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日志

日本語(第八冊)^^二

已有 703 次阅读2008-6-15 13:56 |个人分类:日语学习|

自己看得比较慢……

 

第二課 短歌の鑑賞

 

 作家の創作活動の成果である作品に対して、読者の側から働き掛けて、それを味わうという作業が作品鑑賞である。食物を味わうということは食物を口中に入れ、それをかみ砕いたり、舌頭に乗せたりして、その食物の味わいをいろいろに味わい分けることであるが、文学作品を味わうのもそれと少しも変らない。

 作品に直面したらまずそれにぶつかっていって、自分の歯でよく噛み砕き、自分の舌で味わうことが大切である。人が味わった結果の報告を聞き、そのような味のものなのかということを知って、それで味わったような気持ちになっている人もあるが、それは本当に味わったことにはならないのである。牛肉はたいへん栄養価が高いと聞き知っただけでは、少しも自分の体の栄養にはならないのと同じように、人の鑑賞の言葉をいくら聞いても、本当に自分の感性を磨いたり、人生を豊かにすることはできないのである。牛肉は食べてみなければうまさも栄養価も分からない。そのように、文学もまた自分自身で味わってみなければならないのである。

 作品にぶつかって、よく高級すぎるとか、あるいは複雑すぎるとかの理由で、途中で投げてしまう人がある。優れた作品がみんな難しいというわけではないが、優れた作品のよさというものはそんなに簡単に味わいきれるものではない。我慢強く何度もかみしめ、舌頭にころばしているうちにだんだんとその味が分かってくるのであるから、途中で投げてしまうことはあさはかである。味わうということは鍛錬であることを知らなければならない。鍛錬によって鑑賞力は高まっていくのである。

 こうした鍛錬を回避し、他人の舌を借りてばかりいては、一生本当に文字鑑賞の楽しさを知らないでしまうことになる。その楽しさを知らないでは、やがて人生とか社会とかに対する本当の理解や判断ができないことになってしまうのである。

 短歌は五句三十一音という短い形式の中に、煮つめた内容が盛られている文学であるから、一読してすぐにその味わいに徹するというぐあいにはいかない場合が多い。努力して何度も読んでみなければならない。言葉の意味が分かったからといって、一首のすべてが氷解したということにはならないこともある。作者のものの考え方、感じ方、あるいは全体の気分などについて考えてみなければならない。それらはおおむね言葉の外にある場合が多いのであるが、そういったところまで深く立ち入らなければ、本当の味わいに徹したとは言われないのである。

  わが指の高き節見よ世に経るは難しといはし手を出しぬ父

                          窪田空穂

 この歌をよく読むと、父のことを歌ったものであるということが分かる。そして「わが指の高き節見よ世に経るは難し」というのは父の作者に言った言葉であることが知られる。そこで父はそう言って作者の目の前にその手を差し出したという事実を歌ったものだということがはっきりしてくるわけである。

 さて次は、父の言葉の吟味に入っていかなければならない。節の高くなっている指を見よというのはどういうことを意味しているのか。それは、働いて働いて手を指を労して苦しんできたために、こんなに節が高くなったのだということを知れということなのである。次の、世の中に生きていくことは難しいことだという言葉は、その苦しみの体験から得た父の人生観であることが自然に納得されるであろう。結局生易しいことでは人生を渡っていくことはできないのだぞと、父は作者に諭(さと)したのであるということが感得される。

 これで大体この歌の意味は分かったが、これだけで鑑賞が終わったとは言われない。作者がこの歌を作った動機はなんであったのかを考える必要がある。恐らくこの歌を作ったとき、その父はもう亡くなっていたのであろう。父に死別してから、作者は世に出ていろいろな苦しみを経てきたにちがいない。そして父の生前に示してくれた訓えがしみじみと分かってき、父が慕(した)わしく懐かしくなって、この歌を作ったのである。父が真剣に生きた姿の尊(とうと)さを思い、子のために世に生きる覚悟を諭してくれた有り難さに感謝し、強く生きていこうと決意している作者の姿が、ここにまざまざと浮かび上がってくるのである。その姿に我々は感動しないではいられない。そして、そこから自然な形で我々は世に生きることに対する一つの指針を得るのである。

