凍えるような夜道を、家に帰るため歩き出そうとしたときだ。
道路の反対側に立つ人影を見た。影は、琴吹さんが消えたドアのあたりを見つめているようだった。
空をおおっていた雲が切れ、月の光が一瞬だけ、横顔を照らした。
臣くん…… !?
確認しようとしたとき、影は背中を向け歩き出していた。
とっさに、あとを追いかける。やっぱりあれは、臣くんじゃないか? 何故、彼がこんなところにいるんだ。ひょっとして、ぼくらをつけていたのか?
その考えに、背中の毛がざわっと逆立ち、足元から寒気がのぼってくる。
影は、どんどん先のほうへ歩いてゆく。
つられて、こちらも早足になる。呼吸が苦しくなり、ハァハァと吐き出される息の量が増えてゆく。冷え切った頬を、白く濁った生温かい息が、なでてゆく。
気がつくと、外灯の光も届かない真っ暗な路地裏に、立ちつくしていた。
影は闇と同化し、臣くんらしき人の姿はどこにも見あたらない。
そんな、確かにこの角を曲がったはずなのに! どこへ消えてしまったんだ!
混乱するぼくの耳に、ふいに、ひそやかな歌声が聞こえた。
それは、すすり泣くような、低い声だった。
恨みと、哀しみのこもった、亡霊のような声。
なに !? どこから聞こえてくるんだ、この声は? 前? いや、後ろから? いや、あっちのほう? 違う、向こうからだ。いや、そうじゃない!
声はあらゆる方向から、次々響いてくるように思われて、ぼくは背筋を這い上がってくる恐怖にとらわれ、立ちつくした。
『オペラ座の怪人』の中に、こんなシーンがなかったか?
オペラ座の地下にある闇の帝国へ、クリスチーヌを救出に向かったラウルは、ファントムが創り出した幻想に翻弄され、狂気に陥ってゆく。
この声は、人の声ではない。
天使の声! 怪物の声! 天と地上にまたがって生きる、仮面の男――ファントムの葬送曲だ!
魂にからみつき、じわじわ締めつけてくる魔性の歌声に、ぼくは完全に平静を失い、喉が熱くなり、息ができなくなり、指先が痺れてきた。
マズい、発作だ。
美羽が屋上から飛び降りたあと、頻繁にぼくを襲ったそれが、ファントムの声に呼び覚まされたかのように、全身から汗がどっと吹き出し、頭の中がぐるぐる回り、喉から掠れた笛のような息が漏れる。
ぼくは、がくりと膝を折り、冷たい路地に這いつくばった。
歌声は、くすくすという笑い声に変わった。その声が、男性の声に聞こえたり、女性の声に聞こえたり、少年の声に聞こえたり、少女の声に聞こえたりする。
まぶたの裏に、中学校の制服を着て、髪をポニーテールに結んだ美羽の姿が浮かび、ぼくに向かって儚く微笑み、逆さまに落ちてゆく。
その映像が、万華鏡のようにいくつもいくつも、繰り返し浮かぶ。
――気づかないんじゃない。
――知りたくないだけなんだ。
毒にまみれた声が、ぼくを責める。
あんたは、わからないフリをしているだけだ。あんたが彼女を傷つけ、死に追いやった。あんたは、人殺しの偽善者だ。
違う、違う、違う。
全身ががくがくと震え、息をする間隔がますます短くなってゆく。
美羽が落ちてゆく。
落ちてゆく――。
少しの間、意識を失っていたらしい。
携帯電話の着メロで目覚めたとき、ぼくは腐った残飯の匂いのする暗い路地裏に、手足を投げ出して、うつぶせに倒れていた。
お気に入りの軽やかな洋楽が、コートのポケットから流れている。
こわばる体を起こし、冷え切って感覚がなくなった手で携帯を出し、着信を見た。
流人くん……。
「あ、心葉さん。今そこ、パソコン開きますか?」
流人くんは急いでいる様子で、いきなりそんな風に言った。
「ゴメン、外なんだ。あと一時間くらいで戻るけど」
路地の壁に手をついて、よろよろ立ち上がりながら答える。
皮膚に、心に、ゆっくりと感覚が戻ってくる。あの歌声は、悪い夢だったのだろうか。幻想と現実の境目に立っているような気がして、まだ少し頭がぼぉっとしている。
「そうすか。じゃあ、データ送っときますから、帰ったらすぐ見てください」
「なにがあったの?」
「実は水戸夕歌のこと、オレのほうでもちょっと調べてみたんすよ。お節介とは思ったんですけど、イブまでにそっちの問題が解決してくれないと、困るから」
そう言って流人くんが投下したのは、ぼくの頭の中にたれこめるもやもやした霧を一度に吹き払うような爆弾だった。
「夕歌は、今年の夏頃から、〝椿 ? って名前で、ネットの会員制サイトに出入りしてたんです。そこで客をとって、援交してたらしいんすよ」
自室のドアを開けるなり、着替えもせずにパソコンを立ち上げ、流人くんが送ってくれた添付ファイルを開いた。すると、怪しげなサイトの表紙と、会員規約、女の子のプロフィールがぞろぞろ出てきた。
不正アクセスがバレて、途中でシャットアウトされて、全部は読み込めなかったんすけどねと、流人くんは言っていた。
『そのリストのNO 16 の椿ってのが、夕歌です』
ちりちりするような不安が胸に込み上げてくるのを感じながら、息を押し殺し、画面を下ヘスクロールさせてゆく。
NO 16 【名前】椿。
その文字が目に飛び込んできた瞬間、喉が強く締めつけられ、目眩がした。
水戸さんのクラスの子が語っていた言葉が、痺れるような痛みとともに浮かんでくる。
『黒いスーツを着た男の人と、外車に乗るのを見たことあるんだ。肩なんか抱かれて怪しい雰囲気で、水戸さんはその人に〝ツバキ ? って呼ばれてた』
そんな……、偶然だ!
いくら否定しても不安は消えず、胸の鼓動が痛いほど高まった。
まばたきすらせずプロフィールを読んでいくと、職業欄に〝F音大付属の現役女子高生です ? とあり、コメント欄に〝オペラ歌手を目指しています。そっと抱きしめてくれる優しいオジサマ、募集中です ? とあった。
マウスを握る手が、吹き出す汗で濡れてゆく。やっぱり、これは水戸さんなのか?
ここは、どう見ても非合法の出会い系だ。水戸さんはこの場所で、援助交際の相手を募集していたのか? 不特定多数の男性と会い、収入を得ていたのか?
パソコンにかぶりつくようにして、さらに文字を追う。
趣味〝クラシック鑑賞、ショッピング ?
好きな食べ物〝苺 ?
デートで行きたい場所〝遊園地 ?
愛読書〝井上ミウ ?
井上ミウ !?
頭を、いきなり殴られたような気がした。
ぎりぎりまで張りつめていた心に、ふいに突きつけられたその名前は、普段の数倍の威力で、ぼくに衝撃を与えた。
全身が燃えさかる火に包まれたように熱くなり、思考が完全に停止する。
愛読書は、井上ミウ。
名前は、椿。
終わってはいなかった。ぼくはまだ路地裏に倒れたまま目覚めてはいなかった。一体これは、どういう悪夢なのだろう。