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日志

菊と刀11

已有 1106 次阅读2006-8-22 03:46 |个人分类:书刊

天气: 晴朗
心情: 高兴
七 『華岡青洲の妻』 ― 『菊と刀』が照らし出す嫁・姑戦争の二面性 ①

 有吉佐和子作『華岡青洲の妻』は、1966年に発表されました。その時期からすれば作者がすでに『菊と刀』を読んでいたということは十分あり得ますが、そのあからさまな影響と思われるものは見当りません。それで、作者が『菊と刀』を意識しながらその小説を書いたかどうかはわかりませんが、すでにこのシリーズの第3回に言ったようにそれは嫁と姑の対立をテーマにするものなので、ベネディクトの言葉と交わるところがあります。

 物語の舞台は紀州(現在の和歌山県)北部、紀ノ川の中流です。時代は十八世紀末期から十九世紀初頭、幕藩体制が比較的安定していた時期です。もっともその間に天明の大飢饉があって、日本全体を襲チた危機が主人公の身辺にもいろいろな影響を及ぼしますが、南国の紀州では東北地方で見られたほどの惨禍には至りませんでした。

 主人公加恵(かえ)は、近郷の地士頭(じざむらいがしら)と大庄屋(おおしょうや)を代々勤め、藩主の参勤交代の際にはその一行が泊まる「本陣」として屋敷を提供するほど格式の高い妹背(いもせ)氏の家に生まれました。一方華岡家は医者の家系でしたが、当時の医者の社会的地位は低いものでした。しかし青洲(通り名は雲平)の父である華岡直道は、高い理想を掲げて、息子に外科の神髄を究めさせようと努力していました。加恵の祖父がその直道を掛かりつけの医者にしていたことが縁談の契機になりました。

 直道の妻於継(おつぎ)は、美貌でしかも賢い女として近郷近在にあまねく知られていました。加恵の祖父が他界した三年後のある日、その於継が妹背家を訪れて加恵をぜひとも雲平の妻に戴きたいと申し入れました。彼女がその理由(医者の家の主婦として加恵が理想的であるということ)を理路整然と述べたてたので、加恵の父親は一言の下にはねつけることができませんでした。それでも彼は、家格の不釣合が気に入らないので、使者を立ててその話を断わりました。しかし於継はそんなことでは引き下がらず、粘り強く再考を求めました。一方加恵の母親は、現実的な考えから於継の申し出を承諾したほうがよいと考えていました。そして当の加恵は、父親がその縁談を断わったと知って食物も喉を通らぬほどに悲しみました。京都で修業中の雲平のことは、顔も、声も、人柄も知りませんでしたが、於継の美しさと聡明さには幼いときから激しく憧れていたのです。結局それが決め手になって輿入することになりました。雲平が居ない席での仮祝言が行なわれ、加恵と、直道、於継夫婦と、小姑たちとは仲睦まじい生活を始めました。

 雲平が京から帰ったのは輿入してから三年後でした。雲平は学問一筋の真面目な人物で加恵にとっては申し分ありませんでしたが、彼が帰宅したその瞬間から於継は加恵を疎んじるようになりました。そして加恵と於継の間ですさまじい嫁姑戦争が始まりました。二人とも聡明な女でしたので、傍目には美しいものと見える間柄をあからさまに打ち壊すような言動はしませんでしたが、内心での葛藤は本当に息詰まるほどのもの、いや、むしろ命懸けのものでした。その戦いは、雲平が開発した麻酔薬の動物実験が一段落し、人体に試みようという時に至って最高潮に達しました。二人の女はともに、自分の体でその危険な実験をするように強く希望して張り合いました。雲平としては、どちらか一方だけの願いを聞き入れて他を排除するわけにはいかなくなりました。彼は双方の願いを聞き入れて、両者で実験をすると約束しました。しかし内実は、母である於継には安全な処方をし、本当に知りたい薬効を探るための危険な処方は妻の加恵に試みました。実験はそれぞれ二回づつ行ないましたが、最後に加恵は失明しました。しかしそれは、雲平が加恵なら傷ついてもよいと考えたからでは決してなく、最も重要な役割を担う者は最愛の者でなければならないと信じたからでした。視力を失っても加恵は幸せでした。この実験の結果を踏まえて、雲平は西洋の医師たちより数十年早く全身麻酔による外科手術に成功しました。

