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发表于 2006-4-7 12:03:21
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翌日からぼくと芽実は祖父をつれて美術館巡りをすることとなった。芽実と祖父は初対面なのにすぐに意気投合し、間もなく芽身は祖父の腕に手をまわして歩くようになった。
最初に行ったのはサン・アルコ修道院だった。修道院はフラ・アンジェリコの美術館と呼んでもいいくらいにアンジェリコの作品を所有しており、祖父の興奮は続いた。芽実の手を引っ張って、どちらが観光客か分からなくなるほど彼はぼくらを連れまわした。
「見ろ、これがアンジェリコの代表作『受胎告知』だ。なんとも言えない構図だな。この清楚な佇まい。心が洗われるとはまさにこういうものに触れたときに感じるものだ。見ているだけで気持ちが穏やかになってくる。つまらないことの多い世の中を清める力がある」
祖父のはっきりとした意見に、芽実は終始微笑んでいた。
ぼくたちは「受胎告知」に続いて、「キリストの変容」「茨の戴冠」「聖母戴冠」「我に触れるな」と祖父の解説付きでアンジェリコを堪能したのだった。工房の入り口に揚げられていた模写の原画である「リナイオーリの祭壇画」の前に出た時にはさすがの祖父も息が上がっており、口数が少なくなっていた。
「少し休ませた方がいいんじゃない」
と芽実がぼくに耳打ちしたので、ぼくは祖父を支えて、修道院の一階にある聖アントー二の回廊まで連れ出した。外気に触れながら、三人並んで冷たい回廊に腰掛け、祖父の体力が回復するのを待った。サン・マリコ修道院の中で黙ってこうして並んで座っていると、まるで十四世紀に生きているような気分になった。
これまでのことを振り返った。フィレンツェを訪れた日のこと。先生の工房を訪ねた日のこと。工房で仕事を覚えていった日々。それからあの事件のこと。さらには未来のことを考えた。これからのこと。工房を辞めること。辞めてからのこと。来年のこと。西暦二〇〇〇年の五月のこと・・・・・・
ぼくは将来もずっと修復の仕事を続けるつもりだろうか。この仕事を天職として一生をこれに打ち込むつもりなのだろうか。分からなかった。それを考えるにはいい機会かも知れなかった。
「仕事は楽しいかね」
まるでぼくのそんな心の迷いを見透かすように祖父が呟いた。芽実は興味深そうな表情でぼくの顔を覗き込んでいる。
「仕事をしている時は自分を忘れることができる」
「修復の仕事は自分に向いていると思うかね」
それには答えられなかった。向いているのかどうか改めて考えたことはなかった。ただ使命のようなものを感じることはあった。過去を未来に伝える役目にかかわっていると思うと、どこからともなく力が湧いた。自分ができるような気にもなった。自分が修復絵が千年後また誰かに修復されるかと思うと、人間の限界を超越することができるような気にもなった。しかしそれらはとても気の長い作業だ。それに生きている間には確認できないことでもある。自分の仕事がどれほど人類の未来に貢献しているのかは計りかねた。
「どうかな。わかんないけど、向いていないかもしれないね」
ぼくはやっと言葉を紡ぎだすことができる。祖父はゆっくりこちらを振り返る。
「いや、まだよく分からないんだ。いろんなことが自分にいっぺんに降りかかっていて、自分の人生なのに、自分一人では決められないような気もする・・・・・・」
切り裂かれたフランチェスコ・コッツアの絵を思い出した。もしもあの絵を切り裂いたのが仲間の一人だとしたら、そいつをぼくは生涯許すことはできない。人類の遺産を預けられた修復士のプライドに掛けて・・・・・・
