かつてアメリカの雑誌「タイム」が日本文化の大特集をしたことがある。当然、ことばも論じられている。「タイム」がまずいちばんびっくりしたのは、日本語の第一人称である。
どの国でも第一人称はひとつにきまっている。しかるに日本語には、わたくし、わたし、ぼく、おれ、自分、わが輩など、いくつもある。つれて、第二人称も、きみ、あなた、お前などさまざまである。
もっとおかしいことに、そんなにいろいろあるのに、使わないのだという。
それだけが理由ではないが、日本語のことを〝 悪魔の言語〝 だときめつけ、見出しにもそれをつけた。
〝 悪魔の言語〝 は「タイム」の発明ではなくて、その昔、フランシスコ・ザビエルが日本のことばに面食らってローマへの報告の中で用いたものである。
〝 言霊の幸(さきは)ふ国〝 のことばをよくもけなしてくれたものだ。そういって腹を立てる日本人がいなかったのは、愛国心が足りないためではなく、母国語を大切に思う心に欠けていたのだ。
「タイム」の記事はロクにことばについて考えたことのない、まして日本語にはまるで無知な人の書いたものだろう。
日本語に「私」に当たることばがいくつもあるのは、それだけ進化、複雑になっているからである。
南国、雪の降らないところでは雪をあらわす語はひとつあれば足りる。ところが雪の多い地方だといろいろの名の雪が降る。海から遠い内陸、山岳地帯では海の色など問題にならないが、海にかこまれた島の人たちはさまざまな海の色を知っている。文化に応じてことばは密になったり疎になったりする。
微妙な人間関係に敏感な日本人は相手によって、場合によって〝 私〝 をつかい分ける。まっとうな人間なら、晴れ着、よそ行き、普段着ぐらいはもっている。アメリカなら大統領もホームレスも仲よく〝 I〝 ひとつの着た切りスズメである。どちらがいい、悪いではないが、衣装がたくさんあるからといって、着た切りスズメから悪魔よばわりされてはたまらない。
外国の戯曲の翻訳をしている人が、第一人称、第二人称をどういう日本語にするかで、ずいぶん頭をつかう、という。ぼく、きみとすれば、それで両者の関係がきまってしまう。目上の人に、ぼくやきみはつかえないが、原文はいつも〝 I〝 と〝 You〝 だから、よほど作品全体をよく読んでからでないと、訳し始められない ……。
人称はどれだけ伏せられるか。
I love you.
を「わたしはあなたを愛します」とするのは中学生の英語。第一人称を落とし「あなたを愛します」はすこし日本語に近くなるが、「愛しています」ならもっとこなれた感じになる。だいたい愛というのがバターくさい。「好きです」の方がすっきりする。いっそ「月がきれいですね」ならそれこそ気がきいている。
日本語はもともと第一人称を出さなくても文章が書ける。英語でも命令文や日記に〝 I〝 はないが、日本人は日記の中で自分を出さなくてはならないときは苦労する。
手許の文学全集で諸家の自称の用例を見ると、漱石(自分)、鴎外(余/予)、久保田万太郎(私/ぼく)、志賀直哉(自分)、若山牧水は、見た限り一度もあらわれない。それぞれ苦心の選択に違いない。
「われ思う、ゆえにわれあり」(デカルト)と「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る」(芭蕉)や「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(西行)とでは、「私」に関しては、別世界であると云ってよい。
(原文の出所:『日本語の個性』外山滋比古)