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发表于 2004-5-21 23:00:00
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只好跳着补了。( [7 A3 E- b* Y- @2 q& C. b% Z
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0 C4 g5 J# B/ x8 b# Y 道端のツツジの花が色あせ、しおれて朽ちようとしている。あんなにもそろって色鮮やかな姿を見せていたのに、と哀れさえ感じるこのごろだ。
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花の終わり方は様々だ。『花の詩集』(筑摩書房)から、いくつか拾ってみる。「ごらん はらはらと花びらが散る」(杉山平一)はもちろん桜である。こうして桜が散った後に続くのがツツジだけに、末期の対比が強烈だ。
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( {: v6 `# d* z& _* F 「また一輪がぽったりと落ちる」(伊藤桂一)と形容されるのは椿(つばき)である。山村暮鳥にはこんな詩がある。「木蓮の花が/ぽたりとおちた/まあ/なんといふ/明るい大きな音だつたらう/さようなら/さようなら」(「ある時」) ( z" d7 J+ W. U/ g" a+ q
0 `8 C/ L, r9 [& u1 d" g 大雑把にいって、はらはらの桜型と、ぽたりの椿型と、朽ちていくツツジ型がある。日本人が美しいと感じてきたのは桜型だった。新渡戸稲造は、日本の桜と西洋のバラとを対比して美意識の違いを論じた。桜と違ってバラは生への執着が強靭(きょうじん)で「散らんよりも寧(むし)ろ枝上に朽つるを選び、恰(あた)かも死を嫌ひ恐るるが如く」と形容する(『武士道』岩波文庫)。 ! ]9 }/ Y( J+ [0 N; `6 J) U
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同じ朽ちるにしてもバラはツツジとは違う。一輪一輪が華やかな個性をもって咲き誇る。意志の強さを示した上で朽ちていく。大勢で一斉に咲き、一様に朽ちていくツツジのはかなさとは異質だ。 [5 o4 \& J9 z" O! T
3 T. R ^5 {" W' D 「刺し違え」という物騒な言葉も飛び交う中、政界で辞任劇が続いた。一見、椿型のぽたり、ぽたりだったが、政界全体を見渡すと、ずるずると朽ちていくツツジの光景に見えた。美しかったツツジへのような哀惜の念を誘うことなく。
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あのかすれた声が、耳元で聞こえるような気がする。「どれだけの砲弾が飛んだら、廃絶される日が来るのだろうか……」。ボブ・ディランの「風に吹かれて」である。
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% f2 @6 m. ^7 H8 l( g 19日、イラク西部の村で米軍の空爆があり、40人以上の住民が死んだという。結婚式の会場への誤爆だった可能性がある。よく似た誤爆が、2年前にアフガンの結婚式でもあった。どれだけの誤爆が、これから先も繰り返されるのだろうか。 & m6 H. a9 o1 a: p
1 o4 `$ N% U: y# @4 [4 h6 Z: K; D7 }; G 「イラクの経験は悪夢だった。罪のない市民が、周りでたくさん死んだ。我々はこの場にいるべきではないと感じた」。イラクから一時帰国中に姿を消し、この春に「良心的兵役拒否」を申し立てた米陸軍のカミロ・メヒア軍曹に対する軍法会議が、この日、米ジョージア州で始まった。
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; {, G9 z& w' h! {! D. u3 i9 t) O 昨春イラクに派遣され、空軍基地で捕虜収容所の邌婴蛎袱椁欷俊柟伽稀菡撙我徊郡蛎撙椁护毪胜戎甘兢贰⒖词匾郅膝螗蕞`で壁をたたいた。耳元で銃に弾を込めたりもしたという。
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! R5 a3 d# ~$ H. D9 p q ラムゼー・クラーク元米司法長官も、弁護団に加わった。「虐待の罪で兵士を裁こうとしている国が、地球の反対側では虐待に耐えられなかった兵士を裁くのはおかしい」。同じ19日、バグダッドでは、アブグレイブ刑務所での虐待を裁く軍法会議が始まっていた。 , V3 B) d' v' U) c0 [
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メヒア軍曹の言葉が、英紙に載っている。「兵士であることと、人間であることとの間に違いがあると、気付かなければいけない時に来ている」。「どれだけの人が死んだら……」とディランが歌ってから、40年余りの時が流れた。
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1 i% ^0 s$ b$ L! g: A5 L; c; Z 白いシャツの左胸のところに、そろいの黄色いテープがピンでとめてある。5センチほどのテープの先を風に翻し、東京都心の官庁街を行く中学生ぐらいの男子の集団は、修学旅行生らしかった。
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5月は、修学旅行の季節である。日本修学旅行協会の調査によると、小、中学校では、全体の4割前後が、この月に集中している。近年は海外へ出かける学校も増えたようだが、この行事の始まりはいつごろだったのか。
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" M' E) r( k- b% {5 b7 x8 w$ W$ `% G* c 協会の「五十年史」では、現在の形に近いのは、1886年、明治19年に東京師範学校が実施した房総半島への「長途遠足」としている。やがて、鉄道の団体哔U制度も整い、修学旅行は、旧制中学校、師範学校を中心に全国の学校に広がっていった。 : k [9 E- s7 h) q$ Q; _! A* g
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「『気を付け』。処は新橋停車場前の広場、時は明治三十八年五月十三日午前八時三十分。府立第三中学校第一学年生徒の修学旅行」。一年丙組・芥川龍之介が記した「修学旅行の記」の一節である。川崎までの日帰りの旅を律動的な筆致で描く。
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( J' X: N @8 Q; c' l1 l! Z( }% n 「汽笛一声出発を報じ、鼰焽狻┝熊嚖闲欷诉M行し始めぬ。右手(メテ)を望めば、土曜の空蒼々と晴れ渡りて、愛宕山より芝公園に連るの新緑殊に色深く、左手(ユンデ)を眺れば、渺々たる東京湾の波穏にして、目に映ずるものは水天一碧――」(『芥川龍之介全集』岩波書店)
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昨日、台風の遠ざかった東京は久々の五月晴れとなった。雨あがりの碧天(へきてん)の下で、若い目は、何を見、思ったのだろうか。以前、新潟の中学の修学旅行文集で見た一句を思い出す。〈春風のゆく道狭く大都会〉 |
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