 以上が『華岡青洲の妻』のあらすじです。嫁と姑の対立についてはすでにこのシリーズの第3回第4回に取り挙げました。しかし実を言うと、その時話したのは嫁と姑の反目・対立の一つの側面にすぎなかったのです。小説『華岡青洲の妻』をよく読むと、もうひとつの側面を見せ付けられてゾッとします。そしてその「もうひとつの側面」もまた、すでにベネディクトが指摘しているのです。それを今回と次回に話しましょう。

 このシリーズの第3回では『菊と刀』からの引用を二度しましたが、そのうち初めの引用文をもう一度見ましょう。

 姑と嫁との間には非常な反目がある。嫁は外来者として家庭の中にはいってくる。嫁はまず姑の流儀を学び、次に万事をその流儀に従って行なうことを学ばねばならない。多くの場合、姑はずけずけと、嫁はとうてい自分の息子の妻になる資格のない人間であると主張する。またある場合は、相当激しい嫉妬をもっていると推察されることもある。がしかし、日本の諺にもある通り、「憎まれる嫁が可愛い孫を生み」であって、したがって、嫁と姑との間にも常に孝が存在する。嫁はうわべは限りなく柔順である。ところが、このおとなしい愛すべき人間が、世代が変わるにつれてつぎつぎと、かつて自分の姑がそうであったと同じように、苛酷な、口やかましい姑になってゆく。かの女たちは若妻時代には、その害意を表に現わすことができないが、それだからといって、本当におとなしい人間になりきるのではない。彼女たちは晩年になって、いわば、その積もり積もった宿怨を自分の嫁に向けるのである。今日の日本の娘たちは公然と、跡取りでない息子と結婚する方がはるかに得策だと言っている。そうすれば、威張りちらす姑といつしよに生活しなくともすむからである。

 「多くの場合」に、姑は嫁を公然と罵倒し、いびり倒します。そのことは『華岡青洲の妻』の中でも主人公以外の人物の発言によって裏付けられています。加恵は初産(ういざん)のために実家に帰ったときに、心の内にしまっていた姑に対する怨嗟を母親の前にぶちまけました。もっとも、性生活(これについては次回にお話します)に関することまではさすがに言えませんでした。それで、母親には加恵の思い過しと受け取られるような話になってしまったのです。なお今回と次回に『華岡青洲の妻』から引用する文は、新潮文庫(1970年刊)によります。

 「あんなようできた姑さんを、あんたのように云うては罰が当りますえ」

 眉(まゆ)をひそめて意見をする母親に加恵は一層のやりきれなさで、喉から獣のような叫び声をあげた。自分でもこれで気が狂ってしまうのかもしれない、と怖(おそろ)しかったが自制がきかなかった。

「ややこに障(さわ)りがあったらどないするのえ。しっかりしなさいや、しっかりしなさいや」

 …(中略)…

「私も姑の苦労はしたつもりやけれども、なんというても旦那(だんな)さんを産んでおくれたおひとやよってに、忍の一字があるのみやと思うてましたえ。私らは加恵と違うて箸の上げおろしにも小突かれ続けやった。較べものにもならなんだわの。こんなに嫁が憎いものか、なんでやろかと考えこんだくらいやったよし。悪阻(つわり)で寝ていれば気のゆるみというて叱(しか)られたし、美し子が生れるようにと日に幾度厠掃除をやらされたか分りません。しまいには袂の中が厠臭うになってしもうて、妊ると鼻がえらい利きますよってに、一日頭痛抱えてのし、それでも雑巾(ぞうきん)持って厠の中を這(は)いずってましたがや」

