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第三課 鵜
十二月初旬の或る日暮れ近く、私は北国の或る海岸の浜辺を、旧友の某(としておこう)と二人で歩いていた。
私は某を最初から訪ねる予定ではなかった。偶々ある用事のためA市へ行った私は、そこでふと彼がそっちの方面のKという村にいることを思い出したのである。聞くとKはそのA市から四つ目の駅から一時間程バスで行った海岸にあるとのことで、それは私が帰りにどうせ通る沿線であった。私は珍しくも東京から遥遥Aくんだりまで来ながら、その近所の自分の所へ知りつつ立ち寄らなかったことが後で分かったとしても、それをわるく思ったりする彼でないことは知っている。しかし折角ここまで来た序でのことでもあり、このまま彼の顔を見ずに帰って了うのも心残りであった。
某は医者であるが、本来臨床医家ではない。しかし戦争中郷里に疎開していた間に、その近くにあるK村が無医村だというので、頼まれてそこで開業し、それきり居ついて了った形のようであった。細君は終戦前に亡くなり、私の次女と同い歳であるただ一人の愛嬢R子も、無論疾(と)うに片づいているので、今は彼一人きりのわけと思われた。彼も私も共にひどく筆不精(ふでぶしょう)な上、別に用事もないので、文通することも滅多にない。人の話によると、細菌学者としての彼は「大したもの」なのだそうで、あんな田舎に捨てておくのは勿体ない。無医村だというなら若い代りの医者はいくらもいる。何も大ものの彼である必要はないとさえいう。しかし私は彼の仕事の方のことは皆目無知であり、彼も亦私の書くものなぞ、読むことはないらしい。しかしそんなことはどうであろうと数十年来の友誼というものは格別である。何年に一度という位にしか顔を合わせる折もなく、会ったといっても、他愛ない思い出咄(はなし)位しか話の種はない。世間咄すら、彼は私以上に知らなさすぎるので、はずまないのである。むろん愛想らしいことなぞはどっちも何一つ言うではないが、それでも互いの理解と信頼とには何の変わりもない。ただ行儀(ぎょうぎ)わるく寝転んで相対(あいたい)しているだけで、二人は何となく落ちついた気安さに浸るのである。
私と同じく、彼も少量ではあるが酒は嗜む(たしなむ)。それで私はA市でもとめたサントリー一本をみやげに、特に普通列車に乗り、K村に着いたのが三時ころであったか。
「Nだよ」
何べんも呼んだ挙句、二階から降りて来て、度の強い眼鏡越しに訝(いぶか)るようにこっちを見据えている彼に、私はいった。
「Nか。何だ。誰かと思った。どうしたんだ」
私は来たわけを話し、六時何分に夜行の急行列車の停まるO駅へ行かねばならない予定を告げた。彼はただ「そうか」といい、「散らかっているが」とその二階へ私をつれて上った。
前よりは一層禿げ、相変わらずの無精鬚(むしょうひげ?)もそのまま延びて、僅かに残っている頭髪とともに真っ白になっている。敷きっぱなしの寝床(ねどこ)、どこということなく書籍類の雑然としている中に、電気スタンド、顕微鏡、書きかけらしい原稿、灰皿などの散らかっている机、薬棚、箪笥。その他には何もないといっていい殺風景な様は、勤勉な貧乏書生の下宿さながらである。
およそ装飾になる色気のある物の何一つない、そうした荒涼ともいうべき部屋の中に、ただ一つ燦然と輝いているのは、顕微鏡で、商売道具とて、一町歩の土地を売った値で買ったという、ツァイス製とかいうその顕微鏡は素人目にも普通の品よりも大きく、複雑らしく見え、彼が「命の次に」大事なものというだけあると思われた。
「東京がなんでそんなにいい。喧(やか)ましくて、うるさいだけじゃないか」
こんな所でも住めば都かね、という私の言葉に、彼は答えた。もともと昔から変わり者で、仲間と賑やかに談笑するなどということはなく、他を見下しているわけでもなく、超然とした風であった。今でも場所の淋しいとか、不便とか、無刺戟で退屈だとかいうことに、あまり痛痒を感じないことは、私とはややちがう。衣食住にかけてはどれ程簡素でも平気なのだ。だから東京の雑閙(ざっとう?)の中にいればいるで又一向平気なのだが、音響のうるさいことだけは苦手で、だからラジオも無論引いてはない。それに一度銀座かどこかで踏切りの規則のあることをつい失念して、のこのこ横断し、自動車に弾ね飛ばされて大きな頭をしたたか撃ったのに懲りて以来、東京に反感を抱いていることは事実なのである。
「東京へ帰ろということはたびたび勧められるし、こんな片田舎で村夫子然と一生くすぶって終るつもりもべつにないんだがね。馴染みになった者や患者たちが、しきりに離れないでくれといって、親切にいろんな物を持って来てくれたりすると、つい居てやりたくなるし、第一、この辺にはトラホーム患者がまだ相当多いんで、研究のためには却って東京より都合はいいんだ。それにどこにいたって結局自分に出来ることはおんなじだと思うもんだからね」
