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『日语自考』 日本文化史のノート
时间:2009-08-20 15:01:29  来源:咖啡日语  作者:junshan_yin

旧石器時代の文化/縄文文化のノート

○旧石器時代の文化
 ・更新世の時代、打製石器(握槌、細石器)・骨角器の使用
  狩猟・採集生活、土器使用なし、一定範囲の移動
 ・日本列島と大陸は陸続き
 ・相沢忠洋が石器発掘→岩宿遺跡、化石人骨(浜北人・港川人など)の発見
 ・代表遺跡…岩宿遺跡・野尻湖底遺跡、早水台遺跡

○縄文文化
 ・完新世→温暖化→列島は大陸と分離、樹林帯・生息動物・生活の変化
 ・磨製石器(石斧・石鏃・石匙・石皿)、骨角器(釣針・銛・鏃)の登場
  石錘・土錘、丸木舟の使用
 ・縄文土器…黒褐色・厚手、低温で焼く、もろい。6期区分
 ・竪穴住居、貝塚
 ・アニミズム、土偶・石棒、屈葬、抜歯
 ・交易を示すもの…黒曜石(和田峠、白滝、神津島など)
          ひすい(姫川・糸魚川)・サヌカイト(二上山)
 ・代表遺跡…三内丸山遺跡、上野原遺跡、加曽利貝塚、大森貝塚など

┃文章
 旧石器時代は更新世{こうしんせい}の時代で、地球上に広く氷河が発達し
た時代である。そして、打製石器・骨角器{こっかくき}は使用したが、土器
の製作や家畜の飼育は知らず、狩猟{しゅりょう}・漁労{ぎょろう}・採集
生活をしていた時代である。氷期の頃、日本列島と大陸は陸続きで、北からマ
ンモスやヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカ、ステゴドン象などが日
本列島に来た。

 なお、旧石器時代の由来は、1819年にデンマークのトムセンが人類文化を石
器・青銅器・鉄器に分け、イギリスのラボックが石器時代を新・旧の2段階に
分けたものである。新石器時代は完新世{かんしんせい}<注1>で、磨製
{ませい}石器・土器の製作と使用、家畜の飼育、農耕を特徴とし、日本では
縄文文化以降がそれに当たる。

  <注1>更新世の後で現在に至る1万年

 戦前、日本に旧石器時代の遺跡はなく、完新世になってから住み始めたとい
う考え方が定説だった。1946年、相沢忠洋{あいざわただひろ}が人類の遺物
は出土しないとされていた関東ローム層で、槍先のようにとがった石器を発見
した。そして、1949年の学術調査で、旧石器時代の遺跡と確認された。岩宿遺
跡は日本の旧石器時代文化の解明の端緒となり、日本各地で発掘調査が行なわ
れ、各地で更新世の地層から石器の発見が相次ぎ、旧石器文化の存在が明らか
になった。さらに、浜北人{はまきたじん}(静岡)、港川人{みなとがわじ
ん}(沖縄)などの化石人骨の発見につながった。相沢の発見は、戦前の考古
学の定説を知らなかったのが幸いしたものである。

 この時代の人々は、打製石器を使って、狩猟や植物性植物の採集の生活を送
っていたが、土器の製作や使用は確認されていない。狩猟は、ナイフ型石器や
尖頭器{せんとうき}などの石器を棒の先端につけた石槍を使い、ナウマン象
やオオツノジカなどの大型動物を捕らえた。打製石器は石同士をたたいて作っ
た石器のことで、握槌{にぎりつち:ハンドアックスとも}は叩く・割る・切
るなどの万能石器として、細石器{さいせっき}は3センチ以下の石刃{せき
じん}をいくつか木や骨の柄にはめ込んで使われた。また、人々は獲物や植物
性植物を求めて、一定範囲を移動した。このため、簡単なテント式住居や洞窟
{どうくつ}、岩陰{いわかげ}を一時的に住居として利用した。

 この時代の代表的な遺跡は、岩宿遺跡以外にもいくつかある。野尻湖底遺跡
群(長野県)は、1962年から始まった市民参加の学術大発掘で、後期旧石器時
代のオオツノジカやナウマン象などの化石獣骨や骨器・石器が見つかった。早
水台{そうずだい}遺跡(大分県)は、1964年の調査で前期旧石器時代の遺跡
とされる握槌・石核{せきかく}などが出土し、前期旧石器研究のきっかけと
なった。



 今から約1万年余り前、完新世になると、地球は温暖な気候となった。そし
て、氷河が溶けて海面が上昇して、日本列島が大陸と分離し、原形が形成され
た。また、気候も現在に近くなった。動物もシカやイノシシなど中小動物が多
くなった。樹林帯も変化し、東日本に落葉広葉樹林が、西日本を中心に照葉樹
林が広がった。

 人々の生活も変化した。中小動物を捕らえるため、イヌを飼って狩猟に用い
たり、弓矢を使った。各地に入江{いりえ}が出来、魚介類を捕る漁労の発達
を促した。また、落葉広葉樹林の木の実の種類・量は豊富で、ドングリなどの
木の実の採集も行なわれた。

