琴吹さんは、カウンターで忙しそうに働いていた。
「ゴメン。今日、他の当番の子が休んじゃって。もう少し待って」
「……じゃあ、閲覧コーナーにいるよ」
「井上、なんか、ぼぅっとしてる?」
「そんなことないよ」
頭にまだ、彼の声と眼差しが残っている。琴吹さんには話せない。ぼくが、琴吹さんのことを振り回しているなんて。
そのとき、すぐ近くでさっき聞いたばかりの声が、また聞こえた。
「琴吹先輩、あとは自分がやりますから、あがってください」
琴吹さんの横に、眼鏡をかけた陰鬱な雰囲気の生徒が、音もなく現れたのを見て、ぼくはぞっとした。
「でも、臣は今日、当番じゃないでしょう」
「仕事、そんな残ってないから、代わりますよ。人を待たせてるんでしょう」
琴吹さんがぼくのほうを、ちらりと見る。
ぼくは血の気の引く思いで、その場に立ちつくしていた。
「えっと……じゃあ、鍵、渡しておくね。ありがとう、臣」
「はいっ、さよなら」
無愛想な顔つきで、ぼくらを送り出した。
「今のやつ、一年生? 名前、なんていうの?」
廊下を歩きながら、動揺を必死に押し隠して尋ねる。
「臣、志朗のこと? うん、一年だよ」
「今まで、図書室で見かけなかったけど。委員なんだよね?」
「体弱くて、一学期の間ずっと休んでたからじゃないかな」
「……琴吹さんと仲良いの?」
「なにそれ。そんなことないよ。臣、無口だし。当番しててもほとんど話さないよっ」
赤い顔で一生懸命に否定する。その様子を見ていたら、臣くんに言われたことを思い出してしまい、胸が押し漬されるように苦しくなった。
『笑顔でキレイごと抜かして。自分は傷つかずに、他人を傷つけている』
『あんたみたいなやつは、気づかないんじゃなくて、知りたくないだけなんだ』
病院にお見舞いに行ったとき、琴吹さんがぼくに見せた、泣きそうな顔。それから、劇の稽古のときに見せた涙――。
『井上は全然……覚えてないかもしれないけど……あたし、あたしね……中学のとき……』
『あたし……井上に嫌われてるから……井上は、あたしには、本気でしゃべってくれないから……』
『あたしにとっては特別なことだった。だからそのあとも、あたしは井上に会いにいったの。何度も何度も、冬の間ずっと、毎日』
あの言葉が、あの涙が、あの弱気な眼差しが、なにを表していたのか――。
あんなに必死に、琴吹さんはなにを伝えたかったのか――ぼくは確かに、考えることを拒んでいたのかもしれない。
ぼくにとって、女の子はこの世でただ一人、美羽だけで、あんな風に気持ちのすべてが相手に向かうような恋は、二度とできなかったから。
あんな強い想い、美羽にしか抱けない。
なのに、琴吹さんとこうして一緒にいるのは、残酷ではないのか?
親友の行方がわからずに哀しんでいる琴吹さんを助けたいと思う気持ちは、自分が嫌な人間になりたくないための、自己満足の偽善にすぎないんじゃないか? もし、最悪の結果になったとき、ぼくに琴吹さんの苦しみを受け止める覚悟はあるのか?
そんなことをずっと考えていて、胸が抉られ、息が止まりそうだった。
こわばった顔で奥歯を噛みしめているぼくを、琴吹さんが辛そうにちらちら見ているのを感じても、どうにもならない。せいぜいぎこちない言葉で、「今日も、寒いね」と天気の話をするのが精一杯で、気まずくなるばかりだった。
水戸さんの家に辿り着く頃には、二人ともすっかり黙ってしまった。
家は、表札が剥がれ落ち、灯りが消え、完全に廃屋と化していた。
きっと琴吹さんは、ここへ来れば、なにかわかるかもしれないと、藁にもすがる思いだったろう。けれど、目の前に突きつけられた寒々とした光景は、そんな小さな希望すら、すっかり吹き消してしまった。ポストからあふれ出した郵便物が、雨風にさらされボロボロになり、庭に面した窓ガラスが割れている。平凡な住宅地の中で、この家だけが墓場のようだった。
琴吹さんが、ふらふらした足取りで門を通り抜け、玄関のチャイムを鳴らす。
応答はない。
続いて、こぶしでドアを叩く。
何度も、何度も。歯を食いしばって、目のふちに涙を一杯ためて。
それでも、ドアの向こうから、望む人の声は聞こえない。
「やめよう。琴吹さんの手が痛くなっちゃうよ」
こっちの胸まで張り裂けそうになり、後ろから手をつかんで止める。
そうしながら、頭の中で『偽善者』という言葉が、ぐるぐる回っていて、倒れそうだった。
琴吹さんはぼくに背中を向け、顔を伏せたまま小さく嗚咽していた。
家に帰るまで、琴吹さんは無言だった。
三階建ての建物の前で立ち止まり、「ここだから」と小さな声でつぶやく。一階に、クリーニング店の看板が出ている。
「琴吹さんのうち、クリーニング屋さんなんだね」
こくりとうなずき、「おばあちゃんがやってるの」と、またつぶやく。泣きやんではいたけれど、目が真っ赤で、洟をすすっている。
「遅くなっちゃったけど、大丈夫?」
「平気。あの……きょ、今日は、ゴメンね」
掠れた声で言い、二階へ続く階段を上っていった。
そこから、ひどく儚げな表情でぼくを見おろす。
「………」
なにか言いたそうだったけど口にはせず、眉をちょっと下げ、ドアの向こうへ消えてしまった。
目があった瞬間、琴吹さんの顔に浮かんでいたのは、ぼくへの罪悪感のように思えた。
その気持ちは、そのままぼくの中にも、どす黒く渦巻いていて、ぼくを息苦しくさせていた。
――偽善者。
――その気もないのに、優しくして期待させて。