 母親は何十年ぶりかで嫁であった頃の愚痴をこぼしながら、加恵の様子が次第に静かになったのを認めると、しみじみと述懐するように云い足した。

「それでものし、加恵が妊って私は思い当りましたがや。嫁のお産には五体揃(そろ)うた孫が無事に生れますようにとそればかり一心不乱に念じてました。神棚(かみだな)に手を合せても、仏壇にお燈明(とうみょう)をあげていても、どうぞ丈夫で賢い孫が生れて来ますようにとそればっかりやったのよし。それが吾が娘のときには手を合せても念じていることが根から違うのやしてよし。加恵の体に障りがないように、お産が軽うて産褥(さんじょく)に疲れの出んようにと、生れる孫よりあんたの無事を願っている。このくらい違うのやもの、家の嫁さんもたいがい苦労をしたろかいのう。私は加恵の話を聞きながら、私も嫁にこんな思いを知らずにさせていたのやなかろうかと内心で汗をかいてましたのえ」

 日本では、嫁入りした女の多くがこういう経験をしたのです。もちろん、ここには現代では考えられないような事柄が含まれています。たとえば厠(便所)の掃除ですが、水洗便所が普及した今では、夏期にはウジ虫が大発生する便所の掃除がどんなに不潔、不快な作業かを想像することさえ困難です。そういういわばハードウエアの面ばかりでなく、制度や教育の面でも、現代にはたとえ形式的にもせよ人権尊重とか男女平等という思想があって嫁いびりがある程度チェックされています。それで現代では十八、九世紀とは事情が違いますが、それでもやはり多数の家庭で嫁と姑の間に深刻な葛藤が起こります。

 加恵と於継との間に起こった対立、葛藤は、上で言われているものとはいささか違った様相を呈しました。於継の言動は、傍目には「あんなようできた姑さん」と言い表わすのが適切なものでした。しかし当事者である加恵にとっては、世間一般の姑がする嫁いびりよりはるかに陰湿なものを感じたのです。たとえば、加恵の妊娠の初期のことですが、こんなことがありました。それは五年続きの飢饉の真っ只中で、多数の病人が来たものの、治療費がまともに払える人は稀であり、その上雲平の研究には支出がかさんで、最大の経済的苦況にあえいでいたときのことです。

 芋(いも)を入れた粟粥(あわがゆ)が華岡家の常食になっていたが、加恵が妊ったのが判(わか)ると、於継は加恵には努めて米の飯を炊(た)き、患者が届けてくる鮒(ふな)や鮎(あゆ)などの飢饉の最中には高貴とも呼べる食物を、数の少いときには加恵の食膳(しよくぜん)にだけつけるようになった。加恵は妊婦の常でたえず空腹を覚えるようになってはいたけれども、家中の目の前で自分だけ御馳走(ごちそう)に箸(はし)をつけることは躊躇(ためら)われた。恐縮というものを通り越して、それは苦痛に近かった。すると於継は姿勢を正して嫁を説くのだ。

「あなたが遠慮するんは思い違いというものやしてよし。嫁のあなたが食べると思えば心苦しのも当りまえやけれども、生れてくるのは華岡の家のもんや。代継ぎが生れなさるかしれんのに、丈夫に生んでこそあなたの勤めが果されますのやしてよし。そやよってに膳の上のものは、あなたの腹の中のややこに食べやそうと思うて、みんなが祈りをこめていますのや。おあがりよし」

 嫁の遠慮を払うための言葉だと誰でも思ったに違いない。この話を聞いた実家の母親は涙を流して、娘の姑が聞きしに勝る行届いたひとであったと感謝したくらいである。しかし加恵の耳には、これ以上冷たい論理はなかった。生れてくるのが華岡の家の者というなら、産もうとしている加恵は華岡家ではまだ他人なのか。加恵の歯も舌も胃袋も、華岡家の代継ぎを養うための杵(きね)と臼(うす)のような道具でしかないというのか。於継の立派な言葉の中には、どこにも加恵自身に対する労(いたわ)りは込められてなかった。中でも、みんなが、於継も於勝も小陸たちも、生れ出る子供のために祈りをこめているという言葉は、最も加恵の生理を戦(おのの)かせた。加恵は姑と小姑に呪(のろ)い殺されてしまうのかと反射的に考えたくらいである。呪詛(じゅそ)を篭(こ)めた食物で十月(つき)十日養われた揚句、子供が生れるのと入替りに加恵が死ぬことを皆が望んでいるのではないか。加恵は慄然(りつぜん)とした。この日頃、裏の柿(かき)の木の根元に埋められる猫や犬の屍体(したい)を思い出したのである。

