず知る必要があった。修復の仕事を日本で探すか、或は祖父の言うように、とても今からでは職業としては無理だが、画家の道を目指すか、それとも全く違った仕事を見つけ出し就職するのか。結論は見えなかった。芽実との関係もこのままでいいのか考えなければならなかった。どれもこれもほったらかしにして流れに任せておくことのできそうにないものばかりだった。
 
 芽実との梅ヶ丘での生活はフィレンツェでの関係よりも精神的にお互いの心を干渉しあう息苦しいものとなった。一つには、彼女にはぼく以外東京に頼まれる人間がいなかったせい。母親が仙台の方で暮らしているということだったが、新しい父親と顔を合わせるのが嫌で、仕送りだけで繋がる関係になってもう何年も経ているとのことだった。
 フィレンツェでは気が向いたときに夜をともにしたが、ここではずっと一緒にいなければならなかった。朝から晩まで芽実が横にいた。喧嘩をしても、彼女にもぼくにも逃げ場がなかった。
 
 「どうする気?」
 朝食を摂りながら、あるときぼくは芽実に訊いて見た。なにが、と彼女は聞き返してきた。
 「いつまでもこのままじゃよくないよね。こうやって毎日をずるずると過ごすのはよくないと思うんだけど」
 「勿論、当たり前じゃない」
 「じゃ、どうしよう」
 「順正こそどうするつもりかな。仕事とかしないで、お祖父様の脛を齧って生きていく気?」
 まさか、と口を濁したが、続けて反論はできなかった。
 「働かないの?」
 「働くさ」
 「働いて、私のために」
 「芽実のために?」
 「そうよ、二人の将来のためにじゃんじゃん働いてください」
 輝かしい目つきで言い放つ芽実から視線を逸らした。未来のために? 心の中でぼくは自問した。未来なんかのために生きた経験はなかった。芽実が見つめている未来を一緒に覗くのは少し怖かった。しかし何か行動を起こして、なんとかこの膠着した状況を打破
しなければならなかった。
 
 人はみな未来を向いて生きなければならないのだろうか。

 ぼくたちは特にすることも見つからないまま、羽根木公園を散歩した。かつてあおいと並んでこの公園を今ぼくは芽実と並んで歩いている。フィレンツェより東京の方が空気が重い気がするのはぼくだけだろうか。そのことを芽実に聞くのを躊躇った。
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 楼主| 发表于 2006-4-17 15:31:41 | 显示全部楼层
第8章 薄紅色の記憶 un dolce ricordo
 時は流れる。そして思い出は走る汽車の窓から投げ捨てられた荷物さながら置き去りにされる。
 時は流れる。つい昨日のことのような出来事が、あの時、ある瞬間に、手の届かないほど昔の出来事として記憶の靄の彼方に葬り去られることがある。\
 時は流れる。人は不意に記憶の源に戻りたい涙ぐむことがある。
 一九九九年初春。長い冬が終って、日差しに温まりの片鱗が宿り、風は冷たいながらも清々しく、新しい季節の到来を伝えていた。
 また春が来た―
 ぼくは羽根木公園の梅が薄紅色に咲き誇り、青空と地面の間を水彩絵の具で線を引いたように浅く滲ませているのを見上げながらため息混じりに口腔で呟いてみた。
 ぼくの側には芽実がいたし、ぼくはまだ無職だったし、それにぼくは過去に引っ張り回され相変わらずあおいのことを忘れずにいた。
 心というものは厄介なものだ。心という部分が肉体のどこにあるのか分からないせいもある。だから心が痛い、と思っても他の部位、例えば肩や足首が痛いのとは全く違って、手を施しようがない。どこにあるのか分からないものを労る方法をぼくはまだ知らない。だから、考えてみたら、ぼくはずっと心が痛んだままそれをそのままにしてきた。時間がきっと解決してくれる、流れていく時が心の病を癒し過去を忘れさせてくれるとどこかで願いながら……
 心の古傷がますます痛くなっている理由は、あの日が少しずつ近づいているからに違いない。約束の日までほぼ一年となった。期待する方がおかしい、まるで夢の中で交わしたような何の根拠もない約束。でもぼくの癒されることのない心は明らかにその日に向かって傾斜しはじめている。
 芽実は求めたれ抱き合っても、心はそこにはもうなかった。男という動物の虚しさはここに心がないというのに女性を抱けるということだ。それは半ば同情のような行為でもあり、芽実を侮辱するものでもある。こんなことを続けていてはいけない、と全てが終わるごとに後悔するが、今日という日をなんとかやり過ごそうとする怠惰な性格のせいで、ぼくは一瞬の快楽につい身を委ねてしまうのだった。
 心の入らない事務的な行為に芽実も気がつかないわけはなかった。いやむしろだからこそ、あんなに回数を求めてきたのだろう。彼女にしてみれば、抱き合うことでしかぼくの気持ちを確かめる術を知らないのだ。抱き合うことが二人が繋がっていることを確かめる一番の方法でもあったのだから。