まだトラホームの研究を続けているのかという私の問に、
「さあ、もう何年になるか、まだいつまで続くか」と天井を仰いで、彼はそうつづけた。何でも同じ名の病原菌によるこの眼病の治癒には、世間の研究家はもう匙を投げてしまったらしいのだが、無類に根気のいい彼はまだ匙を投げず、厭きずしがみついていると見える。そんなことも一つは経済的に彼が保証されているためであることも争(あらそ)われないであろう。大地主の家の後嗣ぎに貰われ、その方は終戦後の改革で大痛手を蒙った(こうむった)わけと思われるが、それでも学究以外に何の余念もない無欲な彼一人の糊口を塗する位のことは何でもないのであろう。それに、私は、あれはどういうひとかなどと、訊こうとはしなかったが、五十恰好と見える品のいい婦人が、茶や火鉢の炭(すみ)を持って来たりしたのが、彼の身の回りの世話を焼いているのだろうと思われた。洋服に穿いている足袋(ばび)の孔がちゃんと黒糸でかがってあり、自分でそんなことをする彼でないことからもそう察しられた。果して後に聞き知った噂によると、それは戦死した或る艦長の未亡人だとのことで、そのひとに対する彼の言葉の親しさからも、私はその時、心ひそかに彼のために祝杯を乾したのだった。
それにしても私には時間が切迫していた。それで久しぶり彼と持参の酒を二三杯汲み交わした後、彼の案内でここの海岸を見にぶらつき、そこからバスの停留所へ廻ることにした。私が彼に何もすすめないと同様、彼も亦何年ぶりに逢った私の忙(せわ)しない辞去を強いて引とめはしない。それでも私の訪問が彼を悦ばせたことは十分わかっているのである。
半ば老い枯れた松並木の高い砂丘が丁度堤防のように蜿蜒とつづいているので、砂丘に登らないと海の眺めは見えない。その代わり、それが防風の用をなしているので、村は割に安静なのだろうか、それにしてもそれは珍しい光景であった。
人っ子一人見えない海岸にはおよそ岬(みさき)というものが見えず、殆んど真一文字のようにのべたらな浜辺は何里つづいているかと思われる。港とか入江とかいうものはこの近所にはどこにもなく、舟の停泊のしようがないから、漁船の影一つ見えない。
日はすでに黄昏(たそがれ)に近く、凍(い)てついたような重い暗灰色の雲の下の水平線に近く、淡(あわ)い焔いろに夕陽の映えた断層が一条、炉中の剣(つるぎ)のように流れている。その仄かな光をうけて、水面には、冬らしい靄(もや)を透かしてほんのり桃色が夢のように射している。
「大洋なのにいやに静かだね。まるで湖水だ」
砂浜に彼と並んで腰を卸した私はいった。
「これなら音のきらいな君も波の音に弱らされることもないだろう」
「ここの海は波打際(なみうちぎわ)からいきなり深いんだ。もちろん風の強い日はかなり高く海鳴りはするがね、四五十年前に大海嘯があったという話で、一旦荒れたら怖ろしかろうと思うが、ふだんは大抵こんな小さな波がぴたぴた寄せるくらいのものだ。一度大きな帆前船が難破してこの岸へ打ち寄せたことがある」
しかしじっと動かずにいると寒いので私達は又静かな渚(なぎさ)づたいに歩き出した。
一匹の野犬が私達の近づいたためか、長い尾を垂れてとぼとぼ逃げて行った。鱶(ふか)らしい巨大な魚の死体が、半ば骨を露(あら)わして転がっていた。それを啖い厭きたらし。
「あれは何だ」
夕闇の水にそこはかと浮んでいる一羽の大きな鳥をふと見つけて、私は指さした。
「鵜だ、あれはよく来るんで、僕はお馴染みなんだ」
「あれってことが判るほど、お馴染みなのか」
「判る。いつでも一羽で、年をとっているのか、背中に羽の禿げたところが目印になっているんでね」
「鵜は大てい群をなしている禽ではないのか」
「何だか知らんが、あれはいつも一羽だ。ギャアギャアいう厭な声だが、ときどき寂しい声で啼くよ」
「普通のより大きいようだね。潜っている間も格別永いようじゃないか」
実際私はその呼吸のつづく永さには驚かざるを得なかった。姿が没したかと思うと、うんと遠く隔った所に又ぽかりと浮ぶそれまでの時間は、非常な永さに感じられた。
「水禽だもの。あれ位当たり前だよ。でなくちゃ餌は獲れやしない」