 柿の木の根元に埋められたのは、雲平が麻酔薬の実験に使った犬猫のなきがらでした。

 それはともかく、ここで言われているように、於継の言動には二面性があります。一面では嫁の遠慮を払うための美しい配慮をしているように見えながら、その反面姑の血を引いた胎児を慈しむばかりで、その胎児をみごもっている加恵を労わる気持ちが無いような言い回しがされているのです。そしてその二面性は、じゅうぶん注意してみれば於継に独特なものではなく、一般の場合にもあります。先に掲げた加恵の実母の言葉でも、「それでものし、……」以下でそれが暗示されています。そしてここでとくに強調すべきことには、その二面性は『菊と刀』に書かれていることによって説明ができるのです。それは、先ほど引用した「姑と嫁との間には非常な反目がある……」に始まる段落のすぐ後にあります。

 「孝のために尽す」ということは、必ずしも家庭内に慈愛を実現することになるとは限らない。ある種の文化においては、この慈愛ということが広大な家族の道徳律の要点となっている。ところが、日本ではそうではない。ある日本人の著者が述べているように、「日本人は、家を非常に尊重するという、まさにその理由によって、家族の個々の成員や、成員相互の間の家族的紐帯を、あまり大して尊重しない」。むろんこの言葉は常にその通りであるとは限らないが、しかし大体の様子を伝えている。力点は義務と負債の返済とに置かれ、年長者は重大な責任を引き受ける。ところが、これらの責任の一つは、目下の者に必要な犠牲を必ず払わすようにすることである。彼らがその犠牲に不服であっても、大した変りはない。彼らは年長者の決定に服従せねばならない。さもなければ彼らは「義務」を怠ったことになる。

 「ある日本人の著者」が誰かはわかりませんが、「日本人は、家を非常に尊重する」という点に注目しているのは正しい観察です。しかもその尊重は無意識的なものです。前の引用文の中にある「憎まれる嫁が可愛い孫を生み」という川柳は、その無意識を反映しています。加恵の母親が「嫁のお産には五体揃うた孫が無事に生れますようにとそればかり一心不乱に念じてました」と言ったのも、無意識のうちに家を非常に尊重していたからです。於継の「生れてくるのは華岡の家のもんや」という言葉に至っては、地下の鉱脈のようなその無意識が意識の世界にチラリと見せた露頭だとさえ言えるでしょう。

 そしてその無意識は、上の引用文で言われているように、「義務と負債の返済」というより深い層にある原理と結び付いているのです。このことについては、すでにこのシリーズの第3回に申しました。第3回に『菊と刀』の第五章から引用された「かつてよくわれわれは……」で始まる文がありましたが、そこで言われている「相互債務(mutual indebtedness)の巨大な網状組織」がしっかりと日本人の無意識をとらえているので、第二次大戦後民法が大改正されて個人主義が取り入れられたにもかかわらず、未婚の女たちが 「家(住宅)つき、カーつき、婆(ばば)抜き」の結婚を夢見る時代がつづいたのです。高度経済成長期が過ぎてからは初めの二つは取り立てて言うほどの条件でなくなりましたが、第三の条件は今も魅力を失っていません。その理由は昔も今も変わっていません。姑といっしょに生活することは、嫁にとっては何かと苦痛を伴うからです。ベネディクトは上の文でその苦痛の由来を、家を尊重するための年長者の責任にあるとしています。その責任は、家族の絆を確かなものにすることよりはむしろ年少者に必要な犠牲を必ず払わせることに重点のあるものだというのです。そして年少者はそれに従うしかありません。それは、このシリーズの第4回で見たように、「孝」という徳が無条件のものだからです。

