戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を勞ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には自き木綿、自き「レエス」などを堆く積み上げたれば。
エリスは打笑みつゝこれを指して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつつ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れぱ襁褓なりき。「わが心の樂しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん。この瞳子。鳴呼、夢にのみ見しは君が黑き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をぱなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日ばいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙滿ちたり。
二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢て訪らはず、家にのみ籠り居しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れぱ待遇殊にめてたく、魯西亞行の勞を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滞留の餘りに久しけれぱ、様々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと間きて落居たりと宣ふ。其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相津の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずぱ、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。鳴呼、何等の特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。
黑がねの額はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出てしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度が叱せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れぱ、獣苑の傍に出でたり。倒るゝ如くに路の邊の榻に倚りて、灼くが如く熱し、椎にて打たるゝ如く響く頭を榻背に持たせ、死したる如きさまにて幾時をが過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覺えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇、外套の肩には一寸許も積りたりき。