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发表于 2007-12-18 16:18:03
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きよみず‐でら【清水寺】きよみづ‐
[一]京都市東山区清水にある北法相(ほつそう)宗の寺。山号は音羽山。延暦一七年(七九八)ごろ僧延鎮が坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の助成を得て開創。西国三十三所の第一六番札所。本尊は十一面観音像。清水の舞台とよばれる前面を懸け造りとした本堂は国宝。せいすいじ。[二]島根県安来市清水町にある天台宗の寺。山号は瑞光山。用明天皇、あるいは推古天皇のときに尊隆が開創。九世紀以降天台密教の霊場、観音霊場としても有名。本堂、十一面観音像は重要文化財
清水寺
(きよみずでら)
京都市東山{ひがしやま}区清水にある法相{ほっそう}宗大本山。山号は音羽{おとわ}山。古くは北観音{きたかんのん}寺とも称した。西国{さいごく}三十三所第一六番札所。『清水寺縁起』によると、大和{やまと}(奈良県)小島{こじま}寺の延鎮{えんちん}が修行の途次、夢告によって山城{やましろ}国愛宕{おたき}郡八坂郷東山の麓{ふもと}にきて、そこを霊勝の地として練行しているとき、狩猟中の坂上田村麻呂{さかのうえのたむらまろ}に会い、その妻高子のために加持祈祷{かじきとう}を行って効験があった。のち田村麻呂の助力を得て観世音菩薩{かんぜおんぼさつ}を安置するため伽藍{がらん}を造営したのに始まるという。平安初期の年紀をもつ『清水寺建立記』によれば、田村麻呂が、産女{うぶめ}のために鹿を求め屠{ほふ}ったところ、一沙門{しゃもん}に殺生{せっしょう}の罪を諭される。このことを高子に語ったところ、高子が無量の罪を懺悔{ざんげ}するため、家を壊して仏殿を建て、観世音菩薩を安置させたという。田村麻呂が東国遠征に際して延鎮に国家平定を祈るよう依頼し、平定なるとこれを仏徳によるものとし、延鎮を内供奉{ないぐぶ}十禅師に推し、寺地を施入{せにゅう}したという。一説には創建を780年(宝亀11)とする。清水寺は坂上氏の氏寺であったと思われる。805年(延暦24)桓武{かんむ}天皇の御願寺{ごがんじ}となり、810年(弘仁1)には鎮護国家の道場とされた。奈良の興福寺に属し、延暦{えんりゃく}寺に属する祇園感神院{ぎおんかんじいん}(八坂神社)と、南都北嶺{なんとほくれい}の最前線としてたびたび争い、堂塔はしばしば災火にあったが、そのつど再建された。幕末の住職に勤皇僧月照{げっしょう}がいた。
現在の本堂(国宝)は1633年(寛永10)徳川家光{いえみつ}による再建で、創建時の姿を伝えるとみられる懸造{かけづくり}の広い舞台は「清水の舞台」として名高い。また、仁王門、馬駐{うまとどめ}(以上は室町時代)、鐘楼(桃山時代)、西門、三重塔、経堂、開山堂、朝倉堂、釈迦{しゃか}堂、阿弥陀{あみだ}堂、奥の院(以上は江戸時代)など国の重要文化財指定の建物が連なり、境内は公園風となっている。本堂の北にある本坊の成就院は月照と弟子信海の住したところで、その庭園は東山を借景とした池泉観賞式の名園である。本尊十一面観音像(国重要文化財)は、奈良の長谷寺{はせでら}、近江{おうみ}(滋賀県)の石山寺と並ぶ観音霊場として信仰を集めた。『今昔{こんじゃく}物語集』には、貧乏な女が清水の観音に祈ったところ、金、好運、男などを得て幸福になった話がある。また紫式部、伊勢大輔{いせのたゆう}が同時に参籠{さんろう}したときの歌があり、清少納言や『更級{さらしな}日記』の作者菅原孝標女{すがわらのたかすえのむすめ}なども参籠しており、観音菩薩の霊験{れいげん}は古典文学にも多く紹介されている。奥の院の下にかかる「音羽の滝」は寺名の由来をなし、病に効くとしていまなお祈誓する者が多い。堂内には多くの絵馬が奉納されており、とくに航海の安全を祈った絵馬「渡海{とかい}船額」四面(末吉{すえよし}船図3、角倉{すみのくら}船図1)は有名で、国重要文化財である。清水寺は1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は二条城など17社寺・城が一括登録されている)。
