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日志

菊と刀7

已有 816 次阅读2006-8-22 03:35 |个人分类:书刊

天气: 晴朗
心情: 高兴
四 中教審答申(教育基本法の問題) ― 審議会で暴論が出ても恥の文化がそれを通してしまう ②

 筆者が中央教育審議会(中教審)の答申を見て、どうして教育基本法を改正しなければならないのか納得が行かないという話の続きです。

 前回引用した答申文の第二章1節「教育基本法改正の必要性と改正の視点」の冒頭の文によると「教育の根本にまでさかのぼった改革が求められている」ということですが、すぐその後に「現行の教育基本法を貫く『個人の尊厳』、『人格の完成』、『平和的な国家及び社会の形成者』などの理念は、憲法の精神に則った普遍的なものとして今後とも大切にしていく」と明言されています。これは矛盾ではないでしょうか。

 「教育の根本にまでさかのぼった改革」という言葉を聞くと、筆者は教育勅語が廃止されト教育基本法が制定されたときの事を思い出します。あれはたしかに教育の根本にさかのぼった改革でした。教育勅語というのは、1890(明治23)年に天皇から国民に対して直接下される指示として発せられた文書です。議会の審議もなにもありません。教育は、軍隊を動かすことと同様、天皇の大権の一つだったのです。その文書ではすべての徳の根源は天皇の祖先の遺徳にあるとし、孝行、友愛、公益等十数個の徳目を掲げてそれを実践するように求め、そして非常の際には何よりも天皇を守れと要求するものでした。それと前回引用した教育基本法を比べて見れば、教育の根本にさかのぼった改革とはどういうものかがよく分かります。

 そういうわけで私は、「個人の尊厳」、「人格の完成」、「平和的な国家及び社会の形成者」などの基本的な理念を継承する改革を「教育の根本にまでさかのぼった改革」と言うのは間違いだと思います。それは、たとえて言えば森内閣から小泉内閣への政変を「革命」と言うようなものです。まさか中教審の諸氏が自分の仕事を誇大に宣伝するためにそういう言いかたをしたわけではないでしょうから、これは、彼らが物事を根本にまでさかのぼて考える能力を持っていなかったためだと考えられます。これを裏付ける事実が、ほかならぬ中教審の基本問題部会の議事録に記録されています。

 基本問題部会の第1回会議(2002年2月8日)でこういう発言をした委員が居ました。

 私は今まで教育基本法というのがあるというのは知っていましたけれども、読んだことがないのです。教育基本法というのを斜めにね、ちょっと見ましたら、すさまじく古風で、何を本当に言わんとしているのかよくわからんというようなところもあるしね。教育振興計画が基本法にのっとってとか、基本法の枠内で何かやるということになると非常に難しいのではないか。むしろ基本法は無視していいですよ、基本法は関係ありませんと。今の現実に即して、今起こっているいろいろな問題を現実的に解決する教育の方法が必要なんですということであれば理解できますけれども、基本法の精神にのっとって云々ということになると、いいものができないのではないかという感じがいたします。

 これはまさに物事を根本にまでさかのぼることをしようとも思わず、する能力もない人にしか言えない事です。その意欲か、能力か、どちらかがあれば、こんな事ははずかしくて言えないはずです。そして更におかしなことには、その場に居た委員のうち誰一人としてその発言を問題にしなかったのです。他の場所ならいざ知らず、今後数十年、もしかすると百年以上にわたって日本の教育に大きい影響を及ぼすかもしれない事柄を審議しようというのに、現行の教育基本法をろくに読みもせず、斜めにちょっと見ただけで、何の事か良く分からんと言いながら、「無視していいですよ」などと、暴言と言ってもおかしくない発言が、問題にされる事もなく通ってしまったのです。これは、その席で審議に参加していた人たちが皆物事を根本にさかのぼって考えることをしなかったということではないでしょうか。

 筆者が前回の終わりに『菊と刀』から引用した文をご覧下さい。その中で「日本人の、抽象的思索、もしくは現存しない事物の心像を脳裏に描き出すことに対する興味の欠如」ということが言われていますね。「教育の根本にまでさかのぼった改革」というのは、ある程度の抽象的思索が必要な事柄なのです。ある程度の抽象的思索ができないと、「教育の根本」とはどんなものか理解できません。それが理解できないので、そういう改革をすると言ったかとおもうと、次の瞬間には平気で基本理念を継承するなどと言うのです。これは日本人が陥りやすい間違いの一つなのでしょう。

 こういう間違いがあることと、答申第2章1節の①ないし⑦がいずれも現行法の範囲でできる事であるのに法改正を提案したということとの間には密接な関係があると考えられます。まず、①-⑦が現行法の下でも可能であることを説明しましょう。

