「城の崎にて」と言う短編小説を読んだ。始めてこの小説に接したときに、この小説は一言でまとめると「「命」をテーマにした私小説」になると私は思う。生き死についての風景を数え切れないくらい作家が切り取ろうとして、小説が生み出されました。「死と生というのはそんなに違わないのだなあ~」、これはこの話の主人公である志賀直哉自身が一つの生と三つの死を経験した後の考えである。
山手線に跳ね飛ばされたけど九死に一生を得た主人公が城の崎温泉に療養に行きます。そこで、一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいると見つけている。他の蜂は、その傍を這い回るが、冷淡だった。人知れず死んでいく命だった。散歩の途中に、鼠が川の中で助かろうと藻掻いているのに石と投げつけて遊んでいるのだ。死ぬに極まった運命を担いながらも、全力を尽くして逃げ回っていた。多くの人によって面白半分に奪われる命だった。そして、その数日後、岩の上にイモリが休んでいるのを発見した。イモリを驚かせて水の中に入れてやろうと思い、狙うつもりは無かった石が、偶然イモリを衝撃してしまう。イモリは死んでしまった。自分が全く意図せずして奪ってしまった命だった。それらを描くことによって、読んでいる人にそれぞれ違う「死」のイメージ、「命」のイメージを思い起こさせることに成功している作品だと私が感じました。
三匹の小動物の死について、それぞれ投影させている主人公である志賀直哉自身の姿である。「蜂」は土の下の死後の安らぎであり、「鼠」は死の直前のもがきであり、また最後のイモリは死の原因としての偶然の事故である。それは「死後」から「直前」、「直前」から「原因」、と時間のフィルムを逆に回していると考えれる。死後の静かさとは対極に位置する苦痛である。後ろのことばかり考えて、その前のことを考えていなかったのだ、しかし、鼠がもう生きられないと決まっているのに、生きようとも苦しむ姿を見にしたのだ。自身が事故に逢ったとき、助かるために手を尽くしたからだ。最後、イモリが事故で死んだが、自身が生き残った。その生と死の鮮やかな対比を見て感じるのは「生きていることの良さ」、命は大切なものである。
この小説は読みやすく、分かりやすいのだ。直接描かずとも何かを使える情景描写である。暗い雰囲気をよく伝わってくる。そして、普通言葉の重複は避けて、違う言葉に置き換えたりしたり表現するのだろうが、この小説には、「静か」と「淋しい」と言う言葉が何度も出で来るのには驚いた。
読んだ最後感じるのは、限りある人生だから、明るく楽しく前向きに過ごさなきゃもったいないである。限りある人生だから、食べたいものは食べたい時に食べた方がいいかもしれないと思う。
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