七 『華岡青洲の妻』 ― 『菊と刀』が照らし出す嫁・姑戦争の二面性 ②

 筆者は前回、雲平(華岡青洲)の妻加恵と、その姑である於継との間に起こった対立、葛藤が世間一般のものとはいささか違った様相を呈したと言いながら、それが加恵にとっては一般のものよりはるかに陰湿なものが感じられたということを申しました。それについて少し立ち入った話をしましょう。

 このシリーズ第3回の早い段階で言ったように嫁と姑の関係はまず「義理」として捉えるほうがわかりやすいかもしれませんが、嫁が姑に対して負うものは、それが「孝」であろうと「義理」であろうと、嫁が「こうしたい」、「こう在りたい」と考えることに優先するのです。嫁の考えること、することは、たとえ婚家のため、姑のためと考えてのことであっても、何から何まで「個人的な好み」と見なされるのです。この事を考えに入れなければ、雲平が京から帰って玄関に入った瞬間から於継が加恵を粗略に扱い始めたのを説明することができません。

 いま私は「個人的な好み」という言葉を使いましたが、皆様はこれがすでにこのシリーズに現われたことを覚えて居られるでしょう。そう、シリーズ第6回(『舞姫』②)に、『菊と刀』の第五章から引用された次の文がありました。

 人は義務を支払うためにはどのようなことでもすべきであって、時の経過は負債を減じない。年とともに、減るどころか、かえってふえてゆく。いわば、利子が積もっていくのである。ある人から恩を受けるということは、重大な事柄である。日本人がよく用いる表現が言い表わしているように、「人はとうてい恩の万分の一も返すことはできない」のである。それは非常な重荷である。また「恩の力」は常に、単なる個人的な好みを踏みにじる正当な権利を持っているものとみなされている。

 嫁と姑の間柄が「義理」であろうと「孝」であろうと、義務は常に嫁のものであり、権利は常に姑のものです。したがって姑の意向は必ず嫁の意向に優先します。それゆえ嫁がすること、考えることは、ことごとく姑に個人的な好みと見なされ、踏みにじられても仕方がないのです。

 雲平と加恵が夫婦として睦み合うことも、家を何より尊重する立場から見れば子孫を殖やすためであって、それ以外の事柄は個人的な好みにすぎません。すべては家のためです。だから加恵が輿入したときには花婿が不在のまま簡素ながら祝言を行なって華岡家に迎え入れましたが、雲平が帰ってきたときには、夫婦の初対面はあっけないものでした。雲平の声を聞いた母親と弟妹たちがわっとばかりに玄関にとびだし、彼を取り囲んでひとしきり喜びの言葉を交わした後で、於継が傍らに居る加恵を指差して簡単な紹介をし、加恵はただ頭を下げただけでした。雲平はといえば、ただ「お」と声を上げただけでした。

 彼は、オランダ伝来の最新の医術を身につけ、京都の学者たちに引き止められたにもかかわらず父親が年老いたことを理由にそれを断わって帰ってきたのでした。当然、直道との間で医学に関する話が交わされ、夜も深けていきました。そしてその合間には於継や弟妹たちともいろんな話が交わされました。しかし加恵は、その中でひとり場違いな人間のように座っていなければならなかったのです。それだけならまだしも、何かにつけて於継が加恵を無視する態度を取りました。たとえば、機織りが話題になったときにこんなことがありました。

 「於勝も小陸も織り上手になってあるのやしてよし。この三年、京都の兄さんの学資を作るのに二人とも一所懸命やったよってにのし」

 と云って、明るい笑い声をたてた。

 二人とも……加恵は耳を疑っていた。雲平に送金するために機織りをしていたのは於勝と小陸だけではない、加恵も加わって三人が同じように一所懸命綿布を織っていたのだ。加恵が一反を織り上げるごとに於継はその縞目の美しさを褒(ほ)めそやし、出入りの小商人にも自慢して見せたものではなかったか。それがどうして今急に加恵だけ機織りから外されてしまったのだろう。加恵は茫然(ぼうぜん)とし、半ば恨みがましく於継の横顔を見ていた。

