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日志

「陰翳礼賛」を味わう

已有 924 次阅读2006-12-23 23:55 |个人分类:日本文化

 

日本人の美意識を論説する作品が数多く書かれているが、谷崎潤一郎による「陰翳礼賛」がその中の一傑作として日本文化研究のピークだと高く評価されている。この中編随筆を読んで、谷崎潤一郎の言葉の豊かさと強大な表現力にすごく感心しながら、陰翳から生じてきた曖昧の世界に浸っている。本文では、作品の内容を大雑把にまとめた上で、自分の考えを表わし、特に気付いたことについて述べることにした。この作品は合わせて十六の短編随筆からなっているが、便宜を図るため、一応「第一章、第二章……」というように順序をつけることにした。

まとめ

日本人が純日本風の家屋を立てる時に、電気、ガス、水道、暖房、照明、扇風機など近代生活に必要な施設が日本家屋、日本座敷と十分に調和できるようにいろいろと工夫を凝らしている。筆者はこのような事実から書き出し、日本風家屋と近代科学文明との矛盾を明らかにする。言い換えれば、近代科学発展の成果を取り入れながら、日本家屋の風格が少しでも損なわれないように保つのを目指しているのである。特に筆者の場合は、暖房の設計に苦心する。具体的に言えば、「ガスストーブはぼうぼう燃える音がするし、又煙突でも付けないことは直に頭痛がしてくるし、電気ストーブにしても、形態の面白くないことは同様である。電車で使っているようなヒーターを地袋の中に取り付けるのはやはり、赤い火が見えないと、冬らしい気分にならないし、家族の団欒にも不便である」という一節がある。この部分をまとめて言えば、筆者の追求している「調和」とは、聴覚、視覚、体の快適さ、雰囲気、便利さなどの要素がいずれも欠如できないようなもので、精神的にも肉体的にも楽しめる完璧なものである。それに、日本人にとって「風流」「趣味」がいかにも大切なものかと感嘆する。

第二章では、日本の「厠」を取り上げて、西洋風のトイレの「明るさ」と比較しながら、重点的に「厠における風雅」を論じる。漱石先生は毎朝便通へ通うのを楽しみとなさっている。筆者はこれについて、「ある程度の薄暗さ、徹底的に清潔であること、蚊のりさえ耳につく静かさ」という三つの条件をあげる。その中で、特に「薄暗さ」を強調し、「もやもやとした薄暗がりの光線で包んで、どこやら清浄になり、どこやら不浄になるともけじめを朦朧とぼかしておいた方がいい」と説く。西洋人がこれを口にすることさえ忌むのに対して、日本人が不潔な厠を雅致のある場所に変え、瞑想にふさわしい所としている。私の場合は、この作品を読む前に、どちらかというと、厠に対してやはり西洋人と同じような考えを抱いているが、谷崎の筋の通った面白い論説によって、なるほど厠は厠なりの風雅を持っているのだなあ、と初めて偏見を意識した。

第三章と第四章になると、筆者は「もし東洋に西洋とは全然別箇の独自の科学文明が発達していたならば、どんなにもわれわれの社会のありさまが今日とは違ったものになっていたであろうか」という大胆な仮説を提出する。これに対して、もしそうなれば、紙や墨汁や毛筆などが現在のペンやインキに成り代わり、漢字と仮名が主流文字になったのだろうと推測する。これは空想だと思われるだろうが、西洋科学による損を防ぐために、「自分たちの都合のいい文明の利器を発見すべきだ」と提言した点では、大変意義深いと思う。これに続いて、筆者は「現に支那や印度は、自分たちの性に合った方向へ向かって、緩慢にではあるが、いくらかづつの進歩を続けて、いつかは今日の電車や飛行機やラジオに代わるもの、それは他人の借り物でない、ほんとうに自分たちに都合のいい文明の利器を発見する日が来なかったとは限るまい」と言及した。この作品が執筆されたのは1933年で、残念ながら、今日の中国は当時の日本と同じく、西洋文明をそのまま中国に移植するというような近道を選んだのである。なぜかというと、遅れていた中国にとっては「発展の速さ」は何よりも大事なことで、それ以外に中国の伝統文化とはうまく調和できるかどうかなんか一切考える余裕と余地はないからであろう。たぶん、当時の日本もこのような境地に陥っただろうと私は思っている。

第五章からいよいよ本格的に「陰影」というテーマに入る。西洋では、光線を跳ね返す西洋紙、ぴかぴか研き立てる銀や鋼鉄やニッケル製の食器、透き通りすぎた水晶が好まれているのに対して、日本人は唐紙や和紙、黒く焼けた食器、甲州産のぼんやりとした曇りがある水晶の方が、重々しく、心を落ち着かせることができる。つまり、日本人の場合は、浅く冷えたものより、時代の艶を連想させるような沈んだ翳と濁りを帯びたものを好む。個人的には、翳と濁りと言えば、ぴかぴか光る物の「誇張」「表面的」「浅薄」に対して、「深み」「中身がある」「悠久」「時代感」「神秘感」「沈黙」というような印象を与え、さらに中に入って探求しようという意欲が燃えられるのである。もしかしたら、日本人の「翳」に対する好みはそういう原因もあるかなと思っている。