おもな年中行事に、観音供養{くよう}(本堂で毎月17日、奥の院で18日)、修正会{しゅしょうえ}、修二会{しゅにえ}、田村忌(5月23日)、千日詣{もうで}(8月10日)、仏名会(12月1~3日)がある。
清水寺
(きよみずでら)
島根県安来{やすぎ}市清水町にある天台宗の寺。瑞光{ずいこう}山と号し、「せいすいじ」とも称する。出雲{いずも}国第一の古寺。当寺の縁起によると、587年(用明天皇2)尊隆が山上に瑞光をみて洞穴に観音{かんのん}像を発見し、この地に庵{いおり}をつくって住し、のち推古{すいこ}天皇に奏上して堂舎が建てられたと伝える。806年(大同1)盛縁{じようえん}(726―813)が中興した。847年(承和14)、天台座主{ざす}円仁{えんにん}が密教の修法である大灌頂光明真言会{だいかんじょうこうみょうしんごんえ}を始めて以来、毎年修するのを例とし、現在も10月17日に営まれている。永禄{えいろく}年間(1558~70)兵火により本堂を除くすべての堂舎を焼失したが、毛利{もうり}家および松江藩主歴代により再建された。山内には根本堂(国重要文化財)、常念仏堂、三重塔、護摩堂{ごまどう}、開山堂、閼伽井{あかい}堂など堂舎が多い。また1972年(昭和47)に建てられた宝蔵には厄除{やくよけ}観音とよばれる十一面観音像をはじめ、弥陀{みだ}三尊、丈六阿弥陀如来{あみだにょらい}座像(以上は国重要文化財)など多くの文化財を納めている。
清水寺
きよみずでら
[美術]
⇒関連項目
京都市東山区にある寺。山号音羽山。1885年までは法相・真言兼修の寺。第2次大戦後,北法相宗の総本山。798年(延暦17),坂上田村麻呂が延鎮を開山として建立したと伝える。805年(延暦24)桓武天皇の御願寺となってから維新まで,朝廷や幕府の厚い保護が続いた。堂宇は開創以来幾度か焼失と再建をくりかえしたが,現在の建物の大部分は徳川家光が1633年(寛永10)再建したものである。近世の寺領は朱印高133石。本尊は十一面観音像。観音の慈悲は広大無辺であり,あらゆる人間の苦悩を救う。この現世利益の観音信仰が,平安中期から高まると,当寺は学問や修行の寺としてよりは,信仰で栄える寺となり,日本無双の観音霊場とうたわれた。平安時代以来,種々の〈清水寺縁起〉がつくられて,霊験譚が世に喧伝され,貴賤の参詣者や参籠者が境内にあふれ,〈清水詣(もうで)〉なる言葉も生まれた。清少納言は毎月18日の観音の縁日に参籠する人で当寺がにぎわうのを〈さわがしきもの〉と伝え,《源氏物語》夕顔の巻には〈寺々の初夜も,皆,行ひはてゝ,いとしめやかなり,清水の方ぞ,光多く見え,人のけはひもしげかりける〉とあるなど,平安文学の素材に当寺の信仰が登場する。平安末の今様の歌にも〈観音しるしを見する寺,清水・石山・長谷(はせ)の御山〉(《梁塵秘抄》)とうたわれ,中世の謡曲でも《盛久》《熊野(ゆや)》《花月》など,清水観音の霊験譚は欠かせない題材となっている。また,中世以来,西国三十三所巡礼の風習が庶民社会に定着すると,当寺は第16番札所として栄えた。〈清水寺参詣曼陀羅図〉が盛んに描かれて,絵解法師が霊験譚を語ったのもこのころのことである。
清水という地名の起りとなったという奥の院崖下の音羽の滝は,天下五名水の一つ,諸病に効くといわれ,持ち帰る人やこれに祈誓する人が多い。当寺は古くから桜と紅葉の名所でもある。音羽の滝から西大谷に至る錦雲渓は,老楓枝を交え,秋の紅葉の壮観は新高尾と世に称する。本堂舞台からの都の俯瞰(ふかん)もまた壮観で,東国からの旅人は,山科から東山を越えてまず当寺に参り,都を眺めて坂を下り五条大橋から京都に入ることが多かった。参道である五条坂と清水坂には平安時代から門前町が発達した。とくに近世になると,この二つの坂道には茶屋と土産物店が並んで遊興地になった。門前には名物が生まれる。清水坂は炙餅(やきもち)(焼餅)と清水団子(だんご)で知られ,また五条坂はここを通った弥次さん喜多さんが〈清水焼の陶造軒をならべて,往来の足をとどむ,此所の名物なり〉というように,陶器店が軒をならべた。清水坂から八坂に抜ける坂道が産寧(さんねい)坂(また三年坂)である。ここで転ぶと3年のうちに死ぬともいわれるが,いまも参道の旧観を残して町並保存地区となっている。
