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再次请教北京故宫和长城的日语介绍

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发表于 2006-4-19 10:03:58 | 显示全部楼层 |阅读模式
  如题,非常感谢!请指教
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发表于 2006-4-19 10:30:06 | 显示全部楼层
北京故宮と万里長城の日本語紹介は また 宜しくお願い致します。
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发表于 2006-4-19 10:30:36 | 显示全部楼层
再度 宜しくお願い致しますってもいいです。
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发表于 2006-4-19 11:21:04 | 显示全部楼层
万里の長城  

中国で外敵防御のために築かれた長大な城壁。現存の長城は明代,とくにその後半期に築造されたもので,東は渤海湾岸の山海関から,中国本土の北辺を西に向かい,北京と大同の北方を経て,南流する黄河を越え,陝西省の北端を南西に抜けて再び黄河を渡り,いわゆるシルクロードの北側を北西に走って嘉峪関(かよくかん)に至る。地図上の総延長約2700km,あるいはそれ以上といわれ,人類史上最大の建造物とされている。この間,北京の北西,八達嶺付近から居庸関を経て,大同の南,雁門関に至る部分は二重に築かれているほか,2700kmのすべてが同じ構造をもつわけではない。もっとも堅固なのは山海関から黄河に至る区間で,長城の外面は焼いて造ったうすねずみ色の煉瓦でおおわれている。いわゆる塼(せん)であるが,内部は粘土をつき固めた造り方である。八達嶺付近の長城は高さ約9m,幅は上部で約4.5m,底部で9mにおよび,上には鋸歯状の女牆(ひめがき)を設けて銃眼とし,約100mごとに墩台(とんだい)が置かれている。これに対し,黄河以西の部分はかなり粗雑で,塼の代りに粘土を型に入れて乾燥させただけの日乾煉瓦が使われたところが多い。清代に入ってから補修がほとんど行われなかったため,日乾煉瓦造りの部分は破損がひどく,すでに原形を想像できぬほど崩れた個所もある。
[起源] 長城の起源は春秋時代に遡るが,この語が文献にあらわれるのは戦国時代である。当時の長城は北防に限定されず,いわゆる中原の地に建国した国々も,長城を築いて外敵の侵入に備えた。斉,中山,楚,燕,趙,魏,秦などの諸国である。このうち,燕・趙・秦の3国の北辺の城壁については文献に記載があるだけであったが,近年内モンゴル自治区の赤峰付近で遺址らしきものが見つかったと報告されている。
 前221年,中国を統一した秦の始皇帝は燕や趙のつくった北辺の長城を連結し,さらに西方へと延長して,北方遊牧民族に対する防衛線とした。西方は甘粛の岷県付近を起点とし,黄河の北をまわって趙の長城に合し,その東端を燕の長城につなぎ,赤峰から遼陽付近に至るのが始皇帝の長城であった。前漢時代の長城は,その東部についてはほぼ秦代のままであったが,西方では甘粛の回廊地帯を匈奴の侵攻から守るため,武帝の時代に武威・酒泉の2郡を置き,その北に長城を築いた。のちさらに張掖・敦煌の2郡を設け,これにともなって長城も酒泉から西へ,玉門関にまで延長された。後漢時代になると匈奴の勢力は衰え,中国と争う力を失ったので,長城の補修は行われなかった。
 三国から晋代にかけては,いわゆる五胡の動きが活発となり,大挙して中国に侵入するにいたった。彼らは自由に長城を越えて出入し,内地に定住する者もあらわれた。漢族の晋は長江(揚子江)流域に南遷し,南北朝時代が始まった。華北に入った鮮卑は北魏を建てたが急速に中国化し,外モンゴリアにおこった柔然の侵攻に対抗するため,長城の修築を大がかりに実施した。これは始皇帝時代のものを補強したと考えられている。北魏の領土を受け継いだ北斉と北周も巨費を投じて大規模な築造を行った。この長城は山西省離石県付近から渤海湾岸まで,ほぼ1500kmにわたる規模で,現在の長城線の位置に新たに築かれたものである。かくして,このころから北方の古代の長城,つまり春秋戦国時代にはじまり,漢や北魏の時代に補修されてきた旧長城は放棄され,遺址もわからなくなっていくのである。