「ぼくはエゴが強いだろ。昔からこう見えてもエゴだらけだったじゃない。自分を殺せない人間には修復の仕事は苦痛になるときがあるんだ」
「迷っているんだな」
祖父が言った。芽実は遠くを見つめてわざと聞かないふりをしていた。ぼくは瞼を閉じた。回廊を流れていく冷たい風を感じる。まだまだ春は遠い気がした。
「テンペラ画を描いてみたらどうかな」
唐突なアドバイスにぼくは相好が崩れてしまった。テンペラ画を? しかし祖父は至って真面目だった。
「しばらく模写を勉強するんだ。過去を正す作業から、過去の画家たちの偉業をなぞる作業へと移行する。そうすることで今まで見えなかったものが見えてくる」
「テンペラ画家になれっていうのかい」
「それも一案」
「いきなり言われても」
祖父は立ち上がった。
「言ってみただけさ。なんとなくそう思ったにすぎん。後は自分で考えてみたらいい」
笑った。芽実も笑っていた。ぼくも笑うしかなかった。三人の口から吐き出される白い息が回廊を流れる空気に沿って漂った。テンペラ画家になることはないだろう。しかし祖父のアドバイスには真実も含まれていた。ぼくは自分の未来を限定しすぎるところがある。もう少し柔軟に世界と向き合ってみる必要もあるだろう、ということだ。
祖父は一週間ほどフィレンツェに滞在し、その間あちこちの美術館をとても七十五歳とは思えないほど精力的に歩き回ってから、パリへと旅立った。留学していた頃の恋人にパリで再会するとのことだった。祖父が留学をしていたという話は初耳だったし、当時の恋人がいまだに元気にしていて交流があるとはどうしても思えなかった。しかし詮索は止めた。祖父は人にとやかく心配を掛けるのが何より嫌いなのだ。一人でパリに行くと言ったら死んでも行かなければ気がすまない人だった。ぼくと芽実は空港まで祖父を見送りに行き、祖父は、次は東京で会おう、と微笑んだ。
「東京か・・・・・・」
次の瞬間、祖父はまたしてもぼくの腹部を殴った。それが前よりもいっそう的確に鳩尾に命中し、ぼくはよろけて、かっこわるいことに芽実に支えられてしまった。
「すきあり」
祖父は笑っていた。なんて事をするんですか、と芽実が驚いて祖父に抗議した。
「その痛みを忘れるな。少しは人生の厳しさを思い知るがよい」
芽実の口元が呆れ果てて、緩んでしまった。ぼくはと言えば、祖父が言った、東京で会おう、という言葉が気になって仕方がなかった。
「東京ですか」
呟くと、祖父は、なんだって、よく聞こえないな、と耳をこちらに傾けた。
「東京に戻ろうかな」
ぼくははっきりとそう告げた。祖父は頷いた。
「えー、東京に戻るの?」
芽実がぼくの顔を覗き込んで聞き返す。
「決めたわけじゃないさ」
でも、それも手だな、とは思う。一度東京に戻って態勢を整えてから出直すのがいいかもしれない。
「人間、迷っている時は、思い切って方向を変えてみるのがいい。お前のその面は迷いだらけだ。そんな面でいい仕事ができるとは思えん。お前の部屋はまだ当時のままにしてある。いつでも帰ってきなさい」
祖父はそう言い残して去って行った。七十五歳の老人がたった一人でゲートを潜って行く姿は実に頼もしかった。そう思うと不思議なことに身体のどこか底の方から笑みが沸き起こってきた。結局頼まれるのは自分だけなのだ、と彼はそう言いたかったに違いない。
芽実の手を握った。彼女はすぐにぼくの手を握り返してきた。
ぼくはかぶりを振る。分からない、と言いかけて、その言葉を胃の中に呑み込んでしまった。
東京に戻れば、偶然あおいと再会できるかもしれない。
もう一度でいいから、あおいに会いたかった。
工房が後数日で閉鎖になるという日、ぼくはアンジェロに呼びされて、チェントロのバーで彼と会った。どうしても伝えておきたいことがある、と言うのだった。ライバルの工房に鞍替えしたアンジェロをますます敬遠するようになっていたが、話というのがコッツアを切り裂いた犯人についての情報だと言われて会わないわけには行かなくなった。