 未来が不安になれば、彼女はぼくに抱きついてきた。しがみついてきたという方が正しい。しがみついて離れない彼女を離す方法はセックスだけだった。どんな言葉よりも、機械的な、或は作業工程のような丹念な行為にだけ、彼女は納得をし、ぼくから離れた。
 ところがぼくはと言えば、彼女を抱きながら、時々錯覚に陥った。自分の下にいるのが芽実ではなくあおいのような気がして。
 「どうして目を瞑っていたの?」
 と芽実は全てが終って天井をぼんやりと眺めているぼくに向かって訊いてきた。ぼくは、眩しかったから、と明らかに嘘と分かるセルフを臆面もなく吐いてみせたが、本当は過去を見ていたのだった。
 瞼を閉じることとそこに大学生のあおいの姿があった。暗がりの中に潜むあおい。怯えて青ざめたあおい。二人の記憶の中で抱き合っている場所は十年前のここか或は同じく学生時代の祖師ヶ谷大蔵の彼女のアパートである。そして、彼女は決して明るいところでの交接を許可してはくれなかった。だから記憶はいつも夜で、夏だったら月明かりに浮かび上がる、冬だったら電気ストーブの電熱線の赤い灯に照らし出された、彼女の肉体の仄かな輪郭眼球の濡れた縁ばかりであった。
 「順正」
 「まだ許してくれないの?」とあおいの声がした。
 ぼくは瞼に力を込めた。あおいが身体を揺さぶる。目頭に熱いものを感じた。それが涙とわかるのに数秒間を要した。
 「順正」
 もう一度声がした。声は前よりも耳元に近く、生々しかった。瞼を開けると、ぼくを覗き込む芽実の顔があった。
 「機嫌直った?」
 「機嫌?」
 「別に、気にしてないんだったらいいけど」
 抱き合う前、ぼくは芽実と些細なことで口喧嘩をした。最近では日常茶飯事となった夫婦喧嘩のような、どうでもいいことがきっかけの言い合い。確か美術館に行くはずだったのにぼくが突然行かないと言い出したことが始まりだった。仲直りのきっかけとしてはぼくらは抱き合った。
 午後、祖父が突然倒れたとの連絡が舞い込んだ時、ぼくは芽実と丁度祖父の絵を、許可もなく居間の壁に掛けていたところであった。
 抱き合った後、ぼくらは奥の倉庫のように使っている部屋に保管されていた祖父の絵を覗いた。中南米を横断しながら描いた初期の作品を芽実もぼく同様気に入った。それらの絵を見ながら芽実は涙ぐんだ。そこに描かれていない人間たちの生活が浮き上がって見えるといいながら。
 芽実は父親と会話が成り立たなかったことの衝撃からまだ立ち直ってはいなかった。そのことも彼女がぼくから離れようとしない理由の一つであった。彼女は明らかにぼくの中に家族を見ていた。それはほとんど勝手な妄想とでも言うべきもので、彼女は時々遠くを見つめながら、順正のお嫁さんになるのが夢、順正の子供を生むのが私の未来、と呟いては僕の神経を逆撫でしてきた。
 「この絵を向こうの部屋に飾ろうよ」
 と彼女は言い出し、仕方なくそれに従って一番大きな、百号もある「絆」と題された絵を運び出し、なんとか壁に掛け終えた、丁度その時電話がなった。
 ぼくたちは絵を一瞬振り返ってから、言葉もないままに出かける準備をした。芽実もついてくるといって聞かなかった。取りあえず様子を見に「ぼくが一人で行ってくるよ」と告げたが彼女は決して首を縦には振らなかった。
 「おじいちゃんと私は友達なんだから」
 