[改修と変遷] 隋は中国統一後,長城の補修につとめるとともに,オルドス南縁に新しい長城を設けている。唐代になると,北方遊牧民族に対する姿勢が積極的かつ攻撃的となったため,長城の補修・新設などのことはなかった。五代以後は長城一帯の地が,遼,金,西夏など異民族の領土となったから,長城はほとんど手を加えられることなく放置された。金代には,以上とは別の長城が築かれている。金はモンゴル高原の東端に住むタタール部の侵入を防ぐため,新たに興安嶺の西側に大規模な長城を築造した。現在のチチハル(斉斉哈爾)の北西,興安嶺を越えたあたりから,南あるいは南西にのび,陰山山脈北側の草原を西に走り,包頭(パオトー)の北方に達していたらしく,その遺址は今も断続的に残っている。元はモンゴリアと中国を統一的に支配したため,長城を必要としなかった。元代の記録に長城のことはまったく見当たらない。何度も長城線を越えたマルコ・ポーロも《東方見聞録》に長城のことは一行も記していない。おそらく建設以来数百年を経,すでに破壊されて,長城の姿をとどめていなかったからであろう。
 現在の長城はほとんどが明代に築かれたものである。明は永楽帝の時代まで,北方民族に対し攻撃的であったが,以後しだいに防御的となり,彼らの侵入を防ぐため,歴代しばしば修築を行った。主として北斉時代の遺址を基礎としたが,地域によってはかなりの部分を新設したところもある。長城の築造はすでに永楽帝時代(1403‐24)に始まっている。まず,山海関から大同にかけての区間が強化され,ついで正統年間(1436‐49)には北京の正面部分が二重となった。さらにオルドス南縁の長城が改修されたが,この部分は隋の長城をもとにしている。しかしモンゴル族の侵寇は防ぎきれず,嘉靖時代(1522‐66)以後,あらためて大がかりな修築を行った。工事は東部から着手され,今日見られるような__造の堅固な長城ができあがった。西方部分は漢代に築かれて以来,ほとんど放棄されたままであったが,オルドス南縁の長城に続けて甘粛に至る部分が築かれ,ついで蘭州から嘉峪関に延長された。こうして今日に残る長城がほぼ完成したのが,16世紀末のことであった(図)。
 明は長城を北防の第一線として膨大な駐屯軍を配備し,区域を分けて防衛を担当させたが,これを九辺鎮と称する。明代には長城を辺牆とよんだが,北辺の辺牆のほかに,遼東辺牆とよばれるものがあり,山海関から東へ進み,遼寧省瀋陽・開原付近に及び,南下して鴨緑江岸に達していた。これは満州民族の侵掠に備えて設けられたものである。清代になると,満州(東北地方),モンゴリアから新疆に至る地域が中国と統一して支配されたから,長城は軍事的意味を失い,中国本土と満州,モンゴリアを分ける政治的境界にすぎなくなった。このため修理されることもなく,荒れるにまかされて20世紀の前半にいたったが,中華人民共和国成立以後,整備の手が加えられ,山海関や八達嶺は観光地として内外に有名である。
 古い時代の長城はもっぱら版築とよばれる工法で,土でもって築造された。両側に板を塀のように立て,上から土を入れ,杵などでつき固めていく工法である。長城地域の大部分は黄土地帯であり,黄土は乾燥すると非常に固くなる粘土であったから,簡単な工法ではあるが,雨量が少ないこともあって,相当の耐久性をもっていた。黄土を型にはめて乾燥させると日乾煉瓦ができ,これを焼くとじょうぶな煉瓦となる。これが塼である。塼で長城の外部を築くようになったのは明代,とくに嘉靖・万暦以後,つまり16世紀後半以後のことであり,地域的には山西以東の区間に限られている。山西以西では塼のほか,日乾煉瓦の部分と版築らしい部分も存在する。一説によると,八達嶺の長城に用いられている塼の重さは1個あたり20~30kgであるという。
[軍事・経済的役割] 長城には一定の間隔をおいて__台が設けられ,道路と交叉するところには門が開かれて守備兵が駐屯していた。このような場所を関(かん),あるいは口(こう)とよぶが,山海関,古北口,居庸関,独石口,嘉峪関などはとくに有名である。歴史的にみると,万里の長城にはいろいろな意味があった。一般的には,農耕地帯と遊牧地帯をわける境界線であるとか,遊牧民族の侵入を防ぐための設備であるとかいわれているが,最も重要なのは,やはり防衛線としての軍事的意味であった。しかし実際的には,期待されたほどの効果を発揮することなく,北方民族の勢力が強くなると,彼らはどの王朝の時代でも簡単に長城を越えて中国の農耕地帯に侵入し,華北の農村は大きな被害を受けるのが常態であった。大同・殺虎口間,張家口付近,独石口,古北口などが,彼らの主要な突破地点であったが,ただ明代の山海関だけは清軍の攻撃に耐え,ついに突破されなかった。つまり長城はほとんど役に立たず,漢人には堅固な防備があるという安心感を与える程度のもの,北方民族に対しては,その巨大な建築構造によって心理的な威圧感を与える程度のものであった。