この作品で、クラミックスと言える最も輝いている部分は、その後の漆器を中心とする第六章と第七章であろう。具体的に言えば、「明るさ」のせいで、野暮くさい、雅味のないものにされている漆器の美しさが、ぼんやり薄暗かりの中においてこそはじめて発揮でき、漆器に書かれた蒔絵、贅沢に使われた金色、及びその豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまうことによって、かえって言い知れぬ余情、魅力を催す。そして、筆者は五感を総動員して、蓋を取る時から、口に送るまでの間に感じられる美妙な感覚と気持ちを描き、「それは一種の神秘、禅味である」と述べる。特に、「その椀の中の闇に何があるのかを見分けることはできないが、汁が緩やかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち上りつつあることを知り、その湯気が運ぶ匂いによって口に前にぼんやり味わいを予覚する」という部分を読んで、ミロのヴィーナスの両手の欠如によって、逆に可能なあらゆる豊かな手を想像できるのと同じように、「闇」つまり「無」によって、無限の「有」を瞑想させるのである。この心境はいわゆる「三昧境」であろうと思っている。要するに、日本料理が常に陰翳を基調にし、闇という物と切っても切れない関係にあるという結論に至る。

これに続いた第八章と第九章では、日本建築の特色という角度から「陰翳」の美しさを説明する。日本家屋と言えば、幅広い瓦とその庇が一番大きな特徴となっている。元々、大きな闇の下に作られた屋敷に光が入るのは難しいが、土庇、縁側、障子などで光線がさらに弱められるのである。これについて、日本座敷の美の要素はこの間接の鈍い光線にほかならないと筆者は主張する。やがて、やや話題の範囲を絞って、床の間の美、及び床の間の暗さと調和できる軸物を中心に、重点的に述べる。日本人が掛け軸を選ぶ時、特に時代や「さび」を重視するのは、その古色が床の間や座敷の暗さと適宜な釣り合いを保って、陰翳に深みを添えるためである。

第十章は「闇における黄金の美しさ」から書き始め、やがて「能楽と闇との密接な結びつき」へと話題を転じ、第十一章まで続けられる。筆者の言葉によれば、黒がりの金地の紙の表面が長い間を置いてゆっくり底光りするという黄金は沈痛な美しさを持ちながら、レフレクターとしてその輝きを利用して、闇に光線を補うのである。私の理解では、闇のおかげで黄金の光沢が一種の深みを帯び、逆に黄金の底光りによって闇に微かな光を添えるというように、両方が互いに長所を取り入れ、短所を補うのである。能楽に関しては、昔から暗い舞台で演出されてきている。それは日本人特有の褐色あるいは黄色味を含んだ象牙色の肌と、暗く沈んだ色調の能衣裳とが互いに移り合い、能役者の肌の美しさ、つまり内部からぽうっと光りが射しているような光沢が生じてくるからである。能楽の「暗さ」に対して、歌舞伎の美を亡ぼすものはほかならぬ無用に過剰な照明にある。特に、女形の場合、男性のとげとげしい線が目立つようになった。

それから、「昔の女と闇との関係」が第十二章の主題となっている。昔の女性は闇の中に体を埋めつつ、その顔だけで存在を示しているものであり、「玉虫色の青い口紅」「眉毛の剃り落とし」「おはぐろ」などというような化粧法が発明されたのは以外の部分(口腔まで)へ闇を詰め、ほのじろい顔だけを目立たせるためである。多分、こういう女の幽霊じみた美しさが蒔絵、黄金などと同じく、闇がなければ美も失われてしまう。

以上に述べたように、日本人は厠、座敷、床の間など、生活の隅々まで「闇」というものを愛用し、さらにその中から美を発見する。第十三章に入ると、「現状に対する態度」と「皮膚の色」という二つの角度から、なぜ日本人が暗がりの中に美を求めるのか、その原因を探求する。第一、進取的な西洋人が常によりよい条件を求めるのに対し、日本人は自分の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじるという傾向がある。したがって、昔の「暗さ」に不平を感ぜず、それは仕方のないものと諦め、光線が乏しいなら乏しいなりに、かえって闇に沈潜し、その中から自ら美を発見する。もう一つの原因は、日本人の皮膚の色と言えば、どんなに白くとも、白の中に微かな「蔭り」が残っているのである。そのため、西洋人の底が明るく透き通っているような白さの中に、日本人が一人でも入り込むと、白紙に一点薄墨のしみができたようで、醜悪な境地に陥った。だから、これを防ぐため、日常用品に曇った色の物を選び、暗い雰囲気の中に自らを沈めるのは当然である。一言で言えば、「闇」によって、「蔭り」が目立たないようにするのである。

最後になると、日本人は近頃、電灯に麻痺して、照明の過剰から起こる不便ということに対しては案外無感覚になっている、という事実が指摘され、最終的には「四隅の蔭を消すことに費やされる電灯と日本家屋の美の観念とは両立できない」という結論に至る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感想文

