司馬台の敵楼には様々な特色が見られる。 敵楼は一層、二層、三層と楼によって階数が違っている。おそらく当時それぞれの敵楼を守った軍人の官位の違いによるのではないかと私は想像している。敵の様子を偵察したり、矢を射るために、敵楼には射眼がある。この数も少ないものは一カ所、多いものは五カ所になる。当地の人々はこれらの敵楼を区別して、単眼楼、双眼楼、三眼楼、四眼楼、五眼楼と呼んでいる。 よく観察すると、城壁のレンガの製造年号と担当した軍隊の名前が刻まれていることがある。例えば「万暦五年山東左営造」「万暦五年寧夏造」など。長城は普通、その上を兵士や馬が移動できるほど厚い城壁になっているが、司馬台では山の傾斜が非常に険しい場所では、「単面墻」(ダンミィエンチィアン)と呼ばれる薄い壁が設けられている。「単面墻」の内側にはドミノ牌のように、さらにまた壁が何枚も並べられている。こうした壁を「障墻」と呼ぶ。前方から敵が攻めてきた場合、兵士は「障墻」を防御壁として抗戦するため「障墻」には射眼がいくつも開けられている。
東辺のいちばん険しいポイント天梯(てんてい)では「障墻」がつらなり、そのわきの幅わずか四十㌢の階段を使ってようやく上に登ることができる。「障墻」はこうして通路をふさぎ、攻守ともに有利になる仕掛けでもある。 「天梯」の傾斜は約60度。隣に目をやれば深さ100㍍の崖である。登る時は四つんばいになり、足元をしっかり固め、両手で石をつかみ、そろりそろりと重心を移す方法しかない。もし手をすべらせでもしたら……その結果はあまりに恐ろしい。だからわずか200㍍の天梯をのぼるのに30分以上はかかってしまう。 天梯をすぎると、次は天橋だ。ここはカルスト地形の一部として形成された洞窟の上に築かれた長城で、司馬台だけに見られる非常に珍しいものだ。100㍍ほどの長さだが、幅はわずか40㌢。丸木橋でも渡るかのように慎重に移動するしかない。このような長城を渡るためには敵軍も一時休戦せざるを得ないだろう。 天橋を過ぎると、山上には敵楼が集中している。明代の規定では、一里(500㍍)ごとに敵楼を建てるとされていた。ただし司馬台では、敵楼は100~200㍍ごとに建てられている。なかでも東辺では、敵楼と敵楼の間の最短距離は、わずか43・8㍍という場所もある。
敵楼の間の複雑にまがりくねった城壁を進むこと四時間、ようやく最高地点の望京楼につく。海抜986㍍の望京楼からは、夜には北京中心部のネオンが見えるという。 司馬台に行く人は誰でも望京楼をめざし、到達すると誇らしい気持ちになる。この場所にいたるのは簡単なことでなく、勇気と脚力が必要とされる。数年来、転落死亡事故が一度ならず起きているのだ。それでもここに魅せられ訪れる人は跡を絶たない。