近頃、テレビのコマーシャルを見て、思わず笑ってしまったのは、あるドリング剤の宣
(注1)
伝だった。
電車の席で居眠りをしている若い女性が、次第に隣の男の肩にもたれ始め、ついには膝
の上に倒れこんでしまう。いささかオーバーだが、よく見かける風景である。もうひとつ
(注2)
は、 若い男がつり革につかまりながら、これまた居眠りしている。そして、ときどき、膝をガクン、ガクンと折りながらも、努力でつり革にすがりついているシーンだ。
問題のコマーシャル・メッセージは、そのあとにでてくる、若い男の顔が大うつしになり、ドリンク剤を手にしながら、こう言うのである。
「結構きますよ!」
( ① )なら、誰でもすぐわかる。つまり、大分お疲れのようですが、これを飲めば「結
構きますよ」という宣伝ある。「きます」というのは、この場合、「効きます」と同義だが、そ
(注3)
れを「きます」と言ったところに、この文句の狙いがある。
②
というのは、この「きます」あるいは「くる」という動詞は、たんに「効果がある」というより、「もっと激しく、ときには衝撃的に作用する」というニュアンスを持っているからであ
る。(中略)それはともかく、私が興をひかれたのは「くる」のほうではなくて、その上につけ
(注4)
られた「結構」という副詞である。日本人なら、それで充分通じるのだが、さて、これを外国語に翻訳するとなると、どう言い換えたらいいのだろう。そもそも、「結構」とは、それこそ、結構さまぎまな意味をあわせもっているのである。名詞の用法となれば、まるで違った意味さえいくつもみられるし、副詞的な使い方でも、じつにさまざまな含みがある。
では、この場合の「結構」は、どうなのか、これも解釈しだいで、どうとも受け取れるが、た
③
ぶん、こうなのであろう。
「あなたは疲れている。まあ、これを飲んでごらんなさい。あなたが予想している以上に効果がありますよ。だまされたと思って、ためしてごらんなさい」
これだけの意味が、たった六字で表現されているわけである。とすれば、「結構」の威力た
るや、たいへんなものと言わねばなるまい。
④
ここで大事なのは、「予想している以上に」という点である。(中略)日本人には日本人な
⑤
りの尺度がある。その尺度は、私には、他の民族よりも、はるかに控え目のように思われる。
(注5)
別言するなら、日本人は概して悲観的であり、ものごとに過度の期待を持とうとしない、ということだ。なぜなのだろう。期待が裏切られるのを極度に恐れるからである、はじめから期待していなければ、結果が悪くてもあきらめがつく。反対に、結果がよければ、それだけ喜びも大きい。要するに、日本人は、失意や絶望に対して、たいへん臆病なのである。
(森本哲郎『日本語根ほり葉ほり』新潮文庫による、一部改)
(注1)ドリンク剤:体調をよくして、元気が出るように飲む飲み物
(注2)いささか:少し
(注3)同義:同じ意昧
(注4)輿をひかれる:おもしろさを感じる
(注5)尺度:何かを考えたり感じたりするとき、頭や心の中にある基準になるもの
問1 ( ① )に入るものは何か。 1
1 疲れている人 2 日本人 3 人間 4 外国人
問2 ②「この文句の狙い」とあるが、そのねらいとはなにか。 2
1 「効きます」でも「きます」でも意味がわかるということ
2 「効きます」より「きます」と言うほうが日本人には伝わるということ
3 「きます」より「効きます」と言うほうが日本人には伝わるということ
4 「効きます」と「きます」の意味は同じだということ
問3 ③「結構」という言葉は、ここではどんな意味を持っていると筆者は考えているか。 3
1 とてもいい 2 予想以上に 3 満足な 4 たいへんな
問4 ④「たいへんなものと言わねばなるまい」とあるが、どうしてたいへんなものなのか。 4
1 たった六字で「予想している以上に効果があります。だまされたと思って、ためしてみて」ということを伝えているから
2 たった六字で名詞の用法や副詞的な使い方やさまざまな意味が含まれている言葉だから
3 たった六字で日本人には通じるが、外国語に翻訳するのはとてもむずかしい言葉だから
4 たった六字で「もっと激しく、ときには衝撃的に作用する」という意味を日本人に伝えてしまうから
問5 ⑤「日本人なりの尺度がある」とあるが、何に対する尺度か。 5
1 言葉に対して 2 ためすということに対して
3 裏切るということに対して 4 テレビコマーシャルに対して
問6 筆者がこの文章で一番言いたいと思われるものはどれか。 6
1 日本人の期待に対する尺度は控え目である。それが言葉にもよくあらわれている。
2 日本人は疲れている。だからドリンク剤に使われる言葉も重要だ。
3 日本語は一つの言葉にいろいろ意味がある。だから翻訳するのはむずかしい。
4 日本人は「きます」という言葉が好きだ。だからコマーシャルにも使われている。