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父親
时间:1970-01-01 08:00:00  来源:咖啡日语论坛|  作者:flyingwind

 (一) 
 昨晩寝込んでいるところ、突然携帯電話が鳴って僕は夢から目覚めた。時計を見たらもう12時半過ぎだった。
父からの電話だった。
「おとうさん」
「もう寝た?」
「うん」
この前、仕事でいつも夜11時まで続けるため、電話を掛ける時間さえなかった父は一度夜中にも僕に電話を掛けたことがある。
「母の病気はもう快方に向かって、心配しないで」
父は僕を慰めた。今日は何のことだろうか、僕はちょっとびっくりした。
「元旦の休日、何日間?」
これだったのだ。やっとほっとした。
「元旦の一日間だけだ」
僕は眠くて声も小さかった。
「そっか」。
「そうだ、退勤後、よく休んでね」
 もう12時過ぎで、父はとても辛かったと僕は思った。それに、まだ何か言いたいが、
眠いためなかなか口を開かないうちに
「じゃ、寝ろ、寝ろ」
父は電話を切っちゃった。けれども、僕はどうしても眠られなかった。
(二)
 こんなに早く電話を切るには原因があるのだった。
僕の睡眠を考慮する一方で、長距離通話料金がかかることにも気にかけたのだ。
五十年代後半生まれの父は三年自然災害では、厳しい飢饉で幸いに命が残された。「当時、毎日ただ薄いおかゆと山菜で、もう少しで死んだところだな」と父は度々感慨した。お年寄りの話によると、父は六歳まで初めて歩けるようになったそうだ。牛乳どころか、ご飯も手に入られなかったのはその要因だろう。四人兄弟且つ長子としての父と比べて、一人っ子である僕はどんなに幸せなことか。
 学生時代の父は成績が良くないため、中学校一年の時から退学した。読書にぜんぜん興味はないため、どうしても本をじっくり読めなかった。僕は物心がついたころから、父が本を買うことを一度も見たことはない。
 そのとき、父の学生時代の物語を聞いたら、僕は思わず笑い転げていた。なぜかというと、父はカンニングしたことがある上に、化学テストの得点はゼロだったことさえある。まずいなと僕はひそかに思ったことはある。言うまでもなく、父に知られていないのだ。
 でも、田舎で珍しい大学生である僕を、父はいつも誇りに思っている。

(三)

 一度、父と母の結婚記念写真を見た。
 色が褪めた驻涡凑妞坤盲俊/lせて背も高くない父は、その写真では、太くて幸福に微笑んでいた。「父はかつてこんなに太いの」と僕は不思議に思った。残念ながら、数年前までその写真は原因不明でなくなった。ある日、母は面白いことを教えてくれた。写真を撮るときに父は背が母より低いので、母とあわせるために、父は二つの煉瓦(れんが)の上に踏み付け、それで母より高く見えた。写真が撮られた時の父は22歳だった。けれども、22歳の世間のこと何も知らない僕と違って父はもう家族を背負って歩き出した。
 僕は幼稚園に入ってから、大学を卒業するまで、父が僕の宿題を手伝ってくれるとか、学習情況を問い合わせるとかは全然しなかった。嘘のように聞こえるが事実だ。それでも、僕の成績は意外に優れて、父もとても嬉しかった。高校に入ってから、学校と家の距離はいっそう遠くなったので、僕は一ヶ月ごとに家に帰ることにした。冬の時、急に寒くなれば、父は直ちに冬着を学校まで持ってきた。そして、僕の顔をつぶさないように、ネクタイがないにもかかわらず、父はいつも唯一の背広を着てきたのだ。その本意が僕は後で父の話から知った。
 父はお酒を飲むのが大好きだ。食卓でお客さんに「乾杯!」と言われると、必ず一息にごろごろお酒を飲み干す。ときどき酔っ払いになる始末だった。これも父と母喧嘩する主な原因だった。父も母の好意を知り、喧嘩になると沈黙。これも「言わぬが花」という処世哲学かな。
 父の飲むお酒は普通二、三元ぐらいの安いものだ。一家の主(あるじ)として、父はなんでも節約しようとするのである。でも、僕に生活費を手渡す時、「これで十分か、じゃ、もう1百元」と父は言った場面はいまでも思い浮かべる。僕はその時、楽しく受け取るよりむしろ窮屈に感じたのだ。家に経済的な余裕がないため、その1百元は父自身がお酒を買う小遣いなのかもしれない。
 大学一年の時、初めて奨学金を得た僕は、父にあげたいプレゼントにおいて、まず考えたのは当然お酒だ。二本の「竹葉青」で、一本20元。父はプレゼントを見てすごく嬉しかった。父としては、一番高いお酒だろうと思う。
 月日の経つにつれて、父の額に皺(しわ)もだんだん多くなり、体も小さくなるように見える。父は特別な技能はないので、主に体力のかかる仕事に従事する。大変苦労したのに給料は少ない。残業の場合、15時間引き続き作業することもある。僕の目にして見れば、父の仕事は毎日睡眠不足の作業だ。
 しかし、父はそう思わない。いくら疲れても僕の前ではいつも「元気よ」と称するのだ。
(四)
 典型的な田舎者である父は、素朴で親切な人だ。彼にとって家族は命で、いくら苦労しても文句を言わなかった。僕は大学に入ってからただでさえ貧しい家なのに、また多額の学費を払わなくてはならない。倹約のため、父はお酒も飲まずにすべての小遣いを僕の仕送りにした。しかし、電話で父はいつも「お金の問題はないぞ、よく勉強しろ!」と告げてくれた。僕はうそとわかっても、「うん、うん」と相槌(あいづち)を打った。
 おかしいことに、僕は生まれて以来、父とちゃんとチャットしたことは一度もない。進学であれ、仕事であれ、なんでも自分自身で決める。
 毎年、「父の日」になると、父のことを思い出すけれども、わざわざ挨拶なんかもしなかった。ほんとうに……
 一度、父と「定年」の話題を検討した。
「おとうさん、何歳まで働くつもり?」
「少なくとも、十年以上働くだろう!」
「ううん、三年後仕事を辞めて家でよく休んでよ、だって僕はもうサラリーマンになった」と僕は叫んだ。
 僕の話を聞いて、父はけらけら笑った。
「でもさ、お前は、結婚、それから子育て、ずいぶんお金がかかるぞ。これも親の責任だ」
それを聞いて、僕は一時無言になって涙を我慢した。
この世界では、一番偉くて無私な愛はやはり親の愛だ。子供である私たちはちゃんと親の誕生日を覚える方はいったい何人いるのか疑問だ。自身のためといい、親のためといい、とりあえず元気を出して、多彩な人生を送ろう!
 父に、「おとうさん、好きだよ」を打ち明けると僕は決心した。きっと。


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