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日志

運命の足音(五木 寛之)

已有 4368 次阅读2009-3-22 22:24 |个人分类:日本の小説|

  忙しいですので、とても長い時間はここに来ていませんでした!何にを書きますか!分からないです!
じゃ、今日から、日本の五木様の小説を書くます!
  
  一部:一枚の写真
   先日、私の郷里の福岡から一枚の写真が送られてきた。差出人は私の知らないご婦人だった。その写真には、白い帽子をかぶった若い女性の姿が写っていた。白いブラウスに白いスカート。手には軟式テニスのラクットをもっている。顔はふっくらと丸く、からだ全体に若々しいエネルギーあふれている。写真にそえられた手紙には、このような意味のことが書かれていた。
   「あなたのお母様が、敗戦後の外地で、不幸な亡くなりかたをされたとききました。私は小学生のころあなたのお母さまが教師を勤めておられた小学校に学び、教えをうけた者です。当時の先生のお写真がみつかりましたので、お送りさせていただきます。オルガンとテニスが上手で、とでも明るく、とでもやさしい女先生でした」
   私はその写真から目をそらして、机の引出しの奥にしまいこんだ。心臓が激しく鼓動して、しばらくとまらなかった。そのときの私の心にたぎっていたのは、説明しようのない、理不尽な怒りだった。怒りの感情で手が震えるということが、実際にあるのだな、と思った。
   親切な未知のご婦人からの便りに、私はそのとき返事を書かなかった。そのことで、いまも私は大きな借金を背負っているような気がしている。
   しかし、その写真に出会うまで、私は半世紀以上かかって、ようやく母親のことを思い出さずにすむようになってきていたのだ。ふりはらっても、ふりはらっても、よみがえってくる母親のイメージがある。其の記憶からようやく解放されそうになってきた矢先に、一枚の写真が私のところへ届いたのである。そのことで、私の五十七年の心のなかの努力は一瞬にして崩れさってしまったのだ。「いまごろこんなものを送りつけてくるなんて!」
  と、 私の裸の心は叫んでいた。未知のご婦人の善意からの贈りものと分かっていても、私は相手がうらめしかった。
  そして結局、いまでも私は送り主のご婦人に返事も、礼状も書かずじまいである。そのことは、固いしこりとなって、ずっと心の隅に引っかかったままだ。
  机の引出しも、そのときからまだ一度も開けていない。たぶん、これからもずっと、死ぬまであの写真を見る気持ちにはならないことだろう。
 
  その夏、私は満十二歳だった。
  一九四五年(昭和二十年)の八月、日本が第二次世界大戦に敗れた年だである。当時、私達一家は父の仕事関係で、朝鮮半島北部の平壌という街に住んでいた。いまの朝鮮民主主義人民共和国の首都のピョンヤンである。
  戦争に負ける、という経験は、私達日本人にとっては、初めてのことである。しかも情けないことに、いままで殖民地として支配していた土地では敗戦国の国民になることの重い意味が、私達には全然理解できていなかったのだ。
  要領のいい人たちや、政府高官の家族たちが、敗戦の直前から大きな荷物と一緒に続々と平壌駅から脱出しつつあることもまったく知らなかった。私達一般市民は事態にどう対処していいかわからぬます、政府の指示をぼうぜんと、ただ待っていたのである。
  今になってみると、そんな私達の態度は、おろかしいとも、滑稽とも言いようがない。ながい戦争の時代をつうじて当時の日本人は、自分の力で身を守ることをすっかり忘れはててしまっていたのでとつくづく思う。
    やがて街に旧満州や、北部朝鮮の町から逃れてくる日本人難民の行列が見られるようになってきた。ソ運車に追われて、徒歩で平壌にたどりつく彼らの姿に、私達は異様な感じをうけた。ほとんどが女、子供のグループである。頭を丸刈りにして、顔中に鍋墨をぬっている。男の服を着ている女性たちの姿も見られた。
  歩けない子供を、ずだ袋のようにほこりを立てて引きずっていく母親もいた。首ががくんと折れて、もう生きてはいないだろうとと思われる赤子を、背中に荷物のようにくくりつけてふらふら歩いてくる女性もいた。
  多くの自害者を出し、またソ運軍戦闘部隊兵士たちの暴行やレイプをくぐり抜けながら、母国へ帰ろうと必死で南下してきた人びとだったのだ。
  やがてソ運軍が平壌に入城してきた。そしてそれまで他人ごとのように思っていた事態が、たちまち私達の上にも降りかかってきた。
  軍隊の占領に、略奪や、暴行、レイプはつきものである。そういうことのなかった戦争というものはない。といまの私は思う。しかし、当時の日本人たちは、ただうろたえ、逃げまわるだけだった。急いで組織をつくり、ソ運軍当局と交渉するなどというややりかには、ほとんど念頭になかったようだった。
  その日の午後、私達家族が住んでいた師範学校の舎宅に、突然、ソ運軍の兵士たちが姿をあらわした。彼らはマンドリン銃と私達が呼んでいた自動小銃をかまえて家に入ってきた。なかには旧日本軍の南部式拳銃を手にしている少年のような若い兵士もいた。
 
