太和殿は土台を含めた高さ37・44メートル、敷地面積2377平方メートル。明・清代の皇帝による即位詔書の宣布や成婚の儀、誕辰(誕生日)、春節(旧正月)、冬至、出師の儀など、王朝の重要な儀式が執り行われた。 内部の中央にある高さ約2メートルの壇上には、皇帝の権力の象徴である「金漆彫竜宝座」(竜の模様を彫刻し金粉を塗った玉座)が置かれている。明・清代の皇帝の玉座だ。背もたれには金竜のレリーフが、腰掛けの部分には「二竜戯珠」(二匹の竜が珠と戯れる)のレリーフがそれぞれ施されている。玉座の後ろには、七枚からなる金粉を塗った竜の絵の屏風が置かれている。 太和殿の内部には、巨大な円柱72本が並ぶ。中央の円柱6本に貼られた金箔が光り輝き、あたりは神々しいまでの美しさだ。ここに収められた陳列品や装飾品は、皇帝の権力の大きさを示している。太和殿の前方、土台の最上壇である「丹陛」の上には度量升や日時計、銅製の香炉や鶴亀の像が置かれている。これらはみな、皇帝の世の長久と「長寿無窮」を象徴するものだ。 太和殿の両側には、それぞれ鍍金された銅クラ(かめ)が置かれている。防火用の水がめで、銅缸一つに金百両(約3キロ)が使われ、重さは合わせて二トンに上るという。
1900年、義和団事件の際に侵攻した八カ国連合軍(イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、日本、イタリア、オーストリアからなる)は、紫禁城の財宝をほしいままに略奪し、この銅クラの鍍金も削り取った。銅クラに残る無残なまでの傷跡は、不幸な歴史をこんにちに伝えるものだ。故宮には銅製、鉄製のかめが合わせて308個あったが、44年に侵略した日本軍が66個を奪い取り、それはいまだに返らない。 太和殿の北側、中和殿へと向かうと、作業員たちが「金磚」と呼ばれる地面用のレンガを修復していた。外朝は一本の木もない人工的な環境で、あたり一帯が荘厳な雰囲気に満ちていた。