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第19篇『お目出たき人』
かくて自分は、母や父を承知させ、人をたてて鶴の家に求婚した。だが「まだ若いですから」と断られてしまった。その年の秋、鶴の一家は近所から離れた所に引っ越ししてしまった。自分は、毎月一度ぐらい彼女の学校の帰りに会いに行った。鶴を恋し、女に飢えていた自分は、一日も早く鶴と許婚になりたかった。だから、三月に再び川路という人を介して求婚した。だが、兄が結婚するまでそういう話を聞きたくないというのが先方の答えだった。
二月一日の晩に中野の友が来た。話しながら鶴のことを思った。鶴のために戦う時が来た気がした。たしかに、鶴とは一年近く会っていない、鶴と話したこともない。だが、自分は、鶴の心と自分の心とがもう三四年前から他人ではないということを信じている。だから、友が帰るや、川路氏にもう一度話を進めてくれるよう手紙を書いた。自分は勇士だ!
三月二日、待ちに待った川路氏から手紙が来た。先方は依然として、鶴がまだ若く、鶴の兄がまだ嫁をもらわないため、話を決めたくないと断ったそうである。他の方法を探ってみるとのことである。自分は勇士だ、と鼓舞したが、涙が出てきた。
それからなるべく鶴のことを考えないようにした。が、いつのまにか自分と鶴は夫婦になるような気になった。自然の命令、深い神秘な黙示があるのではないかと思う。
四月一日は、鶴が、卒業する日だ。鶴は優等生であった。自分は微笑んだ。そして誇らしく思った。もう一年以上鶴に会わない。鶴がどうなったか自分は知りたい。
運命の神はこの願いを五月十二日にかなえてくれた。中野の友を訪ねての帰りの電車で、大久保から鶴が乗ってきたのだ。目と目があうと、鶴は赤い顔して目をそむけた。自分は鶴が大人になったのと、その美しさに驚いた。四谷で二人は降りた。改札口で、鶴は自分を見て、先にいらっしゃいという態度をとった。自分は夫の権威を以って先に出て、ふり向いた。鶴とまた顔をあわせた。階段を登っても、通りに出ても、鶴はまだ後をついてくる。自分はもう夢中だ。嬉しくて「お鶴さん」と声をかれたいほど親しさを感じた。そう声をかけても鶴は驚かないで「なに御用?」と笑う気がした。自分は何度ふり向いたか知れない。その都度、鶴と顔をあわせた。あせって自分が顔を元に戻すと、鶴も顔をそむけたように思う。鶴が自分を愛していてくれていたと思わないではいられなかった。二人は夫婦になる運命を担って生まれてきたのだ。
夫婦になるのも時間の問題だと思った。夫婦になったら、男女の真の恋は永遠不滅のものであることを事実によって証明してみせよう。しかしさすがに時々は不安になる。五月も六月も川路氏からの便りを空しく待っていた。七月も八月も空しく果報を待った。九月も無事に過ぎた。やっと十月になって、川路氏からの手紙が来た。目から涙がながれた。鶴は人妻になったのである。金持ちの長男で、今年工学士になった人の妻になったのである。
しばらくして自分は、鶴は自分を恋していたが、父や母や兄のすすめで人妻になったのだと思うようになった。鶴をあわれむような気分になった。自分はこの感じが間違いかどうか、鶴に聞きたい。もし鶴が「私は一度もあなたのことを思ったことはありません」と言おうとも、自分は、それは口だけだ、と思うにちがいない。(1910年発表)(以上)
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