「生活の実際」という視点から「陰翳」の美を論じるのは「陰翳礼賛」の大きな特色だと思っている。これは二つの方面に現れている。文体の角度から言えば、専門用語をたくさん用いて、美学理論を述べる専門家むきの美学の専門書とは違い、「陰翳礼賛」はごく分かりやすい言葉で、筆者自身の体験と身近な例を取ることによって、陰翳を賛美するという大衆向きの随筆である。それは谷崎潤一郎の文人的なセンスとも関係するであろう。

内容的に、「美という物は生活の実際から発展するものだ」と筆者は主張する。従来、「陰翳に対する好み」は日本人の美意識として研究されてきたが、「陰翳礼賛」を読んで、これは美意識であると同時に、古くから伝えられてきた国民的な「習慣」と言い換えてもいいと思っている。というのは、美意識も習慣も「実際の生活」とは切っても切れない関わりを持っており、生活の実際から発展するものである。例えば、日本は地震や火山による被害を多く受けたが、それと戦わずに、逆に温泉を楽しめるというように地震にも恵まれている。それと同じく、光の足りない実際の自然環境は多少の不便もあるが、それにもかかわらず、日本人は暗さに慣れるようにするのみならず、さらに暗さから美を発見し、その美が一つの習慣として日本人の観念に定着したのである。そうして、闇における漆器、黄金、蒔絵、掛け軸、ないし女性が大切にされるわけである。また、能楽についても、「能舞台における暗さはすなわち当時(昔、特に戦国や桃山時代)の住宅建築の暗さであり、また能衣裳の柄や色合いは、当時の貴族や大名の着ていたものと同じであろう」と述べ、能という日本伝統芸能も実際の生活(昔の建築や服)とは密接な結びつきを持っていると示している。言い方が適当であるかどうか自信がないが、物質文明がそんなに発達していなかった昔、厳しい自然条件に妥当するという傾向があると思っている。

ところが、美意識は決して変わらないというわけではなく、時代とともに多かれ少なかれ変化するものである。近代になると、日本が西洋の諸国から先端科学技術を多く輸入し、電灯などの照明設備がよしとされ、日本風の蝋燭に成り代わって、多用されているというのが実情である。推測だが、この事実を意識した谷崎は、近代の照明で闇による美が無視されつつ、さらに失われてしまう結末を心配し、「闇に対する好み」を再び喚起しようとして本文を書いたのであろう。多分、これは筆者がこの作品を執筆する原因の一つであろう。

この点においては、中国にも同じことが言えるだろう。というのは、改革開放以来、外国特に西洋諸国に学ぶという波が押し寄せてきたし、科学文明や先進理念など優れたとされた物も導入された。その結果、遅れた中国を経済的、技術的に変貌させようという目的が確かに達成されたが、それは中国伝統の犠牲を前提とするのである。早い話が住宅である。伝統住宅の四合院が僅かに残っているのに対し、立派なマンションやデパートに住んでいる住民が多くなる。そして、ほとんどは西洋風の明るいトイレが付いており、本を読むのに便利である。人間が毎日忙しく暮らしを送っている現代社会では、トイレにいる時間まで惜しんで本を読んでいる人にとってはぴったり合っているのではないかと思っている。谷崎が好んでいるいわゆる「風雅な厠」がその暗さで目に悪いのではないか。また、いうまでもなく、蝋燭を点すレストランはロマンチックな雰囲気が漂っているし、恋人のデートに最適な場所ではあるが、ビジネス上の話をする客にとって「暗さ」は不便をもたらすのではないかと思う。それで、実用面から言えば、伝統的な物が現代社会にふさわしくないものとなってしまう。言い換えれば、昔の「生活の実際」から生じた「美」が現代社会の中で、その実用性を失い、まったく使い道がない場合もあるのである。いや、正確に言えば、能楽を観賞したり、漆器の美しさを味わったり、長閑に何かを「楽しむ」時に、「闇」は相変わらず美の一種とされる。しかし、それ以外の場合は、逆に「迷惑」になってしまうのである。

さて、第十章では「歌舞伎劇の美を亡ぼすものは、無用に過剰なる照明にある」というように歌舞伎が批判される。私はこれについてちょって疑問に思っている。疑いもなく、歌舞伎は能楽と同じく、日本伝統芸能の一つとして大変人気がある。だが、筆者が能楽の大ファンで、歌舞伎についてあまり興味があるのか、それとも陰翳を賛美するために、仕方なくこうに書いたのか。徹底的に歌舞伎を否定してしまうのは一体何のためなのか、よく分からない。中国人の私は歌舞伎に詳しくないので、これを評価する資格がないが、能楽舞台における「暗さ」も歌舞伎における「明るさ」も両方ともそれなりの美しさがあるからこそ、数多くの観衆を引き付けるのである。もし、筆者の書いたように、歌舞伎の美が亡ぼされたとしたら、その魅力は一体どこにあるのか。

 

 

『谷崎潤一郎全集 第二十巻』中央公社論


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