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ずっと前から、「父親」を題名に作文を書きたいです。時間の制限で、連載という形式にしており、毎日昼飯後の休憩時間を利用して書き続けていきたいです。これも老妖のエッセイ発表の呼びかけに準拠する習作かな。
父親
昨晩寝込んでいるところ、突然携帯電話が鳴って僕は夢から目覚めた。時計を見てもう12時半過ぎだった。
「おとうさん」僕はおのずから挨拶した。
「もう寝た?」父は問った。
「うん」僕答えた。
この前、父も一度夜中に僕に電話を掛けたことある。仕事はいつも夜11時まで続けるため、電話を掛ける時間さえなかった。その時、「おかあさんの病気はもう快方に向かって、心配しないで」と父は僕を慰めた。今日は何のことだろうか、僕はちょっとびっくりした。
「元旦の休日、何日間?」父の問うことはこれだった。やっとほっとした。
「元旦の一日間だけだよ」僕は相変わらず眠くて声も小さかった。
「そっか」。
「そうだ、退勤後、よく休んでね」僕は思わずこう言った
もう12時過ぎで、父はとても辛かったと思った。また何か言いたい時、
眠たいため、意識がぼんやりしてなかなか口を開かないうちに
「じゃ、寝ろ、寝ろ」父はふっと電話を切っちゃった。
父はこんなに早く電話を切るのは二つの原因があり、僕はいくら眠くてもわかる。
(to be continued)
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いくつの誤記があるため、20041103全文修正そして追加しました。
父親
(その一)
昨晩寝込んでいるところ、突然携帯電話が鳴って僕は夢から目覚めた。時計を見てもう12時半過ぎだった。
「おとうさん」僕はおのずから挨拶した。
「もう寝た?」父は問った。
「うん」僕答えた。
この前、父も一度夜中に僕に電話を掛けたことある。仕事はいつも夜11時まで続けるため、電話を掛ける時間さえなかった。その時、「おかあさんの病気はもう快方に向かって、心配しないで」と父は僕を慰めた。今日は何のことだろうか、僕はちょっとびっくりした。
「元旦の休日、何日間?」父の問うことはこれだった。やっとほっとした。
「元旦の一日間だけだよ」僕は相変わらず眠くて声も小さかった。
「そっか」。
「そうだ、退勤後、よく休んでね」僕は思わずこう言った
もう12時過ぎで、父はとても辛かったと思った。また何か言いたい時、
眠たいため、意識がぼんやりしてなかなか口を開かないうちに
「じゃ、寝ろ、寝ろ」父はふっと電話を切っちゃった。
父はこんなに早く電話を切るのは二つの原因があり、僕はいくら眠くてもわかる。
(その二)
原因が二つあると僕はわかる。父が僕の睡眠を考慮する一方で、長距離通話料金がかかることにも気にかけるだ。
父は五十年代後半生まれの世代で、とうとう六十年代の三年自然災害から逃げられなかった。厳しい飢饉で撙韦瑜い长趣嗣肖丹欷俊!傅睍r、毎日薄いおかゆと山菜の生活で、もう少しで死んだところだな」と父は度々感慨した。お年寄りの話によると、父は六歳から初めて歩くことはできたそうだ。牛乳どころか、ご飯も手に入られないのはその要因だろう。四人兄弟且つ長子としての父と比べて、一人っ子である僕はどんなに幸せなことか。
学生時代の父は成績が良くないため、中学校一年の時退学した。読書にぜんぜん興味はないため、どうしても本をじっくり読めない。しかも、僕は物心がついたころから、父が本を買うことを一度も見たことない。
ある日、父の学生時代の物語を聞くと、僕は思わず笑い転げていた。なぜかというと、父はカンニングしたことがある上に、化学テストの得点はゼロだったことさえある。まずいなと僕はひそかに思ったことある。言うまでもなく、父に知られていない。
しかし、田舎で珍しい大学生である僕を、父はいつも誇りに思っている。
(その三)
父は痩せて背が高くない人だ。一度、父と母の結婚記念写真を見た。それは色が褪めた白à筏恧恚─涡凑妞坤盲俊P凑嫔悉胃袱咸菩腋¥宋⑿Δ螭扦い俊!父袱悉膜皮长螭胜颂盲郡巍筡