 現行教育基本法は、「①信頼される学校教育の確立」で言われている内容を実現する上で差し障りのあるようなことを少しも含んでいません。むしろそれを支え、促す文言さえあります。たとえば現行法前文にある「個人の尊厳を重んじ」という句は、答申の「一人一人の個性に応じて」という句で表される事柄を包含し、更に一般的に、そして力強く理念を訴えています。もし現在「一人一人の個性に応じて、基礎的・基本的な知識・技能や学ぶ意欲をしっかりと身に付けさせる」という点が満たされていないというのであれば、現状が教育基本法違反になっているのです。それは、現行教育基本法が悪いのではなく、それを守らない人が居ることが問題なのです。情操教育や体育にしても同じことです。また「時代や社会の変化に的確に対応」ということにしても、前文に言われている「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」があれば十分な事ではないでしょうか。もし今の日本で時代や社会の変化に的確に対応できる教育が行なわれていないとしたら、それは世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意において不十分であるということであって、教育基本法の改正によってではなく、教育関係者たちの意識を改める事によって解決しなければならない問題です。

 ②についても上と同様のことが言えます。一体、現行教育基本法のどこが「知」の世紀をリードする大学改革の推進を妨げているというのでしょう。妨げではなく、支持になることならあります。前文の「真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない」という点を厳密に実行するならば、②は問題でなくなるでしょう。

 ③-⑥は、共通の問題を含んでいます。基本的には、そこに言われている事柄は現行法第二条でカバーされています。すなわち、教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならないのです。だから家庭でも、「勤労の場所その他社会」においても、生涯のいつでも、どこでも、教育を授けることのできる人(必ずしも資格のある教師とは限りません)が教育を必要とする人(必ずしも若い生徒や学生とは限りません)を教育しなければならないのです。これはもちろん、③で言われている「学校・家庭・地域社会の連携・協力」を含んでいますし、⑥の「生涯学習の実現」も含んでいます。そして第二条の後段すなわち「この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」というのは、明らかに、④の「公共に主体的に参画する意識や態度の涵養」を含んでいますし、⑤の「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」をカバーしています。

 すでにこういう教育基本法があるのに、それを活用せずに改正しようというのは愚かなことです。なぜならその改正は、答申で見るかぎり、現行法より細かい限定を行なうものだからです。「天網恢恢疎にして漏らさず」という諺があるとおり、法律、とくに基本法による限定は少ないほどよろしい。細かい技術的な問題は、下位の法律か、政令か、規則で定めれば良いのです。基本法での限定が多く、細かくなると、社会を硬直化させることになります。教育の硬直化が恐ろしいものであることを忘れないようにしましょう。

 そして⑦は、まったくのところ、行政の問題です。法的根拠が必要であるというのなら、現行教育基本法の第十一条を活用すればよろしい。

 このように見ると本当の問題点がどこにあるかが見えてきます。現代日本の教育界にいろいろ困難な問題があるのは、現行の教育基本法自体が駄目なのではなく、それが守られていないことが災いしているのです。なぜ守られないかというと、いろいろな原因があるかも知れませんが、重要な事が二つ考えられます。

 第一は、その法律がろくに知られていないということです。私はかつてある大学に教員として勤務したことがありますが、そこでは90パーセント以上の教員が教育基本法における教育の目的を知っていませんでした。それでいて私と同じ世代やもっと年長の教員は教育勅語を暗唱できたのです。この一事を見ても、戦後半世紀の教育行政に大きい間違いがあったことがわかります。明治半ばから昭和20年までの文部省が教育勅語を青少年の頭にたたき込んだのは、内容はともかく、方法としては見上げた熱心さでありました。それにひきかえ戦後の内閣と文部省は、教育基本法をないがしろにしてきました。そんなことだから、オリンピックで金メダルを得た日本人選手が、国歌が演奏され国旗が掲揚されるというのに、表彰台のてっぺんで帽子をかぶったままで居るというようなことが起こったのです。もし内閣および文部省が「平和的な国家及び社会の形成者として、……心身ともに健康な国民の育成を期して」いたら、そして「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」という規定に忠実であったら、そしてまた「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない」ことを選手団の監督やコーチが心得ていたら、世界の人々が注目する晴れの舞台でそんなみっともないことをする選手は現われなかったでしょう。要は、「教育基本法の教育」がほとんど行なわれていなかったのが非常に大きい問題なのです。それがために、教育基本法をろくに読んだ事もなく、斜めにちょっと読んで見たら何のことかよく分からんと告白するような人や、その告白を聞いても問題があると気づかないような人々が中央教育審議会の基本問題部会で会議をして政府に対する答申をするというような、国家の前途にかかわる愚行が通ってしまったりするのです。これは、教育基本法が悪いからではありません。教育基本法に罰則規定が無いのをいいことにしてそれをないがしろにした人がいけないのです。