 ここまできて、この歌の鑑賞は一応達せられたのではないかと思う。なお付け加えれば、作者の父は農に従い生涯を終わった人ではなかったかということが、節高の指ということから想像される。

 真実を歌った歌であれば、一首の歌からも作者がどういう人であるかということなどまでも、鑑賞によって大体のことが分かるわけである。もちろん作者がどういう人かということを、略伝などによって知ることも大切であるが、そういったいわば作品の周辺ばかりつついたところで、鑑賞は遂げられない。何よりも作品そのものに体当たりしていって、作者の感動の根元を突き止め、その感動を自らのものとして、そこから作者を知ることが大切なのである。

  山坊の夜語りに更けて向く僧は精進食(しゃうじん?)をたもつ歯のきよくあり

                                 中村憲吉

 この歌には「比叡山(ひえいざん)」という題がある。題のある歌は、その題を初めにはっきり頭に入れて味わう必要がある。ここで山坊というのは比叡山の山坊であることはいうまでもない。比叡山は、天台宗の本山の延暦寺(えんりゃくじ)のある所であることはだれでも知っている。その寺の僧たちの住んでいる所が山坊で、その坊には寺に参詣(さんけい)した人々を宿泊(しゅくはく)させる設備ができている。一読してこの歌は、作者が比叡山に登りその坊に泊まった夜に得た一つの感動を歌ったものであることが知られるのである。

 坊に泊まった夜、夕食を終えて、僧と作者はいろいろと語り合っている。夜更けの暗い燈(ともしび)の下でこちらを向いて話し掛けている僧の歯の美しさが、作者にひどく印象的であった。ものを言うとき、異様なまで白かったのである。僧の歯のそのように清らかなのは、直観でその僧が肉食をしないで専ら(もっぱら)野菜食をしているからであるということを知った作者は、ためらうことなく「精進食をたもつ歯」と言ったのである。ひとときその歯の清らかさに魅せられ、そしてその感動を一気に歌ったのである。

 俗界にある人間が、たまたま法の山に登り、その山に修行している僧と一夜を過ごし、その清浄(せいじょう)の生活を目の当たりにしたときの驚きとでもいったものが、こうした一首を成さしめたのである。

 僧の清らかな歯によって、法の山の清浄さが象徴されている。そして俗界に身を置く者の、法の山に生きる人の清浄な生き方、ひいては更に法の山そのものに対する謙虚な賛嘆の思いが込められているのである。

 旅をしてその地の風景などをスケッチ風に歌にすることは、さして難しいことではない。しかしそういった歌は、その地に売っている絵はがきとさして変わりのないものである。この歌などは、旅の歌として、深い心でとらえた旅の地の特殊な雰囲気と、自らの心情との溶け合った深い境地を示したものであると言ってよいであろう。

  芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ

                           長塚 節

 難しい言葉は何もない。作者は、今、里芋(さといも)の畑に立ち向かっている。そして、広葉(こうよう)にたまった露の玉のころころと土にこぼれこぼれしている状態を見ている。月に見ているのはただそれだけである。しかし作者の心眼は、こぼれた露で潤った(うるおった)土の中に刻一刻と育っている子芋を映像させているのである。そこで、露の潤いでかれんな子芋が親芋のめぐりに白く固まっていっているであろうと言ったのである。子芋の姿など、実際見える道理はない。けれども作者の畑の作物に対する鋭く、そして優しい愛情は、土の中に育っている子芋の生命を探り(さぐり)当てているのである。里芋が子芋を土中に育(はぐく)んでいくころと言えば、ようやく秋の気配が地上に動き始めるころである。この歌からはそういった秋気がさわやかに感じとられると同時に、作者の自然の推移に対する行き届いた鋭い感受性にひきつけられる。芋の葉から露がこぼれて土を潤しているぐらいのことならば、だれにでも歌うことができる。その様子を写せば足りるからである。しかし、不可視の子芋までこうしてとらえることは容易ではない。心が深くなくてはできないことである。更に言うならば、土というものに本当の愛情を持っている人でなければこういう歌は成し得ないのである。