 狩猟・漁労・採集の道具には、これまでの打製石器に代わって磨製石器が作
られた。磨製石器は木を加工しやすいように表面を磨いて作った石器で、石斧
{せきふ}・石鏃{せきぞく}・石匙{せきひ}・石皿などがある。また、動
物の骨・角・牙で作られた骨角器は、釣針・銛{もり}・鏃{やじり}などに
使われた。漁労では、網のおもりに使う石錘{せきすい}・土錘{どすい}、
火などで丸木を焼きえぐって丸木舟{まるきぶね}を作った。

 縄文時代の名の由来となっている縄文土器は、表面に撚糸{よりいと}状の
縄目文様が多いことから、その名が付いた<注2>。この土器は黒褐色{こっ
かっしょく}・厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式
から草創・早・前・中・後・晩の6期に区分され、縄文時代の時代区分とほぼ
一致する。土器は煮沸・貯蔵に使われた。また、採集した木の実などは、貯蔵
穴に保存された。

  <注2>モースのcord marked potteryの訳語に由来する。

 縄文時代は山や海の幸に恵まれ、土器で煮沸できるようになり、食生活は大
幅に改善され、老人・幼児も栄養が取りやすくなった。しかし、食料の長期保
存が難しかったため、社会の仕組みが大きく変わることはなく、縄文時代が80
00年近くに及ぶことになった。

 その一方、人口は着実に増加し、湧き水の得られる台地上に集落を形成して
定住し、集落も数戸から十数戸へと拡大した。集落は環状集落が多く、竪穴住
居には数人から10人程度が住み、中央には炉{ろ}が置かれた。海岸近くの集
落には貝塚が見られ、どのようなものを食べていたかが分かる。貝塚は貝類が
層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器・石
器の破片などが捨てられた。

 人は亡くなれば共同墓地に埋葬されたが、副葬品らしいものはなく、貧富や
階級の差はなかったと考えられている(違うという説もある)。


 この時代の人々は、すべての自然物や自然現象に霊威があると考え、それを
畏怖{いふ}し、崇拝した。アニミズム(精霊信仰)である。そして、呪術で
災いを避けて、獲物などの増加を祈った。このような習俗を示すものに、土偶
{どぐう}や石棒{せきぼう}などがある。土偶は大きさ20センチ内外の土人
形で女性像が多く、生殖・収穫を祈る呪術に用いたと考えられる。中期~後期
に東日本で分布した。多くは壊され、完全形での出土は少ない。顔面や文様を
刻んだ土面{どめん}・土版{どばん}や岩製の岩版{がんばん}もある。ま
た、石棒は、武器の一種とも生殖器崇拝の対象とも考えられる。

 死者の多くは、手足の関節を折り曲げて埋葬された。この方法を屈葬{くっ
そう}といい、死霊の活動を防ぐとか、墓穴を掘る労力を節約するため、など
諸説ある。また、犬歯{けんし}・門歯{もんし}などを左右対称に抜き取る
抜歯{ばっし}は、縄文後~晩期の風習で、成年式の意味を持つと推定されて
いる。

 この時代、遠方集団との交易が行なわれていた。それを示すものが、黒曜石
{こくようせき}・ひすい(硬玉{こうぎょく})・サヌカイトなどである。
黒曜石は黒色透明の火成岩で、鋭利な切り口のために打製石器などの製作に適
した岩石である<注3>。産地は長野県和田峠、熊本県阿蘇山、北海道白滝
{しらたき}と十勝岳{とかちだけ}、神奈川県箱根、伊豆七島の神津島{こ
うづしま}、大分県姫島{ひめじま}などに限定されるので、黒曜石の石鏃の
分布は、当時の交易状況を物語る。

  <注3>黒曜石製のナイフ形石器は、鋭利で脂肪が付きにくいため、肉を
      切っても切れ味がにぶることはなかった。

 ひすいは半透明で緑色を呈{てい}し、勾玉{まがたま}などの材料として
使われた。新潟県姫川{ひめかわ}・糸魚川{いといがわ}流域が特産地であ
る。サヌカイトは、香川県白峰山{しらみねさん}で多産するので讃岐石{さ
ぬきいし}ともいうが、大阪府と奈良県境の二上山{にじょうざん}でも多く
産出する。


 この時代の代表的な遺跡は多い。青森県の三内丸山{さんないまるやま}遺
跡は約1500年間続いた大集落跡で、大型掘立柱建築跡などを発掘し、原始農耕
の存在も考えられてている。鹿児島県の上野原{うえのはら}遺跡は草創期の
最古・最大級の大集落跡で、竪穴集落跡が52軒あり、早期に定住性の高い集落
が営まれていたことが明らかになった。千葉県の加曽利{かそり}貝塚は、日
本最大規模の貝塚である。東京都の大森貝塚は、アメリカ人モースによって日
本最初の発掘調査が行なわれた貝塚で、日本考古学発祥の地である。岡山県の
津雲{つくも}貝塚は、出土した170体ほどの人骨のほとんどは屈葬だが、伸
展葬{しんてんそう}もある。また、抜歯の風習を示すものも出土している。

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