 第二には、これはむしろ第一のことより重要かつ困難なことですが、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび…」と表現するにしても、また「一人一人の個性に応じて……教育を行い、これらによりその能力を最大限に伸ばしていく…」と言い表わすにしても、口先だけでなく、本当にそういうことが実行できるかという問題があります。実はこれこそ日本の教育の最も大きい問題で、しかも『菊と刀』の視点が厳しく問われるものなのです。しかしながら「答申」はそれに全然触れていません。その意味で中教審はまったく無責任です。この問題について、私が考えるところを少々述べておきます。

 『菊と刀』の第十二章「子供は学ぶ」に次の文があります。

 しかしながら日本人は、自らに多大の要求を課する。世人から仲間はずれにされ、誹謗を受けるという大きな脅威を避けるために、彼らはせっかく味を覚えた個人的な楽しみを棄てなければならない。彼らは人生の重大事においては、これらの衝動を抑制しなければならない。このような型に違反するごく少数の人びとは、自らに対する尊敬の念すら喪失するという危険におちいる。自らを尊重する(「自重」する)人間は、「善」か「悪」かではなくて、「期待どおりの人間」になるか、「期待はずれの人間」になるか、ということを目安としてその進路を定め、世人一般の「期待」にそうために、自己の個人的要求を棄てる。こういう人たちこそ、「恥を知り」、無限に慎重なすぐれた人間である。こういう人たちこそ、自分の家に、自分の村に、また自分の国に名誉をもたらす人びとである。

 決して看過できないのは、日本人にとって大切なのは「善」か「悪」かではなく、世人の期待に添うか否かだということです。これは非常に重要な問題とつながっています。すなわち、先ほどの基本問題部会のような、重要な問題を、ろくに勉強もせずに、斜めにちょっと見て、よく分からないから無視したっていいじゃないか、という態度で処理しようとしたり、そういう態度を黙って見過ごしたりする人が大多数を占めている社会が日本にあったとしましょう。そこで少数の人が、それじゃいけない、もっと勉強しようと言っても、そんなことはまず通らないのです。なぜなら、もっと勉強するということが「善」であるか、それとも「悪」であるかは誰も問題にせず、世人の期待に添うか添わないかで事が決まってしまうからです。世人が深く考えずに、何となく教育基本法を変えようじゃないかという期待を持っていたら、少数の人は、勉強したくてもできない状況に追い込まれます。

 恐ろしい事には、これは法律をどうするかという問題にとどまらないのです。どの分野でも、世人が勉強とはこういうものだという固定観念を持っていてそれ以外の勉強を期待していないときには、その固定観念に従う事が「善」であるかそれとも「悪」であるかといことはは問題ではなく、とにかく世人の期待から外れた事はしてはいけないことになるのです。期待されていないが学問の進歩への貢献になるというような道があっても、そこに立ち入る者は疎外されてしまいます。これでは、法律に「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび…」と書いても、それを「一人一人の個性に応じて……教育を行い、これらによりその能力を最大限に伸ばしていく…」と書き直しても、いずれにしても空念仏に過ぎません。

 これは決して空想的な話ではありません。現実に日本の教育界や学界で起こっている事です。嘘だと思ったら、岸宣仁氏が書いた『「異脳」流出』(ダイヤモンド社、2002年)をご覧ください。そこにはノーベル賞を受けても少しもおかしくないような日本人学者がそのような状況に追い込まれて外国に流出した実例が七つも載っています。

 こういうことにまったく触れずに、ただ体裁のよい言葉を並べただけの「答申」には何の価値もありません。中教審はその「答申」を撤回すべきです。もちろん、今言ったことは非常にむつかしい問題です。でも、むつかしいからといって放り出したり、ごまかしたりする事は許されません。むつかしいからこそ最高の英知を傾けてどう対処すべきかを考えなければならないのです。そしてベネディクトによって指摘された事柄と、教育基本法で示された理想とをどうやって調和させるかを明らかにしなければならないのです。それをしなければ、「信頼される学校教育の確立」も、「〈知〉の世紀をリードする大学改革の推進」も、絵に描いた餅です。絵に描いた餅を「答申」と称して大臣に提出するような中教審は、無いほうがましです。

 次回は、方向を変えて、遠藤周作作『海と毒薬』を取り挙げます。

(2004年9月28日追記) 第67回(『学問のすすめ』初編、四編および五編③)に「私は今まで教育基本法というのが……」で始まる引用文への別の視点からの考察が含まれています。ご参考までに。


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