暗い店内の一番隅っこの席でアンジェロはぼくを待っていた。アンジェロは決意したものの厳しい表情をしていた。イタリアの流行歌が流れる店内は、若い恋人たちで溢れていた。フロアーでは踊っている客もいる。伝統を守るこの歴史的な街の中にも若い人間たちは生きている。多くの活動的な連中はミラノやローマに出て行ったが、残った連中はこういう盛り場に集まっては表で発散できないエネルギーをぶつけ合っていた。
スピーカーから流れ出る音楽のせいでぼくたちは顔を近づけなければお互いの声を聞き取ることができなかった。アンジェロの言葉をぼくは必死で追いかけた。
「なんだって?」
アンジェロの声は雑音の中を漂っていた。
「もう一度言ってくれ。もっと大きな声で」
しかし彼が言う言葉はぼくを判断不能にした。彼が呟いた恐ろしい言葉が頭の中をいつまでもぐるぐると巡っては、ぼくを震えさせるのだった。
アンジェロと別れてぼくは一人夜のフィレンツェを彷徨った。どこへ行けばいいのか分からなかった。アルノ川沿いをどこまでも歩いた。一旦は芽実のアパートの下まで行きながら、しかし呼び鈴を押すことはなかった。彼女の部屋の電気が灯っているのをしばらく見上げて、それから静かに踵を返した。
あの絵は先生が切り裂いたんだ……
アンジェロの声がぼくの頭の中に蘇った。それは物凄い勢いで膨張と収縮を繰り返しては、頭を破裂させようとしてきた。
「なんだって、そんな馬鹿な。いい加減なことを言うとただじゃすまないぞ」
「いい加減じゃない。こんなこと、ふざけて言えるか」
アンジェロの目が嘘を言っているものの目ではないが分かれば分かるほど、ぼくは混乱を来した。あの絵は先生が切り裂いたんだ……
「訓練生が目撃していた。でもそいつは口を閉ざしてきた。あまりにも恐ろしい事実だからだ。随分悩んでぼくにだけ彼はこっそり教えてくれたんだ」
アンジェロの瞳が揺れていた。眼球に微かに涙が溜まっている。そこに店の照明が薄く当たって縁を輝かせていた。
「……先生は君に嫉妬していたんだよ」
「どうして?」
「さあ、それは、分かるようで分からない。……先生は自分よりも完璧な仕事ができる君に嫉妬したんだ。いいかい、それが事実だ」
スピーカーから流れ出てくる流行歌のリフレインがその言葉とともに耳に焼き付いてはなれなかった。
che vita e,che vita e…… (人生って、人生って)
「馬鹿げている」
ぼくは立ち上がり、アンジェロに背を向けた。店を出たかった。この意味のない雑音が耐えられなかった。歩こうとしたが、足が縺れた。体が思うように動かなかった。アンジェロが走ってきて平衡感覚を失って壁についているぼくを脇から支えた。ぼくはフィレンツェのまだ冷たく重たい冬の空気を吸い込んでは、嘔吐を堪えていた。
「ジュンセイ!」
アンジェロの手を力の限り振り払った。
「うるさい、ぼくのまわりでうろちょろするな」
ぼくはアンジェロから離れ身を翻すと、夜の町へと飛び出した。
「ジュンセイ! ぼくは君のためを思って……」
追いかけてきたアンジェロの胸を突き飛ばして駆け出した。夜のフィレンツェの中を全速力で……
ジュンセイ、行かないでくれ。アンジェロの声が背後で響きつづけた。あらゆる音が頭の中で萎んでは消え、逆にコッツアを切り裂くジョバンナの暗く憂鬱な顔だけが闇の中に浮上しては悲しく明滅した。
che vita e,che vita e…… (人生って、人生って)
あの流行歌のリフレインだけがいつまでも耳奥から離れなかった。
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