 この作者は実は農家に生まれ、農事に従った人であるが、そういったことを知らなくとも、鑑賞眼を深めれば、やはり土に心から親しんでいる人の歌であることを見抜くことができるのである。

  街をゆき子どもの傍を通るとき蜜柑の香せり冬がまた来る

                           木下利玄

 この歌もまたその意味をなんの抵抗もなく汲みとることができる。街を歩いていて、あそこに遊んでいた子供の傍を通った。すると思いがけず蜜柑の匂いがしたのである。作者はその匂いをかいだとたんに、鋭く冬の季節を感じたのである。そして、「ああ今年もまたもう冬がやって来るのだ。」という感慨を覚えたのである。

 十月の声を聞くともう蜜柑は、八百屋の店先に姿を現す。しかしまだその皮は真っ青である。そして日を経るに従って、黄色を帯びたものが出てくる。この歌は恐らく、まだ青みの勝った蜜柑の出回っているころの印象であろうと思う。成熟した蜜柑よりも、はしりのそれのほうがはるかにかぐわしいものである。作者は「冬がまた来る」と冬を予望しているのであるから、そのことからも、季節の冬のやって来るのにはまだ少し間ある時期の経験であるということが知られるのである。

 表現の上から言って、「冬がまた来る」という口語が大胆に使われていることに注意される。「蜜柑の香せり」という文語表現に続いていながら、なんの不自然させないというところにこの作者の技術の巧みさが見られるのである。

 わたしはわたしの歯や舌で四首の歌を味わって、その味わいを綴ってきたのであるが、これはあくまでわたしがわたしの力で味わったものであって、他の人の味わった言葉などはいっさい借りていない。また人にこのわたしの味わい方を押し付けようとも思わない。しかしわたしが全力でぶつかっていって味わおうとしている態度は、少なくとも、短歌を鑑賞しようとする人々の参考にはなるであろう。

 繰り返して言うことになるが、鑑賞は人のためにするものではない。自らのために自らが作品に働き掛けていって、正しく直観し、確かに享受することである。そして自らの人間形成に役立て、自らの人生を豊富にすることである。単なる知識を得るためにするものでもなければ、功利のためにするものでもないのである。鑑賞に入るために、作者に対する知識とか、作者の流派とか主張とか、あるいは時代とかに対する解説とかを先行させることは決して正しいことではない。作品そのものにぶつかって鑑賞を全うした後に、そういったことにも及ぶというのが正しい順序である。

 

ことばの使い方

一、「徹する」

自動詞。「ある状態が最後まで変わらずに貫(つらぬ)かれる」「徹底する」や「ある感情が奥深くしみ通る」などの意を表す。この場合、「……に徹する」と使う。そのほかに、「ある時間の全部を通す」「始めから終わりまでずっと経過する」意を表すこともできる。この場合、「……を徹する」の形で使う。

       「金色夜叉(こんじきやしゃ)」はまさに冷酷さに徹した高利貸しの貫一を通じて、資本主義会社の一側面をうきぼりにしている。

       そのしわがれた悲痛な叫び声が、冷水を浴びせかけられたように彼に徹してきた。

       彼は、弁護士になろうと志し(こころざし)、ときどき夜を徹して法律の本を読みふけっているのである。

 

二、「体当たり」

自分の全身を相手のからだにぶっつけて、相手を倒すのがもともとの意味である。ここから、「全力で事に当たる」意を表すことができるのである。

       僕は相手のすさまじい体当たりを受けて倒れた。

       高校を卒業したら、有名な大学に入ろうと、また学生の間で新しい競争がくりひろげられる。だれもがその入学試験に体当たりしなければならない。

 

三、「さして……ない」

「さして」は文語的な言葉、下に打ち消しの語を伴って使う。「さして……ない」は「それほど特別に……ない」「これといって別に……ない」「あまり……ない」の意を表す。

       考えてみれば、さしてむずかしい仕事も思えないのになかなかはかどらない。

       彼が父の倒産を聞いても、さして顔色を動かさないのに人々は少し驚きました。

2

雷人

鲜花

鸡蛋

路过

握手

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