 しかしこれはまだほんの手始めでした。雲平の新しい知識と若い意気のこもった医学談義にたじたじとなった直道が弱音を吐きはじめると、於継は父を休ませるように提案し、土産(みやげ)話はまた明日にしましょうと言いました。そして次のように話が進みました。

 「……さあさあ旅の疲れにはぐっすり眠るのが一番の薬やしてよし。カスパル流ではどない云うかしりませんけどのし。今夜はひとりで、ゆっくりおやすみ」

 於継の軽口にみんなが朗らかに笑いながら、やがて居間からそれぞれの寝室へ散っていった。加恵は奥納戸へ退(さが)って、於継と自分の夜の床を敷きのべながら、「今夜はひとりで」眠るようにとわざわざ云った姑の真意がどこにあるのか、という疑いを押えることができなかった。ひとりで寝よというのは、加恵を寄せつけるなという意味なのではないか。そして於継はといえば、於勝に指図して直道と同じ表座敷に雲平の床をとらせたあと、雲平について着替えを手伝うためにその部屋まで行ったきり、一向に奥納戸へ戻ってくる気配を見せないのである。

 夜のしじまの中から、於継の押えた笑い声が、冷たい床の上に正坐した加恵の耳まで伝わってきた。子供の帰ったのが嬉しくて抑制がきかなくなっている母親の喜びには違いなかったけれども、加恵にはそれがひどく淫(みだ)りがましいものに聞えた。

 加恵の心の中に思いがけず、まったく思いがけない烈(はげ)しさで、於継に対する憎悪(ぞうお)が生れたのはこのときである。その理由は、このときの加恵には分らなかった。ただ加恵が新しく発見していたのは、盃事は済ましていても自分がこの家ではまだ他人であるという事実であった。…(中略)…加恵は、女が家に入ることの難しさが、この断たれることのない血縁の壁の中に入ることの難しさだということを初めて思い知らされたのであった。しかし加恵は絶望していなかった。それどころか、それまで一途(いちず)に敬愛していた於継に闘志を湧(わ)き立たせていた。それは嫉妬(しっと)という形で外に現れようとしていた。夫の母親は、妻には敵であった。独(ひと)り占めを阻(はば)もうとする於継の無意識の行為もまた嫁に対する敵意に他ならなかった。

 そしてその夜芽生えた憎悪をさらに大きく成長させるような生活が続きました。於継は息子夫婦の性生活まで管理しようとしたのです。雲平と初めて同衾したときのことが加恵の回想の形式で書かれていますが、そのはじめの部分は次のとおりです。

 それは雲平が帰ってから幾日経ってのことだったろう。夫婦が寝所を別にするのは当時の士分の家では当然のことではあったが、於継もいつまで知らないふりはできなかった。ある日、加恵の顔を見ずに指図(さしず)し、加恵は全身が火になるような羞恥(しゅうち)を覚えながら雲平の部屋を訪(たず)ねた。夫婦といっても初夜に女から訪れるのは苦痛であった。加恵は箱枕(はこまくら)を胸の中に強く抱きしめて、雲平の部屋に入った。それは直道の寝ている部屋と襖(ふすま)一枚隔てた隣室で、日中は患者の診察室に当てられていた。もう一方の隣には下村良庵と妹背米次郎が眠っている筈である。嫁入の夜ならばともかく、四方の様子を知り尽している加恵にはそれもまた苦痛だった。本来ならば於継が娘たちの部屋に退いて奥納戸を雲平の寝所にすれば自然なのだが、於継が動かない以上は加恵が出向くより仕方がない。加恵はそういうことにも於継の意図を感じないわけにはいかなかった。 〔引用者注:下村良庵と妹背米次郎は、直道の門弟〕

 雲平が京から帰った半年後に直道が死にました。その後雲平の寝室は直道が寝ていた部屋に移されたので、隣室の気配に前ほど怯えなくてもよくなりました。もちろん、その頃には加恵が雲平の寝室に行くことを一々於継が指図していたわけではありませんが、それでも次のようなことは再々あったのです。

