原帖出处与详解 http://coffeejp.com/bbs/thread-135097-1-1.html
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『(日本語の)動詞には、自動詞と他動詞という二つの種類があることはご存じだろう。辞書で動詞の言葉を引くと、必ず(自)とか(他)とか分類がしてある。例えば「入る」といえば自動詞、「入れる」といえば他動詞になる。「お茶が入りました」といえば自動詞的な言い方、「お茶を入れました」といえば他動詞的な言い方になる。一般に「水を飲む」とか「ピアノを弾く」など、「を」を受ける動詞は他動詞だと言われる。
ところが全部がそうだとは限らないところが日本語の厄介なところだ。「家を出る」「道を歩く」など場所や通過を表す動詞は、「を」に続いても他動詞とは言わないのである。これは「道が歩かれる」とか「家が出られる」といった受け身の形がないからだ。そこへいくと「犬が足に噛み付く」「歌手にほれる」の「噛み付く」「ほれる」は「噛み付かれる」「ほれられる」のような受け身の形がちゃんとあるので「に」という助詞を受けても、他動詞ということになる。
「親に死なれる」「先に行かれる」という言い方をする。「死ぬ」「行く」は共に自動詞だが、自動詞なのに受動的な表現をすることがあるのである。この場合は、他人がこのような動作をしたことで、結果的に自分が悲しい思いをする、被害を受ける、というような意味に使われる。直接他人を非難するのではなく、間接的に表現しているのだ。このような言い方はいかにも日本的である。
他動詞と自動詞を比べた場合、日本語には圧倒的に自動詞が多い。英語では「彼は妻を持っている」というが、日本語なら「あの人には奥さんがいる」の方が普通な言い方だ。「私は子供を愛する」と英語では言うが、日本人なら「私は子供がかわいい」という形容詞の表現になる。
「私の贈り物は彼を喜ばせた」というような言い方はいかにも英語的な表現で、日本語なら「贈り物を見て彼はとても喜んだ」と言うだろう。「喜ばせる」「驚かす」などの動詞はいかにも欧米人の好みそうな他動詞と言えるそうだ。逆に日本語に自動詞が多いのは、やはり自分の行動をことさらに言い立てたくないという、日本人の精神性から来ていると見ていいだろう。
おもしろいのは自然現象では、自動詞で表現すべきところを、他動詞を使うことだ。「夜が明ける」は本当は「夜が明く」でなくてはならない。「霜が置く」「風が吹き下ろす」「波が寄せる」「潮が引く」など、枚挙にいとまがない。これはあたかも大自然にも意志があるかのように日本人は感じたからだろうか。
また「馬に乗って……する」という動作の意味を、他動詞の言い方で表現することもある。「引っ返す」「攻め寄せる」といった例で、これは本来馬に「引っ返させる」「攻め寄せさせる」と言わなくてはいけない。まさに人馬一体となるからこそ、自分の気持ちが馬と一緒になってこうした言い方になったようだ。
最後に自動詞にも二種類あるという話をしておこう。「降りる」は意志を持って上から下に動くことで「意志動詞」、「落ちる」は自然の力で本人の意志とは無関係に下に動くことで「無意志動詞」という。しかし東北地方では、これが一緒になってしまっているところがある。昔、駅のホームで電車の到着を待っていたら「落ちた人がシンデから(「すんでから」を東北弁でなまって言ったもの)乗ってください」とアナウンスされ、びっくりしたという笑い話がある。
また、九州や四国では「捨てる」を「なくする」のような無意志動詞としても使うことがある。「お金をなくしました」と言うところを、「お金を捨てました」などといともあっさり言ったりするのでおかしい。もっともかくいう私も自慢じゃないが、そそっかしいせいか今まで財布を落としたことは数知れずある。「落ちる」は無意志動詞だが、「落とす」は意志動詞。だからやはりお金を捨てたことになるのかもしれない。人のことは笑えないのである。』
『日本語を反省してみませんか』金田一春彦(きんだいち はるひこ)