さらに平和な時代には,長城はまったく無用の長物であった。漢人は長城線を越え,商業的利益を求め,あるいは農地を探して北に向かった。遊牧民族も生活必需品の入手を目的に関口をくぐった。長城をはさんでモンゴリアや満州方面との貿易は古くから行われていた。小規模なものは長城付近の村落で行われる物々交換であるが,大規模なものは長城内の都市を基地とし,隊商を組んで奥地に入った。明末以降の帰化城のように,長城外にありながら商業都市として繁栄したところもある。清代には政府の意に反して,中国商人とくに山西商人は帰化城からモンゴル高原の奥深くまで足をのばした。長城越えの貿易路としては,熱河(承徳)・満州方面に通ずるものがある。このルートが長城を抜ける地点は,唐以前は古北口であったが,遼代に山海関が開かれてからは2点となった。モンゴリア方面へは大同から北上し,得勝口あたりの関口を通るのが主要ルートであるが,明末からその中継基地となったのが帰化城である。
                                      (「世界大百科事典」平凡社[日本])
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发表于 2006-4-19 11:23:02 | 显示全部楼层
これですか?
LZ いったい どんなことを聞いてるかな。
詳しく説明してよ。
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发表于 2006-4-19 11:23:29 | 显示全部楼层
故宮  こきゅう  Gu gong

北京の旧市内のほぼ中央を占める紫禁城のことで,明・清時代の宮城だから故宮といわれる。もとはこれとともに宮苑や官庁を併せ含んだ区域を皇城と称したが,周囲の城壁は早くから取り払われている。1417年(永楽15)に明の成祖永楽帝が南京から都を移し,元の宮城跡に築いたもので,明末に大破壊をこうむったあと,清がほとんどその規模を受けついで復興し今日にいたった。地域は南北960m,東西760mで,高さ10mの厚い城壁に囲まれ,四面に各1門,四隅に角楼を設け,その外に幅50m余の堀をめぐらす。もとの皇城の正門に当たる天安門から,東の太廟(現,中山公園)と西の社稷(しやしよく)壇(現,労働人民文化宮)の間を通り,端門をへて宮城の正門である午門に達する。これをくぐると,御河に架した金水橋を隔てて太和門があり,内に太和殿,中和殿,保和殿の3大殿が南北に並び,きわめて壮観である。これらは国家の重要な儀式を行ったところで,中でも正殿である太和殿は正面約60m,奥行き約33mの大建築である。東側には東華門内に文華殿,文淵閣,西側には西華門内に武英殿,南薫殿などがあり,以上の南半部は皇帝の公的な場所という意味で外朝と称する。その北半部は皇帝一家の私的な住居で内廷と称し,保和殿背後の乾清門から北に乾清宮,交泰殿,坤寧宮などが一直線に配置され,北門である神武門に終わっている。これを中央にして内廷は南北縦割りに5区域に分かれ,それぞれに多数の建築が立ち並ぶ。諸建築は明代の遺構もあるが,大部分が清代のもので,広大な敷地に黄釉の瓦屋根と朱塗りの柱壁が相映じ,往時の絶大な皇帝権を象徴する。中華民国成立後も清朝最後の宣統帝は故宮に住むことを認められていたが,1924年に脱出し,莫大な財宝は国務院に接収された。今日では国有の文化財として全国重点文物保護単位に指定され,故宮博物院と称し一般に公開されている。
                             (「世界大百科事典」平凡社[日本])
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发表于 2006-4-19 11:39:09 | 显示全部楼层
嗷嗷,又来,在北京做导游?
那弄本日本出的介绍吧,中国人写的好是好,但是估计有些用词日本人滴不明白啊~
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 楼主| 发表于 2006-4-19 13:12:22 | 显示全部楼层
非常感谢,3楼和5楼的大侠,但是里面汉字太多了,好多地名的汉字发音可否给表示出来
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发表于 2006-4-20 17:52:25 | 显示全部楼层
有时间的话,一定过来标。
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