(09.03.27つづく)
  

父は風呂に入っているところだった。母は半年はど前から体調をくずし、居間に布団をして寝ていた。私は風呂の横にいたのだが、何をしていたのか、どうしても思い出すことができない。そのなたりから私の記憶は、フラッシュ撮影のように一瞬、鮮明になったり、消えたりする。幼い弟と妹がどこにいたのかも記憶にない。

  ソ連兵に自動小銃をつきつけられて、裸の父親は両手をあげたまま壁際にて立たされた。彼は逃げようとする私を両腕で抱きかかえて、抵抗するんじゃない!と、かすれた声で呼んでだ。悲鳴のような声だった。ソ連兵の一人が、私をおしのけて裸の父親のペニスを銃口で突っついた。そして軽蔑したようになにかを言い、仲間と大笑いした。

  それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。そのとき母が不意に激しく吐血しなかったなら、

  あの時母の口からあふれ出た血は、あれは一体、何だったのだろうか。病気による吐血だったのか。それとも口の中を自分の歯で噛み切った血だったのか。まつ赤な血だった。

  さすがにソ連兵たちも驚いたように、ははの体から靴を下ろした。彼らもようやく美病人だと気づいたようだった。そして、二人がかりで母の寝ている敷布団の両端を持ち上げると、奇声を発しながら連でいき、縁側から庭へセメント袋を投げるように投げ出した。

  そのとき私はどうしていたのだろう。大声でなにか呼んだ記憶があるが、その言葉はおぼえていない。

  「おとうさん!」

  と、よんだようでもあり、また、

  「おとうさん!」

  と、呼んだような気もする。自動小銃を突きつけられたます、私と裸の父親は身動きもせずにそれを見ていた。

  やがてソ連兵が目ぼしいものをねこそぎ持ちさったあと、私と父親は母親を抱いて庭から居間に連んだ。母はひとことも言葉を発しなかった。私と父親をうっすらと半眼でみつめただけだった。

  やがて数日後に、その舎宅もソ運軍に接収され、私たち家族は母をリヤカーにのせて雨のなかを別な場所へ移った。

  事件のあった日から、母は何も口にしなくなった、まったくものも言わず、父親がスプーンで粥をすすめても、無言で目をそらすだけだった。

  やがて母が死んだ。たらいに水を張り、父と二人で遺体を洗った。午後の日ざしをうけて、水中の母の体が屈折して見えた。こんなに小さい体だったのかと驚かされた。灰色の陰毛が藻のようにゆらいでいたのを、きのうのことのようにはっきりと覚えでいる。

  それから五十七年がすぎた。私はときどき夢のなかで、庭から父と私に抱きかかえられて居間へ運ばれた母親が、かすかに微笑して、私達にこうつぶやくのをきくことがある。

  「いいのよ」

  私と父親とは、母の死以後、ずっと共犯者としてうしろめたい思いを抱きながら生きてきた。父が死ぬまで、彼とはおたがいに目をみつめあうことが一度もなかったように思う。

  父親はやがてアル中になった。そして引き揚げ後もさまざまな仕事を試みては、ほとんど失敗した。小倉の競輪場で血を吐いてたおれたこともある。そして五十五歳で腸結核で死んだ。あれも父なりの母への責任のとりかただったのかもしれまい。

  こんな暗い話は、二度と書きたくないと思う。しかし、つい先ごろ。五十数年の努力がみのって、ようやくあの日の記憶が心によみがえってこなくなりかけていたのだ。そこに、あの写真が送られてきたのである。

  「オルガンとデニスが上手で、とても明るく、トテモやさしい女先生でした」

 

 旧姓、 持丸カシヱ。 昭和二十年九月二十日、 平壌にて没。 享年四十一。」

 
  

雷人

鲜花

鸡蛋

路过

握手

发表评论 评论 (1 个评论)

回复 浮き草 2009-3-27 16:32
古い文法がありますので、分り難い場所がある、勉強中!

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