 苦痛なのは於継の寝ている納戸へ戻るときであった。加恵が現(うつつ)なく雲平に添寝をしてしまい、一番鶏(どり)が鳴くのに驚いて枕を抱いて戻ると、於継はもう髪を結い終っていて、加恵を射るように見上げると、白い顔は何も云わない。

 何も云われなくても加恵には於継の声がはっきり聞えた。あの声は何事よし。暁方(あけがた)まで、まあ。加恵の全身に、その声はぎりぎりと銹(さ)びた錐(きり)のように刺込んでくる。それはしかし加恵の神経を鍛える効果があった。

 これは、『菊と刀』の第十二章「子供は学ぶ」に引用された杉本鉞子の文の一つを連想させます。

 祖母は静かに落ち着いていて、誰もが祖母の考えどおりに行動するものと期待していた。叱ったり、議論したりすることはなかったけれども、祖母の真綿のように柔らかな、しかも非常に強靭な期待が、常に彼女の小家族を、彼女に正しいと思われる進路に保っていた。

 ここに「期待」という言葉が使われていますが、この言葉で非常に重要な概念が表わされることについてはすでにこのシリーズの第6回(『舞姫』②)で触れました。杉本鉞子の祖母とか、花岡家の於継のように、家庭という一つの社会の中の階層で高い位置にある人の期待は、口に出して言わなくても下位の人々を厳しく拘束するのです。於継が加恵に期待したのは子を産むことで、それ以外のことは「個人的な好み」にすぎなかったのです。たとえそれが加恵にとってこの上ない幸せであっても、声を出すとか、明け方にあわてて自室に戻るというような、弟妹や門弟の手前を心得ない行動は許されないのです。

 もちろん、於継の心に嫉妬があったことは間違いありません。雲平の愛を加恵が全部持って行ってしまうなどということに耐えられないという気持ちがあるのは当然です。これは嫁と姑の対立に関連して常に言えることですが、しかしそれだけのことであれば日本人の姑が特に厳しい嫁いびりをすることの説明ができません。ベネディクトも日本人の嫁と姑が「相当激しい嫉妬をもっていると推察されることもある」と言っていますが、それでも「姑と嫁の間には非常な反目がある」ということを『菊と刀』の中で取り挙げなければならなかったという事実があります。その「反目」は、単なる嫉妬だけではなく、日本の恥の文化と関連しているのです。その関係をはっきりさせるための鍵は、今し方見た「期待」という言葉にあります。『菊と刀』の第十二章にある次の文は、すでにシリーズ第6回に見たものですが、ここでもう一度見る価値があります。

 自らを尊重する(「自重」する)人間は、「善」か「悪」かではなくて、「期待どおりの人間」になるか、「期待はずれの人間」になるか、ということを目安としてその進路を定め、世人一般の「期待」にそうために、自己の個人的要求を棄てる。こういう人たちこそ、「恥を知り」、無限に慎重なすぐれた人間である。こういう人たちこそ、自分の家に、自分の村に、また自分の国に名誉をもたらす人びとである。

 雲平が玄関に入った瞬間から於継が加恵を冷たくあしらったのは、彼女が加恵に期待するのが家の繁栄に貢献することであって、雲平と加恵の間だけに成立する「個人的な好み」でも、「個人的要求」でもないからです。彼女はその行動によって、「個人的な好み」や「個人的要求」を放棄しなければならないことを示したのです。それを放棄することは、目下の者が「必ず払うべき必要な犠牲」の一つであったのです。

 もちろんそれは、於継が意識的にしたこととは考えられません。そして作者もこういう事を意識して書いたかどうかわかりません。しかしそれでも作者が日本人の嫁と姑の関係について本質的な事柄をしっかり把握していたからこそ、深いところで『菊と刀』と関連付けられる叙述ができたのに違いありません。そしてその把握のゆえに、於継の一つの行動がたとえば加恵の母親をして「涙を流して、娘の姑が聞きしに勝る行届いたひとであったと感謝」させたと同時に加恵本人にとっては「これ以上冷たい論理はない」と感じられたという二面性を巧みに描写することができたのです。