このように庶民信仰で栄えた当寺も,明治初年の排仏毀釈の嵐で打撃をうけた。2回の上知令(あげちれい)によって境内地は10分の1以下に減少した。また有名な本堂の舞台は,観音に願をかけてその結願(けちがん)の日に,この舞台から堂下に身を投げると,所願成就ならばけがなく,否ならば死して成仏できると信ぜられ,古来投身者が絶えなかった。これにちなんで,死を覚悟して事を行うことを〈清水の舞台から飛びおりる〉ということわざが生まれた。陋習(ろうしゆう)や迷信を排す文明開化の世となって,1872年(明治5),政府はこの投身の風習を禁止し,舞台に投身よけの柵をつけさせ,寺僧に終日警備させ,このため危険な風習はやんだ。なお塔頭(たつちゆう)の成就院は,もと当寺の本坊であり,幕末の住職月照と弟信海は勤王僧として西郷隆盛らと活躍し,いま門前にその碑がある。江戸初期につくられた当院の庭は,洛中を俯瞰する池泉観賞式の庭園で,池中に鶴亀の2島を配し,東山を背景にして二重の籬(まがき)をめぐらし,閑雅な景趣に富み,いま名勝に指定されている。
現在の伽藍はおもに江戸時代初期の建立になるもので,本堂(国宝。1633)は旧規を守って南面する懸造(かけづくり)の舞台を設け,石畳床の内陣を拝する外陣がこれに接する。優美な照り起(むく)りの曲線を描く檜皮(ひわだ)葺きの屋根は,平安朝以来の伝統であろう。これより東の山腹には,釈迦堂・阿弥陀堂・奥の院がつづき,西側には,朝倉堂・田村堂・経堂・三重塔・西門とつづく。いずれも本堂と同時期の建立になる。西門より少し北西にある室町時代の仁王門と馬駐(うまとどめ)は,清水坂を登ってきた参詣者がまず目にするもので,以上いずれも重要文化財の伽藍15棟に含まれる。本堂本尊の木造十一面観音立像,三重塔の木造大日如来座像などの彫刻,本堂外陣の多数の絵馬のうち,角倉船・末吉船を描く奉納額(寛永期),鉄鰐口(1236),梵鐘(1478)なども重要文化財となっている。
懸造
かけづくり
⇒関連項目
傾斜地や段状の敷地,あるいは池などへ張り出して建てることを〈懸け造る〉といい,その建物形式を懸造と称する。崖造(がけづくり)ともいう。敷地の低い側では床下の柱や束が下から高く立ち,これに鎌倉時代以降では貫を何段にも通して固めている。平安時代以降,山地に寺院が造られるようになってからのもので,観音霊場に多く,三仏寺投入堂(国宝,鳥取,12世紀)や清水寺本堂(国宝,京都,1633)などがよく知られている。清水寺本堂は舞台造とも呼ばれるが,これは正面に広い舞台(縁)を造っているからである。
清水寺【きよみずでら】
[1]京都市東山区にある寺院。もと法相宗・真言宗を兼ね,現在は北法相宗総本山。延暦年間(782‐806)に坂上田村麻呂が延鎮を開祖として建立した。本尊十一面観音(重文)の霊験は早くから有名で,貴族の参詣はあとを絶たなかった。院政期以後は興福寺との関係を密にし,そのために延暦寺末の祇園感神院との抗争が頻発し,興福寺と延暦寺の度重なる武力対決の場となって堂舎の破却や焼亡が繰返された。一方,観音信仰による諸人の帰依を集め,西国三十三所霊場の第16番札所とされた。本堂は徳川家光が再建(1633),舞台造は有名。国宝。
[2]兵庫県加東郡社やしろ町の御嶽みたけ(清水)山上にある天台宗寺院。西国三十三所霊場の第25番札所。境内出土遺物から奈良~平安初期に寺院のあったことが確認される。平安中期以降,観音霊場として信仰をあつめ,伽藍も次第に整備された。約450点の中世文書を有する。
清水寺縁起絵巻
ヨミ:キヨミズデラエンギエマキ
清水寺の草創縁起,創業者の坂上田村麻呂の蝦夷征伐,本尊観世音菩薩の霊験説話を33段に描いた絵巻。永正14(1517)年の作。紙本着色,3巻。東京国立博物館蔵。絵は土佐光信筆で,詞書は中御門宣胤,三条西実隆,甘露寺元長の寄合書であることが,『宣胤卿記』『守光卿記』『実隆公記』などの記事から知られる。光信晩年の円熟した画風を示す代表作で,伝統的なやまと絵の絵巻の最後を飾る作品。 |
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