彼は驚く私を笑った。しかしそれにしてもそれは異常に私には思われた。鵜は私の見ている間に四度もぐった。そして四度目にもぐった時は、もう白っぽい靄の中に吸われて了ったように、再び浮び上がったその姿を認めることは出来なかった。鵜はもう遥か沖の方へでも行って了ったのか。それとも死期が来て、只漂うだけになってしまったのであろうか。そんなこともどっちとも判らず思われた。友は外套のポケットから「バット」を出して私にすすめた。かの空の茜色(あかねいろ)の断層は、見る見るという程の速さで、いつの間にか蒼茫とした灰白色に色褪せていた。寒さにふるえる手でやっと燐寸をすって、二人は吹かした。その火は赤く見えた。時計を出すとまだ少し時間の余裕はあったが、私達は海岸を去り、停留所の方へ歩いた。一軒の荒物屋で私は煙草を買った。が、「先生」としていかに皆から愛敬されているかを語っているように思われた。そこで暫く待った後、私はバスに乗って、彼への別れの帽子を振ったのであった。
彼奴もあの鵜見たような奴だ。
このどことなく非凡な男について、バスの上の私は、そんなことを思うのだ。歳の癖でついふと、「又再び――会うことがあろうか?」なぞと。
ことばの使い方
一、「偶々」
(1)副詞。「ちょうどその時」「偶然に」「思いがけずに」の意を表す。
○ 去年の杭州旅行で、偶々同じバスに乗り合わせたことがきっかけになって知りあったのですが、それまでは彼のことについては何も知りませんでした。
○ 海が見えた。しかし始めから海岸をめざした行動ではない。海は偶々行手にあっただけのことなのだ。
(2)副詞。「時々」「時たま」「まれ」などの意を表す。
○ 毎日仕事に追われている私たちであるが、それでも偶々どこかへ旅行に行くことはある。
○ 郷里で寝たきりの母のことを気づかって安否をたずねる手紙を偶々よこしてはいたが、帰ったことは一回しかなかった。
二、「……くんだり」
接尾語。都市や国から遠くはなれた地名につけて、「その辺」の意味を添えることによって、「……のような遠いところ」という意を表す。自嘲的揶揄的な文に使う。
○ 兄は、スナックをやろうと思って、九州くんだりからわざわざ上京したが、うまくいかず、そのまま帰って行った。
○ 東北なら何とかなるかもしれないとのうわさを信じ込み、家族をかかえて延吉くんだりまできたが、何の仕事も見つからなかった始末だ。
三、「……はなし(……放し)」
接尾語。動詞の連用形について、「……したままでいる」「かまわずほったらかしておく」ことを表す。多く「……っぱなし」の形で使う。
○ 彼はよく仕事をやりっぱなしにしてどこかへ行ってしまう。
○ 駅員詰め所の建物の先に水道があった。水道の蛇口はさっきから水を出しっぱなしであった。
四、「さながら」
(1)体言について、「……そっくり」「……そのまま」の意を表す。接尾語的に使う。文章語。
○ 戦争中の食糧不足で、人間は牛馬さながらの食事を余儀なくされた。
○ 時々、彼女の口が歪むぐあいは、おふくろさながらだと見えた。
(2)両者がそっくりなほどよく似ている様子を表すが、副詞として使う。「まるで」「あたかも」の意。文章語。
○ 照明弾の投下によってあたりはさながら真昼のように明るくなった。
○ 外のやしの木立も輪郭がにじんで、さながら湿った紙に描いたペン絵のようでした。
五、「…とて」
(1)接続助詞。体言につく。「……なので」「……だけあって」の意。文語的な言葉。
○ 彼はあまりなれぬこととてたちまち失敗した。
○ 彼女は戦禍をくぐってきたこととて髪に白いものが多く、年よりもぐっとふけて見える。
(2)接続助詞。完了の助動詞「た」などについて、「ても」の意。下に打ち消しの語を伴って使う。文語的な言葉。
○ やめろと言われたとてあっさり引き下がることができない事情もあるのである。
○ しっかり縛られた私は、もうどんなにもがいたとてだめだと思う。残念と思わぬではないが、思ったとてしかたがない。
(3)接続助詞。「……と言って」「……と思って」「……として」の意を表す。文語的な言葉。
○ 夏子は散歩に行くとて出かけた。
○ 重い室内の空気から外の新しい風に吹かれようとて街を歩き始めた。
六、「何でも」
(1)副詞。「はっきり知らないが、どうやら」の意を表す。助動詞「そうだ」「らしい」と呼応して使う。
○ 何でも彼は兎の飼育で大分もうけたそうです。
○ 何でも近いうちに円高ドル安になるそうです。
(2)「どんなことがあっても」「どうしても」の意。
○ いまから行ってもむだだと忠告したが、彼は何でも行くと言ってきかなかった。
○ 何が何でも日本画の勉強をしなければ、と彼はおじを頼って東京に行った。
七、「いやに」
(1)副詞。「非常に」「ばかに」「きわめて」などの意を表す。俗語的な言葉。
○ いやに機嫌がいいじゃないか。何かいいことがあったんだろう。
○ 治は高等学校に入ったころから、いやにロシア文学にこった。
(2)副詞。「妙に」「変に」の意。
○ いやに笑顔ばかりつくる人ですね。あのような人は信用できませんよ。
○ その日は十月にしては晴れていながら、いやに生温かい風の吹く日だった。
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