 加恵は初産で女児を産みました。小弁と名付けられたその子が十歳になったときに、長年の研鑽の甲斐あって雲平は麻酔薬の動物実験を成功裡に終えることができました。しかしその間には、妹於勝が乳ガンで死にました。その時には雲平はまだ確実な治療法を見いだしていなかったので、手を束ねて見送るしかなかったのです。

 動物実験の成功が明らかになってから間もなく、ある夜加恵が雲平の着替えを手伝っているところに於継があらわれて、麻酔薬の実験に自分を使えと言い出しました。それに続いたやりとりは、加恵対於継の嫁姑戦争の最大の山場でした。於継の言葉は最初から挑戦的でした。

 於継の口調には断乎(だんこ)としたものがあった。

「雲平さんの研究に人間で試すことだけが残ってあるのを、身近くいて気附かないのは阿呆(あほう)だけや。私は雲平さんを産んだ親ですよってに、雲平さんの欲しいもの、やりたいことは誰にましてはっきりと分るのやしてよし」

 加恵は自分の耳が今、於継の指先で引裂かれるのを感じた。身近くいて気附かない阿呆というのは、明らかに加恵を指している。私は親だから、はっきり分る、というのにも青洲に対する於継の優位を誇示する響きがあった。

 次の瞬間、加恵の口からは激しい言葉が迸(ほとばし)り出た。 「とんでもないことやしてよし。その実験には私を使うて頂こうとかねてから心にきめてましたのよし。私で試して頂かして」

 そしてすさまじい言い争いになりました。そしてついにはこんな言葉まで出ました。

 「姑に逆らいなさるかのし」

 「事と次第では逆ろうても女の道に外れるとは思いませんのよし」

 それは、表面的には互いに相手の命をかばいあって犠牲を自分だけに止めようとする世にも美しい争いでありましたが、実質は意地の張り合いでした。それにしても「事と次第では逆ろうても……」というのは、まさに捨身の一撃です。封建時代の真っ只中でこういう事を言うのは、織田信長に諌言した平手政秀のように、本当に死を決してでなければできないことです。結局加恵が勝ちました。もちろんそれにはいくつかの曲折がありましたが、それはこのエッセイで分析する対象ではありません。

 加恵が失明し、雲平の愛が母より妻の方に大きく傾いたことが明らかになったとき、於継は朽ち木の倒れるようにこの世を去りました。そしてその数年後、婚期を逸したまま中年に達した小姑の小陸が動脈のガンにかかりました。こればかりはいかな雲平も切除手術ができません。余命いくばくもないと知ってから、加恵と話すうちに小陸はこんなことを言いました。

 「そのことやったら悔むどころか、私は嫁に行かなんだことを何よりの幸福やったと思うて死んで行くんやしてよし。私は見てましたえ。お母はんと、嫂さんとのことは、ようく見てましたのよし。なんという怖(おそろ)しい間柄やろうと思うてましたのよし。こないだもお母はんの法事で妹たちが寄ったとき、話す話が姑の悪口ばかり。云えば気が晴れるかと思うて、云わせるだけ云わせて聞き役してましたけども、女(おなご)二人の争いはこの家だけのことやない。どこの家でもどろどろと巻き起り巻き返ししてますのやないの。嫁に行くことが、あんな泥沼にぬめりこむことなのやったら、なんで婚礼に女は着飾って晴れをしますのやろ。長い振袖(ふりそで)も富貴綿(ふきわた)の厚い裾(すそ)も翌日から黒い火が燃えつくようになるのにのし。於勝姉さんも私も似たような病気で死ぬのやけれども、なんぼ苦しんだかて嫂さんのような目にあうより楽なものやないかと思うくらいですよし」

 これまでに見てきたことを考えると、これは日本の恥の文化の恐ろしさの一面をまざまざと見せ付ける言葉に見えます。私たちはすでに『海と毒薬』の分析を通じて日本の恥の文化の恐ろしさを見ましたが、それとはまったく違った恐ろしさがここにも見いだされたのです


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