 祖父が入院した三鷹の病院へと出掛けた。電話を掛けてきたのは父清雅の妹に当たる阿形文江であった。文江もまた画家で、一度は結婚もしたのだがうまく行かず、それ以降は祖父の側に付き添い、植物状態の祖父の妻い絹江の面倒も見ながら、親子で暮らしていた。
 三鷹の病院は父が生まれた病院でもあり、祖母が入院していた時に訪れた時の暗さはなかった。エントランスを潜ると中庭の方から吹いてくる爽やかな風に気持ちが一瞬癒された。
 ぼくが日本に帰ってきた頃、阿形清治に三鷹の実家一緒に住むよう勧められたが、文江の、父清雅にも似たどこか気難しそうな雰囲気に馴染めず、結局梅ヶ丘に一人住むこととなった。その文江との久しぶりの再会でもあったが、相当な困惑している様子が顔の端端に見受けられ、気難しそうな最初の印象がぼくの思い込みだったのかと思えるほど、彼女の顔は悲しみに暮れ、弱気に映った。
 「突然倒れて」
 文江は泣きはらし目でぼくを見た。
 「それで今日はどうですか?」
 「まだ意識はない。顔を見ることはできるけど」
 ぼくたちは文絵に案内されて阿形清治の病室に出掛けた。ブラインドが半分下ろされていたがその隙間から、井の頭公園の緑が見えた。最上階の個室の少し大きめのベッドに祖父は横たわっていた。祖父の鼻には管が挿さり、精気の失わせた顔には包帯も巻かれて、倒れた時の痛々しさを物語っていた。
 芽実を文江に紹介したときだけ、ほんのわずかのやり取りがあったが、後は特に会話らしきものも交わさず、三人はじっと祖父の顔を見下ろした。フィレンツェで「隙あり」と腹を殴られたときの祖父の元気な顔を思い出した。容態が悪化するかどうかも分からなかった。
 「お兄さんも戻ると言っていたけど」
 文江が祖父の顔を見つめたままそう告げた。どう返事をしていいのか迷った。高校を卒業してから、ぼくは父ときちんと向かい合ったことがなかった。画家だった母を自死へと追いやったのが父のような気がしてならなかったから。
 「本当に来る気かな」
 「遺産があるからね」
 もう一度文江を見つめた。彼女の横顔には、こめかみの辺りに青白い筋が浮かんでいた。父が怒ると同じように大きな血管が浮き上がった。子供の頃、ぼくは父の血はずっと青色だと思って疑わなかった。
 祖父は三百坪はあろうかという三鷹の屋敷をはじめ、長い時間を掛けて世界中で買い集めた絵画のコレクションなど、多くの資産があった。当然それを受け取る権利を父は持っていた。
 
 結局、面会時間ぎりぎりまで病院のロビーで待機していたが、「峠は越えた」と医者が告げたこともあって戻ることにした。
 その夜は壁に掛けられら祖父の絵を見ながら芽実とワインを開けた。祖父にも寿命はある、と自分に言い聞かせながら一気に呷った。祖父にもしものことがあったなら、ぼくはどうしていいのか分からなくなりそうだった。祖父はぼくにとって普通の人たちの父と母と同質の重みがあった。
 「まだおじいちゃんに相談したいことがたくさんあった」
 言うと、芽実は僕に優しく寄り添いうなずいた。
 「大丈夫。きっと元気になるよ」
 「もしものことがあったら、ぼくは一人ぼっちになる」
 芽実は小さくため息をついた。
 「私がいる」
 二人は見つめあった。芽実の彫りの深い目元に一粒の光る水滴を見つけた。自然に唇が重なり、下が絡まり、彼女の涙でぼくの頬も濡れた。芽実の両腕にきつく抱きしめられたがそれは苦痛ではなく、むしろ癒された。
 
 
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