」と僕は不思議に思った。残念ながら、数年前この写真は原因不明でなくなった。その後、母は面白いことを教えてくれた。写真を撮るときに父さんの背が母さんより低いので、母さんとあわせるために、父は二つの煉瓦(れんが)の上に踏み付け、それで身長が母より高く見えるようになった。写真が撮られた時の父は22歳だった。22歳の世間のこと何も知らない僕と違って父はもう家族を背負って歩き出した。
僕は幼稚園に入って、大学にも入ってから、父が宿題を手伝ってくれるとか、成績のことを聞くとかは一度もなかった。嘘のように聞こえるが事実だ。それでも、僕の成績は意外に優れて、父もとても嬉しかった。高校に入り、学校と家の距離はいっそう遠くなったので、僕は一ヶ月ごとに家に帰ることにした。冬の時、急に寒くなれば、父は直ちに冬着を学校まで持ってくる。そして、僕の顔をつぶさないように、ネクタイがないにもかかわらず、父はいつも唯一の背広を着てきたのだ。その本意を僕は後で父の話から知った。
父はお酒を飲むのは大好きだ。食卓でお客さんに「乾杯!」と言われると、必ず一息にごろごろお酒を飲み干す。しょっちゅう酔っ払いになる始末だった。これも父と母喧嘩する主な原因だ。父も母の好意を知って、喧嘩になると沈黙。これも「言わぬが花」という処世哲学かな。
父の飲むお酒は普通二、三元ぐらいの安いものだ。一家の主(あるじ)として、父はなんでも節約しようとするのだ。でも、僕に仕送りを手渡す時、「これで十分か、じゃ、もう1百元」と父は言った場面はいまでも思い浮かべる。僕はその時、楽しく受け取るよりむしろ窮屈に感じた。家に経済的な余裕がないため、その1百元は父がお酒を買う小遣いなのかもしれない。
大学一年の時、僕は初めて奨学金を得て、父に一つのプレゼントをあげたくなった。まず、考えたのはお酒だ。最後に二本の「竹葉青」にした、一本20元。父はプレゼントを見てすごく嬉しかった。そのお酒も父が飲んだ一番高いお酒だと思う。
月日の経つにつれて、父の額に皺(しわ)もだんだん多くなり、体も小さくなるように見える。父は特別な技能はないので、主に体力のかかる仕事に従事する。大変苦労したのに給料は少ない。残業の場合、15時間引き続き作業することもある。僕の目にして見れば、父の仕事は毎日睡眠不足の作業だ。
しかし、父はそう思わない。いくら疲れても僕の前でいつも「元気よ」と称するのだ。
(その四)
典型的な田舎者である父は、素朴で親切な人だ。彼にとって家族は命で、いくら苦労しても文句を言わなかった。僕は大学に入ってからただでさえ貧しい家なのに、また多額の学費を払わなくてはいけなくなった。倹約のため、父はお酒も飲まずにすべての小遣いを僕の仕送りにした。しかし、電話で父はいつも「お金の問題はないぞ、よく勉強しろ!」と告げてくれた。僕はうそとわかっていても、「うん、うん」と相槌(あいづち)を打った。
おかしいことに、僕は生まれて以来、父とちゃんとチャットしたことは一度もない。進学であれ、仕事であれ、なんでも自己自身で決める。
毎年、「父の日」に父のことを思い出しても、わざわざ挨拶とか、プレゼントをあげるとかもしなかった。
一度、父と「定年」の話題を検討した。
「おとうさん、何歳まで働くつもり?」と僕は問い掛けた。
「少なくとも、十年以上働くだろう!」と父は答えた。
「ううん、三年後仕事を辞めて家でよく休んでよ、だって僕はもうサラリーマンになった」と僕は叫んだ。
僕の話を聞いて、父はげらげら笑った。
「でもさ、お前の結婚、それから子育て、ずいぶんお金がかかるぞ。これも親の責任だ」
それを聞いて、僕は一時無言になって涙を我慢した。
この世界では、一番偉くて無私な愛はやはり親の愛だ。子供であるわれわれはちゃんと親の誕生日を覚える方はいったい何人いるのか疑問だ。自身のためといい、親のためといい、とりあえず元気を出して、多彩な人生を送ろう!
チャンスあったら、ぜひ父に「おとうさん、好きだよ」を打ち明けると僕は決心した。
(終わり、2004年1月9日)
(再修正:2004年11月3日)
とくに、Qr_Zhaoさんのご指導を心から感謝いたします。
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